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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

俳人「福田甲子雄」にみる南アルプス市の風土(一)

 平安時代の『古今和歌集』に「君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは」と詠われた、雪を頂く南アルプス連峰と、そのふもとに広がる南アルプス市。その南アルプス市を代表する俳人、福田甲子雄(きねお)。その作風は、ふるさとの自然と生活に根ざした風土性にあるといわれます。彼が生まれ育ったふるさとは、現在の山梨県南アルプス市飯野。ついひとむかし前までは白根町飯野でした。

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【写真】福田甲子雄(乾燕子氏撮影『今-KON-』創刊号所収)


 よく「ふるさと」と一口に言ってしまいますが、彼の場合だったら生まれた地区である飯野(旧近世村落飯野村)、白根町(平成の町村合併前の旧町村)、南アルプス市、山梨県・・・と、人は同心円状に重なる複数のふるさと意識を己のアイデンティティーの中に内包しているものです。
 その中で、昭和2年(1927)に生まれ、平成17年(2005)に没した彼が、平成15年(2003)の4月1日に6町村が合併して誕生した「南アルプス市」というなんとも斬新な自治体の名のもとにあったのは、その最晩年のわずか二年あまり。この間に彼が「南アルプス市民」という実感を持ちえたかどうかわかりません。
 
  町名の消ゆるふるさと万愚節(※万愚節=エイプリルフール)
 
 しかし、その名こそ斬新でしたが、甲府盆地西部一帯を占めるその領域は、近世に成立した山梨独特の行政区分「九筋二領(くすじにりょう)」でいうところの巨摩郡西郡筋(にしごおりずじ)にほぼ重なり、かねてから一体として捉えられてきた地域でした。
 したがって、甲子雄が南アルプス市民としてのアイデンティティーを獲得していたか否は別にして、この地域に生きる多くの人々(おそらく福田甲子雄も)が、漠然と、しかし根強く「西郡(にしごおり)」という領域アイデンティティーをもっていたことは、少なくともある年齢以上の山梨県人にはわかってもらえることと思います。
 一方で、一体の領域を持ちながら、実は多様な地形からなる西郡では、それぞれの地形を、山岳地帯の山方(やまかた)、山麓地帯の根方(ねかた)、扇状地上の旱魃地帯である原方(はらかた)、氾濫原などの水田地帯である田方(たかた)と、それぞれ分けて呼びならわしてきました。そして、このような多様な地形に根ざした人々の暮らしは、西郡という一体の意識をもちながらも、それぞれの地勢特有の自然に対峙し、それを克服する中で、個性ある風土を紡ぎだしてきました。今回からは、甲子雄の詠んだふるさとの自然と生活に根ざした佳作を手掛かりに、そんな西郡(=南アルプス市)の風土を振り返ってみたいと思います。

 まずは、彼が生まれ育った原方。そこは急峻な山岳地帯の山肌を削りながら流れ下ってきた御勅使川が造りだした東西7.5km、南北10kmに及ぶ砂礫の大地。御勅使川が山を削り運んだ砂礫の厚さは、所によっては100mを越えています。そのため、流れ下ってきた河川や降雨は地下深く浸透し、扇状地の上は、近年まで飲料水にも事欠くほどの大干ばつ地帯でした。
 一方で伏流した水は扇端部で湧き出し、弧状に連なる湧水帯を形成して、そこが水稲耕作の伝播とともに、人々の暮らしの中心となっていきます。南アルプス市の遺跡分布を見れば、現在でもその湧水線に沿って弥生時代以降の遺跡が濃密に分布していることが分かります。【図1】

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【図1】 南アルプス市の地勢と遺跡分布

 この湧水帯にある加々美地区の法善寺の住職でもあり、俳誌「雲母」の代表的な俳人でもあった今村霞外(かがい)に次の句があります。
 
  故郷の噴井ぬくとき睦月かな
 
 法善寺境内のこの噴井(ふけい=勢いのよい湧き水)は、弘法大師が湧かしたとの伝説もあり、平安時代末には甲斐源氏加賀美遠光がこの湧水を囲んで館を構えます。神聖な湧水として、おそらく2000年以上にわたってこの地を潤してきたことでしょう。

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【写真】法善寺の噴井

 原方地域、つまりは扇状地上の開発が、本格的に始まるのは平安時代の9世紀中頃。扇状地末端で力を蓄えた人々や、中央、地方の有力者などよる総合開発が試みられたことが、発掘調査の成果からわかっています。その開発手法のひとつが、扇状地上の干ばつ地帯にも適応した牛馬の飼育=牧(まき)の設置でした。後に八田牧(はったのまき)と呼ばれる牧の中心的集落であった「百々(どうどう)遺跡」からは、発掘調査の結果、多様な遺物とともに牛馬の骨が100体以上出土しています。

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【写真】百々遺跡出土の馬の骨(平安時代)

  遺跡掘る北吹く底に馬の骨
 
 八ヶ岳おろしの吹きすさぶ中、甲子雄が見た馬の骨は、平安時代に牧という手法で扇状地の開発を試みた、祖先たちのフロンティアスピリッツを象徴する遺物だったのです。

 八田牧が、おそらくは御勅使川の水害によって廃れたあと、扇状地への次のアプローチは、江戸時代初期期の用水開削でした。寛文10年(1670)に開削されたこの用水、「徳島堰(とくしませぎ)」によって、多くの水田が拓かれ、飯野新田、曲輪田新田など新しい村も生まれました。しかし、この試みを持ってしても、この広大な扇状地全体を潤すことはできず、徳島堰の通水によってもなお、水を得られなかった扇央部の七つの村は原七郷(はらしちごう)と呼ばれ、近年まで「原七郷はお月夜でも焼ける」と称されるほどの干ばつに苦しみ、戦後水道が整備されるまでは「ため池」がたよりの飲料水にも事欠く状況でした。

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【写真】徳島堰

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【写真】徳島堰で潤った村(青色)と原七郷(赤色)

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【写真】原七郷のため池(上八田)


  原七郷篠つく雨も喜雨のうち
  石神になる旱魃の続くとき 
 
 しかしそのような中でも、人々は砂礫の大地を耕し、粘り強く糧を得てきました。
 
  畑の石拾ひ拾ひて薯を植う
  男は耐へ女は忍ぶ北おろし
 
 因みに、御勅使川扇状地上でよくみられる農具、「野牛(やんぎょう)」や「夫婦犂(めおとすき)」は、これまで扇状地の砂礫、粘土といった重い土を起すため、この地域特有の農具として発達したと考えられてきましたが、最近の研究では、その形状や形質から、そのルーツが古代朝鮮半島にあった可能性が指摘されています。南アルプス市域が属していた古代「巨麻郡」は、その名(コマ=高麗)のとおり、西暦688年の高句麗滅亡の際に、朝鮮半島から日本に渡った難民が入植した地域のひとつと推定されていますが、その時彼らが持ち込んだ農具が「野牛」や「夫婦犂」の原型だというのです。民俗学の立場からは、9世紀の「牧」の開拓前に、この地に開拓の烽火が上がっていたことが指摘されています。

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【写真】野牛(やんぎょう)

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【写真】夫婦犂(めおとすき)

 甲子雄の生まれ育った飯野地区(旧飯野村)も原七郷のひとつ。戦後スプリンクラーの整備により、桑畑は果樹園に変わり、水道が引かれいつでも喉を潤すことができるようになりましたが、砂礫の大地であることに変わりはなく、しばしば昔の面影が顔を出します。
 
  救ひなき茄子に水かけ旅に出る
 
  (次回に続く)
 
 
※ 本稿は、福田甲子雄を記念して行われている「花曇ふるさと俳句大会」の第3回大会において文化財課職員田中大輔が行ったの講演「俳句の生まれる風土―甲子雄の愛したふるさと―」およびその後、同句会を主催する「今」俳句会の機関紙2003年夏(第2号)に掲載された同名の講演記録の一部を再構築したものです。
※※ 特にことわりのない場合、引用句はすべて福田甲子雄の作品です。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

