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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を駆けた武田家家臣 その5

■ 土屋昌続(つちやまさつぐ)
 
 土屋昌続は、南アルプス市徳永を拠点とした金丸虎義の次男で、主に武田信玄に仕え、信玄病没後は家督を継いだ勝頼を支えました。『甲陽軍艦』によれば永禄4年(1561)の川中島の戦いでは、上杉軍の奇襲を受け動揺する武田軍の中で、昌続だけが動じずに本陣の信玄を守り続けたといいます。その功績から甲斐の名門「土屋」の名跡を継ぐことを信玄から許されたとも言われます。跡部勝資(南アルプス市を駆けた武田家臣団その2)の際にも触れましたが、昌続は信玄の時代では最も多く朱印状を奉じた奉者であり、「甲府にての奉者」と呼ばれました。信玄は信玄堤(龍王御川除)を築堤し、釜無川の治水政策を行ったことは広く知られていますが、天正2年(1574)現在の中央市に位置する山之神郷に対しても治水工事を命じた朱印状が残されており、この朱印状の奉者は昌続が務めています。信玄、勝頼と武田家を支えてきた昌続は、天正3年(1575)武田家が織田・徳川連合軍に敗北した長篠の戦いで譜代の重臣とともに討ち死にし、その生涯に幕を閉じました。

A_8 【写真】金丸氏館跡(現長盛院)

 土屋姓以前、昌続は金丸平八郎と名乗っていました。『甲斐国志』には、南アルプス市徳永に位置する曹洞宗寺院長盛院境内が昌続の実家である金丸氏の「数代ノ居址ナリ」との記述があります。実際に長盛院は御勅使川扇状地扇端部の東側を釜無川が削りとった崖上に位置していて、館にふさわしい立地条件を備えています。さらに現在でも長盛院の西側には土塁と堀跡が残されていて、土塁の中央には虎口と推測される約3mほど土塁が途切れた部分も見られます。本来土塁は北側にもめぐっていましたが、現在は削平され、墓地の基壇にその面影を見ることができます。また、明治28年古寺調査書に添付された境内図には、土塁を示す「堤」が西側だけでなく南側に描かれていることから、南側にも土塁が続いていたことがわかります。こうした天然の崖と土塁、堀で守られた金丸氏の館も武田家滅亡の際、兵火にかかり消失しました。現在の長盛院は延宝5年(1677)(甲斐国志では延宝4年)、長盛院九代序法によって金丸氏館跡地に移転されたものです。

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【写真左】長盛院西側に残る土塁と堀跡

【写真右】明治28年長盛院境内図

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その4

■河村 道雅(かわむらみちまさ)

 下野守(しもつけのかみ)の官途名を持つ河村道雅については、前回紹介した原虎吉以上に史料が乏しく、現在その人物像に迫ることは難しいのですが、『甲陽軍鑑』によれば、内藤外記とともに「御なんど(納戸)奉行(※)」に任じられていたことが分ります。

 また『甲斐国志』によれば、落合村(現在の南アルプス市落合)の地頭であり、天正10年(1582)の武田家滅亡の際に、勝頼に従って討ち死にしたと伝えられます。法名は、西山常円庵主。
 
 『国志』はまた、妻がその菩提を弔うために屋敷跡を寺にし、「河村山 常泉寺」と号したとも伝えています。常泉寺は、堂宇はすでにありませんが、墓地を含む敷地は現在も南アルプス市落合の県道(いわゆる廃軌道)沿いにあり、道雅の足跡を表す石碑が建てられています。寺を建てた妻は、天正13年(1585)に没し、法名は真如貞春大姉と伝わります。

 なお、地域の伝承では、道雅には幼い息子がありましたが、屋敷が織田・徳川の兵に焼き払われたこともあり、身の迫害や危険を避けるため、河村の姓を継がず、深沢の姓を名乗り東隣地に居住したと伝えられています。
 

A01 【写真】現在の常泉寺(南アルプス市落合148)

A02【写真】川村下総守道雅館跡の碑 

 
 ところで、『甲斐国志』や『甲西町誌』は、道雅ゆかりの常泉寺の本尊を薬師如来としますが、現在の常泉寺の敷地内に安置される仏像に薬師如来像はなく、本尊として祀られているのは「定印(※※)」を結んだ阿弥陀如来坐像です。この阿弥陀如来像は、調査の結果15世紀の造立と考えられ、まさに道雅の生きた時代、常泉寺創建時に近い造立であり、道雅ゆかりの仏像といえそうです。
 
 『国志』などで本尊とされる薬師については、現在は失われた像が別にあったのでしょうか。あるいは、阿弥陀如来像と薬師如来像は、手に載せられた薬壺の有無やそれぞれの手が結ぶ印相から尊名を判断することが多いのですが、この阿弥陀像の両手部分には後に修復された痕跡があることから、造立年代からいっても後補の際に薬師から印相を造り替え、阿弥陀とした可能性も指摘できます。
 

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【写真】道雅ゆかりの阿弥陀如来坐像(常泉寺)
 

 
 ところで、道雅の屋敷跡と伝わる常泉寺は、このシリーズ第1回目で紹介した真田(武藤)昌幸ゆかりの阿弥陀寺の北、わずか150m、第2回で紹介した跡部勝資の屋敷跡、第3回の原野虎吉の菩提寺ともそれぞれ450m、約2kmと、この周辺に近接して武田遺臣の足跡を辿ることができます。周辺には、古代にさかのぼる可能性のある条里型の地割り(※※※)がひろがり「弘法大師伝説」が色濃く残るほか、夢窓国師ゆかりの古長禅寺や重要文化財安藤家住宅など文化財も点在しています。

