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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地の物語 ~1.御勅使川と集落~

 6月も中旬に入り、南アルプス市ではサクランボ収穫の最盛期に入りました。フルーツ王国・南アルプス市の果樹栽培を支える御勅使川扇状地は、昭和40年代にスプリンクラーが設置されるまで、月夜の弱い光でさえ日照りをおこすと言われた極度の乾燥地域でした。今回のふるさとメールから連続して、干ばつの頻発地域であった御勅使川扇状地をテーマに、その成り立ちやそこに生きてきた人々のくらし、祈りをご紹介します。

 
◆御勅使川扇状地のプロフィール

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【図】御勅使川扇状地と旧流路

 御勅使川扇状地は現在の市域北部を流れる御勅使川が、芦安地区の山々を削り運んだ土砂で作られた扇形の土地です。南北約10km、東西約7.5kmに広がり、日本でも有数の扇状地として知られています。

 扇状地を作り出した御勅使川は、長い歴史の中で何度も流路を変えてきたことがわかっています。例えば旧運転免許センター北側を走る甲斐芦安線は明治31年まで河川として機能し、「前御勅使川」と呼ばれていたことはすでにご紹介しました(2008年01月15日(火)「百々はなんと読む?」)。山梨県埋蔵文化財センターの発掘調査によって、開国橋付近へ向かって流れる平安時代から中世の流路跡も発見されています(御勅使川南流路)。昭和44年に発行された『白根町誌』にはそのさらに南側、桃園や十日市場付近に流れていた流路跡も掲載されています。このように御勅使川が流路を変えながら土砂を堆積(たいせき)させることによって、現在の私たちの暮らす広大な土地が造りだされたのです。

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【図】御勅使川扇状地における集落の配置(『白根町誌』) 旧流路が図示されている


◆御勅使川と集落の景観

 現在の御勅使川扇状地は、多くの集落が立地する広大な扇状地の北端を一本の御勅使川が流れています。しかし、かつての御勅使川は川幅が広く、扇状地上にいく筋もの流路が網の目状に流れていたと考えられています。川幅の広い地点では600mもあったとか。それを想像すると、広い川と川との間に集落や耕地が営まれている、そんなイメージになるでしょうか。


◆扇状地と集落の形

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【図】将棋の駒の形をした飯野地区

 こうした流路から集落を守るため、ご先祖さまたちは堤防や村の形にも工夫をこらしました。六科地区から上高砂地区では上流に将棋頭を築き集落や耕地全体を囲むように不連続の堤防を配置したり(2008年11月14日(金)堤の原風景 霞堤(かすみてい))、飯野地区のように集落自体を将棋の駒の形にして、川の流れから集落を守っていました。


◆扇状地の土壌

 御勅使川が運ぶ土砂には砂礫(れき)が多く含まれているため、透水性が大きく、したがって地下水までの距離は長く、水を得ることが困難な地形となっていました。このため、御勅使川や江戸時代の寛文11年(1671)に開削された徳島堰(せぎ)の水を利用できる一部を除き、多くの村々は水田を営むことができませんでした。扇状地に暮らしてきた人々は、こうした過酷な環境を切り開き、土地の特徴を生かしながら現在の果樹栽培へと暮らしをつないできたのです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

西野の温室メロン栽培

 現在、南アルプス市はサクランボやモモ、スモモの生産などで、日本でも有数の果樹地帯ですが、大正から昭和にかけて、西野でメロンの栽培が行われていたことを知っていますか?

