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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

アルプスブルーの足跡その5 ~市内を彩った藍染めの歴史~

 江戸時代から明治時代にかけて、市内には浅野家などの藍玉商から藍玉を購入し、藍染めを生業とする紺屋が数多く存在していました。今回は、かつて市内の藍染めの担っていた紺屋に焦点をあててみたいと思います。

A_5【図1】

A001【写真1】

A002_2【写真2】

A003【写真3】

A004 【写真4】

A005_2 【写真5】

  これまで紹介した浅野家の史料や地域での聞き取り調査から、現時点でわかった市内の紺屋を地図にしたものが第1図です。多くの旧村で1軒は紺屋が存在していたことがわかります。その中で、南アルプス市寺部の紺屋、塚原家に注目してみましょう。

 塚原家は家伝では幕末から明治時代まで紺屋であったとされ、現在でも近所から「コウヤ」と呼ばれています。藍甕が並ぶ工房は取り壊されすでにその姿を見ることはできませんが、工房跡の庭先には、地中に埋められた藍甕が一つだけ見つかっています(写真1)。それは前回ご紹介した古市場の紺屋井上家染物店に残されているものと同じ素焼きの大甕です。この藍甕を調査した結果、中から瓦や置きカマドの破片、さまざまな日常食器などが発見され、工房を取り壊した時に不用品として埋められた状況が明らかとなりました。埋められた藍甕は、明治から大正にかけて人工染料の流通などの影響から日本全国で激減した紺屋の歴史を映し出しているようです。

 塚原家の西側には「金比羅山の石塔」が建てられています(写真2)。石塔の背面を見ると「寺部紺屋(☆ネヘンに巳)之」と刻まれていました(写真3)。紺屋の商売繁盛を祈願し、その信仰を集めていた香川県金毘羅宮に参拝したことを記念して建立されたことがわかります。家伝にも、はるか四国までお参りに行った話が残っています。

 さらに塚原家には、木造の厨子に納められた愛染明王の御札が、今も祀られています(写真4)。愛染明王は「藍染(あいぞめ)」が「愛染(あいぜん)」に似ていることから、江戸時代から全国各地の紺屋の守護仏として信仰されてきました。小笠原で紺屋を営んでいた三井家でも、その信仰の記憶は失われていましたが、愛染明王の掛け軸が残されていました(写真5)。こうした資料から、紺屋の愛染明王信仰が、市内にも広がっていたことがわかりつつあります。
 
 大正時代以降、市内の紺屋は減少し、手染めを行う紺屋は古市場の井上家1軒だけとなってしまいました。紺屋を営んだ家も建て替えが進み、藍甕を埋めた工房はもちろん、道具や紺屋だった記憶さえも失われ、「コウヤ」という呼び名だけが残る家がほとんどです。しかし、塚原家や三井家のように、失われた藍染めの歴史を宿す資料が、市内にもまだ残されているはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの足跡 その4 ~市内を彩った藍染めの歴史~

 旧川上村で藍玉商を営んだ浅野長右衛門が残した明治31~32年の『荷物出入帳』。そこに記録された「大井村 井上豊松」は幕末から現代まで7代にわたり伝統的な手染めを継承している井上染物店の3代目当主です。今回は紺屋の井上豊松と藍屋の淺野長右衛門との関係から、藍染めの歴史をたどります。

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【写真1】明治16年 浅野家 金銭出入帳

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【写真2】明治16年 浅野家 金銭出入帳 「宮澤村 井上豊松」の名前が見える

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【写真3】昭和36年当時の井上染物店

 井上家の伝承では、幕末に初代品兵衛が旧宮沢村で藍染めを始め、いつごろからか現在の古市場に店を移したと言われています。それを裏付けるように、浅野家に残る藍玉販売の記録、「明治16年金銭出入帳」8月29日には「宮澤村 井上豊松」の名前が見えます(写真1・2)。前回ご紹介した明治31~32年の『荷物出入帳』と『藍玉精藍売揚清算簿』では大井村あるいは「古市場 井上豊松」となっているので、明治16年から明治31年までの間に宮沢村から現在の古市場(旧大井村)へ移転したことがわかります。宮沢村は釜無川の度重なる水害のため、明治33年から同42年にかけて全戸が現在地に移転していますが、井上家はそれに先行して古市場へ移っていたことになります(写真3)。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【写真4】武者のぼり「雲竜のぼり」 明治時代 伝2代目文左衛門作

 藍染めから始まった井上家では、2代目文佐衛門(1832~1896)が「武者のぼり」(写真4)と「鯉のぼり」を取り入れたと伝えられています。武者のぼりと鯉のぼりの青には、近年まで岩絵の具とともに「干し藍」が用いられ、藍染めの技術が応用されてきました。
 ここで浅野家の明治32年の『荷物出入帳』で井上豊松への売買記録を抜き出してみると、次のようになります。

