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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

学校日誌にみる南アルプス市のアジア太平洋戦争

 8月15日、日本は65回目の終戦の日を迎えます。

 2008年7月15日号に記したとおり、町村誌をひもとけば、アジア・太平洋戦争における南アルプス市の戦死者の数は、1900人を超え、終戦直後には旧豊村(櫛形地区)の満蒙開拓団140名あまりが現地で集団自決するという痛ましい事件もありました。
 一方、南アルプス市には甲府のような大規模な空襲はなかったといわれています。しかしまったく被害がなかったわけではありません。犠牲者もでています。今回は、小学校に残された『学校日誌』から、終戦直前に起こった、ひとつの痛ましい事件に迫ってみたいと思います。

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【写真】大明小学校に残された学校日誌

 学校日誌は、各小学校で、毎日の生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などを克明に記載した記録です。365日絶え間なく地域の記事が記載されることから、今となっては、その地域の歴史を客観的に示す重要な史料となっています。現在学校日誌の多く、特に戦前の記録は廃棄されるなどして、失われてしまっているものが多く見受けられますが、今回はその中から、比較的良好な状態の史料が残る大明小学校(甲西地区=当時大明国民学校)の昭和20年度の日誌に残されたひとつの事件に注目します。

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【写真】大明小学校

七月三十日 月曜日 晴
職員欠 中込訓導
児童出 初男三四一 女三三〇 計六七一
空襲 午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲在リ。午後四時迄テノ空襲ニ於テ、初四【男子A】爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部を粉砕セラレ即死ス。其ノ他、初六【男子B】、高二【女子A】死亡ス。学校より即刻見舞ヲナス。県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス。

(※個人名は伏せてあります)

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【写真】7月30日の空襲の記事

 これにより、昭和20年7月30日、当時 小学校初等科4年生の男子1名、初等科6六年生男子1名、高等科2年生の女子1名の計3名が米軍艦載機の爆撃のため亡くなったことが分かります。このうち初等科6年男子と高等科2年女子は姉弟です。子どもを一瞬にして奪われたご両親、特に一度に2人の子どもをなくしたご両親の心中は察するに余りあります。終戦はもう2週間前に迫っていました。

 この空襲が原因かどうかは分かりませんが、学校日誌によれば、翌日から学校自体の「疎開」が計画されたことが分かります。以下その部分を抜粋して掲載します。

七月三十一日 火曜日 晴
打合会 学童部落疎開ニ関シ学校ニ於テ打合会ヲ開催ス(村長、学校委員、区長参集ス)
八月一日 水曜日 晴
臨時休業 本日より四日間疎開準備ノタメ休業ス
視学員来校 三十日空襲被害調査ノタメ来校ス
八月五日 日曜日 晴
疎開 各分教場ニ校具類等全部運搬終ル


 予定通り4日で疎開作業を終了しています。終戦まであと10日のことでした。
 なお、学校日誌にみられる8月15日、終戦の日の記載は以下のとおりです。

八月十五日 水曜日 晴
詔書渙発 本日正午、天皇陛下ニハ戦争終結ニ関スル詔書ヲ発セラレタリ。我ガ政府ハ米英ソ中国ノ四ヶ国ニ対シ戦争終結ニ関スル申入レヲナシタリ。

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【写真】終戦の日の記載

 南アルプス市教育委員会には、学校日誌のほかにも、アジア太平洋戦争の記憶をたどるさまざまな遺物や遺品、記録類が保管されています。

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【写真】市に寄贈されたさまざまな遺物

 これら記録や遺品から、今から60余年前にアジア・太平洋戦争によって亡くなられた方々を偲び、平和への誓いを新たにしたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市と天井川 その3
~砂礫(れき)との闘いは続く~

 前回は天井川の進行に伴う、南アルプス市落合地区を中心とした河川の立体交差と、その仕組みについて紹介しました。
 しかし、南アルプス市南端部に見られる河川の立体交差は、実はここだけではなく、ほかにも数多く存在しています。【写真】を見れば、南アルプス市を流れてきた河川と釜無川の合流点では、河川が複雑に立体交差していることが分かります。

