南アルプス市ふるさとメールのお申し込みはこちら

南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

南アルプス市ホームページへ

市役所便り・イベント情報

ふるさとニュース

山梨県内のニュース

プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その3~

第2審 東京控訴院

 第一審に完敗した鏡中条村は、同じ轍(てつ)を踏まぬよう控訴審に先立ってまず上京し、政治家や法律の専門家などに広く指導を仰ぐなどして周到な準備を進めます。

 訴訟全般については芳野世経(東京市会副議長)に指導を仰ぎ、水利土功会の疑問については松田秀雄(東京市会議員)、契約の問題については瀧澤信次郎弁護士に意見を求め、その上でさらに、弁護士であり法学博士でもあった鳩山和夫に相談しています。ご存じのとおり、鳩山和夫は、第52~54代内閣総理大臣鳩山一郎の父、第93代総理大臣由紀夫の曽祖父にあたる人物です。

 満を持しての提訴は明治24(1891)年6月(日付不明)。
 鏡中条村の村長は、三木から北村荻右衛門に代わっています。
 鏡中条村側の弁護士は鳩山和夫瀧沢信次郎が務めることになりました。
 控訴に際して今度は、この水防に立会い、費用を要したことを証言できる者として、中巨摩郡役場の書記土木課員新谷旨備を証人採用するよう求め、同人の証言により別に提出する費用明細を証明することとしました。
 対する南湖村も村長は安藤から大木省三に代わり、こちらの弁護士は、政治家、俳人としても知られる角田真平(竹冷)と、彼に近い関係にあった有泉義行が務めることとなりました。

01

【写真】控訴審で鏡中条村の弁護人を務めた鳩山和夫(画像出典:早稲田大学)
02

【写真】南湖村の弁護人を務めた角田真平(竹冷)(画像出典:金港堂書籍株式会社『新選代議士列伝』1902年)

 控訴審における鏡中条村の主張は、南湖村が請求を認めないのであれば、認めない理由を証明し、すなわち反証すべきである。また旧来の契約がある場合は、必ずしも水利土功会規則に拠らなければならないことはないはずで、旧来の契約があることを推知しながら、棄却した一審の判断は不当である。というものでした。

 これに対し、南湖村は、将監堤の水防には関係していたが、それは「旧事」のことであり、いまは全く関係ない。このような水防工事が行われたかどうかも知らなかった。南湖村がこの将監堤に関係ないことは「水利土功会」を開設していないことからも明らかであり、下流の村が水防費を負担すべきというなら、(古来より影響があるとされる)下流の13か村で水防費を負担すべきであって、南湖村のみを相手取って訴訟を起こすのはおかしい。というものでした。 

 その上で、南湖村側は、南湖村はそもそも訴訟の相手として「訴えられる資格」はなく、鏡中条村にも「訴える資格」つまり、双方に当事者能力がないことを確認する中間判決(※1)を控訴院に求めたのです。

 この中間判決請求に対して、鏡中条村は抵抗しますが、結局はこれを踏まえた(中間)判決が明治24年11月6日に出されています。これは、鏡中条村にとっては、またしても意外なものとなりました。

 「被控訴人(南湖村)ハ本訴相手方タル資格ヲ有スルモノニ非ルヲ以テ控訴人カ被告人ニ対する訴ハ之ヲ棄却ス」つまり、南湖村が主張したとおり、南湖村はそもそも「訴えられる資格」、当事者能力がないというのです。

 裁判所の判断はこうです。発端となった明治22年(1889)の水防について、水防費を分担する根拠は、旧来の契約である。仮にこの契約が有効であったとしても、しかしその請求は、あくまで従来の水防組合契約によって為されるのだから、その相手方もこの契約による者(西南湖村・和泉村)であることが必要である。しかし、今回請求の相手となり、訴えられた南湖村村長は、西南湖村、和泉村に東南湖村、田島村・高田新田を加えて成立した「新」南湖村の村長であり、契約村部分のみの代表ではないので「訴えられる資格」はない。契約村は、あくまで(今は存在しない)西南湖及び和泉両村であるので、この2村を相手にするならともかく、今の南湖村村長に対して訴えを起こすことはできないというのです。

 そうなると、同様に、契約村である「旧」鏡中条村が訴えを起こすことは可能だが、下今井村を合併した「新」鏡中条村の村長は、旧鏡中条部分のみではなく、下今井分をも含んだ領域を代表する者なのだから、契約村とイコールではなく、そもそも訴えを起こす資格もないことになってしまいます。

 この中間判決をもって控訴審は終了し、鏡中条村の求めた、費用明細を証明するための中巨摩郡役場の土木課員新谷旨備への証人尋問も行われた形跡がなく、まさに「門前払い」となりました。

