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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代和風建築に命を吹き込む(1) ~白根桃源美術館~

  「近代和風建築」という言葉をご存知でしょうか?なかなか聞き慣れない言葉ですが、「近代」「和風」という言葉の組み合わせから、レトロな感じの家のことかしらと思う方も多いかもしれません。
 おおむね明治元年から昭和20年までに建築された、伝統的な建築様式や技法を用いて建てられた木造建築物を「近代和風建築」とし、文化庁では平成4年度から全国の所在状況と重要遺構の把握を目的とした「近代和風建築総合調査」を実施しています。
 山梨県でもこの全国調査の一環として、今年度から3か年に渡って調査を行います。県内にも各地に近代和風建築がありますが、実態が把握されないまま老朽化や開発のために建て替えや取り壊しが進んでいるという現状があります。そのため、県内にある近代和風建築について詳しく調査し、地域の歴史や文化を解明するとともに、これらを文化財として指定・登録するなどといった、よりよい保存活用につなげることを目的としています。今年度は、県内の各市町村の教育委員会で名称、所在場所、所有者等の全体的な調査を行っています。
 南アルプス市内で既に文化財に指定・登録されている近代和風建築は、市指定文化財の高尾穂見神社神楽殿(明治24年建立)や、国登録有形文化財の松寿軒長崎(大正15年建築)等が挙げられます。

A高尾穂見神社神楽殿 A松寿軒長崎
【写真左】高尾穂見神社神楽殿 【写真右】松寿軒長崎

 今回は、まだ文化財に指定・登録されていない近代和風建築の一例として、南アルプス市飯野にある白根桃源美術館をご紹介します。
 白根桃源美術館は、旧白根町の文化振興の拠点となるべく、山梨県立美術館の開館の3年後の昭和56年に県下初の町立美術館として開館しました。
 このうち、本館と正門はそれぞれ近代和風建築を移築したものです。
 本館は、昭和3年に建てられた旧飯野産業組合の倉庫を移築したものです。海鼠(なまこ)張り土蔵造りといって、壁面に平たい瓦を張り、四隅を釘打ちし、目地と釘穴を漆喰で半円状に盛り上げる外壁の仕上げを施しており、白壁とのコントラストが美しく映えています。また、明治初期に日本に入ってきたキングポストと呼ばれる梁組で合掌屋根を支えているのが特徴であり、2階の解放された梁組は圧巻の一言で、今日までの長い年月を感じさせます。

A白根桃源美術館本館
【写真】白根桃源美術館本館

 正門は、明治12年に建てられた旧百田村の名家、竹内家屋敷門を移築したものです。潜戸付薬医門といって、鎌倉時代から見られた様式で、関東地方の豪族や庄屋など苗字帯刀を許された民家に用いられました。野生的な主柱と男梁が女梁とともに屋根を支えており、重厚な雰囲気を醸し出しています。

A白根桃源美術館正門
【写真】白根桃源美術館正門

 以前から長期総合計画で文化施設の建設が取り上げられていましたが、白根農業協同組合が飯野事業所を改築するために倉庫を取り壊さなくてはならなくなったことや、旧百田村の名家である竹内家で、屋敷門を取り壊すことになったことなどが重なり、これらの由緒ある建物の保存を当時の白根町が呼びかけて復元し、美術館の建設に至ったと昭和56年11月25日発行の広報しらねに記述されています。貴重な近代和風建築が守られたたけではなく、新たな命を吹き込み今日まで伝えられてきたのです。
 このように、白根桃源美術館は近代和風建築を保存活用している好例ですが、今まで気付かれずにいるものや、保存管理の方法等で折り合いが付かず、泣く泣く建て替えや取り壊しせざるを得なかったものも多くあるかと思われます。今回の調査で、今ある近代和風建築を見直し、これまでの反省を踏まえながら、私たちの手で後世に大切に守り伝えていく道筋を立てられることを願います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

重要文化財 安藤家住宅の棟札(むなふだ)

 棟札は、建物の建築または修築の際の記録や記念として、棟木、梁(はり)など建物内部の高所に取り付けられる主に木製の札です。したがって記される内容は築造、修理の目的やその年月日、建築主、大工の名などの建築記録が多いのですが、その建物や家の安全を祈念する意味も含めて掲げられるものがあります。

 重要文化財「安藤家住宅」の主屋(おもや)から修復の際に発見された棟札は、高さ約42cm、幅約23cmの松の板に、日蓮宗の曼陀羅(まんだら)本尊のかたちをとり、家内安全、長久繁栄などの文字が記されることからも建築の記録というよりは、むしろ祈祷(きとう)札としての性格が強いことが分かります。