 当時、西野のメロンは大好評を得ていました。

 今回のふるさとメールは、西野で行われていたメロン栽培を紹介します。

 大正末期の日本経済は、大不況の真っただ中で、当時の主要産業であった養蚕は生糸が暴落してしまい、農家の経済状況はひどいものでした。そんな時、干ばつ地帯で桑も果樹の栽培も不安定な土地に、何か良い作物はないかとの試行錯誤の研究から見つけれらたものがメロン栽培でした。

 大正14年、西野字池尻の桑畑に30坪の温室を建てたのが始まりで、ブドウの木が大きくなるまでの間作としてサンマの樽に1本ずつ植えられました。しかしメロンを売ることはとても大変で、両手にメロンを抱えて朝の汽車で東京まで行き、売り歩いてくるという大変な努力をして、メロン栽培の基礎を築き上げました。その結果、甘味・肉質・香気も高く、山梨のメロンは優秀だとの評価も高まり、市場も大きくなりました。売ることが容易になってきたことから、急激に栽培面積が広がり、昭和2年には村内に早くも8棟(370坪)のハウスが建設され、加温多管式ボイラーを取り付けて、ブドウとメロンの促成栽培が始められました。

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【写真・左】建ち並ぶ温室
【写真・右】マスクメロン


 温室栽培は、日中室内が高温になるため水分の蒸発が多く、1日1回は、必ず灌(かん)水しなければならないため、大きな貯水池を造り、雨水を貯えるなどして、水の確保に苦心したそうです。

 また、その年の一番出来がよかったものは、次の年にまく種として確保しておいたということで、その実はとてもおいしかったそうです。

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【写真・左】ラベル
【写真・右】西野駅(峡西電鉄)の果実専用出荷ホーム


 この温室栽培は、昭和10年代に入ると、ますます盛んになり、昭和14、15年頃がピークで、村内の温室件数は、208棟(9680坪)にもなりました。
 

  新設棟数 新設坪数
大正14年  1  30
大正15年 4  160
昭和2年 318
昭和3年 301
昭和4年 10 420
昭和5年 13 501
昭和6年 14 601
昭和7年 21 980
昭和8年 43 2383
昭和9年 42 2193
昭和10年 22 1146
189 9073

西野村温室新設棟数及び坪数 昭和11年(白根町誌より)


 このような中、李氏朝鮮(韓国)の王族で、日本の皇族と結婚をしていた、李王殿下が視察にきました。西野に到着して、温室に入るまでの道には赤いジュウタンが敷き詰められていたそうです。

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【写真】李王殿下来園

 その後、戦争が悪化し、贅沢(ぜいたく)禁止令が発布されたことや、若い男性が徴兵されたための人手不足、温室のボイラーや金属類の供出などにより栽培面積が縮小され、次第にメロン栽培は衰退。戦後は果樹栽培の中心が、モモやスモモ、サクランボに移っていきました。

 不況の中、メロン栽培は地域の農家を支えてきました。メロン栽培を始めた人々の思いや歴史を、いつまでも語り継いでいきたいものですね。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

西野にあった江戸時代の手習所 ~松声堂~

 松声堂とは、江戸時代に西野(現 南アルプス市)に創設された手習所です。
 天保6(1835)年に西野村の長百姓幸蔵・佐次兵衛と、花輪村(現 中央市)の長百姓清右衛門(内藤家)が中心となり、市川代官所に手習所設立の申請を出して、翌天保7年(1836)に認可されました。
 幸蔵たちが手習所の設立を思い立った理由については、市川代官所に提出された手習所創設願書に書かれています。

「当村は石砂入りの土地のため、皆畑場で田地はまったくない。畑作として粟、きび、ひえ、煙草、木綿などを作っているが、わずかな旱魃(かんばつ)でも飲み水にもさしつかえるほどの場所であるので、作間には渋柿をさらして野売りし、稲籾(もみ)などと取りかえて年貢手当てにする辺鄙(へんぴ)な村里である。去る天保4年凶作の際には難渋の小前百姓に施し物を与えなければならなかったほどの土地柄であるため、村内の子供や若い者たちに学問はもちろん日用の算筆を指南するものもなく、したがって、自らよろしからざる道に陥り、悪弊に染まり百姓相続しがたい者も生じ、嘆かわしい次第である。そこで西花輪村長百姓清右衛門と相談のうえ、西野村のうち芝間空地の場所に手習所を設け、教授に相当の人物を選んで、村内外遠近の若輩の者たちに手習・素読を教諭することにした。そうすれば作間にも学びやすく、人倫の道を習い公儀の法度(はっと)を遵守して放蕩(とう)無類の風に陥ることもなく、村役人や親の意見を用い百姓相続に励むようになって、年貢収納の差し支えもなくなり、村方取締りの基となる。 ―後略― 」