【明治32年】
 1月7日 マドラス 精藍 5斤
 1月10日 マドラス 精藍 5斤
 1月14日 カルメ  精藍 5斤
           製灰 4本
 1月21日     手製藍玉4俵
 1月26日      製灰 15本
      マドラス 精藍 7斤
 2月4日      精藍 6俵
 2月9日 マドラス 精藍 4斤
 2月16日 マドラス 精藍 4斤
 3月13日      製灰 12本
 3月17日      藍玉 2俵
 3月18日      藍玉 2俵
 3月19日      藍玉 1俵
 3月21日      製灰 24本
 3月25日      藍玉 3俵
 3月26日 マドラス 精藍 8斤
           製灰 1箱47本
 4月13日 マドラス 精藍 10斤
 4月16日 カルカッタ 精藍 5斤
 3月30日~4月13日 藍玉 11俵
 9月1日 マドラス 精藍 8斤
           藍玉 6俵
 9月7日 マドラス 精藍 10斤

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【写真5】 明治32年荷物出入帳 カルカッタの地名が記されている

 この記録から、明治32年当時、井上染物店では伝統的な藍玉とともに、インド産の精製された藍を仕入れていたこと、インドでもマドラス(現チェンナイ)産が多く、少ないながらカルカッタ産も使われていたことなどがわかります(写真5)。藍玉とインド精藍は、藍建て染めと鯉のぼりなどの染付いずれにも利用できますが、近年まで武者のぼりや鯉のぼりには「干し藍」が使われていたことから、藍甕を使って衣類などを染める通常の藍建て染めが藍玉、武者のぼりや鯉のぼりのような刷毛を使った染付にはインド精藍というように用途が分けられていたのかもしれません。

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【写真6】井上染物店で使われていた藍甕

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【写真7】藍甕に残された藍の結晶

 井上家での藍甕を使った藍建て染めは、昭和に古市場の店舗が改築された時に土中に埋められていた藍甕が取り外され、その歴史に幕を閉じます。しかし、現在井上染物店の玄関先では古い藍甕が一つ、大切に残されています。その中を覗くと、白から淡い青色の「藍白」、「甕覗き」、「浅葱色」へと変化し、さらにより青みが強い「縹(はなだ)色」、「露草色」、「藍色」へと色が深まる藍の結晶を見ることができます。藍色のグラデーションには長右衛門の藍玉とインドから輸入された藍をめぐる藍染めの歴史が映し出されているようです。  

 

 

 

 

 

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの足跡 その3 ~市内を彩った藍染めの歴史~

 旧川上村浅野長右衛門が製作し販売した藍玉。今月は藍玉にスポットを当ててみたいと思います。

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【写真1】すくも

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【図1】藍建て染めの流れ

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【写真2】浅野家で使用されていた藍玉用の石臼
 

Aimg_1905【写真3】荷物出入帳 
Aimg_1907【写真4】藍玉精藍売揚清算簿
Aimg_1901_2【写真5】「明治32年『荷物出入帳』」大井村の井上豊松の名称が見られる 

 

 明治時代初期、浅野家では、藍染めの原料となる藍の葉を現在の南アルプス市内域だけでなく、一桜村や竹居村、富士見村などの笛吹市域や徳行村などの甲府市域の旧村から仕入れていました(『甲西町誌』)。購入した藍葉は一度乾燥させ、その後、土蔵の中で水を打って発酵させて「すくも」(写真1)と呼ばれる土壌化した藍染めの原料を作ります。それを石臼と杵でつき、運びやすい形に加工したものが藍玉です。この藍玉が各集落の「紺屋」に売られ、土中の藍甕(かめ)に水、ふすまなどと一緒に入れられて発酵し、藍建て染めが行われていました(図1)。

 明治8~20年代の浅野家の藍玉販売先を見てみると、鳳来村や台ケ原村などの北杜市、向村や板垣村などの甲府市、上河東村などの昭和町、河内村や二宮村、竹居村、末木村、尾山村などの笛吹市、勝沼村などの現甲州市、上岩下村や岩手村などの現山梨市など国中地域全体に及んでいて、旧川上村が甲州の藍染めを支える藍玉生産の一大拠点であったことがわかります。   

 次に浅野家に残された明治31~32年の『荷物出入帳』(写真3)と『藍玉精藍売揚清算簿』(写真4)を見てみましょう。市内では塚原の深澤家、南湖の有泉家、田島の小田切家、湯沢の市橋家、三恵の河西家、大井の井上家、野々瀬の櫻田家、上高砂の穴水家など、市外では北杜市、韮崎市、甲府市、笛吹市、山梨市、甲州市域の多数の旧村の紺屋名が記録されています。依然として広く藍玉の販売が行われているように見えますが、注目されるのは、販売品が藍玉だけでなく、明治初期には見られなかったインドから輸入された「印度精藍」が加えられている点です。先月号でインド藍の輸入が日本の藍玉生産が衰退する一つの原因となったことには触れましたが、浅野家の帳簿にもその歴史が刻まれているのです。     

 この『荷物出入帳』でちょっと気になる名前を見つけました。明治32年9月1日、マドラス産(現チェンナイ)インド精藍と藍玉を大井村の井上豊松に販売しています。大井村の井上家と言えば、平成27年現在、南アルプス市内で伝統的な染物を営む唯一の紺屋です。幕末から平成まで7代続く井上染物店の中で豊松は3代目当主。そこで、次回は井上染物店の歴史をひもときながら、市内に残された藍染めの足跡をたどります。