 現在南アルプス市では、この地域周辺を散策することができるマップを市内各所で配布しており、インターネットからもダウンロードできるようになっています。

 遺跡で散歩vol.4 戦国時代の史跡を歩く
 遺跡で散歩vol.6 弘法大師伝説ゆかりの史跡を歩く

 また、現地でも各所に設置されたQRコードから情報を得ることができます(くわしくはこちら)。みなさんも、南アルプス市内のこの歴史空間を訪れてみてはいかがでしょうか。
 
(※)御納戸奉行 江戸幕府における、「納戸方(納戸頭)」と同様であれば、主君の金銀・衣服・調度の出納、また家臣等からの献上品および家臣等への下賜の金品をつかさどるような役目と考えられます。
(※※)定印 両手を上向きにして、それぞれ親指と人差し指の先を合わせて組む印相(いんそう:仏が両手で示す様々なデスチャー)。定印は、阿弥陀如来の印相として知られます。
(※※※)条里型の地割り 1町(約109m)四方に整えられた、碁盤の目状の土地区画。かつての農業基盤整備の痕跡。現在地上に見られる条里型地割りの多くは、中世以降の施工とされるが、南アルプス市南部に認められるこの地割りについては、発掘調査の結果、その萌芽が平安時代にさかのぼる可能性も指摘されている。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その3

■原 虎吉(はらとらよし)

 大隅守(おおすみのかみ)の官途名で知られる原虎吉については、あまり詳しい史料が残っておらず、生没年も不詳ですが、武田氏の戦略や戦術を記した軍法書である『甲陽軍鑑』には、信玄の「御身近」に仕えた横目衆(※)十人内のひとりに記されています。

 『軍鑑』には、横目衆の中では最多の18回もの感状(※※)を信玄から受けたことや、永禄4年(1561)の第4回川中島の戦いの際には、信玄本陣に単騎乗りこんだ上杉謙信に槍を繰りだし信玄の窮地を救ったエピソードも記され、かなり武芸に秀でた人物であったことがうかがえます。
 
 江戸時代に浮世絵としてしばしば描かれた川中島の戦いの「信玄、謙信一騎打ち」の場面には、しばしば信玄の傍らに槍をもった虎吉が描かれています。また、長野市の八幡原史跡公園(川中島古戦場)には、謙信が武田の本陣に乗り込み、信玄と一騎討ちをした際、駆けつけた虎吉が謙信を討ち損じて、悔し紛れに傍らの石を槍で突き通したと伝えられる「執念の石」があるほか、長野市篠ノ井会(あい)の地蔵寺には、原大隅守の墓と伝わる墓碑ものこされているそうです。
 A01【写真】歌川国芳 川中島合戦 信玄の傍らに原大隅守が描かれる 

 
 なお虎吉は、現在の南アルプス市田島に拠点を持ったとされ、『甲斐国志』によれば法名は「妙太」、田島の妙太寺がその菩提寺といわれています。その妙太寺には本堂の脇に観音堂があり、一躯の観音像が安置されています。

B02 【写真】妙太寺

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【写真】観音堂と由緒

 
 南アルプス市域の村々の中には、水害や地震など、様々な災害によって移転を余儀なくされた村が数多く存在しますが、田島も永禄年間(1558~70)の水害によって、かつて滝沢川の西側にあった村域が流失し、河東の現在地に移転したと伝えられています。神社寺院なども同時に現在地に移されたとされ、滝沢川の西側にのこる古屋敷、天神河原などの小字名から旧居住地をうかがうことができます。

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【写真】田島の移転

 
 現在、妙太寺の観音堂に安置される観音さまについては、平安時代に、甲斐国司であった源頼信が、夢のお告げにより自己所有の観音像(最澄作)を天神宮に奉納したが、その後永禄年間の水害で天神宮とともに流されてしまい、その際虎吉が滝沢川東岸への天神宮再建にあわせ、新たな観音像を彫らせて、旧像にちなみ最澄作として奉納し、明治の神仏分離によって妙太寺に安置されたものといわれています。

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【写真】妙太寺に安置される観音像

 
 しかし、現在のお像は、その尊容等からみて江戸時代の作と考えられ、後背背面の永禄4年、原大隈守の銘も後に刻まれたものと考えられています。その横に「文化度有故望月納」とも記されることから、盗難か焼失か、その理由はわかりませんが、現在のお像は、或いは訳あって文化年間(1804~18)に望月家(※※※)が中心となって新たに奉納されたものかもしれません。

A07 【写真】観音像光背背面の銘文 奉納天神宮寶殿 永禄四辛酉年二月日 原大隅守(花押)


 しかし、古代からの地域における観音様への信仰は途絶えず、昭和53年(1978)には地域の人々の努力によって妙太寺境内に観音堂が整備されました。古代から守られ、原大隅守虎吉が伝え、その後も地域の人々の大切に信仰されてきた観音さま。そのお姿は変っていってしまったかもしれませんが、観音さまへ寄せる地域の人々の思いは些かも変ることなく、間違いなく未来へもリレーされていくことでしょう。
 
【参考引用文献】
柴辻俊六ほか編2008『武田氏家臣団人名辞典』
 
(※)横目衆 『甲陽軍鑑』によれば、他の家臣を監視し、家臣の様子を信玄に報告したほか、甲州に通ずる各筋の警護なども行った役職のようです。
(※※)感状(かんじょう) 主として軍事面において特別な功労を果たした下位の者に対して、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。(Wikipedia)
(※※※)望月家 望月家は代々、田島の名主役を務めてきた家のひとつです。
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市を駆けた武田家臣団 その2