 これを見ると、幸蔵をはじめとする村の人々は、子弟に対する教育がとても重要であることを認識しており、熱意をもって手習所の創設にあたったということが分かります。
 こうして1年後の天保7(1836)年に市川代官所より許可がでて、西野手習所が開設されました。手習所の開設にあたっては、これが長く続くようにと、幸蔵をはじめとする、各村々12名から基金が寄せられ、総額140両のほか米4俵が集まり、これを希望者に貸し付け、その利子によって手習所を運営しました。そして手習所を永続させるため、西野村が維持管理を行い、後世に伝えるため、村が13か条にわたって誓約した連印帳を作成しています。

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【写真・左】宝珠院
【写真・右】松声堂校地・校舎略図(白根町誌より)


 校舎は、初めは宝珠院を仮校舎としていましたが、協力者の寄付によって、敷地1002坪に72坪の校舎が建てられ、天保10(1839)年に新校舎に移り、西野手習所又は松声堂と称します。学則なども整備され、近隣の村々のほか、遠くは釜無川以東から学びに来る者もいました。

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【写真・左】松声堂校舎
【写真・右】昭和30年代終わりころの御殿飾り松声堂の学習風景


 教師には、江戸下谷三味線堀生まれの、松井渙斎を迎え、漢学を中心に、習字、平仮名、数字などを教えました。創設から数年がたつと、経営が苦しくなりましたが、渙斎は自らの経費を節約して、勉学を教え続けたといいます。渙斎は13年間松声堂で指導しましたが、嘉永元年(1848)に高齢のため引退し、江戸へ戻り、安政元年(1854)に病没しました。

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【写真】渙斎留別の碑

 そして2代目の教師には、市川代官・小林藤之助の食客として市川陣屋に滞在していた宮浦東谷が就任します。
 東谷は、塾生と起居飲食を共にする塾中制度を始め、一般門人の来ない朝、夕、夜に指導をしたり、村人のために年に数回の講演会を開いたりと、村人の教導にも努めました。また生徒の学業の完成を祈って校庭に天神社を祭りました。東谷は24年間教壇に立ちましたが、明治4年に病没しました。

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【写真・左】天神社
【写真・右】宮浦東谷の墓所


 松声堂は、明治4年に山梨県より許可がでて郷学校となりました。その後明治6年に西野小学校へと改変し、昭和44年には在家塚小学校と統合して白根東小学校となり現在に至っています。
 農民が中心となって設立された手習所は県内では例がなく、県下における最初の庶民教育の場として、多くの人々の熱意により支えられてきました。

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【写真】松声堂跡

 現在、松声堂の跡地には、松井渙斎の碑、松声堂跡の碑などが建立されています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

安藤家の雛祭り

 重要文化財安藤家住宅では、現在、雛(ひな)飾りの展示を行っています。
 雛祭りは、女の子の健やかな成長を祈って行われる年中行事です。日本の雛祭りの起源は明らかではありませんが、平安時代、貴族の子女の遊びごととして行われていたという記録が残っています。この遊びごとに、平安時代に行われていた、紙で作った人形を川に流す「流し雛」の風習が融合し、災厄よけの守り雛として祭られるようになりました。
 江戸時代になると、女の子の人形遊びと節句の儀式が結びついて全国に広がっていき、年中行事として3月3日に行われることが定着しました。そして江戸中期ごろから女の子の初節句を祝う行事となり、婚礼の嫁入り道具の中に雛人形が入れられるようになりました。

雛人形の種類
 江戸時代の初め頃は、衣装が紙で作られることが多かったため紙雛とも呼ばれた「立雛」や、男女の内裏雛だけの小型の「寛永雛」などでしたが、江戸時代中頃から、衣装に十二単(ひとえ)を着せた「元禄雛」や、大型で豪華な「享保雛」などが流行します。その後、江戸時代後期に入ると宮中の装束を着せた「有職雛」や、これを現代風にアレンジし、現在にもつながる「古今雛」などが現れます。

