南アルプス市ふるさとメールのお申し込みはこちら

南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

南アルプス市ホームページへ

市役所便り・イベント情報

ふるさとニュース

山梨県内のニュース

プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

防災へのみちしるべ
~昭和34年台風7号と台風15号の記憶と記録~

 2019年10月12~13日に東日本を襲った台風19号は、11月12日現在で死者95名、行方不明者5名という甚大な被害をもたらしました。山梨県では人的被害は出なかったものの、各地の道路や路線が寸断され、南アルプス市では国重要文化財の三恵の大ケヤキの一部が倒壊、国指定史跡石積出三番堤の一部が陥没するなど文化財にも大きな被害が発生しました。
 
 今回の台風は大型で勢力が強く、接近前から強い警戒が呼びかけられていましたが、その一方で地元では「山に囲まれてるから山梨は大丈夫」や「災害少ないし洪水は起きないでしょう」との声も聞かれました。しかし、山梨県とりわけ南アルプス市はかつて暴れ川だった御勅使川や釜無川などの諸河川の洪水が数多く起きた土地で、最も水害に苦しめられてきた地域でした。そのため砂防や治水工事が積極的に進められ、現在の河川が整備されたていったのです。薄れゆく災害の記憶。今回のふるさとメールでは昭和34年山梨県に多大な被害をおよぼした台風7号と15号による市内の水害の記録をお伝えします。


 
昭和34年8月14日 台風7号
 昭和34年8月10日に発生した台風7号は8月14日午前6時半ごろ静岡県の富士川河口付近に上陸、富士川に沿って北上し、7時半ごろに猛烈な暴風雨を伴って甲府盆地西部を通過、長野県諏訪方面に移動し、10時ごろには日本海へ過ぎ去りました。台風自体は中程度でしたが、最大風速は33.9m、瞬間最大風速は43.2mに達しました。県内での被害は死者は90名に達し、県内では明治40年以来の大水害と言われました。
 

気象庁 台風7号

南アルプス市芦安地区の被害状況
 市役所に残された「第7号台風による被害図(以下被害図)」と写真、証言をもとに台風のその時にせまってみたいと思います。

A0023437

【写真】旧芦安村 昭和34年水害範囲 (背景は昭和37年撮影航空写真)

A004

【図】台風7号による被害図 芦安村-小曽利・古屋敷・新倉

A001

【図】芦安地区現代 現代


 最も被害の大きかったのは西河原です。西河原橋の橋脚に流木や土砂が堆積し、行き場を失った御勅使川の流れはそこから南北両岸へ溢れ出し、御勅使川沿いの広い地域に大きな被害をもたらしました。南側へ溢れ出した洪水流は家々を押し流し、その濁流は東に進み、現在の芦安小中学校が建っている耕地へも被害をもたらしました。一方北側の洪水流は西河原の駐在所やバスの車庫を押し流しました。その結果、河岸が侵食され新設されたばかりの公民館が傾き、御勅使川の中洲に建てられていた望月商店などの家々まで巨石で覆われました。被害図を見ると、こうした流失耕地は緑色に着色され、御勅使川両岸に広がっていることがわかります。御勅使川だけでなく、山から流れ下る寺の沢の両岸では床上浸水の被害も記録されています。また被害図を見るとまず、道路が各所で寸断され、新倉橋や古屋敷橋などの橋梁が流失していることがわかります。上流の桃の木温泉へ通じる道から村内、そして下流へと通じる道路が多くの地点で決壊し、芦安が孤立した状況であること、復旧には相当な時間を有したことが考えられます。

A003

【写真】台風7号 西河原 清水屋付近の作業

A005

【図】台風7号による被害図 芦安村


 小曽利地区に住む森本さんは、ロープを腰に巻き、仲間二人と御勅使川両岸を幾度も渡り、右岸、左岸と道なき道を進んで、甲府に救助を求めに行ったことを覚えているそうです。

 

昭和34年9月24~26日 台風15号(伊勢湾台風)
  全県下で台風7号からの復旧が進められていた9月26日、超大型台風である伊勢湾台風が襲来しました。山梨全県にわたり、最大雨量487mm、平均最大風速29.8メートル、瞬間最大風速は37.2メートルに達し、山梨県での死者は15名、全国での犠牲者は5,098名にものぼりました。
 
気象庁 台風15号

南アルプス市芦安地区の被害状況
 台風15号については、昭和34年9月28日付け山梨日日新聞の記事が詳しいため、その全文を引用します。
「芦安村、再び孤立 銀座通りは跡形もなし
中巨摩郡芦安村は御勅使川のはんらんでまたも孤立状態となった。小笠原署はこの実情をさぐるため二十六日笹本次長、小池警部補、市川部長ら五人を芦安に派遣した。一行は道なき山を越え御勅使川の激流を渡って往復し夕刻帰りついた。一行の調べによると、同村は五百ミリの雨と五十メートルの風のため七号台風の復旧工事が全部フイになったばかりでなく、みやげ品店が立ち並んだ”芦安銀座”は跡形もなく流された。これは上流の西河原橋にぼう大な土砂と流木がひっかかったため橋が砂防ダムと化し、水は二手にわかれて一方は野呂川林道事務所、芦安中学へ、一方は”芦安銀座”へと押しよせたためである。このため山交バス車庫、同宿舎、公民館、小笠原署警備派出所、貨物営業所、林道事務所宿舎、診療所、精麦所が流された。
 また民家の流失九戸、全壊二戸があったほか営林区ジープ、オート三輪など自動車四台が濁流に呑まれた。中学校、林道事務所は三十度傾斜して流失寸前の状態にある。なお同村小曽利地内の寺の沢はいまだにぼう大な土砂を押し出して水勢をゆるめず、御勅使川本流もたえず瀬を変化させているので、こんご流失家屋はふえる見込みである。村民は相つぐ水魔のため恐怖のどん底におちいっているが、早くから安全地帯へ避難したため人的の損傷はなかった。村内には前もって十日分の食糧が運び込まれていたが、公民館に積まれていた二日分の米六百キロを流失した。なお南ア北岳方面には、三、四十人の登山者が登っているとみられるが消息は不明。」

A01215

【図】台風15号災害図 芦安村

A01115

【図】台風15号災害図 芦安村 芦安村-小曽利・古屋敷・新倉

 以上の記事と「災害図」、証言から、台風15号でも西河原橋が埋まり、御勅使川が南北に溢れて大きな被害を及ぼしたことがわかります。西河原では南側に建てられた中学校が傾き、村内のほとんどの道路や新倉橋、古屋敷橋なども寸断され、再び孤立しました。台風7号と同じように寺の沢両岸にも被害がおよびました。

A00715

【写真】台風15号 西河原橋被災状況

A00815

【写真】台風15号 中学校被害状況

A00915

【写真】台風15号 被害後の西河原地区

A01015

【写真】台風15号 被害前の西河原地区

 
 被災後陸の孤島となった芦安地区には4日間、ヘリコプターから米などの食料、毛布、足袋、石鹸など生活物資が投下され、再びの普及活動が始まりました。

A00615

【写真】台風15号 救援物資

 
 
 昭和34年から13年後の昭和57年8月2日、日本列島を横断した台風10号により旧芦安村では再び西河原橋が土砂や流木で埋まり、御勅使川が氾濫し、村内では堤防や道路など大きな被害を受けました。しかし注目すべきは、昭和34年、昭和57年の台風によって被った被害の中で、人的な被害がほとんどなかった点です。小曽利や古屋敷では台風などの大雨の時、眼前に流れる御勅使川に巨石や流木が濁流によって運ばれ、地鳴りとともに振動も伝わってくるそうです。御勅使川の脅威、水害の恐ろしさを肌で感じ知っていたからこそ、安全な場所に早めに避難し命を守ることができたのでしょう。災害の記憶、記録は痛ましさや悲しみを伴います。それでも、そうした記憶や記録は地球温暖化が進むこれからの時代を歩む私たちにとって、防災へのみちしるべになるはずです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市妖怪の世界~風土が培う信仰の足跡~

 妖怪やもののけ、化け物と呼ばれる類に出会ったことがありますか?かつての日本では、説明のつかないことが起こると、キツネやタヌキに化かされた、あるいは妖怪や物の怪の仕業と考えられていたようです。今回のふるさとメールでは、市内で言い伝えられている妖怪や物の怪たちの世界を覗いてみましょう。

 まず姿形を変えて人々を驚かす化けものといえばやはりキツネでしょう。市内でも寺部や豊などの他、芦安や塚原、中野、平岡など山沿いの地域を中心にキツネに化かされた話が伝えられています。その一つはこんなお話。

A001_2 【写真】キツネ
 
 隣の村へ向かう坂道を登って行くと、座るのにちょうどいい切り株に出会います。腰を下ろすとなんだか温かい。不審に思い、切り株を蹴飛ばします。暗くなった帰り道、現れた美しい女性に請われ下り坂を同行し、そのお礼にお饅頭をいただきます。ホカホカの饅頭を食べながら歩くのですが、行けども行けども家にたどり着きません。空が白みかけてくる頃、水田の中を泥だらけになって馬くそを食べながら歩き回っている自分にはじめて気づき、キツネに化かされたことがわかったのです。(上市之瀬 悪戯好きな親子狐)。
 
 似た話は他の地区でもいくつか伝わっており、人がキツネにちょっかいをだす。その仕返しに美しい女性に化けて男をだますというものです。
 
 下市之瀬のお坊狐はちょっと変わっています。鋏を持った綺麗な娘に呼ばれ石の上に座るように誘われます。座って頭をなでられると気持ちがよく眠たくなり、起きてみたら坊主頭にされていたという話です(下市之瀬 お坊狐)。鋏を持ったきれいな女性が手招きする、かなり危なそうですがそれでも近づいてしまうんですね。ちなみに娘が丸坊主にするのは色男に限られていたそうです。
 
 人にいたずらをする一方で白狐は神様とも考えられました。飯野常楽寺の白狐は御勅使川の大洪水後にこの地を訪れた円隆和尚を小高い丘へ導き、その地に常楽寺が創建されたと伝えられ、寺の守護神として祀られています。中野でも小松家の守り神として白狐が祀られていて、キツネは人々を守る存在とも考えられていました。

A002

【写真】飯野 常楽寺の白狐
 
 キツネの次に人を化かす動物といえばムジナ(アナグマあるいはタヌキ)でしょう。ムジナは化け物として在家塚や上市ノ瀬などで現れたと伝えられます。上市ノ瀬では行燈(あんどん)をつけて糸取り車で糸をとっている老婆が夜な夜な現れたそうです。怪しんだ村人が鉄砲で老婆を撃ち、翌日に糸取り車を撃ちましたが手ごたえ無く、最後に行燈を撃ったらムジナが死んでいたという話で、「ムジナと糸取り」として日本各地にも伝わるお話です。
 
 次に妖怪や神様を見ていきましょう。妖怪や神様はその土地の風土や文化、人々の願いを反映しています。南アルプス市では「山」と「川・水」がキーワードとなります。まずは一つ目小僧から。芦安沓沢からさらに西に入った山中で登場する一つ目小僧は12月13日、村人が山仕事を休んで正月準備をする日に現れます。その日一人山に残って仕事を終え、山小屋に戻った太郎助の前に一つ目小僧が現れます。怯える太郎助が籠る小屋の周りを一つ目小僧は一晩中うろつきました。「コトヨウカ」と呼ばれる12月8日やこの日は田の神さまが山へ帰る日と考えられ、その姿を見ないようにするため一つ目小僧が出るという信仰が日本各地で伝えられています。また、一つ目小僧自体がもともと山の神さまとも言われています(一つ目小僧がやってくる ~芦安沓沢の昔ばなし~)。

