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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

小正月の風物詩 下市之瀬の獅子舞(上)

小正月と獅子舞

 早いもので今年も半月が過ぎました。
 昨日は小正月。南アルプス市内でも伝統の小正月行事が各地で行われ、道祖神場にはさまざまな美しいお飾りが登場しました。
 市内各地の小正月行事の様子や特徴は一昨年の記事でご紹介していますのでそちらも併せてご参照ください。山梨では小正月の行事が道祖神の祭典として行われることが多く、さらに、かつては獅子舞が付きものでした。今でも下市之瀬区や曲輪田区峯村小路では「ムラマワリ」といって全戸をまわり幕の舞や梵天の舞を舞う伝統が継承されておりますし、また、新婚や出産、新築などのようなお祝い事のあるお宅には家の中へで舞う「舞い込み」も行っています。上記の2地域以外では西南湖区でも行っています。ほかの地域でも、舞の種類は継承されなくてもとにかく獅子舞の恰好で村を廻るものや、鏡中條区や平岡区のように道祖神場へ獅子頭だけを供えるものなど、かつての名残を伝えている場所もあります。
 その中でも、山梨県の無形民俗文化財に指定されている「下市之瀬の獅子舞」について、今回と次回の二回にわたって、現在の活動の様子や、市内随一を誇る長い継承の歴史をご紹介しましょう。

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【写真】下市之瀬の獅子舞

 


県指定無形民俗文化財「下市之瀬の獅子舞」

 まずは今年の様子をもとに、最近の小正月での獅子舞の様子からご紹介しましょう。
 下市之瀬の獅子舞は現在「獅子舞保存会」によって継承・活動されています。区民全員が会員であり、舞手と囃子方の15、6人が主に活動を行い、区の役員が運営を支えています。小正月に行われる主要行事としては、主に、(1)ムラマワリ、(2)成人者を祝う会での出演、(3)どんど焼きの火入れの際の奉納などが挙げられます。かつては全て小正月の14日と翌15日に行われてきましたが、数年前より、成人式の開催日の変更に伴って、複数日にまたがって行われることも多くなりました。

 

ムラマワリ

 今年の「ムラマワリ」は1月12日の朝9時、道祖神場で「幕の舞」、「梵天舞」を奉納して始まりました。道祖神には注連縄(しめなわ)が張られ、もう一組の獅子頭が飾られています。前部には「奉納 正一位道祖神」の幟が2本立てられています。
 ひときわ目を引くのがご神木の梵天飾りで、色とりどりの梵天が刺さっており、地元では「フジノヤマ」と呼ばれています。梵天は道祖神祭りが終わると、子供クラブに渡り、子供たちが火伏のまじないとして各家の屋根に投げ歩きます。今年は20日に行うそうです。
 

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【写真】道祖神場での舞の奉納
 
 道祖神場での奉納が終わると、獅子頭二つを用いて、二班に分かれて約120軒の住宅すべてを回り、火伏せとして舞います。また、新婚や新築などのお祝いのお宅には玄関から獅子が舞い込んで座敷で舞い、最後に縁側から外へ向かって獅子頭を突き出す「舞い込み」が行われます。今年は4軒の家に舞い込みました。お祝いか厄年かなど、そのお宅の様子で演目を変えています。個人宅だけでなく、山の神(「道明」)、氏神、神明宮などにも寄り、最後は宗林寺で舞い納めとなります。小正月では休日ということもあり、「アトンメエ(後舞)」や太鼓を持つ役に地元の小学生たちが参加します。小さな時から地域の伝統と触れ合っている姿はほほえましいです。
 かつて60軒ほどだった下市之瀬の集落も今では120軒とあり、舞い込みは継承されてきたものの、全戸を巡るムラマワリは昭和45年ころから中断していました。平成18年から2頭の獅子頭を用いてムラマワリが復活しました。
 

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【写真】山の神(道明)での舞

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【写真】「舞い込み」の様子

 

成人者を祝う会とどんど焼き

 下市之瀬区では、市の成人式に合わせて新成人者が帰省する機会を活かして、成人式の前夜に「成人者を祝う会」が開催されます。新成人者をはじめ、高齢者から子供までが一堂に会しての催しで、地元の小学生たちによる余興などが催されます。その中で獅子舞保存会によって「幕の舞」「梵天舞」「三番叟」「八百屋お七」「梅川忠兵衛」などの獅子舞を含めた大神楽の諸芸も演じられるのです。
 この催しはかつては宗林寺の本堂で行われてきましたが、平成8年から、新しくなった集会所で行うようになりました。

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【写真】今年の様子

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【写真】かつて宗林寺で行われたころの写真
 
 また、どんど焼きは14日の夜7時にオコヤへの火入れとなり、火入れと同時に道祖神場で獅子舞が奉納されます。この時も「幕の舞」と「梵天舞」が舞われ、道祖神の裏手にある畑でどんど焼きが行われます。 

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【写真】道祖神場での奉納

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【写真】どんど焼きの様子

 これまで見てきたように、小正月行事で舞われる下市之瀬の獅子舞は、朝から村中の各戸や寺社を回る神事的な意味合いの強い獅子舞と、成人者を祝う会のように余興的・娯楽的な上演の2面的な構成があることが分かり、その両方が、技術の伝承とともに上演する機会も含めて現在まで受け継がれていることが貴重といえます。

 さらに、この下市之瀬の獅子舞の舞自体の特徴や、一体いつから行われているものなのか、その由緒について地区に伝わる史資料を通して、次回紐解いていきたいと思います。

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【写真】舞台幕 左側に「青年永盟社さん江」の文字が読める

 上に示す写真は、集会所など屋内で上演される際に使用されている舞台幕です。ここには、かつて小笠原の宿場などにあった商店名などが連なり、歴史が伺えます。さらに横には「青年永盟社」とあります。この青年永明社こそが、下市之瀬の獅子舞の継承と切っても切り離すことのできない存在なのです。
 次回紐解きましょう。
 
 
 
※写真には過去のものも含まれています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

幻のオート三輪
~人と人がつながり50年ぶりに中野を走る~

 早いもので平成30年もあと半月となりました。皆様の平成30年はいかがでしたでしょうか?

