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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(4) まちをめぐり建て物も掘り起こす

 〇博のスタートアップシリーズも今回で4回目となりました。前回は、「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップのうち「掘り起こす」ということについてご紹介いたしました。なにも、凄いものをみなさんで調べるということではなく、当たり前にある物事について「気づき直す」ことであることが伝わったことと思います。

 今回はその中で、文化財課が始める「掘り起こす」調査についてご紹介したいと思います。はじめて読まれる方はぜひ以前の号も合わせてお読みください。

A_8 【図】ふるさと〇〇博物館の考え方

 

 前回、掘り起こすにはフィールドワークやワークショップで地域を見つめ直す必要があることをお伝えしました。

 そのためにも、まずは地域の皆さまとともに専門家の目も加えながら地域にどのような歴史資源が存在するのか洗いざらい確認する必要があります。
 
 洗いざらい調査することを専門的な言葉で「悉皆調査(しっかいちょうさ)」と呼びますが、これらは専門的な立場として、文化財課が主体として地域の方にご協力いただきながら調べてゆくもので、早速今年度から本格的に開始します。この詳細については次回以降ご紹介します。
 
 さて、今年度からの本格的な取り組みに先立って、市では2年間にわたり準備作業をしてきました。その中で、洗いざらい調べるためにはこんなものも「地域を語るヒント」になるということを、さまざまな分野の専門家の先生にお教えいただきました。

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【写真】ふるさと〇〇博物館勉強会 鏡中條フィールドワーク

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【写真】ふるさと〇〇博物館スタートアップツアー(平岡) 建造物の専門家から説明を聞き、建物を見上げる参加者

 


 ここでは、特に「建物」について、まちめぐりをしながら何気ない風景の中にあるちょっとした歴史の「見つけ方」をご紹介したいと思います。
 
 建物を見るにはもちろん専門的な知識があると、技法だとか、年代だとかがわかって、ただ歩くのにも楽しさが増えるかもしれません。でも、そのような専門的な知識だけじゃなくても、歩きながら「あれ?」とか「なんか不思議だな?」と気づくことが大事かもしれません。

 この写真は平岡の路地に佇む土壁の立派なお宅です。でも、よくみると壁に見える梁などの木材が不思議な感じがします。その謎を紐解くと、このお宅がきちんと長く使えるよう手を加えてきたことや、もともとはこんな営みをしていたのかなということが見えてくるのです。この壁から、このお宅の、そして地域のストーリーが見えてきます。
 
 この壁、良く見ると使われている材木の色が濃い材と薄い材の2種あることに気づきます。これ、今で言うところのりフォームの痕跡でして、もともと真ん中の柱の頂上から濃い色の木材の先端を結ぶように急勾配で垂れていた藁葺か草葺の大きな屋根であったもの(白川郷の合掌造りなどをイメージすると近いかもしれません)を、2階に部屋を作る改修を行い、新たな部材を足し、壁を立ち上げ、屋根の勾配をゆるくしたものと思われます。

 

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【写真】とある民家の外壁

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【写真】かつて屋根があったとみられる箇所にラインを加えてみました

 

 このような姿の大きな屋根を持つお宅はかつては養蚕をされていたでしょうし、積雪にも対応されていたことが読み取れます。しかし、その後養蚕もされなくなった頃に改修されたのでしょうか。この地域の産業の歴史も見えてくるのです。

 このように、家の改修の変遷が見てとれるお宅はまちなかを歩くと結構目にするものです。
 
 ただし、古くからある建造物はこのように上手に保たれているものばかりではなく、老朽化によって、解体が進んでいるのも事実です。

 かつて、国道52号線にあって地域のランドマークとして知られていた「三階屋」も老朽化による危険回避のために解体がなされました。なにもここだけでなく、ここ数年でいくつもの建造物が危険を回避するために解体されてきました。危険を回避することはやむを得ないことですが、解体はいくつかある選択肢の一つといえ、ある見方をすればこの選択は「地域らしさ」が失われていくようにも思えるのです。
 

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【写真】在りし日の「三階屋」(南アルプス市飯野)

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【写真】桃園にあったこまの農協の土蔵。改修して現役として活用されてきたが昨年解体された

 

 そのようなこともあり、今年度から実施する悉皆調査では「建造物」の分野も調査します。市内にどのくらいどのような建造物が存在するのかを把握する作業です。

 これまでの活動により、普通に住まわれている建物の価値が再発見され、文化財に登録された例もあります。

 下に示した写真は2軒とも高尾地区にある民家で、昨年、国の審議会で文化財登録することが答申されています。これらも、ただ通り過ぎればそれで終わってしまうのですが、建物の趣などから、「あれ?」って気づき、より調べてみるとその家の歴史や地域の歩みが見えてくることがあるのです。

 建造物はまちなかを通れば必ず目にするものですから、地域らしさを多いに語ってくれるものともいえます。

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【写真】高尾地区にある御北穂坂家 現在も住まわれているが、国の登録文化財へ答申が得られている

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【写真】高尾地区にある御西穂坂家 現在も住まわれているが、国の登録文化財へ答申が得られている

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【写真】御西穂坂家の屋根内部 表からは分からなくても、中に入ってみれば藁葺の様子がわかる


 次回、文化財課が行う悉皆調査についてさらに具体的に踏み込んでみたいと思います。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(3) 掘り起こすということ

 〇博のスタートアップシリーズも今回で3回目となりました。前回は、「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップについてご紹介いたしました。これらのステップを経ることで、「忘れられていた歴史資源を再び表舞台に出し、ふるさとを誇る心を醸成すること」を思い描いている事業であることは先月お伝えしたとおりです。

 今回はその中でも「掘り起こす」についてご紹介したいと思います。はじめて読まれる方はぜひ前号も合わせてお読みください。
 
「掘り起こす」
 この○○博物館(まるまるはくぶつかん)では、普段見慣れて気づかないモノやコト、忘れさられてしまったモノやコトに潜む魅力なども多くの方と共有・共感できる仕組みにしたいと考えています。

 そのためには、例えば、そのような意識を持って地域を歩くフィールドワークをおこなったり、地域のことを見つめなおすワークショップを繰り返すことで、地域に潜む歴史資源を掘り起こす。再発見することができると考えています。
 
 今回は、実際にフィールドワークを兼ねて3月に実施した、「ふるさと○○博物館 スタートアップツアー」のレポートを兼ねてご紹介したいと思います。

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【写真】「ふるさと○○博物館 スタートアップツアー」の朝の様子
 
 
市之瀬台地でのフィールドワーク
 今回のツアーは、市之瀬台地を舞台におこなわれましたが、主に平岡の集落内では、日常の生活空間を歩きながらのフィールドワークを行ないました。