A003 【写真】一つ目小僧
 
 同じように天狗も山神と同一視される存在です。大曽利や西の山中に天狗が現れ、人を迷わせたりする一方で、迷った人々を助けてくれるという一面もありました。
 

A004 【写真】天狗
 
 山の妖怪といえば巨大な体をもつデイダラボッチが有名です。宮崎駿監督の「もののけ姫」でも山の神として登場しました。市内では加賀美法善寺の北側にはかつて沼があり、その沼が巨大な山姥の足跡だと言われていました。山姥もデイダラボッチと同じように山の神様と考えられていたのでしょう。
 
 芦安の山奥に住む夜叉神も山神と言えます。天候を司り、日照りや洪水を起こす悪い神様でしたが、御勅使川の大洪水を引き起こした後、村人が峠に祠を建てお祀りしたところ地域の守り神となったとの伝承が芦安に伝えられています。川と洪水、その源となる山を統べる神様であり、全国的にもめずらしい南アルプス市ならではの神様です。
 

A005 【写真】夜叉神
 

A007

【写真】増水時の御勅使川 芦安
 
 野牛島の能蔵池には赤牛の神様の碗貸し伝説が残されています(能蔵池 赤牛のわん貸し伝説)。貧しい村人が祝言でだすお椀やお膳がないことを恥て悩んでいると、当日池に漆塗りのお椀やお膳が浮いていて、赤牛の神様が貸してくれたのだと村人は信じました。しかし、返さない村人がいたことから白根山中の大笹池に逃げてしまったという言い伝えがあります。赤牛が住まう池は、御勅使川の伏流水が湧き出る場所で、かつて雨乞いが行われてきた場所です。さらにウシは雨降らしの神様でもあり、雨乞いの際神様に捧げられる供物とも考えられていました。赤牛の伝承に水を求めたこの地の人々の願いが浮かび上がってきます。 
 

A008

【写真】野牛島 能蔵池
 

A009

【写真】能蔵池の赤牛さま

A010

【写真】大嵐 大笹池
 
 赤牛の他、水神として龍や蛇の信仰や伝承が伝えられています。芦安の北岳の麓、白根御池には龍神が住むと言われ、水を求める原方の人々の信仰の対象でした。上高砂では洪水除けのため村中の3地点に九頭龍神が祀られています。また加賀美法善寺の島池は地下で竜宮とつながっており、日照りの時に弘法大師が行った雨乞いの際、龍が天翔け雨が降った言い伝えがあります。 

A011_2

【写真】白根御池
 

A012

【写真】龍神
 

A013

【写真】上高砂上手村 九頭龍神

A014

【写真】加賀美法善寺 島池
 
 市の西側を南流する釜無川の語源を伝える昔話には蛇が登場しています。貧しい男の妻に化けた蛇が両親に正体を知られ嵐の夜に旅立つ時、濁流の釜無川の中を釜の蓋の上に乗り、大蛇に姿を変えて天にのぼり黒雲の中に姿を消しました。それを見た地域の人々は恐ろしくなって釜を使わなくなったため、釜無川と名付けられたのだと伝えられています。
 
 最後に妖怪ではありませんが、平安時代京の都の妖怪を封じていた陰陽師の安倍清明が小笠原に来た伝説に触れておきましょう。清明は用水が不便であることを見て、村境を水の字にかたどり、地を卜して3か所の井戸を掘ったというもので、後に小笠原三井と呼ばれました。清明が甲斐国に来た歴史的事実はありませんが、やはり水の獲得に苦労したこの地の願いが、清明の伝説を生んだといえるでしょう。
 
 これまで見てきたように、市内にはさまざまな妖怪や物の怪、神様の昔話が残されています。それは地域の風土と文化、人々の暮らしを映す鏡であり、さまざまな自然の中に神さまを見出した日本古来の考え方に根ざしています。妖怪やその伝説を知ることは地域の文化を再発見することでもあるのです。
 
 令和元年10月26日(土)午前中に芦安で県内の妖怪が集うハロウィン、名付けて「和ろうぃん」が地域のNPO主催で開催されます。妖怪の伝承が色濃く残る地域。振り向けばあなたも妖怪に出会えるかもしれません!

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~

 藍甕に満たされた濃く深い藍色の染液。藍染めを始める前の一瞬の緊張と静寂。うっすら張った膜の中に綿の糸を滑り込ませます。

A001

 南アルプス市内は、江戸時代末から明治時代まで藍葉を生産し、山梨県内で一番の生産量を誇りました。さらに市内には甲府盆地中から藍葉を仕入れ、蔵の中で3ヶ月間発酵させ、「すくも」と呼ばれる藍染の原料を作っていた藍屋も存在していました。今回はふるさと文化伝承館(以下伝承館)で取り組んできた伝統的な藍染めの復活の記録とその方法をご紹介します。
 なお、南アルプス市と藍の歴史は以前のふるさとメールをご覧ください。

南アルプスブルーの足跡 その1
南アルプスブルーの足跡 その2
南アルプスブルーの足跡 その3
南アルプスブルーの足跡 その4
南アルプスブルーの足跡 その5
南アルプスブルーの足跡 その6

 明治13年(1880)ドイツで化学的にインディゴ(青色)を合成する方法が発明され後に大量生産が可能になると、日本そして山梨県の藍栽培とすくも生産は急速に衰え、市内では明治時代終わりから大正初めにその姿を消しました。

2014~2015年 藍、再び
 伝承館で企画した「色の魅力 ~市内を彩った色の歴史~」展の調査の過程で、明治時代、落合地区では藍葉栽培が盛んで、隣の川上地区の浅野家ではすくも作りが行われていた資料と出会いました。明治時代まで藍屋を営んでいた浅野家には藍葉購入とすくも販売の記録が残され、藍産業の一端を知ることができたのです。その他市内の紺屋だった家に伝わる藍染に関する新たな資料も発見されました。

A18

【写真】浅野家に伝わる藍関係の古文書

 しかし、市内では藍そのものは栽培されておらず、その歴史すら忘れられている状況でした。市内の藍の歴史・文化を知るためには藍そのものを知る必要があると考えていたところ、北杜市でスタッフが偶然苗を見つけ購入。その十数株の苗から、今日まで続く伝承館での藍栽培が始まりました。2015年5月27日に植えた藍は順調に育ち、11月には藍の種を採取し、次年度への栽培につなげることができました。

A003_2

【写真】2015年5月27日 南アルプスブルーの始まり

A00301_2

【写真】始まりの藍

A004201526

【写真】生い茂った藍 8月26日

A005

【写真】藍の花と種

2016年 すくも作りへ
 藍栽培2年目は明治時代末まで藍屋を営んでいた川上地区の果樹農家浅野さんの協力を得て、川上の畑にも伝承館で採取した藍の種を蒔き、小規模ながら栽培が始められました。かつて県内一の藍葉産地であった落合、川上地区で再び藍が育てられることになったのです。この畑で市内教諭の研修も行われました。

A006

A00602

【写真】浅野さんの畑での藍種まき

A00603

【写真】先生方の研修風景

 この年の秋には、伝承館と浅野さんの畑で収穫した藍葉を乾燥させ、2016年10月24日、すくも作りに挑戦しました。合計5kgの藍葉に1.3倍の水を加え、朝夕毎日かき混ぜながら発酵を促し、3週間後すくもが完成しました。川上の浅野長エ門が藍屋を辞めてから約100年ぶりの市内産すくもです。

A00701

【写真】藍を葉と茎に分ける。手間がかかる作業

A00702

【写真】天日で藍葉を乾燥させる

A0081024

【写真】すくも作り 初日 10月24日

A0091026

【写真】3日目 10月26日

A009021029

【写真】6日目 10月29日

A010

【写真】すくもを丸くした藍玉

2017 すくもから藍建て染めへ
 年が明けて2017年1月21日、昨年作ったすくもを使って、いよいよ藍建てに挑みました。仕込みの時には、浅野さん、市内で伝統的な手染めを続けている井上染物店さん、藍染を勉強した方やスタッフが協力して仕込みを行いました。誰もが藍建ては初めての経験でした。

A014

 一番寒い時期に仕込んだためか、ほとんど青色に染まらない日々が続き、4月を迎えました。桜の季節が終わり、徐々に気温が暖かくなってきた4月中頃、気温が高くなるにつれて藍甕に薄い膜が張り、液にとろみが見られました。綿布を入れ、それを流水で洗うと青色に変わりました。まぎれもなく市内産の「青」です。5月13日に仕込みにかかわった人たちに来ていただき、初めての藍建て染めを行いました。井上さんには防染の糊を使って、文化財課の土偶キャラクターであるラヴィを型どった暖簾を染めていただきました。この年8月末に行った2回目の藍建てでは、約2週間で染められるようになりました。

A01500

【写真】5月13日初めての藍建て染め

A01501_2

A01503_2

A016_3

【写真】藍で染めた伝承館の暖簾

 同年かつて藍葉生産が盛んだった落合地区の落合小ではふるさと教育の教材として、芦安地区地域おこし協力隊では地域の特産品として藍の栽培が始まりました。9月9日伝承館では育てた藍の葉を使った生葉染体験に参加した市民の方々、藍屋の子孫の浅野さんと共にすくも作りを行いました。

A011

【写真】生葉染体験講座。中央が浅野さん

A01201

【写真】乾燥した葉に水を加え、すくも作り開始

A01202

【写真】仕込んだばかりの藍葉

2018
 伝承館改修のため、川上の浅野さん、曲輪田新田の東條さんの畑で藍葉が育てられ、すくも作りだけを実施しました。

2019
 荊沢地区の地域活性化にとりくむ駿信往還荊澤宿の会でも、地元で行われていた藍栽培や江戸時代荊沢宿で盛んに往来した阿波の藍玉の歴史を学ぶことをきっかけに、藍を育てることが始まりました。7月には荊澤宿祭り(台風のため祭り自体は中止)で生葉染め体験会を自主的に開き、さらに今後まちづくりでの藍の活用とその可能性を会で話しあっています。

A017

A018

A019

藍建ての方法
 では今年行った藍建ての方法をご紹介しておきます。すくもを使った藍建てについては、調べれば調べるほど時代や地域、紺屋、芸術家によって多様な建て方があります。それはそれぞれの歴史や伝統、風土、創意工夫の結果であり、これという正解はないのかもしれません。伝承館では、いくつかの方法を基に、できるだけシンプルに藍建てを行いました。藍建て染めで重要なことの一つがアルカリ性を保つことだと言われ、適正pHは10.5から11.5と言われています。その維持のため石灰が用いられてきたのですが、石灰の使用については不溶性のためすくもからの染めを阻害するとの意見もあります。そのため、仕込みの時は石灰の使用を最小限に抑えることを目指しました。また還元菌の養分となるふすまや日本酒、ぶどう糖は、ふすまだけを加えていく予定です。

準備
(1)灰汁:地域の方から薪ストーブで生じた灰を分けていただきました。灰1kgに対し熱湯約10リットルを加え、上澄みの灰汁を用意しました。ただしあくまで目安で、バケツ1杯分を基本としました。1回目の灰汁を一番、2回目を二番といい、次第にpHが下がっていきます。
一番灰汁:pH13.2
二番灰汁:pH12.8
三番灰汁:pH11.8

A020

(2)すくも:2017年10~11月に伝承館で作成したものです。伝承館、川上の浅野さん、曲輪田新田の東條さん、落合小学校6年生が育てた藍葉で作成しました。最初の仕込みは2017年9月9日伝承館で開催した(9月)生葉染講座の時に、市民のみなさんとともに行ったものです。

