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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

野呂川話 ~長い長い水を求めた物語-第四幕 昭和20-40年代~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。?
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の

とら:先月は30℃もあったのに。11月急に寒くなったわ。紅葉が進んできれいだけど。
だい:いいね。紅葉見に行こうよう!
とら:ますます寒いわ。でも今月もハートに火をつけて、行くわよ。
だい:歴女の車輪眼にかけられたみたい。おもしろくなってきたわ。
とら:昭和27年に県が野呂川の水利権をはっきりと認めなかったってところまで話したわよね。7月13日の会議で天野知事は「300年間水利権を確保したって言うけれど、明治に一応県知事の許可を得たとはいえ、ただ眺めてきただけの権利に過ぎない。」って言ったのよ。

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【写真】建設中の野呂川上水道

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【写真】野呂川上水道の工事

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【写真】野呂川上水道の工事に従事した人々

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【写真】完成した上水道

だい:それじゃまるで原方の村々に水利権がないみたいじゃないか!
とら:わざわざ携帯を耳にかざして話さなくていいわ。確かに山を隔てた西側を流れる野呂川の水利権だからね。他の事業との関係から「はいそうですか」って認めることは県も難しかったのよ。その一方で、明治38年に知事の認可を受けた野呂川疎水路普通水利組合が法律改正のため野呂川土地改良区へ変更届けが提出されて許可されたの。これは野呂川の水を水源としますっていう組織が県に認可されたってことだから、水利権を主張する法的な根拠ともなったのよ。

だい:NSHSKからNTKね。
とら:とってもわかりづらいわよ。同じ年に、その組合に相談なく野呂川に県営の発電所を作る計画が県から議会に提出されたの。

だい:野呂川の水利権を持ってるって主張してる組合としては怒るわよね。ちょっとちょっと、聞いてないよって。

とら:そのとおり。計画自体より、水利権が無視され相談もなかったことが問題で「県営発電所設置」絶対反対って、原方のたくさんの人たちがボロ電車に乗って県庁前に集まり陳情したのよ。ムシロ旗をたててね。

だい:原方に水利権あるって浸透してないことが痛いわね。
とら:携帯をあごにあててのその表情・・・いろいろあったんだけど、昭和30年9月の議会で、土地改良区の水利権を天野知事が認めて決着したの。

だい:水利権は認められたんだ。じゃそれを手放して、お金を作れば上水道がすぐできるわ。
とら:まだ問題があるの。
だい:どんだけ。
とら:古いわね。上水道建設が予定されている場所は古くから有野、飯野、築山、飯野新田の4ヶ村が水利権を持っている土地。合併をしてその水源を持つ源村と飯野を中心とする巨摩町などが、昭和の合併政策の中で主導権争いが起こったのよ。

だい:合併って村や町がひとつになって新しいまちになることね。
とら:ここも長くなるのでまとめると、最終的に昭和29年巨摩、百田、西野、今諏訪の4村が合併して白根町が誕生、昭和32年に源村の飯野新田村、築山村、曲輪田村が編入、その2年後の昭和34年に源村も白根町と合併したの。

だい:もう、大事なのは水が来ることでしょ。ワンフォアオール・オールフォアワンよ。
とら:でもね、まだ財源の問題が決着していないわ。
だい:まだ問題があるの。
とら:財源をどうするか。地元では歴史を考えると野呂川の水利権を手放すことはとっても悲しいことだけど、それを財源にすることは決意していたの。

だい:何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人はきっと大事なものを捨てることができる人よ。なんてな。
とら:どこからくしゃくしゃの帽子を持ってきたの。新しい計画は野呂川の水利権を手放す代わりに、その資金で駒場に御勅使川の伏流水を利用した上水道を設置する計画でしょ。どこが権利を補償するかが問題だったの。野呂川の発電については、県は県営の発電所でやるっていうし、東京電力は民間である自分たちがやるべきだって主張したのよ。東京電力は電力ダムを設置するなら、組合に1億5千円出すとまで言ったわ。

だい:県と東京電力の綱引きね。だけどどっちか決まらないと補償してくれる相手が決まらないじゃんね。

とら:そうなのよ。ただし、財源の問題は棚上げして、昭和31年11月3日、ついについに、野呂川浄水道の起工式が行われたの。厚生、建設大臣代理を初め県知事、各町村長や地元の人々など500人以上の人が集まったっていうわ。

だい:乾杯!歴史の大きな舞台に立った感じよ。
とら:県と東京電力、どちらが野呂川に発電所を設置するかで対立は続くんだけど、県知事からの要請もあり、天皇陛下が夜叉神峠を含めた県内巡幸が決まったの。これが決定打となって発電所は県が設置することになったの。そして負担割合が決定!

だい:県が勝ったのね。
とら:勘違いするんじゃない。勝ったのは水を求め続けた地元の人々よ。
だい:目を見開いて、まばたきしないのね。
とら:県営発電の利益から1億3千万、東京電力が5千万、日本軽金属が2千万、起債5千万、地元が負担したお金が3千万で、合わせて2億円8千万の事業が決定したの。

 

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【写真】初めて水がやってきた

だい:バンザーイ。できてよかった。
とら:そして昭和34年5月5日、野呂川上水道組合第一期工事の竣工式。そこには豊富に流れる水が流れていたそうよ。

だい:水しぶきが描く放物線は、・・・栄光への架け橋だ!
とら:この写真が初めて水が来た時の様子。
だい:可憐だ。
とら:昭和37年には旧白根町役場裏にプールも完成したの。
だい:御勅使川や徳島堰の水を溜池に引いてその水を使うしかなかった昔を考えたら、信じられないわ。

とら:昭和40年には農林省の国営事業として、徳島堰をコンクリート化して漏れる水をなくし、さらに配管パイプを原方のほぼ市内全域にはり巡らせて灌漑する事業もスタート。田方の地域の排水工事も行われたのよ。

だい:原方と田方、双方にとっていい方向に進んだのね。とらちゃんの話を聞いてやっとわかったわ。駒場で御勅使川の伏流水を使ってるのになぜ「野呂川企業団」って呼ばれるのか。「野呂川」の名前には、水利権を求め続けた人々の歴史がつまっているのね。そして野呂川の水を求めた歴史が、今の上水道を作ったことが。

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【写真】プールが完成し喜ぶ人々

とら:いくつもの日々を超えて、たどり着いた今なのよ。
だい:けっして平らな道じゃなかったけれど、確かに歩んで来た道だったんだね。200年以上前から続く長い長い物語。熱いよね。

とら:時間はかかったけれど、あの日、あの時、あの場所で計画を始めなかったら、上水道の完成がもっともっと遅れたはずよ。

だい:この話を聞いたら、ますます燃えてきた。私東京に出てアイドルになる!そして地域を盛り上げるのよ。野呂川話にならないように頑張るわ・・。じゃなかった。

とら:野呂川話は物事が進まない例えに使われるけど、最後は形を変えて実現したじゃない。きっと形を変えてもうまくいくわ!

