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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活

 前回に引き続き、ほたるみ館の北側にある西地区多目的広場の建設に伴って行われた長田口遺跡、中畑遺跡の発掘調査成果から、南アルプス市で最初に定住した人々の暮らしぶりについてご紹介します。
 市之瀬台地の上、深沢川と漆川とに挟まれた舌状台地上にある「ほたるみ館」の周辺では、これまでに農道などの建設に伴って数回の発掘調査が行われており、さまざまな調査成果が蓄積され、私たちの祖先の暮らしぶりが解明されてきました。

A台地上遺跡写真 
【写真=中畑遺跡周辺の発掘調査実施箇所】

 ほたるみ館と広域農道、さらに西地区多目的広場の駐車場部分が「長田口遺跡」と呼ばれている遺跡に該当します。また、グラウンドの辺りは「中畑遺跡」と呼ばれる遺跡に該当し、この遺跡の発掘調査はこのケースが初めてとなりました。

 前回紹介したとおり、この調査のうち中畑遺跡にあたる範囲で、南アルプス市に約7000年前に集落が存在していたことが初めて判明しました。
 さらに、この調査によって約7000年前の人々の暮らしぶりを垣間見ることができたのです。

 住居とみられる建物跡の中からは当時使用されていた縄文土器の破片が出土しました。この縄文土器は鍋として使われた調理具で、現在の私たちが食べる土鍋の文化は縄文時代に始まる文化といえます。

 この時代の縄文土器の底は丸く、安定していないために、炉(囲炉裏のこと)に据えることのできないものでした。鍋として使うのは難しいのではないかと炉を丹念に調べると、炉に穴が掘られていたことが分かり土器の底を穴に挿して安定させていたことが分かりました。

A縄文時代前期の丸底の土器 
【写真=縄文時代前期の丸底の土器(底部のみの破片)】

 また、土器を詳細に観察すると口縁部(土器の縁の部分)の形や表面の文様に特徴があり、現在でいう長野県伊那地域を中心に展開する「中越式」という土器の特徴を持っていることが分かりました。さらに、これまでの周辺地域での調査事例から、約7000年前の伊那の文化が、天竜川を遡り、高遠や諏訪を経て白州(現北杜市)などから南アルプス市へと伝わってきたことが分かったのです。

 また、住居の内部では床に長さ50㎝ほどの平らなすべすべした石を1軒につき2~3個据え置き、作業台として使っていたことも分かりました。こういった石を据え置いたことからも、ある程度長い期間暮らしていたことが想定されます。
 また、石皿といって木の実などをすり潰すために中央部分が深く掘りくぼめられた石の道具も、これまでは約5,000年前に発明されたといわれていましたが、最近では7000年前には既に存在したことが判明しており、この調査でも裏付けられました。

A竪穴住居内

【写真=竪穴住居の中の様子】
住居跡には焼けた木材や土器片、作業用の石などが出土しました。


 石器の材料でもある黒曜石も大量に出土し、科学的な調査により原産地が判明しています。黒曜石は産出する場所が限定されるのですが、中畑遺跡の縄文時代前期の住居跡から出土した黒曜石は、長野県の諏訪湖周辺から和田峠に分布するあらゆる産地から入手していたことが分かりました。

A黒曜石 
【写真=住居跡から出土した黒曜石のかたまり】
この塊から細かい破片をいくつも割り出して石器を作る材料としました。

 また、何を食べていたのかを知るヒントも発見できました。この時代の住居跡からは直径1㎝にも満たない炭化した種子状のものがいくつか出土しています。炭化した種子も科学的な調査により種類を同定することができます。調査の結果、種子ではなく、球根状のものであることが分かりました。現在の技術では細かい種類までは特定できませんが、ノビルやユリネなどであったと考えられます。

 7000年前の人々が食べたものにまで出会えるなんて、遺跡の発掘調査はまるでタイムマシンに乗っているようですね。
 このように南アルプス市で最も古い時代の人々の暮らしぶりをいろいろと教えてくれたこの遺跡も「根方」地域にあるのです。
 きっと日当たりも良く、川や森も近いので飲食にも苦労しないという暮らしやすい条件に恵まれていたことでしょう。安定したこの台地上にまず生活の拠点を求めた様子が伺えます。

