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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

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2021年5月

【ふるさとニュース】

浅原住民団体が送迎、介助 高齢者の外出サポート

 南アルプス市浅原の住民有志でつくる「あさばら支えあい隊」は、移動手段のない地域の高齢者を対象とした外出付き添い・介助サービスに取り組んでいる。メンバーが高齢者を病院やスーパーに送迎し、乗降時の手助けなどを行っており、利用者からは「地域の人と交流する場にもなっている」と好評という。

 支えあい隊は2019年、地域住民の困りごとを解決する手助けをしようと、60~70代の有志10人のメンバーで発足。浅原自治会に所属する約400世帯を対象にアンケートしたところ、出掛ける手段がないことを不安に思う高齢者が多いことが分かり、メンバーが自家用車で高齢者を送迎する取り組みを始めた。

【山梨日日新聞 5月29日掲載】

【ふるさとニュース】

特産サクランボ盗難防止へ巡回

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 南アルプス署とJA南アルプス市は28日、収穫最盛期を迎えるサクランボの盗難を防ぐため、合同でパトロールを行った=写真。
 昨年は新型コロナウイルス感染拡大防止のためそれぞれがパトロールを行っており、合同実施は2年ぶり。パトロールは収穫シーズンが終わる6月末まで、早朝や夜間のほか、畑に人が少なくなる昼間や夕方の時間帯にも定期的に実施する。
 28日は署員やJA職員8人がパトカーなど4台で市内のサクランボ畑周辺の農道を巡回し、不審者がいないか念入りに調べた。
 署によると、昨年の管内で発生した果実盗は10件(被害額計150万円相当)だった。生活安全課長は「コロナ禍であっても全力で対応し、農家が大切に育てたサクランボを守っていく」と話した。JA南アルプス市の担当者は「盗難防止のため、情報を綿密に共有していきたい」と話した。

【山梨日日新聞 5月29日掲載】

【市役所便り・イベント情報】

文化財保存活動を紹介 南アルプス・ふるさと伝承館

 南アルプス市野牛島のふるさと文化伝承館が取り組む文化財保存活動の様子などが、動画投稿サイト「ユーチューブ」の文化庁公式チャンネルで紹介されている。地域の文化財専門職員が遺跡の魅力を紹介する文化庁の企画「いせきへ行こう」の一環。
 新型コロナウイルスの感染拡大で、市民が参加できるイベントが中止となる中、動画を通じて文化財に触れる機会をつくろうと企画。同庁によると、「地域にある多様な文化財を生かし、長年、市民とともに遺跡の保存や活用に取り組んでいる」として、南アルプス市を第1弾として取り上げたという。
 動画は23分25秒。市教委文化財課の担当者3人が、ビデオ会議システム「Zoom(ズーム)」による同庁文化財調査官との対話を通じて、国史跡の御勅使川旧堤防や重要文化財の土偶「子宝の女神ラヴィ」、小中学生による発掘調査やシンポジウムなど市民参加型のイベントを紹介している。
 同課担当者は「動画を見て地域の歴史を知り、誇りを持ってもらいたい」と話している。
 同庁は青森県八戸市、大分県中津市、兵庫県淡路市の3市の取り組みも紹介している。

【山梨日日新聞 5月26日掲載】

【ふるさとニュース】

南ア美術協会員の油彩や水彩画並ぶ 市立美術館

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 南アルプス美術協会は26日まで、南アルプス市立美術館で、会員らによる作品展を開いている。
 会員10人と若草墨絵部や若草絵画部、甲西絵画部の部員16人が53点を展示。八ケ岳や清里高原を描いた油彩画、新型コロナウイルスの感染収束を願って描かれた水彩画が並ぶ。会長はコロナ禍の不安定な情勢を青色の微妙な違いで表現した抽象画「しかく」を出品している。
 会長は「自由に描かれた作品を見て、絵画に挑戦してみようと思うきっかけになれば」と話している。