だい:うーんそれじゃ、アイドルじゃなくなにになるのかしら。
とら:だいちゃん、言ってることは天然だけど、けっこう鋭いから。私の勘だけど人を育てる先生か地域を盛り上げるって意味では政治家になったりして。

だい:とにかく頑張るわ!
とら:そういえば11月22日は高尾の穂見神社で夜祭りがあるじゃない。今年は提灯を持って歩くイベントも復活したの。詳しくは、こちらをご覧下さい。

だい:とっても雰囲気のいい神社で大好きよ。夜の神楽も幻想的で素敵よね。
とら:あ、もうこんな時間。40秒で支度して!
だい:ではでは野呂川話、これにて一件落着。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

野呂川話
~長い長い水を求めた物語ー第三幕大正・昭和時代~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。

 

とら:10月なのに30°Cを超えた日もあったけど、やっと秋らしくなってきたわね。
だい:木枯らしに抱かれる季節ね。この季節、なんだか鎌倉に行きたくなるのよね。
とら:私は信濃の善光寺参りがお気に入り。さて、の・ろ・か・わ・ば・な・しの続きをしようか。
だい:またその身振り。あの熱い話ね。いやー熱いよね。
とら:前回は明治時代まで話したわよね。大正時代になると、原七郷の主要作物はたばこから養蚕に変化するの。そこで畑は養蚕に必要な桑畑に変わったのよ。
2010年12月15日 (水) 御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~
だい:西野では果樹栽培も始まってるって聞いたことあるわ。
とら:そうね、昭和恐慌で生糸が暴落するとサクランボやモモ、メロンなどの果樹へと変わっていくの。ただね、畑に水が必要なことに変わりはないわ。大正7年は旱魃(かんばつ)の年で、桑が大打撃を受けたの。さらに第一次世界大戦が始って、この年にお米が不足、米騒動が全国で起きたのよ。
だい:あちゃー。日照りで作物もできん、お米も手に入れられんなんてやばいよ、やばいよ。
とら:こんなこともあって、原方の人たちは、再び野呂川開削工事を県に提案したの。大正9年に野呂川水利組合は野呂川疎水期成同盟会を作って、現地調査も行ったのよ。
だい:今までも何度も調査やってるじゃん。
とら:ここで注目!は、御勅使川から原七郷へ具体的にどう水を通すのかを示した点よ。例えば第一の支線は、曲輪田で分かれてから小笠原へ、そして滝沢川へ放流する約1.8kmが計画されたわ。
だい:具体的になったわね。こうなったら私待つわ。いつまでも待つわ。
とら:そして当時の県知事も事業に前向きだったのよ。大正11年に早川の電力発電が計画されて、民間の会社が県に許可を求めたの。時の大海原県知事は条件をつけて許可をだすんだけど、その条件ってのが「水は使っていいけれど、将来野呂川疎水ができた場合、早川上流の水を疎水に流すことに反対はできないよ」って感じ。
だい:あースーパーチャンス!
とら:ただ計画は具体化するんだけど、工事の許可は下りなかったの。田方の人たちの反対運動がすごかったのよ。
だい:またぁ。万物は流転するとはいうけれど、何度目の繰り返し?。プレイバックパートいくつぐらいかしら。
とら:昭和に入り、昭和9年には原方と田方の直接の話し合いも何度か行われたわ。ただお互いの主張は平行線のまま。なんとしても実現したい原七郷では、商工組合や料理屋組合、お医者さんなどなど農家だけでなくいろんな人が一致団結して県に陳情したの。
だい:みんながんばれ!
とら:この運動に対して田方の人々もだまっちゃいません。西郡以外の地域も含めて田方にある54ヶ村から反対署名を集めて、県や農林大臣に陳情したのよ。田方にとって水が増えるってことは、洪水の危険がふえる、まさに命にかかわる問題だったの。
だい: 原方と田方の間には、いつも冷たい雨が降っているみたい。お互い固く握りしめた拳じゃ手はつなげないよ。
とら:いいこと言うわね。どこかで聞いた言葉だけど。結局昭和9年に行われた原方と田方の話し合いは物別れ。時代は日中戦争から太平洋戦争へ進み、野呂川疎水どころではなくなってしまったわ。戦争末期には御勅使川扇状地に御勅使河原飛行場、通称「ロタコ」が計画され、その滑走路建設には毎日約3千人の人がかり出されたそうよ。これだけのエネルギーを野呂川疎水に向ければ、実現したかもしれないわね。(2008年8月1日 むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路跡
だい:ここまできて・・・。ただ、あなたが転んでしまったことに関心ない。そこから立ち上がることに関心があるんだ!あきらめないで。
とら:それって有名な合衆国大統領の言葉じゃない?まだ野呂川疎水の情熱の真っ赤なバラは原方の人々の胸に咲いたままよ。戦後になると再び野呂川疎水期成同盟会が結成されて、疎水計画を県に陳情したの。何度でも何度でもね。今度は農業と発電事業に加え、夜叉神の奥地の木材の搬出による木材工業の推進もうたわれたの。
だい:もうここまで来たら、走ってゆけ、どこまでも!