 根方にはありとあらゆる時代の情報がそろっていて、まさに南アルプス市の魅力ある歴史が凝縮された地域なのです。
 根方の魅力、まだまだ続きますよ。

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

被災者の方々にお見舞い申し上げます

 今年に入り特集として取り上げている根方地域。南アルプス市の山方、根方といった地形の変化はその地域独特の文化を育んできました。ただしこの変化は糸魚川静岡構造線という多重に発達した活断層の活動によるものでもあり、このたびの東日本大震災で改めて活断層が引き起こす自然の猛威について考えさせられることとなりました。
 まず真っ先に、この度の大震災で被災されたすべての方々に心よりお見舞い申し上げ、お亡くなりになられました方々のご冥福をお祈りいたします。

 おことわり 都合により連載は休みました。

 [南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者

【2万年前の落とし物】
 今回は歴史をずっと遡って、南アルプス市で最初に暮らした人々について紹介します。実はこの連載の始まった当初の②と③で「2万年前の落とし物」「市之瀬台地を駆けた狩人」と題して、縄文土器が使われるずっと前、旧石器時代と呼ばれる時代にすでに南アルプス市では人々が活動していたことをお伝えしました。今回はその物語の続きとして、初めてムラ(集落)をつくって定住した人たちについて紹介します。

 前回、「根方」地域は昔からの風習や伝統が色濃く残る地域だということをお伝えしましたが、実は昔も昔、なんと南アルプス市で最古の人々の活動の痕跡や、定住者たちが最初に構えたムラがあるのも根方の地域なのです。つまり、南アルプス市民の歴史は根方に始まるのです

 以前に紹介した通り、南アルプス市で最も古い落とし物はおよそ2万5千年前の人が使用していた石器です。ナイフ形石器と呼ばれる石器や槍(やり)先につける尖頭器などで、実は昨年も、さらに1点新たに発見されたのですが、これもまた根方の遺跡でした。

南アルプス市内で見つかった石器 
【写真1】根方で発見された旧石器

 なぜ「落とし物」なのか-。まだ土器をつくる技術がなかった旧石器時代は、全国的にも定住生活が始まっていないとされ、狩りを中心とした移動生活でした。そのため長期的な居住施設はなく、居住の痕跡が地面に残りにくいため遺跡の発掘調査でも発見されることは非常に稀(まれ)です。
 南アルプス市でも旧石器時代の居住施設は発見されていません。おそらくこれらの石器も、旧石器人たちが狩りや移動の際に落とした物か、動物に刺さったまま逃げられたために回収できなかったなど、旧石器人の活動に伴って落とされたものだと考えられます。
 落とし物が発見された場所は市之瀬台地上の上ノ山遺跡(上野)と六科丘遺跡(あやめが丘)、市之瀬台地の下の鋳物師屋遺跡(下市之瀬)。去年新たに発見されたのは台地の裾野にある曽根遺跡(上宮地)で、いずれも市之瀬台地周辺の根方の地域なのです。

【中畑遺跡の新発見】
 時を経て、縄文時代になると調理器具(鍋)である縄文土器が使用されることから分かるように、ある程度の期間を同じ建物に暮らす「定住」と呼べる生活へと変化してゆきます(定住の期間は研究者によって見解が異なります)。
 遺跡の調査では、定住の施設とみられる竪穴建物などの住居跡が複数集まって発見されると、ムラ跡(集落跡)とみなすことができます。
 南アルプス市では、根方地域において、旧石器時代以降、土器が使われるようになった1万5000年ほど前の縄文時代草創期や、約8000年前の縄文時代早期など連綿と人々が活動していたことが、縄文土器片の発見から分かっています。そして、いよいよ約7000年前、縄文時代の前期前半という時代に、南アルプス市で最初の定住者、そしてムラが現れるのです(これまでの調査により判明している範囲内でのことであり、今後新たな発見があるかもしれません)。

A写真2 住居跡 
【写真】2】縄文時代前期前半の住居跡

 市之瀬台地の上、平岡区の西地区多目的広場の建設に伴って行われた中畑遺跡(と一部隣接する長田口遺跡にまたがる)の発掘調査で、約7000年前の竪穴建物14軒が発見されています。
 平成14年、西地区多目的広場を建設する際に発掘調査が実施され、約6000平方メートルを調査し、縄文時代前期をはじめ約5000年前の縄文時代中期や約3000年前の縄文時代後期、弥生時代、古墳時代など、さまざまな時代にまたがって約70軒の住居跡が発見されるなど、連綿と人々の暮らしが営まれていたことが分かったのです。

