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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

安藤家住宅の玄関から見る歴史

 前回は、安藤家住宅と雛(ひな)人形のリフォームについて書きました。今回は、安藤家住宅のリフォームした部分の一つである玄関にスポットを当てたいと思います。
 安藤家住宅を訪れた際、受け付けをして土間から履物を脱いで上がっていただくことが多いのですが、実は正式な玄関は別にあるのです。
 安藤家住宅の入り口である長屋門をくぐり、

A長屋門
【写真】長屋門

 さらに中門を抜けた先に

A中門
【写真】中門

 安藤家住宅の玄関が迎えてくれます。

A玄関
【写真】玄関

 これが安藤家住宅の玄関である式台付玄関です。その名のとおり横幅の広い台が設けられており、風格が感じられます。この家を代表する入り口で、ここを使うことができたのは家の主人と公式なお客様だけでした。家族でさえ、ここから出入りすることは許されなかったのです。
 この式台付玄関は、もともとは武家の正式な玄関で、一般の民家に造ることはなかなか許されませんでした。それでは、なぜ安藤家住宅にはこのような玄関があるのでしょうか?
 今でこそ一般家庭には大なり小なり玄関がありますが、当時の民家では玄関構えは造られないのが普通でした。
 安藤家は、周辺に多くの土地を所有して農業を営み、村を代表する名主という役目も務める豪農で、村の人々が年貢を納めたり各種手続きをする、役所のような仕事をしていました。このため武家の役人の訪問も多く、失礼のないようにお迎えするため、また家の格を示すために造られたのです。
 建設当初から公式の客を迎える玄関は何らかの形であったようですが、現在に至るまでに何回かリフォームが行われてきたことが分かっています。
 文献によると、宝永5年(1708)の建築当初は玄関に式台が存在せず、万延元年から2年かけて(1860~62)全体のリフォームをした際に、玄関に式台を設けたという記述があります。ただし、このときの玄関は現在の場所ではなく、現在の中座敷にあたる場所にあったと考えられます。
 現在の式台がいつ造られたのかというと、明治20年(1887)のリフォームの際、中座敷の前に後付けされた玄関を撤去し、それまでのイドコに畳を敷いて玄関の間とし、現在の場所に式台付玄関を設けました。このときに中門も現状のようにリフォームしたことが分かっています。
 このような歴史を感じながら安藤家住宅にご来館いただくと、これまでに訪れたことがある人も、また違った気分でご覧になれるのではないでしょうか。次回のご来館の際は、少し遠回りになってしまいますが、中門をくぐって式台付玄関から入り、安藤家の公式なお客様になった気分を味わっていただければと思います。

A玄関からの眺め
【写真】玄関からの眺め

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

安藤家住宅に歴史あり、雛人形に歴史あり

 南アルプス市西南湖にある重要文化財安藤家住宅は、今から約300年前の江戸時代半ば、宝永5年(1708)に建てられました。年代を聞いてもピンとこないかもしれませんが、生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)で有名な5代将軍綱吉から6代の家宣へと変わる頃のことです。
 幸い火災などの被害にあうことなく今日まで伝えられてきましたが、当時の生活様式に即するようにリフォームを行ったり、長い年月を経たことで傷んだ部分の修理を行ったりしたことが分かっています。例えば、大切なお客様を迎える部屋である奥座敷を広げたこと、茅葺屋根の張替えを行ったこと等が挙げられます。

A現在の安藤家住宅外観 A現在の奥座敷
【写真】現在の安藤家住宅=写真左、現在の奥座敷=写真右

 現在、安藤家住宅では「安藤家の雛祭り」と題し、市内の方々から寄贈された江戸時代から昭和までの各時代の雛飾りの展示を行っていますが、その中でも建築当時に最も近いものが奥座敷床の間に展示している享保雛です。

A展示している享保雛
【写真】享保雛

 享保雛(きょうほうびな)とは、江戸時代の享保年間(1716~1735)に流行した雛人形で、面長な顔に切れ長な目をした能面に似た表情や、着物に錦や金襴を使っている華やかな作りをしているといった特徴があります。
 展示している享保雛は甲西地区在住の方からお借りしたもので、鼠にかじられたりなどしたために顔と飾りの一部は昭和のものですが、それ以外は約150年前に制作された貴重なものです。
 どんなに大切に保存していても劣化は避けられないもので、当初と同じ状態を保つのは難しいのですが、安藤家住宅も雛人形もこうして手直しを加えてでも長く大切に保存されてきたおかげで、現代に生きる私達はこれまで歴史を知ることができたのです。多少の傷やほころびさえも、それらがいかに長い年月を見つめ続けてきたかの証なのではないでしょうか。
 「安藤家の雛祭り」は4月9日(月)まで開催中です。この機会に安藤家住宅と同じ時代を歩んできた享保雛に会いに来ませんか。江戸時代から続く歴史を感じながらご覧いただきたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑪~語りつくせぬ魅力の数々

 2012年が幕開けし、昨年開始した「根方の魅力」シリーズもちょうど1年を迎えました。南アルプス市では比較的穏やかな新年を迎えたような気がしますが、皆様はいかがでしたでしょうか?苦難・困難を乗り越え、輝かしい未来へと突き進む一年にしたいものです。
 「今、南アルプス市がおもしろい」の連載も6年目を迎えています。南アルプス市の歩みをひも解き、知られているようであまり知られていない南アルプス市の姿や、歴史に裏付けられた魅力を皆さんと共有したいとの思いからスタートしました。紹介してきた内容を振り返りますと、私たちには水害や旱魃(かんばつ)などいくたびの困難を乗り越えてきた、たくましいDNAが受け継がれているように思えます。
 一方、困難に遭遇したときに、これを乗り越えようと祈りや願いを捧げた人たちの信仰の姿を伝える跡も多く残されています。シリーズで紹介してきた根方地域にも神社や寺院、さまざまな伝統行事が色濃く残っており、信仰心の厚い地域だったといえるでしょう。

根方周辺の航空写真
【写真】根方周辺の航空写真

 昨年から続けてきた根方シリーズも、まだまだご紹介したい魅力はたくさんあるのですが、今回でいったん締めたいと思います。今回紹介しきれなかった事物については、いずれ根方シリーズの第2弾をと考えていますが、今回はその予告編的な意味合いとして、これからも紹介していきたい根方の魅力を目次紹介的に挙げてみましょう。

祈り~古刹(さつ)・名刹~
 根方地域の数ある寺社のうち日蓮宗の「妙了寺」と曹洞宗の「伝嗣院」は二大名刹ともいえる寺院で、櫛形地区に存在する寺院は一寺を除き、すべてがこの二つの宗派に属し、そのほとんどが、かつてはこの二つの寺院の末寺だったのです。甲府盆地を見渡す台地上に並ぶこの寺院は、江戸時代にまとめられた『甲斐国志』の伝嗣院の項に「高爽ノ地ニシテ遠ク望メバ妙了寺ト相双ンデ各々壮観ナリ」と称された存在です。