 南アルプス市文化財課では、年の瀬となる12月1日に新たなスタートを切った事業があります。「ふるさと〇〇博物館(ふるさとまるまるはくぶつかん)」のウェブサイトの公開です。

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【写真】「ふるさと○○博物館」ウェブサイトトップページ

 このサイトについてはいずれ詳しくご紹介しますが、この公開日である12月1日に、公開記念の「○博さんぽ」を実施しました。その時におよそ50年ぶりに南アルプス市中野地区に里帰りした昔懐かしいオート三輪についてご紹介します。

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【写真】中野の棚田を走るオート三輪

 

人と人がつながる

 「ふるさと〇〇博物館」では、国指定文化財のようなすでにお墨付きを与えられているものや大きな事件ばかりでなく、私たちが普通に見聞きしている「コト」や「モノ」を大切に紡いでいこうと取り組んでいます。個人や家族のヒストリーをつなぎ合わせると、地域のヒストリーが見えてきて、それらをまたつなげるとさらに大きな町全体のヒストリーが見えてくると考えているのです。今回ご紹介する物語はまさにそれです。旧櫛形町にあたる中野地区の日常に活躍した「モノ」をとりまく物語。

 今夏、「ふるさと○○博物館」について紹介する講座を開いた翌日のこと、参加者の一人から近所のエピソードとして情報提供の電話がありました。それは、昔懐かしいオート三輪のこと。しかも、あの有名な映画「三丁目の夕日」にも登場したオート三輪が中野地区にあったものだというお話だったのです。

 

三菱「レオ」

 そのオート三輪の元々の持ち主は中野地区出身の山王さん。現在は神奈川県に在住で年に数ヶ月は中野地区へ戻り畑仕事などをされています。ちょうどそのタイミングにお会いし、オート三輪について聞き取り調査を行いました。

 オート三輪というと有名なのはダイハツの「ミゼット」。大々的に広告も打たれ、ベストセラーとなったもので、昭和32年(1957)から昭和47年(1072)まで大量に生産され、人気を博しました。

 しかし山王さんの写真を拝見すると、そのオート三輪は三菱「レオ」。昭和34年に発売されわずか3年余りしか製造されなかった希少価値のある車で、現存するのは10台に満たないと言われています。

 実はこのオート三輪、現在は山王さんが所有しているわけではなく、別の方が所有されています。

 
「レオ」の思い出~ファミリーヒストリーが地域のヒストリーに

 この「レオ」、山王さんが中学生のころに父親が購入してきたそうで(何年生だったかは不明、昭和34~36年頃とみられる)、中学生だった山王さんは、「俺のおもちゃがやってきたぞ」と思ったそうです。

 山王さんの暮らす中野地区の宮ノ前集落は、「中野の棚田」のすぐ下にあり、当時は水田の他に麦や養蚕も盛んで、桑の葉や麦を運ぶのに牛車や大八車、良くてテーラー(農機具)などを使用していたようですが、「もう牛馬の時代じゃない」と父親がオート三輪を導入したようです。近所の方の記憶でも、中野地区で初めてオート三輪を取り入れたのがこの「レオ」のようです。今では田畑で当たり前にみる軽トラックのハシリと言え、言わば、この地において農業の変革を物語る一台と言えるのです。

 山王さんが大学生になる時に、布団や机などを下宿先に運ぶのにこの「レオ」で甲府駅まで運んだそうです。その先は当時国鉄駅にあった「チッキ」で運んだこともお話ししてくださいました。

 その後大学生の間に「レオ」は山王家から手放されたようですので、昭和40年(1965)前後のことと思われます。その後この「レオ」が誰の手に渡ったかなどを知る人はいませんでした。

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【動画】「〇博アーカイブ」で山王さんが思い出を語る様子を視聴することができます。ここをクリックして下さい。上のアイコンが解説、下のアイコンが動画

 

もうひとつのファミリーヒストリー

 南アルプス市とは何の縁もない松葉さんは東京の渋谷区生まれ、神奈川県育ち。元々父親が輪業店を営んでおり「レオ」も販売していたようです。販売した「レオ」が廃車されるのがもったいなく、引き取り隣の空き地に置いていたため、松葉さんの幼少時代は常にその「レオ」が遊び場だったようです。そのため、松葉さんにとってオート三輪と言えば「レオ」だったようです。

 松葉さんはそのような環境からかレトロな車の魅力にはまり、さまざまなレトロ車を所有します。元々台数の少ない「レオ」を所有することはまず不可能と諦めかけていたそうでしたが、とうとう平成19年(2007)、念願がかない「レオ」をレトロ車好きな仲間から貰い受けるのです。そしてなんと自ら修理を施し、車検を通して、現役として公道を走れるようにするのです。とても貴重な車といえます。

 

三丁目の夕日に登場

 修理された貴重な「レオ」は様々なイベントに出向き、雑誌の表紙を飾るなど話題になります。そんな中人気映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」にも登場することとなりました。堀北真希さん演じるロクちゃんが結婚する回ですが、その冒頭で「鈴木オート」内で修理されている車として登場しているのです。

 松葉さんは当時の姿を残すことに意味があると考え、不要な修理や改変を行っておらず、ほとんどが当時のまま残っています。そのようなところも評価を得ているところです。実は、そのおかげで、この「レオ」は元の持ち主を探し出すことができたのです。なんとこの「レオ」、荷箱の背面に「山王/櫛形町中野」と書かれているのです。

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【写真】荷箱の文字と現在のナンバープレート

 

レオがつなぐ人

 今から8年ほど前、山王さんがお盆で里帰りをしていると、少し出かけていた隙に訪問者があったようで、置手紙が戸に挟まれていたのです。その手紙を書いた方こそが、現在「レオ」を所有する松葉さんだったのです。松葉さんは荷箱の記載から、当時の持ち主を探してみようと思い立ち、2度目に訪れた時、手紙を挟み、それを読んだ山王さんと無事中野の地で出会うことができたのです。この時は別の車で伺っているようです。

 その後「レオ」と山王さんが50年以上ぶりに対面するのはお互いの現在の居住地である神奈川県でのことで、座席に座り、すぐに当時の記憶が戻ったそうです。

 松葉さんと山王さんは、いつか南アルプス市の中野地区に里帰りをさせたいねと確認し合うのでした。

 山王さんに、当時の「レオ」の写真がないか尋ねましたが、芳しい返事はありませんでした。でも、ふるさと○○博物館の調査では良くあることですが、たまたま意図していないものが写りこんだ写真というのは以外と多く、それが当時の暮らしぶりを雄弁に物語ることも往々にしてあるものです。

 後日山王家のアルバムをめくり調べていると懐かしい写真の数々がきちんと整理されていました。4・5冊目をめくっている時、家族の集合写真の奥の方にかすかに「レオ」の姿を見つけることができました。さらにめくると、アップで撮られている「レオ」の写真もありました。このように、アルバムの中の写真は、改めてみることで、その家族にとっても再発見があるものなのです。

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【写真】山王家の家族写真と後ろにたまたま写りこんだ「レオ」荷箱の文字が一致していることがわかります

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【写真】レオとともに

 

「レオ」50年ぶりに中野を走る

 12月1日、ふるさと○○博物館のウェブサイト公開を記念してのまち歩きイベント「〇博さんぽ」を実施しました。何気ない風景の中にその地域の小さなヒストリーを紡ぐ散歩です。
 せっかくですので、松葉さんのご協力のもと「レオ」に里帰りしてもらうこととしました。
 昭和12年からある旧野之瀬郵便局の傍らで参加者を出迎えたり、富士山を背に中野の棚田を走ったり。