■跡部勝資(あとべかつすけ)
 
 大炊助(おおいのすけ)の官途名で知られる跡部勝資(生年不詳)は、信玄、勝頼の二代にわたって、主君の間近に側近として控え、外交、内政ありとあらゆる分野に関わった官僚といわれています。
 このことは、武田氏家臣団の中で、最も多くの朱印状を奉じていることからもうかがえます。この当時、当主である信玄や勝頼への訴えに対する証文や裁定は、直接当主の名で行うのではなく、当主の意を受けた「取り次ぎ者(奉者)」が、武田家の公印である「竜朱印(竜をかたどった印鑑)」とともに「○○奉之(奉者名これをうけたまわる)」と記して、奉者の名で出されることが普通でした。
 

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【写真】奉書式朱印状の例  永禄11年(1568)甲斐善光寺の金堂建設のための木材を天神宮の森から伐りだすことを認めたもの。武田家の竜朱印とともに「跡部大炊助奉之」とみえる。(善光寺文書 『山梨県史』所収)

 
 勝資が奉者となった朱印状は確認されている限りで、現在200通を超え、総数で約150通が知られる2位の土屋昌続を圧倒しており、勝資の家臣団における位置を知ることができます。また、『甲陽軍鑑』によれば、勝資は侍大将として300騎を率いたとされますが、この数は譜代家老衆は春日虎綱に次ぎ、山県昌景とともに2番目の数です。
 もっとも、奉者となった朱印状の数は、信玄期では土屋昌続の方が多かったことが知られ、勝資は勝頼の時代なって、より重用された側近であることがわかります。その朱印状奉者としての独占的ともいえる地位を得た背景としては、武田氏の領土拡大にともなって有力な側近層が城代として転出したことや、土屋昌続が天正3年(1575)長篠の戦いで戦死ことなどにより、甲府における側近の顔ぶれが限定されたことなども指摘されています。
 
 このような中、上杉氏との同盟構築を持ちかけられた際、すでに北条と同盟を結んだとして独断でこれを拒絶したばかりか、条件が以前と変らないため信玄・勝頼に披露するに及ばない、とまでいって言い切ったエピソードが伝えられており、このような独占的立場から、他の譜代の家老衆とは対立があったとも伝えられます。
 そのためでしょうか勝資が長篠の戦いで主戦論を唱え、これが大敗を招いたとか、天正10年(1582)武田家滅亡の際、実際は、勝頼に従って討死した可能性が高いのですが、途中で逃亡したのだとか、余り芳しくない話が記される史料も多くみられます。
 
 勝資は当時、現在の南アルプス市大師周辺に所領を有していたと推定されており、江戸時代の地誌『甲斐国志』には、了泉寺(りょうせんじ)の項に「跡部大炊介屋敷迹ヲ為寺ト云」とみえ、現在の了泉寺がその屋敷跡と伝えられています。また、了泉寺の南東約350mに位置する宮沢の深向院(しんこういん)は、真言宗であったものを、勝資が曹洞宗寺院として再興したものといわれています。
 

 

【写真】勝資の屋敷跡と伝えられる了泉寺
平成28年2月、南アルプス市教育委員会は、勝資と南アルプス市とのゆかりを示す説明板を了泉寺に設置した。(南アルプス市大師587)
 

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【写真】勝資が再興した深向院
本尊釈迦如来坐像(県指定)は、南北朝時代の作。勝資も拝んだことでしょう。(南アルプス市宮沢1172)
 
 なお跡部氏は、現在の南アルプス市小笠原周辺に拠点を持った、甲斐源氏小笠原長清の孫、長朝が、信濃国佐久郡跡部(現在の長野県佐久市跡部)に拠って名字の地としたことに始まるとさています。その後甲斐国に入り、勝資の父、祖慶(そけい『甲斐国志』および菩提寺である攀桂寺の記録では名を信秋とする)の頃には武田氏の家臣として甲府盆地北部の千塚周辺に所領をもったようです。
 菩提寺である甲府市千塚の攀桂寺(はんけいじ)には、祖慶夫妻および息子勝資の位牌が納められています。背面に「元禄十四辛巳年 十月日 跡部宮内源良顕 施主」と見え、元禄14年(1701)に子孫である跡部良顕が奉納したものであることがわかります。良顕は、徳川幕府の旗本で、神道家としても知られる人物です。なお祖慶の位牌の背面には、「小笠末葉」ともみえ、これが「小笠原氏の末葉」の意であるとすれば、やはり南アルプス市域に源を発する始祖小笠原とのゆかりは、記して誇るべき出自だったのでしょう。
 

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【写真】跡部家の菩提寺と伝えられる攀桂寺(甲府市千塚4-2-29)

5 【写真】跡部勝資の位牌(攀桂寺)

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【写真】跡部祖慶とその妻の位牌(攀桂寺)
祖慶の位牌の背面には「小笠末葉」と記される
 
【参考引用文献】
柴辻俊六編2008『新編武田信玄のすべて』
柴辻俊六ほか編2008『武田氏家臣団人名辞典』
平山優・丸島和洋編2008『戦国大名武田氏の権力と支配』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市域を駆けた武田家臣団 その1

■真田昌幸(さなだまさゆき)
 
 今年のNHK大河ドラマは「真田丸」。大坂冬の陣の際、大坂城にいわゆる「真田丸」を築いて奮戦したことで知られる真田信繁(のぶしげ、通称:幸村)の活躍が描かれます。 
 久々の戦国時代モノです。そこで今回から数回にわたり、戦国時代に活躍した武田家臣団のうち、南アルプス市域にゆかりのある武将たちを取り上げてみたいと思います。
 