A_5野呂川疎水を進めた天野久県知事 
A_6野呂川に設置された水力発電所 

A_9 開通した夜叉神トンネル

A_7夜叉神トンネル開通 
A_8完成したばかりの夜叉神トンネルを通り、搬出される木材

とら:そして、昭和26年、「野呂川疎水」の実現を公約に掲げた天野久が県知事に当選。これが歴史の大きな転換点だったわ。天野知事が掲げた「野呂川総合開発」の要点は3つ。3本の矢ね。(1)野呂川下流の早川の電源開発、(2)夜叉神峠にトンネルを通して、奥地の木材を搬出する、(3)原七郷に上下水道を設置し、下流の田方は排水ができる土地改良を進めるって計画。
だい:これまでの計画と似てるけど・・・これって夜叉神峠にトンネル掘って、野呂川の水を通すこれまでの計画とガラって変わってない?夜叉神峠にトンネルは掘るけど木材搬出用で、水を通すってわけじゃないじゃん。発電と木材のお金で新しく水道を作るって話よね。そして田方の人たちにも配慮してる。
とら:そうなの。ここで野呂川疎水計画が姿を変えたのよ。ズバッと提案、ズバッと解決するために。けれど田方の人たちはやっぱりこれまでどおり反対。夜叉神トンネルに水が通されるんじゃないかって恐怖心があったのね。ただ天野知事は「万一水を通すようなことがあれば、私は家族と共にトンネルの中で死にます」って言って、田方の人たちを納得させたそうよ。カッコいいとはこういうことだね。
だい:すごい。みんな命がけね。お願いこの計画に「イエス」と言って。
とら:そして昭和27年7月、第一の矢、夜叉神峠を貫き芦安と広河原を結ぶ林道建設が開始されたの。同じ年、第二の矢、県営の西山発電事業計画も国に承認されて着工されたわ。
だい:第三の矢、例えるならサジタリアスの矢を、さあ放って。
とら:ちょっと例えが・・。ただ肝心の第三の矢が財源問題でまとまらなかったのよ。
だい:ちょっと待ってよ、優しい声で厳しいこと言うね。ここまで来て財源ってどういうこと。
とら:つまり、原七郷としては、野呂川の水利権を放棄する代わりに県が発電と木材搬出で得た利益で水道を設置してくださいねと言ってるわけ。
だい:グッドアイディアじゃない。
とら:そこで県から「ちょっと待った」が。そもそも原七郷は野呂川の水利権を持っているのか、って根本的な疑問が出されたの。
だい:ちょっとちょっと。いまさら泣き言なんて聞きたくないね。何とかしなって気分よ。
とら:あら、もうこんな時間。
だい:いいとこなのに。今日も話が長いけど、最後まで聞きたい!
とら:今はこれが精一杯。It is time.時が来たのよ。帰らなくちゃ。40秒で支度して。
だい:また時間がないのね。しょうがない。また来月!

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

 

【連載 今、南アルプスが面白い】

野呂川話
~長い長い水を求めた物語ー第二幕明治時代~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。

 