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【写真】複雑な河川の立体交差

 ここでは、長い間の試行錯誤の答えとして、それまでの合流関係にとらわれず、山から流れ下り天井川化する河川同士、平地の湧水などを基点とする内水河川同士が、それぞれ一本にまとめられ、交差するように整理されているのです。そして、それぞれの交差点には樋門(ひもん)と排水機場が設けられ、洪水時の逆流に備えています。

 このほか、視点を山間部に転じても、市内には天井川への対策としてさまざまな工夫を見ることができます。
 そもそも、天井川を作る砂礫が川に流れ出すのを防ぐ工夫、2008年11月1日号で紹介した「芦安堰堤(あしやすえんてい)」などの砂防ダムです。
 この芦安堰堤は、大正5年(1916)から工事が始まった、日本で初めてのコンクリート製のダムとして知られています。

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【写真・左】芦安堰堤
【写真・右】  〃   大正5年(1916)の着工の銘板

 しかし、南アルプス市の近代砂防工事の歴史はさらに遡ります。明治14年(1881)、国の直轄事業が始まるのを待たず、市之瀬川の岸が削られるのを防ぐための石積み(護岸)工事が、山梨県で初めての県単独事業として行われていたのです。
 市之瀬川に沿って、県道伊奈ケ湖公園線を伊奈ケ湖に向かって上っていくと、現在でも、上市之瀬の集落を抜けた付近に「県営砂防事業発祥之地」の碑とともに、130年近くも風雪に耐えて苔むした石積みを見ることができます。

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【写真・左】「県営砂防事業発祥之地」の碑
【写真・右】下市之瀬の石堤

 富士川(釜無川)に流れ込むこれら河川の砂礫の調整は、当時の山梨県の物流の生命線であった「富士川舟運」に影響を及ぼすため、とても重要でしたが「山梨県ではじめて」「日本ではじめて」といった砂防事業が南アルプス市で行われてきたことは、裏を返せば、ここ南アルプス市域が、近代初頭に全国の自治体が直面していた水害の状況を端的に示しているといえるでしょう。

 このように、現在の南アルプス市の河川景観は、人々の積み重ねられたさまざまな知恵と工夫によってかたち造られてきたものといえます。そして現在も河川へのたゆまぬ働き掛けがあって、はじめて我々の生命や財産が守られているのです。

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【写真】現在も行われている河川維持工事

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市と天井川 その2
~河川の立体交差~

 前回は、西側に高い山々を擁する南アルプス市では、その急峻(きゅうしゅん)な山肌を削り下る河川によって数多くの「天井川」が形成されてきたこと、そしてそこに暮らす人々がその天井川とどのように対峙(たいじ)してきたのかを紹介し、市の南部には、近年まで天井川の下にトンネルをあけて道を通した場所もあったことなどを紹介しました。

 しかし、南アルプス市南部では、立体交差は河川と道路だけではなく、現在でも河川と河川、川同士が立体交差している場所をいくつも見ることができます。河川と河川が自然の状態で立体交差することは絶対にありえず、そこにも人々と川との付き合いの歴史を見ることができそうです。
 今回は、そのひとつ、南アルプス市落合を中心とした、堰野(せきの)川・秋山川と井路縁(いろべり)川との立体交差を紹介したいと思います。

 南アルプス市落合、そこは、まさに多くの河川が落ち合う場所です。西から堰野川・秋山川、北から市之瀬川が流れ下り、落合地区の南端で合流して坪川となります。
 また、井路縁川が堰野川・秋山川の下をくぐり、立体交差して坪川に合流しています。

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【図】今回の舞台

 ところで、現在の落合地区を北から眺めると、周囲を天井川の「壁」に囲まれ、そこで発生した湧水や雨水は、逃げ場がないことがわかります。

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【図】天井川のイメージ

 しかしその間にあって、平地の湧水に水源を発した井路縁川は、勾配が緩いため、天井川となることは、ありません。このように低地に水源を発した川を「内水河川」といいます。最初は、市之瀬川や堰野川に普通に合流していたであろう井路縁川も、周囲の河川が天井川になるにつれ、他の河川とうまく合流できなくなり、合流点を探しているうちに、ついに落合地区を両側から囲む河川の合流点まできてしまい、行き場を失い、苦肉の策として河川の下にトンネルを掘り、立体交差させることになったのです。