(写真)南アルプス美術協会の会員らの絵画が並ぶ作品展=南アルプス市立美術館

【山梨日日新聞 5月25日掲載】

【ふるさとニュース】

臨場感あふれる朗読に聞き入る 南ア市立図書館が催し

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 南アルプス市立図書館は、南アルプス・甲西農村環境改善センターで「甲西図書館朗読会 ふれあい処」を開いた。
 同市甲西地区を中心に活動する朗読ボランティア「文の会」のメンバー7人が出演し、芥川龍之介の「仙人」や、山本周五郎の「金五十両」など7作品を披露。訪れた約20人は臨場感あふれる朗読を楽しんだ=写真。

【山梨日日新聞 5月22日掲載】

【ふるさとニュース】

50万本赤く彩るポピー

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 南アルプス市中野地区の休耕田で、ポピーが見頃を迎えている。
 地区の住民有志でつくる「ふるさとを錦で飾り隊」が休耕田を活用するため、6年前から花を栽培。今年は例年より1週間ほど早い4月下旬に咲き始め、現在は約50万本の色鮮やかな赤い花が棚田を彩っている。見頃は6月中旬まで続く。
 会長は「今年もきれいに咲いてよかった。花を楽しみながら、棚田が抱える耕作放棄地の問題なども考えてほしい」と話している。

(写真)見頃を迎えたポピー=南アルプス市中野(14日撮影)

【山梨日日新聞 5月21日掲載】

【市役所便り・イベント情報】

南アルプス市立美術館で川﨑小虎展

 近代日本画の巨匠の一人で、中巨摩郡落合村(現南アルプス市落合)に疎開していた川﨑小虎(1886~1977年)。南アルプス市立美術館で開かれている川﨑小虎展は、その詩情豊かな作品から癒やしを届けようと、小虎の大和絵やスケッチなど約40点を紹介している。淡く柔らかな色調で描かれた大和絵や、草花や小動物など素朴な主題の作品からその画業をたどる。
 岐阜県に生まれた小虎は幼い頃から画家になるよう育てられた。朝廷や公家などで行われた儀礼や慣習を研究する有職故実の大家だった祖父に大和絵を学ぶ。東京美術学校卒業後は帝展や日展などで活躍し、1938年には日本画家望月春江(甲府市出身)らとともに日本画院を設立した。
 太平洋戦争末期の44年、時局から、勤務先の東京美術学校で日本画科の教員が国粋主義的な作家に代わったことを背景に、教授職を辞任。「自由な気持ちで絵を描きたい」と疎開を思い立つ。落合村で小虎を迎えたのは野草や果実、鳥やウサギといった小動物に、季節ごとに表情を変える自然。写生の題材には事欠かない環境だった。48年までの4年間、山梨での生活を楽しみ、学芸員によると、小虎の名を聞いた村人らが食料と交換に絵を頼みに来ることもあったという。
 画材も満足にない終戦前後。大作を描くことは困難だったが、「疎開中に描かれた草花や小動物は大作につながる大切なモチーフになった」(学芸員)。展示された「子猿」や「野兎」などは、のちの作品に欠かせないモチーフとなっていった。
 今展では、疎開中に描かれたとみられるスケッチ約20点と、花や静物、小虎が得意とした大和絵など約20点を紹介。疎開先でのスケッチからは、農村の広々とした心地よさ、作家の自然への温かいまなざしが伝わってくる。
 展覧会は6月27日まで。

【山梨日日新聞 5月21日掲載】

【山梨県内のニュース】

朝採れたトマト、特急で八王子駅に

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 JR中央線特急で甲斐市で朝に採れたトマトを東京・八王子駅に届け、その日のうちに販売する企画が19日、行われ、八王子駅の利用客が新鮮な野菜を買い求めた。
 甲斐市竜王の赤坂農場で午前8時に収穫されたトマトが甲府駅に届けられ、JR東日本の社員が特急の空き座席に乗せて運んだ=写真。
 「鮮度の高い商品を素早く届けられ、消費者にすぐに手に取ってもらえる」と赤坂農場の社長。八王子駅で午後1時50分から販売した約70パックはわずか15分ほどで完売し、売れ行きの早さも“特急並み”だった。