とら:まだまだ暑いね。よく日焼けしてるじゃん。
だい:みんなから「太陽の小町」って呼ばれてるわ。
とら:どうせ「エンジェル」とも呼ばれてるって言うんでしょ。さて、続き始めようか。
だい:なんの続きでしょうか。
とら:の・ろ・か・わ・ば・な・し。野呂川話。
だい:その手振りと合掌、なんだかどこかで見た感じよ。
とら:安心して。フランス語じゃないわ。
だい:目が星飛雄馬になってる。歴女の瞳だ。また長そうね。
とら:行くわよ!明治に入り、新政府ができたでしょう。するとさっそく明治4年(1871)7月に「早川開鑿(かいさく)嘆願書」が原方の名主さんたちの連名で甲府役所、昔の代官所ね、に提出されたの。それをまとめると「文政3年(1820)の計画は全長が長かったので、ルートを変更して願い出ます。洪水の時には上流で水を止めるので、御勅使川・釜無川沿いの人たちに迷惑はかかりませんよ」って内容よ。
だい:よし。がんばれ。何度でも何度でも何度でも立ち上がって叫ばなきゃ。声がかれるまで。力を尽して!
とら:でも時代が悪かったの。できたばかりの明治新政府はお金がなかった。そこで税のしくみを変えて、土地に一定の税率をかける仕組みに変えたのよ。「地租改正」ね。その時に「大小切り」っていう甲州だけにあった農民に有利な税制も廃止することになったの。だから県内は暴動が起きるほどの大騒動。とても「野呂川の水を引く」なんて県では考える余裕なかったのね。
だい:まただめなの。江戸時代と同じじゃない。時代はまわるのね、喜びと悲しみを繰り返しながら。
とら:その2年後に動きがあるわ。「大小切り騒動」が落ち着いた明治6年、若干28歳の藤村紫朗が県知事となって「殖産興業」政策を打ち出したのよ。
だい:「ショック サンコウギョ」って新しい漁法?
とら:・・・。産業を育てて国や県を豊かにしようってこと。その2年後の4月に、原方の豊村(上今井村と吉田村)、在家塚村、飯野村、明穂村(小笠原村・桃園村)の代表者4人が野呂川疎水を県へ陳情したのよ。
だい:村の名前が変わってる。合併したのね。
とら:10月には現地の測量が始まって工事の見積もり表ができたのよ。水路の全長約3.7キロメートル、その内トンネルの長さは3.47キロメートル、高さは約1.67メートル、底の幅約3メートル。
だい:それでまるごとハウマッチ?
とら:工事費はざっと見積もって2万1千7百円。
だい:なんか具体的ね。江戸時代と比べると全長が短くなってるわ。
とら:計画が見直されたのね。工費も思ったより安く済む計算なので、原七郷の人たちはとっても喜んだの。やっと200年の悲願が達成できるって。
だい:ツイてるね、ノッてるね!
とら:新しく田んぼにできる面積はなんと1061ヘクタールよ。東京ドームが4.7ヘクタールだから、ざっと226個分の広さね。
だい:でっけぇー。かっけぇー。
とら:その後きちんと計算したら工費は5万円必要になったわ。その資金を県と交渉するために嘆願書を出したの。内容はね、「何度も失望してきたけれど、「勧業」が今の国の政策でしょ。野呂川開削もその政策に合ってるじゃない。だから国や県が助けて下さいね。やるのはいつか、今でしょ」って感じ。
だい:そうだ、そうだ。ナウ・ゲット・ア・チャンス。
とら:だけど・・・。5万円は高額。各村では用意できないため借金しなきゃいけない。借りると言っても各村の負担。だから原方の内部でもめて、まとまらなかったの。
だい:そんな。みんな、ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワンよ。悔しくないの!
とら:さらに県は貸すか貸さないかはっきりしない。そして田方の人たちの根強い反対も続いていたのよ。
だい:もう、県もケジメなさい。
とら:結局だめだったんだ。
だい:関係者の人たち、きっと悲しくて、涙も枯れ果てて、笑顔にもなれなかったわね。もうだめかな。
とら:1000回目だめでも、1001回目は何か変わるかもしれないわよ。それから十数年後の明治24年、再び「野呂川疎水運動」が起こったの。
だい:今度こそ。ガッツだぜ!
とら:今度は綿密な調査が必要ってことで、内務省土木局長、つまりその道の日本のトップだった古市公威(ふるいちこうい)の力をかりて、現地測量を実施、精密な計画書を作ったのよ。その結果をもとにトンネルの距離を短くして工費もさらに少なくしたの。
だい:本格的!こんな計画が生まれてきてよかった。
とら:でもね、またもや資金に困ったの。今度は22万円なんだけど、在家塚出身で甲州財閥のトップ若尾逸平が保証人になってくれず、計画が終わってしまったの。さらにこの時期は煙草栽培が盛んになって、畑作中心の原七郷でもけっこう儲かっていたから昔ほどの情熱はなかったのね。後に52号線沿いに煙草の倉庫町ができて歓楽街もできたし。
だい:そこで油断しちゃだめじゃない。もうー勝手にしやがれ。
とら:それから時がたって明治33年、「野呂川話に金を出すな、先祖からの遺言だから」とまで言って資金提供を断っていた若尾逸平が方針をころっと変えて、この運動に乗り出してきたの。
だい:なぜ、なぜ、あなたは、心が変わったの。
とら:逸平さんは「野呂川疎水」の水を「水力発電」に利用しようと考えたのよ。甲州財閥の雄が重い腰をあげたことで、空気が一変したの。県知事も乗り気になって、逸平さんをはじめ56人で夜叉神峠を越えて現地を見に行ったそうよ。この時逸平さん86歳。
だい:完成したら、「野呂川から入ってトンネルの向こうは、芦安のまちでした」なんて素敵じゃない!
とら:ただこの動きに田方の人たちもだまっちゃいない。竹槍やムシロ旗を立てて県庁を囲んで抗議したの。
だい:原方と田方の争いを聞くと、ただ泣きたくなるの。でも力を尽して!
とら:これまでと違って県はその反対を押し切って原方の人たちが水利組合を作ることを内務省にお伺いをたてたの。そして、水利組合の許可がでたのよ。水利組合が許可されたってことは、野呂川疎水の準備ができたってこと。しかも、発電する権利をもらう代わりに工事費は逸平さんが出すって言ったの!
だい:バンザーイ。できてよかった。
とら:でもね、田方の人たちの反発もすごかったの。そうこうするうちに、明治が終わる45年、逸平さんも92歳。時が足りなかったわ。家族から資金提供の話も取り下げられ、計画はなくなってしまったのよ。
だい:あーあー、果てしない、夢を追い続けてるわよね。でも・・・この地で生きねば。
とら:そこは西郡の人たち。おちこんだりもしたけれど、みんな元気よ。土に根を下ろし、八ヶ岳の空っ風と共に生きてきた人たちだから。
だい:もうこうなったら、世界が終わるまではやめてほしくない。県も約束してくれたし、だからもう一度あきらめないで、まごころがつかめるその時まで!それにしても長いわね。
とら:明治時代はここまで。だいちゃん疲れた?
だい:お構いなぐ。しかし、この話熱いね。熱いよ。
とら:そうそう、来月10月5日、6日に南アルプス市で将棋頭と石積出の史跡10周年記念イベントがあるって知ってる?
だい:知ってるわよ。5日は現地で石積出の文化財調査にも参加できるっていうスペシャルな企画でしょ。将棋頭まで歩くのよね。フルーツのサービスあり、樹園の温泉あり、とってもナイスよね。先着70名。文化財課へ申し込みが必要よ。
とら:6日は午前中、あの竹蛇籠づくりが体験できるの。史跡の雑草を食べてくれるヤギさんにも会えるわ。将棋頭米おにぎりも食べられる!午後は最新の発掘情報が聞けたり、日本の中で石積出・将棋頭がどれだけすごいか、文化庁の調査官が話しをしてくれるの。
だい:お芝居などもあって笑いあり、感動ありのイベントらしいわ。みんなで高度農業情報センターに行かなくちゃ!
とら:なんだか私たちバンセンみたい。やばい、もうこんな時間。校門が閉まるわよ。40秒で支度して。
だい:ではまた来月。

 