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの足跡その2 ~市内を彩った藍染めの歴史~

 旧川上村浅野長右衛門が製作し売り歩いた藍玉。今月はそれを原料にする藍染めと藍葉生産の歴史を振り返ります。

A_2【写真】藍の葉

 藍染めに使われる蓼藍(たであい)は奈良時代以前に中国から日本にもたらされ、平安時代の『延喜式』には藍で染められた色名や分量が記されています。この頃の藍染めは刈り取ったばかりの藍の葉を使う生葉染めが主流で、藍が茂る旧暦の6~10月が染色の時期でした。平安時代には藍葉を水と灰汁を使って色素を沈殿させ、それで染める方法が行われていた可能性も指摘されていますが、藍の葉を発酵させて蒅(すくも)を作り、時を選ばず染める技術が確立するのは、室町時代と考えられています。江戸時代に入ると木綿が庶民の普段着として普及するのと合わせ、藍は武士だけでなく庶民の染料として広く使われるようになります。甲斐国志に「奈古(南湖)白布ト云フハ木綿ノ好キ処ナリ」と見えるように、県内有数の木綿の産地であった市内にも藍染めが普及し、各集落には「紺屋」が営まれました。

Photo_18【表】明治期における郡別藍葉生産一覧

 次に藍染めの原料である藍葉に目を向けてみましょう。明治時代の『山梨県統計書』から明治時代の郡別藍葉生産量をグラフ化してみると、県内ではとびぬけて中巨摩郡の生産量が多いことがわかります。中でも旧落合村は明治15年特産物統計によると4,900貫(『甲西町誌』)で、明治18年中巨摩郡全体の藍葉生産量が66,455貫を考えると、旧落合村が県内でも有数の藍葉生産地であったことが指摘できるでしょう。旧落合村は浅野家のある旧川上村の隣に位置しており、こうした藍葉の生産地であったことが、浅野家が「藍屋」を営む基盤となっていたと考えられます。

 県内における藍葉生産は明治21年までほぼ増加しますが、それ以降急激に生産量が減少し、明治30年代以降は県内各地で藍葉生産が行われなくなります。これは明治20年以降安価なインド藍の輸入が本格化したことにあります。日本を代表する実業家として著名な渋沢栄一は埼玉県で藍玉商の家に生まれ、インド藍の輸入に圧迫された日本の藍を復活させようと明治21年小笠原諸島での栽培を目指しますが失敗し、明治28年には青木商会を設立、逆にインド藍の輸入を開始しました。このエピソードは、大きく転換しつつある日本の藍染めの時代背景をよく物語っています。さらにノーベル化学賞も受賞したドイツ人科学者アドルフ・フォン・バイヤーが明治13年(1880)人工的に藍の染料となるインディゴを作る技術を発明、それを明治30年(1897)世界最大の化学メーカーとなるBASF(ビーエーエスエフ)が工業的に合成する技術を確立し、同年から日本への輸出が開始されたことによって、全国各地の藍葉・藍玉生産が衰退、その波は南アルプス市にも波及し、明治時代末、浅野家の藍玉生産は幕を下ろします。

 長右衛門が神代桜で歌を詠んだのは明治23年。インド藍の輸入が本格化しつつあり、日本の藍葉生産が衰退し始める時期です。そしてその歌を石碑に刻み神代桜の傍らに置いたのが大正9年。明治30年代以降、化学染料が普及し、藍玉生産が色あせていった時代。長右衛門77才の早春、紺屋仲間に囲まれながら詠んだ歌とともに、盛んだったころの藍玉作りの思い出を石碑に留めようとしたのかもしれません。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの足跡 ~市内を彩った藍染めの歴史~

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 2015年春。北杜市武川町山高の実相寺。境内には満開に咲く桜並木。その中でもひときわ人々が集うのは、全国有数の古木として知られる山高神代ザクラ。大勢の人たちが桜を取り囲み、行き交い、草木花々を愛でながら、思い思いにアングルを変えて、咲き誇る桜と家族や仲間とのを思い出をフィルムに閉じ込めています。人々が桜の風情に目を奪われ、賑わいを見せる神代桜の傍らに、子どもの背丈ほどの石碑がひっそりと建てられています。この石碑には次のような歌が刻まれていました。

中巨摩郡落合村 藍玉商浅野長右エ門
   神代の桜を見てよめる
  名にしおふ みのりの寺の桜花
   世も若木と 八千代おもえば
  催せしわれもよろこび人々の
   こころも花も そろい開けて
  三十日にも
   月夜と思ふ桜かな
    大正九年三月
         七十七翁 喜正