03

【写真】村の位置関係

 これは、いうならば平成15年(2003)に6町村が合併して誕生した南アルプス市おいては、市長は合併前の旧町村が行ったことに関する責任はとらなくてよいと言っているのと同じで、現在の感覚からすると何ともおかしいわけですが、事実この時はこのような判断が下っているのです。

  一審で敗訴。控訴審でも敗訴。今回も旧来の契約が有効であるか否かや、水利土功会の太政官布告の解釈など自らが求める本質的な議論にすら至らず、しかも門前払いを食らう形となった鏡中条村。ここで諦めることは到底できませんでした。 鏡中条村の次の一手やいかに。(つづく)    

 


※1 中間判決(ちゅうかんはんけつ):民事訴訟において、独立した攻撃防御方法その他中間の争いについて裁判をするのに熟したとき又は請求の原因及び数額について争いがある場合における請求原因について裁判をするのに熟したときに、裁判所が下すことができる判決をいう(出典:Wikipedia)。今回の場合は、請求権、被請求権の有無(=請求の原因)を確認するために行われたもの。

  

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その2~

第一審 甲府地裁
 提訴に先立ち鏡中条村がまず検討したのは、江戸時代の契約(水防組合)が明治の世になっても有効か否かということでした。明治17年(1884)の太政官布告によって、水利や土木に関して利害が複数の村に関わるような場合は、「水利土功会」という組織を設置して管理することになっていましたが(※1)、毎年の生産行為に密接に関わる用水の水利などとは違い、明治17年以降も喫緊の必要を認めなかったためなのでしょうか、争点となった「将監堤」については、この時点において「水利土功会」設置されていなかったのです。

A_11

【写真】連判状写 訴状に証拠として添付された水防組合設置に関する文書(享和3年(1803))の写し

 その場合の江戸時代からの契約の有効性について、鏡中条村は提訴に先立ち県の官吏や法律家に照会していますが、その結果、ある者は有効といい、またある者は無効といって、明確に有効性を確認するまでには至りませんでした。しかし鏡中条村は、契約が関係村間で解消された記録や事実はないので「水利土功会」に移行していなくても有効であり、また契約の有効性について両論あるということは、少なくとも争うことは可能との結論に至ったものとみられ、水防組合結成に関わる近世の連印状の写しや、既定の水防費の分担割合を示す高割表の写しなど、契約があったことを示す古記録等を証拠として提訴に踏み切ったのです。

 提訴は、明治24年(1891)4月18日。

 原告は、鏡中条村村長三木森太郎。原告代理人は、甲府市の弁護士飯島實

A_8【写真】重要文化財「安藤家住宅」 
A_9【写真】南湖村長 安藤由道(南アルプス市蔵) 

 被告は、南湖村村長安藤由道。現在南アルプス市によって保存され一般に公開されている重要文化財「安藤家住宅」のこの当時の当主でした。安藤家は代々西南湖村の名主役を務めた家のひとつであり、本訴訟時も村の有力者として村長を務めていたのです。被告代理人は甲府市の弁護士島田楳蔵でした。

 鏡中条村の、旧来の契約に基づき明治22年(1889)の水防に要した費用の分担金を支払えという訴えに対し、南湖村は「原告ノ訴ヲ棄却アリ度キコトヲ申立ツベク候」と全面的に争う姿勢をみせました。その主張は、旧来の契約は新たに「水利土功会」に移行していないのだから既に無効であり、費用を分担する理由はないというもので、やはり「水利土功会」の設置がないことを突いたものでした。また、仮に契約が有効だったとしても、原告請求の金額が果たして支出されたのかどうか確かめる証拠がないので請求には応じられないというのです。

 両者の主張を受け判決がでたのは、早くも明治24年5月29日でした。

 結果は鏡中条村の全面敗訴。

 裁判所の判断は、将監堤の水防は原告村、被告村その他の村々の費用をもって互いに人夫を差出し防禦するという契約があることを「推知」することはできるが、明治22年の水防の際、原告村においてその水防を為し、費用を要したといっても被告は認めていないし支出した費用を確かめる証もない、というものでした。

 この時の水防には、南湖村も実際に人足を出して参加していたのですが、提示されたのは掛かったとされる水防費の総額と、従来の定約に基づく石高割額のみで、明細も不明であり、本当にそれだけ掛かったか実際の支払いを確かめることもできないというのです。南湖村の主張を全面的に認めたものでした。

 鏡中条村にしてみれば、確認を求めたのは旧来の契約が有効であるか否か、また水利土功会の太政官布告の解釈であり、費用負担の請求ははその手段に過ぎなかったともいえます。しかし、判決の骨子となったのは費用請求の方法の不備であり、その判断は鏡中条村にとっては、その枝葉のみを見たものと言わざるを得ませんでした。