安藤家のお雛様
 さて、安藤家のお雛様を見てみましょう。
 残念ながら、飾っているお雛様は安藤家に伝わる人形ではありませんが、市内の方々から寄贈してもらった、江戸~大正・昭和までの各時代のものを展示しています。
 江戸時代のお雛様は、顔と飾りの一部は昭和になって作られましたが、それ以外は150年ほど前に制作されました。

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【写真】江戸時代のお雛様と絵雛

 主屋勝手に展示してあるのは、大正~昭和にかけてのお雛様です。
 御殿飾りは、江戸時代の末期~大正・昭和にかけて人気があったもので、建物の中に内裏雛を置き、そば仕えの官女、三人上戸、左大臣・右大臣などの人形を飾るものです。
 この建物のことを京都では“御殿”と言い、御所の紫宸殿になぞらえたものと思われます。
 昭和30年代中ごろに、段飾り雛に押されて姿を消していきました。とても華やかなお雛様で、安藤家には、大正、昭和初期、昭和30年代、昭和30年代終わりころのものを飾っています。

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【写真・左】大正時代の御殿飾り
【写真・右】昭和30年代終わりころの御殿飾り


 その他、昭和30年代終わりころから主流になった段飾り雛や絵雛、茶室には南アルプス市にゆかりの小笠原流礼法による、上巳の節句飾りや小笠原雛など約80体のお雛さまの展示を行っています。

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【写真・左】段飾り雛
【写真・右】上巳の節句飾り


 安藤家住宅の雛祭りは、4月12日(月)まで開催しています。
 華やかな雛飾りに彩られた安藤家住宅を訪れ、雛祭りを楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

7年に一度の大祭 今諏訪の御柱祭り

 御柱(おんばしら)祭りは、南アルプス市上今諏訪、下今諏訪にある、諏訪神社上社と下社で7年に一度、寅(とら)年と申(さる)年に行われるお祭りで、長野県諏訪市の諏訪大社の御柱祭りの流れをくんでおり、社殿を建てる聖地に、老若男女すべてが集い、五穀豊穣、無病息災を祈り、ご神木を建てたのが始まりとされています。
 上社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)で社格は郷社(ごうしゃ)、下社の祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)で社格は村社で、ともに信州諏訪の諏訪明神を勧請(かんじょう)したものと伝えられています。
 今諏訪の御柱祭りは、信州のものと比べると規模としては小さくなりますが、華麗な衣装の行列と勇ましい木遣唄(きやりうた)は見応えがあります。
 信州諏訪大社では、上社本宮・前宮、下社春宮・秋宮にそれぞれ4本計16本を神社境内の四隅に建てますが、当社では上社、下社でそれぞれ1本計2本が御柱社境内に建てられます。この御柱は、山出しといって3月15日ごろ切り出されます。
 御柱祭りの一番の見どころは、神社から始まり地区内を引く里曳(ひ)きの光景です。花傘を背負った露払いの子供を先頭に、青竹の骨組みをいかだで囲い、杉の葉で船べりを作り、高さ2mほどの榊(さかき)が飾られた、長さ5m、幅2mほどの「お船」が子供たちによって引かれます。
 次いで御柱が続きます。男の子・青年・大人も混じって引き、介添役もついて、先頭には音頭とりが乗り、木遣を唄い威勢をつけます。次いでみこし、万燈と続き、更に陣笠と鉢巻、野袴(はかま)、白襷(たすき)がけの男女の子供がわらじばきで拍子木を取ります。それに続いて女子の行列で、拍子木・扇子・金棒を持ち、そろいの仮装で列をつくり、最後がおはやしの乗った山車となります。