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

野呂川話 ~長い長い水を求めた物語 第一幕 江戸時代~

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。

とら:毎日暑いね
だい:ほんと40℃よ。まいっちゃうわ。ちょっと水くれない。
とら:はい、南アルプスの名水よ
だい:ただの水道の水じゃない。
とら:御勅使川の伏流水だから、南アルプスの名水に変わりはないの。
だい:へー。そういえばその水をつくってるのは「野呂川水道企業団」っていうところよね。野呂川は夜叉神峠の西側に流れる川でしょ。なんで御勅使川じゃなくそんなに山奥の川の名前が付けられてるのかな?
とら:いい質問ね。その答えは「野呂川話」の歴史にあり!
だい:歴女の燃えた瞳になってる。1万ボルトはありそうよ。
とら:行くわよ!御勅使川扇状地が昔「原方」って呼ばれていて、その中でも扇央部に位置する七つの村「原七郷」は「月夜の光」でも日照りがおきるって言われるくらいの乾燥した土地だったってことは知ってるよね。
だい:もちろん。世界でいちばん暑い夏を感じられるところ。雨乞いもしてたんだよね。雨、雨、降れ降れもっと降れって。(■2010年10月15日 (金)水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~2010年11月15日 (月)水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット大笹池~
とら:その原方を潤そうと江戸時代の寛文11年(1671)に作られたのが徳島堰。(■2010年9月15日 (水)御勅使川扇状地を潤す徳島堰
ただその徳島堰でも水は十分ではなくて、原七郷の人々は溜池に水を引いてそれを糧としていたの。溜池が200カ所以上もあったそうよ。
だい:オラこんな村いやだって人もいたかも。たいへんだよね。
とら:その水不足を打開しようと、雪解け水の豊富な野呂川に目がつけられたの。夜叉神峠にトンネルを掘って野呂川の水を御勅使川へ通しちゃう、そしてその水で原方を潤そうとした壮大な計画が江戸時代に考え出されたのよ。野呂川疎水(そすい)って言われてるわ。
だい:すっげー。はっとして心にぐっとくる計画ね。ありえないわ。
とら:ありえない?そもそも物事には・・
だい:それはいい。続けて。
とら:そのはじまりは、元禄4年(1691)、「西郡新堰」っていう新しい用水路を作る計画があって、それが野呂川話の始まりじゃないかって言われてるの。ただし具体的な野呂川の名前なんかがでてこないので、はっきりしてないわ。
だい:ふーん。まだわからない、揺れる思いね。
とら:なんだか80-90年代の匂いがするわ。さて、享保9年(1724)、時の将軍は吉宗、新田開発が奨励された時代なんだけど、西郡でも原方(上八田・西野・榎原・上今井・吉田・十五所・沢登・徳永)の村々と開発発頭人との相対証文が残っていて、新しい堰を幕府に要望したの。幕府から実地調査にも来たらしいけど、やっぱり工事が難しくて計画が進まなかったのよ。

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【写真】野呂川疎水計画図 江戸時代 穴口がトンネルの入り口で井出の沢の穴口から御勅使川へ早川(野呂川)の水を通水する計画。絵図中央に夜叉神峠の文字が見える

だい:暴れん坊将軍の時代よね。原方の人たち、計画がなくなって悲しみがとまらなかったでしょうね。
とら:明和8年(1771)には幕府側から21ヶ村に税金を免除するから自分たちで工事をしてみないか、っていう問いかけがあって、村々側はそりゃもちろんほしいけど、自分たちでは工事が難しく維持管理ができないって答えてるの。
だい:幕府は自分たちがするって言わないのね。ずるいよ。
とら:寛政8・9年(1796-97)には、市川代官の榊原小兵衛が野呂川疎水実現へ向けて勘定方の役人を野呂川の現地に行かせてるのよ。桃園村の長百姓・庄八と小笠原村の名主・仙蔵が案内したわ。そしてこの周辺の絵図も初めて描かれたの。
だい:がぜん現実味がでてきたわね。この機会、テイク ア チャンス。掴むしかない!
とら:でも進まなかったのよ。
だい:そんな。さぞかし原方の人たちの心には悲しみが北岳の雪のように積もったわね。
とら:詩人ね・・・。まだまだこれからよ。文政2年(1819)、原方の19の村々が共同で、市川代官所に野呂川疎水を通してほしいって初めて村側から嘆願書をだしたの。それは、「野呂川の小鷺っていう岩山からトンネルを約6キロ掘って御勅使川へ水を落とします。この増えた水を下流の有野村で用水路に引き込んで、各村へ分配したら、飲み水にも困っていた村にまで田んぼができるし、税収も増えます。ですからなにとぞ許可してください」って内容。ほら、想像してごらん。溜池の水が命の水だった村が水で潤される姿を。みんなが平和に暮らす姿を。
だい:素敵!今度こそ負けないで!掘り抜いて。
とら:翌年の文政3年には野呂川堀抜箇所の工事設計書と完成した場合、どのぐらい各村で新しい田ができるのかも調べられたのよ。
だい:やったー。未来はそんな悪くないよ!
とら:ここで、「ちょっとまった!」の声が。文政3年(1820)、御勅使川の伏流水が湧き出る田方の14の村々から反対意見が代官所へ出されたのよ。
だい:ててっ。ちょっと、ばかにしないでよ。水がこなかったらそっちのせいよ。
とら:田方の人たちからしてみると、いつも水が湧き出て水はけが悪く洪水でとても困っているのに、御勅使川の水を増やしたら、もっとこまるじゃんけって考えね。原方と田方では水に関する土地質が正反対だから、対立も根深いものがあったの。どちらも生活がかかっていたからね。
だい:うーん、田方の意見もわかるけど。でもみんなの夢を諦めないで。いつでも夢を。
とら:諦めないわ。天保12年(1841)、原方の村々も負けじと19の村がタッグを組んで、自分達で工事をするから現地を見た上で工事を許可して下さいって代官所にお願いしたの。
だい:長ぁ~~~~い夜は明けないの。
とら:まだね。4年後の弘化2年(1845)にも18ヶ村で嘆願書を出したわ。でも・・・だめだったの。
だい:もう・・・終わりだね。野呂川が遠くに見える。言葉にできない・・・わ。
とら:野呂川見えるの?でも少しずつ前には進んでるの。3歩進んで2歩下がるって感じだけど。
だい:長い。疲れた。いつまで続くの。
とら:江戸時代はこれで終わり。
だい:今何時?
とら:そうねだいたいね。
だい:今何時?
とら:ちょっとまっててよ。らららららららら♫。あ、もうこんな時間!続きはWEBでね。
だい:ここはWEBですけど!さては時間がないのね。
とら:また来月。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鳳凰三山の信仰

とらちゃん、だいちゃん 二人そろってアルプスメモリーズです。 今月からしばらくの間、二人で南アルプス市の魅力を紹介します。

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【写真】鳳凰三山。左から地蔵岳、観音岳、薬師岳

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【写真】薬師岳から見た御来光。昔の人々は山頂に神や仏が住むと考えていた

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【写真】地蔵岳とオベリスクA_3
【写真】地蔵岳賽の河原A46
【写真】地蔵岳で発見された薙鎌(なぎがま)などの鉄製品(帝京大学文化財研究所報第46号より)A
【写真】地蔵岳に奉納された芦安中学校の祈願プレート