文化財を守る地域の力
~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~

 地域の人々によって、太平洋戦争中続けられた長谷寺本堂改修への取り組み。今回は戦後完成した解体修理事業までの物語です。
 

  GHQ美術記念物課ギャラガー博士の視察
 敗戦後、文化財保護行政もGHQの統制下に入りました。その中心的な人物が、アメリカ人のギャラガー博士です。ギャラガー博士は日本各地の文化財を視察し、戦争で荒廃した文化財の復旧の指示をだしています。そして、戦中からの文部省、県との協議が実を結び、昭和21年10月、ギャラガー博士が長谷寺を訪れたのです。当時10代後半であった中島住職の長女である君易さんは、ギャラガー博士が視察に来た当時のことをはっきりと覚えていました。
 
「軍服を着ていてね。住職の父や檀家の人が対応しました。なにもない時代でね、さといもの羊羹を作ってだしたら、美味しいって喜んでくれたのを覚えてるよ。」

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ギャラガー博士との思い出を語る小暮君易さん

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昭和21年9月25日付 内務省からのギャラガー氏視察文書
 
 当時の新聞にギャラガー博士が長谷寺を視察し、長谷寺復旧を支持したことを伝えています。
 
「昨年十月同寺を訪れた連合総指令部美術記念物係ギャラガー氏が観音堂の国宝的価値を賞賛するとともに修理を要望された」(昭和22年8月1日 『読売新聞』)
 
「廿一年十月調査のため来県したGHQ美術記念物係ギャラーガー博士も美術的価値を賞賛するとともに早急修理を勧告したほどであった」(昭和23年6月8日 『東京毎日新聞
 
 もちろん、この視察を用意したのは、文部省の乾兼松であり、戦時中続けられた地域からの要望と取り組みがあったからです。
 

  大岡實博士の登場
 この結果、昭和22年国庫補助事業による修復が決定されました。これは戦後全国で予定されていた建造物修復事業の中で、奈良県の法隆寺と並び最も早い修復事業です。同年4月24日に国宝建造物修理委員会が組織され、本堂の解体修理が始まりました。この事業で修復の監督となったのが、文部省技官の乾兼松と同じ技官である大岡實(みのる)、現場の主任は大岡の教え子であり韮崎市に住む廣瀬沸(いずみ)でした。
 

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大岡實博士

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廣瀬沸技師(左)と中島住職(右)
 
 本堂の解体修理中に「大永四年(一五二四)林鐘 吉日」と墨書されていた古材が発見されたことから、改築された年代が判明し、さらなる古材の調査を経て室町時代当時の姿に戻すことが決定されました。
 君易さんは当時の様子をこう話してくれました。
 
「大岡先生は何度も来てね。1週間も家に泊まることもあったよ。大岡先生と乾先生は庭の台の上に屋根の古材を置いて、二人で修理の議論してたさ。そうしてこの屋根が真反りに決まったんだよ。」

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長谷寺本堂解体修理写真
 
 戦後全国で大工の人材が不足している中、長野県富士見町乙事の宮大工が、地元で火災にあった諏訪神社再興のために経験を積むため、約5名以上泊り込みで解体修理を担うことになりました。君易さんは小池さんや赤羽さん、藤原さんといった棟梁の名前を覚えています。長谷寺で経験を積んだ宮大工の人々は、後に山梨市の窪八幡神社や甲州市大善寺の修理をも行うこととなりました。

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解体修理中の長谷寺本堂と乙事の大工 足場は解体修理後、山梨市窪八幡神社の修理に利用された
 

 法隆寺金堂焼損と大岡實
 長谷寺の解体修理が順調に進んでいた昭和24年1月26日早朝、やはり修理中の法隆寺金堂が火災に見舞われ、世界的な遺産と言われた7~8世紀の壁画が焼損しました。この時の法隆寺の修理責任者が、大岡實でした。

 法隆寺の火災はその後の大岡の人生のみならず社会全体を大きく変えていくことになります。大岡は法隆寺修復の責任者として訴えられ、文部省を休職となりました。後に無罪となりましたが文部省の職を追われます。法隆寺の経験から大岡は、地震と火災に耐えるため鉄筋コンクリートを利用した伝統的な寺社建築を目指し、東京大空襲で消失した浅草浅草寺の再建を手がけました。一方、法隆寺金堂の火災を契機に、それまで関心の薄かった文化財保護へ世間の注目が集まり、昭和25年に文化財全体を守る「文化財保護法」が成立し、昭和30年に、1月26日が文化財防火デーとして制定され、日本各地で文化財の防火訓練が行われるようになりました。
 

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平成30年1月に行われた地元消防団による文化財防火デー 長谷寺
 

 
長谷寺解体修理の完成
 昭和25年長谷寺の修理は無事完了し、3月18、19日に檀家、近隣の町村長、乾技官や廣瀬技師など多くの人々が見守る中、落成式が盛大に行われました。そこには大岡が重視した中世建築を象徴する美しいカーブを描く屋根が見事に再現されていました。落成式からしばらくたって大岡は長谷寺を訪れ、完成した本堂を見ながら君易さんにこんな言葉を残したそうです。「この屋根は関東一の真反りなんです」。

 日本の文化財保護の1頁とも言える本堂の解体修理事業。この事業が成就したのは、戦時中から続けられてきた地域の人々の思いが、さまざまな人々と長谷寺を結びつけたからだと言えるでしょう。

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昭和25年3月 長谷寺解体修理落成式

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上棟式出席予定者名簿

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現在の長谷寺の屋根

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

文化財を守る地域の力
~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語~

 太平洋戦争時、物資不足が深刻化し衣食住すべて不足していた時代に、地域の文化財の復旧を求めた人々の姿がありました。今回は、戦中から戦後にかけて、国宝建造物の復旧にかけた人々の物語です。

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昭和19年11月1日 解体修理以前の長谷寺

 
 天平年間開創と伝えられる榎原、真言宗の古刹八田山長谷寺。本堂は入母屋造桧皮葺で、中世建築の代表と高く評価され、明治40年8月28日には国宝に指定されました(昭和25年文化財保護法の制定により現在は重要文化財)。本堂には厨子の中に平安時代、一木造りの十一面観音立像が祀られています。大正時代を経て昭和初期になると、本堂桧皮葺の屋根はめくれ上がって雨漏りがひどく、壁には穴が開き、国宝とは名ばかりの危機的な状況となっていました。檀家を中心とした地域の人々はこの状況を憂い、本堂の改修を決意し、その第一歩として新たな住職を招くことが決まりました。白羽の矢がたったのが、以前長谷寺の住職を務めていた茨城県東茨城郡茨城町西光寺の中島弘智住職です。昭和16年、中島住職を長谷寺に迎えると、檀家の人々は本堂改修へ向けて動きだすことになります。

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左から3人目が中島弘智住職、中央が乾兼松技官

 
 しかし時代は、昭和12年から日中戦争が始まり、さらに昭和16年12月8日英米に日本は戦線布告し、泥沼の太平洋戦争に突入していきます。外国からの輸入は途絶え、さまざまな物資が戦争に費やされたため、物資不足が深刻化し、昭和16年には金属回収令が出されるなど、政治、経済、教育、生活すべてが戦時体制に組み込まれた時代でした。そんな中でも、長谷寺を支える檀家の人々は、本堂改修を諦めませんでした。
 
 長谷寺に残された『国宝本堂維持修理関係書』。ここに本堂改修に関わる資料や改修までの日誌が綴られています。この記録を基に当時の様子をひもといてみましょう。
 
文部省技官乾兼松の調査
 昭和17年9月1日、長谷寺から文部省に技術官派遣願が提出されます。これを受け、文部省教化局で対応したのが乾兼松技官です。乾は戦前から戦後にかけて、日本を代表する建造物の修理を指導した人物で、戦時中にもかかわらず長谷寺を視察しました。その結果、昭和18年6月30日総工費5万5千円という当時の金としては高額の見積もりが出されました。同年7月2日総代会が開かれ、5万5千円の修復料などについて話し合いが始められました。地元負担も多い修復料に対し3日、4日、6日と総代会で協議を重ねられ、ついに7月27日修理断行が決定されました。翌日7月28日山梨県教学課に「本堂修理申請書」が提出され、同時に修復費を捻出するため、7月30日御影村役場外一ケ村役場に「寄付金募集願」が提出されています。
 