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 神事を終えた行列は神社を出発し、「いやさかさー」と音頭が唱えると、行列がこれに唱和します。拍子木が5つ拍子をとると、女子が「やっせ、やっせ」と5回かけ声をかけながら5歩前進し、次いで拍子木が3つ拍子をとると、行列は「やっせ、やっせ」と3歩後進し、ここで音頭が「いやさかさー」と唱えると、女子が右手に持った扇子を挙げて「いやさかさー」と唱和します。
 下社では、万燈をもった青年が「やっせ、やっせ、やっせ」と唱えて3歩前進しつつ万燈をグルグル回しては手をかざして「いやさかさー」と叫びます。

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 上・下社の行列は、午後4時ころ御柱社に会し、みこしとみこし、万燈と万燈が衝突し、おはやしもはやし立て興奮状態となります。そして上下のご神木を太い綱で大勢の力で持ち上げて、総ての神事が終了します。
 県下に諏訪神社を祭るところは数多くありますが、御柱の神事を行うのは上下今諏訪の諏訪神社だけです。
 この御柱祭り、いよいよ今年2010年(寅の年)4月に開催されます。7年に一度のこの機会にぜひご覧ください。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

小正月に行われる伝統行事-どんど焼き-

 新年明けましておめでとうございます。
 新年第一弾のふるさとメールは、小正月の行事、どんど焼きを紹介したいと思います。
 どんど焼きは、小正月の1月14、15日に行われる道祖神祭行事のひとつです。道祖神は村外から侵入する悪霊や悪病を防ぎとめる力のある神といわれる「塞(さい)の神」で、村人の幸せを守る神様です。小正月の行事は道祖神を中心に行われます。
 この祭りは、中世の宮中行事であった「左義長(さぎちょう)」が起源と言われます。左義長の起源は諸説ありますが、宮中の庭に青竹を束ねて毬杖(ぎっちょう)を結び、扇子・短冊などを添え、陰陽師(おんみょうじ)が悪魔祓(はら)いの吉言を唱えながら焼き、その年の吉凶を占ったという説が有力で、これが民間に伝わり現在のような形になったと言われています。
 また、どんど焼きの語源については、火が燃えるのを「尊(とうと)や尊(とうと)や」とはやし立てた言葉がなまったためとか、火がどんどん燃える様子からつけられたとか言われています。

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【写真・左】大曽利地区の道祖神場
【写真・右】曲輪田横久根地区のどんど焼き

 14日の夜、集落の各家から集めた、正月の門松、ササ竹、しめ飾りなどを燃やします。火は古代から神聖で神が宿るものとされ、米粉で繭をかたどった団子をつくり、どんど焼きの火で焼き、その団子を食べると風邪をひかないと言われています。
 山梨では、古くから養蚕が農民の現金収入を支えていたため、繭玉団子には養蚕の繁盛を祈る心も込められました。

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【写真】桃園地区 繭玉団子を木の枝に刺してどんど焼きの火で焼きます。

 また、子供たちは書き初めを燃やし、高く上がれば書道が上達するとも言われ、芦安地区などでは、古くは村の人の名簿を投げ込み「今年は病ませられる人はいない」と唱えて、村人の健康を祈ったりしたそうです。

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【写真】加々美地区のどんど焼き

 また、昔はこの日に獅子舞を行った地域も多くありました。獅子舞とは、疫病退治・悪魔祓いをするため、祭り囃子にあわせて獅子頭をかぶって舞い踊る日本の伝統芸能の一つですが、現在では、行われる地域も少なくなってきています。
 南アルプス市では、先月紹介した西南湖の獅子舞や、下市之瀬の獅子舞、曲輪田峰村小路の獅子舞などが、県や市の無形民俗文化財に指定されています。
 下市之瀬の獅子舞の起源は、江戸時代中期と言われ、道祖神場や地域内の新築・婚礼等の祝い事のあった家に舞い込みを行います。多くの演目と高い技術をもっており、地区の獅子舞保存会によって継承されています。

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【写真・左】下市之瀬の道祖神場
【写真・右】下市之瀬の獅子舞

 このどんど焼きのあとの灰は、家に持ち帰り軒下にまくと悪い虫が出なくなるとか、田畑にまくとその年の作柄が良くなるとして、それぞれまかれました。
 旧暦で年の始まりであった小正月に、一年の無事を祈るこの伝統行事、これからも守り伝えていってほしいですね。
 それでは、今年もよろしくお願いします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