A写真3 中畑航空6 
【写真3】中畑遺跡の航空写真

 この発掘調査が行われるまでこの遺跡に7000年前のムラがあるとは想定しておらず、南アルプス市にとって新たな発見でした。調査区の外にもムラの範囲は広がるとみられ、調査では食料とみられる植物の発見や、長野県の文化を取り入れていたことなど、さまざまなことが解明されました。
 これら中畑遺跡が教えてくれた、南アルプス市最初の定住者たちの暮らし振りについては次回紹介しましょう。根方の地域から私たちの遠い祖先の物語が始まるのです。

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

「根方」の魅力①~その物語を始める前に~

本連載も2011年のスタートです。
これまで以上に南アルプス市の魅力を、思いをこめて楽しく紹介していけるよう精進していきたいと思います。本年もよろしくお付き合いのほど、お願い申し上げます。

 前回までは主に御勅使川によって造りだされた扇状地や、扇状地で暮らすための知恵、その歩みについて紹介してきました。
 以前にも触れましたが、南アルプス市ではかねてより扇状地一帯のことを別名「原方」と呼んできました。同じように山間部のことを「山方」、山の裾野の一帯を「根方」、氾濫源である水田地帯を「田方」と呼んできました。最近ではこの呼び方があったことさえも忘れられつつあるようですが、南アルプス市周辺地域の地形的な環境の違い、そしてその環境と風土ごとに特徴ある暮らしや文化が育まれてきたことを物語る大切なこの地域特有の呼称だと思います。

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【写真】 南アルプス市の地形区分の概要

 2011年はこれらの中から「根方」に注目し、根方の暮らしやその歩みについて何回かにわたって紹介していきたいと思います。

 「根方」とはその名が示す通り山の根っこの地域を示し、地元ではよく「山つき」と呼んだりもします。地形でいうと山地の裾野一帯や台地、台地の縁辺部と呼ばれる傾斜地などで、山地と低地のちょうど中間の辺りを指します。
 
 根方の中心的な存在が櫛形地域から甲西地域へと広がる市之瀬台地です。市之瀬台地は上市之瀬区の横沢地区にある、かつての櫛形レジャーセンターが建つ辺りを扇の要とみたてると、北は曲輪田地区の大和川によって区切られ、南は秋山地区の秋山川によって区切られるまでの南北4㎞、東は扇状地との境界、比高差約100mもの急な崖や台地斜面部までの東西2.5㎞にも広がり、平面形が扇のような形状をしています。台地の上は標高が500~400mあります。扇状地の標高は市役所のある小笠原付近で標高約290m、台地際の山寺区付近で約320mですからまさに高台といえ、台地の東縁から眺める甲府盆地の景色は絶景です。

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【写真】 市之瀬台地を東南方向から望む

 櫛形山の東斜面を流れる幾筋もの河川は市之瀬台地を削り込みながら低地部へと流れ出ます。幾つもの河川によって運ばれた土砂は台地の裾下に重なるようにたまり、台地の下には扇状地が重なり合いながら造りだされた複合扇状地という地形が形成されます。
 市之瀬台地には北から高室川、塩沢川、深沢川、漆川、市之瀬川、堰野川など東西に流れる幾筋もの河川によって削られることによって深い谷ができ、その谷に挟まれた東西に長い舌状台地が放射状にならんでいます。あたかも指を開いた手のような形といえば分かりやすいでしょうか。

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【写真】 市之瀬台地のイメージ 
幾筋もの舌状台地が指のように並び、甲府盆地にせり出しています。

起伏に富み日当たりも良く、水にも恵まれたこの台地を詳しく見ると色々な足跡に出会うことができて、魅力にあふれた土地であることに気づきます。
 春先、低地から根方一帯を眺めるとサクラやモモ、スモモの花が咲き乱れ、甲府盆地が華やかな色で縁どられる景観に出会えます。特に、妙了寺や伝嗣院などの古刹(こさつ)の桜は見事です。また、遺跡が集中することで、太古から暮らしやすい環境だったことも分かります。この記事が配信される頃にはちょうど小正月の行事が各地で行われると思いますが、根方地域周辺は獅子舞やどんど焼き、道祖神のお飾りなど昔からの伝統が色濃く伝えられている地域だといえます。
以上述べてきたように、南アルプス市の中では昔ながらの「良さ」がしっかり残っているこの「根方」地域、いよいよ次回からはそんな「根方」の魅力を様々な角度から少しずつ紹介していきたいと思います。