 そもそも歴史資源って何かということは前回にもご紹介しましたが、「何気ない風景の中に潜んでいて、普段気づかないもの」というものはただ歩くだけでは気づきません。地元の方には当たり前のものでも、他の方からすると珍しいと気付くことがあります。また、専門家の目から見ると、全国の事例のなかでの希少さなどが判断できる場合もあります。

 今回は地元の方と、地元以外の方と、さらに、「景観」と「建造物」と「古文書」の専門家の先生方も一緒に歩き、先生から歴史資源の見方やポイントを教わりながら実施しました。

 そういう意識を持ちながらゆっくり路地裏を歩くことで、実際に様々な発見がありました。もちろん、指定文化財的なども沢山あるエリアですが、今回はそのようなものは除いて、何気ないもののなかで掘り起こされたものの一部をご紹介します。

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【写真】景観について、専門家の先生から景観の見方について説明を受ける参加者

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【写真】建造物について、専門家の先生から建造物の見方について説明を受ける参加者
 
 
〇水の豊富さが際立つ!
 多くの集落が広がる市之瀬台地にあって、一番山裾に存在することで、山から流れ出る川の水を豊富に利用している様子が見られました。深沢川からひいた堰の水は集落中をめぐり、堰の一部を広げ、堰きとめて水を利用しやすくしている箇所が点在しています。平岡集落では「ツケエバ(使い場)」と呼び、今でも野菜や農具の泥落としに利用しており、使い場にたわしがぶら下がっていたりするのが、「現役」であることを物語っています。

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【写真】「ツケエバ」で遊ぶ子どもたち(参加者)。傍らにぶら下がるたわしが今も生活の中に根ざしていることを物語っている。
 
 
〇道祖神さんの不思議
 集落内の道祖神さんが立派な作りで統一されていることや道祖神のお飾りが立派なこと。さらに、道祖神さんや屋敷神さんに縄文時代の遺物が一緒に祀られていたこと。この地域は縄文時代の遺跡が集中するエリアであり、住民の方と縄文遺物がある意味近しい関係にあることがわかりました。

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【写真】道祖神のお飾りについてお話しする地元からの参加者
 
 
〇石積みのムラ
 集落が斜面地に立地していることもあり、石積みが多く見られます。基本的に谷積みや亀甲積みなどが多く、しっかりした石積みが多く見られました。
 
〇製糸工場だった平岡の公会堂
 平岡集落の公会堂は趣のある木造建築ですが、十日市場にあった製糸工場の建物を昭和24年に移築したものでした。地元の方でも知らない方が多い中で、公会堂の中に設えていたベンチの裏には昭和25年と墨書きがされており、当時平岡区によって新調したものであることが伺えます。今回は偶然にも十日市場区在住の方が参加しており、製糸工場が存在していたことを語ってくださいました。これは、すでに「掘り起こし」というよりもさらに深く掘り起こされた感じがしますね。
 
 以上、ほんの一部だけの紹介ですが、地域の方にとって普段通っている道や普段目にしている物のはずですが、新たな気付きが随所にあったようです。

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【写真】ふるさと〇〇博物館スタートアップツアーの様子


自然と「掘り起こし、育み、伝える」流れができる

 今回はフィールドワークでもありますので、参加者の皆様には気になった歴史資源などを記入していただいたり、感想をおききしていましたが、随所に、まさに、ふるさと〇〇博物館で進めていこうと考えているシーンに出会えました。

 道すがら、建造物の先生が素敵な意匠の土蔵を指差して解説を始めると、嬉しそうに「ここ私の家!」と笑顔がこぼれた参加者がいらっしゃいました。専門家の先生が取り上げてくださることに本人も新たな発見があったようです。また、「使い場」について「何気なくすごしていて、石なんか投げて遊んでいたような『使い場』が、こんなに面白い話の舞台になるとは思いもよりませんでした!」という意見もあり、地元の方にとって新たな「掘り起こし」ができた瞬間と言えるでしょう。

 さらにはこんな意見もありました。

 「うちにも同じようなものがあるから大切にしなくちゃ」とか「地元のことだから、もっと勉強したいという気持ちになった」、「この辺のことは〇〇さんが詳しいから今度は一緒に参加したい」など。これらはまさに次のステップである「育む」の段階へと進む話なのです。

 最後に、「平岡は、水と石積みの村だと感じた」と書かれた参加者がいらっしゃいました。一つの地域を歩くと、まさにそこにサブタイトルをつけることができるような、その地域の「オリジナルなコト」が浮き彫りされてきます。

 このようなその地域ならではのサブタイトルを沢山蓄積していけると、魅力ある、素敵な「〇〇博物館」になっていくものと考えています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(2) 掘り起こし-育み-伝えるプロジェクト

 前回よりご紹介しています「ふるさと○○博物館 -掘り起こし・育み・伝えるプロジェクト-」。今回は、一歩進めて「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップについてご紹介いたします。はじめて読まれる方は是非前号も合わせてお読みください。
 
まち全体が博物館ということ
 ハコモノではなく、まち全体を博物館とみたてた取り組みは、よく「フィールドミュージアム」として呼ばれています。しかし、他の地域で取り組まれているフィールドミュージアム事業は、地域にコースを設定して看板を設置したり、マップを作成したり、ガイド組織を結成することで完成としているものが多いように思われます。コースを作るまでの経緯はあまり見えてきません。
 
 まち全体が博物館ということは、博物館でいう展示室にあたるのが、市内の各地域や場所、あるいはテーマ(例えば「小正月」とか「方言」)であり、展示資料にあたるのが各地にある文化財や歴史資源ということができます。そして展示解説員さんにあたるのがガイドさんといったところでしょうか。
 ここまでは私どもが考える「ふるさと○○博物館」もほぼ同じです。しかし、本市の取り組みはこれだけが目的ではなく、そこへ至る経緯を重要視しているのが他のフィールドミュージアムとは違う特徴と言えます。
 
「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップ
 町中の全てが対象であり、展示物であるということは、まち中の全ての方がガイドであり、語り部であると考えています。いってみれば市民全員が語り部であると。
 そして、ただ有名な史跡や指定文化財だけをつないだコースを作っておしまというものではなく、普段見慣れて気づかないモノやコト、忘れさられてしまったモノやコトに潜む魅力なども多くの方と共有・共感できる仕組みにしたいと考えているのです。
 そのためには、そのような意識を持って地域を歩くフィールドワークをおこなったり、地域のことを見つめなおすワークショップを繰り返すことで
(1)地域に潜む歴史資源を掘り起こす。再発見する(「掘り起こす」)。
(2)その資源をさらに深掘りしたり、深掘りする仲間を募ったりして磨き、育む(「育む」)。
(3)みずから伝える。発信する(「伝える」)。
というステップを踏みたいのです。
 これはなにも一方通行なものではなく、育む過程の中で、関連するものをさらに掘り起こしてみたり、他の人に伝えることでそれに関する新たな情報を得たりして、それぞれのステップを行ったり来たりしながら、ふとした発見がつながってくるものと考えます。そのような過程で、文化財課は広い視野で正しい価値付けを行なう役割を担います。
 そのような取り組みを繰り返す中で、
(1)魅力ある「歴史資源・地域資源」が育まれ
(2)地域を誇る魅力的な「人」が増えていく
ものと考えているのです。
 