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【図】秋山川・堰野川と井路縁川の立体交差

 この、井路縁川の立体交差については、地域に残る史料によれば、少なくとも天和年間(1681~84)以前に遡ることができます。各時代の河川状況により、市之瀬川の下を通して排水していた時期や、坪川の下を通して坪川の中洲に排水した時期などもありますが、その度に排水を受ける側の長沢村(現在の増穂町長沢)、荊沢(ばらざわ)村(現在の南アルプス市荊沢)と紛争となり、その紛争は河川改修が行われ、現在の形が整う昭和30年代まで、実に300年以上にわたって続けられてきました。当時の落合村や近接する村々にとってこの問題がいかに深刻なものであったかがわかります。

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【写真】落合村と荊沢村、長沢村との対立がわかる史料

 井路縁川のような内水河川にはもうひとつ問題があります。それは、周囲の河川に比べて勾配が緩やかであるため、周囲の河川の水かさが増すと、その水が周囲の河川から逆流してきてしまうのです。そのため、現在では雨が降って周囲の水かさが増すと、内水河川はあらかじめ設けておいた樋門(ひもん)を閉め逆流に備えることになっています。ただし、樋門を閉めてしまえば今度は上流から流れてくる水が排出できなくなるので、その場合、ポンプによって周囲の河川に水を排出する仕組みです。井路縁川では、立体交差の入口に樋門を設け、その場合の排水は、ポンプによって堰野川に流しています。

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【図・左】ポンプによる排水の仕組み
【写真・中央】井路縁川樋門
【写真・右】樋門に設けられたポンプ

 このように、井路縁川などでは、ある程度の雨が降った場合、その都度、樋門を閉めポンプによる排水を行わなければならず、もはや自然の流れのままでは私たちの安全は保証されません。ここに生活する限り未来永劫(えいごう)切り離すことのできない人と川との深い関わりと、営みを知ることができます。

掲載資料:「乍恐書付以奉願上候」安永4(1775)年 山梨県立博物館蔵

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市と天井川

 南アルプス市には、西部にそびえる急峻(きゅうしゅん)な山地を流れ下ってきた河川によって、たくさんの扇状地が形成されています。扇状地の上には、古来から様々な人間の営みの痕跡が残され、南アルプス市の風土を形成する重要な要素のひとつとなってきました。

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【図】南アルプス市の扇状地
山から流れ下る河川により様々な扇状地が形成され、幾重にも複雑に重なりあっています。


 扇状地は、急峻な山肌を削りながら、その砂礫とともに勢いよく流れ下ってきた河川が平地に至り傾斜が緩やかになると、砂礫を運ぶエネルギーを失ってそこに砂礫を残し、長い年月をかけて扇状に堆積した大地です。河川による砂礫の運搬量はおびただしく、本市最大の扇状地である御勅使川扇状地の砂礫の厚さは100mを優に超えています。

 扇状地の上を、その時々に流れを変えながら流れ下っていた河川は、扇状地上の開発が進むにつれて堤防によりその流れを規制されていくことになります。そこには、豊かな生活を夢見る人々の願いと努力を見ることができます。

 河川に堤防が造られ、水の流れが狭い川道の中に閉じ込められるようになると、耕地は飛躍的に増加した半面、山から運ばれる大量の砂礫は行き場を失い、川道に堆積(たいせき)し、川底を押し上げて堤防を埋めてしまいます。そこで、人々はその上にまた堤防を“かさ上げ”し、この繰り返しにより、家の屋根により所を流れる高い「天井川」が形成されることになります。

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【図】天井川のできかた

 南アルプス市の南部、市の中でも最も標高の低い甲西地区には、こうした天井川が数多く見られます。天井川は、一度氾濫(はんらん)すると、洪水流が川に戻ることが出来ず、昔からこの地域に大きな被害をもたらしました。また、生活面より河川が高い位置にあるので、生活排水や耕地からの排水も困難になります。
 川を渡るのも不便になり、近年まで、天井川の下に道を通したトンネルが南アルプス市には4か所もありました。

