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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

日本で二番目に高い山「北岳」

 南アルプス市には北岳、間ノ岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山と3000メートル級の山々があります。当市からは鳳凰山・櫛形山・夜叉神峠など前衛の山々にさえぎられて全貌を見ることはできません。場所によりわずかに北岳や間ノ岳、農鳥岳の頂上付近を見ることができます。
 ここには、平地にはない花々が咲き乱れ、山を彩ります。今回は日本で二番目に高い山・北岳(3,193m)とそこに咲くキタダケソウについて探ってみます。

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【写真】=初冬の北岳

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・。中学校の古典の授業で必ずといっていいほど暗記をする『平家物語』の冒頭部分です。その『平家物語』の中に、甲斐の白根が登場します。一ノ谷の戦いで捕虜となった平清盛の三男重衡は、鎌倉へ護送される途中、駿河国(今の静岡県岡部町、静岡市周辺)まで来たとき北に白い雪山を見ます。「宇津の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越しを過ぎて行けば、北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。その時三位の中将、落つる涙を抑えつゝ」と書き、次の短歌を添えています。

惜しからぬ命なれどもけふまでに、つれなきかひの白根をもみつ

 残念ながら、東海道から北岳を見ることはできません。しかし、甲斐の白根という存在が都まで知られていたことを示しています。
 江戸時代の『甲斐国志』にも北岳の描写があります。「此ノ山ハ本州第一ノ高山ニシテ西方ノ鎮メタリ」で始まり、大加牟婆池(白根御池)の伝説や山頂の様子も記述されています。
 近年の登山ブームの火付け役になった深田久弥は、『日本百名山』の中で「富士山の大通俗に対して、こちらは哲人的である」と北岳を紹介しています。
 日本の近代登山の先駆者として知られる小島烏水や木暮理太郎らによって、日本の名山が世に紹介されました。それまで信仰が目的であった登山からスポーツとしての登山を楽しんだ外国人宣教師、W・ウェストンの功績も大きいものがあります。ウェストンは明治35年、当時旧芦安村長であった名取運一らの協力を得て、外国人として初めて北岳の登頂に成功しました。『日本アルプス再訪』に、「有名な諏訪湖の南岸から始まり~中略~富士山の西の太平洋の近くまで至る三角形の大山塊を指して、私は《南アルプス》と呼んだ」と書いています。

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【写真・左】=二俣よりバットレスを望む
【写真・右】=北岳山荘より富士山と櫛形山

 この高峰北岳には、固有の高山植物がいくつか生育しています。キタダケトリカブト、キタダケヨモギ、キタダケデンダなどがありますが、何といっても代表は、世界にここにしか咲かないキタダケソウです。キタダケソウは、登山シーズン前の梅雨時、残雪の残っているとき花を咲かせるので、なかなか見ることが出来ません。発見されたのは、僅か70年ほど前のことです。

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【写真】=キタダケソウ

 富士山や櫛形山のように、高い山は県や市町村の境になっている場合がほとんどです。しかし北岳はどの市町村とも接していません。日本第二の高峰北岳が南アルプス市の中にドンと構えているのです。
 北岳はこのように日本、世界に誇りうる山です。

【連載 今、南アルプスが面白い】

祝300歳 安藤家住宅
リニューアルオープン!

 甲西地区西南湖の細い道に囲まれた一角にたたずむ安藤家住宅。今からちょうど300年前、宝永5(1708)年に建てられた重要文化財です。

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【写真・左】=保存修復工事前の主屋
【写真・右】=  〃   工事後の主屋

 前回の保存修復工事から20年が経過し、建物等の傷みが目立つようになったため、平成18年度~19年度にかけて修復を行いました。
 修復前の主屋、長屋門の茅葺(かやぶき)屋根は、茅(かや)を押える役目をする押鉾竹が露出するなど傷みが激しかったのですが、今回の修復できれいになりました。その他にも、樹齢300年を超えるといわれる、市指定天然記念物「避雷針の松」の根が成長し、渡り廊下を持ち上げていました。根を傷めないよう注意しながら渡り廊下の修復を行い、他にも腐食した板塀、漆喰(しっくい)や瓦等を修復しました。

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【写真・左】=主屋の葺き替え
【写真・中】=茅葺に使う道具
【写真・右】=板塀の修復