 「レオ」にとっては、初めて購入されて仕事に生活に活躍していた地である中野地区で、実に約50年ぶりに走ったのです。
富士を背に棚田にたたずむ「レオ」は当時の姿を彷彿させ、地元からの参加者には涙ぐむ方もいました。きっと「レオ」自身も涙目だったことでしょう。

 そのときの様子は新聞でも報道されています。

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【写真】旧野之瀬郵便局と「レオ」 

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【写真】「レオ」を取り囲むイベント参加者

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【写真】中野の棚田で富士とともに

 
ファミリーヒストリーを紡ぐ

 イベント終了後も、中野の風景の中に佇むレオを地元の方が囲み、さながら撮影大会のような時間が流れました。
 行き交う地元の方が皆足を止め、懐かしそうにレオに触れます。中には、この「レオ」の当時の雄姿を覚えてらっしゃる方もいました。また、当時自動車の販売店に勤めてらした方もいて、当時のオート三輪の思い出を語り始める方もいました。

 不思議なものでして、この「レオ」は山王さんや松葉さんだけのものではなかったようです。地域のみなさんにとっても当時の記憶を呼び起こす、共有できる思い出だったのです。別の方のファミリーヒストリーが繋がり、この地域の歴史がみえてくるのだと思います。

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【写真】中野地内で地元の方に囲まれる「レオ」


 今回は、中野地区にあったオート三輪「レオ」を通して、「ふるさと○○博物館」の取り組みの一端をご紹介しました。

 希少価値のあるオート三輪が現存し大切にされているだけでも貴重なことですが、それだけでなく、この車が、当時の中野地区の農業に自動車を導入するという変革をもたらす皮切りであったことや、この車が地域の思い出を呼び起こす呼水になったこと、さらには、人と人が繋がることでこの「レオ」がこの地に戻ってくることができたこと、これらこそが価値があることなのだと考えます。

 きっと、そんなエピソードを綴れる「モノ」や「コト」がどの地域にもあるはずで、「ふるさと〇〇博物館」では、こういったことを大切に紡いでいこうと考えています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~

 11月になると南アルプス市では、庭先や道端、畑などのあちこちで橙色や朱色に染まったさまざまな柿を目にします。馴染みのある風景であるがゆえに、あまり目を止めることはないかもしれませんが、南アルプス市が誇るべきふるさとの晩秋の情景です。今回は柿の歴史をひもときます。

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 原産地は中国と言われています。日本では奈良時代以降、さまざまな文献に登場し、平安時代中期に編纂された『延喜式』(927)には「柿五百株」、「干柿子二連」、「柿子六連」などの文字が見られます。当時、すでに柿が栽培され、干し柿が作られていたことがわかります。

 市内では、野牛島に位置する野牛島・西ノ久保遺跡の平安時代の住居跡(Ⅰ区12号竪穴)からカキノキ属の種子が発見されています。またⅣ区土坑でも同様の種子が出土しました。市内でもこの時期にはもう柿が食べられていた可能性が高いのです。市南部の沖積低地に位置する大師東丹保遺跡からは鎌倉時代の柿の立木跡が発見されていて、柿の栽培が行われていたことがわかっています。

 江戸時代に柿は甲斐国の名産品となりました。『甲斐叢記』(1848)では「峡中八珍果」として葡萄、桃、梨、柿、栗、林檎、柘榴(ザクロ)、胡桃が挙げられています。また、江戸時代の甲府のガイドブック『甲府買物独案内』を見てみると、菓子屋の看板に「当国名産 果物所」と銘打ち、「大和御所柿」や「枝柿」という名の柿の他、当時のスイーツである「柿羊羹」も売られていました。

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【図】峡中八珍果『甲斐叢記. 前輯1巻』 国立国会図書館

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【図】甲府買物独案内

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【図】甲府買物独案内

 

 市内に目を向けると、御勅使川扇状地の扇央部に立地し、「お月夜でも焼ける」とうたわれた常襲干ばつ地域の原七郷(上八田、西野、在家塚、上今井、吉田、桃園、小笠原)の特産品として柿が記されています。天保8年(1837)の「原七郷七種産物書上帳」(『白根町誌 資料編』)に、渋柿、煙草、椚薪、牛蒡、大根、冬葱と列挙されています。さらに、「渋柿は国中目籠を以野売致来り申候」とあり、換金作物として国中一帯に柿を売り歩いていたことがわかります。柿は換金作物でもあったのです。そのため、広範囲に行う野売りが各地で起こした揉め事は少なくなかったようで、原方七ヶ村で商売について規則を示す定書きが残されています。
 
 原七郷だけでなく、御勅使川扇状地南部に位置する鮎沢村も柿の産地として知られていました。『甲斐国志』の「西郡相沢村ノ産ナリ、松平甲斐守十二月二献上セリ、又餌袋トモ名ケ是モ乾柿モニテ核ヲ援ミ出シ去ル故二袋ト云ヒ、白霜生シテ甘美ナリ」の記述から、干柿が作られていたことがわかります。

 幕末に江戸幕府が開国し、海外との取引が本格化すると、山梨の特産物である柿を輸出する動きも生まれました。安政6年(1859)笛吹市旧東油川村出身の甲州屋忠右衛門が、貿易商社を横浜に開設することを役所に願い出た文書に、その取り扱う商品として「ころ柿、葡萄、梨、御所柿」を挙げています(『甲州食べもの紀行 ~山国の豊かな食文化~』山梨県立博物館)。

 近代に入ると、全国各地で栽培されていた柿について、本格的な調査と研究が行われるようになります。大正3年に刊行された『乾柿搗栗製造全書並果実栽培法』では、柿は果樹の中で最も種類が多いものとされ、農商務省農事試験場が明治44年までに全国から収集し品質試験をしたものだけでも三千種に達したといいます。同書の中で、富士柿中の百目という種は山梨県原産で、「風味は蜂屋柿に譲ることなし、水分に至りては蜂屋柿よりも大きを見る。(中略)乾果用種中大果なるものは富士並に祇園坊に及ぶものなく最も有望なる品種と言う可し」と書かれています。

 この記述のとおり、後に大和百目と呼ばれる柿の始まりは山梨であり、さらに言えば南アルプス市なのです。大正初期、西野の手塚光彰が今諏訪の大きな実をつける百目柿の古木に注目し、大正7年3月に西野字北組に接ぎ木して植え付けました。この大和百目は手塚家に代々受け継がれていきますが、息子の光司は干し柿を作るための火力乾燥法を研究し、昭和9年にその開発に成功します。これによって枯露柿の品質が飛躍的に安定しました。昭和11年1月8日付け東京朝日新聞の山梨版には「輸出枯露柿万歳!火力乾燥に成功す」と一面で報じられています。