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【写真】天井川と隧道(すいどう)
改修工事前(写真左)と後(同右)。西南湖にあった「南湖隧道」。


 度重なる堤防の“かさ上げ”によって形成された天井川。自らの住居や耕地を守りたいと思えば思うほど、堤防は高くなり、逆に水害時の被害は大きくなり、排水も困難になります。現在は、河床を下げる工事が行われるなど様々な工夫による河川整備行われ、こうした被害は解消されつつありますが、つい最近まで人々は常にその矛盾と対峙(たいじ)してきました。

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【写真】天井川の昔と今
かつて、お寺の屋根より高かった川底が改修により下げられたことが分かります(写真は滝沢川。改修工事の前と後。同じ場所)。


 まじめに自らの土地を守りぬく気持ちがなければ形成されることがなかった天井川。南アルプス市の南部に見られる数多くの天井川から、我々は、常に河川に向き合ってきた先祖の苦労と、たゆまぬ努力を知ることが出来るのです。

写真出典:山梨県土木部ほか1990『たきざわ川-改修工事完成記念誌-』

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~

 新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

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【写真】釜無川に置かれた聖牛 信玄堤
 さて、今年の干支は「うし」ですね。うしはかつて市内の川の中にたくさん住んでいました。といっても「モー」と鳴く牛ではなく、堤防を水流から守るために置いた構造物のことで、これを牛と呼びました。丸太を数本組み合わせ、その間に石を詰めた蛇籠(じゃかご)を重しとして置いた構造となっています。牛を復元したものは、現在でも釜無川の河川敷で見ることができますが、今回のふるさとメール便では、重しとなった蛇籠にスポットを当ててみようと思います。

 蛇籠とは、円筒形に編んだ籠の中に石を詰めたもので、江戸時代には、治水の要として数多く作られました。籠の素材は粗朶(そだ)や柳などもありましたが、主流は竹でした。しかし明治時代に入り、鉄線で編んだ鉄線蛇籠が現れると、竹蛇籠が使われる機会は減り、戦後には鉄線蛇籠が急速に広まって、昭和30年代後半以降、竹蛇籠は姿を消します。

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【左】鉄線蛇籠
【右】大聖牛(だいせいぎゅう) 『地方凡例録』より

 しかし現在でも、その技を伝える方がいらっしゃいます。市内でも最も治水に苦労した地域のひとつである上高砂にお住まいの斉藤さん、清水さん、森本さんです。それでは、その技術の一端をのぞいてみましょう。

 蛇籠に使う竹は太さ3寸(約9cm)と4寸(約12cm)ものを使い、まず、竹の先に鎌で十字に切れ込みを入れます。次に、地面に突き刺した別の竹と右手に持ったもう一本別の短い竹を十字に組んで、最初の竹の切れ込みに合わせたら一気に左手で竹を押しやります。「シュコーン、シュコーン」という小気味よい音がしたかと思うと、あっという間に竹は4つに裂け、割竹ができあがります。これぞまさしく破竹の勢い。そして、間髪いれずに鎚(つち)を持つとリズミカルに竹の節目をたたきつぶしていきます。続いて割竹の先端を折り、曲げやすくするために竹の中身をはぎ取ります。

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 これで下準備が完了しました。いよいよ編みに入ります。まず、太さ3寸のものを割った割竹を2本ずつセットにして合計6本を正六角形になるように置きます。それぞれ互い違いに置くことがポイントです。次に太さ4寸のものを割ったやや太めの割竹で輪を作りながら、これと最初の6本を交互に編み込んでいきます。竹が広がらないように引き締めながら、同じ太さになるように調節するのが職人の腕の見せどころです。最後に端を丸めて完成です。籠に詰める石は、現場で手ごろなものを調達し、網の隙間から投入されました。

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 森本さんによれば、蛇籠作りは昭和20年代から30年代の初めまで、上高砂の仲間と、農閑期の1~2月に行っていたそうです。地元の上高砂の四ヶ村堰(せき)取水口に並べられた牛用として作ったこともあれば、富士川河口付近の河川改修工事に際して仮設堤防の護岸用に作ったこともあったそうです。また、山梨県に大きな被害をもたらした昭和34年の台風7号の時には、韮崎市へ協力し、風雨の中、船山橋付近で多くの蛇籠を作って堤防の決壊を防いだそうです。