 つまり、これらのステップを経ることで、先月お伝えしたとおり、「忘れられていた歴史資源を再び表舞台に出し、ふるさとを誇る心を醸成すること」を思い描いているのです。
 
 

A1 【写真】芦安沓沢地区でのワークショップのようす
 1月におこなわれたワークショップでは、特にこの地域に伝わる小正月の行事について話されました。

 
 

A2 【写真】鏡中條地区でのフィールドワークのようす
 
5月におこなわれたフィールドワークでは、鏡中條区の路地を専門家の先生と歩きながら、地域の住民の方に直接お話を伺いながら、何気ない町並みにみられる歴史資源を再発見しました。
 
 
「地域力」を高める
 この一連の過程やワークショップ・フィールドワークそのものが大切と考えており、出来上がったコースなどではなく、その取り組む過程自体を「ふるさと○○博物館」と呼びたいと考えています。ですから、すぐに完成というものではなく、これから長く時間をかけて積み重ねていくものです。何年もかけて随時内容が濃くなっていく、そのような取り組みなのです。
 地域の資源を掘り起こしていくワークショップなどでは、例えば昔の思い出話に花が咲いてみたりと、みなさん目を輝かせながら話してくださいます。そして、見慣れたものでもその意味は知らないということも多く、本当の意味や価値を知ることで自分たちの暮らす地域への誇りがますます増してくるようです。つまり、これらの活動を繰り返すことで目を輝かせながら地域を誇る魅力的な「人」がますます増え、そのような方々が「つながり」を強めることで、地域の組織力や地域力が高まる効果もあると考えるのです。地域を誇る心は地域愛を深めることでしょう。
 昨今の社会情勢において高齢化社会への対応や災害への対応などが求められています。まさに地域力の向上が急務と言われており、ふるさと○○博物館の取り組みはまさにそのような面においても役立つきっかけになるのではないでしょうか。
 
 

A3 【写真】有野地区にお住まいの方から聞き取り調査をおこなっている様子
 山里での豊富な体験談をお持ちな方から、今では忘れ去れてしまった伝統や風習、その頃の風景など、興味深いお話をお聞きし、後世に伝えられるよう動画で撮影し、データで蓄積していきます。
 
 
そもそも歴史資源ってなに
 歴史資源は何も指定文化財のような「お墨付き」の与えられたモノだけをさすのではなく、何気ないモノやコトの中に、その地域ならではの「物語」が潜んだモノがあり、それらすべてが歴史資源だと考えています。
 場所や建物、樹木はもとより、道具などのモノや、その道具の使い方のコツや風習、行事など、さらにモノの呼び名も地域の独自性があらわれますし、方言、音、匂いや香り、景観、雰囲気、そしてそこに暮らす方の記憶などもその地域の歴史資源といえるのです。それらの全てのものはその風土に根ざしたものであり、そこに至った背景や理由が必ずあって、それがその地域のオリジナルの物語と言えます。
もちろん、その全てを文化財課の業務として対象とするには限界がありますから、ある程度の方針が必要になりますが、しかし、みなさんにはいろいろな歴史資源を掘り起こして頂きたいのです。
 そのような「オリジナル」なものやことを把握しストックしていくことは、例えば防災や郷土愛の醸成、産業、観光にも活用できる地域の基礎データとなるのです。

A4 【写真】平岡地区で今も使用されている「ツケエバ」
 「使い場」のことで平岡では「ツケエバ」と呼んでいる。川から水をひいた堰を一部だけ広げて水をため、生活用水として使用している場所で、かつてはお米を洗ったりもしていた。現在でも農具を洗ったり、野菜の土を落とすのに使われている。かつては広く市内各地でみられた風景であったが、最近は少なくなる中で、平岡地区には多く残されている。
 

A5 【写真】平岡地区の公会堂
 趣のある木造の建造物でいまも現役である。戦後に若草にある製糸工場の建物を移築したものであり、何気ない建物だがその背景には別のストーリーをもっていることもある。 

 
次回からはこの「掘り起こす」「育む」「伝える」ステップについてひとつひとつご紹介したいと思います。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

「ふるさと〇〇(まるまる)博物館」スタートアップ連載
「〇博(まるはく)」への道(1) 櫛形西小学校の取り組みから

「ふるさと〇〇博物館―ふるさとまるまるはくぶつかん―」
 これまでにも文化財課では、地域の歩みを知り、地域らしさを知ることで地域を誇りに思う心を醸成しようという取り組みを住民の方と一緒に取り組んできました。
 これを一歩踏み出し、市全体で体系的に取り組む事業を開始いたします。題して「ふるさと〇〇博物館―掘り起こし・育み・伝えるプロジェクト―」です。
 〇〇って?博物館ってハコモノ?と思う方もいることでしょう。
 博物館と言っても「ハコモノ」ではなく、まち丸ごと、まるまるを博物館として見立てた取り組みです。「〇〇」はあえて「〇〇」と表し、地域に暮らす「その人なりの想いを込めたふるさとを作っていただきたい」として、〇〇にはその人なりの言葉を入れていただきたい、という気持ちを込めて名称が決まりました。通称は「〇博(まるはく)」と呼んでいます。
 
忘れられていた歴史資源を再び表舞台に出し、ふるさとを誇る心を醸成する
 この事業は、市内のありとあらゆる歴史資源、また歴史資源に集う人々をつないで市全体をミュージアムと見立てたものです。地域に潜在する歴史資源の価値を、住民とともに再発見し、正しい価値付けを行い、磨いて磨いて住民自ら発信することで、魅力的な「歴史資源」が顕在化され、その過程を通して、ふるさとに誇りをもつ魅力的な「人」も育ち、魅力ある地域を築こうというものです。
 つまり「掘り起こし-育み-伝える」プロジェクトであり、「ふるさと〇〇博物館」とは出来上がった「モノ」を言うのではなくて、その過程そのものを指す事業なのです。
 具体的な内容については、これから連載して行く中で徐々にお伝えしていくこととしましょう。
 

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【写真】上今諏訪にある道標
今諏訪の渡船場から高尾まで参詣者でにぎわっていた時代を語る小さな証人
 

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【写真】元の南湖郵便局
レトロな雰囲気の郵便屋さん。通気口と瓦が郵便マーク。
 

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【写真】サクランボの出荷箱
大正時代の櫻桃の素敵なラベル。
 

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【写真】蛇籠(じゃかご) 
洪水常習地帯ゆえに受け継がれた技術。
 

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【写真】駅前通りの看板
かつて「ボロ電」の駅があったことを示す、市役所北に佇む小さな証人。
 