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【写真】現代の大和百目 西野

 幕末から始められた柿の輸出は、明治以降も試行錯誤が繰り返されました。明治44年度の山梨県立農事試験場の業務年報によれば、前年度から柿輸出試験が行われています。生柿では百目柿と甲州御所、樽柿として衣紋柿を上海に、乾柿では作り方が異なる百目柿白製、蜂屋柿白製、百目柿紅製を上海やウラジオストック、サンフランシスコ、バンクーバーへ送り出しました。

 模索し続けた柿の輸出も、昭和に入ると軌道に乗り、本格的になります。火力乾燥法に成功した西野の手塚家では、昭和10年に三井物産KKを通して、アメリカ本土とハワイに枯露柿を輸出していました。「korogaki」と記されたその当時のラベルが今も使われています。

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【写真】西野の叶屋(手塚家)で戦前から使用されたラベル。海外用に「korogaki」と書かれている


 市北東部に位置する上高砂も枯露柿の生産が盛んな地域です。清水家に残された高砂枯露柿出荷組合の出荷風景を写した写真には、「シアトル」や「サンフランシスコ」の印字がある木箱が見られ、やはりアメリカへ、昭和初期に輸出を行っていたことがわかります。

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【写真】上高砂 柿出荷風景 昭和初期

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【写真】上高砂 柿出荷風景・昭和初期「DRIED-PERSIMMONS」と印字されている

 

 太平洋戦争中に途絶えた海外輸出は、戦後西野で再び始められました。昭和21年にハワイの日系人から要望され、クリスマスケーキのデコレーション用として輸出された記録が残っています。

 現在の柿の輸出はかつてほど盛んではありませんが、市内では今も、甲州百目、大和百目、ひらたね、勝平などさまざまな柿が栽培されています。「あまんどう」という豆柿やかつて茶菓子に使われた「にたりがき」など、現在ほとんど見ることができなくなった種もかろうじて残っています。

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【写真】あまんどう 芦安地区

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【写真】甲州百目 上八田

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【写真】大和百目 西野

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【写真】勝平 上八田

 

 日本の人々は長い年月をかけてさまざまな種を生み出し、さらに加工技術を磨いて柿に向き合ってきました。おもしろいことに、日本語の「かき」は、フランス語とドイツ語でも「kaki」、スペイン語とポルトガル語でも「caqui」、イタリア語でも「cachi」と呼びます。これはヨーローッパやアメリカには日本と同じ柿が存在せず、戦国時代にポルトガル人が日本から持ち込んだことから、「かき」が外来語として定着したのだと考えられています。 この時期そこにあるなにげない色鮮やかな風景ですが、こうした柿の多様性は今後世界と南アルプス市をつなぐ大きな可能性を秘めているのかもしれません。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その6)
御勅使川扇状地東端部の崖線

 南アルプス市鏡中条から下今諏訪、上今諏訪を経て徳永に向かって、県道118号 南アルプス甲斐線をのぼっていくと、西側に道に並行して走る崖線を見ることができます。このあたりで確認できる高さは最大で13mほど(写真1・2)。

 実はこの崖線、西から迫る御勅使川扇状地を釜無川の洪水流が東から侵食してできたものなのですが、その存在は、現在はこの崖線から約500~800m程東に河道の中心がある釜無川が、かつてこの付近を流れた時期があることを示しています。

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【写真1・2】御勅使川扇状地東端部の崖線
 
 では、この崖線の形成時期は、いったいいつ頃なのでしょう。答えは、江戸時代に編纂された地誌である『甲斐国志』や鏡中条にある巨摩八幡宮(写真3)の『社記』から、推測することができます。 

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【写真3】巨摩八幡宮
 
『甲斐国志(抜粋)』:八幡宮 鏡中条 ~当初ノ祠ハ釜無川ノ内ニ在リ 今ニ其処ヲ神宮司河原ト称ス 天文年間坂上ニ遷セシガ 其ノ地復タ欠ケ崩レシ故 慶長年中今ノ地ニ移スト云フ~
 
『甲斐国志(抜粋)』:鏡中条村 ~今ノ村居ハ皆釜無ノ河難ヨリ移リタル所ト云フ~

『甲斐国社記・寺記(抜粋)』:広幡八幡宮(巨摩八幡宮) ~ 天文年中釜無川切込社頭神領不残流失仕候 数十戸之社人不残離散仕候由 于今其所を神宮寺河原ト申候 同暦十三甲辰年八幡宮を坂之上江引勧請仕候 其後慶長年中又々釜無川切込社地も段々欠込候故 同暦十七年壬子年御旅所之社江引勧請候~

 
 これにより、巨摩八幡宮と鏡中条村は、もともと、現在の位置からはるか東の釜無川河道付近にあったものが、天文年間(1532~1555)の水害で流され、天文13年(1544)に高台であった御勅使川扇状地上の字(あざ)八幡というところに移転した。しかし、そこも釜無川の水流によりだんだんに浸食され、慶長17年(1612)現在の集落のある位置に再移転を余儀なくされたことがわかります(図1)。

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【図1】崖線の位置と鏡中条村の移転
 
 天文年間以降、それまで東を向いて、鏡中条方向には向いていなかったであろう釜無川の流路が、南に向くように変わり、永禄3年(1560)頃と推定されている竜王(甲斐市)の信玄堤の構築により、おそらくその傾向は確定的なものとなり、その後の慶長年間の再移転へつながったのでしょう。釜無川の主要な流れのひとつが、戦国時代から、少なくとも江戸時代のはじめ頃、御勅使川扇状地の東辺を侵食するように流れていた可能性が高いことがわかります。釜無川の主な流路は、信玄堤の構築とその後の治水事業により、一般に東流路から、中央流路、西流路へと変遷したことが知られていますが、これ以外にも、現在の南アルプス市域に向かう流路があったことが示唆されます。

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【図2】釜無川河道の変遷(概念図/アニメーション)
 
 ちなみに、鏡中条が最初に移転した八幡の字名は、現代にも継承されており、断崖の際にあるその位置を知ることができます(写真4)。

 普段、何気なく通りすぎてしまう風景の中に、鏡中条地域の流転の歴史を見ることができました。 

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【写真4】鏡中条村がまず移転した字八幡付近の現在
 
 なお、図3に示す通り、この崖線、実はさらに北に続き、市域北辺の野牛島地区にまで続くことがわかりますが、その軸は、南アルプス市徳永付近を境になぜか、途中食い違っています。

 じつは、この食い違いは、崖線の形成時期の差によるもので、徳永から野牛島にかけての崖線上には、崖線上というロケーションを意識して占地したと推定される、今から3500年程前の縄文時代後期の集落が発見されていることから、それ以前の時期に形成されていた可能性があります。その後釜無川の流路が変わって、釜無川の侵食を受けないようになると、西から東へ再び御勅使川扇状地が成長しますが、天文年間以降また釜無川による侵食を受けるようになって、このような地形になったものと推定されます(図3のアニメ参照)。