 かつてさかんに作られていた竹蛇籠も、現在はほとんど見られません。しかし、この自然の素材を生かした、環境への負荷が少ない伝統的な工法は、環境問題が叫ばれている昨今、再び注目を集めています。
 斉藤さん、清水さん、森本さんが作った蛇籠は、山梨県立博物館で現在行われている「信玄堤」展に展示されています。博物館へ足を延ばして、かつて私たちの生活を支えた竹蛇籠とその見事な伝統の技をご覧になってはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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一つ目小僧がやってくる ~芦安沓沢の昔ばなし~

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沓沢集落
 木々の紅葉と舞い散る落ち葉に深まる秋を感じていたのもつかの間、いつのまにか年の瀬迫る慌ただしい師走に入りました。今回ご紹介するのは、芦安地区の沓沢集落に伝えられる、ちょうどこんな肌寒い師走の昔話です。

 木こりの太郎助は、村の衆と山小屋に泊まり込んで山仕事をしていました。12月のお松節句の頃(13日)になると、仲間はいつものように正月準備のため村へ帰ることにします。しかし働き者の太郎助は、もっと稼ごうと1人残ることにしました。村の衆がいなくなった山の中はうって変わって静かになり、夕闇が深くなるにつれ、太郎助は心細くなりました。仕事もそこそこに山小屋に引き上げてきたところに「オーイ」と呼ぶ声。誰かと思い外に出てみると、そこに立っていたのは満月のような目が一つ、口は耳元まで裂けた一つ目小僧でした。恐ろしくて震え出した太郎助は、勇気を振り絞り、燃えさしを怪物の目玉めがけて投げつけます。すぐに鍵をかけ、布団にもぐり込んで、怖さに震えながら一夜を明かすと、朝、一目散に村へ逃げ帰りました。その後、あまりの怖さから太郎助は亡くなってしまいました。村の人々は欲張りの太郎助を一つ目小僧が懲らしめたのだと言ったそうです。

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 太郎助を「欲張り」と決めつけるのはなんだかあわれな感じもします。「働き者」であった太郎助は、なぜ一つ目小僧のために死んでしまうことになったのでしょうか。それを解く鍵は誰もが知っている「一つ目小僧」にあります。

 関東周辺で一つ目小僧が現れる日は実は決まっていて、12月8日と2月8日前後に集中します。沓沢でも師走の他に2月3日節分の日にも一つ目小僧が現れると信じられ、今でもバリバリの木の枝に鰯の頭を刺したものを魔よけとして玄関に飾っています。この信仰は「コト八日」と呼ばれる民間信仰で、古くから日本各地で行われていました。各地でさまざまな言い伝えがあるため、ひとくくりにはできませんが、この日は神様が移動する日とも考えられ、それゆえ人は神の姿を見ないよう家にこもり、物忌みする地域も多いのです。

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玄関に吊るされたバリバリの木と鰯

 12月13日に山仕事をせず、正月支度をする沓沢の風習は「コト八日」の慣習の一つであったのでしょう。太郎助が一つ目小僧と出会ってしまったのは、12月13日には山仕事をしないという古い約束事を破ったからなのです。一つ目小僧の昔話は山とともに生き、山の神を信仰してきた沓沢の人々の伝統を今に伝えています。

 ちなみに、この一つ目小僧、小正月に行われるどんど焼きにも関係しています。沓沢の言い伝えによれば、12月末に悪神がやってきて、病気になる人を帳面に付けます。その帳面を悪神は正月の間、道祖神に預けますが、村人を守る道祖神はそれをどんど焼きで燃やしてしまい、村人の1年間の健康を保証するのです。別の地域では一つ目小僧を悪神とする例が多く、沓沢でも「一つ目小僧=悪神」であったとも考えられます。

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沓沢集落のどんど焼き

 12月は一つ目小僧がやって来る季節。たまには家にこもってくつろぐことが必要かもしれませんね。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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堤の原風景(2) 現代に残る霞堤