 第一回は、主人公真田信繁の父、大河では草刈正雄さん演じる真田昌幸です。後世の浮世絵に描かれるなど、息子信繁と共にとても有名な武将ですが、その昌幸が南アルプス市域にゆかりがあることは、あまり知られていないのではないでしょうか。

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真田昌幸(出典wikipedia.org)

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江戸時代の浮世絵に描かれる昌幸(真田昌幸筑摩川一番乗)

 
 昌幸は、天文16年(1547)、信濃国小県郡真田郷(現在の長野県上田市)の国衆、真田幸綱の三男として生まれました。三男坊ですので家督を継ぐ可能性は低く、当初は真田が武田家へ忠誠を誓う証(人質)として、信玄のもとに差し出されました。しかし、その才能はすぐに信玄に認められ、永禄4年(1561)の第四回川中島戦で初陣をはたし(15歳)、奥近習から後に侍大将に抜擢されたといわれています。
 『甲陽軍艦』には、同じ側近で、武田二十四将に数えられることもある、三枝昌貞、曾根昌世とともに、信玄に「わが両眼の如く」とまで称されたとあり、信玄の昌幸への信頼の厚さを垣間見ることができます。
 
 そんな、昌幸だからでしょうか、信玄の命により、当主が幼くして亡くなった武田親類衆の武藤家を継ぐことになります。外様の国衆の三男坊に過ぎなかったものが、武田家の親類筋の当主になるのですから大出世といえます。この当時武田家において、有能な家臣に断絶した名家を相続させる例は他にも多くあり、南アルプス市徳永を拠点とした金丸氏の昌続が土屋姓を継いだ例や、教来石(きょうらいし)景政が馬場姓を継いで馬場信春となった例などが知られています。
 昌幸が武藤の名跡を継いだ時期はよくわかっていませんが、史料には元亀三年(1572)から武藤喜兵衛尉として登場します(26歳)。
 
 武藤氏は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の元暦元年(1184)の条に、甲斐源氏一条忠頼の甥として武藤与一という名がみえるので、この頃まで遡る可能性がありますが、戦国期の武藤氏は、武田信玄の生母大井夫人の実弟で大井信達(のぶさと)の息子、三郎左衛門尉信堯(のぶたか)が、絶えていた武藤の名跡を継いだことに始まるといわれています。武藤氏の本拠は、現在の南アルプス市落合~荊沢(ばらざわ)周辺と考えられることから、その屋敷がどこにあったのか、現在は必ずしも明らかではないものの、養子時代の昌幸が市域に居を構えた可能性は高いといえます。

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当時の昌幸の拠点


 昌幸はその後、天正3年(1575)の長篠合戦で真田家の長男信綱、次男昌輝が戦死したことを受けて、真田に復姓して武藤を離れてしまうため(28歳)、南アルプス市域に暮らしたのは、その間わずか数年かもしれませんが、若き日の昌幸と南アルプス市のゆかりをうかがうことができます。
 その後戦国時代を生き抜き、慶長16年(1611)に享年65で世を去った昌幸の後半生は、大河ドラマなどをご覧ください。
 ちなみに今回のNHK大河「真田丸」の時代考証をしておられる平山優(ひらやまゆう)先生は、現在南アルプス市内にご在住で、市の文化財保護審議委員もしてくださっています。
 
 平成28年2月、南アルプス市教育委員会は、昌幸と南アルプス市とのゆかりを示す説明板を南アルプス市荊沢の阿弥陀寺に設置しました。阿弥陀寺は、武田家の奉行を勤め、昌幸の後に武藤を継いだとされる武藤三河守が、甲斐源氏加賀美遠光の崇敬した阿弥陀堂を整備したものといわれる武藤氏の菩提寺です。(阿弥陀寺:南アルプス市荊沢339)

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阿弥陀寺

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説明板

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

縄文の話をしましょう その4
~全国の土偶ファンに愛される「子宝の女神 ラヴィ」~

縄文ブームふたたび
 先月ご紹介した「サル」の土製品、実は新年を迎え、全国の新聞で紹介されています。
新年の特集企画「干支の日本史」というシリーズが全国の地方紙の企画として連載され、その第1弾が鋳物師屋遺跡のサル特集なのです。
 今、ふたたび縄文文化に注目が集まっているようですね。テレビや新聞、ラジオなどで縄文や土偶に関する番組・コラムなどが続々とスタートしています。 

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【写真】鋳物師屋遺跡の円錐形土偶「子宝の女神 ラヴィ」とサルの土製品
 

 その象徴ともいえるイベントが昨年行われています。全国の土偶キャラクターの頂点を決めるインターネット投票「全国どぐキャラ総選挙」です。皆さんの記憶にもまだ新しいかもしれませんが、そこで優勝したのが南アルプス市鋳物師屋遺跡の円錐形土偶「子宝の女神 ラヴィ」なのです。全体の26%を占める得票率の高さは主催者もまた土偶評論家も驚き、地域の方々による地域の資源を盛り上げようという姿勢が称賛されています。

 このイベントへの「立候補」は、この取り組みを通して、地域の方が、地域の歴史文化を見つめなおし、新たに興味をもたれるであろう方々を巻き込みながら、結果として「地域愛」を育む効果を目指したものでした。
 