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【写真】 どんど焼きの点火とともに道祖神に奉納される下市之瀬の獅子舞

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地の物語 ~扇状地で培われた西郡魂~

 これまで6回に渡り、扇状地の成り立ちや人々のくらし、信仰などを紹介してきました。私たちの足元には、様々な物語や歴史がまだまだ眠っていますが、今回は明治時代から現代まで続く扇状地の歴史を俯瞰することで、一度物語の区切りにしたいと思います。

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【写真・左】飯野専売支所跡石柱
【写真・右】大正時代の商家。「たばこ」の文字が見えます(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)


 江戸時代から明治時代に入り、明治30年(1897)、飯野に県内唯一の集積場となる煙草の専売支局が作られると、付近では煙草栽培が一層盛んになり、国道52線沿いには煙草を貯蔵する倉庫町が形成されました。煙草を栽培する農家のほかにも、刻(きざみ)煙草を生産する加工業者が乱立し、その数は100社前後あったとも言われています。しかし、明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達のため政府が煙草専売法を実施し、煙草の生産から販売までが国営事業化されると、市内の煙草産業は急速に衰退しました。変わりに養蚕が主要産業となり煙草畑から桑畑に転作され、扇状地の景観が一変します。その一方で、西野村ではいち早く果樹栽培に取り組む人々も現れ、現在のフルーツ王国の嚆矢(こうし)となりました。その後輸出産業の花形であった養蚕業も、昭和5年に起きた昭和恐慌時の生糸価格の暴落を機に衰退し、現在の主要産業である果樹への転換が図られました。

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【写真・左】倉庫町にあった製糸場 大正初期(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)
【写真・右】製紙工場 大正~昭和初期(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)

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【写真】ロタコの滑走路跡(飯野)

 第2次世界大戦末期には、乾燥した広大な土地が陸軍から飛行場の適地と判断され、暗号名で「ロタコ」(御勅使河原飛行場)と呼ばれる秘匿飛行場の建設が昭和19年(1944)に始まりました。ロタコ建設も乾燥した扇状地であるがゆえ歴史に刻まれた1ページです。

 戦後の昭和35年(1960)、駒場に御勅使川の伏流水を水源とする駒場浄水場が建設され、扇状地に暮らす人々の悲願であった飲料水の問題がほぼ解消されました。昭和41年(1966年)には釜無川右岸土地改良事業が着手され、徳島堰のコンクリート化によって安定した水量が確保されるとともに、その水を利用したスプリンクラーが扇状地全体に張り巡らされ、扇状地全体の灌漑(かんがい)化も一気に進むことになります。現在ではスプリンクラーを通じ、散水された徳島堰の水が、サクランボやスモモ、モモ、ブドウといった南アルプス市を代表するフルーツを育んでいます。

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【写真・左】昭和30年代の徳島堰と桑畑
【写真・右】昭和31年、野呂川上水道起工式に参列した地域の人々(『夢 21世紀への伝言』 白根町より)


 これまで見てきたように、先人たちは「お月夜でも焼ける」といわれるほど極度に乾燥した扇状地を舞台に、古くから海岸地域とも交流し、麦や雑穀などの畑作物を作りながら、遠方から水路を引いて一部では水田を営み、さらに畑作物の生活を補うため外の広い世界に糧を求め作物を野売りし、過酷な環境を生き抜いてきたのです。先進的な技術を取り入れながら活路を見出す西郡の人々の開拓者精神は、「西郡魂(にしごおりだましい)」と呼ばれます。この「西郡魂」の物語は、産業・経済の低迷や少子高齢化、農家の後継者不足など多くの問題に直面する現代でこそ、語り継がれる歴史ではないでしょうか。

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【写真】扇状地に育つ桃
 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット大笹池~