伝嗣院山門 伝嗣院 鐘楼から甲府盆地を眺める 伝嗣院 『日本社寺明鑑』日本社寺明鑑発行所 明治36年
【写真】伝嗣院(左:山門、中:鐘楼から甲府盆地を眺める、右:『日本社寺明鑑』日本社寺明鑑発行所 明治36年) 

 大神山伝嗣院は15世紀末に三輪明神(現在の下宮地地区神部神社)の神主・今沢重貞が三輪明神の山宮のある地(上宮地)に開いた寺院で、盛時には58カ寺もの末寺・陪院を持つ寺院だったそうです。県の文化財に指定されている大般若経六百巻や小堀遠州の庭園、武田・織田の文書も伝わるなどまさに名刹といえます。
 現在は伝嗣院内にあった三輪神社は上宮地の八幡神社境内へ移されています。現在4月に行われている西御幸祭は、もともとは春に伝嗣院(山宮)から神部神社(里宮)へ、秋には里宮から山宮へと御神輿(おみこし)が行き交っていたもので、その神の通る道筋のエリアがそれぞれ上宮地・下宮地という地名で残されているのです。根方と原方とのつながりがよく見える例といえます。

上宮地八幡神社
【写真】上宮地八幡神社

 もうひとつの古刹、高峯山妙了寺もまた山梨を代表する寺院の一つです。日蓮宗の触頭(ふれがしら)を勤め、山梨県内では身延山久遠寺に次ぐ位置付けといえ、又の名を「うらみのぶ」とも呼ばれているのです。昭和24年の火災により伽藍(がらん)の多くが焼けてしまいましたが、塔頭(たっちゅう)も六坊あるなど広大な境内を有し、25カ寺の末寺がありました。

妙了寺 山門 妙了寺 『日本社寺明鑑』日本社寺明鑑発行所 明治36年
【写真】妙了寺(左:山門 右:『日本社寺明鑑』日本社寺明鑑発行所 明治36年)

 妙了寺はもともと中野地区にあった妙竜寺という真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代に日了によって新たに日蓮宗として再興されたものです。その日了の母・日仏は中野の出身ですが日蓮宗の開祖日蓮の直弟子です。中野には日仏が開いた草庵、現在の「妙行寺」もあり、妙了寺、妙行寺ともに鎌倉時代からの歴史を誇るさまざまなエピソードが伝わっています。

妙行寺
【写真】妙行寺
 
 鎌倉時代の日蓮宗の寺院に上野地区の「本重寺」があります。南アルプス市を舞台に活躍した甲斐源氏加賀美一族の中でも悲劇の主人公として知られる秋山光朝-。中野城あるいは雨鳴城で自害したと伝わる光朝の遺子光季によって再興されたといわれる寺院で、上野城(椿城)の一角を成す寺院です。

本重寺と櫛形山 五輪塔群
【写真】左:本重寺と櫛形山 右:五輪塔群

 上野城は椿の花が多かったことからまたの名を椿城とも呼ばれています。鎌倉時代に甲斐源氏の武将小笠原長清の孫盛長が築いたとされています。現在では本重寺をはじめ住宅や畑地の広がる一帯ですが、随所に残る五輪塔群に中世の面影を残しています。

樹木も豊富
 山の裾野を彩るサクラやスモモなどの春の景色は2011年5月13日号「根方を彩る春の風景」でご紹介しました。市之瀬台地の最も高い位置にあるお宅の庭に、ご夫婦が大切に守り育み続けている大きなカキの木があります。県指定天然記念物の「中野のカキ」です。エブクという小さな実をつける古種ですが、これほどの巨木は珍しく、県外からも見学者が訪れます。この木を守られているご夫婦は御年90歳を超えられており、まさにご長寿の木といえますね。

天然記念物の「中野のカキ」 中野のカキ
【写真】中野のカキ

 湯沢地区には「湯沢の思い杉」(県指定天然記念物)があり、寄り添うように天高く伸びる二本の幹には感動すら覚えます。その他にも湯沢のサイカチや平岡のヤシャブシなどなど、まだまだいくつもの巨樹・古木と、これにまつわるエピソードがあります。

湯沢の思い杉
【写真】湯沢の思い杉

祈りの姿と伝統
 1月14日は小正月です。根方の各地でも道祖神さんに飾り付けがされ、どんど焼きや獅子舞の奉納、舞い込みが行われました。各地で奏でられた笛や太鼓の音は伝統ある本物の音色といってもいいでしょう。
 下市之瀬の獅子舞(県指定無形民俗文化財)は雌獅子、曲輪田峯村小路の獅子舞(市指定無形民俗文化財)は雄獅子で、ともに村まわりや舞い込みなどの伝統を色濃く伝える獅子舞です。

下市之瀬の獅子舞
【写真】下市之瀬の獅子舞

 道祖神には他の地域にもみられるオヤナギ以外にもフジノヤマと呼ばれる梵天(ぼんてん)飾りや、田頭地区では弓矢の姿をした珍しいものもあります。またどんど焼きも色々あり、特に曲輪田地区ではオコヤ作りの伝統が伝わります。

道祖神のお飾り 下市之瀬区 道祖神のお飾り 中野区神戸 道祖神のお飾り 田頭地区
【写真】道祖神のお飾り(下市之瀬区、中野区神戸、田頭地区)

曲輪田峯村小路のオコヤ 曲輪田横久根小路のどんど焼き
【写真】曲輪田峯村小路のオコヤ、曲輪田横久根小路のどんど焼き
 
 これまでご紹介してきたとおり、山方と原方を結ぶ根方地域にはさまざまな魅力があり、さまざまな人の息吹が感じられます。

 南アルプス市はその立地から山岳観光を大きな魅力の一つにしています。さらに、山と人と里とのつながり、その歩み(=歴史)を考えたとき、その地域だけのオリジナルな魅力がいっそう増すと思います。

 そんな魅力を伝えようと、来月いよいよ「Mなび」の文化財版がスタートします。パソコンや携帯電話から地域の文化財などの魅力を検索でき、音声ガイドを聞きながらまちめぐりができるシステムです。

「Mなび」のサイトのイメージ
【写真】「Mなび」のサイトのイメージ

 その魅力を知っていただこうと「文化財Mなび」のお披露目もかねて3月4日に市之瀬台地を巡るツアー「語り部と歩くふるさとの文化財~眺望の大遺跡群 市之瀬台地を歩く~」も開催します(詳細未定。内容は市のHPでお知らせします)。
 今回でいったん「根方」シリーズは終わりますが、続きは「文化財Mなび」で現地を訪れつつお楽しみいただければと思います。
 では、また次回、新たなテーマでお会いしましょう。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑩~高尾穂見神社と村々の祈り(下)

