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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~②

 今回もさらに『浅原村引移一件』を読み解きます。
 近世初頭、釜無川の水害に翻弄されていく度も集落が移転し、ついには釜無川の対岸、西花輪村の「西河原」への仮住まいを余儀なくされた浅原村。
 しかし、この“仮住まい”はその後も長く続き、西花輪への仮住まいから60年後の元禄15(1702)年に描かれた甲斐国の絵図でも浅原村は釜川の対岸、東側に位置しています。

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【写真】甲斐国絵図元禄15(1702)年
※山梨県史資料編8近世1付図(財)柳沢文庫蔵

 このように、長く釜無川東岸に仮住まいを余儀なくされた浅原村ですが、18世紀、宝永のころになるとようやく転機が訪れます。
 竜王に信玄堤が構築されて以降、江戸時代になっても、釜無川の河道を整理する動きは連綿と続き、釜無川は正徳~享保(1711~1736)年間になってようやく、ほぼ現在の河道に定まったといわれています。釜無川の河道の整理が進んでくる中、釜無川西岸地域が安定してきたのでしょうか、『引移一件』によれば、浅原村では、釜無川の西岸、「中河原」というところに新たに耕地が開拓され、宝永元(1704)年に新田検地が行われます。しかし、川の流れが変わったためか、今度は逆に、浅原村が西花輪村に仮住まいしていたあたりに水害が頻発するようになってしまったようです。
 そこで、浅原村は、寛政3(1791)年、代官所に願い出て、新たに拓かれた釜無川西岸の「中河原」の地に移転し、ここに村をつくり、実に150年近くに及んだ浅原村の対岸への仮住まいに終止符が打たれることとなりました。18世紀末に至りようやく近世浅原村の基盤は築かれ、現在の集落もこの「中河原」を中心にひろがっています。
 しかし、浅原村が水害から完全に解放されることはなく、享和2(1802)年には幕府により浅原村の北端に「避水台(ひすいだい)」が造られています。避水台は水害時の村人の避難場所で、その後も村の苦難が続いたことを物語っています。避水台では現在も、浅原地区の人々により毎年水防祈願祭が行なわれています。

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【写真】避水台

 また、このような村の歴史を物語るかのように、浅原の人々のお寺、蓮性寺(れんしょうじ)は今でも川向こうの中央市西花輪にあります。

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【写真】蓮姓寺

 現在は、砂防技術や治水技術の発達により釜無川が決壊するような大災害の起こる確率は、非常に低くなっています。しかしながら、その確率がゼロになることはありません。10月に入り、台風シーズンも終盤を迎えていますが、『浅原村引移一件』が物語るように、つい最近まで、水害に腐心した時代があったことを思い出し、日ごろの防災意識を高めていきたいものです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①

 現在の南アルプス市浅原。市の最も西に位置し、釜無川に沿って集落が広がっています。ここの付近は、江戸時代は浅原村と呼ばれていました。
 浅原村の歴史は、水害に苦しんだ苦難の歴史でした。釜無川の流れに翻弄(ほんろう)され、多くの苦難を乗り越えて現在の地にあります。今回は、浅原村の苦難を記した古文書『浅原村引移一件』を読み解き、その苦難の歴史と先人の苦労を振り返りたいと思います。

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【写真・左】=浅原村の位置
【写真・右】=浅原村引移一件

 『引移一件』によれば、浅原村は、もともと釜無川の西側の「三ツ境」というところに集落を構えていましたが、水難により天正14(1586)年に「門田」というところに移転し、さらに慶長3(1598)年「宮ノ東」、元和8(1622)年には「青沼」というところに移転を余儀なくされています。いずれの地名も現在は残っていませんが、36年の間に、なんと3回も集落の移転をしなければなりませんでした。

 しかし浅原村の苦難はこれでも収まることはありませんでした。その後も村は水害に苦しみ、ついにはその20年後の寛永19(1642)年、釜無川の対岸、東側にある隣村の西花輪村にある「西河原」というところ(現在の中央市西花輪字西河原)への「仮住まい」を余儀なくされてしまいます。寛政3(1791)年以前に描かれたと見られる浅原村の絵図を見ると、村の領域が、釜無川の河道のただ中に広がり、川の東側、西花輪村に村居があったことがわかります。

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【写真】浅原村絵図(南アルプス市蔵)