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【写真】安藤家住宅主屋

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【写真】安藤家住宅の棟札

 しかし我々は、この棟札に記された「宝永第五戊子年孟夏吉祥日」という文字から安藤家の主屋が宝永5年(1708)に建てられたことを知ることができ、現在この棟札は重要文化財安藤家の附指定(つけたりしてい※)となっています。
 また、300年を経て、なおしっかりと残る墨跡は、身延山33世 日享(にちこう)上人の手によるもので、熱心な日蓮宗の信者でもあった安藤家の隆盛を知ることができます。
 ところで、安藤家が建築された宝永5年ですが、その前年の宝永4年(1707)には、富士山の噴火と、これに先立つ「宝永大地震」が発生しています。安藤家のある西南湖とその周辺の村々はこの大地震によって、それまで村のあった場所が、いわゆる「液状化」と思われる現象に激しく見舞われ、村ぐるみの移転を余儀なくされていたことが近年明らかになっています。
 宝永5年の安藤家住宅の建築は、実は前年の「宝永大地震」を受けたものだったのです。
 こうしてみると、安藤家の人々が、この棟札に込めた家内安全の願いは、ひとしお強いものであったことでしょう。

 記録によれば、さっそく宝永5年、移転した新たな屋敷地の検地が行われています。この中で、当時の安藤家の当主「三五右衛門」の屋敷地は、西南湖村で最も広く、2反2畝(せ)16歩(676坪 約2067㎡)が課税対象となっています。

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【写真】『巨摩郡西郡筋西南湖村新屋舗改帳』宝永5年(1708)

また、3年後の宝永8年(1711)には、元の屋敷地を開墾した耕地に対する検地が行われており、ここでも屋敷地が移ったことを知ることができます。

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【写真】『巨摩郡西郡筋西南湖村古屋舗跡田畑成改帳』宝永5年(1708)

 ところで、現在「南アルプス市ふるさと文化伝承館」で開催されているエントランス展(ミニ企画展)「祈りのよこがお(このチラシを見る)」において、この安藤家の棟札の実物を公開しています。この機会にぜひご覧ください!!(平成25年2月13日まで)

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【写真】展示風景=南アルプス市ふるさと文化伝承館

(※)附指定 重要文化財などの指定文化財の価値を補完するものとして、指定物件に付随して扱われる文化財。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(5)

大きな大きな橋のたもとの小さな小さな橋
釜無川大橋と御崎蔵入(みさきくらいり)遺跡

 釜無川大橋は、釜無川に架かる橋としては現在のところ最も新しい橋で、平成13年(2001)開通しました。橋は甲府盆地を環状に結ぶ予定の「新山梨環状道路」を構成する道路のうち、すでに開通した南部区間にあって、南アルプス市と対岸の中央市とをつないでいます(県道12号 韮崎南アルプス中央線)。
 全4車線で橋幅約22m、その橋長も480mと、その名のとおり釜無川に架かる橋としては現在のところ最大の橋です。

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【写真】釜無川大橋 平成13年(2001年)開通

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【写真】釜無川大橋の橋名板
現在の橋にはすでに橋名や完工年が刻まれた親柱はありません。

 ところで、この巨大な橋のたもとで行なわれた発掘調査で、むかし南アルプス市に暮らしたの人々が苦労してつくった小さな小さな「橋」が発見されました。今回はそれを紹介したいと思います。

 平成11年(1999年)、新山梨環状道路の建設のために失われてしまう埋蔵文化財(遺跡)を記録として残すための発掘調査が行われました。遺跡の名前は「御崎蔵入遺跡」。釜無川西岸の堤防のすぐ脇の水田地帯で、長い間眠っていた「橋」が発見されました。

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【写真】遺跡の遠景東から西に向かって撮影しています。
写真のすぐ下が新山梨環状道路の若草ランプ、そのさらに下が釜無川大橋になります。写真の上方は中部横断道の南アルプスICになります。

 発見された橋は、道路跡の両側に設けられていた側溝を渡るために架けられていました。木で組んだ構造の橋面に土を載せてならした「土橋」になっています。

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【写真】橋(赤く囲んだ部分)は、道の側溝に架けられていました。

 幅47㎝、長さ70㎝と、なんとも小さな規模で、調査してみると使われている部材は、専ら建築廃材や木杭(くい)、農具などから転用してきたもので、この橋を造るために製材されたと考えられる構築材は、ほとんど見受けられませんでした。

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【写真】発見された橋
上部を除去した後です。構造がよく分かります。

 しかし、これがよく観察してみると、とても丁寧に作られていることが分かりました。
 調査では、橋の道を挟んで南側が水田であったことが明らかになりましたが、このことからも分かるとおり、周囲は非常に軟弱な地盤です。橋の構造は模式図に示したとおり、そのような地盤でも沈まないように工夫され、非常に苦労して造った跡がうかがえます。
 昔の人々が一生懸命苦心している様子が想像でき、なんだか微笑ましい感じがしてきます。

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【写真左】発見された橋の構造(GIFアニメ)、【写真右】発見された橋の構造
とても丁寧に苦心して造っていることがわかります。

 ところで、この橋はいつ頃造られたものなのでしょう。
橋が発見されたすぐ横からは、同じ時代の水田が発見されています。下がその写真ですが、これをみると、黒々とした水田面が釜無川由来の花崗岩質の砂礫(れき)によって埋められていることがわかります。一方、発見された水田面の下は、いくら掘っても白い砂礫層はみつからないのです。この遺跡からは遠く古墳時代や平安時代の人々の営みの跡(遺構や遺物)も発見されていますが、このことは、昔の“ある時期”を境に突然釜無川の水害が、この地を襲うようになったことを教えてくれます。遺跡は、釜無川の水害によって歴史の表舞台から覆い隠されていたのです。