 現在の感覚から言えば、鏡中条村にさらに支出に関する証拠類を提出させるなど、もう少し検証が加えられてもよいとも思うのですが、記録類を見る限り、判決は鏡中条村が当初に提出した証拠のみに基づいて審理されたようです。

 この後、鏡中条村は当然控訴することとなりますが、しかし、契約の有効性を争うことに注力し、請求金額を証明する証拠を提出しなかったため、結果的に「不備ノ訴状」となったことは控訴審に向けての反省材料となりました。

 審議の場は、東京控訴院(現在の東京高等裁判所)へ移ります。(つづく)


※1 明治17年太政官第14号布告「区町村会法」。その第十四條に「府知事縣令ハ水利土功ニ關スル事項ニシテ區町村會若クハ聯合區町村會ニ於テ評決スルヲ得サルモノアルトキ特ニ其區域ヲ定メテ水利土功會ヲ開設スルコトヲ得」とある。水利や土木構築物は地方の管理であることを定め、その利害が広域に及ぶ場合は「水利功会」を開設して管理することを定めたもの。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

【連載 今、南アルプスが面白い】

水防費分担金訴訟の顛末(てんまつ) ~その1~

はじめに

A01_2【写真】水防費分担金請求之訴状 明治24年(1891)

 ここに「水防費分担金請求之訴状」と書かれた一通の訴状があります。明治24年(1891)、今から120年以上前に、鏡中条村(現在の南アルプス市鏡中条地区)が南湖村(現在の南アルプス市南湖地区)を相手取って起こした裁判の訴状です。

 本格的な台風シーズンを迎えた八月、今回から数回にわたって、両村が村同士で激しく争い、最終的には大審院(現在の最高裁判所)にまでもつれ込んだ、この地域の大事件について、その顛末(てんまつ)を紹介したいと思います。この事件は、一般にはあまり知られてないのですが、これを今掘り起こすことによって我々は地域防災を考えるヒントや教訓を得ることができます。

事件の発端

A02【写真】現在の将監堤 
A03_2

【写真】釜無川の流れを対岸に押し戻す将監堤の配置と水防組合4カ村 
A04【写真】水害図 享和2年(1802)年の将監堤の決壊状況を示したもの

 ことの発端は、鏡中条にある釜無川の堤防「将監堤(しょうげんてい)」を守るために掛かった水防費の分担の問題です。

 「将監堤」は、2008年9月12日号10月1日号の浅原村の回でも紹介したように、釜無川の対岸に永禄3年(1560)頃造られた「信玄堤」によって、南アルプス市側に向くようになってしまった釜無川の流れを、対岸に押し戻すことを目的に構築された堤防です。まさに釜無川西岸の水防の要となった堤防で「将監堤一万石」と謳われたとおり、決壊した場合その影響は下流の13カ村、石高一万石に及ぶと云われ、享和3年(1803)以降その影響の大きい6カ村(鏡中条・藤田・西南湖・和泉・東南湖・戸田)、文政12年(1829)以降は特に影響の大きい鏡中条・藤田・西南湖・和泉の4カ村で「水防組合」を結成してその水防費等を分担してきました。

 この享和3年、文政12年という年は、それぞれ前年に将監堤が決壊する大水害が起こっており、これら水害が組合結成、改組の契機になっていたと推定されます。この内、水防組合結成の契機となった享和2年の水害の図が、鏡中条の長遠寺に残されていますが、これによれば将監堤が決壊した場合、現在の南アルプス市域南半分のみならず、洪水流は遠く鰍沢にまで及び、その影響がいかに大きかったかを知ることができます。

 その将監堤は明治22年(1889)、明治以降最大の危機を迎えます。折からの台風と見られる豪雨により増水した釜無川によって堤脚が洗堀され、あと「二、三尺で」決壊するギリギリのところまで追い詰められたのです。この時は幸いにして、鏡中条村を中心に足掛け4日間に渡って展開された不眠不休の水防活動もあって、決壊をまぬがれることができました。しかし問題はその後。この水防に掛かった費用963円30銭6厘を鏡中条村が従来の定約に基づく割合で、水防組合村の藤田村と南湖村(組合村の西南湖村、和泉村は明治8年に両村に東南湖村・田島村・高田新田を加えて合併して南湖村となっていた。)に負担するよう求めたところ、藤田村は速やかにこれに応じましたが、一方の南湖村は度重なる請求にもかかわらず、翌明治23年(1892)に至っても頑としてこれに応じなかったのです。南湖村にしてみれば、これだけの費用を要したといわれても、事前に了解もなく、自らの見ていないところで行われた部分もあり、文政11年(1828)以降60年間決壊のなかった他村の堤防である将監堤に費用負担を続けることに疑問を感じていたのかもしれません。一方の鏡中条村は、かねてからの盟約もあり、決壊すれば広汎に被害のある堤防を自らの負担のみで保守することには到底納得できなかったのでしょう。