 この石碑は現在の南アルプス市川上で藍玉商を営んでいた浅野長右エ門が、明治23年3月1日、実相寺近隣の紺屋15人を招いて花見をした時に詠んだ歌を刻んだものです。神代から続くと伝わる桜の木の下で、長右エ門と武川の紺屋仲間たちの心も花開き、笑みをたたえながら杯を酌み交わす姿が浮かんできます。
 歌碑に刻まれた「藍玉」と「紺屋」。どちらも藍染めにかかわるキーワードです。藍玉は藍葉を発酵させたものをつき固めた藍建て染めの原料であり、その藍玉を基に藍染めを生業とする家が紺屋と呼ばれます。明治時代の山梨県統計書を見ると、中巨摩郡は明治30年代まで県内最大の藍葉の産地で、南アルプス市落合はとりわけその栽培が盛んな地域でした。さらに川上の浅野家は、藍葉を仕入れ藍玉を作り商う「藍屋」で、浅野家には明治~大正時代にかけて藍屋2代目の長エ門が県内各地の紺屋に藍玉を売っていた記録が残されています。長右衛門は藍玉を商う旅の途上で、春風にさらわれた散りゆく桜を眺めながら、この歌を詠んだのでしょう。

 長右エ門が残したこの歌碑を足がかりに、市内を彩ってきた藍染の歴史を、次回以降ひもといていきます。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

新発見レポート ~水と木と石が紡ぐ物語~

 昨年、前御勅使川の右岸を守っていた堤防遺跡の下から、木の葉のような形に石を並べ積み上げた遺構(石積み遺構と仮に呼びます)が発見されました。今回はこの最新発掘情報をお伝えします。

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【図1】調査地点位置図。地図は明治21年に作成された地形測量図

 前御勅使川は、芦安から竜王を結ぶ県道竜王芦安線を明治31年まで流路としていたかつての御勅使川です。今回の調査地点は有野地内の水田や果樹畑が広がる一画で、北側に前御勅使川を臨みます(図1)。現在は川の流れた痕跡がほとんど見られませんが、少なくとも明治31年までは、ひとたび大雨が降ると水が流れ込み広大な前御勅使川の流れが出現したのです。
 発掘調査によって見つかったのは、河川の砂利をかまぼこ状に積み上げ、さらに水流の当たる川表側、反対の川裏側に石を葺き、砂質の粘土で覆った堤防跡でした(写真1・2)。これ自体が地域の治水の歴史を知る上で重要な資料なのですが、さらに、この堤防の下には、これまでまったく見つかっていなかった遺構が眠っていたのです。

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【写真1】発掘された江戸時代の堤防跡(西から)
【写真2】発掘された江戸時代の堤防跡(東から)


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【写真3】石積み遺構遠景(南東から)
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【写真4】石積み遺構(西から)

 堤防という施設は、洪水などによって河床が上がると相対的に低くなっていくため、砂利などを積んでかさ上げされるのが一般的です。つまり、目に見えている堤防の下にはより古い堤防が造られている場合があるのです。そのため今回も堤防跡の下を掘り進めてみたところ、堤防ではなく東西約7m、南北4mに石を積んで造られた石積み遺構が発見されました(写真3・4)。とくに上流側にあたる西側には長さが50~70cmもある大きな石が並べられていました。こうした形の遺構は全国の堤防遺跡の調査でも類例がありません。さらに調査を進めると、石積み遺構の西側先端に、空洞となっている幹周り約50cmの樹木痕が発見されました(写真5)。これらの結果から当時の景観を復元すると、北側に前御勅使川の河原が広がったところに1本の樹木が繁り、その根元に石積み遺構が横たわっていたことになります(写真6)。遺構の年代は、出土した陶磁器から江戸時代、18世紀後半前後と推定されます。

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【写真5】発見された樹木痕。木の幹や根は腐食して空洞になっていました
【写真6】木を復元した想像図。樹種はわかっていませんが、仮に松で復元してみました


 さてこの遺構の役割ですが、長さが短いことから通常の堤防の機能を果たしていたとは考えにくい形態です。一つの可能性として、石積み遺構の南側にかつて堤防が存在し、そこから突き出て水流をコントロールする「出し」であったとも考えられますが、今回の調査では南側に堤防の痕跡は見つかりませんでした。もう一つの可能性として考えられるのは、治水にかかわる信仰の場であったというものです。
 「石」、「水」、「樹木」のキーワードで他の類例を探すと、水を司る神社で有名な京都の貴船神社に、「船形石」と呼ばれる石を積んだ磐座(いわくら)が目に止まります。貴船神社は平安時代から雨乞い、雨止めなど水にかかわる信仰を集めた場所でもあり、洪水と干ばつに苦しんだ御勅使川扇状地の人々の祈りと共通点が注目されます。また『日本書紀』に「天津神籬(あまつひもろぎ)および天津磐境(あまついわさか)を起こし樹てて」という記述があります。神籬は神さまが宿る常緑樹を意味し、磐境は岩で作られたお祭りする場所という意味でしょうか。今回発見された遺構のイメージと重なります。
 今回見つかった石積み遺構が、水にかかわる信仰の場所であることを裏付けるためには、地域に残る文書資料や考古学的に似た遺構の調査事例を発見し積み重ねていく必要があります。まだその答えはでてきませんが、この遺構は、御勅使川とともに生きたこの地域の人々の新たな歴史になることは間違いありません。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の城館跡(1)
椿城の伝説1 ~二人の城主~