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【写真】発見された水田跡
用水路や当時の人々の足跡もそのまま残っていました。これが白い砂礫によって埋まった様子がよく分かります。

 今回の調査では、その時期を示すような遺物が少なく、かならずしも明確にできませんが、数少ない出土遺物から近世以前であることは分かります。また橋の部材のC14(放射性炭素)年代測定からは、構築材の伐採年は16世紀前半頃と推定されており、戦国時代~江戸時代のはじめ頃にこの村が廃絶した可能性を指摘することができます。

 突然、釜無川の水害が襲うようになった土層の堆積状況、橋の推定時期。それは竜王に信玄堤が築かれ、その後その下流に堤防が延長されたことにより、それまで東流していた釜無川の流路が変り、南遷したとされる時期と矛盾しません。
 その時期、武田時代の天正から近世初頭の慶長期にかけては、遺跡周辺の村々の流失や移転に関する史料、エピソードが数多く残されています。
 この遺跡の盛衰は、2008年9月12日配信号に図示したような、信玄堤とその下流に堤防が延長されたことよる南アルプス地域への影響、釜無川の河道整理のダイナミックな歴史を我々に教えてくれているのかもしれません。

 最後の写真は橋が発見された地点の現在の様子です。新山梨環状道路の高架と側道によりその面影を確認することはできませんが、発掘調査によって、かつてここに水害に翻弄(ほんろう)されながらも生きた、私たちの先祖のささやかな営みがあったことを知ることができました。

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【写真】現在の遺跡の様子

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(4)

郷土の英雄の名を冠した「信玄橋」

 山と川に画された南アルプス市と外の世界をつなぐ橋たち。今回ご紹介するのは甲府から国道52号線(美術館通り)を経て、南アルプスのやまやまへつなぐ県道20号甲斐・芦安線に架けられた「信玄橋」です。

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【写真】現在の信玄橋

 この場所も、近代に至るまでは渡し船や仮橋によって結ばれており、釜無川左岸の竜王村と右岸の下高砂村を結ぶことから「高砂渡し(たかすなわたし)」と呼ばれてきました。この渡し場については、今も当時の料金表や人々を乗せて運んだ「釣台」が残されていて、「南アルプス市ふるさと文化伝承館」ホームページはこちらから)で見ることができます。

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【写真】高砂渡しの仮橋と渡し船 大正10年(1921)頃

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【写真】橋梁渡船賃銭表と釣台 南アルプス市ふるさと文化伝承館
 
 賃銭表は高砂渡しの料金を示す高札。橋梁と渡し船の部に分かれ、渡し船料金は釜無川の水量の増減によって4段階の料金が設定された。大正7年(1918)。
 この釣台は高砂渡しで使用されたもの。前後に2本の坊を通して担ぎ、人を乗せて歩いて川を渡った。明治30年(1897)制作。

 信玄橋の架橋は、明治31年(1898)に締め切られた前御勅使川の旧河道敷の払い下げが昭和の初め頃から始まり、後の県道甲斐・芦安線となる「四間道路(しけんどうろ)」が昭和5年(1930)に整備されたことに連動しています。

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【写真】信玄橋西詰から400mほど西にある「四間道路」の道標 昭和4年(1939)

 昭和7年(1932)に竣工した初代信玄橋は、はじめからコンクリート製永久橋として計画され、総長455.5m、有効幅員5.45m。総工費約12万円のうち、5万円を当地にゆかりの国会議員穴水要七が拠出しています。また、後に取り外されましたが、建築当初は写真にあるとおり親柱頭部に橋灯が灯り、夜間に通行する人々をあたたかく照らしました。

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【写真】昭和7年竣工の初代信玄橋

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【写真】同竣工記念式

 橋の名称は、郷土の英雄武田信玄にあやかったのか、対岸の信玄堤にちなむのか、定かではありませんが、現在の信玄橋には、武田信玄にまつわる意匠をそこかしこにみることができます。また、昭和7年竣工の旧信玄橋の欄干の鉄格子も竣工当時(戦時中に供出されコンクリート製に代わる前)は武田菱が描かれており、当時から「信玄」を強く意識したデザインであったことがわかります。

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【写真左】現在の信玄橋 武将をモチーフにしたレリーフなどがつけられる
【写真右】現在の信玄橋 両側の歩道にも武田菱(武田家の家紋)が!