【山梨日日新聞 5月20日掲載】

【季節の便り】

数量限定!南アルプス市産さくらんぼ通信販売

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 日本一収穫時期が早い南アルプス市産のさくらんぼ。地元の農家が愛情を込めて作った新鮮なさくらんぼをお届けします。発送は6月上旬を予定しております。南アルプス市の旬の味覚をご堪能ください。

注文方法]オンラインショップまたは、FAX注文(FAX注文書を印刷しFAX送信(055-282-5010) してください) 詳しくは、こちら(観光協会ホームページ)をご覧ください。

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お問い合せ
南アルプス市観光協会 TEL 055-284-4204

 

第3回アヤメの里レディースラン開催

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 5月9日、櫛形総合公園と満開のアヤメが咲く滝沢川公園を会場にアヤメの里レディースランが開催されました。当日は天候にも恵まれ、109人の参加者が5㎞と9kmのコースに挑戦し、河川敷にアヤメの花が美しく咲く中、ランナーたちは笑顔でコースを駆け抜けていました。
 今回は大会開催にあたり、参加者を県内在住者のみに変更して人数を制限し、給水所ではペットボトルが配られ、走り終えたランナーにはマスクを配布する等、徹底した新型コロナウイルス感染症対策がとられていました。
 また、完走者には抽選会も行われ、ジャムやさくらんぼなどの特産品、アヤメの花等が景品として配られ、参加者を喜ばせていました。

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[南アルプス市役所 秘書課]
「広報 南アルプス」はこちらから

【連載 今、南アルプスが面白い】

学び人を育む力
~天民義塾と綿引健~

 水害へ備える言葉を残し、さまざまな人々を育んだ綿引健(竹二郎・雅号匏水)。その学びの社であった私塾天民義塾については、資料が少なく詳細なことはわかっていません。今回のふるさとメールでは、残されたわずかな資料を繙き、明治から大正時代まで続いた塾の実態にせまり、3月から続いてきた綿引先生の物語に幕を降ろしたいと思います。

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【綿引先生】

3月15日号「時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~」

4月15日号「風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~」

 

幕末の私塾・寺子屋
 まず江戸時代の終わり、幕末の私塾と寺子屋から天民義塾設立以前の教育状況をみてみましょう。『山梨県教育百年史 明治編』によれば、江戸から明治時代初頭における県内の私塾・寺子屋の数は537か所が想定され、市内域だけでも寺子屋が芦安地区0、八田地区3、白根地区15、若草地区12、櫛形地区27、甲西地区15、合計72、私塾としては藤田村の釜川塾、上高砂村の螺廼舎(しのしゃ)の2か所が表にまとめられています。旧村単位でこの状況を見てみると、小笠原村が最も多く7、藤田村が5、鏡中条村、桃園村がそれぞれ4で、その他多くの村で1か所は寺子屋が営まれている状況でした。そこで教える先生は農民が31、医者が15、僧侶が11、神官が10、浪士が2、儒者が2、修験者が1で、農民と医者が多く、約64パーセントを占めます。学習内容は読書と習字が中心で、そこに講義などが行われることもありました。なお、「松声堂」として知られる西野の西野手習所は代官支配下の領民の子弟を教育の対象とする郷学に分類され、近世の甲州では西野手習所を含め3か所に限られました。

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【幕末~明治初期 郷学・私塾・寺子屋地図 (『山梨県教育百年史 明治編』付県下寺子屋・私塾一覧より作成)】

 

学制の始まりと寺子屋の廃業~明治時代初期~
 明治に入ると、明治5年(1872)8月、日本最初の学校教育を定めた教育法令である学制が太政官から発せられ、学校教育制度がスタートします。学制頒布とともに小学校が設置され、江戸時代地域の教育を支えた多くの私塾、寺子屋は小学校へ併合あるいは廃業となり、明治8年頃にはほどんど姿を消すことになりました。明治5年山梨県によって行われた「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」をまとめたのが第1表で、掲載された寺子屋(郷学を含む)は市内では18か所だけで、多くの寺子屋が廃業したことがわかります。一方明治6年から小学校建設が市内各地で行われ、その後統廃合が行われますが、明治19年段階では少なくとも25校以上の小学校が作られていました。

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【第1表 市域における寺子屋調査 (「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」から作成)】