 水防費を巡る争いの連載は先月号で終わりました。まさか、訴訟の収束後に実際に堤防の決壊が起き、南湖村に壊滅的な被害を及ぼすとは、、、やはり、過去から学ぶことは多いですね。
 さて、今月は「南アルプス市の城館跡」として椿城をとり上げたいと思います。あまり知られていませんが市内には城館跡がいくつか遺されているのですよ。お城と言いましてもイメージしやすいような石垣に白壁の天守閣が立っているようなものではなく、お堀と土塁で囲まれた居館施設のようなものや、自然の地形を生かしたものなどのイメージの方が近いかもしれません。今後、断続的になるかもしれませんが城館シリーズとしてご紹介してゆきたいですね。

【「椿城」と「上野城」】
 「椿城」といえば武田信玄の母である大井夫人の出身地として伝えられていますが、実は謎につつまれ、いくつもの伝承を持ったお城です。椿城は別名であって、本来は南アルプス市上野の地に構えられた「上野城」と呼びます。
 櫛形山の東麓に発達した市之瀬台地の上にあって、北に市之瀬川、南に堰野川によってはさまれた細長い舌状台地の上、標高約410メートルに立地しています。台地先端では比高差約100メートルの崖線をもって扇状地と接していて、眼下には、甲斐源氏小笠原家の本拠とされる南アルプス市小笠原があります。小笠原家の始祖である小笠原長清は父加賀美遠光とともに鎌倉幕府において重用された有力御家人のひとりです。

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【写真】椿城航空写真(上野の台地を北西から富士山方向を眺める)

 江戸時代終わり頃の地誌である『甲斐国志』 古跡部には
「上野ノ城墟 古伝ニ上野六郎盛長ト云者ノ所築ナリ(中略)域内二三町歩林薄中ニ塁湟?然トシテ存セリ、塁の南面ハ村居東ハ畠ナリ本重寺ノ境内ニモ古塁アリテ子城ノ如シ地多山茶花ヲ以テ名山茶城トモ云北ハ一瀬川ニ枕ミ崩摧絶壁数丈(以下略)」
とあって、椿の花が多かったことにより椿城と呼ばれていることがわかりますが、「山茶花」と書いて「つばき」のことをさしています。
 また国志からは、周囲に「土塁」も多く残されていたことがわかりますが、現在ではほんの一部でその名残と思われる高まりをうかがうことができる程度で、当時をしのばせるものは、台地北側にある基壇上に並ぶ五輪塔群や、やや南に下った場所にある本重寺くらいといえます。本重寺周辺の南傾斜面を中心に上野の集落が展開しています。よく誤解されるのですが、石垣や白壁の建物がある近世のお城ではなく、あくまでも中世の城館なのです。

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【写真】椿城航空写真(本重寺周辺を南西から眺める)
 

【上野盛長と大井信達】
 国志には先ほどご紹介した通り、上野盛長の築城とともに「大井氏此ノ城ニ在住セシコト」として戦国期大井氏の居城説についても伝えているため、現在でも上野氏もしくは大井氏ゆかりの城としてよく紹介されているところです。
 上野氏は小笠原長清の子長経の七男、六郎盛長が上野を本拠とし、上野氏を称したことに始まるとされます。しかし三代目の政長の後に男子の後継がなく、秋山より養子を迎え、そこから秋山に改称したといわれているのです。

【秋山氏と本重寺】
 秋山氏は加賀美遠光の長男光朝が同じ市之瀬台地の秋山を本拠としたことから始まり、光朝は源頼朝による甲斐源氏の排斥によって自害されたと伝承されています。ただし、子孫はその後も発展し鎌倉幕府の御家人として、さらに全国各地で活躍していったこともわかっています。
 本重寺が創建されたのは弘安年間(『甲斐国志』)あるいは正中二年(1325『寺記』)といわれており、開基は秋山光朝の子の光定、開山は日蓮の弟子日興と伝わります。日興上人から光定へ与えたとされる「板本尊」(南アルプス市指定文化財)も現存しています。
 また、前述した五輪塔群の中には「比丘尼妙意 嘉暦三(一三二八)年十月十三日」の刻銘がある五輪塔があり、天明四年(1784)の『当村古城跡由緒御尋ニ付書上』には、光定の後とみられる光吉とその妻についての嘉暦年間の事件に関する記述があるため、この事件に関しての供養であることが想定されます。この五輪塔群は現在も上野に在住されている秋山氏によって祀られているのです。