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【写真】昭和7年竣工の信玄橋(写真・同竣工記念式の一部) 欄干の格子が武田菱となっている

 その後、橋は昭和41年(1966)の台風4号によって、橋脚2桁が沈下し通行不能となるなどしましたが修復され、旧信玄橋は平成4年(1992)、2代目となる現在の橋の竣工をみるまで使われました。そして信玄橋は、現在でも日々の通勤・通学や物流、ひいては、市の主要な観光資源である南アルプス登山への玄関口として、その重要性が増しています。

 なお、昭和7年竣工の旧信玄橋の親柱は県道甲斐・芦安線沿いの八田児童館の敷地内に移されており、自由に見学できるようになっています。

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【写真】旧信玄橋の親柱


 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(3)

世界にひらく「開国橋」

 背後に南アルプスの山々がそびえ、前面を御勅使川や釜無川などの川に区切られる南アルプス市にとって、河川に架かる橋は、まさに地域とその外に広がる世界とを結ぶ架け橋ということができます。
 中でも今回ご紹介する「開国橋」は、その名のとおり、この地域を広く世界に開き、発展させる願いをもって架けられた橋として知られています。

現在の開国橋
【写真】現在の開国橋

 橋が初めて架けられたのは明治32年(1899)。在家塚村(現南アルプス市在家塚)の出身で、甲州財閥の一角を占めた実業家「若尾逸平」がその架橋に尽力したといわれています。当初はまだ木橋で、建築費用は当時のお金で7,752円。その約3分の1にあたる2,500円を若尾逸平が寄付し、残りを地域の有力者に呼びかけ、その寄付金や関係各村の分担金などで賄ったといわれています。

永久橋になる前の開国橋
【写真】永久橋になる前の開国橋

 橋の名称は、逸平が「我が峡の進運を敏速ならしむる」との意味をもって命名したもので、当初の字は「堺国橋」であったとも伝えられますが、いずれにしても、一代で巨財をなした逸平が、ふるさとの発展を願って尽力し、まさに峡西地域(釜無川西岸地域)を世界に開くために架けられた橋ということができます。

若尾逸平像(隆厳院)
【写真】若尾逸平像(隆厳院)

 開国橋が釜無川の東西を結ぶ現在の県道甲府南アルプス線は、江戸時代にこの道を整備させたとされる甲府城代・戸田周防守にちなみ「戸田街道」と呼ばれてきました。甲府から、小笠原を通じて駿信往還に接続する街道であり、古くから盛んだった峡西地方の行商活動の通商路としても重要なルートでしたが、他所の例にもれず、近代にいたるまで、渡し舟や仮橋での通行を余儀なくされていました。

 橋はその後、明治42年(1909)、さらに大正7年(1918)に木橋として2度架けかえられ、大正13年(1924)には、コンクリートを用いた修繕が行われたと伝えられます(注1)。そして昭和8年(1933)、4代目の橋になり、この時にコンクリート製の永久橋となりました。
 また、昭和5年(1930)以降は、山梨電気鉄道(後の山梨交通電車線/通称ボロ電)の鉄道橋が開国橋の南側に寄り添い、このルートの重要性が更に増しています。

昭和8年竣工(しゅんこう)の開国橋(西詰) 昭和8年竣工の開国橋(東詰) 釜無川を渡る「ボロ電」
【写真左】昭和8年竣工(しゅんこう)の開国橋(西詰) 右端に「ボロ電」線路が見える。
【写真中】昭和8年竣工の開国橋(東詰) 鉄道橋が歩道橋に転用されているので、昭和43年以降の写真と思われる。
【写真右】釜無川を渡る「ボロ電」(『櫛形町誌』より)

 この鉄道橋は、昭和37年(1962)に鉄道が廃線になったため、昭和43年(1968)に歩道橋に転用され、最終的には平成2年(1990)、片側2車線となって新たに完成したのが現在の開国橋です。その後、右折レーンが増設されるなどしましたが、現在も、朝夕の通勤ラッシュ時には大変な混雑がみられ、通勤通学の主要ルートとして、南アルプス市と甲府市中心部、さらにその先の広い世界を結び、地域間の交流や経済を支えています。

現在の開国橋
【写真】現在の開国橋

 なお、先代(4代目=昭和8年竣工)の開国橋の親柱(注2)は、役目を終えた後、若尾逸平ゆかりの寺院である在家塚の隆厳院の境内に移されています。

隆厳院に残る開国橋の親柱 親柱「かいこくはし」「昭和八年竣功」の文字がみえる
【写真左】隆厳院に残る開国橋の親柱
【写真右】親柱「かいこくはし」「昭和八年竣功」の文字がみえる

 このほか、隆厳院には先に掲げた逸平の銅像があるほか、逸平が開国橋を渡って運ばせた巨大なお地蔵さん(懐地蔵)などがあります。また、逸平の生家は、この隆厳院のすぐ南にあり、その屋敷跡は現在スポーツ広場となって市民に親しまれています。

隆厳院の「懐地蔵」 若尾逸平の生家跡
【写真左】隆厳院の「懐地蔵」
【写真右】若尾逸平の生家跡

注1 前回ご紹介した、鏡中条橋建設のために鏡中条村が払下げを受けたのはこのときの資材か。

注2 親柱:欄干の一番端の柱。橋名や竣工年が記されるだけでなく、個性的で多様な意匠が施され、その橋のシンボルともなる。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(2)

地域の人々の想いがこもる「鏡中条橋」

 前回ご紹介した「浅原橋」の上流には、近年(平成22年)片側2車線の高規格道路「新山梨環状道路」を渡す巨大な「釜無川大橋」が架けられ、その陰に隠れがちですが、この北側には地域の人々の思いによって支えられてきた幅員4mの小さな橋、「鏡中条橋」があります。