とらちゃん:芦安出身の女子高生。美人顔。歴女でもある。曽我物語のヒロイン虎御前とかかわりが・・・。
だいちゃん:加賀美出身の女子高生。かわいいが天然とも言われる。甲斐源氏加賀美遠光の娘、大弐局とかかわりが・・・。
だい:夏山の季節だね。
とら:南アルプスって言ったら白峰三山がおすすめよ。北岳、間ノ岳、農鳥岳。北岳は高さが富士山についで日本第二位の山ね。
だい:二位か・・・。
とら:二位じゃだめなんですか。
だい:いや・・・。魅力では北岳がナンバー1だと思ってるし。
とら:白峰三山は「甲斐が嶺」として「古今和歌集」や「平家物語」にも詠われてるのよ。
だい:ててっ。そんな古くから。
とら:鳳凰三山もお勧めね。鳳凰三山って知ってる。
だい:JYKね。
とら:なにそれ。
だい:地蔵岳、薬師岳、観音岳。
とら:知ってるなら略さないの。「鳳凰」の名前の由来には孝謙天皇が湯治に来た伝説と地蔵岳の山の形が鳳凰が翼を広げた姿に似ているっていう二つの説があるの。鳳凰の形をしているって説の方が自然かな。
だい:ほぉーう。鳳凰って小林幸子さんが紅白飛び立つような感じ?
とら:うーん、まああの豪華さは似てなくもないけど。伝説上の不死鳥のことよ。
だい:フェニックス一輝ね。
とら:・・・。お隣の甲斐駒ヶ岳では古墳時代の土器も発見されてるのよ。
だい:ドキっとした。そんな古くから人は山に登ってたの!ありえない。
とら:ありえない?現象には必ず理由があるものよ。
だい:登ってた人、恐竜に会ったかしら。
とら:あのね、恐竜は何億年前。縄文時代は約1万2千年前から。人のくらしの基盤ができた時代なの。《過去のふるさとメールで勉強して。》
だい:受験勉強じゃあるまいし。
とら:歴史に受験のための歴史なんてないわ!
だい:どっかのCMで似た言葉、聴いたことあるわ・・・
とら:とにかく、鳳凰三山と周辺の山々は古くから信仰の山だったのよ。特に地蔵岳山頂にある巨岩は「大日岩」と言われて「大日如来」に見立てられたり、「地蔵仏」と呼ばれ「地蔵」に見立てられたりしてきたの。最近では地蔵のオベリスクって言われるわ。この岩の麓には賽の河原と呼ばれる真っ白な花崗岩が風化した場所があってお地蔵さんがたくさん並んでるの。江戸時代から子授けの仏様として人気があり、たくさんの人がお参りしたそうよ。そして、地蔵岳山頂からはこんなものも発見されてるの。
だい:なにそれ。ブーメラン、ブーメラン、ブーメラン?
とら:違うわ。薙鎌(なぎがま)と言って、風除けや雨乞い、結界などのために信州諏訪神社で使われた祭祀具なの。諏訪神社の信仰に関係している場所で発見されることが多いわ。今諏訪の諏訪神社にも御宝物として2点の薙鎌(なぎがま)が納められているしね。
だい:なんだか山の信仰って、「むかしーむかしーのことじゃったー」って感じね。
とら:とんでもない。現在でも人々の願いを託す場所に変わりはないわ。よく知ってる山で日本の人々があることを願っていた山があったじゃない。
だい:三浦さんのエベレスト。いやいや冗談。富士山でしょ。
とら:富士山には自然保護の未来や山梨・静岡の発展など、多くの人の願いが託されてるでしょ。いろんな願いをかなえるため、山に登るっていうのは現代でも変わらないのよ。
だい:それじゃわたしも信仰の旅にでよう。
とら:なにお願いするの?
だい:東京に出てアイドルになる!
とら:どこかで聞いたストーリーね。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

唯一の市指定文化財名勝 懸腰山

 現在南アルプス市内の指定・登録文化財はその数約150ありますが、一口に「文化財」と言っても、古民家や寺社に代表される「建造物」、仏像や神像に代表される「彫刻」、動植物等に代表される「天然記念物」等、様々な種類があります。その中でも、「名勝」という種類があるのをご存知でしょうか?
 「名勝」とは、芸術上または鑑賞上価値が高い土地について、国や地方公共団体が指定を行ったものです。広く知られているものとして、日本三景として名高い松島、天橋立、厳島、山梨県内では富士山、御嶽昇仙峡、恵林寺庭園等が挙げられます。
 南アルプス市にも唯一、名勝で市指定文化財となっている場所があります。それは甲西地区湯沢にある懸腰山です。当時の甲西町において最もすぐれた風光明媚な場所であったことから、昭和44年11月13日に町指定文化財になり今日に至ります。
 
 
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【写真】懸腰山
 
 懸腰山は、文永11年(1274年)、甲斐国内を巡錫中の日蓮上人がこの地を通りかかった際、道端の松の木に袈裟を掛け、巨石に腰を下ろし、西側に山を見渡せ、東南には眼下に広がる奥深く静寂あふれる景色を楽しみつつ休まれたという言い伝えが残っており、そのことからこの地を懸腰山と命名したと言われています。正中年間に直弟子日了証人がこの旧跡を残そうと碑を建立し、さらに江戸時代初期、日運上人が日蓮上人をしのび約30年の年月をかけ堂宇を建立しています。
 
 
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【写真】現在の懸腰山から望む眺望(1) 晴れていれば富士山も望める
 
 
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【写真】現在の懸腰山から望む眺望(2)
 
 
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【写真】懸腰山から花のころの甲西町(甲西町誌より)
 
 
 昭和48年発行の甲西町誌によると、懸腰山の鐘の音は甲府盆地に響き渡り、小学校児童の遠足は懸腰山と決められていたであるとか、明治45年の春、桃の花の中を100台近くのガタ馬車を連ねて懸腰山へ登っていった甲府からの花見客があったとの記述があり、地域周辺の人々に大変親しまれていたと考えられます。
 また、懸腰山の名を持つやはり甲西地区湯沢にある本清寺は懸腰山から車で行くと5分もかからず下った場所に建立されており、敷地内のカヤの木も懸腰山と同日に当時の甲西町指定文化財となり今日に至ります。
 