 ところで安藤家住宅の誕生日がどうして分かったのでしょうか。それは、当時の「棟札」が残されていたからです。建物の建築や改築のとき、柱などに取り付けられたもので、大工さんや家の主人が、家内安全や無病息災を願って作った木の札です。安藤家の場合この棟札に宝永5年と書かれていました。
 前年の宝永4年には宝永の大地震が起こり、その後富士山が最後の噴火(宝永の噴火)をしています。このとき、江戸まで火山灰が届きましたが、甲府盆地側はほとんど影響を受けなかったそうです。この5年前(元禄15年)には忠臣蔵で有名な赤穂浪士の討ち入りが起きています。

 安藤家住宅は4月26日から一般公開が再開されます。安藤家の古い写真や修復風景、端午の節句飾りや約9mの鯉幟(こいのぼり)を展示しています。この機会にぜひ一度安藤家住宅に足をお運びください。皆様のお越しを心よりお待ちしています。

 

◆開館時間
 午前9時から午後4時30分(最終入館は午後4時)

◆入館料
 大人:300円
 小・中・高校生:100円

◆休館日
 毎週火曜日

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

白狐の伝説残る常楽寺

 白根地区飯野に常楽寺というお寺があるのをご存知でしょうか。このお寺の門前脇には、寺の守護神と伝えられている白狐を祀る小さな石の祠(ほこら)があり、それにまつわる昔話があります。

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【写真・左】=常楽寺
【写真・右】=門前にある白狐の祠

 慶長年間(1596~1615)には、降り続いた豪雨により河川が氾濫し、一瞬の間に全てのものが押し流されてしまいました。ちょうどこのとき円隆和尚という、布教を続ける和尚さんがこの荒地を通りかかったところ、一匹の白狐が現れ、道案内をするように和尚さんの前を振り返りながら歩きます。和尚さんは白狐の後をついていき、どのくらい歩いたか、白狐に気をとられていたため、時間の過ぎるのにも気づきませんでした。今まで前に居たはずの白狐はいつの間にか姿を消してしまい、初めてわれに返った和尚さんは小高い丘の上に立っていました。和尚さんはこれこそ仏の導きに違いないと、この地の有力者であった中込民部という人物にこの話をし、寺院建立に対する応援を依頼します。信仰の厚い民部も快く承諾して早速建築に取りかかりました。そして、承応3年(1654)に立派な寺院が完成し、同時に門前に白狐の祠を建てて守護神としたそうです。このときの和尚さんは伝嗣院の住職となり、その後常楽寺の開祖にもなったということです。
 本尊の阿弥陀如来像の上には白狐の彫刻があり伝説を偲ばせます。

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【写真・左】=本尊の木造阿弥陀如来立像。県指定文化財。鎌倉期のものといわれています。一昨年には県立博物館開館一周年記念特別展「祈りのかたち-甲斐の信仰-」で南アルプス市を代表する仏像として紹介されました。
【写真・右】=白狐の彫刻

 白根町誌よると、常楽寺はもともと真言宗の寺院として建てられたとあります。その後、昔話にあるような河川の氾濫によって寺院の大半は流されてしまったそうですが、承応3年に円隆和尚を曹洞宗伝嗣院から迎え常楽寺を曹洞宗寺院として開山したといいます。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

山中に分校ができるほどの賑わい 芦安鉱山

 南アルプスに鉱山があったのをご存知ですか。早川左岸の高台にあり、大正3年から昭和30年代の初めまで金や銅を産出し、早川側からドノコヤ峠(1586m)を越えて御勅使川の芦安地区まで運び出していました。鉱山のあった場所は、町村境が未確定で当時は芦安村分と考えられていました。昭和11年、芦安村と西山村(現早川町)の境界線画定により現在は早川町にあります。現在、芦安からこの峠を越え、早川町側の沢沿いにしばらく下ると、右手側に住居用に造成した石積み等が見えてきます。ここが芦安鉱山の跡です。従業員の住宅や学校跡などがあり、一升瓶や陶磁器など当時を偲ばせるものを今でも見ることができます。ほとんどの建物は朽ち果て、坑道も塞がれていますが、当時の面影を残しています。