 まずは先週のなぞかけの答えから。「日照りが続き雨乞いをする人々」とかけて「三振をねらうピッチャー」と解く。その心は? 「大降り(大振り)を期待しています」。

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 【写真】雨乞いの舞台、大笹池

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【写真】御庵沢

 甘利山頂の南麓には、大笹池と呼ばれる小さい池があります。この池は御庵沢の水源を堰留めたもので、前回ご紹介した長谷寺と並び、扇状地に暮らす人々が雨乞いを行ってきた特別な場所のひとつです。大笹池については「2007年9月30日号 古代寺院善応寺と雨乞い伝承館の地、大笹池」で、古刹善応寺とともに触れていますが、今回は各村の古老の証言を基に、もう少し詳しく雨乞いの様子をご紹介していきましょう。

【西野村】 日照りが続くと各家から一人出て、笹でほこりを立てながら大笹池に向かいます。池の周りで「そーれ、降ってござった、てんつくばった」と大声で唱えながら踊り、雨を祈願しました。

【飯野村中村】 氏神様の前で藁(わら)で大きな竜(約9~11m)を作り、それを持って村中を練り歩き、田の畦(あぜ)で太鼓や鐘を叩いたり、念仏を唱えたりした。氏神様に竜の吹流しを立て、大笹池にお水を貰(もら)いに行くこともあれば、遠くは諏訪明神(長野県)まで足を延ばすこともあった。

【上今井村】 まず竹で竜を作り、その竜を持って太鼓をたたきながら、行列をつくって村中を練り歩き、大笹池まで歩いていった。笹で道を掃き、ほこりをたてながら歩く人もいた。池の周りでは「そうれ降った、やれ降った、ほうれ降った、ござった、てんつくばった、つくばった」と大声で唱えながら、踊ったり、池の水を濁らせたりして雨を祈願した。

 こうした証言からいくつかのキーワードが浮かび上がります。(1)竜の飾りを作る、(2)行列を作り練り歩く、(3)ほこりをたてながら歩く、(4)太鼓や鐘を鳴らす、(5)大声で呪文を唱える、(6)踊る、(7)池の水を濁らせる、(8)水を貰うなどです。

 竜は雨を司(つかさど)る水神を意味し、ほこりをまきあげるのは雨雲を、大声や太鼓、鐘の音は雷を連想させます。池に入って水を濁らせるのは、神を怒らせて雨を降らせる方法のひとつです。池で手に入れた水は、雨を呼ぶ神聖な水として長谷寺や氏神に奉納されたり、村々でまかれたりしました。

 大笹池が、どんな干ばつの時でも水を湛(たた)え、山奥の木々の中にひっそりとたたずむ幻想的なその姿に、人々は霊験を感じ、命を繋ぐ水を求めたのでしょう。不自由なく水が手に入るようになった現在、雨乞いの記憶を水底に沈めながら、その水面に深山の陰を映しています。

 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~

 まずは先週のなぞ掛けの答えから。「開削されたばかりの徳島堰の水」と掛けて「お神輿に乗った神様」と解く。その心は?「どちらも新田(神殿)へ運ばれ、湛(たた)え(讃え)られます。」

 さて、前回は御勅使川扇状地に水を導いた徳島堰をご紹介しました。しかし、この徳島堰は石積みのために漏水が多く、取水口から十数キロ離れた有野や飯野に到達する水は決して十分ではありませんでした。扇頂部の村々もまた原七郷と同様に、常に水不足に悩まされていたのです。

 水不足は人が生きるか死ぬかという問題に直結します。人の力ではどうしようもない日照りという自然現象に対し、人々は「雨乞い」を行って神仏に救いを求めました。その方法はさまざまで、時代や地域によっても変わりますが、祈る、呪文を唱える、行列をくんで練り歩くなど、神仏を崇(あが)めて願いを聞き入れてもらう方法が一般的でした。ところがその一方で、神仏を脅したり、仏像に縄を縛りつけて引きずりまわしたり、聖なる池に汚いものを投げ込んで池の水を濁らせたりするなど、神仏を泣かせたり怒らせたりすることで、雨を降らせる方法もありました。人は雨を呼ぶために、時にひれ伏して懇願し、時に居丈高に脅し、時に宥(なだ)めすかしてご機嫌をとり、神や仏と必死になって交渉したのです。

