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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

芦安の地に来た武将 名取将監

 南アルプス市芦安地区には、武田信虎に使えた名取将監(しょうげん)という武将の伝説が伝わっています。将監は信虎の家臣として直接進言できるほどの地位に上りますが、信虎の傲慢な振るまいに苦言を呈したことにより、武田家を去ることになります。その後、芦安地区に住んだと伝えられます。今回のふるさとメールでは、芦安地区に語り継がれてきた名取将監のエピソードを紹介します。

 信玄の生まれる少し前、永正年間に信虎は領内を統一し、その後、戦国大名として大きく前進します。このころから信虎は慢心して、傲慢な振る舞いが多く、家臣のひんしゅくをかうようになったと言われます。地元に伝わる話では、将監もまたこれをみるにつけ、心を込めて苦言を呈しましたが、信虎の機嫌を損じ、ついに武田家を去ることになったのです。
 その後血のつながりもあり、近郷にも名の聞こえていた郷士、名取弾正左衛門(なとりだんじょうざえもん)を頼って今の芦安地区大曽利に居を定めてこの村の住人になりました。

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【写真】=大宝寺にある名取将監のお墓

 芦安は耕地が少なく、村人は山に入って木を切り出したり、加工品を作ったり、炭焼きなどして生計を立てていました。もともとが武人であった将監は、山の仕事など知りません。日ごろから手馴れている弓矢を携えて、山野に鳥獣を狩って生業としました。
 ある日、将監は野呂川の奥深い山中に入りました。今でいう南アルプスの山に足を踏み入れたのです。この山中で「鹿を逐(お)う猟師、山を見ず」のたとえ通り、大鹿を追ってアザミ沢の渓谷深くに入ってしまいました。鹿を見事に射止めたものの、谷は深く、断崖絶壁、あたりの山谷から狼の遠吠えも聞こえる山中に、一夜を明かすことになりました。恐ろしい闇におののきながらもこの恐怖に負けまいと、日ごろから深く信仰している観音経を一心に唱え続けて救われました。今の野呂川林道、御野立所前の渓谷だったので、この谷を観音経渓谷と呼ぶようになったといいます。この谷は深く刻まれ、谷底が見えない恐ろしさがあり、南アルプス林道開削に当たっても工事の難所のひとつといわれたところです。

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【写真】=観音経渓谷より望む白根三山

 名取将監は、大曽利窪(おおそうりくぼ)区の山際に、多賀明神を祀って守り神とし、村の繁栄と家内安全を祈りました。他にも津島牛頭天王(つしまごずてんのう)を祀り、疫病に悩まされた人々の心を静め、旧暦6月15日には疫病退散を願い、祇園祭を行いました。

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【写真】=妙定寺(この周辺は殿屋敷と呼ばれています)

 名取将監は、文献などにあまり出てこない謎の多い人物です。しかし、芦安地区の誇りとして、祭りや信仰、諸行事は名取将監と結びつけて語り継がれてきました。芦安地区の大曽利には殿屋敷という地名があります。ここは名取将監の屋敷跡といわれ、現在はお寺がひっそりと建っています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信玄を育んだ大井氏の血脈
その2 大井夫人

 前回、大井信達の文化人としての一面を紹介しました。このような教養を持った父に育てられたのが大井夫人です。大井夫人は子供の教育につとめます。長男・晴信は和歌に、三男・信廉は肖像画等でその力を発揮しました。今回のふるさとメールは、大井夫人を紹介します。

 大井夫人は信虎のもとに嫁ぎ、それにあわせるように甲斐の国は信虎の下、統一へ向かいます。大永元年(1521)、甲斐に攻め込んだ今川氏を飯田河原で破り、ちょうどこの時、大井夫人は積翠寺要害城で晴信を産みます。その後、次男信繁、三男信廉を産み、三男一女の母親となります。

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【写真】=古長禅寺 心字池

 大井夫人は子供たちの教育に心を砕き、幼い晴信を教育するため、晴信の手を引いて甲府から釜無川を越えて鮎沢にある長禅寺(後の古長禅寺)に足を運び、岐秀禅師から学問や兵法を学ばせたと、地元では伝わっています。大井夫人の帰依する岐秀禅師は、晴信出家の際、機山信玄の法号を与えており、晴信の人生に深く影響を及ぼした人物の一人です。
 甲斐国志によると大井夫人は信虎が駿河へ追放された後も甲府に留まり、出家して躑躅ヶ崎館の御隠居曲輪に住んだと伝えられます。