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【写真・左】=鉱山の発掘風景
【写真・右】=コンクリートで塞がれている坑道入り口

 鉱山開発は大正3年、東京の実業家が「土ノ木屋」(注1)山の金銅鉱石の採掘を県に出願し鉱山局より許可が下りたことにより始まります。鉱山では銅と少量の金が採掘され、地下を坑道が縦横に走っていたといいます。鉱山への道は険しく山道は未整備だったため、桃の木温泉まで索道(空中に架け渡したケーブル)が作られ、鉱石や物資が運搬されました。
 最盛期には250名ほどが鉱山で暮らし、芦安小学校の分校も設置されるなど大変な賑わいを見せました。
 戦後は外国からの良質で安価な鉱石におされて採算が取れず閉山します。その後、昭和20年代終わり頃、小規模ながら鉱山が再開されますが30年代初めに再び閉山し、現在に至っています。

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【写真・左】=ダイナマイトの入っていた木箱
【写真・右】=住居跡の風景

 芦安地区のお年寄りの話によると、この芦安鉱山の他、金山沢、下梅津沢でも一時期銅鉱石を掘ったことがあるそうです。

注1:ドノコヤには「土ノ木屋」「土ノ小屋」「銅之古家」等の漢字が使われました。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

女たちの山仕事

 これまで2回芦安地区の山仕事についてお話してきました。今回のふるさとメールは女性にスポットを当てて、山仕事を紹介したいと思います。
 女性は、家の仕事のほかに、山仕事をする男の人に食料や日用品を届けたり、木炭等の生産加工品を村まで運ぶ仕事を分担しました。

 重い荷物やかさばるものを運ぶのに使ったのが背負子です。背負子は2本の縦骨に2本または3本の桟(かけはし)を横に渡した梯子式に作ったもので、下の部分に腰縄を何列も巻き、肩で背負うのに便利なように紐をつけます。
 多いときには50~60kgの荷物を背負って山道を歩きました。途中、休憩を挟みながら歩くのですが、休憩では背負子の下に杖をあてがって立ったまま休んだといいます。重い荷物は一度降ろして座ってしまうと、再び立ち上がるのが大変だからです。

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【写真】=薪を運ぶ女性

 朝は日が昇る前に起き、早く起きた人が近所の人を起こして回ったそうです。天気予報がない時代なので月や星、雲の流れで天気を予測し、朝食を済ませて準備ができると出発しました。家を出ると大石の車地蔵で待ち合わせ、夜叉神峠、桧尾峠などそれぞれグループを作って出発しますが、暗いときは提灯を持って歩いたそうです。

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【写真】=待ち合わせに使用した大石の車地蔵

 歩きながら夢や希望を話し、歌を歌い、上り坂ではゆっくり歩きながら縫い物や編み物を器用にこなしたといいます。
 目的地に着くと、物資の受け渡しや打ち合わせをして帰途に着きます。大石山之神まで帰ってくるとゆっくり休んで、明日の打ち合わせなどをして家路を急ぎました。
 女性たちは一日の仕事が終わると、夜は「夜なべ」をして針仕事や藁細工などもしました。

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【写真】=木炭を運ぶ女性(木炭は1表5貫あったそうです)

 夜叉神峠から鳳凰三山へ向かう途中に杖立峠という場所があります。登山者の多くはここで腰を下ろして休憩をします。ここは、前述のように杖を背負子の下にあてがって休んだため、いつからか杖立峠と言われるようになったと伝わっています。
 昔の女性たちは、今の私たちでは想像できないような苦労をしてきました。
 50~60kgの荷物がどれだけ重いのか、みなさん身近にあるもので試してみてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

山中に泊まり込みで炭焼き

 前回のふるさとメールは、野呂川上流からの木材搬出方法についてお話しました。今回のふるさとメールは、芦安地区で行われていた炭焼きについて紹介します。

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【写真】=木炭を運ぶ様子

 大正の頃の炭焼きは、村に近い御勅使川入りから夜叉神峠を越えてはるか野呂川入りまで行なわれていました。村に近い所で焼くときは家から通って焼きましたが、野呂川入りで焼くときは宿泊小屋を作って作業をしたといいます。小屋は丸太の掘っ立て小屋で2坪か3坪程。多いときは炭焼きのための宿泊小屋が30数棟建てられ、小屋の周辺は賑わいを見せたといいます。