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【明治19年前後 市内小学校地図】

 

勉旃(べんせん)学舎から学術研究会そして天民義塾の創立へ~明治10から30年代~
 明治時代私塾が衰退したのは、山梨県権令(後に知事)となった藤村紫朗が進めた公立学校への奨励と私学への厳しい抑制政策の結果でもありました。また、明治10年代は経済不況も私学の不振に追い打ちをかけます。『明治17年学事年報』によれば県内の私塾は成器舎、修斉学舎、時擁義塾、勉旃学舎、明倫舎、蒙軒学舎の6か所のみ掲載されていて、市内では荊沢に開かれた勉旃学舎が挙げられています。
 勉旃学舎は明治14年、五明村の名望家で自由民権運動にも活躍した新津真が同村の大地主市川文蔵と共に発起した塾で、教科目には修身・歴史・文章の三科、修学年限七か年、小学校中等科卒または満14歳以上が入塾資格とされました(『山梨県教育百年史 明治編』)。その学舎は明治18年閉鎖されましたが、翌年荊沢の法泉寺の檀家が寺内に学術研究会を開き、牛山龍が漢学や弁論部を教えました。
 明治20年代は経済が回復し山梨英和女学校など県内に新たな私塾が多数創設される一方、県立尋常中学と高等小学校の整備が進み、明治20年代の終わりにはほとんどの塾が廃業する時代でした。そのような中、学術研究会では明治21年牛山が去ると綿引健が招聘され、明治34年には新しい学舎も建設されました。これを契機に「天民義塾」と名付けられたのです。『中巨摩郡誌』には「四方より学ぶ者多し」とその盛況ぶりが記録されています。

 

天民義塾とその移転~荊沢から西南湖へ~
 天民義塾の内容については『明治37年度学事年報』からその一端がうかがえます。学校長名は綿引竹治郎(健)で教員は綿引ただ一人でした。創立年は明治33年とされ、中巨摩郡誌と1年のずれがあります。学科は修身(道徳)、国語、漢文、作文を教え、修業年限は3年で学級数は2、生徒数は1年生が男36、女0、2年生が男32、女0でした。明治33年の創立から明治36年までの卒業者は男102人、女0を数えました。

 『甲西町誌』によれば、明治39年水害による学舎流失のため、荊沢から西南湖に天民義塾が移されます。西南湖では明治33年丹沢義吉、入倉善三を中心とした若い農民が水害が多発する土地の中で自ら学び生活を向上させるため南湖報徳社を設立しており、それらの若者が中心となって、綿引先生を西南湖へ招きました。『南湖報徳社のあゆみ』の編年表には明治39年「水戸の漢学者綿引竹二郎先生を迎え天民義塾開設」と見え、丹沢義吉の著書の中でも、「(義吉が)南湖の振興を志して立ったのはまだ十代の青年であった。村を興し国を盛んにすることを真剣に考え、綿引匏水先生の許に学んだ」とあります。また、天民義塾で学んだ深沢吉平(注1)の伝記には「塾頭は綿引匏水先生で深沢が十才位の時から種々精神的影響を受けていたらしい。」と書かれており、後に北海道の酪農を推進する吉平の生き方にも影響を与えていたのです。

 先生の残した漢文などを見ても、塾では単なる国語や漢文だけでなく、人の生き方を学ぶ場だったことがわかります。『西郡地方誌』は当時の学習内容と活況、先生の逝去に伴い塾の幕が降ろされたことを次のように伝えています。
「南湖村西南湖報徳社において綿引健が明治39年の創始より大正8年長逝まで修身道徳を主として教育された。生徒数は多い時には百数十人に上り、隣村からも学ぶものが多かったが、綿引の長逝とともに廃止となったという。」

 多くの私塾が創立され廃業した明治20年代後半から大正時代まで、なぜ天民義塾は存続できたのでしょうか。『山梨県教育百年史 明治編』の「学制頒布と寺子屋・私塾」では次のようにまとめています。
「中には例外的に明治の終わり、あるいは大正年間まで継続しているところもあった。例えば西南湖(甲西町)の天明義塾(注2)は明治14年に開設された勉旃学舎および学術研究会のあとをついで、明治19年に再建され大正4年まで続いた。教師綿引健(匏水)の人格を中心に、修身・道徳に力をいれた特色ある塾教育に打ち込んで、旧い日本教育の長所を発揮して多くの人材を輩出せしめた。」