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【図3】 食い違う崖線

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【図4】 崖線が食い違う理由(アニメーション)
 
 この侵食崖線のずれは、扇状地性の河川である釜無川の河道が、自然の力で、時に武田信玄をはじめとする人間の力によって、数千年のスパンで、その流れを変遷してきたことを我々に教えてくれます。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その5)
旧荊沢宿の「かねんて」

 昔からの街道筋や、城下町によく見られる道の形に「かねんて(曲尺手(かねのて)、地域によっては鍵の手(かぎのて)とも)」があります。これは、道をつくる際、意図的に曲尺(かねじゃく)のように、直角にクランク状に曲げられた道で、城下町においては、直進的に敵が侵入することを抑制する工夫などのため設けられたと考えられています。街道筋においては、宿場の入り口にはよく見られ、宿場に入る人を吟味するためともいわれますが、実際にはこれを含め、ここから〇〇宿です、ここまでが〇〇宿です、といった宿の境界を画する機能と考えられています。
 
 山梨県内で、「かねんて」といえば、甲府城下町に東側からアクセスする旧甲州街道(現国道411号 城東通り)のJR身延線「金手(かねんて)」駅付近と善光寺駅付近のふたつの「かねんて」がよく知られていますが、実は「かねんて」は、現在の南アルプス市内にもいくつか存在します。

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【図1】甲府城下町のかねんて(国土地理院発行1/2500「甲府」

 
 
 南アルプス市の市街地を南北に貫く県道42号 韮崎南アルプス富士川線(※)は、かつて駿河(静岡県)と信濃(長野県)を結ぶ街道として駿信往還(すんしんおうかん)、古くは信濃路、西郡路(にしごおりみち)、などと呼ばれ、信濃からの甲州街道を韮崎宿で分岐し、現南アルプス地内の荊沢(ばらざわ)宿を経て鰍沢宿へ至る街道で、鰍沢から先は、江戸初期に角倉了以(すみのくらりょうい)が開削した富士川舟運を介して駿河国岩淵、さらには江戸へと通じていました。
 その駿信往還荊沢宿の上下、さらにはその北側にある下宮地村と小笠原村の境(神部神社付近)に設けられていたのが、南アルプス市内に残る「かねんて」です。
 

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【図2】県道42号線(旧駿信往還)の位置」

 
 
 まず、荊沢宿「上(かみ)のかねんて」。これは、現在も荊沢地区の北端、古市場地区との境目に明瞭に認めることができます。その西側には近年まで国の登録有形文化財である老舗和菓子店「松寿軒長崎」が営業していたほか、かつて北側には風呂屋、東側には食堂があり、地域の方の話では、その周辺は、夕方になると、どこからともなく人々が集い、憩う、とても賑やかな場所だそうです。

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【図3】荊沢宿のかねんて

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【図4】『荊沢村絵図(部分)』 上下の「かねんて」がみえる。山梨県教育委員会1986『河内路・西郡道』所収

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【写真1】上のかねんて

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【写真2】松寿軒長崎(国登録有形文化財)」

 
 
 一方の「下(しも)のかねんて」は、明治7年(1874)の改修工事により解消され、直線化されてしまいましたが、地域の古老の伝聞によって、その位置を知ることができました。それは荊沢地区の南端、坪川に架かる大明橋の直前を東に折れ、すぐまた南に曲がった小径で、その道幅は2間(約3.6m)程。当時のままだと伝えられています。 

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【写真3】下のかねんて」

 
 
 実はこの改修工事の際、「上のかねんて」、さらにそこから北に1600m程のところに設けられた下宮地村と小笠原村との境界にあった神部神社のところの「かねんて」も、同時に直線化される計画だったようですが、地域の反対により頓挫しています。地域の人々の「かねんて」への愛着でしょうか。現在、神部神社の「かねんて」にはショートカットが設けられ、線形がやや緩やかになってしまいましたが、クランク状の旧道は今も残されています。

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【図5】神部神社のかねんて

 

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【写真4】かねんて取り除き反対の願書(下宮地村) 『甲西町誌』所収

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【写真5】神部神社のかねんて 左側の道が旧道」

 
 
 現在のような自動車社会になると、見通しの悪い「かねんて」は事故や渋滞の原因ともなり嫌われがちですが、幸か不幸か中部横断道や甲西道路というバイパスができた現在、移動や物流のスピードはそちらに任せ、旧道は旧道の風情を残し、ゆっくりとその道の曲がりを感じ、今だ残る街道の風情を味わうことができれば素敵だとは思わないでしょうか。
 
※旧国道52号線、通称富士川街道。現在はそのバイパスで、中部横断道と平行して走る甲西道路の開通により、国土交通省管理の一般国道から山梨県管理の県道として平成28年(2016)に移管され、県道42号 韮崎南アルプス富士川線となった。 

 

訪れてみたい方のために・・・・
神部神社のかねんて:南アルプス市下宮地563付近
上のかねんて:南アルプス市荊沢319付近
下のかねんて:南アルプス市荊沢989付近

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その4)
道路が、家の敷地より高いところにある源地区の街角

 前回まで3回にわたり、南アルプス市の南部に位置する甲西地区の、何気ない街角の風景から、天井川と隧道、河川の立体交差と樋門、樋門を逆流する洪水と村の移転といった、人と水とのかかわりの歴史を見てきました。今回は、視点をぐっと転じ、市域北部、源地区(南アルプス市有野地内)に目を向けてみます=(写真1)。

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【写真1】源地区空撮 御勅使川から分水された用水路が放射状に見られる。東側には、寛文10年(1670)に開削された用水路「徳島堰」が弧状に地域を縦断している

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【写真2】・【写真3】源地区の街角

 写真2・3は、源地区にある何気ない街角の写真です。別に変わったところもなさそうですが、よくよく見ると、道路が周囲の家の玄関より高く、二階の高さになっていることが分かります。写真2に写る車庫も二階部分から道路にアクセスしています。地域の方の話では、このような状態のため、雨が降る度に道路から敷地に水が流れ込み、難儀をするのだといいます。ではなぜ人々は、わざわざこのような場所に居を構えているのでしょうか。
 
 実はこのような景観は、元々あったわけではなく、地域の人々の長年の自然への働きかけの結果、自ら招いてしまったものだと推定されています。これら道路には、御勅使(みだい)川から分水した、セギ(用水路)が沿って流れていますが=(写真4)、そこに砂がたまる度に、これを浚(さら)って周囲に捨てる「セギサライ」が繰り返された結果だというのです。浚った砂が周囲にたまり、地面が高くなる度に、セギをより上に付け替えることが繰り返されたのでしょう=図1。いわばミニ天井川というわけですが、市域でも源地区周辺に顕著にみられるこの景観から、半径10キロに及ぶ大扇状地を形成した御勅使川の運搬する砂礫の量をうかがい知ることができ、最新の標高地図でもその様子をはっきりとらえることができます=(図2)。