 前号に引き続き、今回も櫛形山の中腹にある高尾山穂見神社について紹介します。
 今回は「棟札」を通して穂見神社の歩みや眼下に広がる根方、原方、田方地域とのつながりなどについて考えてみたいと思います。

穂見神社本殿と棟札
 穂見神社の本殿は山梨県の文化財に指定されている建造物で、江戸時代の前半にあたる寛文5年に建てられ、宝永2年の修復以降幾度かの修復を繰り返し、350年もの間風雪に耐えてきたことがわかっています。
 これは、神社に伝わる棟札により判明したことで、神社には、本殿だけでなく神楽殿や拝殿などのものも合わせると合計で21点の棟札が伝わっています。その内、本殿の建築と最初の修復について記載された棟札が最も古い2枚で、寛文・宝永の時代が明記されており、本殿の建築年代・経緯を知る決め手となったことから、本殿は棟札を含めて昭和40年に県の文化財に指定されたのです。
 
写真1
【写真】穂見神社本殿(山梨県指定文化財)
 
 棟札とは、建築や修復の記録・記念として築造の目的やその年月日、建築主・大工の名前などを記して棟木や柱の高いところへ取り付けた札のことをいいます。古い歴史的な建造物には遺されていることが多く、建築年代や建造物の性格を知る手がかりとして有効な資料といえます。
 
寛文5年の棟札
写真2

【写真】寛文5年の棟札(左:裏、右:表)
 写真3裏 銘 写真3表
【写真】棟札の銘文(『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅱ』より)
 
 高さ91.0㎝、幅30.1㎝、厚さ2.8㎝の長方形の板で、神殿(本殿)建立、寛文5年(1665)の銘があり穂見神社に伝わるものの中で最も古い棟札です。
 表面からは寛文5年に現在の本殿が建てられたことや、祈祷の文言、神主さんの名前や、信州伊那郡の大工により建てられたことなどが分かります。裏面には呪符や五行思想の文字が配列されています。
 また、高尾山の「高」の字が現在と違う漢字が使われているものの、主文に「鷹尾山穂見神社御崎大明神」とあり、所在地である鷹尾山と穂見神社の名が揃っており、これこそが現存する資料の中で所在地名と神社名の共存する最古の資料といえます。後から書き足されたものでも、同名の他の場所にある神社のことでもない、高尾山穂見神社を示す信憑性の高い資料といえます。

宝永2年の棟札
写真4

【写真】宝永二年の棟札(左:裏、右:表)
写真5裏 銘 写真5表 銘
【写真】棟札の銘文(『山梨県棟札調査報告書 国中Ⅱ』を加筆修正)

 総高90.0㎝、幅27.1㎝、厚さ2.8㎝の長方形の板で寛文五年の棟札と近い大きさといえます。
 これは神殿(本殿)と拝殿を修復した際のもので、宝永2年(1705年)に工事が行われたことがわかります。
 表面の主文には鷹尾山穂見神社の名が見えます。先ほどの棟札と違い「御崎大明神」の名は記されていません。
 裏面には先ほどの棟札と同じく呪符等が配列されており、なかでも注目したいのはその下に上宮地村を筆頭に58の村名(当時の村の単位は現在の区の単位と大体同じです)が列記されていることです。
 
 この58の村々をみてみると、現在とは違う漢字の表記がされていたり、面白い発見があります。
 ではこれら58の村は何を表すのでしょう。
 実は高尾集落に伝わる文化8年(1811)の「本社修復勧化添触願」という史料にそのヒントがあります。この史料によると、寛文三年(1663)、元禄十六年(1703)、延享二年(1745)宝暦十一年(1761)の修復等の資金の調達の際に、「相対勧化(そうたいかんげ)」(寄付金を集める方法のひとつ)によって資金を集めたと記されています。
 おそらく元禄十六年の勧化活動によって3年後の宝永三年の棟札で知られる修復工事の実施ができたものだと考えられます。
 つまり宝永二年の棟札に記されている村名は勧化に応じた村(村ごとに寄付をしていたことがわかります)といえるのです。
 
図1
【図1】棟札に記されている村の分布(明治43年測量昭和32年修正「韮崎・御嶽仙峡・甲府・鰍沢」1/50000を加筆)
 
高尾集落の神社?
 58の村名を地図に示してみました。この地図には当時存在していたとみられる地名を入れ込み、記載されている村だけをグレーで表してみました。曲輪田新田や下宮地などは当時はまだひとつの村として独立していなかった可能性もあるため、南アルプス市内では、滝沢川と釜無川の下流域をのぞくほぼ全ての村名が記載されていることがわかります。村名のない地域は水害の頻発地帯でもあるためそれらの事情と関係があるのかもしれません。
 また、現在の南アルプス市だけでなく、富士川町の舂米や、苗敷山穂見神社のお膝元にあたる韮崎市甘利築の地名までもがみえます。
 相対勧化に応じた村々ではありますが、同時に高尾山穂見神社の信仰圏の広さを物語っているともいえるでしょう。高尾山穂見神社は櫛形山の中腹に鎮座する高尾集落の神社ではありますが、眼下に広がる里の村々の神社でもあることを示しているのです。
 
 聞き取り調査によると、御勅使川右岸の南アルプス市側の地域でも韮崎市側の苗式山の穂見神社にも参拝に行く習慣があったようですし、御勅使川左岸の韮崎市側の地域でも御勅使川を渡って高尾山穂見神社へ参拝に行く習慣もあったようです。この二つの穂見神社は御勅使川を挟んだ位置に鎮座していることも興味深い点です。
 前号で紹介した古碑で分かるとおり、古代の高尾山穂見神社は山岳信仰の入り口あるいは修験者の修行の場であったことが伺われます。修験といえば山の信仰とともに雨乞いで知られるように水の信仰といった面も併せ持っているようですから、御勅使川を挟むように鎮座する穂見神社は、山の信仰の場であるとともに、御勅使川や深沢川など山から流れ出て根方、原方、田方を潤す水のように、里の人々の祈りを紡いでいた存在なのかもしれません。
 今でも、五穀豊穣、商売繁盛の神として多くの参拝者でにぎわう理由はこれらの歴史に裏付けられていることでしょう。
 
 高尾山穂見神社をじっくりと考えることで、南アルプス市域をはじめ周辺地域に暮らしてきた先人の思い、自然に畏れながらも祈り暮らしてきた思いがみえてくるように思えます。

 

 【南アルプス市教育委員会文化財課】

 

 

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑨~高尾穂見神社と村々の祈り(上)