現在の鏡中条橋
【写真】現在の鏡中条橋

 現在橋の架けられている鏡中条地区と釜無川の対岸とは、『甲斐国志』に「釜無川ニ沿フ渡場アリ、中郡筋ノ山神(やまのかみ)村に渡ル冬春仮橋ヲ架ス」とみえるとおり、江戸時代から近代まで、冬春の渇水期には仮橋で、これ以外の時期はもっぱら渡船によって結ばれていました。
 この渡船は、街道筋の公の性格を帯びた渡船ではなく、明和8年(1771)村明細帳に「渡船壱艘 是ハ作場為通用、仕立置申候」とあるように、釜無川の対岸に飛び地を有する鏡中条村の人々が、この対岸の耕地への行き来や、村の中心からこの船着場までの道を通称「甲府街道」というとおり、地域の要請に応えて甲府への往来のために設けた渡船であったようです。

鏡中条村絵図
【写真】鏡中条村絵図 釜無川の対岸に飛び地があることがわかります

甲府街道
【写真】甲府街道 この先の土手を越えたあたりに当時渡船の船着場がりました

 明治時代以降、釜無川の他の渡場同様、ここへも恒久的な橋を設けようとする動きが高まったようですが、計画はなかなか進まず、架橋はようやく昭和2年(1927)になって実現します。初代の鏡中条橋です。昭和31年(1956)に出された鏡中条橋復旧工事早期着工のための陳情書によれば、その時の資材は、上流の開国橋が鉄筋コンクリートの永久橋に架け替えられた際の、その古材を県から払い下げてもらったものであったといわれ、架橋への苦労が偲ばれます。

 その後、度々の出水により流失を繰り返した鏡中条橋は、『若草町誌』によれば、昭和10年(1935)、鏡中条村の坂本高吉が架橋委員長として東奔西走し、近郷近在の有志に呼びかけ、昭和12年(1937)、全長二百数十メートルの2代目鏡中条橋となりました。

2代目の鏡中条橋
【写真】2代目の鏡中条橋(昭和12年)

この間も度々流失しますが、その都度復旧。市に残される昭和25年(1950)の復旧事業の記録では、少しでも堅固な橋にするために、当初事業に変更が加えられたことなどが分かります。

公共土木施設災害復旧事業設計変更認可申請
【写真】公共土木施設災害復旧事業設計変更認可申請(昭和25年)

 しかしこのようにして守ってきた橋も、昭和34年(1959)8月、山梨県を直撃、縦断した台風7号により流失。地域住民の手によって速やかに仮橋が復旧されますが、翌9月、今度は15号台風(伊勢湾台風)により、これも流されて両岸の交通は完全に途絶してしまいます。そこで、この復旧工事として昭和35年(1960)に完成したのが3代目の鏡中条橋です。
 なお、この頃すでに鏡中条村は合併により若草村になっていましたが、市にはこの3代目の鏡中条橋完成の際に、当時の県議会議員・神澤浄氏(竜王町長、衆議院議員などを歴任)が若草村長宛に発した祝電が残されています。まだ電報が通信手段として生きていた時代、まさに祝意を表す「電報」の形であり、慶弔時に特化した現在の電報と比較してみると時代の移り変わりを感じさせます。

橋の完成を祝う祝電
【写真】橋の完成を祝う祝電(昭和35年)

 さて、その3代目の鏡中条橋は完成5年目の昭和40年(1965)、台風24号により早くも流失。これを契機に同42年(1967)、延長465m、幅員4mの規模で完成したのが、現在の4代目鏡中条橋です。4代目にしてようやく木橋ではなく、鉄筋コンクリートの橋脚と鉄骨による永久橋となりました。

流失した鏡中中条橋 流失した鏡中中条橋
【写真】流失した鏡中中条橋(昭和40年)

 このように地域に密着した橋として、地域で支えてきた鏡中条橋。現在の橋は今年で架橋45年。まだまだ人々の暮らしを支える重要な橋として朝に夕に往来する人々をみつめています。

現在の鏡中条橋2
【写真】現在の鏡中条橋

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 南アルプス市ふるさとメールの「連載 いま南アルプスが面白い」のコーナーも、おかげさまで今回が100回目の配信となりました。そんな折、先月のこのコーナーを読まれた方から、県外にいて遠く離れたふるさとを懐かしく思い出しながら読んでいるという内容のメールをいただきました。このような反応をいただくと、書いている私たちもとても励みになります。これからも私たちと皆様をつなぐ「架け橋」として、このコーナーでふるさと南アルプス市の素晴らしさを皆様にお届けしていきたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

橋は世につれ世は橋につれ(1)

甲府と駿河(静岡)を結ぶ要衝だった「浅原橋」

 浅原村、現在の南アルプス市浅原の歴史は、この欄の2008年9月12日配信号2008年10月1日配信号で紹介したことがありますが、先日ふと通りかかったところ、ここに架かる浅原橋の架け替え工事がだいぶ進んでいるのを目にしました。そこで今回は、この浅原橋の歴史を振り返って見たいと思います。