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【写真4】徳島堰絵図(江戸時代) 御勅使川から分水された用水路が村を横断している

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【図1】道路が家より高くなってしまう理由(アニメションで説明します)

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【図2】国土地理院5mメッシュ標高データをもとに作成

 このように、甲西地区に著しい天井川が生まれ、隧道や樋門、排水機場が必要になったのも、源地区の道路が高くなったのも、市街地西側の山岳地帯が、非常に崩れやすい地質であり、そこから流れ下る諸河川により、わが国でも有数の土石流地帯であったことに起因します。これまでもこの欄で紹介してきましたが、それを象徴するように、市域西側の山岳地帯には明治時代、わが国で初めて行われた県営砂防工事により市之瀬川の石堤(詳しくは、2011年10月17日根方の魅力(8)~市之瀬台地の「市之瀬」って?)が築かれ、続く大正時代には、わが国初の本格的コンクリート堰堤(砂防ダム)である芦安堰堤(詳しくは、2008年10月31日 近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提)が国の直轄事業として御勅使川に築かれました。このような全国の先駆けとなる砂防事業が現在の南アルプス市域で行われてきた事実が、南アルプス市の厳しい河川環境をよく表しています。
 市域の何気ない景観を通じ、厳しい自然環境に対峙し、これに粘り強く対峙してきた先人の歴史や本市の厳しい自然環境に思いをはせることができます。
 
 なお、治水工事が進んだ現在の御勅使川ですが、その上流部では、今も激しい山腹崩壊などが見られ、山梨県により、継続的に山を治め、水を治める努力が進められています=(写真5・6)。

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【写真5】・【写真6】御勅使川上流部の山腹崩壊と砂防工事


 
訪れてみたい方のために・・・・
 今回ご紹介したような景観は、源小学校(南アルプス市有野490)東側のエリアで顕著に確認することができます。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その3)
村落移転の記憶を伝える道祖神

 写真1は、宮沢地区上村小路(わでむらこうじ)の道祖神。この地方では特別珍しいこともない自然石を利用した道祖神さんです。しかしそこに刻まれた碑文は、我々に宮沢地区苦難の歴史を教えてくれます。

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【写真1】宮沢上村小路道祖神

 

前回、天井川囲まれた地域の苦肉の策として、川の下にトンネルを掘って水を抜く樋門の存在を紹介しました。宮沢地区と隣の戸田地区は、西に坪川、東に滝沢川の両天井川に囲まれ、前回ご紹介した五明樋門を利用して排水を行っています。この樋門なくして、これら地区の排水はままならず、地域にとって樋門は必要不可欠なものでした。
 ただ、平時はこれでよいのですが、降水量が増え、排水先の河川の水位が上がると、より低い土地を求め、この樋門を氾濫水が逆流してきてしまいます。アジア太平洋戦争後、排水機場(※注1)が整備される前は、排水に不可欠な樋門を閉じることはできず、逆流による氾濫はしかたないものとして甘受するしかありませんでした=(図1、写真2)。 

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【図1】逆流する理由と排水機場の役割(クリックするとアニメーションで見ることができます)

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【写真2】逆流洪水の様子。下流から遡ってきた氾濫水が宮沢地区に迫ります。向こう側には滝沢川による「川の壁」。写真は、昭和34年(1959)伊勢湾台風の時のもの。移転していなければ、宮沢、戸田の両集落は、この時も完全に水没していました


 
 江戸時代、天井川に囲まれた地域の排水問題を解決するために設けられた樋門でしたが、天井川化が止まらない以上、合流先の河川と集落との標高差は次第に大きくなって行き、これにより逆流洪水の被害も年々増大していきました。近代になり、宮沢地区村と戸田地区は、ついにその被害に耐え切れなくなって村の移転を決断することになります=(図2)。

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【図2】地図に見る村の移転(クリックするとアニメーションで見ることができます)

 

 宮沢地区は明治31年(1898)の釜無川の水害を契機に翌三十二年から四十二年にかけて、土地の低いそれまでの場所(現在の甲西工業団地北側)から、順次北側の清水地内に移転しました。隣接する戸田も同様に、明治四十年代に順次現在の地に移転していきました。実際図2に示すように、明治期と昭和期の地図を比べると、戸田・宮沢の両地区が集落ごと北側に移動していることがわかります。明治三十二年に移転先に新たにまつられた宮沢上小路の道祖神。十年後の明治四十二年に作られたその台座の側面には流転の歴史が刻まれました=(写真3)。

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【写真3】道祖神の脇に刻まれた碑文

 意訳すれば「もとの宮沢区は、地面が低く、水害が多かったので、明治32年、地区の人々が協力して、(移住先の地主)塩澤氏に相談し今の場所に移住した。上村小路は昔のような心配に戻ることがなくなり、まことに良いことだ」となります。

 

 現在も宮沢、戸田地区の大部分の方が居住する場所は、住所としては南アルプス清水になります。平成になって甲西バイパス(中部横断道)建設などに伴って、旧宮沢村の一部で発掘調査が行われ、かつてのここに暮らした人々の痕跡が、当たり前ですが数多く発見されました。その遺物は、ふるさと文化伝承館(現在は改修工事のため閉館中)でも展示されています。なんだ、こんなのウチにもありそう・・・な遺物ですが、これら遺物の存在が、かつてそこに村があったこと、そしてそこに生きた人々が災害を克服して力強く生きた歴史を我々に教えてくれます=(写真4)。

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【写真4】宮沢中村遺跡出土遺物(ふるさと文化伝承館)

 

訪ねてみたい方のために・・・・
 宮沢地区の上村小路道祖神は、国道52号線(甲西バイパス)甲西中学校東交差点の北東(住所南アルプス市古市場8番地付近)にあります。

※注1 排水機場 逆流を防ぐため、樋門を閉じるようになると、樋門の上流側に降った雨水が排出できなくなるので、この水を川へくみ出す施設が必要となる。これが排水機場。施設の中ではポンプが稼動して、堤内地側の水を川へ排出する。詳しくは、2009年6月15日号を参照。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その2)
樋門(ひもん)の記憶

 樋門とは、用水の取り入れ、または排水のためなどに堤防を横切って設けられる通水路(トンネル)です。前回ご紹介した天井川の記憶では、人々の往来のために川の下にトンネルを通していましたが、今回ご紹介する樋門は、川の下に川を通すものです。南アルプス市でも最南端に位置し、標高の最も低い甲西地区周辺には、市域に降った全ての雨や湧き出した水が河川となって集中し、現在もその排水のための樋門が4か所も設けられています。
 
 樋門が必要になる理由は、2009年6月15日号でもご紹介したとおり、河川が集中することから、天井川が流れ下った先でまた別の所を流れ下ってきた天井川が合流し、天井川と天井川に挟まれた、いわば「川の壁」に囲まれた地域ができて、その排水が困難になるためです=図1。