 このように綿引先生個人の資質が多くの人を惹きつけ塾を存続させた要因であったことは間違いありません。しかし塾存続の理由として先生を招き天民義塾を支えた若き塾生たちの存在も注目すべきでしょう。水害が多発する地での小作農の厳しい生活を地域で学ぶことで乗り越えようとしてきたその風土も塾の存続に深く関係しているはずです。天民義塾を支えた南湖報徳社の人々は、明治37年、天竜川の洪水を防ぐため私財を投げ打って植林事業に一生をかけた静岡県の金原明善を招いて講演会を開き、その話に感銘を受け、その直後から「治山治水」を実践するため平林村に約10.7haの山を借用し植樹を行うとともに、別の山林を購入し植林事業を継続して行いました。さらに社の報徳金により小作人の耕地の購入を後押する自作農推進活動を行い、その結果社員全員が自作農となったと言われます。災害に苦しむ人々の生活を向上させ、地域の産業を発展させたのは、地域の人々の生涯にわたる学びの力だったのです。

 綿引先生は100人を超える門人が集まり開かれた還暦の祝宴のあいさつの結びとして、次の言葉を選びました。

「今ヨリシテ後、(中略)物質ト(中略)精神トノ間ニ處シ能ク之レガ保合調和ヲ計リ、又復得難キ人生ヲ大意義アルモノナラシメント欲ス。諸君幸ニ切磋琢磨ヲ惜ム勿レ。幸栄アル此ノ祝宴ニ対シ謹ンテ感謝ノ辞ヲ述ブル此ノ如シ」(「還暦祝謝辞筆記」『匏水子集』より)

 この言葉には60歳を超えた自分も人生の目標である世界と心の調和を目指していく決意と門人たちがお互いに励まし合い、学び続けることへの願いが込められています。

 

エピローグ
 大正8年に亡くなられた綿引先生の姿を覚えている人は今はいません。しかし、先生の奥さまは太平洋戦争後までこの地にとどまり、地域の人々と交流を続けました。塾の建物に暮らしていたため「塾のおばあちゃん」と呼ばれていました。入倉善三さんの孫、入倉善文さんは当時の様子をはっきり覚えていて、懐かしそうに話してくれました。
 「子どもの頃塾のおばあちゃんは俺や姉さんにやさしくしてくれたね。通知表も親より先におばあちゃんに見せに行ったさ。おばあちゃんに褒められるのがなにより嬉しくてね。受賞した絵を見せると塾に貼ってくれたのも嬉しかった。」
 記録には残っていませんが、記憶の中に子どもたちを育んだ先生の奥さまの姿が残されています。

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【塾のおばあちゃんの思い出を語る入倉善文さん】

 

注1:南湖村から北海道音江村へ移住し、音江村長を務めるとともにデンマークで酪農を学び後に衆議院議員となり北海道の酪農を推進、雪印乳業の前身である北海道酪農共同株式会社社長も務めた。岩手県への酪農の普及にも尽力した。
注2:天民の誤りか

引用・参考文献
岡本昌訓 1964『深沢吉平の生涯』深沢吉平伝刊行会 
甲斐志料刊行會 1932?1935「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」『甲斐志料集成』第6巻
公益社団法人南湖報徳社 1969『南湖報徳社のあゆみ』 
椎名慎太郎 2001「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習(山梨学院生涯学習センター紀要)』山梨
山梨県 1904『山梨県学事年報. 明治35年度』
    1906『山梨県学事年報. 明治37年度』
山梨県教育委員会編 1979『山梨県教育百年史 明治編』 サンニチ印刷
山梨県中巨摩郡聯合教育會 編 1828『中巨摩郡誌』
山梨県立巨摩高等女学校編 1940『西郡地方誌』
綿引竹次郎 1920『匏水子集』

【南アルプス市教育委員会文化財課】