昭和19年~昭和20年
 戦争が激化し、日本本土が戦場となる足音が聞こえてきた昭和19年7月29日、中島住職他3名が文部省を訪問し、乾と面談、本堂の実情を訴えました。文部省からは具体的に資材と大工の確保が課題として提示されました。こうした交渉が実を結び、本土への空襲が本格化する12月1日、文部省から乾技官と随行で県係員が長谷寺を訪れ、本堂の調査が再び行われました。そして注目すべきは、翌日2日、乾は八田国民学校へ寄り、国宝建造物の尊さを語ったと日誌に記されています。戦争が激化する中、学校で地域の文化財を守る話が行われたことは、当時として異例のことだったのかもしれません。この後地元では改修資材である杉皮および檜材を平林へ買い入れに行っています。

 年が明けて昭和20年。1日3千人が集められたロタコ(御勅使河原飛行場)の滑走路建設が開始される直前の3月5日、檀家の人々は修理用材について打ち合わせのため上京し、文部省を訪れています。それは3月10日東京が空襲によって焼け野原となる5日前の出来事でした。

 これ以後、日誌は途絶え、戦後の記録となります。日本本土が空襲にさらされ戦場となる中、本堂改修の願いは、敗戦後につなげられることになります。(翌月に続く)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

誰がために鐘は鳴る
~鎮魂と平和を祈る音の原風景~

 真っ白な吐く息がふっと暗闇に吸い込まれていく大晦日の夜。遠くから静かに響く鐘の音が聞こえてきます。もうすぐ新しい年が始まります。
 

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八田山長谷寺(榎原)
 
 寺院の銅鐘は江戸時代に普及し、法要の際には鐘の音が響き、後に時を告げる役割も果たします。一般的に江戸時代のイメージがある除夜の鐘の慣習は比較的新しく、普及するのは近代以降とする研究があります(浦井祥子 2006「江戸の除夜の鐘について」『江戸町人の研究 第六巻』西山松之助編)。それぞれの時代、地域、宗派によって「鬼門を封じる」や「身を清める」、「煩悩を消す」などさまざまな解釈がなされ、人々の祈りが込められてきました。昭和に入るまでに長い時をかけて、鐘の音は地域の風景に溶け込んでいったのでしょう。
 
 しかし、昭和に入ると満州事変を機に日中戦争が始まり、日本の社会全体が戦争を支える体制に組み込まれていきます。戦争下の物資不足を背景に、昭和16年全国に「金属回収令」が出され、門柱や鍋釜などとともに寺院や教会の鐘も供出されました。市内の旧藤田村に残された『昭和十六年度金属特別回収関係簿』には、村長を本部長とし、村の主要な人を総動員して金属回収本部が組織され、9月29日に鉄類約6トン、銅類約0.4トンが回収されたことが記録されています。さらに同年11月には「民間金属類特別回収」が求められ、「鉄と銅特別回収早わかり、鉄と銅捧げて破れ包囲陣、鉄と銅をお国へ捧げませう」という3種類のパンフレットとともに、回収が徹底されたことがわかります(『若草町誌』)。こうした回収は日本全国で行われ、市内だけでなく日本国中ほとんどの寺院の鐘が差し出され、それぞれの地域の「音の原風景」が失われていきました。


 長谷寺の平和の鐘
 南アルプス市榎原に立地する八田山長谷寺は、本尊が平安時代一木造りの十一面観音立像で、雨降りの霊験があらたかと言われ、「原七郷の守り観音」として広く信仰されていました。長谷寺でも太平洋戦争中の昭和17年に享保6年(1721)作の鐘を供出したため、鐘が失われたまま終戦を迎えます。戦後物資が不足する中、中島弘智住職は戦争で亡くなった人々を弔い、これからの恒久的な平和を願って、新たな鐘の鋳造を決意します。昭和28年4月から網代傘に黒衣を着て、錫杖を手に浄財を集める托鉢を始めました。娘の小暮君易さんは、雪の日も、藁草履を履いて托鉢に歩いた父親の姿をよく覚えているそうです。
 

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昭和19年長谷寺

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長谷寺 中島弘智住職(昭和28年ごろ)

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平和の鐘の思い出を語る小暮君易さん「昔から音が良くなると言われててね、喜捨してくれた古いお金や真鍮を鐘に溶かし込んであるんですよ。」
 

  旧11ヶ村5千5百戸をほぼ1年かけて歩き、地域の人々の思いも重なって多くの浄財が集まりました。その資金を基に新たに鋳造された鐘が「平和の鐘」です。題字は、戦前軍縮を進めたことで著名な軍人であり政治家でもあった宇垣一成(うがきかずしげ)に依頼し、君易さんがその書を受け取りに東京まで足を運んだそうです。鋳造所は甲府市の飯室鉄工場、鋳物師は飯室紋吉と藤原政継の名が見えます。梵鐘には奉納者の名前が次のように刻まれ、信仰の広さがうかがえます。

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 昭和29年3月、平和の鐘は完成し、甲府の鉄工所から牛が引く荷車に乗せられ運ばれました。その時あまりに重くて信玄橋で牛がしゃがみこんでしまった様子を、檀家の杉山庄平さんはよく覚えているそうです。同年3月18日の「お観音さん」と呼ばれる春祭りにお披露目され、平和の鐘の音を響かせました。梵鐘の内側には、西郡の集落ごとに、戦没者951名の名前が刻まれました。残念ながら、その後平和の鐘はヒビが入り、現在は本堂西側に安置されていますが、新たに鋳造された梵鐘が今でも時を告げています。

 

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長谷寺平和の鐘

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長谷寺檀家顧問 杉山庄平さん

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平和の鐘内側に刻まれた戦没者の氏名


 鐘に託された人々の思い
 戦後、物資が不足する中、市内の各寺院で、人々の心の拠り所でもある銅鐘が求められました。現在市内に響く多くの梵鐘は、戦後地域の人々の願いによって再生された鐘なのです。
 

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飯野常楽寺で造られた新しい梵鐘。昭和45年鐘楼が改築され、昭和50年に長年の悲願だった新たな鐘が造られた。鐘を撞くのは坡場顧贒住職
 
 12月31日の大晦日。今年も除夜の鐘が市内に響きます。夕暮れに舞い降りた青が黒に変わり、静寂の中に響く鐘の音の風景。さまざまな願いを乗せた鐘の音に耳をすませてみてはいかがでしょうか。その鐘の音は、きっと聴いた人のためにも鳴っているのです。

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 一年間ふるさとメール「連載、今、南アルプス市が面白い」をご覧いただきありがとうございました。来るべき新しい年が皆様にとって佳き年となりますように。
 

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【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

高尾穂見神社の夜神楽
~櫛形山の中腹で太々神楽のパイオニアがたすきをつなぐ~

 11月22日の夜。櫛形山の中腹、標高900メートル。

 市街地から離れ林道を車で10分。どことなく笛と太鼓の音色が近づき、誰もいなかったはずの林道がいつしか人や車であふれ、照明に包まれた穂見神社が闇夜に浮かび上がります。人混みをかきわけ階段を上がるとそこには豪壮な神楽殿で舞われる太々神楽や神子殿の華麗な乙女の舞が目に飛び込み、幻想的な世界が待ち受けているのです。

 今回は、南アルプス市の各地に伝わる太々神楽の大元であり、いわば常に市の伝統文化の活動を引っ張て来たパイオニア「高尾穂見神社の太々神楽」の苦悩と挑戦の物語をご紹介します。
 

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山道を登り集落を超えると突如ライトアップされた赤い鳥居が目に飛び込みます

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境内にある神楽殿もライトアップされひときわ目立ちます(市指定文化財)

 

高尾の夜祭
 山間の小さな集落、「高尾」。江戸、明治とおよそ20~30軒前後の家々が軒を連ねていましたが、急速な過疎化が進み、数年前には2軒にまで減少した超限界集落です。穂見神社の秋季例大祭は「高尾の夜祭」として親しまれ、県外からもこの高尾穂見神社を信仰する高尾講の方々など多くの参拝者が集まるほどの本市を代表する祭典と言えます。このお祭りでかつて夜通し舞われていた「太々神楽」は「夜神楽」として知られ、祭典の代名詞であり、欠くことのできない存在と言えます。
 