A021

【写真】伝承館で2回に分けて作った2017年産のすくも

(3)甕
 甕はすくもを明治時代まで作っていた川上の浅野家に伝わるもので、伝承館で過去2回藍建てをしたものです。熱湯をかけて軽く拭いたものを使用しました。

A022

【写真】浅野家に伝わる甕

仕込み 
8月31日(土)
 まずハンマーですくもを小さく砕きました。砕いたすくも約10kg.に熱湯を加え、ほぐします。それを甕に入れ、そこにpH12に調整し煮沸させた灰汁を30ℓ加えます。混ぜるとpHが11に下がったため、pH13.2の一番灰汁を混ぜ、pH12に調整しました。灰汁は合計約36ℓ入れています。
 夕方試し染をしましたが、ほとんど色は変わりませんでした。

A02301

A02302

A02303

9月2日(月)
 うっすらと膜が張り、藍特有の匂いがする。試し染を行うと、すでに青く染まりつつある。pH測定器が壊れたため、ここから測定不能。

A024_3

A025

9月11日(水)
 pH測定器が届き測定するとpH8.5まで下がっている。pH12.6 の灰汁を6リットル追加。合計42リットル。
9月13日(金)
 pH9.5のためpH12.6の灰汁を1.8リットル、石灰を20g追加。合計43.8リットル。
9月15日(日)
 pH9.6のため、石灰を30g追加。
9月16日(月)
 pH9.8。伝承館秋祭りでコースターの藍建て染体験を実施。25人が本藍染め。5分間浸した後空気に触れさせて酸化させることを3回繰り返す。紺色に染まる。

Aimg_0950

【写真】2019年7月 落合小学校6年生が育てている藍と綿畑

Aimg_5588


藍の広がり
 明治時代まで日本で盛んに行われた藍染。一度廃れたすくも作りの技術は、徳島県などを中心に守り継がれました。すくもを使った伝統的な藍色は、現代では日本を象徴する色「ジャパンブルー」として、全国各地で再び光が当てられています。東京オリンピックのエンブレムも伝統的な藍色の市松文様をデザインしたものに決まりました。
 市内ではふるさと教育の教材として地元の小学校で藍が育てられ、まちづくりの素材としても藍が育てられ始めました。藍から生まれる色は甕覗き、水浅葱、花色、茄子紺など48色あるほど多様であると言われています。伝承館で育てたわずかな藍の苗から、それぞれの場所でとりどりの藍の色が深まっていく。それは南アルプスブルーとも呼べる藍のもつ魅力なのでしょう。

A

【写真】落合小3年生 浅野さんの藍畑で地域たんけん(藍染は顆粒の藍を用いた簡易的な方法)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

山梨のお盆と安倍川餅

 今日は8月15日、8月13日から16日まで続くお盆の三日目です。山梨のお盆で欠かせないもの、それは安倍川餅。真っ白な餅に暗く透き通った黒蜜がかけられ、その上から黄金色のきなこがまぶされます。黒蜜の甘い香りときなこの香ばしさがふわっと匂い立ちます。
 

001abekawamochi

【写真】山梨県の安倍川餅
 
 この時期に山梨では和菓子店やスーパーに安倍川餅のセットが並び、各家の精霊棚にお供えされます。しかし、この風景、他の県ではあまり見られない、山梨独特の風景でもあるようです。
 

002abekawamochi

【写真】和菓子店にならぶ安倍川餅と黒蜜、黄粉

003abekawamochi

【写真】精霊棚にお供えされた安倍川餅

004abekawamochi

【写真】精霊棚にお供えされた安倍川餅
 
 ではなぜ、お盆に安倍川餅を食べるのか?地域の方々にお聞きしましたが、ほとんどの人がキョトンとした表情で「伝統だから」と答えます。ではいつからと聞いても、「そりゃわからん、昔からでしょ」との答えが返ってきます。
 
 決してボーっと生きてきたわけではないとは思うのですが、いつから、なぜお盆に安倍川餅を食べるのか、当たり前すぎてこれまで深く考えられてこなかったようです。今回のふるさとメール、このテーマを掘り下げてみたいと思います。
 
江戸時代の安倍川餅
 まず数野雅彦さんが山梨県立博物館の企画展で山梨の食べ物の記録をまとめられた資料を基に、江戸時代の安倍川餅のルーツを探してみました(数野雅彦 2008「山梨の食文化を記録した歴史史料についてー「附編」表A~D解説ー」『山梨食べもの紀行』山梨県立博物館)。その結果、予想に反して、江戸時代はもちろん明治時代の資料にも「安倍川」や「あべ川」、「黄粉餅」などの名前を見つけることはできませんでした。その他の史料も確認しましたが、それらの名前は見当たりません。もちろん江戸時代の文書には食されていたけれど、書き記されないものも多数ありますので、はっきりと食べられていなかったとは言い切れませんが、文書で確認できなかったのも事実です。
 
 餅自体は古くから節句や伝統行事で神仏などへ供えられる大切な供物であったことは間違いありません。江戸時代でお盆の例を一つ挙げれば、安政2年(1855)の「西南湖定書」には、「一 年内餅場之義者、正月鏡餅七月精霊備餅之外無用可為事」とあり、7月のお盆に餅が供えられていたことがわかります。
 
江戸時代 東海道の安倍川餅
 では山梨県の「安倍川餅」の語源となった本場静岡県の安倍川餅をひもといてみましょう。東海道の安倍川河畔の茶店で売られた安倍川餅については、いくつもの史料に登場し、研究も進められています。
 
 天明から文化(1781~1818)の随筆『耳嚢(みみぶくろ) 』には駿河国安倍川の名物の餅であり、取り立てて変わったものではないが、将軍徳川吉宗の好物だった逸話が載せられています。また、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年(京和2)~1814年(文化11))では弥次さん喜多さんも頬張り、安藤広重の『東海道五十三次』には街道名物として描かれるほどの有名菓子でした。これらの文献を丁寧に見ていくと、砂糖やきなこの記述はありませんが、他の文献を合わせると一個五文する高級な菓子で、砂糖がまぶされたきなこ餅だったと考えられています。黒蜜を使う山梨とは少し違っていますね。名物の「安倍川餅」は現在まで続き、安倍川河畔の街道沿いの店で、砂糖をまぶしたきなこ餅が売られています。

005koujyuuga

【写真】歌川広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)府中 あべ川遠景』

006abekawamochi

【写真】現在の安倍川餅 静岡市
 
 このように江戸時代から続く名物の「安倍川餅」の名前が、いつごろから山梨で使われるようになったのでしょうか。明治時代以降の年中行事を記録した資料を中心に見ていきましょう。
 
明治・大正・昭和時代
 明治時代の伝統行事を記録した明治34年発行の『甲斐の落葉』には、お盆の記述に安倍川餅などは見られませんでした。続く大正年間の『甲州年中行事』には「十四日 各家ぼた餅を作り精霊棚に備へ、又親戚知己に分かち一同又之を食す」とあり、「ぼた餅」が食べられていたことがわかります。
 
 さらに他の資料を探してみると、大正3年に編纂された『東八代郡誌』の年中行事には「十三日 この日より十六日までを盂蘭盆会と称し、先祖代々の霊位を祭る。各子精霊棚を設け、祖先および智音等の位牌を立て、茄子黄瓜にて牛馬の形を作りて、蓮の葉に食物を盛り香を焚き、水を手向け、眞粉餅を供ふ。」とあります。「眞粉餅(しんこもち)」とは辞書では「しん粉(うるち米を洗い干してひいた粉)を水でこね、蒸して作った餅(もち)。砂糖を加えたものもある。」とあり、きなこ餅とは違うもので、また黒蜜も使われていません。大正4年 発行の『北巨摩郡誌』や大正5年発行の『東山梨郡誌』、昭和4年発行の『山梨県山梨郡中牧村郷土史』も『東八代郡誌』とほぼ同じ内容でした。
 
 今回調べた範囲では、現在の安倍川餅としての姿がはっきりするのは、昭和に入ってからです。昭和12年発行の 『微細郷土研究 加納岩町(現在の山梨市内)調査報告書』には「十四日 朝餅を搗き、これに蜜をつけ豆粉をまぶしてあべ川をつくり、これを精霊棚に供える。子供は晴着をきて、夜は提灯をつけ、花火などをあげて遊ぶ。」とあり、これ以後の資料では、広く安倍川・あべかわの文字が見られます。昭和14年発行の『西郡地方誌』にも「14日の朝餅を搗き、蜜をつけ豆の粉にまぶしてあべ川餅を作り、御精霊さんに供えて後、一家の人々も之を食べる。」とあります。また、昭和35年発行の『豊村』では年中行事の8月に同様のお盆の記述がありますが、「精霊棚を設け、位牌を立て、茄子馬を作り種々の供え物をする。真粉餅(あべ川餅)季節の野菜類、果物等々。」とあることから、真粉餅がきなこ餅と同じものであった可能性も考えられます。昭和48年発行の『甲西町誌』では「(八月)十四日は早朝に餅をつく。つけ粉と安倍川餅にして供える。」と書かれていて、安倍川餅と並ぶ「つけ粉」も登場します。
 
 ここで実際に昭和初期から安倍川餅を食べていた人の思い出を聞いてみましょう。
 
お盆と安倍川餅の思い出
(1)昭和2年生まれ 築山 男性
 「子どもの頃には黒蜜をつけた安倍川を食べてたよ、近くの店に一斗缶で黒蜜が売っていて、柄杓で量り売りしていた。昔だからね、家に帰って蜜を見ると蠅が入っていて食べられなかったことを覚えているさ。とてもがっかりしたよ。戦争中は黒蜜がなくなって、作り方はわからないけんど、母親がサツマイモや麦芽で蜜を作ってくれたこと覚えてるよ。」
(2)昭和3年生まれ 六科 男性
「子どもの頃から、黒蜜をかけた安倍川餅を食べた。通りの小さな店に一斗缶で黒蜜が売っていていた。柄杓で量り売りしてたな。蜂蜜をかけている家もあった。」
(3)昭和5生まれ 落合 女性
「子どもの頃から黒蜜の安倍川餅を食べていました。もっと小さいころは母が麦芽で蜜を作っていたと思います。」
(4)昭和9年生まれ 富士川町鰍沢 女性
「子どもの頃安倍川は黒蜜だった。ただ戦争中か戦後かよく覚えてないけれど、砂糖がないので、サトウキビを釜無川の河原で育てて煮詰めたものを黒蜜の代わりにした。」
(5)昭和19年生まれ 野牛島 女性
「子どもの頃から、お盆には黒蜜をかけた安倍川餅を食べてたさ。お父さん(ご主人)は野牛島で近所の人と一緒に養蜂もしていて、蜂蜜をかけていたと聞いてるよ。」
 
 
お盆と安倍川餅のまとめ
(1) 少なくとも江戸時代以前記録ではきなこと黒蜜を使った現在見られる安倍川餅の記録はありません。ただし餅はお盆で先祖や神仏に供えられる重要な供物でした。
(2) 明治に入っても「安倍川餅」の文字はなく、ぼた餅や眞粉餅(しんこもち)が供えられていました。ただし『豊村』から眞粉餅(しんこもち)がきなこ餅の可能性もあります。
(3) 大正終わりから昭和初期には黒蜜が普及し、一斗缶でも販売されていました。ちなみに現在山梨県で広く売られている黒蜜のメーカーは、大正12年創業です。この頃からお盆のお供えとして黄粉をまぶし蜜をかけたきなこ餅が一般的になり、「安倍川餅」と呼ばれるようになったと考えられます。
(4) 黄な粉餅にかけられる蜜は、蜂蜜や麦芽やサツマイモ、もろこしなどから作られたものもありました。
(5) 昭和40年代、お盆の供え物として安倍川餅の名前が一般的となり、それにつけ粉も加わるようになります。
(6) こうした食文化を土台として、昭和40年代、和菓子店が黒蜜を添えたきなこ餅を信玄の名を冠した商品として販売し、現在では山梨県を代表する銘菓となりました。
 
 今回調べた記録は部分的なもので、「安倍川餅」の使用が明治時代以前にまで遡る可能性はあります。しかし、砂糖が庶民に広く普及するのは、日本が日清戦争の結果台湾を領有し、台湾製糖が工場の操業を開始した明治時代後期以降と言われています。黒蜜の普及はやはり大正時代と考えていいのではないでしょうか。 
 
 なぜあべかわ餅と呼ばれるようになったのか、江戸時代から続いた富士川舟運、駿信往還や身延線など静岡との結びつき、静岡県産の砂糖の消費地、黒蜜の普及との関係など考えられますが、これはまた別の機会に。
 
 歴史をひもとくとお盆に神仏やご先祖さまの供え物として「餅」自体は変わりませんが、餅の種類は時代とともに変化し、かけられる蜜も多様であったことがわかりました。歴史はともあれ、お供えしたつきたての安倍川餅、今年も美味しくいただきます!