 昭和になると次第に炭焼き区域が狭められ、御勅使川入りで行われるようになります。ここは大部分が県有林のため、秋になると炭焼きをする場所を入札で決めるようになります。昭和10年には木炭改良組合を結成して炭焼きをする場所を公平に分配し、終戦後は生産から販売まで組合が一貫して行ったそうです。

 ここで炭焼きの様子をのぞいて見ましょう。
 個人の割り当てが決まると、その中で集材に適した場所を選び、石を積み上げて炭焼き窯を作ります。周囲に石がなければ遠方から背負って運び、横1m、縦2mくらいの馬蹄形を作り、天井は細長い石をかみ合わせます。すき間には小石を詰め、外気が通らないように、その上から赤土を目張り塗りして仕上げました。
 木炭の元となる原木はナラや雑木が選ばれました。ナラは木炭にする過程での目減りが少なく、炭は硬質で火持ちがよかったそうです。このような木を長さ1mぐらいに切り、太いものはそれを二つ割、四つ割にし、窯の近くに積み上げます。その原木を窯の奥からぎっしり並べ火をつけます。最初は煙出孔から薄黒い煙が出ますが時間がたつと白く薄れ、ころあいを見計らい真紅の炎がメラメラと渦巻く釜からかき出し、消し床へ寄せて消化灰をかけると、木炭が出来上がります。

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【写真・左】=夜叉神峠登山道沿いに残る炭焼窯跡
【写真・右】=ドノコヤ峠沿いに残る炭焼窯跡

 戦中などは木炭の増産や技術の向上に励んだそうですが、時代の急激な変化により次第に生産されなくなります。夜叉神峠の登山道沿いには当時をしのばせる炭焼き窯の跡があり、そばには立て札があるので、ハイキングの途中で見てみてはいかがでしょうか。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

修羅(しゅら)出しからトロッコへ

 芦安地区は全体の97%を山に囲まれた地域です。耕作地は少なく、昔から木材の伐採や、炭焼き、焼畑等で生計を立てていました。今回のふるさとメールは芦安地区と深いかかわりのある木材の運搬について紹介します。

 伐採の仕事は、八十八夜を過ぎた5月初旬に入山し3ヶ月から4ヶ月かけて行なわれたといわれています。遠い所では長野県境の仙丈ケ岳(せんじょうがたけ)にある小仙丈沢(こせんじょうざわ)、大仙丈沢(だいせんじょうざわ)まで入り、小さな宿泊小屋を作り、生活物資を運び入れ生活しながら伐採していました。

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【写真】=修羅の様子

 車など無かった時代、どのように切り倒した木材を運搬していたのでしょうか。
 木を運び出すのには修羅(しゅら)出しという方法があります。丸太を数本並べ、中央をへこませることによりそり状にします。山の地形に沿って段差をつけながら丸太の階段を下へ延長し、これに木材を載せて滑り落とす仕掛けを修羅と呼びます。
 地形の起伏などを見極め、人の手を加えずうまく滑走するように調整するのが、修羅作りのコツということです。
 修羅出しは、日照りが続くと滑りが悪くなるため、水を打って滑りをよくしました。雨の日は修羅出しの能率が上がり、山仕事の人たちは喜んだそうです。
集積地の出材が終わると、修羅台は高いところからはずして、修羅の上を順に送り出しました。

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【写真】=昭和12年の山仕事の様子

 他には鉄砲出しというものがあります。山奥では水量が少ないので、水流をせき止めるための堰堤(えんてい)を、木を枠組みにして作り、その隙間には柴草やコケを敷き詰めて漏水を防ぐと、水位が上がり貯水池ができます。そして水出口を開けると、豊富に貯まっていた水量が一気に流れ出して、木材を下流に押し流しました。

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【写真・左】=南アルプス林道観音経トンネル(左)とトロッコ軌道跡(右)
【写真・右】=現在も残るトロッコ軌道

 このように修羅出し、鉄砲出し等自然のものを上手に利用して行なわれた運搬ですが、昭和14年から昭和17年にかけて、トロッコ軌道が野呂川沿いに作られ、トロッコで木材の運搬が行なわれるようになります。戦後は野呂側林道の完成にともないこのトロッコ軌道も失われてしまいますが、現在も南アルプス林道沿いにその名残を見ることができます。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

百々はなんと読む?