※「高尾の夜祭」については2009年11月13日号に、高尾集落や穂見神社については、2011年11月15日号12月15日号にご紹介しましたので、ご覧ください。
 

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撮影された年代は不詳ですが、かなり以前から境内が人で埋め尽くされている様子がうかがえます

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資本金貸しという風習も全国的にも珍しく、もともとは借りた金額の倍額を翌年度にお返ししていたといいます。その資本金の申し込みを行う「資本金扱所」です=写真左、現在では倍返しのところから始めていると考えればわかりやすく、金額を選び、例えば申込書に2000円を添えて申し込むと、この袋の中に祈願された千円札の新札と、「金百萬円資本金章」という章、さらにお札をいただけます=写真右

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高尾の夜祭のお土産と言えばカヤ飴とゆず。この麓の地区の名産だったのです。今も変わらず売られています

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神子(巫女)殿で舞われる巫女の舞には、地元の小学生のほか高尾地区で活動している関係者による舞も奉納されます(南アルプスMTB愛好会提供) 
 
 高尾の太々神楽は少なくとも文化8年(1811)以前にまでさかのぼることができ、高尾集落の住民(穂見神社の氏子)により200年以上絶やさず継承してきました。その間には周辺の集落にも神楽を伝承するなど、本市周辺地域の伝統文化の礎を担ってきた存在と言え、伝統文化の象徴ともいえる神楽なのです。過疎化が急激に進む中で氏子の皆様のご苦労は大変なものだったと予想できます。
 

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伝統を誇るお面の数々。隣接する装束部屋には25にも及ぶお面がおさめられています

 

太々神楽が奉納できない
 そのようなわがまちを代表するような夜祭や夜神楽も、さすがに数戸で維持するのは厳しく、10年ほど前から規模を縮小するなど寂しい状況が続いてきました。さらに追い打ちをかけるように、平成23年、わがまちの伝統文化の象徴ともいえる高尾の太々神楽が危機に陥ります。神楽師の高齢化に伴って舞を構成する人数を確保できず、秋の例大祭での奉納ができない状況となったのです。

 しかし、太々神楽が舞われていない高尾の夜祭はありえないと、かつて高尾のお神楽を伝授された市内の各神楽団体が協力し、なんとか切り抜けたのです。高尾のお神楽を伝授され現在も活動されている場所として、山寺のお神楽と平林(富士川町)のお神楽があります。さらに、山寺からお神楽を伝授されたのが先月ご紹介した古市場のお神楽なのです。つまり、高尾からみると孫の存在といえます。この年から3回、古市場や平林の神楽師の力をお借りし、お神楽の音の響くいつも通りの夜祭を実施することができたのです。
 

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平成24年の平林の神楽師による舞の奉納の様子 

 

高尾の神楽 新たな出発
 ある意味子供たちにあたる団体に協力していただいている間のおよそ2年間、高尾集落では、「高尾で育まれた文化を次世代へ伝え続けるため」の新たなスタートを切るため、準備を重ねてきました。

 平成26年夏、4軒の氏子だけでなく、サポートしたい方々皆で運営できるよう、「高尾穂見神社崇敬会」が発足し、同時に崇敬会神楽部として、それまでの神楽師の子供たちなど麓地域に暮らす30代から50代の若手部員たち9名が加わって、総勢11名で活動が再開できることとなったのです。

 それから毎週日曜日の稽古を繰り返し、なんとその年の秋の夜祭で高尾の神楽部だけによる伝統のお神楽を復活させることができたのです。200年のタスキをつなぐことができた瞬間です。

 その年に舞うことができたのは6演目ほどでしたが、年々奉納できる演目を増やし、翌年には、少人数ではできない「五業」や「四人剣」なども20年以上ぶりに復活し、とうとう昨年には大人数でしかできない「天岩戸」も復活するなど、伝承されてきた舞のほぼ全てを奉納することができたのです。たった3年という短い期間でここまで舞を習得するのは、並大抵の努力では叶わないことです。若手部員たちのゆるがない熱い思い、200年以上続く伝統を受け継ぐ思いが伝わってきます。
 

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平成27年度のお神楽奉納の様子

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平成27年度のお神楽奉納の様子=写真左、平成28年度の「五業の舞」奉納の様子

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平成28年度のお神楽奉納の様子=写真左、平成28年度の「天岩戸の舞」奉納の様子(小松喜久治氏提供)

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ここ数年、夜祭への人出は復活し、とうとう2年前には大渋滞が起きたほどです(昨年からはルートと駐車場を見直したので渋滞はありません

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参道に人はあふれ、かつての賑わい以上となっています。昨年は平日の開催でしたが、神社の関係者からはここ20年で最も人出が多かったと聞いています。着実に復活してきています

 

神楽部は挑戦する~未来へ伝え続けるため~
 伝統を受け継ぐだけではありません。どうやって受け渡していくか、存続の危機を経験したことで、毎週行われている稽古の後には、きちんとタスキを渡すことも含めて神楽部の方針を話し合っているそうです。

 平成27年度からは、高尾地区の属する櫛形西地区の文化祭でお神楽を紹介するなど、高尾地区だけでなく、麓の集落も含めた櫛形西地区の皆さんに広く親しんでいただこうと新たな取り組みが始められています。

 なかでも、最近始めた目を引く取り組みがあるのでご紹介しましょう。

 

夜神楽に子どもたちを
 高尾の夜祭といえば、全国的にも珍しい「資本金貸し」の風習と、「夜神楽」が有名で、これを目的に集まる方も多いです。なかでも最も境内が熱く賑わうのが「狐の舞」で、狐が神楽殿の上から種まきさながらに餅を撒きます。この餅は祈願されたもので福餅と呼び、福餅を食べると一年間は無病息災で過ごせるというものです。狐の舞の太鼓のリズムが響くとあっという間に神楽殿の周りを人が取り囲み、必死に手を伸ばしながら我先にと福餅を求めるのです。普段人影のないこの山間がまるで渋谷のスクランブル交差点のようにごった返していると言われるほどの熱気で包まれます。

 昨年から、この狐の舞に、地元櫛形西小学校の児童が「子狐」として登場することとなりました。子供達にも人気の狐の舞ですから、そこに参加できるとあって子供たちは大緊張の中で頑張ったようです。参加された児童のうち一人の子は、「このようなお祭りがあって、櫛形西地区を誇りに感じた」と語ってくれました。

 この取り組みは今年も行われますが、子狐に参加されたこどもたちはやがておとなになって神楽師を担ってくれるのではないでしょうか。
 

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平成27年度のようす。狐の撒く福餅を楽しみにまつ参拝者

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昨年度の子狐の様子(南アルプスMTB愛好会提供)

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平成28年度のようす。人出も復活し、狐の舞で餅を手に入れるためい手を伸ばす参拝者のみなさん(高尾あいプロジェクト提供)

 

地元小学校の授業に導入
郷土の文化と伝統行事~穂見神社・高尾の夜祭について学ぼう~」

 さらに今年は一歩進め、櫛形西小学校の授業の年間計画の中に位置づけ、4年生から6年生を対象に「郷土の文化と伝統行事~穂見神社・高尾の夜祭について学ぼう~」という授業を始めています。

 穂見神社の歴史などのお話とともに、実際に神楽部の皆さんによる舞の披露、また、同じく夜祭で舞われる女子による神子(巫女)の舞も披露されました。

 保護者もご覧いただくことができ、今までも見たことがある方でもこんなにも間近で見られることに新鮮さを感じたようです。また、神子(巫女)の舞は、普段一緒に遊んでいるお友達が装束に身を包んで凛とした表情で舞われる姿に思うところが多かったようで、実際に来年には舞を舞いたいという要望が増えたようです。

 年に1回の授業ではありますが、学校側でも、今後も毎年続けていけるようにしっかりと位置づけたいとお話をされていました。 

 神楽部のみなさんは、今回授業で見た児童たちが本番の夜祭に来てくれたときに手ごたえを感じることができるのではないかと話されていましたが、早速子狐を希望する男子が殺到し嬉しい悲鳴をあげられているようです。