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

市内に広がる祇園信仰

 7月、京都では約1ヶ月間にわたる祇園祭が行われ、山鉾巡行だけでも毎年15万人以上の観光客が訪れます。この京都の祇園祭は平安時代の旧暦の6月、京都東山の祇園社(明治時代の廃仏毀釈によって現在の「八坂神社」に改称)で疫病を防ぐため始められた祇園会(ぎおんえ)がルーツです。祇園社には疫病を司る牛頭天王が祀られ、その後日本の神様であるスサノオと同一視されました。祇園信仰は時を経て全国に広まり、かつて市内でも多くの地域で行われていたようです。今月のふるさとメールでは、市内に伝わる祇園祭を巡ってみましょう。

Gionsai1

【写真】京都 祇園祭 山鉾巡行 長刀鉾(なぎなたほこ)

Gionsai2_2

【写真】京都 祇園祭 山鉾巡行 月鉾(つきほこ)

A1783

 【図】牛頭天王 祇園大明神とも呼ばれ、素戔嗚(スサノオ)であるとも書かれている(『諸宗仏像図彙 』1783年)国立国会図書館蔵
 

1.芦安地区 小曽利・古屋敷の祇園祭
 2019年7月14日、芦安小曽利で祇園祭が行われました。かつて芦安では、小曽利と古屋敷両地区で祇園祭が盛大に行われていました。明治初期には奉納相撲が行われていた記録があります。平成に入っても数年前まで、それぞれの地区の通りは提灯で飾られ、その道辻には「ヤグラ」と呼ばれる仮設の門が建てられました。ヤグラには鮮やかに彩色された灯籠が飾りつけられ、夏の夜を彩りました。

A

【写真】古屋敷の道辻に建てられた「ヤグラ(チョウマタギ)」
 
 ヤグラは飯野や百々では「チョウマタギ」と呼ばれ、市文化財課と山梨県立博物館の調査の結果、かつて有野や飯野新田、六科や西野、在家塚など市内で広く見られただけでなく、甲府市や山梨市など県内のさまざまな場所で建てられていたことが分かりました。さらに江戸後期の年中行事を記した『東都歳時記』の中で、日本橋大伝馬町の祇園牛頭天王祭の絵にチョウマタギと同じ作りの門が描かれていることから、そのルーツは少なくとも江戸時代まで遡ることが明らかとなりました。

A_2

【図】『東都歳時記4巻付録1巻』国立国会図書館蔵
 
 古屋敷の祇園祭は鎮目大神社の祭りで、地元では神社を「オミョウジンサン」と呼んでいます。鎮目大神社は牛頭天王と同一視されたスサノオを祀っており、祇園祭本来の形式と言えるでしょう。現在では人手不足から、ヤグラの建立も提灯の献灯も行われなくなり、神社の清掃だけとなっています。 

A_3

【写真】古屋敷の鎮目大神社と清掃作業
 
 一方小曽利は疫病を防ぐ祭りと火事を防ぐ神様を祀る秋葉神社の祭りが習合しています。地区の中央にある道祖神と秋葉社の常夜灯を中心とした道沿いに、生まれた子どもの名前を書いた提灯が飾られ、道祖神前にヤグラが建てられました。夕暮れ時、小曽利集落から御勅使川を挟んで南側の山中に前宮(めえみや)と呼ばれる秋葉神社の社があり、そこにロウソクで献灯したことを合図に、ヤグラの灯篭と提灯、道祖神前の秋葉塔に灯が灯されます。しかし、小曽利でも人手不足から数年前にヤグラが建てられなくなりました。そんななか、かつての賑わいを懐かしみもう一度ヤグラを建てようという住民の声に、地域おこし協力隊や地区外の若者も参加して、約5年ぶりにヤグラが復活し、地域の子供たちが集まるにぎやかな祭となりました。 

A_4

【写真】小曽利 飾られた提灯 子供が生まれるとその子の健やかな成長を願って名前を書いた提灯を奉納する慣習が太平洋戦争後始められ、数世代続く家族の提灯も見られる。

A_5

【写真】小曽利 秋葉神社前宮の献灯

A_6

【写真】小曽利 秋葉神社前宮の石祠 以前は現在地よりさらに高い尾根上の五本松と呼ばれる場所に祀られていた。利便性を考え、昭和初期、現在地に移された。

A_7

【写真】小曽利 秋葉社常夜灯 前宮の献灯を合図に常夜灯にも火が灯される。

A_9

【写真】小曽利 チョウマタギの組み立て

A_10

【写真】小曽利 5年ぶりに復活したチョウマタギと祇園祭 

 

2.八田地区 榎原の八雲神社
 八田地区で祇園祭が行われていた記録はほとんど残されていませんが、その痕跡はたどることができます。榎原の氏神八雲神社は、明治時代の廃仏毀釈を受けて改名されたもので、江戸時代の『社記』によれば「天王宮」とあり、祭神の一柱は牛頭天王と同一視されたスサノオです。祭典も6月16日となっており、疫病除けの祇園祭が行われていたと考えてよいでしょう。天和2年(1682)2月再建の棟札があった記録があることから、少なくとも江戸時代前期まで天王宮の歴史は遡ることができます。八雲神社が立地する小字は「天王」と呼ばれていることからも、榎原には祇園信仰が広がっていたと考えられます。 

A_11

【写真】 榎原 八雲神社(天王宮)

 

3.白根地区 百々の祇園祭・飯野のお灯籠祭
 白根地区では百々の諏訪神社で、4月第一週の日曜日に祇園祭が行われています。百々諏訪神社の祇園祭がいつ始まったかはわかりませんが、幕末の嘉永6年(1853)の「百々村祇園祭礼仕法帳」によれば、2年前に神輿が壊れたため新しく作りなおし、古くからの慣例どおり6月に諏訪神社から若宮社まで神輿の御幸(みゆき)を行うことが記されています。大正時代、養蚕の繁忙期と重なるため祭日が4月に移されました。
 百々の祇園祭で注目されるのは、神輿が各集落内をめぐり、さらに百々の東西南北の境まで行って神事を行う点です。京都の祇園祭は町衆が行う絢爛豪華な山鉾巡行が注目されますが、その祭りの核は八坂神社から神霊を移した神輿がまちを渡御(とぎょ)して穢れを払い、再び神社に帰る「神幸祭(しんこうさい)」と「還幸祭(かんこうさい)」です。百々では同じように百々内の宮内や中村、東新居、林久保、新町、北新居などに神輿が渡御し、百々の四方の村境をも清め、また諏訪神社に戻ってくる御幸が祭の中心です。 

A_12

【図】 百々 祇園祭 御幸地図

A_13

【写真】 百々 祇園祭 神輿の渡御

A_14

【写真】百々 祇園祭 西の境界での神事
 
 途中の山の神や道祖神にはお飾りや幟(のぼり)が建てられ、かつては「チョウマタギ」も建てられました。東新居若宮社前などの御旅所(おたびしょ)に着くと、掛け声とともに御神輿がいっせいに持ち上げられ、青空に舞い上がる「差し上げ」が行われます。次に五穀豊穣の祝詞(のりと)が捧げられます。こうした神事は各御旅所で行われ、昔は新町神明神社では疫病退散の祝詞が捧げられました。一方百々村の北側には明治時代まで前御勅使川が流れていたため、北の境では洪水除けの神事が行われていました 

A_15

【写真】百々 昭和28年の祇園祭。奥に見えるのがチョウマタギ

A_16

【写真】百々 祇園祭 神輿の差し上げ
 
 諏訪神社の祇園祭では、安産も祈願されました。神輿に注目すると、てっぺんに飾られた鳳凰の足に、麻ひもが結わえられます。麻ひもは昔へその緒に結ばれ安産のお守りとされた伝統があり、御幸後、氏子が競ってこの麻ひもを持ち帰りました。また、山の神や道祖神などの祈願場所では、幟とともに安産や子どもの成長のお守りである真っ赤な人形、「さるぼこ」も飾られています。 

A_17

【写真】百々 神輿に結わえられた安産祈願の麻ひも

A_18

【写真】百々 御旅所に建てられた幟とさるぼこ
 
 百々の諏訪神社は京都の祇園社から勧請(かんじょう)されたとの伝承も地域に残されており、京都にルーツを持つ祇園信仰を今に伝えています。
 
 
飯野 お灯籠祭り
 8月下旬に行われる飯野のお灯籠祭も、かつては6月に行われており、その起源の一つは祇園祭だと考えられます。内容は以前ご紹介したふるさとメールをご参照ください。
 
飯野のお灯篭祭り ~道祖神と境界の祭り~

  

4.若草地区
 若草地区では現在祇園祭は行われていません。しかし、『若草町誌』では6月15日祇園会が行われ、田植えの後もっとも必要な水が不足する時期でもあるので、水神を祀る社で祇園祭をすることが多くあったとされていて、水神と習合した祇園祭があったことがわかります。
 

5.櫛形地区
 『櫛形町誌』で「6月15日、京都の祇園祭にあやかって、祇園だから遊ぶといって休養したものだが、今は廃れた」と記されており、現在櫛形地区で祇園祭は行われていません。しかし櫛形町合併前の『豊村誌』では「祇園さんまたは天王さんが、疫神として同時に水神として、農民のもっとも関心をよせる夏季の水稲の守護神として働きをするものであった。(中略)吉田山ノ神さんに津島牛頭天王も祀ってあるといわれている。沢登の権現さんはまた通称天王さんといわれて祇園祭が行われた。」とあり、祇園祭が行われ、牛頭天王の信仰で重要な役割を果たした愛知県津島の天王社の影響もあったことがわかります。
 また、十五所に伝わる甲州囃子は、大山講で京都へ代参した人、あるいは行商で京都を訪れた人が、祇園祭の時に山鉾上で笛・太鼓・鉦(かね)で奏でられた囃子に感じ入り、それを基本に作られたものと伝えられています。 

 

6.甲西地区
 若草・櫛形地区同様に現在行われていませんが、『甲西町誌』では「六月十五日、京都の祇園祭にあやかって日本中の農休みといった恰好で道祖神へ灯明をつけ、部落内でも灯火をつけて皆遊んだものだが今はすたれた。」とあり、道祖神の信仰と習合していたことがうかがえます。さらに同書では「けんかは、・・・(中略)農休みと祇園祭には年中行事のように、部落の男の子が総出で、「戸田のがき共けんかぁこう」と、誘いをかければ「和泉のがき共けんかぁこう」と、応戦して、互いに堤防に陣を敷き石の投げ合いをした。和泉と戸田だけでなく、荊沢と落合、古市場と川上、江原と十日市場、東南湖と今福というように各地で行われたのである。」というように、子どもにとっては集落同士のけんか
の日でもあったようです。
 また、落合の八王子社では6月30日、夏越しの祭りとして禊祭り、現在では「輪くぐり」と呼ばれる禊の祭りが行われています。八王子社の祭神はスサノオの五男三女神ですが、本来の八王子は牛頭天王の8人の王子を祀っていたとも言われ、疫病退散を祈願した祇園祭と関係もしていると言えます。
 