 前号で市之瀬台地の第一の川ともいえる市之瀬川について紹介しました。今回は、同じく市之瀬台地を流れる主要河川といえる深沢川をずっと遡った上流、根方地域からは離れ山方地域の話となりますが、櫛形山の中腹に根ざした神々しい文化の歴史について紹介したいと思います。
 深沢川は市之瀬台地から流れ出ると台地の裾野を南流する大和川と合流し滝沢川となります。台地を削り深い谷を作る川で台地上では平岡と上宮地との境を流れ、その上流は櫛形山へと源流をたどることができます。今も平岡の集落から川沿いに上る道がありますが、しばらく上ると、窪地や湧水の地の利を活かしたいわゆる山村集落「高尾」の集落が現われ、その傍らには村人を見守るかのようにまさに神々しい空気に包まれる神社「穂見神社」があります。
 「穂見神社」。その名からは「稲穂を見る神」、つまりまさに豊穣を願った信仰の対象であったことが推察できますが、今回から次回へとわたり、山腹に佇む穂見神社の歴史をひもとくとともに、まるで深沢川の流れが紡ぐかのように、根方、原方、田方との関わりの中で成り立つ神社であることを紹介できればと思います。
 
A赤い鳥居 A森に囲まれ
【写真左】櫛形山の中腹、斜面に現れる赤い鳥居
【写真右】森に囲まれ、神々しい空気に包まれた穂見神社

 穂見神社は、櫛形山の中腹標高約870mに立地する高尾の集落の北西端に所在し、本殿と御正体が県の文化財に指定され、太太神楽と神楽殿、さらに御神木である大スギが南アルプス市の文化財に指定されています。夜祭やかつては一晩中舞われていた夜神楽で有名ですが、夜祭の概要については2009年11月13日号をご覧ください。今年もまた11月22日の夜には県内外を問わず多くの方が集まる夜祭が盛大に行われることでしょう。
 
Aかぐらでん Aおかぐら 
【写真左】夜祭の神楽殿と月
【写真右】神楽殿で舞われる夜神楽や狐が蒔く福餅が人気
 
 穂見神社は延喜式に登場する式内社で、平安時代に存在していたことは確実です。しかし、延喜式では巨摩郡の項目に取り上げられていますが現在の巨摩郡には穂見神社は複数存在しているため、どの穂見神社が延喜式に扱われた神社なのか、研究者間でも見解が分かれるところです。
 では高尾にある穂見神社(高尾山穂見神社)はどの時代まで遡ることができるのか、穂見神社の由緒について甲斐国志など江戸時代の終わりごろから明治時代にかけて作成された地誌類の記述からみてみましょう。
 
『甲斐国志』巻之六十七神社部十三

一 御崎明神高尾村 ~中略~白山権現・三躰王子大福王子・大寿命王子・大智徳王子ヲ配祀ス俗ニ文殊ト称ス懸鏡一面円径八寸六分中央ニ衣冠ノ神像ヲ刻ス左ノ方ニ三躰王子甲斐ノ国八田ノ御牧北鷹尾、右ノ方ニ天福元年太才癸巳十二月十五日、其ノ背ニ大勧進蓮華房弁慶ト刻セリ又古碑アリ享保十三年戊申七月洪水ノ時山岸崩レテ土中ヨリ出ヅト云フ其ノ形チ殺上豊下ニシテ上梢囲ミ一尺三寸五分、下梢一尺六寸二部、長サ一尺四寸五分正面ニ穂見ノ神社ト正書ヲ以テ刻セリ其ノ左ノ方ニ両三字アルガ如クナレドモ欠落チテ弁ジ難シ又其ノ左ニ文治三ノ字彷彿ト見エ益ミ左ニ智家方ノ三字ヲ鐫ス因リテ穂見ノ神社ナリト云フ十一月朔日ヲ以テ祭ル授福ノ神ト称シテ登拝ノ者多シ神主穂坂丹波口四男二女二

 甲斐国志以外の地誌類も大体これと同じ内容ですが、これに加え、『日本社寺明鑑』や『社記并由緒書(社記)』での記述も併せて考えてみると、江戸時代の終わりから明治時代には、高尾山穂見神社の由緒を示すものとして概ね次の資料の存在を根拠に挙げていたことが分かります。
 
(1)「懸鏡(御正躰)」
(2)「古碑」
(3)「棟札」

 これらは現在も南アルプス市内に残されており現存しています。地誌などで記載されたことはあったものの、最近では県の文化財に指定されている御正躰(みしょうたい)以外はあまり紹介されることはありませんでした。


(1)「懸鏡(御正躰)」
 昭和40年に「銅製懸仏(御正躰)」として県の文化財に指定されています。
 銅製の円形鏡で鏡径は26.4㎝、縁厚0.5㎝を測ります。磨かれた鏡面中央に、座った衣冠束帯姿の男神像が描かれており、男神像の左右に銘が陰刻されています。

A御正躰表 A御正躰裏
【写真】懸鏡(御正躰)(表・裏)
 
銘文は以下の通りです。
 ●
  右「三躰王子
   甲斐国八田御牧北鷹尾」
  左「天福元年大才癸巳十二月十五日」
 
 ●
  右「大勧進蓮幸房弁慶」
  左「大勧」(タガネでかき消されている)
  
  ほぼ甲斐国志の記述どおりといえます。
 「北鷹尾」とは、南アルプス市高尾のことを指し、これに対して富士川町(旧増穂町)平林地区にある氷室神社のあたりを「南鷹尾」と呼ばれていました。
 つまりこの御正体には、年号と穂見神社の所在地を示す地名とが揃っている点で貴重で、鎌倉期を示す天福元年(1233)の銘は、神像が描かれている御正体の中で年記を有するものでは全国的にみても現存最古であるといわれます(文化庁、山梨県教育委員会2006 『山梨県の文化財 -文化財集中地区特別調査報告二十三集』集中調査報告書)。「穂見神社」の名こそないものの、信仰の場であったことを物語る貴重な資料といえますし、また、八田牧の存在など南アルプス市にとって重要な情報が詰まったものともいえます。

 次に穂見神社と銘があるものを紹介します。
(2)「古碑」
 甲斐国志に享保13年(1727)の洪水の際に山岸が崩れて出土したとある、安山岩製の石棒状の資料で、櫛形町誌では「如法経塔」とされています。高さ(全長)46.1㎝、最大幅16.0㎝を測るもので。銘が陰刻されています。

A古碑 A古碑実測図
【写真左】古碑、【図右】 古碑の実測ならびに銘文部分の拓本

銘文は以下の通りです
 「穂見神社
 如法経
 文治三才
 智家方」


 この古碑には平安時代末期の文治3年(1187)とあり、御正躰よりも時代を遡ります。
 甲斐国志では「如法経」の三字が「欠落チテ弁ジ難シ」とされています、確かに「如法経文治三才」の文字は磨耗が激しく、平安末期の時代性を示している信憑性があります。しかし、残念ながら「穂見神社」の銘については字体ならびに文字の遺り具合に明らかな違いがあり、『櫛形町誌』にあるように後から追刻されたものの可能性は否めません。
 残念なことに現在の高尾の集落にはこの史料の出土地点や当時のことについて伝承されていませんので詳細はわかりません。穂見神社の名前は後から刻まれたもののようですが、12世紀末の資料が遺されていた点は重要といえます。
 また、「如法経」とは、この場所が修験者の修行にかかわる場であったこと、もしくは経塚の存在を示すものと考えられ、穂見神社の性格を考える上でとても興味深い資料です。
 文治3年の年号を持つものとしては他に古扉の残欠資料がありますが、書き直しなど後世に手が加えられた可能性があるので、より詳しく調査をすることで新たな事実が発見できるかもしれません。