 地域全体で小さい頃から伝統ということについて考えられる機会が増えることは、きっと豊かな地域づくりができるものと思います。
 

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小学校のホールで挨拶をする神楽部のみなさん。平日にもかかわらず、7名の部員が参加されました=写真左、巫女の舞を披露する、同小学校に通うこどもたち

 

おわりに
 最後に、昨年初めて子狐として参加した板谷佳昌くん(当時櫛形西小学校6年生)の感想をご紹介しましょう。

 初めて神楽殿で稽古した日の帰り道のこと。

 「おれ、凄い!凄いことだよねー!稽古のときは緊張してよくわからなかったけど、終わってからジワジワすごいのわかったー!なんか、自信ついたー」

 また、高尾のこと、地域の歴史のことなどをいろいろと知ることで「見るものが変わってくる」と伝えてくれました。

 そして、夜祭本番の後には、
 「歴史あるお神楽に自分が立てて光栄だった。感動した」という感想を伝えてくれました。

 新たな挑戦をすることで、子供たちから大人が学ぶこともあるのかもしれません。こうやって、たすきをつなげていけるのだと実感した夜でした。
 
 
 今年も高尾の夜祭は11月22日に行われます。今年は水曜日です。午前10時より午後11時まで、されに翌23日の午前10時から12時まで行われています。復活したお神楽をぜひご覧ください。熱い思いが込められています。そして児童たちによる神子の舞や子狐も登場するようですのでお楽しみに。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

古市場若宮八幡神社と神楽 ~弥生時代から続く土地の力~

 南アルプス市古市場の若宮八幡神社参道。夕闇の中、石鳥居をくぐり、秋の実りを迎えた水田の道を歩くと、正面に電球の光や提灯の灯火が夕闇を暖かく照らしています。子ども達の笑い声や威勢のいい声がこだまし、鈴や太鼓の音、横笛の調べが重なりあって夜空に響いています。随神門をくぐり若宮八幡神社境内に入ると、やきそばやたこ焼き、クレープなどの露店が立ち並び、美味しそうな香りがただよってきました。小学生から中学生、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、いろいろな人がひしめき合っています。人混みに押されながら拝殿の前にたどり着くと、喧騒の中に一瞬の静寂が訪れます。さまざまな願いや決意を柏手に込めて、祈りが捧げられていました。

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【写真左:西の石鳥居、右:随身門】

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【写真】拝殿


 2017年の古市場若宮八幡神社の例祭は、かつて「八朔(はっさく)」と呼ばれ、旧暦の8月1日に行われていました。現在は10月最初の土日で行われています。西郡(にしごおり)きっての夜祭として有名で、古くから人々が集い賑わったそうです。氏子で神社のすぐ西側に住む深澤嘉徳さんは当時の様子をこう話してくれました。
 
「父から聞いた話だけど、国道52号線から神社へ続く参道には露店が両側にずらりと並んでね。参拝者も多くて身動きがとれない。そこで父に座敷の中を通らせてもらえないかと相談があってね、一人にいいよと言ったら、皆んなが続いてきた。あんときゃ困ったよと父が話してましたよ。」
 
 拝殿から音楽が響く東へ向くと、神楽殿では鯛釣りの舞が奉納されていました。鯛を釣りあげる恵比寿様に対抗して、鯛が釣れず蛸が釣れて悔しがる鬼役がコミカルに演じられ、参拝者の笑いを誘っています。その後いくつかの舞が続いて夜も深まる頃、「天の岩戸」が演じられました。アマテラス、スサノオ、アメノウズメノミコト、タヂカラオなど神話の神々がみな登場し、神楽のクライマックスを迎えます。
 

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【写真】鯛釣りの舞

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【写真】アマテラス

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【写真】天岩戸(※1)に隠れたアマテラス

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【写真】アメノウズメ

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【写真】天岩戸(※1)をとったタヂカラオ

【動画】「天の岩戸」 動画はこちらをクリックしてご覧ください。  


 若宮八幡神社の神楽は、文久2年(1862)に水害を治める願いから始められたと伝えられています。大正元年には西新居御崎神社から組み立て式の神楽殿を借用し、神楽は山寺の神官野中正内の門下生が舞ったのが始まりでした。大正9年には敬神会が発足し、会員の内十数名が野中宮司から神楽を学び、以後その舞を継承することとなりました。現在では約50名の会員が神楽の伝統を引き継がれています。
 
 神楽の舞台、若宮八幡神社は水が湧出する地域の中でやや土地が高い微高地に立地しています。南側は豊かな湧水を利用した水田が広がる一方、南から釜無川が逆流する水害に襲われることはほとんどない地点です。こうした立地環境から、神社周辺には住吉遺跡が広がっています。これまで行われてきた発掘調査の結果、弥生時代後期、古墳時代、奈良・平安時代、中世の遺構が発見されています。今年の8月に行った発掘調査でも古墳時代後期の住居跡から、須恵器の高坏が出土しました。静岡から愛知県で生産されたものと推測されます。この形の高坏は県内で出土しておらず、他地域との交流やこの地の独自性を考える上で貴重な発見となりました。また中世の溝跡からは喫茶文化を示す天目茶碗も発見されています。さらに神社にも平安時代の神像が4体安置され、創建の古さを伝えています。このように神社周辺は、弥生時代以降水稲作とともに暮らしてきた人々の歴史が重層的に積み重ねられた特別な空間とも言えるのです。
 

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【写真】若宮八幡神社 周辺には水田が広がっている

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【写真】若宮八幡神社拝殿

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【写真】住吉遺跡 古墳時代後期の住居跡から出土した須恵器の高坏や土師器の坏や甕

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【写真】平安時代の神像

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【写真】平安時代の神像

 
 その舞台の上で現在でも神楽が続けられている理由について、氏子総代の志村道之さんは微笑みながらこう話してくれました。
 
「この地域の敬神会では先輩と後輩が固い絆で結ばれているんです。そこが良いところなんです。神楽を続けていくには難しいこともあるでしょうが、祭りに来てくれた子どもたちがきっと受け継いでくれるでしょう。」
 

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【写真】氏子総代 志村道之さん
 
 天の岩戸が終わると露店も撤去され、人々の喧騒も遠のいていきました。静まった境内での神楽はよりいっそう神秘的な衣をまとい、夜更けまで祈りが捧げられました。
 
 
(※1)天岩戸
弟スサノオの乱暴に嫌気がさしたアマテラスは天岩戸に隠れてしまい、世界は暗闇に包まれます。困った八百万の神々は、さまざまな神さまが天岩戸を開けようと試みます。最後にアメノウズメノミコトが舞を披露し、隙間から覗いたアマテラスの隙をついて怪力のタヂカラオが岩戸を開け、世界は再び光に包まれます。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

飯野若宮神社のお灯籠祭り ~道祖神と境界の祭り~ 

 夏の青空が西から茜色に染まり始め、辺りがうっすらと夕闇に包まれる夕暮れ時、和紙に包まれた灯籠のあかりがぽつりぽつりと灯り始めました。その灯りとともに、飯野若宮神社に集う人々の声が、次第ににぎやかになってきました。

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【写真】チョウマタギ 4区東北組

 8月下旬に飯野地区若宮神社(別名若宮八幡神社)で行われる「お灯籠祭り」。祭りの起源を示す記録は残されていませんが、地元では神社が現在地へ移された慶長3年(1598年)から始められたと伝えられています。祭りを彩るのは若宮神社参道に並べられた「チョウマタギ」とそれに飾り付けられた灯籠です。

  「チョウマタギ」とは灯籠をつるす門型の木組みで、参拝者がその敷居を「ちょいっとまたぐからこの名がつけられたのでは」とも地元では言われます。「七五三切(しめきり)」や提灯を雨から守っていることから「雨屋(あまや)」などとも呼ばれ、昔は竹で組み立てられていたとの証言もあります。

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【写真】チョウマタギの敷居をちょいっとまたぐ

 
 チョウマタギは飯野の旧集落である1区~6区までの地区で建てられていましたが、昭和63年に9区上宿端のチョウマタギが追加され、現在7基が参道に並べられています。随身門から鳥居までの境内参道上に1区上手(わで)村、2区中村組の順で置かれ、鳥居から南へのびる参道には、3区西北組、4区東北組、5区宮畑、6区郷地新居、9区上宿端の順でほぼ定間隔で設置されます。それぞれのチョウマタギには30個以上の灯籠が飾り付けられ、暗闇に浮かぶその明かりは、幻想的な世界へ人々を誘います。