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【図1】樋門が必要な理由

 

 その中で、かつて天井川であった滝沢川と坪川に囲まれた地域については、排水が困難だった戸田、宮沢、大師村のための「三ヶ村悪水吐口」という言葉が天明7年(1787)の史料に見えることから、すでにこれ以前から樋門による排水が行われていいたことがわかります。
 
 当時は、木樋だったと考えられますが、これを明治22年(1889)に、石組みのアーチ構造で改修した際に、樋門の入口に掲げられていたのが現在残されるモニュメントです。「永享豊潤(水の恵みを永く享受する)」という人々の願いとともに、この樋門の改修に尽力した地域の有力者の名などが刻まれています=写真1・図2。

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【写真1】永享豊潤の碑

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 【図2】石組樋門の想像図

 

 記録によれば当時、アーチの直径は七尺五寸(約2.3m)と、幅10m、高さ3.5mとなった現在の樋門に比べるとずいぶん小さなものでしたが、これにより「宮沢、戸田の部落では樋門から抜け落ちる水音が聞こえた」との古老の話が残るとおり、排水が大幅に改善し、当時としては画期的なものであったことがわかります=図3。

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【図3】五明樋門の移り変わり
 
 石組みの樋門は昭和39年(1964)から始まった改修工事よって、コンククリート製となり大型化される過程で姿を消しましたが、天井川と低地の排水に腐心した人々の歴史を伝えるモニュメントとしてその一部が残されました。平成20年(2008)に樋門はさらに大型化されて現在に至りますが、現在もその傍らで地域の歴史を伝えています。
 
 河川を立体交差させて排水を図る工夫は、全国にみられますが、ここに示したような=写真2、これほどの数の河川が複雑に重なる例は全国的にも稀なのではないでしょうか。まさに、水に苦しみこれを克服してきた本市の成り立ちを象徴する景観といえます。永享豊潤の碑はその歴史を象徴するモニュメントなのです。

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【写真2】 市域南部の河川

 

訪ねてみたい方のために・・・・
 
 永享豊潤の碑は、五明樋門改修工事の解説板とともに、南アルプス市東南湖の南端、国道140号線を三郡衛生組合火葬場(ふじかわ聖苑)の所で南に折れた先、現在の五明樋門の傍らにあります=写真3。

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【写真3】碑のある場所

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

何気ない街角に歴史あり(その1)
隧道(ずいどう)の記憶

 今回からは数回にわたり、路傍の何気ない石造物や風景をとりあげ、知っている人は知っているけれど、知らなかった人には「これはそういうものだったのか!」と言ってもらえるような、そんなものを紹介していきたいと考えています。

 まず第1回は、甲西地区の滝沢川沿いにぽつんと置かれた隧道(ずいどう)の銘板です=写真1・2。隧道とはトンネルのことで、銘板はその出入口の掲げられた隧道の名称板です。現在周囲を見渡してもトンネルは見当たりませんが、この銘板の存在が、かつて滝沢川が天井川だった時代、ここにその下を通るトンネルがあったことを教えてくれます。

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【写真1】南湖隧道の銘板(なんことんねる/南湖隧道)

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【写真2】田島隧道の碑と銘板

 南アルプス市域は、西側に崩れやすく急峻(きゅうしゅん)な山々を持つことから、日本有数の土石流地帯といわれています。この急峻な山々から流れ下ってくる河川から身を守るために堤防を作るわけですが、水の流れが堤防により狭い河道の中に閉じ込められるようになると、山から運ばれた大量の砂礫は行き場を失い、河道内に堆積して川底を押し上げてしまいます。そこで、人々は川底が埋まるたびに堤防のかさ上げをすることになり、このような人々の絶え間ない川への働きかけの結果形成された天井川=図1が、市域には数多く存在しました。天井川については、2009年5月15日号でも触れていますが、滝沢川もそのひとつです=写真3。

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【図1】天井川のでき方

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【写真3】滝沢川(天井川だった頃、奥に見える本乗寺のお堂より上を川が流れていた)

 天井川は、その名のとおり、屋根より高い位置に川が流れてしまうことで、一度氾濫すると洪水流が川に戻ることができず、昔からこの地域に大きな被害をもたらし、人々を苦しめてきました。また、生活面より河川が高い位置にあるので、生活排水や耕地からの排水も困難になるなど他にも様々な弊害がありました。川が高くなってしまったために、その川を人や車が越えることが大変なったってしまったことも、そのひとつといえます。
 
 たとえば、南湖隧道ができる昭和のはじめ頃までは、そこは隣接するお寺の名前から「本乗寺の坂」と呼ばれ、大変な急坂として知られていました。当時貨物自動車さえ上りきれない時があったといわれ、本乗寺で遊んでいると、運送屋のおっちゃんが「おーい、おまんとう早くうしろを押してくりょう」といえば、荷車の後ろを押してやっては駄賃をもらったなどというエピソードも残されていいます。
 
 そこで、近代(昭和)以降、川の下に隧道が掘られるようになり、人々は川の下を往来するようになったのです。南アルプス南部の甲西地区には、滝沢川に北から田島、和泉、南湖の3か所、坪川に1か所、かつてその隧道がありました=図2、写真4~6。現在は、地域の人々の悲願により、昭和46年(1971)から平成2年(1990)まで、実に二十年近くをかけた工事により河道の切り下げが行われ、天井川はその多くが解消され、隧道は姿を消していますが=写真7・8、かつて隧道のあった西南湖地区と田島地区には、その苦難の歴史を伝えるように、その出入口に掲げられた銘板が記念碑としてのこされているのです。なにげない街角に残されたモニュメントが、かつて天井川と戦った地域の歴史を伝えています。

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【図2】滝沢川の隧道の位置(昭和34年)

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【写真4】田島隧道(矢印は銘板)

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【写真5】南湖隧道(矢印は銘板)

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【写真6】和泉隧道(矢印は銘板)

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【写真7】滝沢川(現在の様子)

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【写真8】かつて南湖隧道のあった場所、現在は橋が架けられている(その前は、本乗寺の坂と呼ばれる急坂だった)

 なお、和泉隧道の銘板も、現地にこそ残されていませんが、南アルプス市教育委員会に歴史を伝える資料として大切の保管されています=写真9。

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【写真9】和泉隧道の銘板(南アルプス市蔵)

 
 さらに余談ですが、田島隧道の記念碑のすぐ前に打たれた、赤い鋲(びょう)=写真10の矢印は、JR東海が打ったリニア中央新幹線の予定ルートのセンターラインを示す鋲です。滝沢川の下を通る田島隧道があった場所は、十数年後、今度はリニア中央新幹線がその上を越えていくことになりそうです。

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【写真10】田島隧道の碑とリニアルートを示す鋲(矢印部分)

 
訪ねてみたい方のために・・・・
南湖隧道の銘板=南アルプス市西南湖4235-1付近(本乗寺北側)
田島隧道の記念碑・銘板=南アルプス市田島1251-1付近(田島地区公会堂の脇)
 