 前回ご紹介した霞堤は、現在でも市内でわずかに当時の姿を見ることができます。今回のふるさとメールでは、霞堤を訪ねる散歩に出かけましょう。

 まず、霞堤に出合えるのは、国道52号線に架かる御勅使橋のたもとから御勅使川沿いの道に入り、東へ進んだところです。堤防と堤防の間には広く空き地が広がり、今でも遊水池が確保されていることが分かります。少し注意深く観察しながら歩くと、不連続に続く小高い盛り土が次々と現れ、途切れている堤防の形を実感することができます。現在の道は堤防を土台として造られているので、足の下に霞堤を感じながら、かつて遊水池であった低い土地に下り、そしてまた次の堤防の道上に上ることを3回ほど繰り返すと、信玄が開削したとの伝承が残る「堀切」にたどり着きます。

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現代に残る霞堤(御勅使川堀切付近)

 今度は、野牛島にある旧運転免許センター付近に足を延ばしてみましょう。旧運転免許センターの北側を東西に走る県道甲斐芦安線は、明治時代まで御勅使川の流路のひとつである「前御勅使川」であったことは以前ご紹介しました。その県道上にある野牛島の交差点の北西側の住宅の合間に、前御勅使川の左岸を守る霞堤の一部がひっそりと残されています。堤防の上には富士浅間神を祭る小さな祠(ほこら)が建てられ、かつては「富士講」が行われていたそうです。

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【左】野牛島に残る前御勅使川左岸の霞堤
【右】霞堤の上に祀られた富士浅間大神祠

 一方、旧運転免許センターの南側を見ると、こんもりとした土手が東西に続いていて、その上が道路となっています。この土手も御勅使川の右岸を守っていた霞堤から続く古い堤防の一つで、堤防がある徳永地区の旧村社熊野神社にちなみ、「お熊野堤(おくまんどい)」と呼ばれてきました。戦後、県道沿いの開発が進み、不要となった前御勅使川堤防はそのほとんどが削平され、道路や住宅に姿を変えました。その中で、御熊野堤は前御勅使川の堤防の姿を留めている数少ない遺跡の一つとなっています。

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【左】前御勅使川(旧運転免許センター付近)
【右】お熊野堤

 また、旧運転免許センターの北側に目を向けると、現在は平らな駐車場が広がっているだけで堤防の姿は見られません。しかし、発掘調査によって駐車場の地面の下から石積みの前御勅使川堤防が発見されました。現在、目にすることができるかつての堤防は多くはありませんが、まだ多くの霞堤が私たちのすぐ足元に眠っているかもしれません。

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発掘された前御勅使川左岸の霞堤(旧運転免許センター駐車場)

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

堤の原風景 霞堤(かすみてい)

 途切れることなく一直線に延びる堤防。洪水から人々や町を守る堤防がこうした姿であることは現在では当たり前ですが、少なくとも江戸時代から明治時代の堤防では、途切れ途切れの姿が普通でした。この不連続の堤防は明治時代ごろから「霞堤」と呼ばれるようになります。今週のふるさとメールでは堤の原風景のひとつ、霞堤をご紹介します。

 明治時代に作成された御勅使川周辺の地形図を見てみましょう。御勅使川や前々回ご紹介した前御勅使川沿いには、隙間が開いたたくさんの霞堤が描かれています。連続する現在の堤防から見ると、ちょっと不安に感じられますね。けれども、この隙間にこそ霞堤の秘密が隠されているのです。

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明治時代の地形図(図1)

 まず、前御勅使川沿いの堤防を見ていくと、不連続に続く堤防の一部が二重になっていることがわかります。これは、上流側の堤防が決壊した場合でも、下流側の堤防が洪水流を防ぎ、あふれた水が途切れた部分から再び河道へ戻る仕組になっていました。また、普段の生活からでる様々な水をこの隙間から川へ流す排水路の役割ももっていました。

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【左】六科交差点付近の地形図(明治時代)=図1の拡大=
【右】霞堤のしくみ

 次に御勅使川の堀切橋付近を見てみましょう。前御勅使川に比べると、堤防と堤防の間、つまり遊水地が広く確保されています。増水した時には途切れた部分から水を逆流させ、一時的に水を蓄える機能も果たしていたと考えられます。