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【写真】開園記念碑
明治時代に始めてサクランボ栽培を始めた農園の証、扇状地ゆえの知恵の結晶。
 
 
 
櫛形西小学校6年生の取り組み「西地区有名計画」
 櫛形西小学校の6年生により、櫛形西地区にある遺跡や伝統、建造物などについて「掘り起こし・育み・伝える」取り組みを行いました。題して「西地区有名計画」。微力ながら文化財課も協力しています。
 櫛形西小学校では、これまでにも地域の歴史を学んで手描きの遺跡説明版を設置したり、「文化財Mなび」で歴史資源の音声ガイドを発信してきました。
 今年は25名の6年生によって、西地区にある歴史資源について多くの方に知ってもらおうという授業に取り組みました。目標は高く世界へ向けての発信です。
 まず、発信するには自分たちが知らないといけません。児童は自分たちで選んだそれぞれの歴史資源について個人またはグループで調べ、呼びかける内容を作文します。
 調べ方は文化財課職員による現地案内や説明、市作成のガイドブックや発掘調査報告書などの各種図書、インターネットを用いたり、家族や地域の方への聞き取りなどです。大人が使うような本も一所懸命読みこみました。文章は担任の先生や文化財課によって事実確認を繰り返し、練り上げていきました。この段階で、自分たちで再度現地へ行く児童がいるなど、その資源について愛着が増してきたように見受けられました。
 
動画の配信
 今回の目玉は自分たちの声で呼びかけた動画を動画投稿サイトを通して全国へ発信するということ。撮影は、土器などの出土資料も多いふるさと文化伝承館で行いました。子供たちはパネルを使ったり、実際の資料を持ったり、掛け合いもありと、自分たちで演出も考えました。みなさん練習に余念がなく、本番はほとんどが一発OKばかりで、6年生の実力を目の当たりにしました。
 今回は 西地区有名計画です。各グループのほとんどが、「はじめはあまり知らなかったのに調べてみると、、、、」で始まり、最後は、「ぜひ見に来てください」といった投げかけの言葉になっていました。ある班は、「西地区が大好きだ、みんなに来てほしい」と投げかけ、またある児童は「西地区のことももっと知りたいし、他の地域のことも知りたくなった」と感想を述べています。どんどんと地域を好きになっていく心の連鎖が広がっていきそうな予感です。ぜひ動画をご覧ください。児童のみなさんの輝く瞳と誇らしげな表情が印象的です。みなさんふるさとが大好きなのです。
 

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【写真】ふるさと文化伝承館での撮影の様子
 

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【写真】実際に公開されている動画の一部
 
 
掘り起こし-育み-伝える
 この取り組みは、まさに「〇博」で行おうとしていることを凝縮したものと言えます。つまり、これは、地域の歴史資源を掘り起こし、調べ、自分なりの方法で伝えようと育み、自分たちの言葉と声で伝えるという、一連の行程をおこなっているのです。実際に〇博を進めていく上では、時間をかけてより深掘りし、より育んでいく行程が大事になっていくと思いますが、そのあたりについては次回ご紹介したいと思います。
 児童たちの感想では「地域の新たなことを知れた」、「より多くの方に知ってほしい」という声が多く聞こえました。これは、この取り組みを通して地域をより誇りに思う心が芽生えたのだと考えます。
 担任の先生はこの取組みを通して願ってらっしゃいます。「子供たちがいつでも、どこでも地元を思い出せるように」。
 そのような「ふるさと〇〇博物館」を私たちも目指していきたいのです。
 
 

 今回の動画は動画投稿サイトyoutube内のチャンネル「南アルプス市文化財Mなび」内にて配信されています。南アルプス市のホームページに各URLをまとめてありますのでこちらからご覧ください。

「ふるさと〇〇博物館」スタートアップツアー 
『市之瀬台地フィールドワーク』
 
 市之瀬台地を舞台に、何気ない風景のなかにある素敵なことやストーリーを見つけ紐解くショートトリップです。
地元×各分野の専門家で地域の「素敵」を再発見します。
 
[日 時]3月18日(土) 午前8時半集合、12時頃まで。
[場 所]ほたるみ館北側多目的広場駐車場。
[費 用]500円

申し込み>南アルプス市文化財課 TEL055-282-7269

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の小正月
~道祖神場のお飾りとどんど焼きの風景~

 早いもので平成29年も半月が過ぎ、一昨日には小正月を迎えました。南アルプス市内でも伝統の小正月行事が各地で行われ、道祖神場にはさまざまな美しいお飾りが登場しました。

 1月14日は小正月です。南アルプス市内の各地の道祖神場には地域の方によって朝から飾りつけが行われます。近年では1週間前倒しして3連休に行う地域も増えてきましたが、それでも今年は14日が土曜日だったこともあり、昔ながらの日程で行う地域が多かったようです。

 実は、山梨県は群馬県や長野県とともに道祖神信仰が盛んな地域といえ、小正月の行事が道祖神場で行われることが多いのです。

 道祖神は村外から侵入する悪霊や悪病を防ぎとめる力のある神と言われる「塞(さい)の神」で、村人の幸せを守る神様です。

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<芦安大曽利地区の道祖神>

 芦安の各地区では道祖神に加工しやすいヌルデの木で作った「オデク」と呼ばれる刀・弓・男性のシンボルなどを模したものをお供えし厄払いや子孫繁栄などを祈る風習が伝わります。顔の描かれたものは「オホンダレサマ」と呼ばれています。

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 かつて小正月には、市内各地の道祖神場に神の依代(よりしろ)の目印とされる「神木」と、神がこもる仮神殿としての「オコヤ」が作られました。

 これらは県内であっても地域ごとに飾り方に特徴があり、バリエーションに富んでいるのが特徴と言えます。暮らしている方々にとって何気ない風景の中に、南アルプス市らしさを語る資源があるのですね。

 13日までにお飾りやお団子などの準備をし、14日に祭典やどんど焼きをし、どんど焼きの灰を家の周りに撒いて虫除けをし、15日には小豆粥を食べる。そんな風景がかつてはどこにでもあったようです。 

「神木」

 神木のかたちには県内でも多くみられる「オヤナギ」と呼ばれる柳形や、菱形の飾り、また、南アルプス市の特徴といえる梵天をさす形もあります。

 市之瀬台地の周辺にある平岡区や下市之瀬区などではご神木の飾りのことや、お飾りを用意し設置する一連の作業そのものを「フジノヤマ」、「フジノオヤマ」と呼び、この地域独特の風習と言えます。

 下市之瀬区や上市之瀬区のご神木には梵天だけが飾られますが、市内の多くの地域では梵天とオヤナギを組み合わせているものが多いです。ただし、中野区の神戸地区や平岡区の各小路では、梵天とオヤナギに加えて、通常東郡などでよくみられる菱形も飾りも加わるなど、様々な地域の要素が織り交ぜられた飾りになっているのが独特といえます。