架け替え工事の進む浅原橋
【写真】架け替え工事の進む浅原橋。現在の橋に沿って新橋の橋脚が並んでる

 江戸時代を通じ、浅原は甲府から鰍沢(富士川町)を経て駿河(静岡県)にいたる主要な交通ルート(駿州往還)上にありました。人々はここで釜無川を越えるわけですが、江戸時代には、水量の少ない時期に架けられた仮橋は存在したものの、恒久的な橋はなく、もっぱら渡船(浅原の渡し)が釜無川を越える通行の手段でした。

甲斐国絵図
【写真】甲斐国絵図(江戸時代 山梨県立博物館蔵)。釜無川や笛吹川などの主要な河川に橋はなく、ほとんどが「トセン(渡舟)」によって結ばれている

 しかし、明治時代になると架橋への機運が高まり、明治6年(1873)に浅原村と対岸の臼井阿原村とが共同で木橋を架設することになりました。延長190間(約342m)幅員9尺(2.7m)。建設の費用はすべて両村で拠出し、その代わり県の許可を得て通行人から渡橋銭を徴収しました。これが初代浅原橋です。

以下、昔の地図を重ねながら浅原橋や周辺の移り変わりを見ていきたいと思います。


浅原橋の移り変わり
【写真】浅原橋の移り変わり。画像をクリックすると地図が自動で移り変わる画像が見られる。写真4枚

【写真1】明治21年(1888)大日本帝国陸地測量部発行1/20000「市川大門」
 図示されている橋は、明治6年(1873)に架橋された初代の橋と思われます。駿州往還が臼井阿原の集落の中を抜けて、釜無川の堤防を下り、浅原地区の集落の中心を貫いています。そのため、橋は現在の橋よりも50m程北側の場所に架けられています。

【写真2】明治44年(1911)大日本帝国陸地測量部1/25000「甲府」
 浅原橋は、明治39年(1906)に架け替えられ2代目の橋になっています。架け替えによりその場所は初代よりさらに若干北側に移りました。
 また、明治33年(1900)には鰍沢馬車鉄道(のちに山梨馬車鉄道に合併)が設立されており、駿州往還に沿って、現在の中央市布施から釜川左岸の堤防上を経て浅原橋を渡るその線路とともに「馬車鉄道」の文字を見つけることができます。

【写真3】昭和4年(1929)大日本帝国陸地測量部発行1/25000「甲府」
 時代の過渡期的交通手段であった馬車鉄道は鉄道の普及によってその役割を終え、代わって地図には、昭和3年(1928)に開通した、静岡県の富士駅と甲府駅を結ぶ現在のJR身延線の線路と東花輪駅が描かれます。
 浅原橋は、鉄道開通と同じ昭和3年に3代目にとなり、現在の位置に架け替えられ、これに伴い往還道も浅原村集落の中心から集落の南側へ移りました。また、現在浅原橋東詰から、JR東花輪駅までを一直線に結ぶ県道は、鉄道の開通、浅原橋の架け替えに合わせてこのとき新たに作られ道であることが地図から読み解けます。

【写真4】昭和46年(1971)国土地理院発行1/25000「甲府」
 ほぼ、現在と同じ状態です。その後の度重なる水害により度々流出した浅原橋ですが、昭和25年(1950)、地域の人々の強い熱意により、両端は木橋ながら中央部を鉄橋とする、より堅牢な橋に架け替えが行われました。これが4代目。さらに昭和37年(1962)には、すべて鉄とコンクリート造りの5代目となる現在の橋に架け替えられています。

浅原の旧駿州往還
【写真】浅原の旧駿州往還
集落内の閑静な通りが、かつては甲府と駿河を結ぶ大動脈でした。

旧浅原橋西詰
【写真】旧浅原橋西詰
集落の中心を抜け、かつてはこの釜無川の土手を登った先に浅原橋が架けられていました。

旧浅原橋西詰
【写真】昭和25年竣工の4代目浅原橋(竣工記念パンフレットから)

 現在の浅原橋の竣工からちょうど50年。半世紀人々の往来を見つめてきた浅原橋は、未来につながる橋としてまた生まれ変わろうとしています。
 それにしても、橋ひとつとってもいろいろな歴史があり、その時々の地図を重ねてみると、街の歴史や移り変わりがよくわかります。古い地図は、図書館などで閲覧することができます。みなさんもふるさとの地図をめくり時間旅行をしてみてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

もえ立つ神秘の息吹 ~古長禅寺のビャクシン~

 前回ご紹介した「三恵の大ケヤキ」のほかに、南アルプス市内にはもう1件、国指定天然記念物の樹木があります。それが今回ご紹介する「古長禅寺のビャクシン」です。
 ビャクシンは葉が、まるで緑の炎が燃え立つように伸び、樹齢を重ねると幹も複雑にねじれる神秘的な樹形から、古来より神聖な木とされ、寺社などに多くみられる木です。

古長禅寺のビャクシン ビャクシンの幹 うねるように天空にのびる
【写真左】古長禅寺のビャクシン
【写真右】ビャクシンの幹 うねるように天空にのびる

 このビャクシンのある「古長禅寺」は、有名な夢窓国師(むそうこくし)が正和年間(1312-17)に創建したと伝えられる古刹です。

古長禅寺
【写真】古長禅寺

 ビャクシンは、創建時建立したお釈迦様の像を納めたお堂(釈迦堂。旧客殿という説もある)の前に、釈迦をまもる四天王に見立てて4本、夢窓国師自らが植えたと伝えられています。現在も4本とものこるビャクシンが、このような地域での伝承のとおり「夢窓国師お手植えのビャクシン」だとすれば、その樹齢は約700年ということになります。