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堀切付近の地形図(明治時代)=図1の拡大=

 このように霞堤は、先人の長い経験を踏まえながら「あふれる」ことも考えて造られた堤防でもあるのです。しかし、比較的傾斜が緩やかな河川では、江戸時代の中頃から、耕地をより広げるために途切れのない連続した堤防が造られ始めました。さらに、明治時代の終わりごろからコンクリートが普及したことで、洪水流に負けない強固な堤防が造られるようになると、御勅使川のような急流河川にも遊水地を伴わない連続した堤防が造られるようになり、霞堤は次第にその姿を消すことになりました。

 こうした時代の流れの中で、一度は役目を終えたかに見えた霞堤ですが、近年、霞堤をはじめとするかつての堤防の伝統的な工法が注目されてきます。それは、異常気象に伴う洪水が多発し、現代の技術をもってしても、洪水を完全になくすことができず、むしろ被害を拡大させるケースがあることが明らかになってきたからです。こうした反省から、力で抑え込むばかりの近代的技術一辺倒ではなく、氾濫(はんらん)することも想定して河川整備をしていた伝統的な河川工法が注目され、現代の技術と自然環境との調和への道が考えられはじめているのです。

 次回は市内に今なお残る霞堤や発掘された霞堤をご紹介します。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代の治水技術 芦安堰堤と源堰提

 前回のふるさとメールに引き続き、今回のふるさとメールでは明治・大正時代の水害とそれに対する近代砂防工事について話を進めていきます。
 前回ご紹介した明治29年の水害をはじめとして、明治時代には大規模な水害が多発しました。急速に山林伐採が行われ、周辺の山々が荒廃したことが原因です。では、いったい何が山の荒廃を招いたのでしょうか。それには近代化を急ぐ「明治」という時代が深くかかわっています。
 明治6年、県知事となった藤村紫朗は、山梨県の振興策として「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を掲げ、山梨県勧業製糸場を甲府に設置し、県内で蚕糸産業の育成を目指しました。その結果、煮繭や工場の動力のための燃料である大量の薪炭(しんたん)が必要となり、山林の伐採が拡大することとなりました。さらに、江戸時代には入会地となっていた山林が、明治14年以降政府の財源確保のため官有林に組み込まれたため、利用を制限された人々による森林の乱伐、盗伐を招き、山の荒廃が急速に進むことになります。こうして治水の土台である「治山」が損なわれ、大規模な水害が頻繁に起こりました。

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【写真】空石積で造られた大和川堰堤(山本政一氏蔵)
 明治16年、日本政府の要請により御勅使川を視察したオランダ人土木技師のムルデルは、早くから治山の重要性を説き、砂防工事の必要性を報告しました。この報告を受け、明治24年までに多数の砂防堰堤が御勅使川流域に造られましたが、明治期の堰堤はすべて空石積と呼ばれる石を積んだだけのものであり、ほとんどが流失してしまいます。その後、明治40年および明治43年に起きた記録的な大水害が契機となり、内務省によって「第一次治水計画」が立案され、御勅使川流域にも大正5年から昭和9年まで内務省直轄の砂防工事が行われました。この計画に沿って造られたのが、日本で初めて本格的にコンクリートを使用した芦安堰堤や源堰堤です。

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【写真】登録有形文化財の芦安堰堤

 芦安堰堤は山岳地域の芦安大字芦倉に設置された重力式堰堤です。コンクリートを使用した日本で初めての本格的な砂防堰堤で、大正5年に着工され、大正7年に竣工しました。しかしすぐに砂礫で埋まったため、アーチ式堰堤を上部にのせ、かさ上げする工法が採用されます。その結果、重力式堰堤の上にアーチ式堰堤がのせられている、全国の堰堤の中でもきわめて特徴的な構造となりました。堤高は22.65mで、アーチ式堰堤が完成した大正15年当時では、日本で最も高い砂防堰堤でした。

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【写真】芦安堰堤 アーチ式竣工時(左)と建設時(右)
(『芦安堰堤』 山梨県土木部砂防課・山梨県峡中地域振興局建設部より)