 平岡区ではこの菱形の飾りを「弓」と呼んでいますが、お隣の上宮地区田頭(たがしら)地区のご神木には「弓」そのものが飾られるという、これもまた全県下でも珍しい飾りとなっています。 

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<下市之瀬の道祖神場の飾り>

 ご神木には梵天のみが飾られ、このご神木のことを地域では「フジノヤマ」「フジノオヤマ」と呼んでいます。 

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<上市之瀬の5組・6組の道祖神場の飾り>

 上市之瀬区では各組ごとに道祖神場があり、ご神木には梵天のみが飾られます。

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<小笠原区上町の道祖神場の飾り>

 小笠原区は小路ごとに道祖神場があります。ご神木には梵天とオヤナギが飾られています。

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<中野区宮之前地区の道祖神場の飾り>

 オヤナギのみが飾られるシンプルなご神木飾りです。

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<平岡区の道祖神場の飾り>

 「オヤナギ」と菱形、さらに梵天も組み合わせた独特な姿の神木もあります(中野区神戸)。

Photo_9<上宮地区田頭の弓の飾り>

 今年は大雪の予報があったからかビニールがかけられていましたが、梵天と弓矢だけの珍しい神木飾りです。 

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「小屋」と「どんど焼き」

 「オコヤ」とも呼ばれ、いくつかの形態があり、小屋形をしたものや、円錐形をした「左義長(さぎちょう)」、さらに四角柱のものなどがあります。

 「左義長」は「どんど焼き」の起源とも言われ、古代・中世の宮中行事であった正月飾りや短冊などを炊き上げたもので、宮中の庭に青竹を束ねて毬杖(ぎっちょう)を結び、扇子・短冊などを添え、陰陽師(おんみょうじ)がその年の吉凶を占ったというもので、これが民間に伝わり現在の「どんど焼き」になったと言われています。

 また、どんど焼きの語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)や」とはやし立てた言葉がなまったためとか、火がどんどん燃える様子からつけられたなどと言われています。

 火は古代から神聖で神が宿るものとされ、米粉で繭をかたどった団子をつくり、どんど焼きの火で焼き、その団子を食べると風邪をひかないと言われています。

 山梨では、古くから養蚕が農民の現金収入を支えていたため、繭玉団子には養蚕の繁盛を祈る心も込められました。

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<戸田地区のどんど焼き>

 ムラマワリを終えた獅子がどんど焼きの会場となる広場に帰ってくるといよいよオコヤに火が入れられ、市内最大規模のどんど焼きが始まります。 

「オコヤ」にも地域の特色がある

 「オコヤ」の素材にはその地域のものが用いられるため、水田地帯では稲藁が、山沿いでは山の木々が用いられています。

 市内では「左義長」形は山沿いの地域に多い傾向がみられ、小屋型のものは比較的少なく、曲輪田区に多く見られます。その他は水田地帯を中心に四角柱が最も多く、甲西地区戸田や宮沢の「オコヤ」は規模が大きく圧巻です。また、甲西の滝沢川沿いでは各地区のオコヤが並ぶ姿もまた風物詩となっています。ただし、市街地を中心にオコヤ自体を作らずに通常の焚き火のようにどんど焼きを行う地域も増えてきました。 

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<戸田区のオコヤ>

 戸田のオコヤは4m四方で市内最大規模です。地区の男性陣が組み上げます。今年は雪の降った8日に行われたため雪の積もったどんど焼きとなりました。

101_1<築山区のオコヤ>

 左義長形のオコヤで、山の木を用いて建てられています。

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<桃園区のオコヤ>

 桃園区でも同じく左義長形のオコヤですが、周囲の稲藁を用いて建てられています。(平成20年撮影)

12<加賀美区のオコヤ>

 水田地帯では稲藁を用いたオコヤが多く、小屋形や四角柱のオコヤが多いのが特徴です。(平成20年撮影)

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<曲輪田区峰村小路のオコヤ>

 曲輪田峯村小路のどんど焼きは14日に行われ、小屋形のオコヤを建て、火入れのまえに高砂を謡い、その後道祖神場で獅子舞を奉納するなど。伝統が色濃く伝わる地域のひとつといえます。

【獅子舞】

 かつては小正月行事に獅子舞は付き物でした。今でも下市之瀬区や曲輪田区峯村小路では「ムラマワリ」といって全戸をまわり幕の舞や梵天の舞を舞う伝統が継承されておりますし、また、新婚や出産、新築などのようなお祝い事のあるお宅には家の中へで舞う「舞い込み」も行っています。西南湖区ではお祝いのあるお宅への舞い込みが残されており、ほかの地域でも、舞の種類は継承されなくても獅子舞が村を廻るもの、また、鏡中條区や平岡区のように道祖神場へ獅子頭だけを供えるものなど、地域によって簡略され具合が異なるものの、かつての名残を伝えています。

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<曲輪田峰村小路の獅子舞>

 どんど焼きの火入れをした後に道祖神場にて獅子舞(幕の舞・梵天の舞)が奉納され、翌日には集落全戸をめぐるムラマワリが行われます。市指定無形民俗文化財。

 

15_3<下市之瀬の獅子舞>

 下市之瀬の獅子舞は、雌獅子であり、また、段物と呼ばれる江戸時代人気だった物語も舞われるのが特徴で、この伝統は西南湖地区へも伝承されていきます。

152_3 今年はムラマワリは8日に行われ、全戸で梵天の舞を舞って火伏せを願い、お祝いのあるお宅には舞い込みを行います。また、どんど焼きの火には道祖神場で舞いが奉納され、奉納直後に火が入ります。県指定無形民俗文化財。

16_2<西南湖の獅子舞>

 西南湖の獅子舞では集落内の舞い込みの際に国指定重要文化財の安藤家住宅でも舞われます。

 今年も安藤家の奥座敷には段物と呼ばれる梅川忠兵衛が舞われました。市指定無形民俗文化財。 

市内各地の小正月

 どんど焼きのあとの灰は、家に持ち帰り軒下にまくと悪い虫が出なくなるとか、田畑にまくとその年の作柄が良くなるとして、それぞれまかれたそうですが、最近ではほとんどみられない風景となってしまいました。

 それでも、オヤナギや梵天は祭典の後に各家に配られ、屋根の上にのせて火伏せを願ったり、厄除けをしたりする風習はまだまだ市内各地に残されています。 

 小正月の行事は道祖神場のお祭りだけでなく、上八田地区のように百万遍念仏を唱える行事が伝わる地域もあります。 

 それぞれの地域でそろぞれの小正月行事が受け継がれているのです。 

 正月の終わりとも位置付けられる小正月の日に一年の無事を祈るこの伝統行事、これからも守り伝えていってほしいですね。

 それでは、今回はこの辺で。今年もよろしくお願いします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を訪れた人々(4)
東山魁夷