西南湖の獅子舞

 獅子舞とは、疫病退治・悪魔払いをするため、祭り囃子(はやし)にあわせて獅子頭をかぶって舞い踊る日本の伝統芸能の一つです。
 日本の獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で、飢饉(ききん)や疫病を追い払うために獅子頭をかぶり、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれており、その後室町時代から江戸時代の初めころに「江戸大神楽師」「伊勢大神楽師」と呼ばれる団体が全国を獅子舞を踊りながら回り、悪魔払いをしたのがきっかけで、日本各地に急速に広まったと言われています。
 西南湖の獅子舞は、明治20年ころ、隣の和泉地区の青年が質入れした衣装一式をもらい受け、道祖神祭りの厄払い行事として青年会が始めたのが発端と言われており、市の文化財に指定されています。

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 初めは女獅子の平舞(一人が獅子の面をかぶり、一人が着物の裾を持って集落の各戸を短時間舞い歩くもの)だけでしたが、その後、年を重ねるにつれ、鳥さし踊り、梵天(ぼんてん)舞、厄舞、狂い獅子、お亀など変化のある舞い方をするようになり、二人で舞っていたものが、太鼓と横笛を加えて四人一組で舞うようになりました。
 当初は、青年が受け持ちで舞っていましたが、内容が複雑化し、練習に時間がかかるようになったため、特定の人が踊るようになりました。
 大正の中ごろになると、獅子の塗りがはげたり、色があせたりしてきたため新調し、それが現在まで使用されています。

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 現在は、西南湖獅子舞保存会が中心となり、新築した家や、結婚・出産・成人した人がいる家、また厄年に当たる人がいる家などで、年舞・三段舞や、梅川忠兵衛、八百屋お七など、さまざまな浄瑠璃を日本舞踊風に舞うなど、独特な舞が見られます。

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 紹介した写真は、西南湖地区にある、国重要文化財・安藤家住宅で行われた獅子舞の様子です。年が明けた1月には、また安藤家にも獅子舞が来る予定です。
 興味のある方は、ぜひ安藤家にお越しいただき、歴史ある西南湖の獅子舞を見学されてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

高尾穂見神社の夜祭り

 高尾穂見神社は、南アルプス市高尾にある神社です。
 高尾の集落は、櫛形山北東山腹の標高800mに位置します。穂見神社の創建年代は明らかではありませんが、平安時代にまとめられた書物「延喜式」に穂見神社として名前が載っています。祭神は保食神で、白山権現・三体王子を配祀しており、江戸時代には「御崎大明神」とも称し、五穀豊穣、養蚕成就、商売繁盛にご利益があるとして知られています。

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【写真】穂見神社の拝殿(左)と本殿(右)

 神社本殿は、棟札により寛文5(1665)年に建立されたことがわかったため、棟札とともに県の文化財に指定されています。
 このほか、御正体と呼ばれるご神体は、銅で作られた鏡で、丸い鏡の面に、神像や仏像のほか、天福元年(1233)の銘があり、同じく県の文化財に指定されています。
 この神社の伝統行事が、毎年11月22日~23日にかけて行われる夜祭りです。甲府周辺や郡内、信州方面から来る人は曲輪田を経て穂見神社に至り、西八代や南巨摩、駿河方面から来る人は小笠原から平岡を経て来ました。この夜祭りの時には山道をたどる参詣者の提灯(ちょうちん)の明かりがいくつも浮かび上がっていたといいます。

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【写真】穂見神社鳥居

 このお祭りの特徴は、商売繁盛・家内繁盛の元手となる資本金参拝者が神社から借りていく「資本金貸し」と、境内の神楽殿で奏される「太々神楽」、巫女殿で奉納される「乙女の舞」です。
 資本金貸しとは、信者が五穀豊穣・商売繁盛を願い、資本金の貸下げを受け、翌年の祭りの際に倍額を返済するもので、神徳が一年中身辺を潤して加護があるとされました。