 もともと釜無川と笛吹川の合流点に近く、平坦で低湿な浅原村でしたが、この時期にこれ程の移転を迫られた要因として、釜無川の河道が変わったことが可能性として挙げられます。甲府盆地においては、永禄3(1560)年頃には、竜王の信玄堤が完成していたといわれていますが、これによってそれまで竜王から南東(概ね現在の美術館通りに沿って)に向かって流れていた釜無川の流れが、その後徐々に南に向かうようになってしまったといわれています。

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【写真・左】=信玄堤構築前(想定図)
【写真・右】=信玄堤構築後(想定図)

 浅原村も竜王の信玄堤構築以降、釜無川の影響を強く受けるようになった可能性が高く、これ以降苦難の時代を迎えることになったのかもしれません。浅原村周辺は、中世は奈古(南湖)庄に比定され、近世にいたっても、釜無川の西側にありながら、西郡筋(にしごおりすじ)ではなく、中郡筋(なかごおりすじ)に属しています。そんなことからも釜無川の流れの変遷をうかがうことができます。
 江戸時代に編さんされた地誌『甲斐国志』には、浅原村は「釜無川難に境域広く亘(わた)り古は強邑なりしと見ゆ」と書かれています。奈古(南湖)庄には甲斐源氏奈古十郎義行が拠点を構えたとされ、釜無川の河道が変わる前には、現在では知ることのない、豊かな歴史が育まれていたのかもしれません。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~④
町のいたるところに見られるロタコの痕跡

 前回までに紹介した場所以外にも、御勅使川扇状地上では至る所に「ロタコ」の痕跡を見ることができます。たとえば…
 とある畑の中に農業資材を置くために使われた鉄の棒、実は当時横穴壕を掘るのに使われたトロッコのレールなのだそうです。いまでも畑を耕していると、このようなトロッコのレールなどが見つかることがあるそうです。

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【写真】トロッコのレール

 当時、航空本部として接収された敷地内にあった、メロンなどを栽培した温室は、覆いをかけ兵舎として活用されました。戦後はまた温室に戻されましたが、このように現在も使い続けられています。

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【写真】戦時中兵舎に転用された温室

 今では立派な片側2車線の道路。ここでは、ロタコ工事の際に既存の道を拡幅して誘導路にする工事が行れたそうです。

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【写真】誘導路だった道路

 また、この農道は、ロタコ工事のときに動員された地域住民によって、新たに誘導路として作られたものです。その後、多くの施設が畑や田んぼに戻されるなか、「便利だったので」そのまま残され、現在まで農道として使い続けられています。

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【写真】誘導路だった農道

 こちらは、飯野の通称「おてらみち」。人々が常楽寺に参る昔からの道です。この道も当時は拡幅され、掩体壕(えんたいごう)と滑走路をつなぐ誘導路として整備されました。

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【写真】常楽寺にむかう「おてらみち」

 今年指定文化財となった掩体壕以外にも2ヶ所、現在も掩体壕の基礎が残されています。

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【写真】畑の中に残された掩体壕の基礎

 今回紹介した場所は、言われなければ分からない日常の風景の中にあります。地域の方々にしか分からないこのような場所も、戦争を体験した方々が亡くなっていく中、忘れ去られようとしています。今、証言や記録を残しておかなければ地域の歴史として残すことはできません。
 ロタコについては、南アルプス市が散策マップやパンフレットを作製しています。市役所、各支所、市内図書館、みちの駅、教育委員会文化財課の窓口などで入手することができます(無料)。一度手に取り、過去の戦争の歴史を訪ね、未来の平和について思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
 また、皆様の地域の何気ない日常の風景の中にも、意外な歴史が残されているかもしれません。そのような歴史を発見し、大切に語り伝えていくことが、今求められています。

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【写真】ロタコの散策マップやパンフレット

※これまでに紹介した見学スポットの多くは私有地です。土地への立ち入りについては予め了承を得るなど、充分に注意してください。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~③
横穴壕(よこあなごう)

 御勅使川扇状地の西縁に沿ってそびえる山肌、飯野地区西端の福王寺の裏山から築山地区にかけての全長2.7kmほどの山すそにはロタコ工事に伴って数多くの横穴が掘られました。