提訴
 鏡中条村はついに南湖村を相手取って明治24年4月18日、旧西南湖・旧和泉村分の負担295円89銭7厘に加え、これまでの利息金55円48銭1厘の支払いを求め、甲府地方裁判所に提訴。以後2年にわたる法廷闘争がはじまるのです。(つづく)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

平安時代の信仰(4)
―山懐の秘仏2―

A01 【写真】菩薩形坐像(穂見神社)
A02_2【写真】穂見神社 
A03【写真】穂見神社本殿(県指定文化財)

A04 【写真】ノミ痕がわずかに残る頸部

A05【写真】ノミ痕がわずかに残る脚部

A06_2 【写真】像底に残る後世の銘文「穂見神社 三体明神 源義光」

 今回ご紹介するお像は、高尾の穂見神社の本殿奥深くに納められています。神社ですので、仏像の形をした神様の像というのが正しいのかもしれません。穂見神社については、2011年11月15日号2011年12月15日号などで詳しく紹介しています。
 全体を虫害により著しく損傷しているため、尊名は判別できず単に「菩薩形坐像」とお呼びしていますが、その構造や彫り方から11世紀頃の造立と推定されています。

 秘仏とされながらも数十年に一度など、折を見て開帳されてきた仏像などとは異なり、神像は本来的に我々の前に現れることはありません。したがって、このお像の保存状態が悪いのは、決して疎かにされてきたからではなく、拝見することもはばかられるほど、畏れ敬われてきたということなのでしょう。それほど大切にされてきたのです。
 現在県の指定文化財となっている穂見神社の本殿は、今から約50年前の寛文5年(1665)に再建されたものですが、おそらくそれ以降ほとんど人目にふれることは無かったのではないでしょうか。

 痛々しいお姿ですが、しかし所々にのこる浅く鋭いノミ跡が往時の像容をわずかに教えてくれています。現在のままでも、信仰の対象としての価値はいささかも劣るものではありませんが、もし本来の像容が損なわれていなければ、山梨県の仏教美術史上の大きな財産となったことでしょう。

 なお像底には「穂見神社 三体明神 源義光」銘があります。源義光(新羅三郎義光)は一般に甲斐源氏の祖とされる平安時代の武将ですが、近年の研究では実際に甲斐国守に補任された可能性は低いとされ、この銘文も後世のものと考えられます。

 しかし穂見神社は、江戸時代の地誌『甲斐国志』には「三躰王子大福王子・大寿命王子・大智徳王子ヲ配祀ス俗ニ文殊ト称ス」とあり、少なくとも近世においては、本神社の信仰の中心は文殊菩薩の化身としての三躰王子とされてきたことが分かります。虫損により本像が何の尊像として造られたのかは明らかにできませんが、本像の宝冠を戴き、膝上に印を結ぶお姿は文殊菩薩の姿とは異なります。こうした姿で最も多いのは胎蔵界の大日如来ですが、しかしいつの頃からか文殊として信仰され、当社のご神体として本殿深く祀られてきたのでしょう。

※本像は、信仰の対象として大切に守られています。一般に公開されているものではありません。写真は文化財調査実施に際し、神社様のご厚意により特別に撮影させていただいたものです。

 

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

平安時代の信仰(3)
― 山懐の秘仏 ―

 大嵐地区の山懐に抱かれた寺院「善応寺」。ふだんお寺の関係者以外に訪れる人も少ない山中の「観音堂」に千手観音像は安置されています。

A【写真】善応寺に続く階段 
A1721【写真】善応寺の観音堂 享保6年(1721) 
A_3【写真】千手観音立像(厨子内)
A_5【写真】千手観音立像 
A_6【写真】長谷寺の十一面観音像
A_8【写真】長谷寺の十一面観音像 


 善応寺は、社記によれば鎌倉時代、仏源禅師(1215-1290)の開山とされますが、その立地や周辺から平安時代の土器が見つかっていることなどを考えると、おそらくその起源は古代にまで遡るものと考えられています。

 南北朝時代の善応寺周辺は「須沢城」というお城であったと伝えられますが、須沢城は2007年9月14日号でも紹介したとおり、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際に足利尊氏の執事の高師直の養子師冬が、対立する上杉方に攻められて自刃した城として『太平記』など登場します。

 善応寺の千手観音立象は像高182センチ。寺記によれば、この霊像は甘利山の奥にある大笹池ノ西、都沢という場所から出現し、塩ノ谷三郎という人が観音堂を建立して安置したとされていますが、2014年4月14日号でも紹介した長谷寺の「十一面観音立像」とは細身で長身な姿がとてもよく似ています。長谷寺の十一面観音立像の方が造高168センチとやや小ぶりですが、いずれも11世紀の像立と推定され、共に内刳(うちぐり)のない桂材の一木造(いちぼくづくり)。おそらく、御勅使川の上流と下流、集落の中心と山中の聖地にあって一対のものとして信仰を集めてきたのでしょう。