 
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【写真】本清寺
 
 
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【写真】本清寺のカヤの木
 
 
 長い年月が流れ、近代的な建造物も見受けられる中でも眼下に広がる景色は今現在も変わらず人々の心に深い印象を刻んでいます。日蓮宗を広めるための道中この地に赴いた日蓮上人や日蓮上人の思いを形にした日了証人と日運上人に思いを馳せながら、懸腰山に訪れてみてはいかがでしょうか。
 
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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西河原・安藤家住宅を見守り続ける黒松

 5月に入り、ますます生い茂った木の葉を揺らす風が爽やかな季節になりました。外にいると夏のような暑さを感じることもある最近の気候ですが、市内にある重要文化財安藤家住宅に於いてはしばらくのあいだ過ごしやすい時期となります。

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【写真 長屋門から見た外の様子】

 秋から春にかけては、昔の日本家屋ならではの風通しのよさ故に、住宅内にいるのにまるで外にいるような寒さを感じるのですが、ちょうどこの季節からは寒さが涼しさに変わり、昼下がりにゴロンとお昼寝をしたくなるという声もしばしば聞かれます。

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【写真 住宅内の様子】

 また、この季節は庭を見るにも暑すぎず寒すぎず、葉の密度が上がることで出来る多くの木陰が心地よく感じます。まさに庭歩きにもうってつけと言えるでしょう。

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【写真 庭の様子①】

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【写真 庭の様子②】

 そんな庭の中で、存在感が大きく多くの方々に強い印象を残している大きな黒松の木があります。この木は明治末期に取り付けられた避雷針があることから「安藤家の避雷針の松」と呼ばれ親しまれており、現在南アルプス市指定の文化財となっています。

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【写真 安藤家の避雷針の松】

 根回り20メートル、目通り3.5メートル、樹高19メートルという黒松としては稀な巨木です。安藤家住宅は1708年(宝永5年)に建築され、約300年経過しておりますが、この樹木の樹齢はそれを越える年数を経ていると言われています。
 言い伝えによると、もともと滝沢川左岸に生えていたこの木を水害から守るため、江戸時代前期に移植したと伝えられているのですが、近年では滝沢川堤防に生えていたこの木を取り囲む形で安藤家住宅を建築したのではないかという説もあります。
 調べによると、安藤家住宅が建築されたといわれる1708年(宝永5年)に集落も合わせて現在の滝沢川が運んだ堆積物で形成された高台(微高地)である字西河原に移動したのですが、それ以前の集落は現在地より東側の低地に位置していました。以前の集落から見れば、標高の高い現在の集落は自然に作られた高台であり、河川に沿っているため堤防のようにも見え、水をせき止める役割も果たしていたと思われます。つまり、安藤家住宅が建築された頃までは避雷針の松が生えていた場所も堤防のようなものの一部という感覚だったのではないかと考えられるのです。
 様々な歴史をこの地で見守り続けているこの避雷針の松。緑美しく過ごしやすいこの季節に、長年に渡る年月に思いを馳せながらじっくりご覧になってみてはいかがでしょうか。
 また、毎年恒例になりました端午の節句飾りの展示を5月27日(月)までと行っています。合わせてお楽しみいただければ幸いです。

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【写真 展示の様子】

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

樹木を守り伝えるために

 4月に入り、新しい年度が始まりました。早々と咲いた桜も散り、木々の新緑が美しく芽吹く姿がより映える季節となりました。
 南アルプス市内のいろいろな場所で銘木・巨樹が見られますが、これらを保護し後世に伝えるために天然記念物として指定されているものがあります。今回は、はるか昔からこの地を見守り続ける樹木をこれからも守り続けるために、昨年度行った事業の一部をご紹介したいと思います。

大嵐のビャクシン(県指定文化財)
 白根地区大嵐にあるこの樹木は、臨済宗の寺院である善応寺の御神木として植えられたと言われており、樹齢は約500年と言われています。
 山梨県内の分布を見ると、峡西地方にその分布が目立つと言われていて、南アルプス市内を見ると、甲西地区鮎沢にある古長禅寺のビャクシン(国指定文化財)、鮎沢の御崎ビャクシン(市指定文化財)などがその例として挙げられます。
 平成22年に大風が原因で北側の幹が折れたこともあり、推移を見守ってきたところでしたが、樹木全体が弱っており、枝枯れもひどい状況にあるという声を受け、樹木医の診断を受けて原因を探った結果、日当たりと風通しが悪いことが影響しているという結論が出たとともに、このままだと樹木が倒れ、寺院が倒壊する恐れがあることが分かりました。その問題を解決するため、ビャクシンの周りにある杉の木を伐採して日当たりと風通しを確保し、伐採した杉の木を支柱として利用し、樹木が倒れるのを防ぐ工事を行いました。

A22_2 【写真】平成22年大嵐のビャクシン北側の幹が折れた状況

A_4 A_5 【写真】大嵐のビャクシン着工前、着工後

広誓院のカヤの木(市指定文化財)
 甲西地区湯沢にあるこの樹木は、文亀元年(1501年)6月に創建されたと伝えられる曹洞宗の寺院、広誓院にあるカヤの木です。
 カヤの木は雌雄異株と言って、簡単に言えば私たち人間と同じように性別があるということなのですが、この樹木は雌樹で、同種のカヤの木の中では県下でも有数の大樹であり、樹齢約500年とも言われています。
 数年前から枝枯れが目立つようになり、樹木医の診断を受けた結果、枯れ枝を切り、樹木を安定させるために支柱を建て、根を傷つけないように土壌を柔らかくして良質の土に入れ替える工事を行いました。
 土壌改良の成果はすぐに現れるものではなく、数年かけて様子を見守っていく必要があります。ゆっくりと時間をかけて元気を取り戻す姿を皆で見守っていきたいものです。

A_8 A_9 【写真】広誓院のカヤの木剪定前、剪定後

A_10 A_11 【写真】広誓院のカヤの木支柱施行前、支柱施行後

A_12 【写真】広誓院のカヤの木土壌改良
 
 このところの異常気象や樹木を取り巻く環境の変化から、樹勢が衰えたり、枯死する天然記念物が目立っています。
 文化財として指定される樹木は老木であることがほとんどであるため、特に環境の変化に影響されやすいのですが、このように、人々の樹木を長く大切にしたいという思いを形にしていくことで、市内の貴重な天然記念物は守り伝えられているのです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