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【写真】=武田晴信朝臣百首和歌

 大井夫人を通して信達の血は、信玄に受け継がれました。
 戦国武将としてのイメージの強い信玄ですが、歌を好み自邸などにおいて盛んに和歌会や連歌会を開催していることが「為和集(ためかずしゅう)」にもあり、詩歌も収録されています。永禄2年(1559年)には、信玄直筆の和歌百首が若草地区法善寺に納められました。その中には切ない恋心をつづった歌もあります。原本は文化8年(1811)に庫裡の火災のため焼けてしまいますが、焼ける直前に書き写された写本が現在に伝わっています。
 三男信廉は逍遥軒とも呼ばれ、武人画家として特に人物画で才を発揮し、一周忌に当たる天文22年(1553)、母の「武田信虎夫人像」を長禅寺へ納めています。温かみのある夫人像からは母への思いを感じさせ、信廉の人柄が伝わってくるようです。

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【写真】=古長禅寺 大井夫人の墓

 こうして大井夫人は信玄、信廉を戦国武将として、さらには文化人として立派に育て上げます。2人の文化人としての教養は父信虎というよりも母の教育、外祖父信達という大井氏の血のなせるわざと言えるかもしれません。信玄の母、大井夫人は天文21年5月7日、55歳で没します。墓は生まれ故郷の古長禅寺、信玄が甲府に建てた長禅寺の2ヶ所にあります。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信玄を育んだ大井氏の血脈

 NHKの大河ドラマ「風林火山」では信玄の母・大井夫人がたびたび登場し、信玄に人として生き方を諭す場面がありました。
 大井夫人は戦国時代、甲西地区大井周辺を治めていた大井信達の娘です。この大井氏は武田氏の一族ながら嫡流の武田信虎と幾たびも刃を交えます。前回、西野姫伝説では明慶院を滅ぼすなど、血で血を洗う争いの時代を生きた信達ですが、文化人としての意外な一面もありました。今回のふるさとメールは文化人としての信達を紹介します。

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【写真・左】=椿城本丸跡
【写真・右】=古長善寺

 大井氏は南北朝時代に武田信武の子・信明が大井荘を領したことにはじまります。居館は椿城とも古長禅寺周辺とも伝えられます。時代は下って永正年間(1504~1521)、大井氏7代目信達の頃、国内統一を目指す武田信虎の前に立ちはだかる有力国人となります。
 信達は永正12年(1515)に信虎によって本拠を包囲されますが、信虎の軍勢は周囲の深田にはまり敗退します。抗争は翌13年も続き、その後和議が成立します。この時、信虎は信達の長女・大井夫人を娶り、政略結婚によって国内の安定を得ようとします。
 しかし、信達は信虎と政策をめぐって対立し、永正17年には今諏訪(白根地区)で信虎と戦い、敗れてしまいます。これを機に信虎の国内統一が大きく前進し、これ以後、信達も武田に忠誠を誓い信虎も親類衆として遇していきます。

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【写真】=大井氏一族の墓

 殺伐とした日々に明け暮れる戦国武将にとって、和歌や連歌は潤いの一つであり重要な教養としてとらえられていたようです。この時代、京都の公家が地方へ下向することもあり、甲斐の国にも和歌の名門冷泉為和が数度滞在したことがあります。「為和集(ためかずしゅう)」を読むと、武田家が積極的に和歌会を開いたり、信達の邸宅も会場になっていたこと、為和は信達のことを「歌道執心の法師」と賞し、和歌の贈答も行なわれたことなどが記されています。また大河ドラマ「風林火山」では信達、信虎、今川義元と3人で和歌を詠む場面が描かれていました。和歌の世界で信達の存在が有名だったことを示している場面でした。

 次回のふるさとメールは大井信達の娘、大井夫人を紹介します。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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戦国時代の哀しきヒロイン 西野姫(せいやひめ)

 南北朝時代から戦国大名がしのぎを削る戦国時代へと時代は移ります。南アルプス市西野には戦乱の世に翻弄された西野姫の伝説が言い伝えられています。今回のふるさとメールでは、地元で語り継がれてきた西野姫の物語をお届けします。

 戦国時代のはじめ頃、南アルプス市西野には明慶院(みょうけいいん)という武将が住んでいました。明慶院は石和を拠点に勢力を伸ばしつつあった武田信虎(晴信のお父さんですね)に仕えていました。明慶院には西野姫という美しい娘がいて、やがて信虎と婚約することになります。