 善応寺の千手観音象は、長く山中にあったことから、虫損が激しく、また江戸時代には火災にあって大きく損傷し、所々炭化しており、脇手も全て失われてしまいましたが、現在も享保6年(1721)再建の観音堂に造り付けられた厨子の内に秘仏として大切に祀(まつ)られています。

 この観音堂の中には一対の棟札が残されています。一方には「享保六年丑年 奉修十一面観世音菩薩?二夜三日開帳成就祈祈 八田山長谷寺」、もう一方には「奉修千手千眼観自在尊供?秘法建堂成就祈祈 八田山長谷寺」とみえ、享保6年(1721)の長谷寺十一面観音像のご開帳に時を合わせて、焼失した善応寺の観音堂を再興したことがうかがえ、ここでも両像の密接な関係を知ることができます。

 文化11年(1814)に編纂された『甲斐国志』には「本尊ハ阿弥陀、観音堂アリ」とみえますが、慶応4年(1868)の寺記を見れば、この時点で既に本堂はなく(焼失後再興されなかった可能性もあります)、お寺自体がこの時すでに無住であったことも分り、千手観音像のおかれた苦難の歴史がにじみます。

 現在の尊像の痛々しいお姿に、今回は写真の掲載も躊躇(ちゅうちょ)しました。しかし、長く無住の寺に安置され、焼失の危機にさらされながらも、千年の時を経て、もの言わずたたずむそのお姿は、我々に「重厚な時の重み」を教えてくれているようで、思わず手を合わせたくなります。皆様にもそのようなお姿を知っていただきたく、今回はあえてお出ましいただきました。

※本像は、このように信仰の対象であり秘仏として大切に守られています。一般に公開されているものではありません。写真は文化財調査実施に際し、お寺のご好意により特別に撮影させていただいたものです。

 

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

平安時代の信仰(2)
―富士山信仰を表す日本最古の像―

A01_2【写真】木造浅間神像 
A02_3【写真】如来形の半身を三人の女神像が囲む 

 平安時代でも10、11世紀に遡る南アルプス市最古級の彫刻たちの中で、今回ご紹介するのは江原にある浅間神社のご神体として本殿の奥深くに安置されてきた「木造浅間神像(もくぞうせんげんしんぞう)」です。

 像の高さは40センチほど。彫り方の特徴などから平安時代、11世紀頃に造られたと見られています。浅間神社といえば、富士山を神格化した浅間大神(あさまのおおみかみ)に関わる神社として知られていますが、富士山の信仰に関わる彫刻としては現在のところ本像が日本最古の例ということになります。さらに、仏様のようなお姿を三人の女神が囲むその造形は全国的に見ても他にまったく類例がなく、古代における富士山信仰のかたちや、それに寄せた人々の想いを我々に教えてくれる貴重な文化財ということができます。

 この像の存在は以前から知られていましたが、市の教育委員会が平成18年度から22年度の5か年をかけて実施してきた市内の仏像や神像の総合的な調査によって改めてその価値が明らかになり、平成25年6月に国の重要文化財となりました。

A03【写真】浅間神社(江原) 
A04【写真】かつての御手洗池(昭和42年) 
A05【写真】浅間神社境内図(明治28年) 御手洗池が描かれる 
A06_2【写真】発掘された弥生時代の水田(油田遺跡 右上の○が浅間神社) 
A07【写真】古代大井郷の推定範囲 

 江原の浅間神社といえば、かつてその傍らには「御手洗池(みただしのいけ)」という豊富な湧水があり下流の村々を潤してきました。周辺には弥生時代の遺跡も数多く存在するので、おそらくは山梨県への稲作の伝播以降この地域の発展を支え続けた大切な水源だったのでしょう。

 古代、南アルプス市域の南半部は「大井郷(おおいのごう)」に属していましたが、その大井の名の元になったのは浅間神社の御手洗池といわれており、農業を支える神聖な水源を守る江原の浅間神社は稲作の神としても崇敬され、かつては「大井郷の総鎮守」とも呼ばれて御手洗池とともに信仰を集めてきました。

 このような歴史あふれる地域に人々の手で千年を超えて大切に守られてきたのがこの「木造浅間神像」なのです。
※木造浅間神像は浅間神社のご神体として、地域で深く信仰されているもので、一般に公開はされていません。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【連載 今、南アルプスが面白い】

平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰―

 南アルプス市には、現在3000躯の仏像が残されていると推察されていますが、そのうち平安時代半ば、10・11世紀までさかのぼるものはわずかに5件(7躯)に過ぎません。
 