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【写真】横穴壕が造られた山地。南端は現在のループ橋付近

 その数は山梨県の資料によれば55カ所。終戦によって未完成に終わった横穴もありましたが、完成していた部分では、内部で各横穴が縦横に連結され、エンジンの整備や製造、燃料や弾薬などの備蓄に使われました。

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【図】山梨県庁に残る横穴壕の図面。そのおおよその位置と規模が分かる

 完成した横穴壕には電気も引かれ、夜でも昼間のように明るかったとの証言もあります。壕内には旋盤などの作業機械が持ち込まれ、「ジュラルミン」を加工する作業が行われていました。その際、不要になった「ジュラルミンの機体の切れ端」が外に積んであり、当時子どもで、それを拾ってきて遊んだという地域の人たちの証言もあります。
 また、終戦時地域の人たちの証言や県の資料によれば、壕内には、航空燃料を入れたドラム缶約200本、機関砲弾15,000発、100キロ爆弾200発などが残されていたといいます。
 戦後、地域住民と残務整理の兵隊でこれを米軍にわたすため近所の神社の裏に集めたそうです。しかし、いよいよ米軍にこれを渡す日の前夜、そのまま渡すのは忍びなく、ドラム缶に穴を開け、その多くを地面に浸み込ませてしまったというエピソードが残っています。

 横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、実際に工事に携わったのは朝鮮半島出身の人々、いわゆる朝鮮人労働者の人々でした。地下壕周辺での作業では、地域の青年学校の生徒や、旧制甲府中学(現甲府一高)の学生も動員されましたが、実際に壕を掘る作業はもっぱら朝鮮人労働者といわれる人々のみが請け負いました。
 朝鮮半島出身の人々はみな家族で来ており、地域の人々の提供した物置や蚕室などに暮らし、彼らの子どもたちは、当時の源小学校や飯野小学校など近くの小学校に通っていたそうです。ロタコにかかわった朝鮮人労働者の総数は優に1000人を超えるとの証言もあります。

 横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。掘削作業では、落盤を防ぐため、「ひと抱えもあるような太い松の丸太」で支柱を立てながら徐々に掘り進みましたが、不幸にも落盤によって命を落とした労働者もいたことが分かっています。工事は、休みなく交代制で、夜間も行なわれていたという証言があるほか、工事には1日1mの掘削が義務づけられていて、ノルマがこなせない場合には夜間も工事を行なったとの証言もあります。掘った土はトロッコに載せて壕の外に運ばれました。現在も山すそに沿って横穴壕を掘削した時の排土によってできた土の山をいたるところに見ることができます。

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【写真】横穴壕跡の陥没とトロッコの排土跡

 横穴壕は、ロタコ構築工事の中では、最も早く着手された施設といわれ、一般に昭和19年秋頃から建設が始まったといわれていますが、これより前から始まっていたという証言もあります。

 工事は終戦により未完成のまま終了しました。終戦後、横穴壕を支えた木材は、空襲で焼けた甲府市街の復興需要に対応するため地域住民により持ち出されたほか、戦後もこの地にとどまった(とどまらざるをえなかった)朝鮮人労働者が生活のために造った「ドブロク」の製造のための燃料として持ち出されたりしました。そのため、もともともろい地盤に作られた地下壕は支柱を失い、次々に崩落し、現在口を開けている壕は一カ所もありません。今は山の斜面のいたるところに見られる地形の陥没した跡に往時の工事の様子を垣間見ることができるのみとなっています。
 一見すると見過ごしてしまいそうな山肌ですが、朝鮮人労働者をも巻き込んだ戦争の爪あとを今に伝えています。

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【写真】横穴壕跡の陥没。地域ではいたるところにU字形や円形の陥没跡を見ることができる

 地域には、朝鮮人労働者が使った道具が今でも残されています。これは、戦後とり残された彼らが、帰国するとき、せめてもの路銀の足しになればと、地域の方に買い取りを依頼したものです。地域に残された遺物が、終戦により取り残された、彼らの非常な苦労を私たちに伝えてくれています。

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【写真】朝鮮人労働者や軍属が使用していた道具(左からツルハシ、ジョレン、食器)

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【写真】食器にはそれぞれ持ち主の名前や出身地などが刻まれている

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②
八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路跡