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【写真】資本金貸し

 太々神楽は、市の無形民俗文化財に指定されています。神楽の伝承者を神楽師と呼び、その長を神楽長といいます。現在は、居住戸数が減っているため、祭りの際には、他所からも高尾に戻ってきて神楽に加わります。

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【写真】神楽殿

 演目は斎場浄め・打込み・国堅め・陰陽・天のうずめの命・猿田彦・於登陣・八岐の大蛇(やまたのおろち)・金山彦・二人剣・四人剣・鯛釣り・地引・玉取り・種まき・五行・天の岩戸などの演目が演じられます。於登の舞の際には祝詞を奏上することになっていますが、その他は無言のうちに奉納され、祭りの雰囲気を盛り上げます。

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【写真】太々神楽

 夕方から夜にかけては、巫女殿で少女たちの「乙女の舞(豊穣の舞)」が奏されます。戦前には高尾集落の少女が舞っていましたが、現在は平岡の小学校3年生~6年生までの少女が優雅な舞を舞い、見る者にすがすがしさを与えています。
 今年も、例年通り、11月22日(日)は午前9時~午後11時まで、23日(月)は午前8時30分~12時まで行われます。
 神々しい雰囲気に包まれた、高尾の夜祭りをご覧になってはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

能蔵池 赤牛のわん貸し伝説

 南アルプス市では稲刈りも終わり、柿の収穫が始まりました。木々の葉が色づき秋もしだいに深まっています。今回のふるさとメールでは、ささやかな秋を感じられる紅葉スポット、能蔵池をご紹介します。

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【写真】能蔵池の新緑(左)と紅葉(右) ※2005~06年撮影

 能蔵池は市北部の八田地区野牛島にあります。小学校のサッカーコートほどの小さな池ですが、新緑のころやこれからの季節がお薦めで、池のほとりから鮮やかな紅葉を見ることができます。

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【写真】能蔵池 稲荷神社

 さて、この池にはこんな伝説が伝えられています。
 ある晩のことです。野牛島村の娘さっちゃんは、一人で池の縁に立ち、誰に言うともなく明日の結婚式で使う食器がないことを嘆きました。さっちゃんの家はもちろん、どこの家でも欠けた茶わんに欠けた湯のみしかなく、お客さんに出せるような食器はなかったのです。
 ところが式当日、池に行ってみると、おわん、丼、皿、ちょこ、お膳までみんなそろっているではありませんか。みんな驚き、誰が用意したのかと不思議がりました。すると、そこへ長老が来て「この池には、昔から赤牛さまと呼ばれる神様が住むっちゅうど。その赤牛さまじゃねえずらか」と言いました。村の人たちは大喜びでありがたがり、それからは人寄せがあると能蔵池へ来て、おわんやお膳を貸してほしいと頼むようになりました。赤牛さまはそんな村人の願いをちゃんと聞いてくれました。

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Illust091015_2 ところが、あるときこの願いが聞いてもらえないことが起こりました。それは借りたおわんやお膳を返さない不届き者がいて、赤牛さまが怒って能蔵池から姿を消してしまったからです。それからは村には悪いことばかりが起こりました。そこで、村人たちはお金を持ち寄り、能蔵池の真ん中の島へ祠(ほこら)をたてました。しかしそれでも赤牛さまは二度と帰ってきませんでした。赤牛さまは、甘利山のさわら池に移り、その後、さらに奥の千頭星山にのぼって大笹池に住んだということです。

Illust091015_3 この赤牛伝説のほかにも、能蔵池には、持ち上げると願いがかなう「掲げぼとけ」や白山権現の石祠が池の中央に祀られ、周辺には人頭蛇身の宇賀神(うがじん)を祭る稲荷神社や中世の供養塔である石幢(せきどう)などさまざまな信仰や歴史の足跡が残されています。また、池の隣には市内で発掘された出土品を展示し、歴史を体験できる「ふるさと文化伝承館」があります。地元の歴史に思いを馳せながら、小さな秋を見つける散歩を能蔵池で楽しんでみてはいかがでしょうか。