 今では教育委員会の壁には懸垂幕が掲げられ、キャラクターはイベントで引っ張りだことなり、今では辞令をもらい健康増進課の少子化対策担当でもあるのです。
 

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【写真】教育委員会の壁に設置された懸垂幕

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【写真】市長より辞令を受ける「子宝の女神 ラヴィ」
 

子宝の女神 ラヴィ
 「子宝の女神 ラヴィ」という名は、このキャラクターだけの名前ではありません。キャラクターの元となった「円錐形土偶」そのもののニックネームでもあるのです。
 全国の有名な土偶には学術的な名称とは別に親しみを込めたネックネームがついています。最初の国宝土偶で長野県棚畑遺跡の土偶は「縄文のヴィーナス」と呼ばれています。
 鋳物師屋遺跡の円錐形土偶は、2か年にわたって一般の皆さんからニックネームを募集し、昨年の夏に行われた最終投票によって選ばれたもので、1位の「ラヴィ」と2位の「子宝の女神」を組み合わせたものなのです。
 

 ニックネームの募集にも一定のルールがありました。それは、実物を必ずご覧いただいたうえでの応募・投票としたことでした。つまり、この土偶からは、「子宝」・「女神」・「ラヴィ(フランス語で「命」)」というキーワードが連想されたということだと思います。
 
 「子宝の女神 ラヴィ」は、市内下市之瀬地区に所在する鋳物師屋遺跡から、平成4年~5年にかけて行われた発掘調査で発見されたもので、ほかの205点と合わせて国の重要文化財に指定されています。 

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【写真】二人の「子宝の女神 ラヴィ」
 


子宝の土偶? ラヴィの表現
 全国で発見された土偶は15,000点以上といわれ、そのほとんが、頭部だけ、脚部だけといった一部だけが発見されるのに対し、この土偶は全身が残る非常に珍しいものと言えます。表面に朱が塗られていたようで、目元などの深みのある箇所には塗料が残存しています。その色からも、祈りの対象だったことが想像できます。
 大きく膨らんだそのおなかには新しい命が宿り、左手はその命をいたわりあてがっているように見えます。出産間近なのでしょうか、右手は腰を抑えており、現代の妊婦さんの姿と全く同じ姿です。また、胸の表現の中央には体の中心を示す正中線が見え、おへそが出べそになっているなど、様々な特徴によって妊婦さんであることを表現しているのです。
 安産を願ったのでしょうか。現在よりももっと人間と自然が近しい存在だった時代です。お母さんの命を懸けての出産に、願う思いは大きかったことでしょう。

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【写真】「子宝の女神 ラヴィ」


 
 
日本縄文文化の「顔」
 5000年前の「祈り」が表現されている「子宝の女神 ラヴィ」の姿は世界中の人々を魅了しています。
 これまで国内の展覧会や図鑑などには必ずと言ってもよいほど登場していますが、海外の博物館にも貸出されているのです。しかも、世界最大の博物館とされる「大映博物館」には2度も貸し出されているのです!
 
[海外展への出張歴]
 平成7年 イタリアローマ市立展示館
 平成9年 マレーシア国立博物館
 平成13年 イギリス大英博物館
 平成14年 韓国国立中央博物館
 平成18年 カナダ国立モントリオール博物館
 平成21年 イギリス大英博物館

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【写真】大英博物館での展示の様子
 
 
女神像・・・仕草のある土偶
 全身の残る土偶でも、その多くはいわゆる「やじろべえ」のような姿のものばかりで、「子宝の女神 ラヴィ」のように仕草を見て取れる土偶は少ないのです。山梨県の釈迦堂遺跡ではまさに赤ちゃんが顔を出している瞬間の土偶があるなど、しぐさのある土偶に共通するテーマは「命」「出産」「子育て」といえるようです。他県の遺跡ですが、お母さんが赤ちゃんをおんぶをしたり抱っこをしている土偶もあるのです。

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【写真】北原C遺跡の土偶
 

 上の写真は市内「北原C遺跡」から出土した土偶(あるいは土器の一部としての土偶状の装飾)です。
 やはりおなかには胸の表現がありますので「お母さん」を表現しているように見えます。しかい、顔はいかがでしょうか。上向きの低い鼻につりあがった細い目、まるで生まれたばかりの赤ちゃんのように見えませんか。実は全国の土偶のお顔には赤ちゃんや幼い子供をほうふつさせるものが多いのです。ということはこの土偶は赤ちゃんの顔とお母さんの体を組み合わせたもの・・・やはり、「命」や「出産」をイメージした偶像といえるのかもしれませんね。
 縄文人の願う心や感性は偉大ですね。現代とは違い、より、「自然」と寄り添った時代だからこそ、人間らしい暮らしや、自然や命に祈る心が育まれていったのかもしれません。
 

 冒頭に、今ふたたび縄文ブームが起きているとお伝えしました。きっと、今を生きる私たちがお金を出してでも得ようとしている、エコな暮らし、自然と寄り添った暮らし、ロハスな暮らしを、縄文文化に見出しているからなのかもしれませんね。
 そんな縄文文化の代表といえる土偶たちがいる南アルプス市、そして山梨県。まさに未来を考えるきっかけは足元のすぐそばにあるのかもしれません。

 平成28年1月15日。本日も南アルプス市のふるさと文化伝承館では「ベイビークラブ」が開かれています。縄文展示室で、命の象徴である「子宝の女神 ラヴィ」に見守られながらベイビーマッサージなどを通して母と子の命の絆を深めるゆったりとした時間を過ごしていただいています。
 南アルプス市の歴史資源から、きっと素敵な未来を育むことができるものと信じています。

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【写真】ベイビークラブに集うみなさん
 


 
 縄文ブームが再びというタイミングではあるのですが、今回でこの縄文シリーズは一旦お休みします。また少し間をあけて再開する予定です。おつきあいいただきありがとうございました。 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