 今までのふるさとメールは、第1回「2万年前の落とし物」から第38回「御勅使扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)」まで、時代を追って南アルプスの歴史や文化財を紹介してきました。
 今回からは時代と関係なく、市内の歴史や文化財をさまざまな角度から紹介していきます。

 市内には、百々という地名があります。これは「どうどう」と読むのですが、初めての人は読み方に困ってしまいます。今回のふるさとメールは、初めての人はなかなか読めない地名、百々の由来を紹介します。

 江戸時代にまとめられた山梨の地誌『甲斐国志』によると「本村ノ北御勅使川ニ望ム百々(ドンドン)ハ水ノ鳴ル音 北山筋(甲斐市敷島)ニ百々河・江戸ニ百々橋ノ類也」とあり、百々は水が盛んに流れるさまを表しています。
 他にも『中巨摩郡地名誌』などによると「とうとうと水が流れるさまを表現したもので、とうかけるとう(10×10)は百になるので百の当て字を用い、水音をどうどうと繰り返す意味」とあります。

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【図】=御勅使川流路の変遷

 現在は市内北端、百々地区とは離れた場所を流れ、暴れ川として有名な御勅使川(これも「みだいがわ」とはなかなか読めませんね)は、過去に何度も流れを変えてきました。百々地区の北端には現在、県道甲斐芦安線が東西に延びていますが、少なくとも戦国時代から明治31年まで前御勅使川が流れていました。ちなみに、平安時代には百々地区の南側(御勅使川南流路)を流れていたとみられ、この時代大きな集落がありました。洪水によって大きな被害を受けたことが、発掘調査により分かってきています。おそらく百々はこの御勅使川が流れる音から生まれた地名といえるではないでしょうか。

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【写真】=洪水による砂礫で埋まった住居跡(百々遺跡)

 地元にはこんな昔話が伝わります。昔、代官所に各村の名主が年賀の挨拶に集まったとき、名主は呼び出された順に代官へ挨拶をしました。呼びだしの役人が「百々村」をなんと読むのか分からず困ってしまい、この村を飛ばして「以上で各村を呼び終えたが、呼び出されていない村はないか」と聞いたところ「はい、百々(どうどう)村はまだです」と答えました。これにより役人は読みがわかり、百々村と呼び上げることができ、恥をかかずにすんだということです。難しい地名にまつわる、機知に富んだ物語として伝えられています。

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【写真】=昭和12年の前御勅使川跡の様子(現在の県道甲斐芦安線)

 百々という地名は中央市、甲斐市にも小字(こあざ)として残っており、甲斐市には百々川が流れています。京都市上京区には百々町(どどちょう)があり、山梨県以外にも百々の字を使った地域があります。皆さんの住んでいる場所にも、変わった読みの地名はありますか。調べてみると面白い発見があるかもしれませんね。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)

 前回ご紹介した信玄伝承の治水施設の中で、今回のふるさとメールでは「石積出」をご紹介します。

 石積出は御勅使川扇状地上流に築かれた石積みの堤防です。現存する1~5番堤のうち、1~3番堤が将棋頭とともに国の史跡に指定されています。信玄が工事を命じた伝承が伝えられていますが、戦国時代の史料に「石積出」の記述がなく、いつごろ造られたのかはわかっていません。

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【写真・左】=石積出1番堤
【写真・右】=石積出2番堤

 絵図や史料から少なくとも江戸時代には造られ、有野の集落や水田だけでなく、さらに下流の21もの村々を守る役割を果たしていました。石積出を含めた有野村の堤防が決壊すると、小笠原村や寺部村など遠く離れた人々の生活にまで御勅使川の被害が及んだのです。このため有野村は堤防補修工事の際に、下流の21ヶ村から人手を促す権利を幕府から許されていました。

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【図】=石積出のしくみ

 江戸時代が終わり、明治・大正時代に入ってもその重要性は変わりませんでした。
 駒場浄水場内にある石積出4番堤の発掘調査によって、石積出に近代のさまざまな技術が用いられていることがわかりました。