落合に響いた「Stille Nacht, heilige Nacht」
~昭和21年1月の思い出~

■1946年(昭和21年)正月 西落合

 太平洋戦争敗戦後、初めて迎える正月の夜。西落合の新津英一家では、戦中に疎開してきた日本画壇の巨匠川崎小虎一家と小虎の長女すみの夫となった東山魁夷が、敗戦に打ちひしがれながらも、小さなこたつを囲んで穏やかな時間を過ごしていました。
 

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 明るくて茶目っ気のあるすみの妹幸子の提案で、新津家、川崎家、東山家総勢15名でトランプが始まりました。ただし負けたら歌を歌う約束つきの遊びです。トランプもほとんど知らなかった新津家の人たちにとって、こんな「罰ゲーム」も初めての経験でした。
 
 ゲームが進む中、ババ抜きで一人の大人が負けて、歌を歌うことになりました。それは後に日本を代表する画家となる東山魁夷でした。彼はその場の誰もが知っている歌を、ドイツ語で歌い始めました。しかし、「先生(魁夷)、ドイツ語じゃわからんじゃんけ」と子供達に言われ、先生は笑いながら日本語で歌い直したといいます。

【イラスト】1946年(昭和21年)正月 西落合地区イメージ
 

Photo【写真】新津家の人々と東山魁夷とすみ夫妻(中央)。川崎小虎の絵の愛好家だった新津光が川崎に親戚の新津英一家を疎開先として紹介した。それが縁で川崎の娘婿の東山も母とともに身をよせることになる。

■2015年9月

 こんな思い出を英一の娘、新津環さんが懐かしそうに話してくれました。しかし、そのドイツ語の歌の名前までは思い出せませんでした。どうしても先生が歌った歌が気になります。手がかりは当時15歳だった環さんの記憶に残る
ドイツ民謡ということで、「かっこう」や「野ばら」などを聴いていただきましたが、どれも違いました。「もっと優しく、静かな曲だったですよ。」
 
 そこで東山の一生を追うと、ひとつの歌にたどりつきました。その歌を環さんに聴いていただくと、この曲ですとの答えが返ってきました。それは「Stille Nacht, heilige Nacht」、日本語名「きよしこの夜」でした。
 
 東山魁夷の著書に、ドイツ留学時に聴いたであろうオーストリアのオーベンドルフの教会で生まれたこの曲が紹介されていました。
 
 「あのような美しい曲が、村の教師によって突然出来てしまったのは、おそらく、作り得たのではなく、与えられたからであろう。」(『馬車よ ゆっくり走れ』1971)
 
 東山魁夷は戦中に父を病気で亡くし、自身も熊本で爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練中に終戦を迎えました。疎開先の西落合に帰ってすぐ11月には母をも亡くし、弟も結核の療養中といった状況で、彼は家族と自身の「死」を否応なく見つめなければならない時期にあったのです。そこに訪れたにぎやかで心安らぐひと時。子供たちの前で歌われたこのやさしい歌には、彼の深い思いが込められていたのでしょう。

Photo_2 東山魁夷が落合に滞在したのは数か月でしたが、その後も新津家との交流は続きました。東山からの手紙には、こんな言葉がつづられていました。「送られてきたぶどうを食べると、あの落合での日々をとても懐かしく思い出します」。

【写真】落合地区で育てられているブドウ

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を訪れた人々(3)
ローウェンホルスト・ムルデル

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 明治時代、近代化を急ぐ新政府は河川や港湾整備のため、明治5年(1872)からオランダ人技術者を招聘します。その一人、ローウェンホルスト・ムルデルは、明治12年(1812)土木工師として日本に来日し、明治15年、御勅使川や滝沢川など、富士川(釜無川)の支流である諸河川の調査で南アルプス市の土を踏むことになります。
 ムルデルは1848年、オランダのライデンで生まれ、デルフトの王立土木工学高等専門学校を卒業しました。熊本県三宇城市三角港(みすみこう)の建設や利根川運河の整備など、日本に滞在した約11年の間に、日本の港湾建設や治水・砂防に大きな足跡を残しました。
 ここで調査結果を基にムルデルが作成した「山梨・静岡両県下富士川巡視復命」(明治16年)をやや長文ですが引用してみます。

【写真】ムルデル

■御勅使川

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 更に下り韮崎の少しく下に至り、一支流(右支)の釜無川に注ぐあり是最大にして又不潔なる者の一なり乃ち御勅使川是なり此川は二口を以て幹河に入る。一を御勅使川と云ひ、一を前御勅使川と云ふ。此両川は交りも軽重を相為し、或は甲の主たるあり、或は乙の主たるあり。其床甚動き昜き砂石にして高水毎に変化を生じ之れを流下する至穢の水溝は大小乃方向を変ず余少しく分流の上に遡り而して是亦屡々地の大小の壌崩乃此川并に之の帰する支流の岸の侵蝕ありて、此主因をなすを証明せり。又爰の戓、夛々の樹木を伐採し峻嶮なる山腹に沿ふて渟落せしむるに因り凶状を加へ、新に壌崩を生ずる所あるに遇へり。
此地方に於て田地を灌漑し水車を運転するに供する溝渠の事に就ては、余県官に勧告する所あり。其要点左の如し。
 則ち斯の如き溝を設くるの許可を興ふるに方つては兼て其利害関係の者に義務を負はしむるを緊要とす。戓は溝内の速力岸乃び底を侵蝕するが如く大ならざる様之を設くべき事、或は其大速力を避くる能はざる時は底及び岸を護するに強固なる石の被覆をに以てし又水をして階段状に小堰を越て流落せしめ以て其溝をして汚物を伴て終に川に帰せしむる無きを図る事の如き是なり。

【写真】現代の御勅使川

■瀧澤川 ツボ川

 笛吹川の下に至り更に右側に滝沢川なるものあり、是其吐口近傍にツボ川と会し、而後二流相合して富士川に注ぐ。両川の上は、上に既に反覆言ふ所と同一の弊あり。許夛の壌崩及び右岸の侵蝕を現せり。両川の床は砂にして其長さの過半に亘り高く平地の上に凡立す。聞く処に拠れば、三十年末、其高堆必ず十尺に及べりとす。此高堆は尚常に歇まず、故に汎溢及び卑田荒廃害年を遂て増加す。旦其堤防只砂礫より成るが故に、殊に水を防ぐの力微なり。其他上流には河床の広さ充分なるも下流に至りては甚だ狭窄と為り、大雨に際しては下り来るの水量を容るに足らざるが如し。」
 この復命からは、明治10年代の御勅使川の状況やオランダ人技術者ならではの視点を読み取ることができます。
 「是最大にして又不潔なる者の一なり乃ち御勅使川是なり」の文言からは、いかに御勅使川が洪水を起こす川で問題が大きかったかがうかがえます。また、急峻な山の樹木を伐採することによって、被害が拡大している点も指摘されており、砂防の必要性が示されています。