【イラスト】ふるさと文化伝承館のイメージキャラクター(土偶のお面をかぶっています)

※現在能蔵池の中島へは渡ることはできません

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【写真・左】白山権現の石祠と揚げぼとけ
【写真・右】石幢とエドヒガン


◆南アルプス市 ふるさと文化伝承館のリンクはこちら

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

甲斐源氏秋山光朝ゆかりの城跡を行く
~雨鳴城の踏査から~

 今から800年余り前、南アルプス市秋山に拠った甲斐源氏、秋山光朝の物語は、2007年4月2日号15日号で紹介しました。
 今回は、このほど文化財課が踏査を実施した光朝ゆかりの山城「雨鳴(あまなり)城」の今を紹介したいと思います。
 雨鳴城は、光朝の館跡といわれる現在の秋山熊野神社と、鎌倉方に攻められた光朝の終焉の地といわれる要害「中野城」とをつなぐ場所に設けられた山城です。

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【図】秋山光朝館跡と雨鳴城、中野城

 この城が設けられた雨鳴山は、雨が降ろうとするときに「鳴る」ことがあり、特に夏には雨の降る前には必ず「鳴る」ことからこの名があると言われています。この地で没した光朝の霊魂が無念やる方なくこの山鳴りをおこすとされ、悲劇の武将・秋山光朝の伝説を今に伝えています。
 雨鳴山と光朝の物語は、地域では身近な伝説として知られ、甲西地区では光朝を偲ぶ「雨鳴太鼓」や郷土民謡「ああ雨鳴山」などといった地域芸能も伝えられています。

 文化財課が今回、雨鳴城を踏査した目的は、地域の歴史的資源として遺構の保存状況を把握することはもちろん、地域の歴史に興味を持った皆様が、より安全にこの城跡にアプローチできるルートを確認することでした。

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【図】雨鳴城の縄張図(宮坂武男氏作成に加色)

 南アルプス市側からは、林道甲西線を上り、雨鳴山森林公園から登るのが一般的かもしれませんが、より楽にたどりつくルートは山の反対側、中巨摩郡増穂町平林地区からのルートです。増穂町役場前から平林を抜け赤石温泉に至る県道413号(平林青柳)線沿い、平林地区の隆運寺裏あたりで県道から山側に枝分かれする林道を車で2~3分ほど上ると、天満宮の鳥居が見えてきます。鳥居をくぐり、ここからは徒歩で山道を登ると、15分ほどで山の尾根にひっそり佇む天神さんの社殿を見が見えてきます。そこから北に向きを変え、尾根沿いに登ると、そこから10分もかからず雨鳴山のピークにある雨鳴城の遺構にたどりつくことができます。

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【写真・左】増穂町平林側の登り口の鳥居
【写真・右】山中にある天満宮

 800年余りを経て、現在は植林も進み、近世の城郭と違って、石垣などは用いられていないため分かりにくいのですが遺構の保存状況はことのほか良好で、観察の結果、平らに整地された郭(くるわ)や土を盛り上げて防御した土塁、城の出入口である虎口、土橋などを確認することができました。

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【図】雨鳴城鳥瞰図(宮坂武男氏作成に加色)

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【写真・左】郭(平坦に整地された周囲を土塁が巡っています)
【写真・右】虎口(写真中央部土塁が途切れています)


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【写真・左】堀割(郭と郭を隔てています)
【写真・右】土橋(人ひとりが通れる幅で、中野城とのルートをつないでいます)

 雨鳴城へは、増穂町平林からのルートでは全行程往復1時間ほどの、比較的登りやすいコースですが、途中滑りやすい場所や崖などもあり、登る際には注意も必要です。
 文化財課では、今後とも調査を続け、将来的には、既に登山道や案内板が整備された中野城に続き、この雨鳴城、更には雨鳴城と中野城を結ぶルートについても整備し、市民の皆様がより気軽に、安全に遺跡を訪れてもらえるようにしていきたいと考えています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】