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【写真】1区上手村

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【写真】2区中村

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【写真】3区西北組

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【写真】5区宮畑

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【写真】6区郷地新居

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【写真】9区上宿端

 
 今回〇博(まるはく)の事業の一環としても、お灯籠祭りの取材と調査を行いました。その結果、地元では当たり前のことが、この祭りの大きな特徴であることがわかってきました。その一つは、前日に道祖神を祀る場所でチョウマタギを建て、道祖神祭りを行っている点です。現在行っていない地区もありますが、多くの地区はかつて前日に地区の道祖神場でチョウマタギを建ててお祭りを行い、一度解体してから、祭り当日に再度組み立てることが行われてきました。いわば道祖神祭りとお灯籠まつりがセットで行われているのです。調査に参加した山梨県立博物館の学芸員丸尾さんによれば、夏の火祭りと境界の祭りが神社の祭りと習合したのではないかと推測されています。それを裏付けるように、次のような古老の話が伝わっています。

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【写真】1区上手村道祖神 

 
「各集落の入口にある道祖神にチョウマタギを建て、疫病や悪霊が入ってくるのを防いだ、一種の火祭りだな。」

 また市内では、須沢や六科、在家塚でもチョウマタギに灯篭を飾る祭りが行われていました。在家塚では8月お盆前後に公民館前広場にチョウマタギを設置して祭りを行う他に、10月の秋祭りに福島と中村の境、中村と紺屋の境に道をまたいでチョウマタギが置かれたそうです(『在家塚の民俗』)。
 
 各地で行われていたお灯籠祭りも現在は姿を消し、飯野の若宮神社だけになりました。飯野でもかつて祭りを取り仕切っていた青年会の会員が少なくなったことから、昭和40年代半ばごろチョウマタギが建てられなくなり、お灯籠祭りは一時途絶えました。しかし、昭和54年、もう一度お灯籠祭りを復活したいとの有志の声に地域の人々が集い、企画や広告、ステージ設置、配線、司会などそれぞれの得意分野を生かすことで、祭りが復活したのです。

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【写真】お灯籠祭り復活の様子を語る笹本満夫さん

 灯籠のやわらかな灯りに照らされながら、子どもからお年寄りまでさまざまな人々がチョウマタギのトンネルを行き交います。周囲では酒を酌み交わす地元の人々の話し声や子供達の笑い声、盆踊りの音楽、フィナーレであがる花火への歓声が聞こえてきます。お灯籠祭りを楽しむこと、それが祭りを受け継ぐ原動力なのでしょう。何気ない祭りの風景は、この地に生きて人々の歴史や祈り、さまざまな物語を映し出すこの地ならではの大切な地域資源でもあるのです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(7・最終回) 歴史資源を正しく引継ぎ、市民全員が語り部であるまちを目指して

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 〇博のスタートアップシリーズも今回で7回目となり、いよいよ、一旦まとめるときが参りました。これまで、〇博の基本的な考え方から始まり、「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップの具体的な取り組み内容などを順番に紹介してきました。

 今回はこれまでを振り返りながらも「ふるさと〇〇博物館」について今一度まとめてみたいと思います。

 はじめて読まれる方はもちろんのこと、連載開始から半年を過ぎていますので、ぜひこれまでの6話分も合わせてお読みください。
 
忘れられていた歴史資源を再び表舞台に出し、ふるさとを誇る心を醸成する
 「ふるさと〇〇博物館~掘り起こし・育み・伝えるプロジェクト~」は、市内のありとあらゆる歴史資源、また歴史資源に集う人々をつないで市全体をミュージアムと見立てるものです。

 地域に潜在する歴史資源の価値を、住民とともに再発見し、専門的立場により正しい価値付けを行い、磨いて磨いて磨きまくって住民自ら発信することで、魅力的な歴史資源が顕在化され、その過程を通して、ふるさとに誇りをもつ魅力的な「人」も育ち、魅力ある地域を築こうというものです。

 つまり「掘り起こし-育み-伝える」プロジェクトであり、「ふるさと〇〇博物館」とは出来上がった「モノ」を言うのではなくて、その過程そのものを指す取り組みなのです。
 

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ふるさと〇〇博物館の概念図
 

まち全体が博物館ということ
 まち全体が博物館という発想は、通常フィールドミュージアムと呼ばれています。博物館でいう展示室にあたるのが市内の各地域などであり、展示資料にあたるのが各地にある文化財や歴史資源といえます。そして展示解説員さんにあたるのが語り部さんといったところでしょうか。先述した通り、本市ではそれらが育まれていく過程を重要視している点が特徴といえます。
 
「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップ
 本事業では、ただ有名な史跡や指定文化財をつないだコースを作るというものではなく、普段見慣れて気づかないモノやコト、忘れさられてしまったモノやコトに潜む魅力などを多くの方と共有・共感できる仕組みにしたいと考えています。

 そのためには、そのような意識を持って地域を歩くフィールドワークをおこなったり、地域のことを見つめなおすワークショップを繰り返すことで

(1) 地域に潜む歴史資源を掘り起こす。再発見する(「掘り起こす」)。

(2) その資源をさらに深掘りしたり、深掘りする仲間を募ったりして磨き、育む(「育む」)。

(3) みずから伝える。発信する。活用する(「伝える」)。

というステップを踏みたいのです。
 
「地域力」を高める
 地域の資源を掘り起こすワークショップなどでは、例えば昔の思い出話に花が咲いてみたりと、みなさん目を輝かせながら話してくださいます。そして、見慣れたものでも意外とその意味は知らないことが多いもので、本当の意味や価値を知ることで自分たちの暮らす地域への誇りがますます増してきたという声をよく耳にします。つまり、これらの活動を繰り返すことで地域を誇る「人」がますます増え、さらに「つながり」を強めることで、地域力が高まる効果もあると考えているのです。
 
そもそも歴史資源ってなに
 歴史資源は何も指定文化財のような「お墨付き」の与えられたモノだけをさすのではなく、何気ないモノやコトの中に歴史資源が潜んでいると考えているのです。

 場所や建物、樹木はもとより、道具などのモノや、その道具の使い方や風習、行事など、さらにモノの呼び名も地域の独自性があらわれます。方言、音、香り、景観、雰囲気、そしてそこに暮らす方の記憶などもその地域の歴史資源といえるのです。それらはその風土に根ざしたものであり、その地域のオリジナルの物語を語ってくれます。
 
 

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7月に首都大学東京の渡邉研究室の学生さんとともに、地域資源をどのように発信していくか検討するワークショップをおこないました
 

具体的な取組み
 これまで基本的な考え方を振り返ってみました。

 本年度より具体的な取組みを開始していますが、平成30年秋を目処に、ある程度の内容が備わった段階で、「ふるさと〇〇博物館」のオープンを迎えます。もちろんその後も継続して取り組み続けるのですが、そのためにまずは、昨今急激に失われている分野の歴史資源から順に掘り起こしをおこなっていくこととしています。

 基本的な事業の内容は以下のようになりますが、これらの具体例などはこれまでの連載で紹介していますのでそちらもご覧ください。
 
【悉皆調査(しっかいちょうさ)】
 市内に存在する歴史資源の現状を把握し・正しい価値付けをおこなうための調査を実施します。

 中でも、お蔵の解体とともに廃棄されることの多いもの(古文書・古民具)や建造物、民俗(古民具の他、伝統行事や記憶も含めて)から優先して、年ごとに、芦安・八田地区、白根地区、若草地区、櫛形地区、甲西地区の順で実施します。

※専門的な用語で、対象をすべからく全てを調査する意味です。
 
【調査データの整理・保管・再評価】
 調査・収集した資料や写真データなどを適切に保管し、内容の精査や、新たな知見を加えた再検討を行います。また資料の所在を再確認します。
 
【現物資料の適切な整理・管理・活用】
 収蔵する資・史料を活用しやすく整理し、適切な環境で保管し、公開します。
 使用できる道具類は活用し、史料がもつストーリーも伝えるようにします。
 
