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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~

 11月になると南アルプス市では、庭先や道端、畑などのあちこちで橙色や朱色に染まったさまざまな柿を目にします。馴染みのある風景であるがゆえに、あまり目を止めることはないかもしれませんが、南アルプス市が誇るべきふるさとの晩秋の情景です。今回は柿の歴史をひもときます。

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 原産地は中国と言われています。日本では奈良時代以降、さまざまな文献に登場し、平安時代中期に編纂された『延喜式』(927)には「柿五百株」、「干柿子二連」、「柿子六連」などの文字が見られます。当時、すでに柿が栽培され、干し柿が作られていたことがわかります。

 市内では、野牛島に位置する野牛島・西ノ久保遺跡の平安時代の住居跡(Ⅰ区12号竪穴)からカキノキ属の種子が発見されています。またⅣ区土坑でも同様の種子が出土しました。市内でもこの時期にはもう柿が食べられていた可能性が高いのです。市南部の沖積低地に位置する大師東丹保遺跡からは鎌倉時代の柿の立木跡が発見されていて、柿の栽培が行われていたことがわかっています。

 江戸時代に柿は甲斐国の名産品となりました。『甲斐叢記』(1848)では「峡中八珍果」として葡萄、桃、梨、柿、栗、林檎、柘榴(ザクロ)、胡桃が挙げられています。また、江戸時代の甲府のガイドブック『甲府買物独案内』を見てみると、菓子屋の看板に「当国名産 果物所」と銘打ち、「大和御所柿」や「枝柿」という名の柿の他、当時のスイーツである「柿羊羹」も売られていました。

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【図】峡中八珍果『甲斐叢記. 前輯1巻』 国立国会図書館

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【図】甲府買物独案内

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【図】甲府買物独案内

 

 市内に目を向けると、御勅使川扇状地の扇央部に立地し、「お月夜でも焼ける」とうたわれた常襲干ばつ地域の原七郷(上八田、西野、在家塚、上今井、吉田、桃園、小笠原)の特産品として柿が記されています。天保8年(1837)の「原七郷七種産物書上帳」(『白根町誌 資料編』)に、渋柿、煙草、椚薪、牛蒡、大根、冬葱と列挙されています。さらに、「渋柿は国中目籠を以野売致来り申候」とあり、換金作物として国中一帯に柿を売り歩いていたことがわかります。柿は換金作物でもあったのです。そのため、広範囲に行う野売りが各地で起こした揉め事は少なくなかったようで、原方七ヶ村で商売について規則を示す定書きが残されています。
 
 原七郷だけでなく、御勅使川扇状地南部に位置する鮎沢村も柿の産地として知られていました。『甲斐国志』の「西郡相沢村ノ産ナリ、松平甲斐守十二月二献上セリ、又餌袋トモ名ケ是モ乾柿モニテ核ヲ援ミ出シ去ル故二袋ト云ヒ、白霜生シテ甘美ナリ」の記述から、干柿が作られていたことがわかります。

 幕末に江戸幕府が開国し、海外との取引が本格化すると、山梨の特産物である柿を輸出する動きも生まれました。安政6年(1859)笛吹市旧東油川村出身の甲州屋忠右衛門が、貿易商社を横浜に開設することを役所に願い出た文書に、その取り扱う商品として「ころ柿、葡萄、梨、御所柿」を挙げています(『甲州食べもの紀行 ~山国の豊かな食文化~』山梨県立博物館)。

 近代に入ると、全国各地で栽培されていた柿について、本格的な調査と研究が行われるようになります。大正3年に刊行された『乾柿搗栗製造全書並果実栽培法』では、柿は果樹の中で最も種類が多いものとされ、農商務省農事試験場が明治44年までに全国から収集し品質試験をしたものだけでも三千種に達したといいます。同書の中で、富士柿中の百目という種は山梨県原産で、「風味は蜂屋柿に譲ることなし、水分に至りては蜂屋柿よりも大きを見る。(中略)乾果用種中大果なるものは富士並に祇園坊に及ぶものなく最も有望なる品種と言う可し」と書かれています。

 この記述のとおり、後に大和百目と呼ばれる柿の始まりは山梨であり、さらに言えば南アルプス市なのです。大正初期、西野の手塚光彰が今諏訪の大きな実をつける百目柿の古木に注目し、大正7年3月に西野字北組に接ぎ木して植え付けました。この大和百目は手塚家に代々受け継がれていきますが、息子の光司は干し柿を作るための火力乾燥法を研究し、昭和9年にその開発に成功します。これによって枯露柿の品質が飛躍的に安定しました。昭和11年1月8日付け東京朝日新聞の山梨版には「輸出枯露柿万歳!火力乾燥に成功す」と一面で報じられています。

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【写真】現代の大和百目 西野

 幕末から始められた柿の輸出は、明治以降も試行錯誤が繰り返されました。明治44年度の山梨県立農事試験場の業務年報によれば、前年度から柿輸出試験が行われています。生柿では百目柿と甲州御所、樽柿として衣紋柿を上海に、乾柿では作り方が異なる百目柿白製、蜂屋柿白製、百目柿紅製を上海やウラジオストック、サンフランシスコ、バンクーバーへ送り出しました。

 模索し続けた柿の輸出も、昭和に入ると軌道に乗り、本格的になります。火力乾燥法に成功した西野の手塚家では、昭和10年に三井物産KKを通して、アメリカ本土とハワイに枯露柿を輸出していました。「korogaki」と記されたその当時のラベルが今も使われています。

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【写真】西野の叶屋(手塚家)で戦前から使用されたラベル。海外用に「korogaki」と書かれている


 市北東部に位置する上高砂も枯露柿の生産が盛んな地域です。清水家に残された高砂枯露柿出荷組合の出荷風景を写した写真には、「シアトル」や「サンフランシスコ」の印字がある木箱が見られ、やはりアメリカへ、昭和初期に輸出を行っていたことがわかります。

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【写真】上高砂 柿出荷風景 昭和初期

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【写真】上高砂 柿出荷風景・昭和初期「DRIED-PERSIMMONS」と印字されている

 

 太平洋戦争中に途絶えた海外輸出は、戦後西野で再び始められました。昭和21年にハワイの日系人から要望され、クリスマスケーキのデコレーション用として輸出された記録が残っています。

 現在の柿の輸出はかつてほど盛んではありませんが、市内では今も、甲州百目、大和百目、ひらたね、勝平などさまざまな柿が栽培されています。「あまんどう」という豆柿やかつて茶菓子に使われた「にたりがき」など、現在ほとんど見ることができなくなった種もかろうじて残っています。

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【写真】あまんどう 芦安地区

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【写真】甲州百目 上八田

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【写真】大和百目 西野

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【写真】勝平 上八田

 

 日本の人々は長い年月をかけてさまざまな種を生み出し、さらに加工技術を磨いて柿に向き合ってきました。おもしろいことに、日本語の「かき」は、フランス語とドイツ語でも「kaki」、スペイン語とポルトガル語でも「caqui」、イタリア語でも「cachi」と呼びます。これはヨーローッパやアメリカには日本と同じ柿が存在せず、戦国時代にポルトガル人が日本から持ち込んだことから、「かき」が外来語として定着したのだと考えられています。 この時期そこにあるなにげない色鮮やかな風景ですが、こうした柿の多様性は今後世界と南アルプス市をつなぐ大きな可能性を秘めているのかもしれません。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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