 現在のお堂とそこに納められていたお釈迦様の像は失われて、4本のビャクシンの奥にその基壇だけを確認することができます。

釈迦堂跡と伝えられる基壇
【写真】釈迦堂跡と伝えられる基壇

 近年、樹勢にやや衰えが見られ、何本もの支柱によって支えられる老木ですが、枝や葉はなお上方へ伸びようとする息吹を感じます。4本のビャクシンの中央に立ち、上を見上げ4方から燃え立つように伸びるビャクシンの枝に囲まれると、とても神秘的な気分に包まれます。

 ところで、作庭に秀で全国各地に名園をのこしたことでも知られる夢窓国師。古長禅寺の庭園も国師の作と伝えられ、四季折々様々な風情を私たちに見せてくれます。また、戦国時代にこの地に生まれた武田信玄の生母(大井夫人)縁の寺としても知られ、本堂の裏手には、晩年をこの寺で過ごした夫人の墓もひっそりとのこされています。
 このようなことから、古長禅寺はその境内全体が、県の指定文化財(史跡)となっています。また、お寺には重要文化財木造夢窓国師坐像(南北朝時代、原則として非公開)も伝えられ、国師の凛とした面影を知ることができます。

古長禅寺の庭園 大井夫人の墓 木造夢窓国師坐像
【写真右】古長禅寺の庭園
【写真中】大井夫人の墓
【写真左】木造夢窓国師坐像

 このように、お寺自体が県指定の史跡、納められた像が国の重要文化財、このビャクシンが国指定文化財文化財(天然記念物)という古長禅寺は、南アルプス市の中でも最も歴史豊かなお寺のひとつといえるかもしれません。

古長禅寺のビャクシンの所在地:山梨県南アルプス市鮎沢509

[南アルプス市文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

新緑萌える~三恵(みつえ)の大ケヤキ~

 草もえる季節となりました。
 先日訪れたところ、新緑がとてもきれいに芽吹いていました。今回は季節感を取り入れて国指定(文化財/天然記念物)「三恵の大ケヤキ」を紹介したいと思います。

三恵の大ケヤキ1 三恵の大ケヤキ2
【写真】三恵の大ケヤキ

 樹木が文化財?・・・少し奇異に感じる方もいるかも知れませんが、人間の歴史には自然との密接な関わりがあります。人は、その時々の環境や自然の中で新たな英知を生み出し、これに助けられ、時にはそれに対抗するように、風土や景観を作り上げてきました。人間の歴史は自然との関わりを抜きには語れないのです。こうしたことから、樹木や動物、地質なども天然記念物として、文化財指定の対象となっています。

 そのなかで、南アルプス市の自然と人との関わりを象徴するものとして、この「三恵の大ケヤキ」があります。このケヤキは地域を代表する巨木として古くから知られ、昭和3年(1928)には、早くも当時の内務省によって、国の天然記念物に指定されています。

昭和3年の国指定時の文書
【写真】昭和3年の国指定時の文書(南アルプス市教育委員会蔵)

 平成元年(1989)の環境庁(当時)の調査では、ケヤキの中では、全国2位の大きさ(幹周り14.72m)をもつ木とされました。その後、行われた国のフォローアップ調査で、新たな木が発見されるなどして順位は下がりましたが、現在でも全国で五指に入る大きさを誇ります。なお、山梨県においては現在も、ケヤキだけではなく全ての木の種類を通じて最も大きな木とされています。
 もちろん、本当の樹齢は切り倒して年輪を数えてみないと分かりませんが、地域では樹齢千年とも二千年ともいわれています。その名称は、南アルプス市の前身である若草町が、三つの村の合併によって若草町になる前の「三恵村」に、この木があったことによります。なお、指定当初の名称は『三恵村の大欅(ケヤキ)』でしたが、三恵村が昭和29年(1954)合併して若草村となったことから、昭和31年(1956)『三恵の大ケヤキ』に改称されています。

 地理的には旧三恵村(寺部地区)に含まれますが、北に接する下今井地区との境で、そちらの集落に近いということもあって「今井(下を略した言い方)の大ケヤキ」とも呼ばれていました。また、別名「いめい(今井がなまった言い方)のおさごっさんの木」とも言われていました。これはこの大ケヤキの根元に通称「おさごっさん」と呼ばれる祠(ほこら)があり、ご神木として崇拝されていたことによると考えられます。ちなみに、この「おさごっさん」とは三宮社(さんぐうしゃ)がなまったものといわれています。