縄文の話をしましょう その3
~来年の干支はサルです 日本を代表する縄文時代のサルのお人形~

 今年も残りわずかとなりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
来年の干支は申ですね。サルです。人間にもっとも近い動物のひとつですが、市内の根方(山の裾野の地域)でも時折見かけ、畑を荒らす彼らは今ではすっかり嫌われ者です。でも、人間に似たその動作や表情はどこか和ましてくれます。
 
 サルは神社などで祀られるなど、古くから神の使いと考えられることがありました。
実は、南アルプス市の鋳物師屋遺跡からは、さらに古く、縄文時代のサルの存在を示す資料が見つかっているのです。

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 下市之瀬地区の鋳物師屋遺跡からは縄文時代中期(およそ今から5000年ほど前)のサルの顔をした土製品が出土しており、国の重要文化財に指定されています。
 全国の遺跡(主に本州)から縄文時代のサルの骨などは出土しており、その存在は証明されていますが、サルを模した土製品はそれほど多くはありません。
 また、サルの土製品とされているものでも、サルに似た人間?ともみられる土偶が多く、ここまでリアルにサルを表現し精緻に作られているものは全国でもほぼ例がありません。大変貴重な資料といえます。
 よく観察してみると、ほほの下の鳴き袋まで表現されており、また表面を何度も丁寧に磨いていることもわかります。胴体もあったのでしょうか、首で折れており、体が続いていた事を示す痕がみられます。 右耳は欠損しており復元修復しています。

A_12【写真】修復前の様子(小川忠博氏撮影)

A_13【写真】あごの下からみた様子 

Photo 【写真】上からみた様子

 ここまで丁寧に描写されているということは、サルが近い存在だったと考えられますよね。また、後の時代になると、猿は神の使いとして信仰の対象となることも多く見られますから、縄文時代にもそのような考えの芽生えがあったのかもしれません。
 猿は森の住人であり、森の恵みを分かち合うなかまであり、ライバル。人間には無い力を持ったサルに畏敬の念を持っていたのかもしれません。
 申年は災いが「去る」年、サルのように飛躍できる年にしたいですね。
 
 
 実は、2016年の年賀状やブログやSNSなどで使用していただけるよう、ふるさと文化伝承館では特別仕様で展示しており、自由に撮影できるようににしております(出版や商用などは別途ご相談ください)。
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 また、お越しになれない方には文化財Mなびのホームページにて自由使用用の写真も公開しております(こちらも出版・商用は別途ご相談くださいです)。ぜひご利用いただき、南アルプス市の歴史資源を広めていければと思います。
 
【タテ4.5cm、ヨコ5.8cm、ハバ4.3cm、重さ63.29g】タテ・ヨコは破損していたため、残存部分の数値です
 
 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

縄文の話をしましょう その2
~土器の穴ぼこが縄文の醸造説を後押し!~

 前回、日本を代表する縄文遺跡である「鋳物師屋遺跡」の土器からわかった食生活についてご紹介しました。「レプリカ法」の研究ではまだまだ面白い成果があり、今回は、ある説を後押しすることとなった発見についてご紹介いたします。
 
「人体文様付有孔鍔付土器」
 鋳物師屋遺跡は南アルプス市下市之瀬にあって、土偶「子宝の女神 ラヴィ」など205点が国の重要文化財に指定され、海外展にも何度も貸し出されるなど、日本縄文文化を代表する約5000年前の縄文遺跡です。
 土偶同様に、土偶が土器の表面に描かれた「人体文様付有孔鍔付土器」も世界的に知られる土器です。この愛嬌のある顔だち、踊っているかのようなしぐさ、これほどの大きな土器に具象的にはっきりと描かれているものは非常に珍しく、秀逸なものといえます。
 この土器の形も特徴的です。樽型の形に、口縁には穴がめぐり、その下に鍔のようなふくらみもめぐります。これを「有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)」といってこの土器事態も一つの集落で少ししか持っていないため、特殊な用途の土器だと考えられています。
 
 正確な使い道は判明しておりませんが、研究者の中では思い二つの説が唱えられています。
 主な説の一つは口の部分に鹿などの皮を貼って太鼓として使われていたのではないかという説です。ただし、これは、土器の詳細な観察から、太鼓として使われた際に発生する痕跡が見当たらず、有孔鍔付土器そのものが太鼓として使われたと考えるのは難しいと言われています(木製の太鼓を象って作られた土製品ということは考えられます)。
 対してもう一つの説は、蓋をして果実を発酵させそのガスを抜くために穴があると考えた酒造器ではないかとする説です。

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【写真】「人体文様付有孔鍔付土器」
 大きな胴体に踊っているかのような人体(女神)の文様が描かれているのが特徴で、抽象的でなくこれほどまでに具象的な文様は珍しいです
 
酒造説
 酒造を示す直接的な証拠はなかなか見つかりませんが、青森県の三内円山遺跡など東北地方の遺跡を中心に、ニワトコの果実やショウジョウバエの一種が大量に検出された例があり、ニワトコを用いた醸造の可能性が示されています。ほかに土器の中からヤマブドウが出土する例もあることから、果実酒などの醸造が行われていたのではと考えられているのです。
 
 鋳物師屋遺跡の有孔鍔付土器はその表面に土偶と同じ女神像が描かれており、ここまで大規模な土器では珍しく、明らかに日常生活ではなく祭りなどの非日常で使われたものと考えられます。
 実は、これまで山梨県ではニワトコの種実の圧痕は発見されていなかったのですが、なんと、鋳物師屋遺跡の土器片から、山梨で初めてニワトコの圧痕が発見されたのです。祭りの象徴ともいえる「人体文様付有孔鍔付土器」を出土している鋳物師屋遺跡で確認されたことに大きな意味があり、明らかに鋳物師屋遺跡においての醸造の行為を彷彿させるのです。
 これは山梨県で唯一の発見であり、1ミリにも満たない小さな痕ではありますが、山梨での酒造説を後押しする大切な発見といえるのです。
 