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【写真】木造板本尊

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【写真】五輪塔群
 

【大井合戦と上野城】
 先ほど触れたとおり、『甲斐国志』では、戦国期の記述として戦国期大井信達の居城説も伝えています。
 「上野介信達法諱ヲ本習院能岳宗芸ト号ス(中略)本村ニ本重寺ト云フ寺アリ(以下略)」とあり、本重寺の名を大井信達の法号「本習院能岳宗芸」の転化と考えたことを根拠としているのです。ただし、それ以外にこれを示す根拠に乏しいのも事実です。
 大井信達は西郡に勢力を持った土豪で武田信虎正室の父にあたり(信玄からみて祖父)、「勝山記」などには信虎との抗争の様子を見ることができます。
 椿城の合戦として考えられているものに永正一二年の大井合戦の記述があります。「屋形方大勢ナリト云ヘトモ、彼ノ城ノ廻リヲ不被知間、皆深田ニ馬ヲ乗入テ、無出打死畢ヌ」とあり信虎勢が城周辺の深田に馬を乗入れたことで抜け出せず大敗したという記述です。
 この記述については疑問も示されており、椿城周辺にも水田はあるものの、深田とは言えず、むしろ台地下の「田方」と呼ばれる湧水地帯一帯で「大井」の地名のある場所にこそ大井氏の本拠地があると考えるべきで、この記述にある城(館)は大井氏ゆかりの古長禅寺周辺の地にあったもので、そこでの合戦であると考えるべきとの指摘もなされているのです。
 現在ではどちらか一方が正解であると判断できる材料はありませんので、この伝説は後世の調査に持ち越されるわけですが、実は城跡の発掘調査などもされていて、少しずつ新たな判断材料も増えてきています。お城の様子がどうだったのか少しずつ判明してきているのです。これらについては、また改めて椿城伝説の第2弾として、いずれご紹介したいと思います。

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【写真】大井氏のものと伝承される五輪塔群
 

 現地は昔の姿こそありませんが、城域内には地元櫛形西小学校の児童たちが作製した案内板やMなびのシートも設置されています。「文化財Mナビ」はPC用サイトもあって、地元の子供たちの音声ガイドも聞けますので、ぜひ子供たちの声を聞いてみてください。

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【写真】櫛形西小の児童の作成した案内板

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)(最終回)

1.強制執行
 大審院(現在の最高裁判所)において勝訴が確定したことを受けて、鏡中条村はこの訴訟で支払いを求めていた水防費に、これまでの訴訟費用等を合わせた賠償金を、飯島、藤田両弁護士に手続きを委託して請求します。

 
 請求に際して当初、藤田弁護士は本訴訟の共同訴訟という性質から、請求は連帯にせず、相手方各自に平等に要求しなければならないとの考えを示しました。しかし、そのためには請求額の決定通知を200通以上作成しなければならない上に、多くの村人からそれぞれに賠償金を取り立てる事務は困難を極めることは明らかです。かつて再審開始時に、被告各個人への訴状送付に甚大な労力を要した悪夢がよみがえります。当然村側はこれに強い難色を示し、連帯訴訟なのだから南湖村の有力者一部に代表して請求することを主張して対立します。結局は鏡中条村側が自らの主張を押し切り、裁判所もこれを認めたことから、南湖村の有力者2名に代表して賠償金の支払いを求めることに決まりましたが、ここでまたしてもいたずらに時間を要してしまいました。

 
 その後ようやくの南湖村側への賠償の請求。しかしさらに一波乱。南湖村側がその支払いの延期を求めてきたのです。史料にはこのあたりの経緯が余り詳しくないのですが、どうものらりくらりとかわされてしまった感がうかがわれます。
 そこで、鏡中条村としては、この期に及んでなお猶予すべき理由なしと、やむなく強制執行の手続きに入ります。

 
 明治26年9月1日。裁判所の許可を得た執行人が鏡中条村の側の立会人とともに南湖村を訪れ、先に村長でもあった旧西南湖村の有力者、安藤由道宅を訪れ、旧西南湖村分の請求額に相当する「債権者住居西北隅土蔵ニ貯蔵シ置キタル籾(もみ)俵四百俵」を封印し、差し押さえました。ちなみにこの舞台となった「債権者住居西北隅土蔵」は、現在重要文化財安藤家住宅の一部として保存され、一般に公開されている安藤家住宅の「南蔵・北蔵」にあたります。
 翌2日には、同じく旧和泉村の有力者であった大木親宅において同様に和泉村分請求額に相当する籾俵170俵を差し押さえ、それぞれ来る10日競売に付す旨通告しました。
 ことここに至り、南湖村は支払いを承諾。明治22年9月の水防に端を発し、丸4年に及んだ全村を巻き込んでの訴訟はついに収束したのです。

 
2.その後の顛末
 
 訴訟の収束から14年後、地域の人々の水防の努力によって保たれてきた将監堤ですが、ついに決壊します。山梨県史上名高い明治40年(1907)の水害です。
 水防費分担金訴訟では、南湖村が自村には関係ないと主張していたはずの堤防の決壊は、鏡中条村はもちろん、南湖村を始めとする釜無川西岸域の村々に壊滅的な被害を及ぼしました。南湖村の報徳社には、この時の水害時の被害状況を記した「水害図」が残されています。これを見れば、南湖村の中央を釜無川の洪水流が押し流し、村全域が壊滅的な被害を受けたことがわかります。やはり、将監堤の存在は南湖村域の衰亡とは切っても切れないものであったことが証明されてしまったのでした。