ひな祭りにみる暦

 3月も半分が過ぎました。梅の花も開き、日中は暖かくなり、春までもう一息といったところでしょうか。
 3月の行事と言えば、3月3日のひな祭りが思い出されるかと思います。ひな人形を飾って女の子の健やかな成長を祈る年中行事または節句です。「安藤家のひな祭り」と題してひな人形の展示を行っている重要文化財安藤家住宅でも、当日はひな飾りを見ようと大勢のお客様でにぎわいました。3月3日は過ぎましたが、「安藤家のひな祭り」は4月8日(月)まで開催しています。

A_5 【写真】土間から見るひな人形
A_6 【写真】奥座敷に展示されているひな人形

A_7 【写真】式台付玄関から見る雛人形

 南アルプス市周辺では4月3日をひな祭りとし、ひな人形を飾ることが一般的です。これには特に山梨県外出身の方に驚かれることも多く、実際安藤家住宅に来られたお客様からも尋ねられたことがあります。
 では何故1カ月遅いのでしょうか?実はこれには暦が関係しています。
 暦と言ってもピンと来ないかもしれませんが、今からさかのぼること140年前の明治5年(1873年)12月3日、明治政府がこれまでの天保暦(旧暦)から現在のグレゴリオ暦(新暦)に変更されるという出来事がありました。明治5年は12月2日で終わることとなります。このことが決定したのは同年11月9日のことで、実施までに1カ月もないという突然の変更だったため、役人や商人の仕事は混乱が起こりました。
 しかし庶民は、新暦の日付を気にせず、しばらくは旧暦の日付のままで生活していたようで、その名残で今でも旧正月(旧暦の正月)を新暦の正月と同じくらい祝う地域もあるそうです。
 また、「月おくれ」と言って、旧暦の日付に近い1カ月遅れでひな祭り等の年中行事を行う地域もあります。櫛形町誌や甲西町誌にも記載されていますが、南アルプス市はこれに該当すると言えます。全国を見ると、奈良県五條市の源流寺で旧暦3月上旬に行われる南阿田の流しひなや、鳥取県鳥取市で旧暦3月3日に行われる用瀬の流しひななどがあります。
 より多くのより多様な慣習を持った方々にご覧いただけるよう開催している「安藤家のひな祭り」ですが、今年は新たに寄贈される等したひな人形が増え、より華やかに彩られた安藤家住宅をお楽しみいただけます。

A1 A2 【写真】新たに増えたひな人形

 また、これに合わせ、3月23日(土)に「安藤家住宅演奏会~甲斐の歴史を歌い、語り、奏でる」を開催します。山梨県の歴史を音と語りで表現するグループ「甲斐りょうじん」による演奏会で、びわ・尺八・琴・キーボードの楽器や、歌や語りの融合をお楽しみいただけます。申込制となっておりますが、まだ定員に余裕がありますので、ご希望の方は下記申込先までご連絡ください。

[申込・問合せ先]
南アルプス市教育委員会文化財課(平日) 055-282-7269
安藤家住宅(土日祝) 055-284-4448

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代和風建築に命を吹き込む(2) ~デイサービスセンタースマイル~

 前回のふるさとメールでは、保存活用されている近代和風建築の一例として白根桃源美術館をご紹介しました。今回も引き続き、市内の保存活用されている近代和風建築をご紹介したいと思います。
 南アルプス市沢登地区。甲西バイパスを折れて進むと、それまでの喧騒(けんそう)から逃れ、静かでのどかな雰囲気が広がる中に、広い庭や蔵を持つ古民家を利用し運営しているスマイルデイサービスセンターがあります。

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【写真】スマイルデイサービスセンター

 この古民家は、大正から昭和初期頃に建てられたといわれる、旧豊村第18・19代村長を務めた斉藤松兵衛氏の住居でした。昭和40年頃に斉藤松兵衛氏のご家族が東京へ転居して以降は、時折短期間の仮住まいとして使われた以外は無人の状態が長かったようで、青森から出稼ぎに来ていた人の住居として使われていたこともあったそうです。現在は流し台のある台所や浴室も設置されており、時代の流れに即して一部改装していると考えられます。
 スマイルデイサービスセンターを開設するにあたり、桔梗信玄餅で知られる「ききょうや」のテレビCMのような、昔懐かしい家庭的なイメージの古民家を探していたところ、こちらを紹介されたとのことです。
 所有者の方からは、手を加えず現状を維持して利用して欲しいという要望があり、バリアフリーにするなどの改装は一切していないそうです。室内を見学させてもらった限りでは特別大きい段差はありませんでしたが、足腰が弱い利用者の方にとっては負担になる可能性もあり、利用するにあたってマイナスになるのではないかと少し心配しましたが、センターによれば、職員が利用者の方に介助などで関わることで良好なコミュニケーションが図れ、多少の段差があることで心身ともに注意して動き、それが足腰のトレーニングにもなるとのことでした。土間へ下りて浴室に行く際には、段差が大きいため、車椅子の人でも通れるような手作りのスロープを取り付けて利用者の安全を図る工夫をしています。

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【写真左】大戸の残る出入口、【写真中】室内の様子、【写真右】浴室へ移動するためのスロープ

 また、土間を上がった場所にある階段を上ると、屋根裏部屋といった感じの2階部分が広がります。現在は倉庫や洗濯物を干す場所として使っているそうですが、昔は養蚕で使っていたと聞いたことがあると、職員の方から伺いました。

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【写真】2階部分へ続く階段

 古民家を活用することによって、利用者の方が昔を懐かしみ、若かりし頃を思い出す回想法をとり入れており、核家族化が進んだ現代には少なくなった大家族的な雰囲気は、利用者の方から好評を得ているそうです。
 すべてを昔のままに守り伝えていくのは、現在の状況から難しい面もありますが、それらに新たな命を吹き込むのは、やはり今現在を生きる人々の思いなのだと、今回のふるさとメール作成を通して感じました。今後も多くの人々の思いに寄り添いながら保存活用されていくよう願わずにいられません。
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】