A1011【写真】平安時代の遺跡と10・11世紀の仏像 A_2【写真】長谷寺の十一面観音像

A_3【写真】円通院の十一面観音像

A_4【写真】円通院観音三尊像

 この内2件は山中にひっそりと納められた善応寺(須沢)の「千手観音立像」と穂見神社(高尾)の「菩薩形坐像」です。残る3件は御勅使川扇状地の末端及び滝沢川扇状地にありますが、これらが安置された場所は南アルプス市の平安時代の遺跡が集中する部分と驚くほど一致しており、古くから集落の中心にあって人々の信仰を集めてきたことがわかります。

 この内1件は滝沢川扇状地上の浅間神社(江原)のご神体「浅間神像」で、富士山信仰を表す日本最古の像として平成25年に国の重要文化財に指定されました。

 残る2件は、場所は離れていますが、ともに御勅使川扇状地の末端にある長谷寺(榎原)、円通院(寺部)のご本尊で、くしくもいずれも「十一面観音立像」です。円通院の作例は2008年6月1日号で紹介したとおり3尊像で、3躯がセットになります。

 ところで、同じ御勅使川扇状地の末端に位置する久本寺(下今諏訪)に室町時代の鰐口(わにぐち)が残されています。鰐口は神社やお寺の軒下につるされ、参拝者が綱をふり動かして鳴らす道具です。

A_6【写真】久本寺の鰐口

銘文に
  奉 観音鰐口大旦那中蔵五郎二郎
  口中蔵
  五月十八日敬白
  享徳三 甲戌年殊者施主子孫繁栄昌所
と刻まれており、享徳3年(1454)に、子孫繁栄を願って『観音堂』に奉納されたものであることが分ります。現在久本寺に観音堂や室町時代以前に遡る観音像はありませんが、かつてはここに、現在は失われた幻の観音像があったのかもしれません。もしそうなら、下今諏訪周辺にも、未だだ発見されていない平安時代の大規模な遺跡が眠っているのかもしれません。

※ 長谷寺の十一面観音像は、33年に一度ご開帳の秘仏として守られ、他の仏様や鰐口も信仰の対象であり一般に広く公開されているものではありません。

 【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

季節を感じること ~五節供を知る~

 立春を迎え、暦の上では春がやってきましたが、先日20年ぶりの大雪に見舞われて寒い日々が続いているために、その事実をなかなか実感するのが難しいのではないでしょうか。
 日本は四季の移り変わりがはっきりしており、その中で昔から日本人は四季を彩る行事をおこなってきました。雛祭りやこどもの日、七夕が広く知られている節供が代表的なものです。

 節供は中国で生まれ、唐の時代に定められて日本へ伝えられた行事といわれています。季節の変わり目に不浄を清め、忌み慎んで神を祀る節日に、神へ捧げる「供御(くご)」を「節供(せちく)」といい、これが節供(せっく)になったといわれています。節供は七草粥を食べる1月7日の人日(じんじつ)、3月3日雛祭りの上巳(じょうし)、5月5日こどもの日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽(ちょうよう)の5つがあり、これらを五節供と呼びます。

 これらのうち今回は、来月迎える上巳の節供についてご紹介したいと思います。
 上巳の節供は雛祭りとして定着していますが、桃の節句、女の節供とも呼ばれています。中国ではこの日を忌日として、水辺で禊を行い、酒を飲んで祓う習慣があったといい、これが次第に花見や山遊びなどの行楽と結びつき、3月3日に固定したそうです。
 3月3日と言えば思い出される雛人形ですが、もともとは神霊の代わりとして作ったもので、これで自分の身体を撫でて水に流して災厄を免れるという呪具であり、こうした性質が薄れて飾りとして用いられるようになったものです。

 江戸時代における五節供の日は上役に祝いを言いに行く日で、大名は熨斗目長袴で将軍に献上物を捧げ、菓子を賜ったり、大奥では雛を飾り、贈り物としてサザエ、ハマグリ、蒸餅、白酒などが届けられたそうです。上巳の節供には桃の花がかかせないが、室町時代から白酒を「桃花酒」と言ってこの日に飲む風習がありました。伝書には「同日、桃花を酒に入れて飲めば、百害を除き、顔色を増すなりといえり。」とあり、3世紀頃、桃花の流れる川の水を飲んだ人が300歳の長寿となったという故事があったことが元であると思われますが、このように桃は邪気を祓う木とされていたそうです。

 小笠原流にはそれぞれの節供に合わせた床飾りがあります。この上巳の節供の床飾りについて、伝書には「3月3日には、えもぎ餅(ヨモギの草餅)の上に桃の花を切りて、熨斗を添えて飾りてだすなり」とあるそうです。
 上巳の節供の床飾りの写真を見ていただくと分かると思いますが、雛人形・桃の花・ハマグリ・サザエ・菱餅・雪洞・熨斗など先述したものが三方に入れて飾られています。