 しかし明慶院が暮らす同じ西郡(にしごおり)には、現在の櫛形地区上野から甲西地区大井周辺を治めていた大井信達(おおいのぶさと)がいました。当時信達は武田信虎と激しく対立しており、当然明慶院とも敵対していました。非情な戦国の世、明慶院は今井原の戦いで武田の援軍も間に合わず大井信達に敗れ、一族郎党は西野の小森で全滅してしまいました。

 その後、残された西野姫は尼姿となり、西野北芝原のお経塚と呼ばれる経塚でお経を読んで一族を弔いながら、武田家の武運を祈ったと伝えられています。

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【写真・左】=宝篋印塔と五輪塔
【写真・右】=西原五輪塔群

 北芝原のお経塚は明治期に開墾され、現在は畑地となっています。また西野の曹洞宗円通寺西北に位置する民家の一画に、明慶院やその一族、西野姫の墓と伝えられる多数の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が集められ、「西原(さいはら)の五輪塔群」と呼ばれています。

 史実では大井信達と武田信虎は熾烈(しれつ)な戦を繰り返した後、和議を結び、その証として信達の娘いわゆる大井夫人が信虎に嫁ぎ、武田晴信、後の信玄を生むことになります。

Imamina071015map 遺跡の分布と地層を見ると、周辺の地質は旧御勅使川の氾濫による砂礫層や粘土層の堆積が見られ、西野周辺には遺跡があまり発見されていません。しかし、西原の五輪塔群に見られるように、西野集落では室町時代の石造物を見ることができます。戦国時代には御勅使川の流路が北へ移動したため土地が安定し、開発が進んだと推測されます。

 木々の葉も色づき始めたこの季節、西野姫や明慶院を偲(しの)びながら、その足跡を歩いてみてはいかがでしょうか。
【地図】=西原の五輪塔周辺地図(「遺跡で散歩VOL.4 戦国時代の史跡を歩く」より)

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

古代寺院 善応寺と雨乞い伝承の地、大笹池

 前回ご紹介した大嵐の須沢城と同じ段丘上に、平安時代から続く古寺、善応寺があります。そのさらに奥、山深く分け入ったところに、幽玄な雰囲気に包まれた大笹池があります。今回のふるさとメールでは、歴史的に深い繋がりのある善応寺と大笹池に立ち寄ってみます。

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【写真・左】=善応寺石段
【写真・右】=善応寺観音堂

 静寂な参道を歩き、苔むした階段を上ると、臨済宗の古寺 城守山善応寺が現れます。寺記によれば、善応寺は鎌倉円覚寺2世の大休正念(だいきゅうじょうねん)が開山しました。その年代ははっきりとしませんが13世紀中ごろと推測されています。しかし、善応寺周辺からは平安時代の遺物や経筒が発見されており、平安時代にはすでに古代寺院があったものと推定されています。

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【写真・左】=千手観音像
【写真・右】=本堂西側に安置されている宝篋印塔(ほうきょういんとう)(鎌倉時代:県指定文化財)

 善応寺の本尊は寺記によると釈迦如来ですが、現在の本堂には、平安時代に作られた千手観音像が安置されています。著しい腐食に見舞われ、部分的に焼けた跡を残しながら、千年あまりもの年月をその身に経た風格を漂わせています。

 この千手観音像はカツラ材による一木造で、原木となったのは、大笹池周辺のカツラの木と言い伝えられています。大笹池は御庵沢(ごあんざわ)の水源であり、善応寺とは上道(うわみち)と呼ばれる古道で結ばれています。地元の伝承では、千手観音像は最初、池の西側に安置されていましたが、ある日のこと、野火に焼かれて火傷を負い、そのとき、甘利山のサワラ池から赤牛に化けて逃げてきた下条婆々(げじょばんば)に背負われて善応寺まで運ばれたとされています。

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【写真・左】=大笹池
【写真・右】=大笹池から流れ出る御庵沢

 千手観音が祀られていた大笹池は、かつて近隣集落の人々が雨を祈願する特別な場所でした。笹や竜の飾りを手にした人々が行列を作りながら池に向かい、池の周りで「そーれ降ってござった、天つくばった」と大声をあげて踊り、池の水を濁らせ、雨乞いの儀礼を行いました。さらに、善応寺にもいくつか湧水があり、境内で雨乞いの儀礼が行われたとの証言があります。

 このほかにも善応寺周辺と大笹池には雨乞いと水にまつわる伝承が数多く伝えられています。豊かな水をたたえる大笹池や枯れることのない善応寺の湧水が、水を願う人々を引きつけたのでしょう。水に苦労し水を求め続けた先人達の姿が、今に伝わる昔話や雨乞いの儀礼に映し出されています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の舞台 須沢城(すさわじょう)