ふるさと〇〇博物館ブログ 落合の八王子社の茅の輪くぐり

 
 このように現在まで続く祭や記録、伝承を見ていくと、京都を起源とする祇園祭が6月15日前後に市内でも広く行われていたことが分かります。そして、病を避ける願いとともに、子どもの誕生を願う、水を求める、火事を封じるなどそれぞれの地域の願いと結びつき、多様な姿をしていたことも明らかとなりました。
 こうした祇園信仰は時とともに忘れられつつあります。しかし、芦安の小曽利地区のように昔の賑やかだった記憶を懐かしみ今に伝え、共に若者たちがその記憶を形にして蘇らせようとする動きも出てきています。
 祇園祭で灯されるあかりは牛頭天王を喜ばせるための灯だと言われています。祇園祭に集う人々を見ると、そのあかりは世代や地域の異なる人々をつなげるあかりでもあるように感じられました。 

A_19

【写真】令和元年7月14日 小曽利 ヤグラ前


2019年の飯野のお灯籠祭は8月18日(日)、若宮八幡神社で開催予定です。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「相手を思いやる心」を体現するまち
~小笠原長清と小笠原流~

甲斐源氏加賀美遠光の子で小笠原家の始祖長清が本拠とし、名字とした地、南アルプス市小笠原。今号では、小笠原流として知られる小笠原家の歩みと、その一族が育んだ礼儀作法の世界を覗いてみましょう。
 
はじめに
 全国へと展開する甲斐源氏の一族は、新羅三郎義光、そして甲斐源氏の血筋であるということを誇りに、その家風を代々子孫に受け継いでゆきました。その様子は甲斐源氏の代名詞ともいえる弓馬の術に顕著顕といえます。たとえば、東北の南部藩主直伝として受け継がれてきた武芸「加賀美流騎馬打毬(青森県指定文化財)」からは、その名が示すように南部家の由緒が稲見アルプス市加賀美にあることを重んじる様子が伺えます。
 また、甲斐源氏の家伝が加賀美遠光を経て、小笠原長清、そして代々小笠原家へと受け継がれ、育まれていったものが「小笠原流礼法」とされ、武家の礼儀作法として世に知られることとなり、やがては現代日本の生活文化の根底に根ざしてゆくこととなったのです。
 「小笠原流礼法」は、現在小笠原流礼法を教授している小笠原家を称する二派の言葉を借りますと、「武士が社会生活を円滑にするために作られ、受け継がれてきたもの」であり、「日常の行動として役に立ち、無駄なく、他から見て美しくある」ものと言えそうです。
 今号では、主に小笠原家の祖とされる小笠原長清についてとその後の武家故実を担うこととなる小笠原流の展開について簡単に整理してみたいと思います。
 小笠原流の成立については、これまで中世史の研究者である二木氏などにより、近世の家系譜にみられる将軍家への師範に関する記述などは信濃小笠原家への権威付けとみられる仮託であることが指摘されている。また、中世末の信濃小笠原家の故実家としての活動については村石氏の論考に詳しく、参照されたい。
 
 
小笠原長清と名字の地「原小笠原荘」
 小笠原家は加賀美遠光の次男長清が、原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を本拠とし、小笠原を称したことに始まるとされます。
 『吾妻鏡』などには長清は父遠光とともにたびたび登場し、中でも、元暦二年(一一八五)の頼朝から範頼へ宛てた書状や、東大寺の再建にかかる多聞天の寄進に関する記述など、頼朝の身近な存在であったことがうかがえます。

A1

【写真】加賀美遠光・小笠原長清父子像(開善寺蔵)
 
 
 長清は、現在の南アルプス市小笠原の小笠原小学校付近に館を構えたとされ、当地には現在も「御所庭(ごしょのにわ)」や「的場」の地名が残されています。『甲斐国志』には「御所ノ庭」について「村ノ西ニ在り松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭」とあります。

 父遠光は自身が館を構えた加賀美を拠点に、交通の要所となる釜無川・富士川流域に一族を配置しました。また周囲には、中世八田牧の存在が知られますが、百々・上八田遺跡の調査により、古代よりウマの飼育が行われていたことが判明しており、彼らの強力な軍事力や武芸を支えていたと指摘されています。

A2

【写真】小笠原小学校の校舎には鎌倉武士の射芸のオスが描かれている。
 
 
 時代は下りますが、永徳三年(一三八三)の「小笠原長基自筆譲状」には、信濃小笠原家の長基が全国の十九もの所領を分割して相続する様子が記されています。筆頭に「原小笠原荘」を挙げ、さらに「惣領職」と注記されていることから、原小笠原荘が小笠原家の「名字の地」として一族の惣領のみに代々継承されてきた特別な場所であることがわかります。
 
二つの小笠原
 山梨県内には「小笠原」という地名は北杜市(旧明野村)にもあり、中世の史料にも「山小笠原荘」「原小笠原荘」とふたつの小笠原が登場します。では、それぞれどちらなのかと言いますと、応永年間(1394~1428年)の史料に「山小笠原荘内朝尾郷」とみられることから、朝尾郷が北杜市浅尾を指すと考えられ、必然的に「原小笠原荘」は南アルプス市を指すと考えられているのです。
 その裏付けとまでは言えませんが、南アルプス市内の古代・中世の遺跡からは複数の「狩俣鏃(かりまたぞく」」が出土しています。狩俣鏃とは武芸の修練時に使用する先端が二股にわかれた鏃で、主に流鏑馬や巻狩などで使用されたものです。
 特に『甲斐名勝志』に「小笠原に柿平と云所有小笠原大膳大夫長清舘の跡也と云伝、、、」とある柿平地区の一の出し遺跡や、加賀美・小笠原に掛る流鏑馬の奉納が行われていた伝承がある寺部の神部神社に近接する寺部村附第6遺跡からも出土している点は、何らかの関連を示しているようで大変興味深いです。
 
小笠原流の展開
 では、「小笠原流礼法」と呼ばれる礼儀作法の歩みを概観してみましょう。
 加賀美遠光の子小笠原長清より始まる小笠原家は、旧来より清和源氏に伝わるとされる「糾方(=弓馬故実または弓法)」を代々惣領が受け継ぎ、長清以降「流鏑馬」など弓馬儀礼の際の射手として名を連ねるなど弓馬に堪能な家柄として活躍しています。
 信濃守護となる「信濃小笠原家」(一般的にこの系統が惣領家とされます)から分出した「京都小笠原家」と呼ばれる系統により、室町時代の中頃には将軍家の弓馬故実の師範家として定着しています。近世の家系譜には長清が頼朝の師範であったなど、将軍家への師範に関する記述が多くみられますが、これらを事実とみなすことは現在のところ難しいと言え、江戸時代における信濃小笠原家への権威付けとして書き加えられた可能性があります。そのため、現在のところ確実に将軍家の師範であったことが示せるのは室町時代の中頃と言えるのです。
 
室町時代に「礼法」
 概ね室町期に「弓」・「御(馬)」の法に「礼」が加えられて三法からなる「礼法」が整えられたとされ、弓馬術のみならず婚礼など儀礼の作法や教養としても展開してゆきます。戦国期には武田家に破れ深志城を離れながらも故実の集成・伝授を積極的に行った信濃小笠原家の長時やその子貞慶の頃に、小笠原家の故実に、同じく故実家として知られる伊勢家や今川家などの故実を取込んで中世武家の礼法を大成していったとみられています。
 信濃小笠原家は戦国期には糾方の断絶を避けるために「一子相伝」を解き、近親の分流や有力家臣にも積極的に伝授しました。貞慶の時に再び深志城へ戻ることができ、江戸時代になると明石藩主、さらには小倉藩主となって幕末を迎えることとなります。
 一方江戸では京都小笠原家の系統の「縫殿助家」と、室町期に赤沢家であった「平兵衛家」の二つの分流によって、旗本として幕府の武家故実師範となります。この頃将軍家など一部の武家だけでなく広く躾や教養として礼法が求められ、水嶋卜也に代表されます小笠原家以外の民間の諸礼法家などによっても広く小笠原流礼法の名が浸透してゆきます。水嶋は、小笠原貞慶から礼法を伝授された小池貞成の孫弟子で、江戸で「水嶋流」として活動しましたが、弟子3千名ともいわれるとても広範な活動の中で、やがて弟子たちにより小笠原流礼法として展開していくこととなってしまうのです。
 
身の回りにある
 明治期に入り、平兵衛家により小笠原流礼法は学校教育に取り入れられ、一層小笠原流の名が庶民に浸透してゆきますが、同時に形式ばかりが先行し堅苦しいものという誤解が広まったと言われてもいます。しかし、元々礼法はその時代の社会活動に応じて変化してきたものと言えますので、戦争という時代にそのような要請があったのかもしれません。とは言え、冠婚葬祭や生活のマナーなどとして現在の日本の生活文化の根底に根ざしているのも事実です。小笠原流礼法は立ち居振る舞いを基本としているとされますが、冠婚葬祭の際の包み(ご祝儀袋やお香典袋など)や神社などで見られる紐結びの数々なども小笠原流礼法と言え、私たちの身の回りに今もあるのです。
 戦後の小笠原流礼法の継承は、礼法の本質を普及する活動へと変わり今日に至っていると言えます。これも戦後日本の社会の要請と言えるでしょう。
 信濃小笠原家に伝わる伝書を紐解くと度々「時宜によるべし」という言葉に出会います。現代風に言い換えるならばT・P・Oにあわせよととらえることができ、まさに現代にも通じます。甲斐源氏の家風は時代を越えて私たちに語りかけてくれるようです。また、どのような動作にも意味があり、その点を理解することに重きが置かれている観があります。これは小笠原流礼法の神髄が「相手を思いやる心」であり、それを体現した形が立ち居振る舞いということなのです。

A37no2

【写真】折形のひとつで、鶴のお祝い包み
 
 
おわりに
 小笠原家の「名字の地」である南アルプス市では、現在、「小笠原長清公顕彰会」により、小笠原流礼法や、惣領家とされる小倉藩相伝の小笠原流流鏑馬(3年前より休止中)などを通して小笠原家ならびに甲斐源氏の伝統を未来へと継承する取り組みがなされています。南アルプス市が「相手を思いやる心」を育んだ一族の発祥の地であるなんて、なんて誇らしいことでしょうか。
 おもてなしのまちとしての南アルプス市の未来が見えてきそうです。

A4

【写真】南アルプス市で行われている流鏑馬の様子

A5

【写真】小笠原長清公顕彰会による小笠原流礼法講座の様子

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

まちの宝箱
~「ふるさと文化伝承館」リニューアルオープン~

 元号が変わり、今月より令和元年がスタートしましたね。市内には同じく今月18日に新たに生まれ変わりスタートする施設があります。文化財課が運営する「ふるさと文化伝承館」です。
 今回は、新しく生まれ変わる「ふるさと文化伝承館」の見所や、開館後には観ることのできない会館準備の様子などをご紹介します。

A_34

【写真】ポスター

 

はじめに
 「ふるさと文化伝承館」は八田地区野牛島の「湧暇李の里」内にあり、昨年夏より改修工事のために休館していました。エアコンや照明などといった故障した設備を改修するだけの目的で行われた工事ですので、リニューアルというよりは単純に改修工事終了に伴う開館と言った方がふさわしいかもしれません。よって、建物自体は休館前の状態とほとんど変わってなく、変化に気付かない方が多いと思います。面積も変わらなければ間取りも変わっていません。