A_6 【写真 上巳の節供の床飾り全体】
A_8【写真 上巳の節供の床飾り拡大】

 現代に生きる私たちにとって、小笠原流の床飾りの教えを全て取り入れるのは難しいかもしれません。小笠原流の伝書には、「五節供には当季の物をいずれも三方に入れて出すなり」ともあるそうです。これは、五節供いずれにも季節のものを三方に入れて飾るということです。例えばその季節のものを器に盛って飾る程度の出来る範囲でこの教えを取り入れるだけでも季節を感じることが出来、毎日の生活に彩りが生まれるのではないでしょうか。

 南アルプス市内にある重要文化財安藤家住宅では、毎年恒例となりました「安藤家の雛祭り」と題した雛飾りの展示を4月7日(月)まで行なっており、上巳の節供の床飾りが茶室に展示されています。昨年より雛飾りの展示が増え、華やかに彩られる安藤家住宅にお越しいただき、来る春の訪れに思いを馳せてご覧になってみてはいかがでしょうか。

A1 【写真 安藤家の雛祭り展示状況1】
A2【写真 安藤家の雛祭り展示状況2】


 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

【連載 今、南アルプスが面白い】

安藤家に獅子舞がやってきた!

 去る1月12日(日)、南アルプス市西南湖地区で守り伝えられている獅子舞の披露が行われました。
 西南湖の獅子舞は、昭和49年当時の甲西町の文化財に指定され、その後町村合併を経て現在は南アルプス市指定の文化財として引き継がれています。
 発端は、明治20年頃西南湖地区の隣の和泉地区の青年が質入れしたままになっていた女獅子一式をもらい受け、道祖神祭りの行事厄払いの舞として西南湖青年会が始めたことだと言われています。その当時の獅子は現在使用されていませんが、当初の獅子の塗りがはげる等の痛みが見えてきたために大正中期に新調したものを使用しています。
 初めの頃は、青年が受け持ちで1人が獅子の面をかぶり、1人が着物の裾を持って地域の家々を短時間舞い歩いただけでしたが、年数を重ねるにつれ研究心が湧いたのでしょう、鳥刺し踊り・梵天舞・厄舞・狂い獅子など舞の種類を増やし、太鼓と横笛を加えた4人1組で舞うようになり、内容が充実していきました。
 また、獅子が新調された大正中期以降、江戸中期に端を発した山梨県指定文化財の獅子舞で有名な下市之瀬地区(南アルプス市へ通い、梅川忠兵衛や八百屋お七に代表される段物を習得しています。当時の人々の獅子舞に懸ける熱意が感じられるエピソードではないかと思います。

A_8【写真:大勢の人々で賑わう】 

  現在は、西南湖獅子舞保存会が中心となり、成人の日のある三連休のいずれかの日に新築・結婚・出産・成人等の祝い事や、厄年の人のある家、地域の施設等30箇所強で舞っています。
 地元の名主であった安藤家住宅(重要文化財)でも毎年舞が行われています。西南湖獅子舞保存会のメンバーら約40人や、獅子舞見たいという多くの方で賑わいます。

A1

A2

A3

4 【写真:獅子舞の様子】

 今年の演目は梅川忠兵衛。飛脚宿亀屋の養子である忠兵衛は新町の遊女梅川に恋するが故に金飛脚の封印切りから追われる未となった忠兵衛が故郷大和の国新口村へ道行の場を、獅子が梅川に扮して忠兵衛と2人で日本舞踏的に舞うものです。番傘等の小道具が入ったり、笛や太鼓が演奏される場面もあり、見応え十分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A1_2

A2_2

A3_2 【写真:迫力ある舞い込み】

 舞の終わりには「ヤレコラノー コ レエエデー ○○さんもご繁昌、アラメデタイコンダーネー」(○○には舞っている家の方の名前が入ります)という声の後、お囃子で家の中央に舞い込みます。この様は本当に獅子に食べられてしまうのかと思う程の迫力に圧倒されるばかりです。また、今年1年の幸せを願ってもらえているような実感も湧くのではないでしょうか。

 時間にして10分弱ですが、舞が終わると舞手の方は汗だくになってしまうとか。それもそのはず、見ている分には優雅に見えますが、舞手の男性は女性に見えるように舞うので気配りも大変なものだということです。腰を落とし上体をあまり前に曲げず、足の運びを小さく内股にし、両膝を密着させるのが伝統の型とされるため、体力の消耗もかなりのものと思われます。
 このように先人達の思いを繋いで守り伝えられてきた西南湖の獅子舞。これからもよりよい形で守り伝えられるよう願うばかりです。そして安藤家住宅も今年1年各種展示やイベントを行い、より魅力ある文化財にしていけるよう、西南湖の獅子舞からいただいたエネルギーをも糧に努めて生きたいと思います。今年もよろしくお願いします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