 では、高尾に伝わるものの中で、後で書き足されたものではなく「穂見神社」の銘のみられる最も古い歴史的な資料は何でしょう。
 江戸時代まで時代が下りますが、現在県の指定となっている「穂見神社本殿」の指定の根拠となっている2枚の棟札があり、そこに穂見神社の名が記されています。
 この棟札をよく観察することで、ここにも南アルプス市の歴史をひもとくヒントがたくさん隠されていることがわかりました。
 この続き、棟札については次回お伝えしたいと思います。


 【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑧~市之瀬台地の「市之瀬」って?

 根方地域の中心的存在といえる「市之瀬台地」。台地上には「市之瀬川」という川が流れ、「上市之瀬」、「下市之瀬」という地名もありますが、そもそも「市之瀬」という名前にはどのような意味があるのでしょう。

 地名や物事の名称の由来には諸説あるものですが、ここでは、この地域の歩みから少し考えてみたいと思います。

 市之瀬台地はこれまでに幾度か紹介したとおり、櫛形山の裾に広がる平面形が扇の形をした台地で、扇の要にあたる部分は上市之瀬の集落の西端で、市之瀬川が山裾を開析した様子がよくみとめられ、この台地を形作る中心的な川であることがわかります。この市瀬川沿いに展開する集落のうち、上流側にあるのが「上市之瀬」、下流側にあるのが「下市之瀬」といえます。

市之瀬川と上市之瀬
【写真】市之瀬川と上市之瀬、下市之瀬の集落の範囲

 現在は区で呼ばれる「上市之瀬」、「下市之瀬」の集落は江戸時代にはそれぞれ「上市之瀬村」、「下市之瀬村」といい、さらにもともとは一つの村で「市之瀬村」といいます。検地帳からみた市之瀬村の変遷は櫛形町誌に集成されており(『第三編 町の歴史 第四章近世』、『第四編 人工と土地と水 第二章 土地』)、慶長6年(1601)には「一瀬新居村」とあり、万治元年(1658)までは一つの村として認識されていたことが分かり、寛文6年(1666)からは「市之瀬村上分」、「市之瀬村下分」のように村としては分村していないものの実質的に上下二つにわかれていた様子がみとめられ、享保9年(1724)には「上市之瀬村」、「下市之瀬村」と完全に分村していたことがわかります。

 また、地域の方にお話を伺うときに時折耳にするのが、「いちのせ」という名について、市之瀬川は暴れ川で、氾濫しては石や土砂を運んでくるため「石を乗せる川」→「石乗せ川」なまって「いちのせ川」となったといったお話で、この地域が市之瀬川の氾濫による水害に苦しめられてきた歴史がよく分かる逸話で大変興味深いものです。ただし、名称の由来としては多少強引さを否めません。

 市之瀬村の表記についてみてみると、明治期まで「市之瀬」や「一之瀬」、「一瀬」「一ノせ」などが混在して使われています。全国的にみて「いちのせ」という名称には「一之瀬」、「一瀬」という漢字を用いることの方が多く、通常その地域での「一番の瀬」という意味を表しているようです。

棟札にみる「一ノせ」の文字 棟札市ノ瀬のみ
【写真】高尾穂見神社の棟札にみる「市ノせ」の文字

 では市之瀬台地の場合はどうでしょう。市之瀬川は最初にお伝えしたとおり市之瀬台地を扇に例えたときに要の部分に流れている、市之瀬台地を形成する中心的な川といえ、まさに一番の瀬にふさわしい川といえます。
 一番の瀬というのには、大きさや水量、もしくは暴れ川であることなど、総合的にみて古くよりこの地域に一番影響を与える川であったことと推察されます。
山から流れ込む「市之瀬川」は台地をも開析し、市之瀬台地の下に広がる扇状地も形成してます。いったん暴れだしたら、上市之瀬や下市之瀬の集落だけでなく、台地上の多くの集落やさらに台地の下の「川上」「落合」などの多くの集落をも巻き込む水害となるのです。

上市之瀬の被害の様子
【写真】昭和34年の台風7号(伊勢湾台風)による上市之瀬の被害の様子(櫛形町発行閉町記念写真集「櫛形讃歌」より)

 まさに「一番の瀬」といえる「市ノ瀬川」。その歴史を物語る証拠が今も市之瀬川のほとりに見つけることができます。
 市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、上市之瀬の集落を抜けた左手に「県営砂防事業発祥之地」という石碑が現れ、川の対岸には歴史の厚みを感じさせる苔むした石積みを見ることができます。

「県営砂防事業発祥之地」の碑 下市之瀬の石堤
【写真左】「県営砂防事業発祥之地」の碑、【写真右】下市之瀬の石堤

 この石積みは市之瀬川の岸が削られるのを防ぐための石積み(護岸)で、この工事は山梨県の近代砂防工事の先駆けといえ、国の直轄による砂防工事が開始される前の明治14年(1881)に山梨県で初めての県単独事業として行ったものなのです。
山梨県で最初の護岸工事がこの市之瀬川であるということは当時の山梨県にとって市之瀬川が与える影響をいかに考慮していたかということが分かります。これら砂防の歴史や水害の歴史については2009年07月15日号で詳しく紹介しています。

 南アルプス市全体でみたときには砂防や治水といえば「御勅使川」の存在が大きいですが、櫛形山裾の地域で考えると、まさに「市之瀬川」あるいは市之瀬台地を削り流れる河川の数々といえ、これらの川といかに共存していくかにかかっているといえるのです。
 
 次回は同じく市之瀬台地を流れる河川である深沢川のずっと上流、根方地域からは離れてしまいますが、櫛形山中腹にある神社を通して川や山、そして根方地域や田方地域との関りについて考えてみたいと思います。
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑦~絶景の地に王は眠る~