A_35 A_36

【写真】工事中の様子と、工事終了直後の展示室

 

 しかしながら、1年近く休館していましたので、せっかくであれば展示内容も新しくして皆さまと再会したいと、館内の引越し作業の合間を見ては、手作りに近い状態で展示を準備してきました。完璧と言う状態ではなく、これから皆さまと共に作り上げていく発展途上の展示公開となりますが、ふるさと文化伝承館は、そのように共に育むコミュニティの場を兼ねた展示館なのです。

A_38 A_39

【写真】作業中の風景

 

どんな施設?
 「ふるさと文化伝承館」は、南アルプス市の郷土の歴史や文化の歩みについて、①調査し、②史資料を収集・保管したり、③展示公開する小さな施設ですが、狭くても、本物にさわったり五感で学んでいただこうと、「体験すること」も大切にしています。そこでイベントも豊富に開催してきました。
 市外からお越しの方には「南アルプス市ってこんなに素敵なところなんだ」と発見していただきファンになっていただくこと、そして市民のみなさまには、南アルプス市を再発見していただき、誇りに思っていただくこと。そんな風に誘える施設になれば良いと考えています。
 また、さまざまな市民のみなさまと関わりを大切にしながら育てていくと言う点もこれまでどおり継続する予定です。再開にあたり、コンセプトを変えることはなく、より深めいく予定です。展示内容にも反映させ、これまで以上に市民の皆さまが主役になれる展示館、博物館をめざします。

 

「ふるさと〇〇博物館」の拠点
 では、どんなところに変化があるのか。
 まず、玄関横のバナーを一新し、メッセージをこめてみました。バナーには鋳物師屋遺跡の土器から南アルプス市の歴史を語るさまざまなモノが飛び出してます。有名なものばかりではありません。個人の方が持っていたものなども飛び出していますが、どれも地域のストーリーを雄弁意語るものばかりです。あたかも南アルプス市の宝物が箱から飛び出しているようです。ふるさと文化伝承館にもそのような地域を物語る宝物で一杯です。

A_40 A_41

【写真】ふるさと文化伝承館の外観

 

 新しくなったバナーを横目に玄関に入っていただくと、先ず最初に床面に張り出された大きな航空写真がみなさんをお迎えします。南アルプス市の市街地全体を映し出したもので、その奥には並んで昭和22年の航空写真も床面に貼ってあり、移り変わりをご覧いただくことができます。まずは導入として市内全体をご覧いただこうというものですが、自分の家を探したり、今ある道がかつては無かったり、昔の川幅に驚いたりと、ここを眺めるだけでも楽しい時間をお過ごしいただけそうです。

 

 この航空写真もそうですが、リニューアルのひとつの大きな特徴は、文化財課が取り組んでいる「ふるさと〇〇博物館」の拠点としての部分を前面に打ち出すことで、市民の皆さまが主体的に感じ取れるような展示を増やすよう心がけています。これまでの取組みで蓄積してきたデータや収蔵した民具などの史資料などは期間ごとにテーマを決めた「テーマ展示」として公開していきます。
 これまで1階にあった民具の常設展示は主にこのテーマ展示へと変わり、収蔵庫に保管してある膨大な量の民具を、入れ替わりご紹介しようというものです。第1回となるオープン記念のテーマ展示は「ふるさと〇〇博物館‐南アルプスのたべもの風物誌」と題して開催いたします。
 きっと、あれ、「うちが寄贈したやつじゃん!」とか、「うちにも似たようなものがあるね」と会話がはずむことと思います。これを機にさらに収蔵量や情報提供量が増えていくものと期待しています。
 また、ふるさと〇〇博物館の一つのウリでもあり、全国から注目を得たウェブサイト「〇博アーカイブ」を大きなスクリーンに映し出して、皆さんが自由に操作することができるコーナーを常設します。自宅のPCでは動作が重いと言う方も伝承館で体感することができます。南アルプス市の何気ない風景の中にある魅力や人々の記憶を直感的に感じていただけると思います。

A_42

【写真】〇博アーカイブ

 

オープン記念テーマ展示
「ふるさと〇〇博物館‐南アルプスのたべもの風物誌」
 これまでにもここでご紹介してきたように、南アルプス市の独特な環境が独特な食文化や生業を培ってきました。それらを物語るモノやエピソードが各地域の各家庭にあります。ふるさと〇〇博物館では、それらのファミリーヒストリーを紡いでいく取組みを行っていますが、その中で「たべもの」に関するモノやコトをご紹介します。実際に道具類に触れたり体験できるコーナーもあります。
 また、展示期間中、郷土食である薄焼きについて、皆さんのお宅のレシピを紹介していただくコーナー「知ってますか?お隣の薄焼き(仮称)」もあります。「薄焼き」と一言で言いましても、地域によって実に様々な具材や食べ物であることが分かりましたので、皆さんにご紹介すると同時に、この機会に皆さんのお宅のレシピを教えてもらおうという作戦です。

A_43

A_44

A_45

A_46

【写真】テーマ展示の展示作業中の様子

 

ミニテーマ展「調理の器」
 また、これまで特別なときにだけ公開していた第2収蔵庫の一部を常時公開することとしました。土器などの考古資料を収蔵している部屋ですが、このスペースもミニテーマ展として期間限定で内容を入れ替え、膨大な量の考古資料を順次ご紹介しようというものです。今回は、テーマ展示に連動して、「調理の器」と題した特集展示としています。

 

常設コーナーも大きく様変わり!
 ここからは常設コーナーのご紹介です
 これまでにも、子どもたちが体験できるメニューを用意していましたが、リニューアル後は、階段下のトンネルのような空間を利用して、子どもたちに楽しんでいただこうと考えています。トンネルの壁や天井にはマグネットで遊べたり、黒板があって、いろんな遊びも楽しめます。もちろんこれまでにも大人気だった土器パズルなどは健在です。土偶つくりや火起こし体験も基本的には予約無しでできます(混雑時などは対応できない場合もあります)。
 常設展示は、「足元に眠る」と題し、各遺跡から出土した土器や石器などの資料を展示するコーナーに加え、「水との闘い」と題して、独特の地形ゆえに知恵と工夫で困難を乗り越え、命をつなげてきた足跡をたどります。現在の果樹産業の礎が見えてきます。
 2階の縄文時代の展示室は、昨年パリで紹介された鋳物師屋遺跡の縄文土器や土偶も帰国後の初公開となりますし、膨大な量の土器に囲まれる展示となっています。

A_47 A_49

【写真】「足元に眠る」の展示作業中の様子

 

みなさまと育んでゆきたい
 全ての展示をこの場でご紹介することは難しいので、ぜひ、直接ご覧いただきたいと思います。ふるさと文化伝承館は膨大な量の資料やデータを蓄積しています。もちろん今も現在進行形で蓄積し続けています。伝承館はまるでまちの宝箱なんです。そのようなお宝をご覧いただくだけでなく、さまざまな調査活動や宝を育てるワークショップも展開していく予定ですので、そのような活動にもぜひご参加ください。また、ふるさと〇〇博物館の活動拠点でもありますので、やはり皆さまの何気ない思い出話も沢山募集しています。みんな宝物です。それらが集まると南アルプス市の魅力はより深まっていくものと思っています。

 皆さまの参加により、より誇りとなる南アルプス市を築いていけたら良いなと願っております。今後とも「ふるさと文化伝承館」をよろしくお願いいたします。
 いよいよ5月18日、みなさまの「ふるさと文化伝承館」が始まります。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

ウェブサイト「〇博アーカイブ」の発信
~地域の歴史資源を掘り起し伝える仕組み~

はじめに

 平成29年度より教育委員会文化財課によって本格始動した「ふるさと〇〇(まるまる)博物館―掘り起し・育み・伝えるプロジェクト―」。
 市内のあらゆる歴史資源や遺跡、人をつないで市全体を博物館とみたてるものであり、何気ない風景にある歴史資源を市民自らが掘り起し、正しい価値づけを行い、発信していこうというもので、その過程の中で潜在的にあった歴史資源や、地域を誇る「人」を表に出して、魅力ある地域をつくることを目指している取り組みです。
 
 平成29年。まずは何気ない風景や、お蔵の中に隠れている「モノ」や「コト」、各家に伝わる小さな物語を掘り起こす調査から始めました。市内全域を5年かけて調べる予定で、3年目を迎え、少しずつ「モノ」や「コト」、「ヒトの記憶」などの情報が蓄積されてきました。
 また、地域に暮らす方々の「記憶」は、個人宅へ伺うと同時に、高齢者さんたちの集まるサロンなどにも出かけ、古い懐かしい写真やモノを見てもらいながら、昔の思い出話を沢山聞き取り、動画でも記録しています。みなさん笑顔で懐かしそうにお話しをされるのが印象的です。これらも地域の歩みを語る大切な歴史資源であると考えていますし、元気な地域づくりにもなることを願っています。
 一見何気ないモノやコト、小さな物語を紡いでいくことで、地域「らしさ」や「魅力」が見えてきます。これらは地域にとって未来へ伝えたい大切な資源なのです。そのような資源の情報をきちんと蓄積をすると同時に、この情報を皆さんと共有し、さらに紡いでいくための仕組みづくりも準備してきました。そのひとつがふるさと〇〇博物館のウェブサイトです。
 平成30年12月1日、満を持してウエブサイトが産声を上げました。

「ふるさと〇〇博物館」ウェブサイト

Toppage

【写真】ふるさと〇〇博物館のウェブサイトのトップページ

「ふるさと〇〇博物館」ウェブサイトは3つのサイトからできています。
●「文化財Mなび」
●「〇博アーカイブ」
●「〇博アーカイブbyぼこ」 の3つです。

Site

【写真】トップページの下方を見ると三つのサイトのアイコンが現れます

 

「文化財Mなび」

 「文化財M なび」は、詳しく調べたい方向けのサイトで、写真も多く情報量を豊富に提供できることを目的にしています。指定文化財だけでなく、各地区の文化資源や人々の記憶、家族のエピソードや、このふるさとメールのコラムも読むことができるようになりました。元々平成23年に公開したホームページを「〇博」用にリニューアルし、時代やカテゴリーごとに検索する機能も加え、内容も大幅に増補されています。今後は各資料のPDFデータや古文書の目録なども公開できることを考えています。
 情報をなるべく多く蓄積し、使いたい情報を引き出すことができるいわゆる「デジタルアーカイブ」としての役割を担っているサイトです。

Navi

【写真】「文化財M なび」のページ例

 

「〇博アーカイブ」

 このプロジェクトでは地域の歴史資源の情報やデータを沢山蓄えることはもちろんのこと、それを活用するためのきっかけづくりにも取り組んでいます。全国的にも、デジタルアーカイブの課題として、ただ蓄積することに重点が置かれていて利活用への工夫不足が指摘されています。ただストックされるだけではなく、情報が動き出しやすく、活用したくなる仕組みとして考えたのがこのサイト「〇博アーカイブ」なのです。

 「多元的デジタルアーカイブ」と呼ばれ、インターネットの「デジタル地球儀」上に人々の「記憶」や「歴史資源」の情報を配置するものです。位置や地形という横軸と、時代や歴史という縦軸をビジュアル的に見やすく表現することで、感覚的に知ることができるため、視聴した方の共感を得やすく、その結果現実世界においての活動を喚起しやすいのが特徴です。

4archive

【写真】「〇博アーカイブ」の画面の一例

 