 滝沢川と坪川での報告では、「両川の床は砂にして其長さの過半に亘り高く平地の上に凡立す。聞く処に拠れば、三十年末、其高堆必ず十尺に及べりとす。」とあり、二つの河川の河床が山々から侵食された砂であるため平地より川床が高く、いわゆる天井川であった状況が報告されています。さらに河川が合流する下流地域では、河川の広さが十分確保できていないとの指摘がなされています。
 このムルデルの建言を受けて、早くも明治16年から御勅使川で初めて内務省による直轄砂防工事が行われることとなり、御勅使川沿いには多数の巨石積み砂防堰堤が築かれました。残念ながら、それらの堰堤は御勅使川の猛威には太刀打ちできず、その多くが流失や破損しました。しかし、砂防の伝統は引き継がれ、明治43年に政府によって「第一次治水計画」が策定されると、大正5年には御勅使川上流の芦安地区に日本で初めて本格的なコンクリート堰堤が設置されました。コンクリート堰堤を代表する砂防技術は、現在までに世界各地へ広まっており、世界の標準語として「SABO」と呼ばれています。

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 御勅使川の砂防事業は、日本を代表する近代砂防の礎であり、現代でも多くの技術者がこの地を訪れます。平成26年度には、インドからの視察団もこの地を訪れました。オランダ人技術者のムルデルが端緒を開いた御勅使川の砂防技術によって、甲府盆地に生きる私たちの暮らしが今でも支えられているのです。




【写真】芦安堰堤を訪れたインド視察団

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を訪れた人々(2)
伊能忠敬 その2

 日本最初の測量図であり、甲斐国も描かれた「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」。この地図を作成した伊能忠敬は、南アルプス市内も測量し、その結果を伊能図に描きました。前回は文化8年(1811)4月23日韮崎宿か西郡道を南下し荊沢宿まで測量した先手隊のルートをたどりました。今回は韮崎宿から甲府城を経由し、「河内路」のルートで身延を目指した忠敬本隊の測量ルートを、忠敬の日記から辿ってみましょう。

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【図】伊能図 ルート模式図
 
「同二十四日 朝より晴。我等、下河辺、青木、箱田、平助、六ツ後甲府柳町出立。山梨郡府中西青沼村界より初、野田松三郎御代官所巨摩郡高畑村、同上、下同前、下石田村、清水新居村、上条新居村、西条村、自此中村八太夫御代官所、河東中島村、河西村、布施村、山神村、臼井阿原村、西花輪村、浅原村、釜無川迄測る。先後手合測、二里十三町四十三間二尺。坂部、永井、梁田、上田、長蔵、巨摩郡中村御代官所荊沢駅より初、長沢村字新田、青柳村追分制札迄測る。法印を残す。二十四町四十六間五尺五寸、鰍沢村、(駅。)字新田、戸川原水無九十間鰍沢駅本陣前迄測る。十五町三十三間、又法印より初、甲府街道逆測、大椚村、東南胡村、両手中食庄屋吉兵衛、西南湖村、浅原村地先、藤田村地先、浅原村、居村、釜無川にて別手と合測。一里十七町三十間。合二里二十一町四十九間五尺五寸。鰍沢駅九ツ後着、止宿本陣名主問屋兼帯弥一右衛門、坂部宿問屋喜平治。下河辺、青木、永井宿百姓代清左衛門。此夜晴天測る。」(佐久間達夫1988『伊能忠敬測量日記』より)
 
 4月23日、韮崎宿で先手隊と別れ甲府を目指した伊能忠敬本隊は、甲府の役所に寄り、4月24日「河内路」ルートで身延を目指しました。「河内路」とは甲斐国と駿河国を結ぶ古道で、現在の南巨摩郡、かつての東西河内領を通るためこの名称で呼ばれました。また甲府から身延山久遠寺への参詣道として利用されたため「身延路」とも称されました。日記によれば、甲府から荒川を渡って高畑村に入り、西条村や河東中島村、臼井阿原を通って釜無川左岸の浅原村に至り、釜無川まで測って先手隊と合流したと記録されています。釜無川の横断には「浅原の渡し」と呼ばれる渡舟が利用されたのでしょう。

 一方、西郡道を南下した先手隊は、同24日荊沢宿を出立し、長沢村を通過して鰍沢駅まで南下した後、北東へ転じて甲府方面へ向かい、南アルプス市内の東南湖村、西南湖村を北上して街道沿いを測量し、浅原村の釜無川で本隊と合流しました。このルートで注目されるのは、東南湖村の北の入り口にかつて存在した「曲尺手(かねんて)」です。『河内路・西郡道』(山梨県教育委員会 1986)に掲載された文化3年の東南湖村絵図には、カギの手状の「曲尺手」が描かれていますが、伊能図でも同地点で「曲尺手」が表現されているのです。「曲尺手」は現在残っておらず、近世の東南湖村の構造を知る上で貴重な資料となっています。

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【図】伊能図 東南湖 かねんて
 
 これまで見てきたように、伊能図は文化年間当時の道や集落、寺社、山などさまざまな情報を現代に伝えてくれます。同時に地図を俯瞰してみると、街道沿いではない地域、つまり測量していない地域は描かれていないことがわかります。伊能図は、あくまで現地測量に基づいた「測量図」なのです。南アルプス市域が伊能忠敬隊によって測量されたのは、「西郡道」や「河内路」など主要な古い街道が通っていたからですが、山と海を結ぶルート上に立地しているその地勢が、その背景にあると考えられます。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を訪れた人々(1)
伊能忠敬 その1

 歴史を鑑みると、交易や布教、戦、開発、測量、治水、砂防、疎開、登山など、さまざまな目的でさまざまな人々が南アルプス市を訪れました。今回から数回にわたり南アルプス市を訪れた人々の足跡をご紹介します。
 
 日本最初の測量図「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」※1は、教科書にも掲載されるほど有名な測量図です。この地図を作成した伊能忠敬は、甲斐国そして南アルプス市域も訪れ、詳細な地図を作成しました。

A_2【図】大日本沿海輿地全図 甲斐・信濃 部分(南アルプス芦安山岳館蔵)

A_6 【画】忠敬肖像画「千葉県香取市
伊能忠敬記念館所蔵」

 伊能忠敬は上総国(千葉県九十九里町)に生まれ、江戸時代後期に活躍した商人です。隠居した後の寛政7年(1795)、なんと50歳から江戸に出て天文学や測量を学び、55歳の寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけて全国を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させました。別名伊能図とも呼ばれる全図は、縮尺によって大図(1/36,000 全214枚)、中図(1/216,000 全8枚)、小図(1/432,000 全3枚)に分けられています。
 