 広大な御勅使川扇状地の扇央部を縦断する滑走路跡。主軸はまっすぐに北方の八ヶ岳の方向を向いています。これはこの地方特有の強い季節風、いわゆる「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)」を意識したものです。滑走路幅は100m、長さは約1500mで大型機の離発着も可能な規模でした。
 滑走路の南端は飯野の三宮神社(みつみやじんじゃ、通称おさごっさん)付近、北端は遥か御勅使川沿いの現在の県道甲斐芦安線と交差し、滑走路には飛行機を運ぶためのいくつかの誘導路が接続していました。

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【写真・図】滑走路

 現在でもその痕跡を確認することができます(写真中央の方形の区画が滑走路の南端になります)。

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【写真】三宮神社

 滑走路南端付近の三宮神社は、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして動員された地域住民の集合場所でもありました。

 滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよくのこしています。滑走路の北端付近は、東側に傾斜する地形を切土して造成されました。

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【写真・左】=滑走路南端付近の盛土。現在もその痕跡を明確に確認することができる
【写真・右】=滑走路北端の段差。住宅地の中、見過ごしてしまいそうだが傾斜した地形を切土した造成の跡が現在まで残っている

 造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は、「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。

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【写真・左】=実際のロタコ工事に使われたジョレン。地域の方が保管していた
【写真・右】=パイスケ。滑走路の工事を体験した方が当時の様子を伝えてくれた

 地域に残る資料や証言によれば、造成には釜無川西岸地域全域(現在の韮崎市の一部、南アルプス市および増穂町全域)の住民が少なくとも1日3000人、また、いわゆる朝鮮人労働者といった方々などが動員されたといわれています。
 地域住民の本格的動員は昭和20年3月6日に始まり、作業は毎日午前7時に現地集合、7時30分より開始し、午前午後それぞれ15分の休憩と昼休みをはさみ午後5時までで「距離ノ遠近其ノ他ノ理由ヲ問ハズ出動時間ハ絶対厳守ノコト」とされました。若い男性がほとんど戦争にいっているため、動員され作業を担った多くは老人や女性などで、なかには赤ん坊を背負った女性や、農作業や土木作業などの経験がほとんどない都会から疎開してきた人もいたといわれています。
 平成17年度に行われた発掘調査の結果からは、当時の人々が行った造成工事様子を垣間見ることができました。

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【写真】発掘調査の様子

 造成の終わった滑走路では、山から採取してきた松葉などを敷き詰めたり、イモやマメの栽培を行ったりしてその存在を隠しました。松葉の採取については、もっぱら地元の源国民学校(現白根源小学校)の生徒が動員され、証言によれば、松葉は数日で枯れて赤く変色してしまうので数日ごとに新鮮な松葉を敷きなおす作業を強いられたそうです。
 当時源国民学校の教師であった方の証言によれば、当時は毎日勤労奉仕などで授業はほとんど行わなれなかったそうで、山に松などの枝を取りに行った山中で、本来は禁止されていたけれど、「子供たちのためを思って国語と算数だけは」隠れてこっそり教えたのだそうです。

 滑走路は、終戦前に数回、終戦後米軍が調査のために一度降り立ったほかは、ほとんど使われることはありませんでした。まさに幻の飛行場であったわけですが、御勅使川扇状地に残るその痕跡は、現代に生きる我々に六十数年前の人々の苦労を伝えてくれています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~①
戦争の記憶を伝えるということ

 前回(7月1日号)は、新たな指定文化財の中で、「ロタコ」の存在を紹介しましたが、太平洋戦争中、大規模な空襲などの被害がなかった南アルプス市のなかで、実際には現在の町並みの中に戦争の痕跡を今に伝えるモノや場所を見つけることはなかなか難しく、日常生活のなかで、「戦争の記憶」を呼び起こすことはほとんどないかもしれません。

 しかし、現実には終戦直前の昭和20年7月30日、南アルプス市域南部から増穂町にかけて、米軍艦載機が飛来し、死者4名、負傷者4名の犠牲者を出しており、終戦直後には旧豊村(櫛形地区)の満蒙開拓団140名あまりが現地で集団自決するという痛ましい事件がありました。また、この戦争における南アルプス市域出身者の戦死者数は実に1,906人にも及び、戦争のつめ跡は大きく深く地域の人々の心には刻まれていたといえるでしょう。

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【写真】満州開拓殉難者慰霊碑:「分村」して満州に渡った豊村の人々が、終戦により中国東北部で孤立し、ついには昭和20年8月17日幼児を含む140名余りがダイナマイトにより集団自決した事件を悼み、吉田の諏訪神社境内に建立された。