 堤防の土台には丸太を梯子状に組んで、堤防が沈まない工夫(梯子土台)が施されています。堤防の川表側には80cmもある石が積み上げられ、隙間はコンクリートで固定されています。堤防の川表側基底部には木枠を組み、その中に石を詰めて堤防の根元が水流に洗い流されるのを防ぐ施設(木工沈床)が造られていました。木工沈床のさらに川表側には、鉄線を編んで中に石を詰めた蛇籠が縦に並べられ、御勅使川の水流が堤防に直接当たるのを防いでいました。

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【図】=木工沈床

 コンクリートや鉄線蛇籠、木工沈床は明治時代以降、大正時代の技術であり、現在私たちが目にする姿は、明治・大正期の姿と考えられます。
 こうした何重にも重ねられた護岸の構造を見ると、いかに増水時の御勅使川が激流であったかが伺えます。石積出は幾百年もの間、激流から人々のくらしを守り続けた御勅使川扇状地の生命線とも言える堤防なのです。

 

【写真上段】
(左)梯子土台
(右)石積出4番堤
【写真中段】
(左)石積出4番堤 全景
(右)巨摩郡下条南割村差出絵図(年不詳 山梨県蔵) 石積出が御勅使川扇状地の村々を守る状況がわかります
【写真下段】
(左)石積出4番堤 木工沈床
(中央左)石積出4番堤 木工沈床 木材を固定するボルト
(中央右)石積出4番堤 蛇籠
(右)調査風景

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信玄伝承の治水事業 ~暴れ川御勅使川を治める~

 前回の名取将監のエピソードでもわかるとおり、甲斐国を統一した武田信虎は気性がとても激しい人でした。それゆえ家臣団の離反を招き、長男晴信(後の信玄)によって駿河国に追放されます。父に代わり国主となった晴信は、信濃に軍を進め領地を拡大するだけでなく、国内の農業振興にも目を向け、全国的にも名高い御勅使川、釜無川の治水事業に着手したと伝えられます。今回から数回に分け、信玄が行ったと伝えられる治水事業についてお伝えしていきます。

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【写真】=明治時代の前御勅使川(現在の旧運転免許センター前)

 現在南アルプス市の北端を流れる御勅使川は、戦国時代、信玄橋から芦安地区へ向かう県道甲斐芦安線上を流れていました。野牛島(やごしま)の旧運転免許センター前を東西に走る道路にあたります。その川は地元では「前御勅使川」と呼ばれ、なまって「まえみでえ」とも言われます。「まえみでえ」は古くから暴れ川として有名で、大雨が降ると洪水を起こし、合流した釜無川を東へ押し出して甲府盆地中央部に大きな水害をもたらしました。

 こうした御勅使川の洪水に対し、江戸時代後期にまとめられた地誌「甲斐国志」(1814年)には、信玄が前御勅使川の本流を新たに北に付け替え、高岩と呼ばれる崖(甲斐市赤坂台地)の手前で釜無川と合流させる治水工事を行った以下の内容が記されています。

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【写真・左】=石積出1番堤
【写真・中】=将棋頭
【写真・右】=堀切

 『御勅使川扇状地扇頂部の駒場、有野に「石積出(いしつみだし)」と呼ばれる堤防を築いて流れを高岩のある北東へ向け、六科(むじな)に将棋の駒の形をした石積みの堤防「将棋頭」を築いて水の勢いを前御勅使川と新たな御勅使川のルート二つに分ける。さらに下流にある下条南割の岩(現在の竜岡台地)を堀り切って河道を作り、釜無川との合流地点に十六石と呼ばれる大石を置いて御勅使川の流れを弱め、高岩の手前で釜無川と合流させ、さらに竜王に信玄堤(龍王村御川除=りゅうおうむらおんかわよけ)を築いて中郡を守る。』

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【写真】=信玄堤(龍王村御川除)

 信玄の治水事業は、御勅使川の治水をこのように上流から下流まで総合的に考え、一連のシステムとして各施設を築いた点は現代においても高く評価されています。しかし、信玄堤を除いて戦国時代の史料に工事の記録が見られないため、各治水施設の造られた年代や役割は見直されつつあります。次回はひとつひとつの堤防に焦点を当て、近年明らかにされつつあるそれぞれの実像に迫ってみたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】