 雨乞いが行われる場所も重要で、集落の氏神や、水が絶えることのない池や沼、川、滝などがよく選ばれています。今風に言えば水のパワースポットとでも言えるでしょうか。南アルプス市周辺の主な雨乞いスポットといえば、大嵐の大笹池や平林の義丹の滝などが挙げられますが、もっとも有名なのは八田地区榎原の長谷寺(ちょうこくじ)でしょう。

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【写真・左】八田山 長谷寺(本堂は国指定文化財)
【写真・右】明治36年頃の長谷寺(日本社寺名鑑)


 長谷寺は天平年間(西暦729年~749年)に、行基によって開かれたと伝えられる真言宗の古刹(さつ)です。本尊は木造十一面観音立像で、一本の木から彫り出された平安時代中期ごろの仏像です。江戸時代には「原七郷の守り観音」と呼ばれ、33年に一度ご開帳される秘仏として周辺の集落の人々から厚く信仰されてきました。

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【写真・左】十一面観音像が納められた厨子(国指定文化財)
【写真・中央】長谷寺 十一面観音立像(県指定文化財)
【写真・右】雨乞いでひきずられたと伝えられる「おびんづるさん」


 扇状地に住む人々は、日照りが続くと、長谷寺で護摩焚(た)きの雨乞い祈祷(きとう)を行いました。また、集落の人総出で長谷寺に参拝したり、太鼓を叩きながら大声でお経を唱えたり、笹の葉で蛇を作って観音堂に納めたりすることもあったと言います。長谷寺境内の池に架けられた石橋、通称梓(あずさ)橋は、行基菩薩が雨乞いの法を修めたという伝説から「雨乞い橋」とも呼ばれます。この「雨乞い橋」にまつわる話といえば、昭和の初め頃、夕方に御神酒を捧げて雨を祈願し橋を渡ったところ、夜に雨が降って皆が喜んだというものがあります。さらには、堂内に安置されている「おびんずるさん」を縄で縛り、引きずって雨乞いをしたという言い伝えも残されています。

 長谷寺が原七郷の雨乞いの場となった背景には、境内にあった池が鍵となります。この池は御勅使川の伏流水が湧き出たもので、日照りでも枯れることがなかったと言われます。人々は地下からこんこんと湧き出る水に、天からの豊かな恵みを重ね合わせ、命の源となる雨を待ち望んだのでしょう。

 それではここで今月のなぞ掛け。
「日照りが続き雨乞いをする人々」とかけて「三振をねらうピッチャー」ととく。その心は?

 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地を潤す徳島堰

 では、先週の謎かけから。「原七郷で作られた柿」と掛けて「国指定重要文化財、江戸時代の古民家、安藤家住宅」と解きます。ちょっと難関かもしれませんのでもう一つヒントを。安藤家住宅を「ガソリンスタンド」と読み替えても結構です。

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【写真】上まち堰(駒場)

 さて、先月お伝えした畑作と行商が中心の原七郷とは対照的に、御勅使川扇状地扇頂部に位置する築山村・有野村・飯野村では、御勅使川の水を利用して古くから水田が営まれてきました。これらの三ヶ村は、御勅使川駒場から取水し、上まち堰(徳島堰開削以後は飯野新田も利用。4ヶ村堰と呼ばれる。)を通して水を分配し、水田稲作を行ってきたのです。江戸時代の寛文年間、扇頂部の水田の範囲をさらに拡大することになったのが徳島堰です。

 徳島堰は、釜無川の上円井(韮崎市)から取水し、曲輪田大輪沢(南アルプス市)までの約17kmに渡る灌漑(かんがい)用水路です。寛文5年(1665)、江戸深川の町人徳島兵左衛門が工事に着手し、寛文7年には曲輪田大輪沢まで通水したともいわれています。兵左衛門には、水代として1反につき金1~2分を徴収するとともに、新田にかかる年貢の1割が支払われることが認められていました。しかし、同じ年に起きた2度の大雨のため堰の大部分が埋没したといわれます。これを機に兵左衛門は事業を断念し、甲府藩からこれまでの事業費4165両3分を受け取って堰を藩へ譲渡し、江戸へ帰ってしまいました。事業断念の理由は、資金不足(『徳島堰由来書』1807)や難所を掘り通す工法が尽きたから(『徳島堰縁起抄』1778)などといわれる一方で、甲府藩がほぼ完成した堰を取り上げ、民間商業資本による利益を排除し、新田開発による権利を独占したのではないかとの意見もあります。事業を引き継いだ甲府城代の戸田周防守は、家臣の津田伝右衛門と地元有野の矢崎又衛門に堰の改修を命じました。矢崎又衛門は心血を注いでこの復旧事業に取り組み、寛文10年に工事が完了、翌11年には「徳島堰」と命名されました。