 ところが、まもなく63回目の終戦記念日を迎えようとする現在、戦争を直接、間接に体験した世代は少数派となり、戦争の記憶を語り継ぐことが困難な時代になっています。いまや、戦争を語り継ぐ主役はいやおうなく、体験者の「コトバ」から、戦争遺跡や遺品などの「モノ」頼らざるを得ない時代に移りつつあります。

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【写真】勤労動員の碑:戦時中、木工所や製糸工場に勤労動員され、勉強できずに苦労した飯野国民学校(当時)の生徒たちが、その苦労を次世代に伝えるために建てたもの。白根飯野小学校にある。

 このような時代にあって、戦時中「ロタコ」の暗号名で呼ばれた遺跡は、南アルプス市にも確かに戦争があったのだということを今に伝えるモニュメントとして大きな意味をもつことになります。
 地域の歴史を記した町村誌において、地域住民らを動員して行なわれたロタコ工事に関する記載は、南アルプス市を構成する旧6町村のうち、ロタコのある白根町を含む全ての町村にみられ、この遺跡が地域における戦争の記憶として象徴的な役割を果たしうることを伝えています。

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【写真】市町村の歴史に残るロタコ

 アジア太平洋戦争末期、東京立川にあった軍施設、立川航空工廠(たちかわこうくうこうしょう)の機能を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたとされる秘匿飛行場ロタコ(第2立川航空廠の暗号名)。広大な御勅使川扇状地上の約800ヘクタールもの範囲に点在するその痕跡は現在の町並みの中に没し、なかなか気付くことはありません。次回から数回にわたって、何げない街角に残る、この「戦争の記憶」を紹介していきたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

新指定文化財のよこがお④
ロタコ(御勅使河原飛行場)跡3号掩体壕
~遺された戦争の記憶~

 掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。
 今回市指定文化財となった掩体壕は、今から60年余り前、太平洋戦争末期に「ロタコ」工事に伴って構築されました。

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【写真】調査が行われる前、掩体壕は住宅街の一角にひっそりと眠っていた

 太平洋戦争末期の昭和19年~20年頃になると日本本土は、米軍から直接爆撃を受けるようになり、主な軍事施設は地方への分散疎開が検討されました。このような中、東京立川にあった軍施設、立川航空工廠(たちかわこうくうこうしょう)の機能を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたのがロタコ(第2立川航空工廠の暗号名)だと言われています。
 旧日本陸軍の記録には、「御勅使河原飛行場」として登場するこのロタコの建設工事では、現在の南アルプス市飯野、有野地区を中心に、地域住民や、いわゆる朝鮮人労働者を動員して、大型機も離着陸可能な幅100m・長さ1500mの滑走路をはじめ、誘導路、ピスト(管制塔)、横穴壕(地下工場)、そして掩体壕などの様々な施設が構築されました。
 秘匿(秘密)飛行場という性格から、それぞれの施設は、広大な御勅使川扇状地上の約800ヘクタール(東京ドーム171個分)もの範囲に点在して作られ、現在もその施設のいくつかについて当時の面影を見ることができます。

 今回指定文化財となった掩体壕もそのひとつであり、滑走路のちょうど1kmほど南にあって誘導路を介して滑走路に接続していました。
 ロタコの施設では、このほかに2基(1・2号)の掩体壕の存在を確認することができます。

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【写真】3号掩体壕の全景

 掩体壕には、屋根のないものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られていますが、現在確認できるロタコの掩体壕は、コンクリート製の基礎に木製の「覆い」を架けるものです。現在木製の「覆い」はすでになく、コンクリート製の基礎のみが遺されています。
 大きさは、幅20m、奥行き16m程で、戦闘機1機を納めるのにちょうどよい大きさです。平成17年度に行われた発掘調査の結果、半地下式の構造で、床面には、厚さ10cmほどもある立派なコンクリートの床(スラブ)が打たれていることがわかりました。

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【写真・左】=掩体壕の調査風景
【写真・右】=調査の結果分かった掩体壕の復元想像図

 終戦後60年余りを経て、戦争に対する人々の記憶が薄れる中、掩体壕はロタコを象徴する遺構のひとつとして、南アルプス市にも確かに戦争があったのだということを未来に伝えるとともに、動員された地域住民の過去のある時期に関する「共同の記憶」を象徴するものとして、重要な文化財ということができます。