 甲斐源氏の活躍により成立した鎌倉幕府も終わりを迎え、後醍醐天皇による建武の新政を経て、時代は南北朝時代となります。南北朝の争いは京都や鎌倉だけの話でなく、南アルプス市に及んでいました。今回のふるさとメールではその舞台のひとつとなった南北朝時代の山城、須沢城をご紹介します。

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【写真】=須沢城跡

 1990年に放送された大河ドラマ「太平記」をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた主役の足利尊氏役に真田広之、弟の足利直義(あしかがただよし)役を高嶋政伸が演じました。ドラマは尊氏と直義兄弟の絆と対立を縦糸として紡がれていました。

 兄弟の対立は史実であり、この幕府内での内紛は観応の擾乱と呼ばれています。その引き金は、将軍である尊氏と、弟の直義とが政治的権限を分割して統治したことによって、幕府内に二つの派閥が生まれたことにありました。

 まず、尊氏に仕える執事高師直(こうのもろなお)と直義が幕府の実権をめぐり激しく対立しました。ちなみに以前、古長禅寺(南アルプス市鮎沢)でご紹介した名僧夢窓国師(むそうこくし)が高師直と直義をとりなし、一時対立が緩和されたエピソードも伝えられています。両者の争いは各地で2派の代理戦争を引き起こします。尊氏が京都とともに重視した鎌倉では、鎌倉公方(鎌倉府の長官)を補佐する2名の執事、高師直の養子の高師冬(こうのもろふゆ)と直義派の上杉憲顕(うえすぎのりあき)の間で争いが起こります。高師冬は鎌倉公方を擁立して上杉憲顕を攻めましたが、逆に公方を奪われてしまい戦況が不利となってしまいました。そして、追われた高師冬の向かった場所が、現在の南アルプス市大嵐の須沢城です。しかし須沢城に入った高師冬は上杉軍と諏訪軍に攻められ、観応2年(1351年)に自刃しました。

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【写真・左】=南東に見られる土盛り
【写真・右】=土盛り上の石造物

 須沢城の推定地は南アルプス市大嵐の小高い段丘上にあります。南東へとゆるやかに傾斜する斜面が広がり、その南東に五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが置かれた土盛りがありますが、現在では城の痕跡を見つけることができません。1989年には発掘調査と地中レーダー探査が行われ溝跡が発見されました。しかし、具体的な城の姿を描くことができるまでの遺構はこれまでのところ発見されていません。

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【写真】=的場

 その一方で、諏訪軍が須沢城をのぞき見た地点「のぞきの森」や「駒場」「的場」、「塩の前(城前)」など城の存在を暗示する地名が今も須沢周辺に言い伝えられています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)2

 今回のふるさとメールでは大師東丹保遺跡から出土した祭祀の道具を紹介しながら、遺跡の性格をまとめてみます。

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【写真】=Ⅱ区 水田を区画する溝跡

 東西約30×南北450mの調査範囲に広がる大師東丹保遺跡は、南からⅠ~Ⅳ区まで調査区域が分けられています。その内Ⅱ区の北側に掘立柱建物跡が4棟立ち並び、その南北に水路で区画された水田が広がっていました。

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【写真・左】=五芒星が記された呪符木簡
【写真・右】=五芒星が記された呪符木簡(実測図)

 Ⅱ区北側に立ち並ぶ建物跡周辺の特に南側では、まじないや祭祀に使うさまざまな道具が見つかっています。ここ数年来世間である種のブームとなっている陰陽師(おんみょうじ)、とりわけ安倍晴明(あべのせいめい)が有名ですが、その陰陽道で魔よけの呪符として使われる五芒星(ごぼうせい)を記した木簡がここで出土しました。残念ながら記されている墨書を解読することはできませんが、この地に暮らした人々の切実な願いが込められているものと思われます。ちなみに五芒星は安倍晴明を祀る京都の清明神社の神紋にも使われています。

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【写真・左】=出土した斎串(実測図)
【写真・右】=土坑から出土した渡来銭

 そのほかの祭祀の道具としては、細い木を削り先端を尖らせ、切れ込みを入れた形で祭祀具として利用された斎串(いぐし)や病気の治療などに使われた祭祀具の人形なども発見されています。また、建物跡南側の土坑から28枚の渡来銭が見つかっている他、古来中国や日本で邪気を祓うと考えられていたモモのタネ部分も溝跡から大量に出土しました。こうした出土遺物を眺めてみると、建物跡南の区画は水辺でお祭りを行う特別な場所だったのかもしれません。遺物をじっと見つめると、呪符木簡や斎串に願いを込め、祈りを結んだ当時の人々の姿が浮かんでくるようです。