 
 その水害図に、冒頭次のような言葉が記されています。
 今から80年前、将監堤が決壊して甚大な被害がでた。その後年月が経って「人皆公ヲ棄テ 私ニ徇(したが)ヒ 唯恬安(てんあん)無事ヲノミ是謀リシカハ」明治40年又氾濫し、凄惨を極めることとなった。後の人よ、これを見て哀れむのではなく、戒めとしてください。
 明治40年の80年前、それは文政11年(1828)の水害を差します。奇しくも今回有効性の是非と問われた将監堤水防組合の改組の契機となった水害です。この水害をきっかけに、享和3年に締結された将監堤の水防組合が改組され、鏡中条、藤田、西南湖、和泉の4か村共同で水防を行うことが決まったのでした。
 その後、60年余りを経た明治22年、その後氾濫のなかった将監堤の重要性は忘れさられ、村と村とを巻き込んだの大きな訴訟となりました。明治40年水害は明治26年に水防費分担金訴訟が収束して14年後。村と村が激しく争い、その村人個々人が原告・被告となったその記憶は、人々の中になおまだ残っていたことでしょう。そのことに鑑みるとき、水害図に見える、「人皆公ヲ棄テ 私ニ徇(したが)ヒ 唯恬安(てんあん)無事ヲノミ是謀リシカハ」という言葉は、深い意味をもって我々の心に響いてきます。当たり前ですが、災害は繰り返すものです。ここで紹介してきた訴訟や、南湖村の水害図は、繰り返される水害を「忘災」せずに「防災」していなかければならない。そんな戒めを我々に教えてくれているのではないでしょうか。南湖村の人々の間からは100年を待たずして、災害の記憶は薄れてしまいましたが、我々も決してこれを笑うことはできません。これは我々にとっても教訓とすべき史実なのです。

 
 なお、本訴訟の問題は、あくまで村と村との問題ではあったわけですが、その背景には明治の黎明期にあって、河川・用排水路に関する工費を民間に頼らざるを得なかった明治新政府の脆弱な経済基盤や旧河川法成立以前の制度的混乱も見え隠れしています。これについては、またいつか筆を改めて記してみたいと思います。(おしまい)

 
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【写真】差し押さえの舞台となった重要文化財安藤家北蔵・南蔵

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【写真】「明治四十年八月廿五日将監堤決壊之惨景翌年四月十八日撮影」明治40年水害の状況。堤防が決壊し、耕地一面流入した砂礫よって埋没している。(南アルプス市蔵)

A03 
【写真】南湖村水害図(西南湖報徳社蔵)

A04

【写真】南湖村水害図(部分)

  

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ)その5
~控訴審(ふたたび)から大審院(最高裁判所)へ~

 明治25年5月6日 南湖村控訴。
 南湖村は控訴審に際し、従来の主張に加え、仮に鏡中条村の主張が事実としても、水防費は「石高」割をもって村が分担したものであるのだから、高をもたない、即ち土地所有のないものも含めて全ての旧村民を被告として連帯責任とするのは不法であると訴えました。

 南湖村の弁護人は従来のとおり、角田真平と有泉義行。
 鏡中条村の弁護人は、今回は瀧澤信次郎を相談役として、その仲介で、大審院判事を務め後に中央大学学長ともなる岡村輝彦とその同僚、河合一郎の二人が務めることになりました。

 なおこの間に、中巨摩郡長はじめ、近隣の村長らから度々両村に対して調停案がだされていたようですが、鏡中条村はこれをことごとく拒否しており、訴訟による決着を目指す姿勢を貫いています。
 

 控訴審は、11月9日に結審。判決は11月16日でした。
 結果は再び鏡中条村の全面的勝訴。

 判決の要点は、契約の有効性と費用支出の事実は、鏡中条村の提出した証拠書類よって認められる。また、南湖村は、土地所有の有無に関わらず、全ての旧村民を訴えることは不当というが、将監堤決壊の際の被害は、田畑のみではなく、住居や人命にも及ぶことは証拠をみれば明らかであり、訴訟村民らは「村民タルノ資格ヲ以テ此ノ慣行ヲ尊守シ」土地を所有せざると否とに関わらず連帯義務の責任がある。鏡中条村は、従来の慣行に基づき石高をひとつの基準として分担額を請求したに過ぎず、南湖村は、結局は各部落中の人民より集めて支払うのだから、石高割の適否を理由として、本訴の請求を拒むことはできないというものでした。 

 これに不服の南湖村は明治25年12月24日、上告。ついに争いの舞台は大審院(現在の最高裁判所)に移ります。

 大審院における南湖村の弁護士は控訴審と同様。
 鏡中条村側は岡村と、河合に代わって三宅碩夫の二人が務めることとなりました。
 半年の審議の後、明治26年6月24日結審。判決は同29日。
関係者が固唾(かたず)をのむ中、下された大審院の判断は上告棄却というものでした。控訴院を支持し鏡中条村の主張が認められたのです。ここに鏡中条村の勝訴が確定し、明治24年4月から2年以上に及んだ裁判はようやく一応の収束をみたのでした。

  この判決によって確定した賠償額は、総額 1,284円35銭7厘。
内訳は、以下のとおりです。
旧西南湖村分
 水防費分担金 210円83銭
 訴訟費用等 649円82銭
旧和泉村分
 水防費分担金 85円6銭7厘
 訴訟費用等 338円64銭

 元々の請求額は利息等を加えても351円37銭8厘でしたが、訴訟費用などが膨らみ、最終的には実に4倍近い額となっていました。

  ・・・この賠償金の支払いにより、村と村とを巻き込んだこの事件は収束するはずでした。しかし、もうひと波乱。事件はまだ終わりません。(つづく)