ケヤキの根元にあった祠
【写真】ケヤキの根元にあった祠。保護のため根の周辺の立ち入りを制限しているので、現在は傍らに集められ、参拝できるようになっています

 大木であるために、これまでに何度も落雷や台風などに遭ったといわれ、何百年か前の落雷によって幹が空洞になったとされるほか、大正15年(1926)には暴風雨のため、周囲7尺(約2.1m)、長さ3間(約5.4m)の幹が元から折れてしまったという記録が残されています。
 このような風雪に耐えてきたケヤキですが、老木であることには変わりなく、昭和四十年代には、いわばおじいさんにつえを手渡すように、支柱を立てて支えました。またその後も樹勢の衰えが目立つようになってきたため、平成8年度から9年度にかけて周辺の土壌改良などを実施し、樹勢の回復を図っています。その後も、平成17年度に支柱の架け替えを行ったほか、毎年のように枯れ枝の剪定(せんてい)などを行っています。
 地域を見守ってくれた大切な木。少しでも長く生きてもらえるよう、今度は私たちが見守っていく番なのだと思います。

樹勢回復事業の様子
【写真】樹勢回復事業の様子。アスファルトをはがし、雨水の浸透するブロックに直しました。(写真をクリックで施行の様子が分かります)

樹勢回復事業の様子
【写真】樹勢回復事業の様子。細い根を一本一本丁寧に掘り出し、周囲の土を入れ替えました。作業は、根が焼けないようにブルーシートの下で行われました。

 お年寄りの話によると、昔は子どもたちが幹の割れ目から空洞の部分に出入りして遊んだといいます。また、昭和34年(1959)の伊勢湾台風の際には、折れた枝を加工しようとした者に災いがあったとか、木を切り倒す計画をした責任者が病に侵されたなどという、神木らしい神秘性に満ちた逸話も残されています。
 このように、地域ではことあるごとに「三恵の大ケヤキのように」と語り伝えられ、人生の手本にも、励ましにもなってきた木です。現在も、地域の象徴として親しまれ、近接する「おおけやき児童館」にもその名を残しています。

大ケヤキ児童館 ケヤキの近景
【写真右】大ケヤキ児童館。奥に一際大きく見える木が三恵の大ケヤキです
【写真左】ケヤキの近景。うっそうと暗く、躍動感のある巨大な幹をみることができます

 今年も元気に葉を広げた大ケヤキ。遠くからの眺めや写真ではそれほど感じられないかもしれませんが、間近でみると誰もがその大きさに圧倒されるはず。みなさんもぜひ一度訪れ、悠久の時を生きてきた大ケヤキの生命力にふれてみてはいかがでしょうか。

三恵の大ケヤキの所在地:山梨県南アルプス市寺部字今井前1509

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

甲州独自の節句人形「おかぶと」

 4月も中旬に入り、安藤家住宅の草花も芽吹きはじめ、季節の移り変わりが感じられます。
 重要文化財安藤家住宅では、5月5日の端午の節句に合わせ、5月28日まで端午の節句飾りの展示を行っています。

A主屋勝手口で出迎える節句飾り
【写真】主屋勝手口で出迎える節句飾り

 端午の節句飾りと言えば、こいのぼりや五月人形、鎧兜(よろいかぶと)を思い浮かべる方が多いと思いますが、今から約100年前に絶えてしまったといわれる「おかぶと」をご存知でしょうか?
 「おかぶと」とは、江戸時代後期から明治時代中期に流行した甲州独自の節句人形で、別名「カナカンブツ」とも呼ばれて親しまれてきました。
 その姿は、紙で作られた張子面と兜をかたどった前立を棒で支え、鎧の垂れを付けた簡素な武者人形で、棒なしでつるすものもあったそうです。現在のように男の子の産まれた家で用意するのではなく、親戚や知人から贈られることが一般的で、贈り主など多くの人の目に触れられる縁側や玄関などに飾られました。
 「人形は顔が命」とよく言われるように、一番個性が出るのは張子面で、その種類はとても多いことが郷土史家の上野晴朗氏の調査で分かっています。最も人気があったのは、やはり武田信玄や勝頼で、豊臣秀吉や上杉謙信などの戦国武将や源頼朝や義家などの源氏の武将のほか、昔話に登場する天狗(てんぐ)や桃太郎などの「おかぶと」も作られました。
 「おかぶと」は、露店でも手に入りましたが、専用のつづらに入れて歩く売り子から買い求めるのが主流でした。最後までよく売れた地域は、現在の南アルプス市にあたる釜無川以西の地域だったそうです。甲州街道に沿って歩き、富士北麓地方には足を延ばさなかったと伝えられていることから、山梨県の中でも限定された地域に根付いていたと考えられます。
 そんな「おかぶと」は、どうして絶えてしまったのでしょうか?諸説ありますが、明治時代の文明開化政策により民俗行事の簡素化が行われた結果、「おかぶと」を贈る習慣が少なくなったことや、明治中期の中央線開通で、先述した鯉のぼりや五月人形、鎧兜に代表される都市部の節句飾りの習慣に押される形で「おかぶと」が絶えてしまったとも考えられています。
 安藤家住宅では、「おかぶと」のうち、張子面を二つと張子面の下につり下げる垂れを展示しています。時代の移り変わりとともに姿を消した「おかぶと」に思いをはせてみませんか。

A「おかぶと」張子面① A「おかぶと」張子面② A「おかぶと」垂れ
【写真左】「おかぶと」張子面、【写真中】「おかぶと」張子面、【写真左】「おかぶと」垂れ

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】