 シリーズでお届けしている根方の魅力。山と里とを結ぶ根方地域一帯には歴史に裏付けられた魅力が満載です。
 前回までは7000年前の定住者や、祈りを込めたムラビトの様子など、縄文時代の根方のさまざまな一面を紹介してまいりました。
 市之瀬台地上には縄文時代後期の敷石住居や晩期、さらには弥生時代から古墳時代へと原始古代の暮らしのあとが数多く刻まれています。しかし、古墳時代後期以降しばらくの間ムラビトたちの暮らしの様子を知る手がかりは遺されていません。
 市内では、古墳時代後期には根方地域ではなく低地(原方や田方)でのみムラ跡が発見されているのです。ただし、その反面、実は根方にはムラではなく古墳が多く遺されているのです。特に見晴らしの良い市之瀬台地は古墳の宝庫なのです。
 本シリーズの始めに、扇形をした市之瀬台地には放射状に流路が流れ、谷を開析し、あたかも指を広げた手のような地形をしていると紹介しました(2011年1月13日号はこちら)。
 そのたとえを借りるならば、なんとその全ての指先に古墳が築かれているのです。
市之瀬台地のイメージ【写真】市之瀬台地のイメージ 
A市之瀬台地周辺の古墳【写真】市之瀬台地周辺の古墳

 訪れることができる保存状態の良いものだけを選んでも、北から御崎古墳(御崎神社の裏の林)、無名墳(伝嗣院の東、石造大日如来坐像の鎮座するたかまり)、六科丘古墳(市指定史跡・あやめが丘住宅地内の古墳公園)、物見塚古墳(県指定史跡)、熊野神社古墳(秋山熊野神社裏のたかまり)と挙げることができます。低地に広がるムラを見守る位置に王様は眠っているのです。

A無名墳 
【写真】無名墳

 かつての伝嗣院の境内にある無名墳の上には市指定文化財「石造大日如来坐像」が鎮座している。

A六科丘古墳
【写真】六科丘古墳(市指定史跡)

 あやめが丘の新興住宅街の開発字に発掘調査が行われた六科丘遺跡の一角にある円墳で現在は古墳公園として整備されている。

まずは中指の物見塚
 最も長い中指にあたる、一番甲府盆地に突き出している舌状台地は中野・上野地区にあります。この地に南アルプス市でもっとも古い古墳のひとつ「物見塚古墳」が築かれています。

A物見塚 
【写真】物見塚古墳

物見塚古墳の航空写真 
【写真】物見塚古墳の航空写真

 台地の縁辺部の地形に沿って築かれている前方公円墳の形がよくわかる。

児童手描きの説明板 
【写真】児童手描きの説明板

 櫛形西小学校の児童が地域の歴史を学んだ1年間の成果として、文化財課と連携して手描きの説明板を作成しました。

 物見塚古墳はかつて「銭塚」などとも呼ばれ江戸時代から知られていた古墳で、現存する唯一の前方後円墳で、4世紀末ごろのものとみられます。
 前方後円墳はどの豪族でも造れるものではなく、ヤマト王権にみとめられた者のみが造ることが許されたといわれます。つまり、南アルプス市の古代のクニはヤマト政権に属していたことがわかります。

 物見塚古墳は台地の先端、やや下った眺望の良い場所に築かれ、もともとは表面に葺石が施されており崩れにくく、また、遠めでも目立つ造りだったようです。明治期以降、開墾が促進されていく中で、古墳の一部も崩され、葺石の石は剥がされ畑の石積みへと転用されてしまいます。そのため、今では古墳の表面に地崩れが起きてしまい、緊急措置として取り急ぎ土嚢が置かれていますが、一刻も早い古墳整備とそのための調査が必要といえるでしょう。
 昭和54年には古墳のすぐ脇に農道工事が計画されたことから古墳の範囲確認調査が行われ、鉄剣や刀が出土しています。また、それよりさかのぼった江戸時代には「捩文鏡」といって4世紀代を示す銅鏡も出土したとされ、昭和18年の文献に写真で紹介されていますが、その時すでに現物は行方不明となっており、現在にいたっているのです。
 
 物見塚古墳のある、市之瀬川と堰野川に挟まれた舌状台地には古墳やそのほかの史跡が点在し歴史の散歩道として最適です。小学校の授業でもよく訪れるコースの一例を紹介しましょう。
 まずは別名「椿城」で知られる上野城跡から始まり、台地の最も高い場所には物見塚古墳の後の首長の墓とみられる上ノ東古墳があります。5世紀代とみられ、硬玉製の勾玉(まがたま)が出土しています。さらには物見塚古墳よりも下ったところには後期古墳の塚原上村古墳(つかはらわでむらこふん)がり、横穴石室が口を開けています。この一帯は「塚原」という地名で、かねてより塚(=古墳)が多かったことを示す地名といえます。
上ノ東古墳出土勾玉写真】上ノ東古墳出土勾玉

塚原上村古墳【写真】塚原上村古墳
 

物見塚古墳の前にウシが
 昨年冬より、物見塚古墳の前にウシさんが現れました。NPO法人南アルプスファームフィールドトリップによる遊休農地解消事業として実施されているもので、古墳群をめぐる小道の周りにある農地の草を食べてもらい環境を整備しようという取り組みなのです。
 このNPO法人はかねてより文化財課と連携しながら、観光農園の方が果物狩りのお客様をお連れして史跡などを案内できるようにするガイドの養成や、われわれが行う史跡めぐりに協力していただくなど様々な先進的な事業を実施している団体です。
 3月末には原子力発電所の事故で知られる福島県飯館村のウシ2頭もこの取り組みに加わりましたが、現在はこのウシさんたちは他の農場へ移動しています。また10月頃より同じウシかもしくはヒツジなど子供たちが喜びそうな動物たちが再び古墳の周りをきれいにしてくれる予定です。その頃には古墳と動物に触れる史跡めぐりツアーも予定しています(詳細はこれからです)。
 
ウシ 
【写真】物見塚古墳の目の前の畑で草を食べるウシさんたち
 
古墳をめぐる
 これら根方に広がる古墳群を巡るコースは「遺跡で散歩」シリーズのガイドマップvol2「眺望の大遺跡群 市之瀬台地を歩く」でも紹介しており、マップを片手に歩いてみてはいかがでしょうか?椿城跡など様々な歴史の足跡を辿りながら、王様目線で眺望を楽しめます。
 
物見塚古墳の前を歩く児童たち 
【写真】物見塚古墳の前を歩く児童たち

 このコースは小学校6年生の授業でも多く活用されています。

案内板 
【写真】児童手描きの案内板

 コースの途中にも児童による手描きのかわいらしい案内板があるので、散策をしながらほほえましい気分にさせてもらえます。

 
 今回も根方の魅力を紹介しましたが、山と里を結ぶこの一帯には歴史に裏付けられた魅力が満載なのです。次回も引き続き根方の魅力を紹介します。

 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半)

 前回から紹介している北原C遺跡。
 曲輪田の台地裾に立地するこの遺跡は、集落のほんの一部を調査したにすぎませんが、南アルプス市で初めての発見も相次ぎました。出土した資料を観察すると、これまで他の遺跡から出土した資料にみられるものと違った神秘的な、そして縄文人の世界観・造形美を感じ取れるようなものが多くみられました。その特徴的なものをいくつか紹介しましょう。