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【写真・左】了円寺七面堂(飯野新田)…徳島兵左衛門が堰の完成を祈願して建立した寺院。徳島夫妻の墓がある
【写真・右】矢崎家住宅(有野)…矢崎又衛門ゆかりの古民家


 この徳島堰の開削によって、扇頂部の村々に新たに水田や畑が作られ、六科村、野牛島村、有野村、百々村、飯野村などの石高が増加します。また、飯野新田や曲輪田新田、六科新田など新たに集落も形成されました。原七郷には水田を営むまでの十分な水が供給できませんでしたが、その中で在家塚は御勅使川の古い流路跡の地形を利用して通水に成功し、一部で水田が営まれます。徳島堰とは遠く離れた上流の芦安の芦倉村・安通村には徳島堰付新田検地の水帳が残されており、両村の人々が徳島堰に灌漑された新田を耕していたことがわかります。その他の地域でも、徳島堰の水は村々の溜池に通水され、貴重な生活用水として利用されました。さらに、水路から地下へ浸み込んだ水は伏流水となり、御勅使川扇状地扇端部の村々の井戸を涵養(かんよう)する貴重な水源にもなったのです。

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【写真・左】昭和30年代の徳島堰(有野)
【写真・右】現在の徳島堰


 このように、直接的・間接的に扇状地に多大な恩恵をもたらした徳島堰も、基本はしがらみや石で一部護岸されただけの素掘りの水路で、水が浸透・漏水しやすい欠点があり、扇状地の水不足を根本から解消するには至りませんでした。

 日照りによって起こる深刻な水不足は、扇状地に生きるどの地域の人々にとっても死活問題で、常にその危険と隣り合わせだったと言えるでしょう。次号では扇状地で行われてきた雨乞いの信仰を取り上げます。

 今回も最後に謎かけをひとつ。
「開削されたばかりの徳島堰の水」と掛けて「お神輿に乗った神様」と解く。その心は? ヒントは本文中に。答えはまた次回。

 先月の答えはどちらも「柿(火気)」が「現金(現金)」となります。

 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

江戸時代、御勅使川扇状地の畑作文化

 では前回の謎かけの答えから。「お月夜でも焼ける扇状地」とかけて「連敗した試合について聞かれたサッカー選手」と解く。その心は「どちらもかんそう(乾燥・感想)に困っています」。

 江戸時代に入ると、乾燥した扇状地で育てられた作物の様子が、よりはっきりと分かるようになります。その手がかりとして、村ごとの主な生産物が書かれた、現在の市政要覧ともいえる村明細帳をのぞいて見ましょう。「お月夜でも焼ける」とうたわれた原七郷(上八田・在家塚・西野・上今井・桃園・吉田・小笠原)の一部の村々の作物をリストにしてみました(表1)。リストから読み取れるのは、粟(アワ)や稗(ヒエ)、麦、蕎麦(ソバ)などの雑穀や大豆、大根、菜などを栽培した畑作中心の食文化です。

▼【表1】村明細帳から見た原七郷の主要作物(クリックで拡大)
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 江戸時代、原七郷の村に立ち寄った旅人の日記にも、畑作の麦や蕎麦を使った食べ物が登場します。山梨県立博物館の植月学さんによれば、甲斐国に来訪した宮崎県の修験者・泉光院(せんこういん)が、文化12年(1815)、下今諏訪村、在家塚村に立ち寄った際、村の人々から「蕎麦切り」や馳走として「当国の名物ハウタウ」が振る舞われたそうです(『甲州食べ物紀行 山国の豊かな食文化』)。現在山梨を代表する郷土料理の「ほうとう」も、日々の食卓だけでなく、古くから旅人の胃袋を満たしてきたのですね。