【ワークショップの実施と、記憶の記録】
 地域住民のみなさまと資源探しを実施し、地域のことや伝統行事などを掘り起こすとともに、戦争・農業・水害・伝統行事など経験談や記憶を聞き取り、動画撮影などで記録を進めます。年長者の記憶は地域の宝といえ、福祉関係の団体等とも連携することを計画しています。
 
【歴史資源の網羅的に公開】
 整理した歴史資源の情報をなるべく多く、市民のみなさまが使いやすいようWEBサイトとして公開します。
 
【語り部の動画や地域資源のデータをわかりやすく発信】
 被爆者の記憶をデジタルマップ上でつなぐ取組みであるヒロシマアーカイブなどで先進的な取組みをされている首都大学東京の渡邉研究室と共同研究を行い、ワークショップなどで得た歴史資源のデータや人の記憶をマップを介してわかりやすく伝え、未来へつなごうという取組みを行ないます。
 
【住民とともに地域を歩き、資源の再発見】
 地域を実際に歩き、住民自ら地域に眠る歴史資源を掘り起こします(「フィールドワーク」)。地域のつながりで資源にまつわるストーリーを掘り深めることで、さらに地域のコミュニティーが強まり、同時に地域のことを誇る語り部が育成されると考えています。
 
【訪れるエリアの整備】
 テーマや地域ごとにモデル的なエリアを選定し、サインの設置やマップの作成など最低限の環境整備を行います。エリアは調査の進捗に合わせ順次増やしてゆきます。
 

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7月の首都大学東京の渡邉研究室さんは、実際に地域を訪れ、何気ない風景の中で出会える南アルプス市の地域資源に驚いていました。これらを通してどのように伝えていくかのプロジェクトが並行して進んでいます
 


「ふるさと〇〇博物館~掘り起こし・育み・伝えるプロジェクト~」
 以上のように、徐々に取り組み始めているところです。

 地域の語り部さんという言葉を耳にすることもあるかと思いますが、地域全体のお話や詳しいお話ができる少数の語り部さんも大事ですが、ごくごく身近な身の回りのことを語る語り部さんが市内にあふれることも大切だと考えています。近所の木や祠、昔話など、身近なことを目をキラッキラさせながら自慢げに語りあいたいものです。

 「ふるさと〇〇博物館~掘り起こし・育み・伝えるプロジェクト~」は、まさに生まれたての事業です。そのまま同じ事を実施している自治体がほかにあるわけではなくオリジナリティの強い取り組みですので、文化財課としても手探りをしながら進めているところです。

 「ふるさと〇〇博物館」で実施するフィールドワークやイベントでは、以下に示すようなロゴを掲げて、どんどんアピールしていこうと考えています。見かけられましたら、お気軽にお声かけください。

 みなさまのご理解とご協力をよろしくお願い致します。
 

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ロゴは、市内で活躍されているトンボロデザインのデザイナー若岡伸也氏によるものです

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(6) 歴史資源を共感する

 〇博のスタートアップシリーズも今回で6回目となりました。「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップがもたらす、人が集い地域の魅力が活用される循環についてご紹介しました。前回ご紹介した実例がまさにふるさと〇〇博物館の目指すものと言え、つまりは、完成するものではなく、つなげていくものであるということがわかりました。

 とはいえ、何をいつまでに行うのかという目安は必要で、おおまかなスケジュールもご紹介しました。いよいよ今回と次回で「ふるさと〇〇博物館」についてまとめてみたいと思います。

 はじめて読まれる方はぜひこれまでの5話分も合わせてお読みください。
 

 

ふるさと〇〇博物館の考え方
 
 これまでご紹介してきたふるさと〇〇博物館の取り組みの流れやその効果を概念図として一枚にまとめると下図のようになると考えています。「掘り起こし」、「育み」、「伝える」過程を経て「、南アルプス市らしさを語る歴史資源」や「ふるさとを誇りに思う地域住民の皆様」がより表舞台へと表れてくるものと考えているのです。さらにそれらは、地域づくりの基盤を成すものであると考えています。

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【図】ふるさと〇〇博物館の概念図
 
 「掘り起こす」「育む」「伝える」ことについては、考え方や実例、またはそれらがつながりあうことで生まれる効果などをご紹介してきました。ただ、ワークショップや調査をするだけなのか、それをどのように地域の方や、その他多くに方々と共有し伝えていくのか、「博物館」としての機能はどのような形で行うのかについても「ふるさと〇〇博物館」ではすでに作業を進めています。
 

 

平成30年の秋、オープン!
 
 前回、ふるさと〇〇博物館のオープンは平成30年度の秋だとお伝えしました。もちろん、すべてが完成してからスタートするという性格のものではありませんから、それまでに「入れ物」もしくは「システム」ともいうべき「器」と、最低限の「中身」を用意し、それ以降、随時「中身」(=掘り起こしては育んできた「歴史資源」)が充実していくという「仕組み」なのです。これらは、前回ご紹介した通り、年度ごとに地域を分けて取り組みますから、毎年各地区の情報が充実していき、さらにそれ以降も随時内容が深められ充実していくものと考えているのです。

 

「器」?

 掘り起こされた歴史資源のデータは、一次資料と言って加工しないすべてのデータを確実に保管・蓄積させていきます。そのうち、公開可能な内容に関しては、多くの方と共有できるよう、広く公開いたします。さらに公開には二つの方法を採用し、利用を促進できるよう、二段階で公開できるようシステムを計画しています。

 

「文化財Mなび」

 まず、公開可能な範囲において、なるべく多くの情報を現在運営している「文化財Mなび」のサイトを改良して公開します。これはオープンデータとして、なるべく活用しやすいかたちで、さらに、深く知りたい方にも使えるような内容であることを目指しています。

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【写真】現在の文化財Mなびのホームページ

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【写真】文化財Mなびの「水とともに生きる」テーマ内の各歴史資源のページ(一部)

 

「デジタルアーカイブ」

 いわゆる、歴史資源や文化財の分野では、市内に点在する資源データをデジタル上で活用しやすい状態に整理して保管する意味合いで用いられることの多い「デジタルアーカイブ」ですが、その使い方としてはむしろ「文化財Mなび」がそれにあたると考えており、次の段階として、ここではむしろそれらのデータを、共感しやすい形で見えやすく提示することを考えています。それには、デジタル地球儀(google earthなど)やAR(拡張現実)を用いることなどを計画しており、その分野で先進的な研究をされ世界的に注目される首都大学東京システムデザイン学部の渡邉英徳研究室とすでに共同研究を開始しています(代表的な活動ともいえる「ヒロシマ・アーカイブ」のHPはこちからから)。

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【写真】昨年、ふるさと〇〇博物館勉強会にてデジタルアーカイブについて講演された渡邉英徳准教授と研究室のみなさん

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【写真】今年、共同研究を開始し、渡邉研究室のみなさんとの打ち合わせの様子

 

点と点を結ぶストーリー

 ふるさと〇〇博物館では、利用しやすいエリア・テーマの一例として「ガイドマップ」も作成しますが、あくまでもルートの参考としての提案であり、基本的には市内各地に点在する歴史資源を、利用者がテーマや時代、ストーリーなどでそれぞれを選んで繋ぎ、訪れたり、調べたりできることが望ましいと考えています。

 そうではなくツアーコースを明示してしまうと、コースに載っている場所は優れた場所、そうでない場所は訪れなくても良い場所という誤解を与えやすいですし、歴史資源のつなぎ方はその人その人によって違って良く、幾通りものコースがあって良いと考えているからなのです。

 ですから、「文化財Mなび」や「デジタルアーカイブ」などで各歴史資源をわかりやすく共感していただきやすいように明示し、それぞれ各自がそれらをつなぎながら現地を訪れてほしいのです。ただし、インターネットを利用されない方にも訪れていただきたいですし、どの順番で訪れようか迷われる方もいらっしゃるでしょうから、手で持ちながら歩けるガイドマップもご用意するのです。

 ぜひ、スマホやパソコン、あるいはガイドマップで確認しながら南アルプス市のすみずみまで訪れてみてください。ひっそりと佇む資源に出会えます。市内まるごとが博物館なのですから!
 