縄文人の造形美~水煙把手付土器~
A写真1 水煙把手付土器 A写真2 同出土状況
【写真左=水煙把手付土器】【写真右=同出土状況】

 約4200~4300年前、曽利式期(前号で黄色で示した住居跡の時代)を代表する土器で、豪華で流線的なラインの把手のつくりが水煙を彷彿(ほうふつ)させることから水煙把手付土器と名づけられています。新潟県方面に特徴的な「火炎土器」に対して「水煙土器」とも呼ばれる土器で、北原C遺跡の縄文人の造形美を表現している大変貴重な資料です。
 この土器は地面に据えるように埋められていました。一部が破損していますが、ほぼ全体がそろった例はまれで大変貴重です。

A写真3A写真4 同出土状況  
 これも水煙把手といわれる土器のひとつで、他の土器や大きな石に覆われた状態で出土しました。

土器の特徴から時代が分かる
 北原C遺跡からは、以上紹介した土器以外にも造形的に大変美しい土器が出土しています。これらのように土器に描かれる文様は考古学的に大変貴重な手がかりといえます。それは縄文土器の文様や装飾には地域と時代とで流行があり、比較検討する重要な要素となるからです。色々な地方の流行が混じった土器もあったりして、当時の文化交流の様子を伺うこともできるのです。

縄文人の感性
A写真5 土偶や把手の数々 
【写真=土偶や把手の数々】

 北原C遺跡からは土偶やヒト、動物の姿をあらわした土器の把手が多数出土しています。土偶は女性を表現し、命や出産をあらわしたものが多く、また、ヘビは男性のシンボルを表しているとも解釈され、子孫繁栄を祈ったものといわれています。

 A写真6 顔面把手 A写真7 動物形土製品 A写真8

【写真左=顔面把手】【写真中央=動物形土製品】

 北原C遺跡の土器を良く観察すると、土器の傍らにヒト(土偶・女神?)や動物をかたどった文様があり(左写真・中写真)、土器の口縁に向かってはい上がる蛇の姿(右写真)や、3本指の手など、人間とは区別されたものが描かれているのが分かります。

生命の誕生

A写真9

A写真10 

 こちらの土器は非常に珍しく、天を向いた4匹のカエルと、カエルに乗ってトグロを巻いているヘビが装飾されているように見えます。
 カエルやヘビをそれぞれ描いた土器はありますが、このようなセットでの装飾は非常に珍しく、男女のセットで描かれるこの文様からは、生命や生命の誕生への思いが込められていると考えられます。

ミニチュア土器
A写真11   高さ約4㎝の小さな土器ですが、しっかりとしたつくりにきちんと文様が描かれていました。内側をのぞくと赤く着色されているように見えます。青森県などからはこのような小さな土器に赤色顔料が入ったままの状態で出土した例もあり、この土器も顔料が詰まっていた、いわば絵の具入れだったのかもしれません。この頃の土器や土偶には表面を赤く塗ったものもみられ、この赤という色からも、マジカルで神秘的な雰囲気が強く感じられます。

木の実の土鈴
A写真12A写真13 X線写真  
【写真右=X線写真】

 木の実のような姿をした直径4Cmにも満たない土鈴です。レントゲンで中身を調べると小石が入っていることがわかりました(右写真)。実用の鈴というよりは森の恵みや生命への祈りの道具として作られたとみられます。

 北原C遺跡から出土した資料のうちのほんの一部を紹介しましたが、このように日常の道具とは違った珍しい資料が多く出土しているのです。出土資料には動物や植物などの「かたち」を通して、「生命」を表現したような神秘的なものが多く、「祈り」や「思い」といった精神世界が色濃く表れているのが最大の特徴です。
 今よりも、自然と密接に関わりあいながら生きてきた縄文人たちは、きっと自然を恐れ、翻弄(ほんろう)されながらも上手に付き合い、そして「自然」の恵みに感謝しながら、「自然」に祈り、豊かにそして力強く暮らしてきたことでしょう。
 北原C遺跡の縄文人たちが創り出した「かたち」からは自然と上手に共生して暮らそうとしていた「思い」が伺えます。
 まさに、現代を生きる私たちへのメッセージのようにも思えるのです。 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半)

 前号でお伝えしたように「根方」は眺望のポイントや花の名所、名刹など見所が満載です。そしてそれらの見所が揃う根方は太古より続く歴史の厚みに裏付けられた魅力ある地域といえるのです。
 以前に紹介したとおり、2万年以上さかのぼる南アルプス市最初の落し物も、7000年ほど前の最初の定住生活の跡も根方で発見されているのです。

 山梨県でよく語り継がれている伝承に、甲府盆地がかつては湖だったという「湖水伝説」があります。実際には甲府盆地の真ん中でも縄文時代からの遺跡が見つかっていますから、決して湖だったということはないのですが、水がよく氾濫していた地域だということは言えるようです。
 それらの伝承同様、かつては南アルプス市でも縄文時代などの古い段階の遺跡は台地上にあると考えられていました。
 しかし昭和61年の発掘調査を皮切りに台地下での縄文人の暮らしが見えてきたのです。

世界に誇る「根方」の縄文文化

 以前にも紹介しましたが(2006年8月1日号「世界を旅する南ア市の縄文文化」2006年8月15日号「土器に希少価値と高い芸術性 顔やしぐさに縄文人の感性」などを参照)下市之瀬地区に計画された櫛形地区拠点工業団地造成工事に伴う発掘調査で、その後日本縄文文化を代表することとなる遺跡「鋳物師屋遺跡」(〆木遺跡を含む)の全容が明らかとなり、台地の下にほぼ完全な姿で縄文時代中期(約5000年前)の集落が発見されたのです。

写真1 写真2 【写真左=鋳物師屋遺跡出土円錐形土偶(えんすいけいどぐう)(国指定重要文化財)、写真右=鋳物師屋遺跡出土人体文様付有孔鍔付土器(じんたいもんようつきゆうこうつばつきどき)(国指定重要文化財)】

 これらの資料はイギリス大英博物館など世界中で紹介され、山梨はもちろんのこと、日本縄文文化を代表する面々といえるのです。

 この鋳物師屋遺跡の存在により、市之瀬台地の裾野から扇状地にかけても縄文時代の集落が存在することが改めて認識され、この頃から調査事例が増加していき、縄文時代はまさに「根方」を象徴する時代のひとつとなったのです。
 中でも鋳物師屋遺跡に次ぐ縄文の遺跡といえば曲輪田地区にある「北原C遺跡」を挙げることができます。
北原C遺跡の調査では数々の新しい発見があり、一種独特の世界観を伺うことができました。