※滝沢川改修前の写真と隧道の写真=山梨県土木部ほか1990『改修工事記念誌 たきざわ川』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(二)

 前回、御勅使川扇状地上の干ばつ地帯へのアプローチのひとつとして、江戸時代の寛文10年(1670)に開削された「徳島堰(とくしませぎ)」があり、これにより多くの水田が拓かれ新しい村が生まれた一方で、その水は広大な砂礫の大地全体を潤すには至らなかったことを記しました。しかし徳島堰の水が利用できた地域でも、雨が少なければその量は必ずしも十分ではなく、しばしば村同士の水の奪い合いも起こっています。
 
 有野地区にある桝形(ますがた)堤防は、北側の韮崎市域から御勅使川を暗渠(トンネル)構造で横断して南アルプス市域に導かれる徳島堰の水を、御勅使川の河道内で六科地区に分ける目的で設けられた分水点を守るV字形の堤防です=写真1、写真2。全国的にもユニークな施設として、同じ御勅使川旧堤防の「石積出(いしつみだし)」、「将棋頭(しょうぎがしら)」とともに国指定の文化財になっています。実はその調査の際、堤防上の石が一部方形にはぎ取られていることが分かり、地域での聞き取りの結果、それがより多くの水を下流に流すために、御勅使川を横断する暗渠を潜ってこの分水口を塞ぎにくる下流の村の人々に対する見張り小屋を設置するためだったことが明らかになっています。ただでさえ少ない水を守るために、そこで夜中水番をしたのだというのです=写真3。 

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【写真1】桝形堤防

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【写真2】桝形堤防の仕組み

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【写真3】見張り小屋跡からの眺めとその思い出を語る語り部

 
 水番の莚の上の晴夜かな
 
 一方で、扇状地を伏流した水が湧き出す扇端部は、豊かな水に恵まれるだけではなく、水田地帯(田方)と畑作地帯(原方)の接点として、交流の場ともなりました。そこには山岳地帯の山方(やまかた)、山麓地帯の根方(ねかた)の人々も集まり、それぞれのエリアの産物が交換されました。その名残が現在も毎年2月10、11日に、この田方と原方の境界線である県道韮崎甲斐中央線で開かれている「十日市」です。その起源は少なくとも戦国時代にさかのぼることが明らかにされています。この市の成り立ちもまた、御勅使川扇状地の田方、原方という自然環境が必然的に生み出したものであることが分かります。

 十日市では昔から、ないものは「猫の卵」と「馬の角」といわれ、あらゆるものが売買されてきましたが、中でもよく知られているのが、現在の富士川町平林など、根方や山方でつくられる臼や杵、はしごなどの木製品でした=写真4。

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【写真4】十日市の風景


 臼売が木の香はらひてゐる寒さ
 きさらぎの麓よく見え梯子市
 
 御勅使川へのアプローチは、近代になっても続き、昭和初期になると、養蚕の盛行に伴って、それまで集落と集落を隔てていた椚林や松林がことごとく伐採され、一面の桑畑となりました。この大開拓に伴う景観の劇的な変化は、明治、昭和の地図を比べてみるとよくわかります。そしてこの時開墾された桑畑が、戦後スプリンクラーによる灌漑の導入で、一斉に果樹園に転換していくのです=図1。

 この地域の民謡「西郡盆唄」に、「木綿たばこでならした里が庭の先から桑の海」の一節がありますが、これはまさにこのような状況を唄ったものなのです。

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【図1】クリックすると、明治21年、昭和4年、平成15年の土地の利用状況をアニメーションで見ることができます。地図の色分けは、緑=椚林・松林、茶色=畑、黄緑=桑畑、ピンク色=果樹園

 
 
 枯れはてて隣部落の墓見ゆる
 
 はるか遠くまで見通せる御勅使川扇状地上の雄大な景観は、実は地域の人々の御勅使川扇状地への働きかけの結果、昭和初期以降につくられたものだったのです。

 その障害物のない広大な平坦地であった御勅使川扇状地には、アジア太平洋戦争末期に「ロタコ」の暗号名で呼ばれた陸軍の秘密飛行場を中心とする施設群が造られました。そして現在も痕跡を残すその滑走路は、まっすぐに八ヶ岳に向かって伸びています=写真5。これは偶然ではなく、横風を嫌う飛行機の離着陸に対し、冬季の強烈な季節風「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)」を意識したものでした。

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【写真5】八ヶ岳に向かって真っすぐ伸びる滑走路跡

 
 岳おろし首捥ぎとらる六地蔵
 眠る田に三日つづきの嶽颪
 
 はるか八ヶ岳から御勅使川扇状地に吹き降ろす凍てついた、そして時に数日にわたって吹きすさぶ八ヶ岳颪。その遮るもののない強烈な風に、市域に生きた人々は苦しめられ続けてきました。しかし実は一方で、その風がなければ原方地域の特産であった「さわし柿(干し柿)」の甘味は生まれないのです=写真6。

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【写真6】冬の風待つさわし柿

 
 
 夕陽より山の風待つ百目柿
 
 南アルプス市域に立つと、本当に八ヶ岳まで遮るものがなにもないことが分かります。我々は、そこから吹き降ろす冷たい「八ヶ岳颪」から逃れることはできません。しかし一方で厳しい風土は、強靭な人間性の醸成には欠かせない要素なのかもしれません。

 甲子雄が生きた原方地域以外でも、田方は豊かな水田の恵みを得られる一方、常襲洪水地帯として、根方、山方は日本有数の土石流地帯として人々を苦しめ、やはり人々は様々な工夫でそれを切り開いてきました。すべては、もろく崩れやすい急峻な山地とそこを流下する河川の営為。そこで醸成されたのが南アルプス市(西郡)の風土です。
 
 私たちは、福田甲子雄の俳句を通じ、1000年を超える先人の飽くなき開拓志向を見ることができます。そしてその先人のたゆまぬ努力の上に、現在の南アルプス市の豊穣は生み出されているのです=写真7。

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【写真7】1000年のアプローチの最終回答「果樹栽培」

 
 
 袋より紅はみだして桃熟るる
 
 南アルプス市立図書館に併設された「ふるさと人物室」。平成30年4月21日からはじまる第4回展示は「俳人福田甲子雄×風土」です。こちらもぜひご覧ください。(おわり)
 
 
※本稿は、福田甲子雄を記念して行われている「花曇ふるさと俳句大会」の第3回大会において文化財課職員田中大輔がおこなった講演「俳句の生まれる風土―甲子雄の愛したふるさと―」およびその後、同句会を主催する「今-KON-」の機関紙2003年夏(第2号)に掲載された同名の講演記録の一部を再構築したものです。
※引用句はすべて福田甲子雄の作品です。

【南アルプス市教育委員会文化財課】