「多元的デジタルアーカイブ」の先駆者

 この分野の第一人者で、「ヒロシマアーカイブ」などの研究・実践で知られる東京大学大学院情報学環の渡邉英徳教授の研究室と、南アルプス市文化財課との共同研究にて、「多元的デジタルアーカイブ」を活用した取り組みを行ったのです(同研究室担当:首都大学東京大学院山浦徹也氏)。
 当研究室での取り組みで特筆すべき点は、ただシステムを構築したことではなく、その実践方法であり、あくまでもこのシステムをツールとして現実社会おいての有意義な利活用を実践しいていることです。広島での取り組みでは、実際に被爆者・犠牲者を多く出すこととなった広島女学院の後輩にあたる、現役の広島女学院の高校生が、地区の被爆者たちにインタビューし、交流しながら情報を蓄積し、公開しているのです。高齢者と若者が触れ合うことで、これまでに無かった被爆者の証言の伝承活動の可能性が広がっており、その活動をこのシステムが支えているのです。

5archive

【写真】ヒロシマアーカイブの画面の一例

 この取り組みを知った私たち文化財課は、広島ではいわゆる「負の遺産」を伝えること、掘り起こすことで実践されているものですが、本市が掲げている「ふるさと教育」やまちづくり、地域の誇りを継承する活動に活かせるのではないかと考え、平成27年当時、首都大学東京にいらした渡邉先生に打診するところからこの活動は始まったのです。

 

地域の歴史資源を主軸とした取り組み

 〇博アーカイブでは、地面の上に浮かぶアイコンに触れると、その説明や「思い出」を語る動画を視聴することができます。まさに地球儀をくるくる回すように3Dで南アルプス市を見渡し、さまざまな情報を得ることができるのです。「文化財Mなび」にくらべ情報の量は少なく、画像や動画1点と短い解説のみですが、パッと見て、どこにいつどんなものがあったのかが伝わりますし、何よりも触ってみたくなるシステムなのです。もし、興味があれば「文化財mなび」でさらに調べられるのです。
 画面下には時代を示すスライダーがあり、各時代ごとの歴史資源を見ることができます。地面には戦後すぐの航空写真や明治期の地形図なども重ねてみることができ、「歴史」的な感覚も感じやすく工夫しています。
 たとえば高齢者の方の記憶は動画で記録し公開することで、このデジタルアーカイブの中で語り続けることができます。地図上に多くの市民の顔が溢れる仕組みでして、将来的には歴史資源と言うよりも市民のアーカイブになれば良いとの展望も抱いています。語り部は住民全員なのです。瞳を輝かせながら半径30mを誇りを持って語る市民で溢れたら素敵なまちになるのではないかと考えています。
 そのような身近な話題こそが地域の歴史を浮き彫りさせる材料であり、また共感も得やすいものです。共感を得られると、今度は自分の身の回りのことを掘り起こしはじめるなど、リアルな世界での活動や展開が生まれるのです。実際にそのような動きも生まれており、このような仕組みを通して「記憶」や地域の歴史資源をさらに掘り起こし未来へ継承しようというものです。

61archive

【写真】○博アーカイブの画面の一部

62archive

【写真】地面には明治時代の地形図も重ねられる

63archive

【写真】身近な思い出話の動画も視聴できます。

「〇博アーカイブbyぼこ」
 広島女学院での活動同様に、南アルプス市でも早速小学生たちによっても掘り起し発信する取り組みを実践しています。

 櫛形西小学校では、このデジタルアーカイブの取組みを「西地区有名計画」と名づけて授業で実践しました。また、共同研究のグループリーダーである山浦氏(当時首都大学東京大学院生)を中心とした共同研究のテーマの一つでもある「シリアスゲーム」※を応用した試みも兼ねて実施しました。これは、毎年実施している小学校と文化財課とのコラボ授業を共同研究用に改編したもので、学生が何度も小学校を訪れて打ち合せ、実際の授業も運営してみるというように学校側と一緒に組み立てていった実践です。

7kid

【写真】トップ画面の一部(起動時は動画)

 

櫛形西小での実践~西地区有名計画

 まず、学生参加の最初の授業は5月。地域にどのような歴史資源があるのかをクロスワードパズルを解いていく手法で学んでいきます。ふるさと文化伝承館の展示資料や文化財課が作成してきたパンフレットなどで調べながら、楽しみつつも集中して取り組み、初めて聞くような歴史資源の名前も、ゲーム後半には普通に話せる単語になっていました。
その後、学校ではそれらの歴史資源の中から、自分でさらに掘り起したいテーマを選んでみるといった整理がなされました。

 

8jissen_2

【写真】実践の様子

81jissen

【写真】実践の様子

83jissen

【写真】クロスワードクイズの答え合わせをする児童と研究室グループリーダーの山浦氏

 

 2回目の学生参加授業として、今度は実際に現地を訪れました。その際にもオリエンテーリングの要素や、タブレットPCを用いてAR技術を活用して、現在の風景の中から過去の風景を探し出すゲームも行いながら地域を歩きました。昔の風景に驚いたり、普段見慣れた風景の中にも、なにか掘り出し物がないかと集中して訪ね歩いていたのが印象的です。
 面白いものでして、第1回目の授業では誰も興味を示さなかった歴史資源も、実際に訪れ、地域の方のお話しを聞くことで一番人気になったものもありました。やはり、現地に訪れて、そこに暮らす方にお話しを聞くことは大切だと実感しました。
 紆余曲折を経て、各自が掘り深め発信したいテーマ(歴史資源)を絞りました。自分たちで調べ学習を進めると共に、改めてそのテーマについて地域住民の方にインタビューするなどして調べてゆきました。そのインタビューの様子も動画に記録しています。今回の授業では、それら調べたことを自らパンフレットにまとめ、発信するという方法で行いました(国語の単元を活用)。

9jissen

【写真】地域の歴史資源を探し歩く児童たち

92jissen

【写真】地域の歴史資源を探し歩く児童たち

93jissen

【写真】今は使われていない古い郵便局内で、所有者にインタビューする児童

 

 いよいよ7月、3回目の学生参加授業の日を迎え、入力システムができたばかりの「〇博アーカイブ」に実際に入力し、搭載しました。常に〇博アーカイブの画面を大きなスクリーンに映し出していたのですが、PCやタブレットを用いて入力し、地図上にコンテンツが反映されるたびに教室に歓声が響きました。

10jissen

【写真】授業の様子

102jissen

【写真】授業の様子

103jissen

【写真】授業の様子

 

 この取り組みで搭載された情報は、「〇博アーカイブbyぼこ」で閲覧することができます。現在このサイトには、櫛形西小学校の平成30年度の取り組みとともに、平成28年度の6年生たちが自ら調べ動画で発信しているコンテンツも搭載されています。また、年度末に行った白根源小学校の6年生(平成30年度)による取り組みも搭載されています。
ぜひ、子供たちの純粋な想いをご覧ください。
 パンフレットのアイコンをクリックすると大きく表示されます。また、アイコンの下には、インタビューした地域住民の皆さんの顔写真が表示されており、それをクリックすると動画を見ることができるシステムです。パンフレットのほかにも児童が映っているアイコンもありますが、これは一昨年の取組みで、調べた地域の魅力を自ら演出し動画で発信しているもので、この動画も今回のアーカイブでは一緒に紹介しています。

11jissen

112jissen

【写真】28年度に取り組んだ児童の動画の一例

113jissen

【写真】源小の取り組みの一例

114jissen

【写真】市内のうち櫛形西地区と、源地区にアイコンが映し出されているのがわかります

 

ウェブサイトはここからがスタート

 「ふるさと〇〇博物館」のウェブサイトは、これが完成形ではありません。仕組みができただけで、これからがスタートです。各地の掘り起し作業が進むたびに発信する情報もどんどん増えていく、成長していくサイトなのです。ともに育み続けるものですから、むしろ、完成は無いのかもしれません。
 理想は、市民全員が語り部であることで、大勢の方の笑顔で埋め尽くすサイトにできたら良いと願っています。ぜひ、ご利用いただき、南アルプス市に思いを馳せ、また、情報提供にもご協力いただければと思います。

ふるさと〇〇博物館の拠点

 現在、設備の改修工事のために休館中のふるさと文化伝承館は、来月、令和元年5月18日(土)にいよいよ再開致します。あくまでも設備改修のみの工事ですので大幅な施設の変化はありませんが、ふるさと〇〇博物館の拠点施設としての機能を担い、これまで調べ得た情報を整理して展示に反映させます。また、館内の大型スクリーンでは常に「〇博アーカイブ」を映し出し、いつでも操作できる予定です。
 ぜひ、ふるさと文化伝承館で「〇博アーカイブ」を操作し、体感してください。

  

※シリアスゲームとは、エンターテインメント性のみを目的とせず、教育・医療用途といった社会問題の解決を主な目的とするコンピュータゲームのジャンルを言い、ここでの実践は以下の文献で報告されています。

<参考文献>
山浦徹也・保阪太一・斎藤秀樹・渡邉英徳(2018)「若年層の地域理解を促進するためのシリアスゲームの提案:デジタルアースアーカイブの構築体験を通した創造的思考の育成モデル」, デジタルアーカイブ学会誌 2(2), pp.154-155

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地を飛び回る
真っ赤なかわいいSS(エスエス)

 桜の蕾もほころび、もうすぐ花が咲きそうです。市内の果樹地帯では、お馴染みの真っ赤な丸いフォルムのエスエスが忙しく行き交う季節が、またやってきました。通称エスエスと呼ばれるスピードスプレイヤー(以下、SS)は、果樹への薬剤噴霧を行う特殊な車両です。散水にも使用されますが、非常に細かい霧状にした液体が、後方についているノズルから180度放出され、樹のてっぺんから葉の裏までまんべんなく噴霧できます。市内で生産されるサクランボ、スモモ、モモ、ブドウ、キウイフルーツ、カキなどほぼすべての果樹の栽培に欠かせないマシンです。

Photo

【写真】通称エスエス、「スピードスプレーヤー」

 SS大手販売会社社員へのインタビューによると、年間300台ほどが山梨県に納入されているそうですが、この台数は他県より抜きん出て多く、山梨県は全国一、SSの売れる県なのだそうです。山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので販売台数が多くなるようです。

Ss

【写真】SSの展示販売(百々にて)

 特に南アルプス市域の果樹栽培では一つの農家が多品目を栽培するという特徴があるので、一品目当たりの農地が比較的小規模になっているため、コンパクトなタイプのSSが重宝され、販売台数を押し上げています。
500リットルタイプのSSは、たくさんの支柱が林立するサクランボ栽培用のサイドレス施設内でも運転手が右へ左へとこまめにハンドルを切って器用に走り回って作業できます。

500ss

【写真】サクランボ栽培のサイドレス内を器用に走り回る500リットルタイプのSS(上今諏訪にて)

 この事実を踏まえると、南アルプス市内の住宅地を歩けば車庫に乗用車と並ぶ流線型の真っ赤なSSを見かけるのが普通のことであったり、御勅使川扇状地の原方では、春先から晩秋にかけての朝方によく道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしているとSSに前後を挟まれたりすることが日常なのも、納得できます。

Ss_2

【写真】飯野の給水塔からSSのタンクに薬剤を混ぜる水を入れているところ

 さらに、南アルプス市の果樹産業とSSには、ともに歩んだ60年の歴史があります。
 先人たちは、水の乏しい広大な御勅使川扇状地を創意工夫で土地利用し、煙草や麦から桑、果樹の栽培へと産業を変化させてきました。明治20年代から白根町西野を中心にはじまった果樹産業では、特に昭和20年代後半から地区をあげてのスプリンクラー網整備や作業効率化への様々な取り組みが本格化します。
 そのような情勢の中、昭和30年、北海道余市町のリンゴ農場にアメリカFMC・ジョンビーン社から輸入されたけん引式のSSが日本で初めて導入され、国内でのSS開発競争がはじまりました。それから間もなく昭和33年1月25日に西野農協が国内メーカの共立が開発したSS-1型を県内第一号で導入したのです。当時の新聞には、農作業効率化への期待を一身に受けたSSを前に、誇らしげな先人たちの集合写真が紙面を飾っています。