 忠敬が甲斐国を測量したのは、17年間計10回の全国測量のうち、九州に遠征した際の7回目と8回目です。南アルプス市域には7回目の遠征(文化6~8年)で訪れ、文化8年4月に九州から江戸へ帰る途中で信州から甲州街道へ入り、4月22日に韮崎宿に宿をとりました。翌日、忠敬の測量隊は甲府を経由して身延を目指しますが、別の先手は「駿信往還」を南下し、直接身延を目指すルートをとりました。ここで忠敬が記した日記から、先手隊の測量ルートを辿ってみましょう。
 
四月二十三日
朝雲次第に晴る。一同六ツ後韮崎宿出立。先手(中略)甲州武川筋甘利郷七割の内、下条東割村、下条南割村枝石宮、御勅使河原、百五十間、六科村字門脇、百々村、右飯野村、左在家塚村、同吉田枝中村八太夫御代官沢登村、桃園村、両村字新田、以下中村八太夫御代官所、左右桃園村、滝沢川幅四十五間、小笠原村、中食、下宮地村、御朱印十六、三輪大明神領神主長沢石見、鮎沢村、古市場村、荊沢村駅制札迄測る。三里二十一町二十九間一尺、九ツ後着、止宿百姓文蔵。(佐久間達夫1988『伊能忠敬測量日記』より)
 
 先手隊は日の出ごろの六つ時に韮崎宿を出発し、正午ごろの九つ時には荊沢宿に着いて市川文蔵家に宿泊しています。到着は正午という比較的早い時間ですが、測量の計算などが残るため、意外と早く外の作業を切りあげていたのかもしれません。この日の移動総距離は約14.1km、現在の徒歩の速度でも約4時間半かかることを考えると、測量しながらの行程としては非常に早い印象を受けます。宿泊先となった市川文蔵家は西郡屈指の豪農でした。忠敬の測量はこの7回目の遠征で幕府の正式な事業となっていたことから、宿泊場所もそれにふさわしい荊沢村の名主宅が選ばれたと考えられます。

 
 日記には御勅使川と滝沢川の川幅がそれぞれ150間(約272.7m)、45間(約81.8m)と、当時の正確な川幅の記録なども見られます。こうした情報をもとに作成された大図に目を向けると、御勅使川の旧流路である前御勅使川も表現されています。大図には荊沢宿の北側の入口で道路が直角に曲がる「曲尺手(かねんて)」が表現されるなど、「駿信往還」別名「西郡道」が詳細に測量されています。同往還沿いには近隣の村々、三輪明神や伝嗣院などの代表的な社寺、琵琶ヶ池などの地名も表現されています。また、現在の鳳凰三山とは順序と名称が異なる「鳳凰岳、観音岳、地蔵岳」や北岳である「白根岳」、苗敷山を意味する「虚空蔵岳」など、当時の人々の山の認識を知る重要な情報も描かれています。

A_4【図】先手が測量した西郡道

A_3【図】荊沢(ばらざわ)宿のカネンテ


 次回は甲府を経由し浅原から鰍沢へ至る忠敬本隊の測量ルートを辿ります。
 
※1 伊能忠敬の死後に地図がまとめられ、文政4年(1821)に幕府に献上された。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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南アルプス市を駆けた武田家家臣 その6

■ 土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)
  武田家と命運をともにした武将

 
 土屋昌恒は先月ご紹介した土屋昌続の弟で、南アルプス市徳永を拠点とした金丸虎義の五男として生まれました。成長すると駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋姓を名乗ります。信玄の病没後、その家督を継いだ武田勝頼の側近となりました。天正3年(1575)、武田軍が織田・徳川連合軍に長篠の戦いで敗れ、兄昌続が戦死したため、昌続の「土屋」姓も継承することになります。

 天正9年12月、武田勝頼は韮崎市七里ヶ岩の上に新しい府中である新府城を築き武田家の再建を目指しますが、翌年の1月末に美濃との国境を守る木曽義昌が反旗をひるがえして織田と結ぶと、伊那・飛騨から織田軍、駿河から徳川軍、伊豆、相模から北条軍の侵攻が一気に始まります。さらに信玄の娘を妻としている親族衆穴山梅雪までもが徳川家康に寝返るなど、武田軍は主だった反撃もできないまま総崩れとなり、勝頼は3月3日には完成したばかりの新府城を捨てて、譜代の家臣小山田信茂(おやまだのぶしげ)の薦めた郡内の岩殿城を目指すことになります。この時付き従う家臣は土屋昌恒はじめおよそ六百名でしたが、郡内へ向かう途中にも多くが離反し、さらに小山田信茂までもが裏切ったため、一行は笹子峠を越えることができませんでした。

 3月11日、昌恒ほか勝頼一行は五千もの織田軍に現在の甲州市大和町田野に追い詰められます。数万の軍勢を動かしてきた武田家もこの時まで勝頼に従った武将はわずか四十数人。その中には昌恒だけでなく弟二人も付き従っていました。昌恒は、すでに勝敗が決している戦いの中で大軍を前に弓で奮戦し、最後まで勝頼を守り続けました。昌恒の働きは、戦後織田方からも賞賛され、「よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した」と『信長公記』に記されています。また、その活躍から、昌恒が崖の狭い道筋に立ち、片手に蔓、片手に刀を持って押し寄せる敵の大軍を防いだという「土屋惣蔵片手千人斬り」の伝説も生まれました。
 
 天正17年(1589)、徳川家康は鷹狩りの途上、静岡県清見寺を訪れました。そこで一人の子供と出会います。その子がお茶を出す姿に、家康は「尋常の者ならず、何者の子ぞ」と住職に問いました。住職が土屋昌恒の子と伝えるとあの忠臣昌恒の子かといたく納得し、家康が身柄を引き取ります。大河ドラマ「真田丸」で家康が信頼する側室阿茶の局を斉藤由貴さんが演じていますが、昌恒の子はその阿茶の局の養子となり、後に徳川秀忠に仕え(※3)忠直と名乗ります。慶長7年(1602)には千葉県久留里藩(くるりはん)を与えられ、初代土屋藩主となりました。 

 時は流れ元禄14年(1701)に起きた赤穂事件(忠臣蔵)に、忠直の子孫たちは深く関係します。一人は土浦藩主で事件当時老中職にあった土屋政直(まさなお)で赤穂浪士を裁く立場となり、もう一人は敵役吉良邸の隣に住んだ土屋主税(ちから)で、討ち入りを見逃すだけでなく高提灯を掲げ赤穂浪士を助けたといわれています。
 
 最後まで武田家と命運をともにした昌恒の血筋は、時を超え現在でも全国に広がっています。

Ahaka_3 【写真】昭和40年代土屋昌恒の墓(徳永)

A1280pxkatsuyori_died_at_m 【写真】『天目山勝頼討死図』歌川国綱

【南アルプス市教育委員会文化財課】