元禄赤穂事件と南アルプス市 ~忠臣蔵のもう一つの楽しみ方~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。

ふるさとメール
とら:すっかり寒くなったわね。もう師走よ。12月14日は有名な日よね。
だい:南極の日でしょ。
とら:なかなかマニアな答えね。旧暦で元禄15年(1703年)12月14日と言えば赤穂浪士の討ち入りがあった日でしょ。元禄赤穂事件っていうらしいんだけど、その事件を演劇化したのが『忠臣蔵』。忠臣蔵のストーリーは知ってるわよね。
だい:もちろん。この時期に映画やドラマ化されることが多いから。播磨国(兵庫県)赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)が旗本・吉良義央(きらよしひさ)に江戸城で切りつけたのが事件の発端でしょ。なにか遺恨があったらしいわ。翌日幕府から浅野が切腹を命じられたのに対し、吉良はお咎めなし。それを不服とした大石内蔵助をはじめとした家臣47人が吉良邸に討ち入って、仇討ちを果たした物語よね。
とら:そうそう。じゃあ、忠臣蔵の主なキャストが山梨県と南アルプス市に関わりが深いってこと知ってる。
だい:え、誰が。
とら:まず浅野長矩は、文禄2年(1593年)から甲府城主となった浅野長政の子孫なの。浅野家はその後和歌山から広島へ移り、そこから分家して赤穂藩主となったのよ。
だい:ててっ、浅野長矩が甲斐国に関係があったなんて。
とら:次に浅野長矩を裁く立場の幕府の要職に山梨県と関係する人たちがいたの。時の将軍は徳川綱吉。その綱吉から信頼され側用人(そばようにん)として大きな権力を持ち、この事件も当然知っていた柳沢吉保は、討ち入り直後の宝永元年(1704年)、甲府城主となっているわ。ドラマの中では脚色して吉保がこの事件の黒幕として描かれているものもあるけれど、甲州では甲府城と城下町を整備した名君として評価されてるわ。
だい:柳沢吉保も関わりがあるのね。
とら:そしてこの江戸城での事件が起きたとき、将軍に次ぐ老中職に小笠原永重、土屋政直がいたの。きっとこの事件にも何らかの関わりがあったはずよ。
だい:小笠原って南アルプス市の小笠原に館を構えて、鎌倉幕府をつくった源頼朝を支えた甲斐源氏、小笠原長清の子孫かしら。
とら:ピンポーン。正解!さらに土屋って聞いてピンとこない?
だい:土屋って言えば南アルプス市徳永出身で、武田信玄と勝頼に仕えた土屋昌続と土屋昌恒兄弟が有名じゃない。昌続は武田二十四将にも必ず挙げられるし、昌恒は滅びゆく勝頼を最後まで守り続けた忠臣として有名よね。
とら:昌恒は多くの家臣が離反していく中、最後まで勝頼を守って討ち死にしたんだけど、その息子が生き残るの。後に徳川家康に見いだされ2代将軍徳川秀忠の小姓となり、最終的には上総国(千葉県)久留里藩主にまで出世するのよ。名を土屋忠直。その息子は常陸国土浦藩主にもなっているわ。
だい:すごい。敗れた武将なのに、その子孫たちはさまざまな場面で活躍したのね。
とら:その久留里藩主となった忠直の孫が土屋政直なのよ。老中のトップまで登り詰めたの。昌恒からするとひ孫ね。
だい:小笠原長重と土屋政直、二人はどんな気持ちで、浅野と吉良の事件を見ていたのかしら。
とら:さらに浅野長矩の仇を討とうと12月14日、旧赤穂藩士たちが吉良邸に討ち入るわよね。そこで歌舞伎などの演目では吉良邸の隣の家に申し入れをしてから討ち入りするの。その時隣に住んでいたのが・・・
だい:そうだ!隣に住んでいた旗本の名前は確か・・・土屋逵直(みちなお)!忠臣蔵での名場面じゃない。この人も昌恒と関係あるの?
とら:そうよ。政直と同じ昌恒の子孫なの。歌舞伎やドラマではこの逵直が大石内蔵助らの申し入れを聞き入れて、吉良、旧赤穂藩士どちらにも味方しないことを約束するのよ。赤穂浪士が討ち入っているときには、隣の家から提灯を高く掲げて大石内蔵助らを助ける場面がクライマックスで描かれることも多いわ。
だい:忠臣蔵に登場する人たちがこんなに山梨や南アルプス市とが関わりがあるなんて知らなかった。今度から忠臣蔵を見る目が変わるわね。DVD見てみようっと。
とら:もう冬休みだしね。
だい:私たちもしばらくお休みね。しばらく帰って来れない予感が・・・
とら:I"ll be backよ。ではみなさま、よい年を。

  

【南アルプス市教育委員会文化財課】