 このように、鋳物師屋遺跡の土器を最新の研究法で詳しく調査・研究することで、有名な土偶や土器だけでなく、鋳物師屋縄文人たちの暮らしぶりをイメージさせる証拠が沢山再発見されるのです。現在調査できているのはほんの一部の土器片ですから、今後の継続によって、まだまだ、今までに知られていない縄文時代像が見えてくるかもしれませんね。
 縄文は奥深いのです。しかもそのことを南アルプス市の遺跡が教えてくれるのです。

11_2【写真】ニワトコの圧痕が発見された土器片

11_3【写真】ニワトコのレプリカ資料

1125_2【写真】ニワトコの顕微鏡写真
 
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ふるさと文化伝承館
エントランス展示「縄文土器のデコボコの秘密~土器の表面には秘密がいっぱい~」
期間:平成27年12月16日(水)まで(木曜休館)
時間:9:30~16:30
入館・見学無料

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【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

縄文の話をしましょう その1
~土器の穴ぼこが教えてくれる縄文の食~

縄文王国山梨

 文化の秋というように、どの博物館も特別展や企画展などで趣向を凝らした企画がなされていますね。

 山梨県立考古博物館では特別展「縄文の美」が開催され、南アルプス市の土器も展示されています。また北杜市考古資料館では企画展「北杜の土偶~うつりゆく祈りのかたち~」が、釈迦堂遺跡博物館では特別展「縄文人と動物たち」が開催され、まるで山梨の秋は縄文色に染められているようです。
 
 そうそう、南アルプス市のふるさと文化伝承館でもエントランス展示「縄文土器のデコボコの秘密~土器の表面には秘密がいっぱい~」を開催中です。
 
 縄文時代は13,000年以上も続いていますが、なかでも私たちが縄文時代といえばすぐにイメージする華やかな文様や装飾のついた土器などが作られていた時代は今から5,000~6,000年前とされる縄文時代中期といわれる時代で、その頃の日本の中心はまさに山梨・長野を中心としたエリアだったのです。ですから「縄文王国山梨」と呼ばれているのです。
 


縄文土器のデコボコ

Photo_6【写真1】

 縄文土器の表面にはさまざまなデコボコがあります。

 みなさんがすぐに思い浮かべるデコボコは縄文時代の特徴ともいえるさまざまなデザインの文様ですよね。土器って「ナベ」などの道具類がほとんどなのにこんなにも文様が描かれているのは世界的にみても縄文土器ぐらいなのです。

(写真1)北原C遺跡出土縄文土器 流線形の装飾が美しい「水煙把手土器」と呼ばれる土器
 
 文様については次回に紹介するとして、今回は文様としてではなく、偶然?ついてしまった「穴ぼこ」を探ってみたいと思います。
 
 
最先端の研究法「レプリカ法」を牽引する山梨県

 縄文土器をよく観察すると、たまに文様ではないけれどもくぼんでいる穴を見つけることがあります。これまで考古学研究者たちはこの「穴ぼこ」には注目してきませんでした。

 このデコボコは土器を作るときのやわらかい粘土に何かがくい込んでしまった「あと」で、くい込んだものが有機物の場合、土器を焼き上げるときに中身は灰になってしまうので「穴ぼこ」だけが残るのです。

 近年この穴ぼこに注目し、薬品処理した穴ぼこにシリコンゴムを流し入れ、固まったシリコン(レプリカ:穴ぼこの内側をかたどったもの)を取り出してなにが入り込んでいたのかを分析する研究法「レプリカ法」が注目され、山梨県の研究者や研究グループもこの研究を牽引しています。

Photo_7【写真2-1】Photo_8【写真2-2】

【写真2-3】Photo_10 【写真2-4】
 
(写真2-1)「穴ぼこ」のあいた鋳物師屋遺跡の土器片
(写真2-2)シリコンを流しいれたところ 
(写真2-3)シリコンのレプリカを抜き取るところ
(写真2-4)レプリカを電子操作顕微鏡で分析している様子
 
 
デコボコを探ると当時の産業や食生活がみえてきた!

 なんと、レプリカ法によりこれまでわかっていなかった大発見が相次ぎました。縄文時代の暮らしぶりが見えてきたのです。

 これまで縄文時代といえば狩猟・採集・漁労経済だといわれてきました。教科書にもそのように載っていますよね。しかし、この研究法によって、土器にきざまれたデコボコには、なんと「ダイズ」や「アズキ」などが入り込んでいたことがわかっているのです。

 
鋳物師屋遺跡の土器からも「ダイズ」や・・・

 平成22年度から25年度にかけて、山梨県立博物館の研究者を中心に「日韓内陸地域における雑穀農耕の起源に関する化学的研究」として、山梨県内の特徴的な縄文遺跡が分析されました。

 南アルプス市でも複数の遺跡で分析を行いましたが、特に、重要文化財の円錐形土偶で有名な「鋳物師屋遺跡」で大きな成果を得ることができました。

 調査の結果、土器の穴ぼこには「ダイズ」、「アズキ」、「エゴマ」(とみられるシソ属)などなど・・・が入っていたことが判明しました。原種の「ツルマメ」や「ヤブツルアズキ」ではなく、栽培種の「ダイズ」や「アズキ」であることが判明したのです。
 