 このような戦争の記憶を「モノ」として遺していこうという動きは、現在全国的に広がりを見せており、太平洋戦争を記憶する遺跡として、広島の原爆ドームや沖縄の南風原(はえばる)陸軍病院壕などが国指定史跡となっているほか、100を超える遺跡が指定・登録文化財となっています。山梨県では山梨大学赤レンガ館が国登録文化財となったのに続き、今回の指定が2例目となりました。掩体壕に限ってみても、ロタコ以外に、大分県宇佐市や高知県南国市をはじめすでに全国5ヶ所で指定・登録文化財となっているのです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

新指定文化財のよこがお③ 木造厨子入り地蔵菩薩坐像 ~厨子に遺された銘文がかたるもの~

 今回紹介する仏様も、前2回と同様、現在実施中の市内仏像等悉皆(しっかい)調査の過程で『発見』された仏様です。

 若草地区十日市場の県道に面したお寺、法憧院のご本尊「木造厨子入り地蔵菩薩坐像(もくぞうずしいりじぞうぼさつざぞう)」は、読んで字のごとく、お厨子に納められたお地蔵さまです。今回お地蔵さまと、これを納める厨子がセットで市指定文化財となりました。
 十日市場地区で県道に面したお寺といえば、鎌倉時代につくられた十日市の市神さま、安養寺の通称「鼻採地蔵(はなとりじぞう=市指定文化財)」が有名ですが、今回紹介する法憧院のお地蔵さまは、これより少し後の戦国時代(今から480年ほど前)に造られた仏様です。

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【写真・左】=厨子に納められたお地蔵さま
【写真・中】=法憧院の本尊 木造地蔵菩薩坐像
【写真・右】=宮殿型の厨子(内面に墨で銘文が描かれているのが分かります)

 像高約20cmのこの地蔵菩薩坐像は非常にまとまりのいい作例で、戦国時代という時代を代表する様式を備えており貴重です。また中世に遡る単独の厨子は山梨県内では珍しく当時の建築様式を知る上でこちらも貴重な資料ということができます。これに加え、厨子内面の三つの壁面には全体に墨で銘文が書かれていて、今回、私たちにさまざまなことを教えてくれました。

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【写真】厨子内面に描かれた銘文(コンピュータにより画像処理)

▽銘文の読み下し(秋山敬氏による)

甲陽の城主
十日市場の宝憧庵の公用なり。
本尊地蔵の宮殿の事
檀門宅庭中の出俗男女、毎月費用を捧げ、斯の助成を以て造り奉り、殿内に入仏申すなり。材木の檀那は小池入道浄慶、同じく番匠刷(かいつくろい)は当庵檀那の河西淡路守、大工は加賀美五郎右衛門。
本願主は当庵住持周紹蔵主なり。
天文三年甲午八月彼岸の辰(とき)なり。
筆者元明周、之を鑑(かんが)みる。

 

 書かれた銘文からは、天文3(1534)年に檀家の人々が毎月費用を出しあい、大工加賀美五郎右衛門に依頼して厨子を造立した経緯が書かれ、当時の人々の厨子建立に寄せる思いを今に伝えています。

 1行目の甲陽は甲斐国の美称です。厨子の造られた天文3年当時、甲陽「城主」は武田信虎(信玄のお父さん)です。大工の加賀美五郎右衛門ですが、時期的に最も近い記録として、天文4(1535)年、武田八幡神社の本殿「かゝミの十人 □右衛門との」の墨書銘があるほか、近世を迎えると甲斐国の国役職人の大工として中郡筋畔村(現在甲府市)に加賀美家がおかれたことが知られています。五郎右衛門とどのような関係にあるかは今のところ明確にできませんが、同姓であり今後検討していくと面白いかもしれません。
 この大工の手配をした(「刷」は準備を整えること)のは檀家の河西淡路守ですが、このころ、隣の鏡中条村には武田家家臣の河西与右衛門が住んでおり(『国志』巻九八)、鏡中条村の巨摩八幡宮に天文18年に河西但馬守が寄進をしたとの記録があることから、河西淡路守はこうした人々に連なる人かもしれません。厨子には武田家の家紋(武田菱)も描かれます。
 また、ここに「十日市場」の村名が見えることは、甲府盆地に春を呼ぶ祭りとして有名な「十日市(南アルプス市指定史跡)」の起源が、少なくともこの銘文が書かれた天文3年(1534)以前に遡ることが分かり、「市」の起源を考える上でも重要です。
 このように短い銘文ですがさまざまな内容が含まれており、今後検討していくと、まだまだいろいろなことが分かりそうです。