 

平成30年秋オープンとは

 前回ご紹介したように、悉皆調査やワークショップについては年度ごとに実施する地区を区切って計画しています。年度と地区は以下の通りです。
 平成29年度 芦安地区・八田地区
 平成30年度 白根地区
 平成31年度 若草地区
 平成32年度 櫛形地区
 平成33年度 甲西地区
 の順番で実施しますが、これまでにご紹介してきた通り、当然、ワークショップやフィールドワークなどはその後も地域によって継続して実施していくものです。

 と同時に掘り起こしたものを共有・共感するために、先ほどご紹介した「文化財Mなび」(を活用したオープンデータ的なサイト)や「デジタルアーカイブ」などのシステムは平成29年度中に完成させます。平成30年秋には、調査を終えた芦安地区・八田地区と、白根地区の一部のデータなどが備わった状態でオープンを迎え、その後随時調査やワークショップを行った地域の情報が盛り込まれ、より充実していく予定です。

 現地の歴史資源には情報を発信するサイン(看板)が立ち、ガイドマップも配布されますが、それらも、調査やワークショップを実施した地域から順にそろえていきますので、毎年成長する博物館なのです。

 何度でも、足を運びたくなる南アルプス市のふるさと〇〇博物館なのです。
 
 次回、いよいよ「〇博への道」最終回となります。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(5) 正しい価値を掘り起こし、育むサイクル

 〇博のスタートアップシリーズも今回で5回目となりました。「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップのうち「掘り起こす」ということについて、前回からより具体的な取り組みについてご紹介しております。まずは、地域に何があるのか、どんな価値が隠れているのか、身近なものの中からそのようなことを「気づき直す」ことからはじめることをご紹介しました。
 梅雨とは思えないほどカラッと晴れた日が続く今日この頃ですが、そのような目線でご近所を散策してみても良いかもしれませんね。
 
 いよいよ、具体的な話へと進んできましたので、はじめて読まれる方はぜひ以前の号も合わせてお読みください。

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【図1】ふるさと〇〇博物館の考え方
 

 

隠れている価値を「掘り起こす」

 前回、「掘り起こす」作業として、悉皆調査(しっかいちょうさ)と言って、先ず地域に何があるのかを洗い直す作業が必要であることを、主に建造物の観点からご紹介しました。フィールドワークやワークショップを開きながら歴史資源を掘り起こすとともに、文化財課では専門的な視点で年毎に地区を割り当て、集中的に調査をおこない、地区の皆さまと共有していきます。これらは、どちらが先にということではなく、卵が先か鶏が先かという話であって、お互いに、新たに判明したことを紹介し共有しながら進めていくものです。

 とは言え悉皆調査は5カ年の計画であり、分野を絞って実施し、そのデータをヒントに、住民のみなさまには引き続き掘り起こし→共有する活動を継続していただきたいのです。このような「掘り起こし」「育み」「伝える」活動を継続することで、その地域らしさがより浮き彫りされ、地域を誇りに思い、地域力が一層高まるものと考えているからです。つまり、このプロジェクトにゴールはないのです。
 

 

悉皆調査は地区ごとに

 悉皆調査を5カ年で行うため、1年目:八田地区・芦安地区、2年目:白根地区、3年目:若草地区、4年目:櫛形地区、5年目:甲西地区と年度毎に地区を割り当てます。さらに、昨今急激に失われている「建造物」・「古文書」・「民俗」・「口承」の4つの分野に絞り調査を実施します。建物の建替えなどに伴って、建物とともに古い道具類や書類、風習までも失われてしまいます。つまりこれらはリンクし合っている事柄なのです。

 「口承」はあまり耳にしない言葉かもしれませんが、「民俗」の一つとも言え、「伝承」や「記憶」と言い換えても良いかも知れません。風習や昔の様子、昔の道具の使い方、思い出話などもその地域ならではのことが沢山含まれており、記録し継承してゆきたいと考えるのです。年長者の記憶はまちの財産ですし、往時を思い浮かべながらみなさん必ず笑顔で語られるのです。その姿は記録したいですよね。
 

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【写真】ワークショップでの口承調査のひとコマ


 そして、これらは一つ意識すると、次から次へと繋がってよい循環が生まれてゆくのが面白いのです。
 

 

高尾地区天然氷作りを例に
 
 例えば、そのような良い一例として次のようなことが挙げられます。

 櫛形山の中腹にある高尾集落では、集落に関する歴史資源の調査やフィールドワークを5年前から継続して行っています。これも、最初は文化財課と2軒の住民の方とできっかけを作りましたが、その後は住民のほか、神社の団体、地域をサポートするボランティアグループによって発展して取り組まれているものです。

 調査の結果、集落内に石造物などの数々の歴史資源を確認できましたが、集落から離れた静かな森の中に、かつて天然氷を作られていた遺構が確認できました。

 氷作りは戦後しばらくして行われなくなったようですが、その家の方も詳細は把握されていませんでした。遺構の残り具合は良好で、氷室の存在と、氷池2面、そして池に水を取り入れるための水路や沈砂槽も確認できました。これらは明らかに地域の資源であると認識でき、すると次に、多くの方と共に清掃活動を実施してこの遺構を紹介し、より多くの方と共有をしたいと思うようになりました。
 

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【写真】突如森の中に現れる氷池の石垣

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【写真】氷池の現在の様子。氷の生産が終わり、植林がされている。

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【写真】倒木などを除去し、清掃した氷室跡の様子

 


 さらに、当時の姿を知りたいという思いが湧き、写真は残っていないのかという話題になり、そのような目線で家の中を探していただいたところ、大正時代とみられる氷作りの様子がわかる写真が発見されたのです。さらに、土蔵を直す際に、氷作りの出納関係や作業実態、取引先などを示す帳面が発見されました。所有者の方からは、「以前だったら何も考えずに廃棄してたと思うけど、こういうものにも意味があるのかと思って捨ててはいけないと思い、文化財課に連絡した」とおっしゃってました。
 

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【写真】大正時代の頃とみられる氷池や氷室を写した写真

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【写真】氷作りの作業内容や、日当、卸先などが記された帳簿。これにより、遅くとも明治34年には氷作りがおこなわれていたことや、高尾集落における当時の主要な産業であったことが判明した

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【写真】帳面には小笠原や倉庫町にあった氷店の名前も見え、当時の流通や店屋の様子などを伺うこともできる

 


 つまり、下記のような歴史資源を「掘り起こし」、「育む」活動のサイクルがおこなわれたのです。
 高尾の調査→氷室 氷池の現地把握(以上「掘り起こし」)→清掃活動、周囲の方と共有、人を連れて紹介→写真を見つけたいという意識→写真を発見→土蔵建替えの際に帳面を発見→「捨ててはいけない」と感じた(以上「育み」とさらなる「掘り起こし」)。

 実際にこの場所は「資源」としてガイドツアーでも案内され活用されていますので、「伝える」活動も行われているのです。
 

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【写真】綺麗にした氷室跡はガイドツアーの案内ポイントとなっており、活用されている


 このような流れが、それぞれの地域でそれぞれのテーマで活発に行われると、それまで知られていなかった地域の歴史資源がどんどん表舞台に現れ、市内は、各地域の魅力・誇りで溢れていくのではないでしょうか。

 さらに、高尾集落ではガイドツアーも実施していますが、そのように活用していただけるよう、掘り起こし正しい価値付けを行われた資源を使いやすいかたちで広く公開する必要があります。
 

 

ふるさと〇〇博物館のオープン
 
 多くの方に活用していただけるよう、なるべく多くの情報・データを公開する必要がありますので、そのシステム作りも順次取り掛かっているところですが、来年度の秋にはそれまでに調べたデータを新たなシステムに載せてネット上で公開し、また、散策マップなども提示する中で「ふるさと〇〇博物館」をオープンします。

 その時点では、当然全ての地域を調べられていませんので、「ふるさと〇〇博物館」とは完成したからオープンするという性格のものではありません。時間をかけながらどんどんと掘り起こし、蓄積するデータもどんどん充実してゆく、みなさんによって常に成長させる博物館なのです。
 
 それでは、次回、いよいよ「ふるさと〇〇博物館」のオープンについてご紹介し、このシリーズのまとめとしたいと思います。 

【南アルプス市教育委員会文化財課】