 さらに村明細帳を見ると、主要作物として煙草や木綿が栽培され、農閑期に野菜や柿とともに、村外へ野売りされていたことがわかります。

『文政十一年(1828) 上八田村諸事明細帳写』
耕作之間ニ者男ハ煙草売、其外小商ひニ在町不限罷出申候
さらし柿之義ハ原七郷九ヶ村ニ限リ、国中野売・町在売ニ往古ヨリ仕来リニ御座候


 名古屋大学の溝口常俊さんは、こうした原七郷の畑作と行商を研究し、柿や煙草、木綿などの行商活動が畑作を補い、村の生産力以上の人口を支えた大きな要因であったと考えています(『日本近世・近代の畑作地域史研究』)。

 野売りの担い手は後に甲州商人と呼ばれ、その巧みな商法からマイナスなイメージで語られることもあります。しかし、地味の乏しい土地だからこそ、村の枠を飛び超えてビジネスを行う、たくましい風土を育てたとも言えます。ご先祖さまたちは厳しい自然と向き合いながら、知恵を絞り、外の世界へ活路を見出し、畑作物と行商のくらしを築き上げてきたのです。

 では最後に謎かけをひとつ。

 「原七郷で作られた柿」と掛けて「国指定重要文化財、江戸時代の古民家、安藤家住宅」と解きます。その心は? ヒントは本文中に。答えはまた次回。

 

[南アルプス市教育委員会文化財課]

【連載 今、南アルプスが面白い】

ミクロの世界から見た扇状地の食生活

 7月に入り、木々を彩る果実は真っ赤なサクランボから薄い紅色に実ったモモに衣替えしました。現在は御勅使川扇状地(以下、扇状地といいます)もさまざまな果物で季節が彩られていますが、いったいこの扇状地で昔の人々は何を育て、何を食べてきたのか。今回のふるさとメールでは扇状地で暮らしてきた人々の食についてご紹介します。

 縄文時代の食生活については2006年9月1日(第77号)『食べ「タイ」 海の幸』で、木の実を主食とするだけでなく、海産魚の「タイ」の骨が住居跡の炉跡から出土したことをお話ししました。

 弥生時代以降でも、扇状地の人々の食物を知る手がかりは、食物を煮炊きした炉やかまどの中に眠っています。例えば平安時代、約1200年前の竪穴式住居跡のかまど内の土を取り出し、バケツに入れて水に浸し、やさしくかき混ぜると、ご飯粒ほどの小さな黒いかたまりが浮いてきます。これは1200年前にかまどで焼かれ炭になった食べ物の種や実の残りです。ひとつひとつを顕微鏡でのぞくと、丸や楕円形、ツルツルしたものやゴツゴツしたものなど、多種多様な特徴が見られます。扇状地の北部に位置する野牛島・西ノ久保遺跡では奈良・平安時代の住居跡からイネの他、ムギやアワやヒエ、マメ類などの雑穀、エゴマなどの種や核が発見されました。少ないながらもモモやスモモの核も発見されています。

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【写真・左】平安時代の住居跡(野牛島・西ノ久保遺跡)
【写真・中央】このカマドの中から炭化したスモモやコムギなどが出土した
【写真・右】野牛島・西ノ久保遺跡で発見された炭化した種実

 炭となった種や実の数を遺跡と時代ごとに比較した櫛原功一さん(山梨文化財研究所)によれば、扇状地全体では、10世紀ごろを境にイネからアワやヒエなどの雑穀の数が多くなる傾向にあるそうです。

 中世では、中心作物となった雑穀類が多く出土するのですが、それだけではなく、野牛島・西ノ久保遺跡の土坑から、カキノキの種や海産魚であるソウダガツオ属の骨(尾椎)、カモシカの可能性がある小さな骨片も発見されました。

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【写真】中世の土坑から出土したソウダガツオ類の骨(山梨県立博物館撮影)

 炭や骨片など土の中に残されたものは、我々のご先祖さまの小さな記憶と言っていいでしょう。そこから、乾燥した土地を生かしムギなどの雑穀を育てながら、山のもの、時として海のものを食卓に並べていた姿が浮かび上がります。

 次回は江戸時代の農産物と食に迫ります。

 最後に現在ちょっとしたブームになっているなぞかけをひとつ。「お月夜でも焼ける扇状地」と掛けて「連敗した試合について聞かれたサッカー選手」と解く。その心は? 次回をお楽しみに。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】