 中世に遡る作例で仏像、厨子がそろい、銘文が伴う例は県内では非常に稀なことです。そこからいろいろな情報を提供してくれたこの厨子入り地蔵菩薩坐像は、仏教美術、文献史学はもとより、当時の大工が造った厨子の構造は建築史、お寺の立地や当時の歴史的環境は考古学と、さまざまな分野の研究者にとって重要な作例であり、今回も多方面からの調査が行なわれました。市内にはほかにも戦国時代に造られた仏様は数多くありますが、この仏様は、このように「総合的に」すごい仏様なのです。

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【写真】芝浦工業大学渡辺洋子氏(建築史)、市文化財審議委員 鈴木麻里子氏(仏教美術)による学際的な調査風景

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

新指定文化財のよこがお② 木造十一面観音及び毘沙門天、不動明王立像 ~日の目をみた日不見観音(ひみずかんのん)~

 今回紹介する仏様は、前回の阿弥陀様と同様、現在実施中の市内仏像等悉皆(しっかい)調査の過程で『発見』されたものです。調査の結果、この仏様は平安時代まで遡る、南アルプス市最古級の仏像であることがわかりました。市内でも平安時代まで遡る仏像は5件に過ぎず、1件が国指定の重要文化財、3件が県指定文化財になっています。

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【写真】十一面観音を中心に、向かって右が毘沙門天、左が不動明王

 今回紹介する仏様は、もともと若草地区寺部の円通院に安置され、現在は円通院が廃寺となったため、下今井地区にある隆円寺が管理している木造十一面観音(もくぞうじゅういちめんかんのん)及び毘沙門天(びしゃもんてん)、不動明王立像(ふどうみょうおうりゅうぞう)です。

 この十一面観音像は、『甲斐国志』によれば、別名「日不見観音(ひみずかんのん)」ともいわれ、実は33年に一度しかご開帳されない秘仏として大切に祀(まつ)られてきた仏様だったのです。これまで存在が広く知られていなかったのには、このような事情があったのでしょう。今回はお寺にお願いして特別に許可を受け、調査をさせていただくことができました。また、よく観察すると、このお像の光背や台座の一部が焼け焦げて失われています。円通院のお堂は、昭和59年に火災により焼失し、その後再建されることはありませんでしたが、このお像は間一髪、焼失の危機を免れたのだそうです。観音さまの霊験でしょうか。

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【写真・左】=十一面観音像(やわらかな微笑をたたえています)
【写真・中】=毘沙門天像(きりりと鼻筋がとおり迫力のある面持ちです)
【写真・右】=毘沙門天像(十一面観音像とは逆に憤怒の表情を浮かべています)


 三尊のうち、十一面観音像と毘沙門天像は、一本の材から彫り出し、内刳(うちぐり)を施さないいわゆる一木造(いちぼくづくり)という古い時代の製作技法でつくられていて、平安時代前半11世紀頃(今から約1000年近く前!)の作と考えられます。ちょうどあの紫式部が活躍した時代と重なります。一方、不動明王像は同様の構造ですが、衣の表現などから二像よりやや遅れた12世紀前半頃の造立(ぞうりゅう)とみられます。

 観音さまを中尊とし、不動明王像と毘沙門天像を脇侍(わきじ)とする形式は、10世紀末頃に天台宗の総本山、比叡山延暦寺で成立し、その後天台宗のお寺で多く造られますが、今回発見された仏様はこうした天台形式の三尊像のなかでも全国的に見て古く、この形式の地方への広がりを考える上で重要です。また、この三尊像の発見により平安時代前半期の山梨県に天台宗が伝わっていたことが確実になり、県内で天台宗の広がりを示す最も古い事例として山梨の仏教史を考える上でも重要な発見となりました。

 さて、この仏像が安置されていた寺部の円通院周辺は、御勅使川扇状地の末端部にあり、扇状地の豊かな伏流水に支えられて原始古代から人々が生きた痕跡が確認できる市内有数の遺跡の集中地帯となっています(2006年10月15日 第80号)。円通院の周辺にはこの仏さまが造られたのと同じ平安時代の遺跡も数多く見つかっています。