33125

【写真】昭和33年1月25日「入魂式」集合写真(「夢21世紀への伝言」白根町より)

「スピード・スプレーヤ西野農協え入る 知事『富士号』と命名」というタイトルの興味深い新聞記事には、この日、西野農協共選所そばの西野小学校校庭に天野山梨県知事を招いて、入魂式が行われたことが記されています。記事には、『神官による儀式の後、天野知事より「富士号」と命名された。この後、西野小学校校庭でエンジンの音も高らかに試運転が行われ、百ケの噴口から直径二十メートルに広がって噴き出される霧は晴れ渡った富士をもかくし、喜びのうちに式は終つた。』とあります。
※「スピードスプレーヤ」は共立の商品名です。

Photo_2

【紙面】果実山梨の記事

Ss_4

【紙面切り抜き】SS部分拡大

Photo_3【紙面切り抜き】天野知事画像部拡大

 西野の功刀幸男さんによると、最初に西野で導入した第一号のSSは、たいへん大型で専用運転手が雇われていたとのことです。記録によると、共立開発の3.63mの噴霧器を長さ2.921mのイギリス製のけん引車ファーガソン(軽油37馬力)が引っ張るもので、SS全体としての長さは7m近くにもなり、巨大だったことがわかります。昭和40年代から出回るようになったコンパクトで小回りが利くように設計された自走式SS500リットルタイプが、だいたい全長3m弱なので、なんと倍以上の長さ(大きさ)です。

7

【紙面切り抜き】新聞記事に記載された富士号の性能

 南アルプス市域の初期のSS導入実態を、功刀氏の記憶と白根町誌の記述を合わせてまとめると、(1)まず昭和33年1月25日に第一号の「富士号」が西野農協によって導入され、農協管轄下で運用された後、(2)次に、西野で昭和37年から39年の間に2つのグループ(長谷部さんと功刀さんを中心とするグループ)が共立が開発に成功した直後の自走式をそれぞれ1台ずつ購入し、(3)昭和40年~42年にかけて旧白根地区内で新たに3台の自走式SS(西野:昭信製1台、在家塚:昭信製1台、今諏訪:メーカー不明1台)が導入されていき、ひろがっていきます。

10ss

【写真】西野の功刀幸男氏へのSS導入期の聞取り調査

 功刀幸男氏は、昭和33年の西野農協のSS導入は山梨の果樹栽培機械化への幕開けを象徴するものだったといいます。知事を招いて大々的に行われた入魂式の報道は、県内の果樹栽培者たちに、大きなインパクトを与えたに違いありません。

38

【写真】昭和38年富士号の雄姿(功刀幸男氏アルバムより)

 その10年後には自走式のSSが主流となり、昭和40年代後半には、御勅使川扇状地に点在する小規模農地での運用に便利なコンパクトボディが、市内各地を行き交うようになりました。かなりハードな仕事を短時間にこなす機能をもちながらも、丸っこくてかわいらしい個性的なフォルムを育てたのもまた、ふるさとの風土であるといえるかもしれません。

 真っ赤なSSが住宅と農地の間を行き交い、夕方には各家の車庫に乗用車と並んでコンパクトに車体が納まる様は、南アルプス市の果樹栽培を彩る歴史的景観の一つと考えられます。

Ss_5

【写真】農地に出かけるSS(飯野にて)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(下)

 前号で、今も小正月で舞われている下市之瀬の獅子舞(県指定無形民俗文化財)の様子をご紹介しました。この獅子舞は、現在南アルプス市内で舞われている獅子舞ではもっともその歴史を遡ることができ、今も活発に活動が行われています。また、その記録が良く残されているのが特徴で、今号ではその記録も紐解きながら、下市之瀬の獅子舞についてさらに詳しくみていきましょう。 


雌獅子

 下市之瀬の獅子舞は女獅子が特徴で、腰を落として着物がはさまるくらいに膝をつけて舞うのが基本と言われています。かつては膝に紙を挟んで狭い碁盤の板の上で動作の稽古をしたという話も伝わっています。その上で上体の振りを大きくして舞台いっぱいに舞うのが名人芸と言われています
 道祖神場やムラマワリなどで舞う基本的な舞として「幕の舞」と「梵天舞」さらに「梵天舞」の簡略形である「十二支舞」があります。アトンメー(後舞)が後ろで幕を持ちますが、これには、区の役員さんが加わったり、子供たちが加わることもあります。


太神楽の獅子舞

 下市之瀬の獅子舞の特徴としてはなんと言っても「八百屋お七」や「梅川忠兵衛」という「獅子狂言(芝居)」の存在です。「段物」とも呼ばれるものます。
 これは太神楽の一つで、山梨県は太神楽系の獅子舞が多い地域と言われています。特に国中地域の獅子舞は、道祖神祭りと結びついて小正月行事の一環として舞われるところが大きな特徴と考えられていて、下市之瀬をはじめとする南アルプス市内の獅子舞もまさにその傾向の通りです。
 山梨県内の獅子舞にはかつては上記のような獅子狂言や、「鳥刺踊」「万才」などのいわゆる余興(下市之瀬ではかつてこれらを「道化」と呼んでいる)がさまざま演じられていたと考えられていますが、ほとんど伝承されず、獅子舞だけが伝わるケースがほとんどです。そのような中で、「八百屋お七」や「梅川忠兵衛」という2種類もの獅子狂言を、しかも高いレベルの芸として伝承していることは非常に貴重なことと評されています。しかも現在では「三番叟」も受け継がれ、披露の場でも復活しており、これは山梨県内で唯一ここだけと言われています(市内では西南湖でも獅子狂言の2種を行っていますが、下市之瀬から継承したものと言われています)。

A_6

【写真】梅川忠兵衛の一コマ。成人者を祝う会での披露

 

下市之瀬の獅子舞の歴史は古い!

 実は下市之瀬の獅子舞は江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に、当時の農村の若者たちの間に広まっていた風俗の乱れを改めるために、敬神と娯楽を兼ねて獅子舞を始めたと伝わります。
 少なくとも安政3年(1856年)に書かれた史料の存在によって、江戸時代には獅子舞が舞われていたことは確実と言えます。安政3年正月に下市之瀬の若居者別当三千助によって書かれた「定書目録」で、この地域の若居者が順守すべき定書の中に、獅子舞や道祖神祭に関する条項があるのです。抜き出してみましょう
 
 一 神楽祭礼飾道具并に獅子道具等相互に吟味し、賃物に入れ申間自敷候事 
 一 正月五日六日頃より獅子舞稽古相始め、炭油迄用意可致候事
 一 同月七日亦は十一日迄に道祖神飾可致、尤も村中罷り出、手伝可致候事
 一 同月十四日夜祝儀新宅祝仕り候、其之節は一同罷出、獅子を舞ひ可申御札相納、同月十五日村中軒別夫の獅子を舞ひ配札可致、同日道祖神金元利取調、帳面へ印し可申候事

A_10

A_11 A_12

 【写真】定書の一部(写)

 これらから、正月の5、6日頃から毎晩獅子舞の稽古を行ったこと、道祖神の飾り付けは7日かあるいは11日までに若居者を中心として村中の人が手伝って行ったこと、14日の夜は新婚、新築などの祝い事があった家に一同で出向いて獅子舞を賑やかに演じたこと15日にはムラマワリをしていたことなどがわかります。この「定書目録」によって江戸時代末期の安政3年には獅子舞が下市之瀬にしっかりと定着して、道祖神の主要な役割を果たしていたことがわかります。なお、現在この史料は所在不明ですが、昭和29年3月に書写したものが現存しています。

 

青年永盟社と獅子舞

 下市之瀬の獅子舞を語る上で切り離せないのが、「下市之瀬青年永盟社」の存在です。明治20年に活動の発展を図って、「祝祭世話係」という若者組織の名称を改称し、「下市之瀬青年永盟社」(以下、永盟社とする)が設立されました。昭和34年頃に永盟社が解散するまでこの永盟社のメンバーが獅子舞を継承していました。
 永盟社は様々な活動の記録を残しているため、当時の購入したものや日々の活動、メンバー構成などを伺うことができます。
 昭和14年に作成された「記録簿」を見てみますと、おおむね先ほどの定書にあった記載と同じような正月の様子が見え、獅子舞や各舞諸芸の稽古は、各部門の主任から候補者が指導を受けるというシステムを取っていた様子がわかります。
 小正月の流れは、14日は夕方どんど焼きに点火すると同時に道祖神場で獅子舞を奉納し(これは現在もまったく同じ)、その後祝い事のあった家を巡り、その後会場の舞台で獅子舞や諸芸を演じたようです。15日にはムラマワリをして獅子舞を舞い、16日夜の「日待祝」、17日の敬老会にも諸芸を演じています。当時は女子青年部もあって諸芸は一緒に披露していたようです。20日には朝から道祖神祭りの飾りを片付けを行い、外された梵天は各戸に配布されています。この辺りも現在も同じように受け継がれていることがわかります。
 この当時に伝承されていた演目を見ますと、「獅子舞」、「梅川忠兵衛」、「八百屋お七」、「三番叟」、「鳥刺踊」、「万才」、「お亀・神主」、「七福神」などがあったようです。
 

A_5

【写真】記録簿の表紙(写)

A_4

【写真】記録簿の中の昭和15年の「舞台上演者」の項。「梅川忠兵衛」、「三番叟」、「鳥刺踊」、「万才」などの演目が見える。

A_3

【写真】同じく中を読むと、獅子舞神楽という表記が随所に現れ、当時そのように認識していたことが良く分かる

A_2

【写真】昭和12年の獅子舞の稽古の様子を伝える山梨日日新聞の記事
 
 前号の最後にご紹介した舞台幕、中央に獅子が描かれ、向かって左端に「青年永盟社さん江」とあります。写真では見えにくいですが、その下にある落款から、今も古市場にあります老舗、井上染物店さんで染められたことがわかります。今となっては市を代表する伝統同士のコラボですね。この幕も昨年補修を施し、今も大切に使われています。この幕の作成された年代は実は判明していません。下の方に商店名がいろは順に並んで位おり、小笠原地域を中心とした周辺の商店等が贈ったものと考えられます。現在少しずつ「記録簿」を調べ直していますので、購入のいきさつなどが判明できればと考えています。
 昭和34年に山梨県郷土芸能大会にて舞を披露しますが、この年に永盟社は解散します。翌35年に下市之瀬獅子舞保存会が結成されるのです。ここからは、前号でもご紹介した通り、現在の活動へと受け継がれていきます。

A

【写真】舞台幕

 

まとめにかえて

 下市之瀬の獅子舞は、かつての太神楽の獅子舞を高い水準で色濃く伝えている獅子舞と言えます。また、現在もコミュニティの中心として活発に活動をしていることとともに、「定書目録」や「下市之瀬青年永盟社」のように、継承の経緯や背景が明確に残されていることが大きな特色と言えます。このような史料が揃っているのは貴重な存在です。記録とともに伝承するということは非常に大切なことであることが、保存会の資料から読み取ることができます。
 前号から2回にわたり、下市之瀬の獅子舞についてご紹介しました。小正月に係る地域の行事であるとともに、この伝統を担う方々の存在は地域らしさを語る存在でもあることが見えてきました。文化財課が進める「ふるさと○○博物館」では、このような地域らしさを語る史料群を整理し、読み解き、大切に未来へ伝えていきたいと考えております。また、いずれご報告しいたします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】