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【写真】大審院(司法省「司法省及裁判所庁舎写真帖」より)

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その4~

第一審 甲府地裁ふたたび

 控訴審での裁判所の判断に照らせば、現在は存在しない合併前の鏡中条村が、同じく現在は存在しない和泉・西南湖村を訴える訴訟を起こすことはもはや不可能です。
 しかし、ここで鏡中条村は苦肉の策として思わぬアイデアで再び提訴に踏み切ります。それは、現在の鏡中条村の住民のうち、合併前の旧鏡中条村の領域の住民一人ひとりが、同じく南湖村のうち、旧和泉・西南湖村の領域に住む一人ひとりを訴えるというものでした。このアイデアは、弁護士鳩山和夫によるものと思われ、当時、旧村に住んでいた人たちの一人ひとりの連帯責任を問おうというのです。
 その原告人の数は、旧鏡中条村の270名。被告人は旧西南湖、和泉の村人合わせて230名にもなります。

 これだけの人数になると大変なのは訴状の作成です。中でもまず困難を極めたのは、被告人の住所氏名の確認でした。南湖村で戸籍の原簿を閲覧できればよかったのですが、被告村である南湖村は当然これには応じません。鏡中条村は、仕方なく所轄の小笠原警察署にあった戸籍の控簿を書き写し、中巨摩郡役場の帳簿と照会して被告人の名簿を作成しています。

 次は、230名の被告それぞれへの訴状の送付です。コピー機もない時代、訴状自体は印刷によりましたが、それにしてもこれに要した用紙は2万枚以上に上ったと記されています。
 また、送付に際しては、山梨県外に移住したものや、行方の分らない者もおり難儀したようです。県外の者については送達し、行方不明のものについては告示をもってこれに代えましたが、記録には、例えば遠く北海道に移住したものに対しては「数回往復照会為メ大ニ時日を遷延セリ」とあり、また、故意に異議を唱えるもの、伝流逃遁を試みるものもいたといいます。これらを一件一件解決し、訴状を送りつけて提訴にこぎ着けたのです。ここまで来るとまさに鏡中条村の執念を感じます。

 提訴にあたって、今回は前回の一審の失敗や鳩山のアドバイスにより、証拠として新たに水防に要した費用の使途明細帳と、支払いを証明する支払受取書などを加えました。また、水防に費用が掛かった事実や、南湖村の人々も水防に参加していたことを証明する証人として、前控訴審の時にも証人採用を求めた中巨摩郡役場の書記土木課員新谷旨備に加え、この水防の当時県の土木課長であった穴水朝次郎を証人として採用するよう求めました。
 穴水は、2008年10月15日号でも紹介したとおり、後に県議会議員となり、明治29年水害を契機とした前御勅使川の封鎖、廃河道化に尽力したことで知られる人物です。

 鏡中条、南湖とも弁護士は前回の甲府地裁と同じ飯島實島田楳蔵。甲府地裁の裁判官(判事)も3名のうち筆頭判事を含む2名が同じ顔ぶれでした。

 
 提訴は、明治24年12月20日。穴水朝次郎らの喚問なども行われ、判決は、明治25年4月2日にだされました。
 「本件ノ争点ハ享和三年ニ定メタル水防組合今尚存在スルモノナルヤ否ヤ果シテ存在スルニ於テハ原告ノ請求金額ハ相当ナルヤ否ヤニアリ」。裁判所は今回は、鏡中条村がかねてから求めてきた水防組合の旧来の契約が有効であるか否かを争点と認めます。
 その結果、今回は周到に準備した鏡中条村の主張が全面的に認められ、鏡中条村の勝訴となりました。

 南湖村は、この水防に利害なしというが、穴水朝次郎の陳述においても、将監堤決壊の場合は、「南湖村藤田村等ヘ浸水スルニ相違ナシ」とあるように、被告人等が被害を受けることは明瞭である。また、享和三年の契約が廃止された証拠はないので、現在も有効であることは明らかで、引き続き古来の慣行に従うものと認められる。

 水利土功会は、水利土功に関係ある人民もしくは町村の集会を要するときその地方の便宜に従い規則を設けるのであって、将監堤のように古来からの慣行に従い別段集会評決の必要がなければ、必ずしも水利土功会を設ける必要はない。したがって、水利土功会を設けていないこと即ち享和三年以来の慣行を廃止したとする理由にはならない。
 また、穴水らの証言により、資材を要したことが認められ、受取書もあることから、訴えの如く費用を要したと信認される。今回の甲府地裁の判断です。

 南湖村は当然控訴し、舞台は再び東京控訴院に移ります。

A01_2【写真】200名上の名が連ねられた原告、被告の住所と氏名

A02_3【写真】穴水朝次郎(『八田村誌』より)

A03_2【写真】「水害見込み線(筆者が朱書で強調)」が記された絵図

 明治十四年十二月村役所控とあり、将監堤決壊の場合は、西南湖・和泉も大きな被害が及ぶことが記される。内容から本絵図は本訴訟に際して作成された可能性もあり、その場合控えとして写される際に、提訴年月の明治廿四年十二月の、廿と十を写し間違えた可能性が指摘できる。

 

 【南アルプス市教育委員会文化財課】