Photo_11【写真】3-1 Photo_12【写真】3-2

Photo_13【写真】3-3 Photo_14【写真3-4】

(写真3-1)鋳物師屋遺跡の土器片から抜き取ったレプリカ資料(ダイズ)
(写真3-2)顕微鏡写真(鋳物師屋遺跡 ダイズ)
(写真3-3)顕微鏡写真(鋳物師屋遺跡 アズキ)
(写真3-4)顕微鏡写真(鋳物師屋遺跡 シソ属)
 
 
 現在私たちが食べている「ダイズ」や「アズキ」、そして近年健康食としてみなおされてきた「エゴマ」が、5000年以上も昔から栽培され利用されてきたなんて、なんとも「不思議な感覚に包まれます。今も縄文人たちと同じものを食べているのです!逆をいえば、縄文人たちはこれまでのイメージよりもよっぽど進んだ食生活、あるいは経済活動をおこなっていたのかもしれないとうことです。「豆」を通してなんだかタイムスリップしてるようですね。 
 
 実は、鋳物師屋遺跡の土器からは、鋳物師屋遺跡が世界に誇る有名な土器の秘密を解明する鍵となる新たな成果も得られました。

 ではここからは次回のお楽しみとしましょう。早くにお知りになりたい方は、現在開催中のエントランス展示「縄文土器のデコボコの秘密」展にお出かけください。穴ぼこのあいた土器と分析で使用したシリコンのレプリカなどなど貴重な資料を初公開しています!
 
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ふるさと文化伝承館
エントランス展示「縄文土器のデコボコの秘密~土器の表面には秘密がいっぱい~」
期間:平成27年12月16日(水)まで(木曜休館)
時間:9:30~16:30
入館・見学無料

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

アルプスブルーの足跡その6 ~市内を彩った藍染めの歴史~

 北杜市の実相寺に残る旧落合村川上の藍玉商浅野長右エ門が残した歌。そこから南アルプス市の藍染の足跡をたどる旅が始まりました。大正時代以降急速に失われていった市内における藍染の記憶はもはや細い糸となってしまいましたが、それでも、その糸をたぐると新たな記憶にたどり着くことがあります。

A01【写真1】

 南アルプス市田島の小田切家は近所から「コウヤ」と呼ばれ、浅野長右エ門の明治31年『藍玉精藍売揚清算簿』にも販売先として記録されています。しかし、現在の小田切家では、資料が残されていないばかりか紺屋だった記憶さえも途絶えている状況でした。2015年夏、小田切家から発見された、一冊の文書『藍玉通』(写真1)。この資料が市内の藍染の歴史に新たな一筋の光を当てることになります。

 

 

A03【写真2】

A02_2【写真3】

 『藍玉通』とは、藍玉などの掛売り(代金を後で支払ってもらう取引)の時に月日や品名、数量、金額を記入して、金銭を支払う時の覚えとする帳簿で、一般的に通帳(かよいちょう)と呼ばれます(写真2)。この通帳には明治21年、「田島の小田切善右衛門」が買主となり、藍玉などを仕入れた状況が記録されていますが、中でも注目されるのは「東京本材木町二丁目 三木輿吉郎」と記された藍玉などの売主です(写真3)。
 
 三木輿吉郎(みきよきちろう)といえば、江戸時代に日本の藍葉生産の中心地であった徳島県阿波の中で、藍問屋の豪商であった三木家に代々受け継がれる当主名です。三木家の創業は1674年(延宝2年)、三木家の第2世高治が藍の取扱いを始め、第7世延歳が江戸に支店を設けて関東に進出し、第8世政治が関東一円に販路を拡大したと言われます(三木産業株式会社HPより)。この日本の藍玉生産・藍染業を代表する三木家からも、小田切家が藍玉を仕入れていたことを『藍玉通』は示しています。少なくとも明治20年代、おそらくは江戸時代から日本全体の藍生産、藍玉の販売網の中に甲州も組み込まれていたのです。
 
 江戸時代から阿波藍の問屋を営んだ三木家は、明治に入るとインド藍の輸入を始め、ドイツからの人造藍の輸入を経て、現在では海外に現地法人を持つ世界的な化学薬品メーカーとなっています。一方、旧落合村の藍屋浅野家は明治末期に藍玉商の店を閉じますが、長エ衛門の息子の一人は大正6年にカリフォルニアへ渡り、アメリカとの輸入雑貨商を吉祥寺で営むなど海外との商いを生業としました。現在旧落合村川上で家を守る浅野修二さんは果樹を栽培し、インドネシアなど海外への桃の輸出にチャレンジしています。各地から藍葉を仕入れ、加工し、地域を超えて各地に売る。どちらも藍玉商で培われた広い視野が、世代を超えて今でも受け継がれているのかもしれません。
 
 浅野長右エ門が北杜市の旧武川村神代桜の前で歌を詠んだ明治23年(1890)から125年後の2015年春。その歌に誘われるように、北杜市で育てられた藍の苗が手に入り、ふるさと文化伝承館でささやかながら藍の栽培を始めました。そして初秋の現在、藍は青々と茂り、花を咲かせ、もうすぐ種をつけます(写真4~7)。藍が生み出すさまざまな青は南アルプスの山々、その背後の青空と重なります。市内に残る藍の歴史と文化が南アルプスブルーとして続くことを願い、来年この種を蒔こうと思います。満開の桜の季節、芽吹くことを祈って。

【写真4】   【写真5】    【写真6】    【写真7】

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【写真4】藍 初夏 ふるさと文化伝承館 6月18日
【写真5】藍 初秋 ふるさと文化伝承館 9月14日
【写真6】藍の花 初秋 ふるさと文化伝承館 9月14日
【写真7】伝承館で育てた生藍葉染めのストール

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】