縄文時代中期の大集落「北原C遺跡」

写真3の2軽
【写真=北原C遺跡遠景(東から)オレンジが遺跡の位置】

写真4軽
【写真=北原C遺跡航空写真(南から) 道路敷設範囲のみ発掘調査が行われた】

 北原C遺跡は、市之瀬台地北端の裾下、南アルプス市曲輪田に所在します。標高約320~330mで、高室川、大和川とに挟まれた扇状地に立地します。

 平成11年7月から発掘調査を開始し、約3ヶ月間の調査は1200㎡に及び、大量の土器や石器と、竪穴式住居址の数々、そしてこれまで南アルプス市域ではわからなかった新しい発見がありました。

環状に並ぶ住居

 北原C遺跡からは18軒以上の竪穴式住居の跡や90基の土坑(直径約1m程の穴)、土器や石器が5万点以上も発見されました。
 あくまでも道路工事によって遺跡が破壊される範囲だけを発掘調査するため、北原C遺跡の縄文集落はもっと周辺に広がっているものと考えられ、調査の様子からこの時代に特徴的な、中央に広場的空間をもつ環状(ドーナツ状)集落と呼ばれる集落の形態を示していることがわかりました。
 発見された住居址などの位置は下の図や写真のとおりで、住居址ごとの遺物を詳しく調べると、おおむね縄文時代中期後半(今から約4000~4500年前)という時代に営まれた集落であったことが判明しましたが、その中でもおおよそ3つの時期に区分できました(赤が一番古く→青→黄色と続き、今から約4500年~4000年程前)。

図1遺構配置図 【図1=調査区および遺構配置図】

写真5の1軽 写真5の2軽 写真5の3新軽 【写真=北原C遺跡航空写真(真上から、西が上)。無数にある穴が竪穴住居やその中にある柱穴を示して、中央右寄りに住居址のない空間が確認できる(左端)。図1と同じく時期ごとに区分(中央)。調査区外にも環状に集落は広がっていたとみられる】

 台地の裾近くといえども扇状地という立地のため大量の礫の中をかきわけ、現れた縄文集落の姿は他の集落に比べ、独特の性格が見えてきました。
 調査の様子からは北原C縄文人の自然に対する畏怖や祈り、また恵みに対する感謝など、自然とともに生きた縄文人たちのさまざまな精神世界、神秘的な世界を垣間見ることができたのです。
 では、その神秘的な世界とは一体どのようなものだったのでしょう?次回、出土遺物からみえる北原C遺跡の性格についてお伝えしましょう。


[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力④~根方を彩る春の風景

 この2ヶ月間、震災後の目まぐるしい社会変化に追われる中で、いつの間にか春が過ぎ日々暖かくなってきました。
 この間、根方には未来への希望を表すかのように美しい花が咲き誇り、市之瀬台地の縁辺には甲府盆地を縁取るようにスモモ、サクラ、モモとピンクのグラデーションで彩られ、今では小さな実が膨らみつつあります。
 台地の斜面地には果樹畑が広がり、花びら越しに眺める台地からの風景や、低地から見上げる色鮮やかな風景のどちらにも目を奪われました。

 今回は歴史からいったん離れ、本来ならば先月紹介する予定だった、春先に見せてくれた市之瀬台地の花のある風景を紹介しましょう。

 台地を縁取る果樹の風景は2月のウメの花に始まり、少し間を空けて3月末から4月上旬にかけてスモモ、サクラ、モモと例年よりも長く花の色を楽しむことができました。
 市之瀬台地の縁辺部はその斜面を利用して段々畑が広がっています。南端には全国一のスモモの生産地帯として知られる落合地区がスモモの白い花で縁取られ、北は曲輪田・上宮地のモモの花で縁取られます。

A写真1スモモ  
【写真=台地の裾野を縁取るスモモの花】

 また、台地の上へ目を向けると、歴史の厚みに裏付けられたサクラの名所があります。もちろんたくさんの見どころがあるのですが、そのうちのいくつかを写真とともに振り返って紹介しましょう(写真は今年だけでなく近年の写真を交えて紹介します)。


上市之瀬のイトザクラ

A写真2 上市之瀬イトザクラ 色濃い 
【写真=上市之瀬のイトザクラ】
 市之瀬台地の最も標高の高い位置、上市之瀬集落の北で甲府盆地全体を一望できる場所に八幡神社があります。八幡神社の境内にはイトザクラがあり、通称シダレザクラとも呼ばれるこのサクラは市の天然記念物に指定されています。目通り幹囲3.6m、樹高は10.0mで、四方に広がり枝垂れる姿はとても優美な雰囲気を漂わせています。以前は、さらに大きな主枝があり、より雄大な姿を見せていたということですが、落雷等により一部が破損したようです。詳細は不明ですが一説には樹齢200年ともいわれていますから江戸時代から上市之瀬の集落、そして市之瀬台地を見守ってきたサクラといえます。
古刹のサクラ

 市之瀬台地には、中世以前から台地周辺の地域を二分して勢力を誇った古刹が2箇寺あります。ひとつは日蓮宗の妙了寺で、もうひとつは曹洞宗の伝嗣院です。櫛形地域の寺院のほとんどが、かつてはこの2箇寺の末寺であったことからもその伝統の厚みが伺えます。これらの寺院についても魅力的なエピソードが多く残されていますが、詳しくはまた別の回で紹介いたします。

妙了寺のシダレザクラ

A写真3 妙了寺2 A写真4観音様
【写真左=菜の花とサクラ、写真右=観音様とサクラの風景】

 妙了寺はシダレザクラが有名で、例年大勢の花見客でにぎわいます。境内には他にエドヒガンやソメイヨシノもあり、また入口近くに植え込まれている菜の花とのコントラストも素晴らしく、春の到来を感じることができる風景に囲まれています。

伝嗣院とその周辺

A写真5伝嗣院 大きなサクラ A写真6旅姿地蔵 サクラ
【写真左=伝嗣院境内のサクラ、写真右=お地蔵さまとサクラ】 

 庫裏の前に咲く2本のサクラも見事で、時間差で満開を迎えるため長く花を楽しむことができます。また、境内には多くのサクラがあり、旅姿のお地蔵さまの頭上にはサクラが、背景にはモモの花が色を添えます。

写真7伝嗣院 石造物上のサクラ 
【写真=伝嗣院の外にも見所が点在】

 伝嗣院の周辺には多くの石造物があり、その頭上にも大きなサクラの木が傘のように枝を伸ばします。富士山も眺められる景観の良い場所に立地していることがわかります。

 市之瀬台地の周辺には、今回紹介した場所以外にも花を楽しむことのできるスポットが数多くあります。散歩しながら、眼下に甲府盆地の眺望と、色鮮やかな花の両方を楽しむことができるのです。
 季節は移ろい根方の風景は新緑から緑濃い景色へと変わりつつあります。市之瀬台地の周辺がモモやスモモの実で彩られる風景に出会えるのもそう遠くないことでしょう。


【解説】動植物など生き物の名称は、標準和名としてはカタカナで表記することとなっていますので、学術的な場合や指定文化財の名称などは原則的にカタカナ表記としています。

[南アルプス市教育委員会文化財課]