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【写真】円通院のすぐ近くで発見された平安時代のムラの跡

 平安時代、煌(きら)びやかな貴族文化がまず連想されますが、遺跡の発掘調査から、この頃ここに暮らした人々は基本的に地面に穴を掘って作った竪穴住居で生活していたことがわかっています。実際にここに紹介した竪穴住居を残した人も、この観音様に篤い信仰をよせていたのでしょうか。

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【写真・左】=発見された平安時代の竪穴住居跡(土に穴を四角形に掘り、壁際にカマドを造っています)
【写真・中】=竪穴住居の復元想像図(最近の研究では、竪穴住居跡の屋根は、茅葺=かやぶき=ではなくこのような「土葺」だったことが明らかになってきています)
【写真・右】=竪穴住居跡から見つかった平安時代の土器


 南アルプス市のもう一つの遺跡の集中地帯、百々や上八田、榎原地区。くしくもその中心にある長谷寺(ちょうこくじ:本堂が国重文)にも、平安時代に遡る十一面観音様が安置され、こちらも33年に一度ご開帳の秘仏となっています。古代の篤い観音信仰の広がりを垣間見ることができます。

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【写真】=長谷寺の木造十一面観音立像(県指定文化財)

 なお、今回の調査では、この三尊像に「虫くい」が進行していることが明らかになりました。このままでは、1000年もの間人々が大切に守り、火災にも耐えた貴重な文化財が朽ち果ててしまいます。早急に「くん蒸」するなどの対応をとりたいと思います。
 このように、文化財の調査には、地域に眠る文化財に光を当てるとともに、文化財の状態を把握するという重要な目的もあるのです。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

新指定文化財のよこがお① 木造阿弥陀如来坐像
~鎌倉時代の人々の想いにふれる~

 平成20年4月、南アルプス市教育委員会では、新たに4件を市の文化財として指定しました。いずれも、南アルプス市の歴史や文化を語る上で欠くことのできない貴重な財産です。4件の指定物件のうち仏像3件は平成22年度まで5ヵ年をかけて実施中の「市内仏像等悉皆(しっかい)調査」の過程で発見されたものです。また、もう一件、戦争遺跡ロタコについては、平成17年度から市が文化庁などの補助金を得て継続的に調査を実施してきたものです。
 今回から4回にわたり、この新たに加わった指定文化財のプロフィールを紹介したいと思います。まず今回は、下今井地区、隆円寺所蔵の木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)です。

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【写真・左】=木造阿弥陀如来坐像
【写真・右】=像の表面(めずらしく造立当時のまま現在まで伝えられており、特に衣の部分全面にはさまざまな截金=きりかね=文様がよく残っています)


 今回指定となったこの仏像は、かつて同じ下今井地区にあった慶昌院に安置されていたものと云われます。像高41.2cmの寄木造で、全体のバランスが良くとれ、しかも引き締まった造形をみせます。制作年代は鎌倉時代半ば頃と考えられ、端正で洗練された作風から作者は京の仏師が想定されます。

 指定に際し、山梨県立博物館の協力を得てファイバースコープなどで調査した結果、本像頭部の内側には、文書が2通納入されていることがわかりました。像内に願文や納入品を奉納した阿弥陀如来像の発見は県内では初めての事例となります。

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【写真・左】=ファイバースコープによる調査
【写真・中】=仏像の底面からファイバースコープを挿入し、頭部内面を写した画像(頭部に文書が納入されていることがよくわかります)
【写真・右】=古文書調査の様子


 慎重な作業の結果、幸運にもこのうち1通を取り出すことができました。2枚からなるこの文書には仮名文字でくりかえし「なみあみだぶつ かならず かならず ミチ 行かせ給へ」と浄土往生を願う言葉が記され、この仏様が当時の篤い浄土信仰のなかで造られたことがわかり、阿弥陀如来像に寄せる当時の人々の信仰を具体的に伝える貴重な作例といえます。

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【写真・左】=人々の想いをいまに伝える古い文書
【写真・右】=        〃


 一連の調査を通じ、遠く鎌倉時代に実際にこの南アルプス市に生きた人々の生々しい、そして切なる想いにふれることができた発見でした。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】