 山地から平地に至る下流部にも、コンクリートを用いた源堰堤が造られました。芦安堰堤に次いで、大正7年に着工され、大正9年竣工しました。高さ7m、長さは109.1mあり、竣工当時は日本で一番長いコンクリート堰堤でした。
 御勅使川の砂防工事の概要を報告した内務省の土木技師蒲孚(かばまこと)は、芦安堰堤と源堰堤を「御勅使川砂防の双璧」と表現しています。

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【写真】源堰提(三神みゆき氏蔵)

 このように日本の治水、砂防事業の画期となる堰堤群が整備されることにより、御勅使川の治水は大きな転換点を迎えることになります。以後下流域での砂防工事も進み、源堰堤より下流域での大規模な水害はほとんど見られなくなりました。芦安堰堤や源堰堤は、御勅使川扇状地や甲府盆地に生きる人々の暮らしを今も支えているのです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉

 前回は『浅原村引移一件』を通し、江戸時代の釜無川の河道変更と、それによって水害に翻弄された浅原村の移転の歴史をみてきました。今回からのふるさとメールでは明治、大正期の水害と新たに導入された治水技術の歴史に目を向けてみます。

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【写真】御影村明治29年水害状況絵図(南アルプス市蔵)。黒線が堤防、灰色が堤防の流失箇所、黄色が洪水流、朱色の四角が被災家屋

 明治時代の水害といえば「米キタアスヤル」で知られる明治40年と43年の大水害が有名ですが、明治29年に起きた水害もまた、御勅使川扇状地に暮らす人々にとって大きな転機となりました。その年9月6日から12日まで降り続いた雨は、御勅使川を初め諸河川に大洪水を引き起こします。山梨県全域での被害は、死者33人、家屋全壊・半壊500戸、家屋浸水4,792戸、道路損壊2,445カ所を数えました。この水害の被害状況を記した絵図が、御影村(現在の六科、野牛島、上高砂地区)の行政文書として残されています。その絵図には、将棋頭のやや下流の堤防が決壊し、洪水流が六科を越え野牛島の北を東流し、上高砂の集落を押し流した状況が描かれています。また前御勅使川の氾濫(はんらん)によって、六科集落が被害を受け、さらに下流の旧運転免許センター北側付近の堤防が決壊、その水が野牛島を越えて上高砂集落に到達し、多くの家屋が被災したことも分かります。実際に上高砂集落内を試掘調査した結果、地表から約1.1mの地点から近代の瓦が発見され、その上には明治29年の水害時のものと考えられる砂礫(れき)層が厚く堆積(たいせき)していました。この前御勅使川の氾濫はさらに、釜無川左岸の堤防を直撃し、10箇所延235間(約425m)を破堤させ、竜王村や玉幡村など釜無川左岸地域にも大きな被害を引き起こしました。

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【写真・左】=明治29年水害後の前御勅使川を写す貴重な写真。旧運転免許センター付近(齋藤善一氏蔵)
【写真・右】=上高砂被災状況。
屋根と地面の距離から、砂礫によって埋もれた状況がわかる(齋藤善一氏蔵)

 この洪水が契機となり、御勅使川の水害をなくす抜本的対策として、ついに前御勅使川を封鎖する決定がなされました。かつて県の土木課長を務め、当時は山梨県議会議員だった下高砂出身の穴水朝次郎(あなみず・ともじろう)の尽力もあり、前御勅使川を締め切って、現在の御勅使川へ流路を固定することとなったのです。その方法は、将棋頭から徳島堰(せぎ)まで330間(約600m)に渡る堤防を築くものでした。工事は明治30年に着手され、翌年に完了しました。こうして前御勅使川の長い歴史に幕が下ろされたのです。

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【写真】穴水朝次郎頌徳碑(下高砂廣照寺)。碑の裏面には、明治29年の水害の内容とともに復旧時寝食を忘れて堤防上で寝泊まりし、災害復旧に尽くしたことが刻まれている

 前御勅使川の流れを封鎖した堤防は「石縦堤」と呼ばれ、前御勅使川沿いの村々だけでなく、その先にある甲府盆地中央部をも守る重要な役割を果たしたのです。
 ちなみに前御勅使川は昭和に入ると四間道路が敷設され、現在は県道甲斐芦安線になっています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】