 こうしたさまざまな祭祀具や前回ご紹介した漆器や舶来の青磁・白磁などの出土遺物から、発掘された建物跡が一般庶民の住宅ではなく、ある程度の財力を持ち低地開発を主導した階層の屋敷跡と推測されます。水路を掘り、畦を盛り上げ、床土を整えて苦労の末開発したこの水田も、14世紀中ごろに起こった洪水によって埋没し、集落は放棄されます。今よりもずっと自然の猛威に生活が左右された鎌倉時代、だからこそ人々は祭祀を行い、自然と言葉をかわそうとしてきたのでしょう。

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【写真】=現在の大師東丹保遺跡周辺

 現在、遺跡周辺は洪水による被害もほとんどなくなり、稲作が営まれ、たくさんの稲穂が頭を垂れています。

(写真出典)
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅱ・Ⅲ区」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)1

 鎌倉時代、御勅使川扇状地上に八田御牧や八田庄が広がっていたのはすでにお伝えしましたが、低地の開発も進んでいました。そのことを示すのが大師東丹保遺跡です。

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【写真・左】=大師東丹保遺跡Ⅱ区全景
【写真・右】=建物跡と柱痕

 大師東丹保遺跡は滝沢川と坪川の複合扇状地上に位置しています。中世には、現在の増穂町から南アルプス市甲西地区周辺に広がっていた大井庄に属していたと考えられます。甲西バイパス建設に伴い発掘調査が行われ、東西約30×南北450mの範囲から13世紀前半~14世紀前半ごろの集落跡が発見されました。
 この集落は、その移り変わりをはっきりとたどることのできる希な発掘調査例となりました。というのも、水路の杭列や建物の柱痕が南向きに傾いて出土し、あたり一面には川底に見られるような砂礫が広がって、それをどけてさらに掘り下げると、その下から建物の跡や幾本もの水路で区画された水田が現れたのです。これらは、集落が洪水によって埋没し、その後破棄されたことを示しています。それぞれの時期は、集落の始まりが鎌倉時代の13世紀前半、洪水被害に遭ったのが14世紀中ごろであることが、土器などの遺物の年代から明らかとなりました。当時の村人にとっては大災害ですが、発掘調査をした側からすると、洪水によって鎌倉時代の集落がそのままパックされて保存され、中世集落の原風景をとらえることができたのでした。

◆大量に発見された木製品

 大師東丹保遺跡で特に注目されるのは、大量に出土した木製品です。通常の遺跡では有機物は腐食し分解されるため、現代まで残るものはほとんどありません。したがって、発掘調査では土器や石器など腐食しない生活用具の出土遺物が大勢をしめます。ところが、大師東丹保遺跡は低湿地のため、多くの木製品が水に浸かった状態で保存され残されていたのです。

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【写真・左】=出土した下駄
【写真・右】=横櫛

 発見された木製品の中でも数が多かったのが、木製の下駄です。歯の高いものと低いもの大きく分けて2種類あります。雨の日あるいは出かける場所など、用途や目的によって履き分けていたのかもしれません。また、草履も出土しています。それから、髪をすくための櫛、骨組みだけですが、扇子も出土しました。うだるような今の季節、この扇子を扇いで暑さをしのいでいたのかもしれませんね。

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【写真・左】=ウリ類が描かれた漆塗り椀
【写真・右】=出土した青磁・白磁

 木製品以外の生活用具としては、やはり食器がたくさん見つかりました。外面が煤で覆われた土鍋には両側に紐を吊すための紐かけ孔があり、囲炉裏に吊るされ煮炊きに使われた様子が伺えます。できた料理は、土器だけでなく木製の皿や漆塗りの椀などにも盛り付けられました。椀の中には内側にウリ類を描いたものも見られます。今の季節、まさに旬のおいしいもの、やはり昔の人も食いしん坊だったのでしょうね。また、食器には青磁や白磁という中国産の磁器も使われていました。これらは希少品なので、きっと当時のお金持ちや武士の家などで使われていたのでしょう。
 以上のように、大師東丹保遺跡は遺構・遺物両面から当時の人々が暮らした豊かな情報に触れることができる類まれな遺跡なのです。
 次回のふるさとメールでは大師東丹保遺跡から出土した祭祀具を中心にご紹介します。

(写真出典)
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅰ区」
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅱ・Ⅲ区」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ
~鎌倉時代の御勅使川扇状地~

 甲斐国と呼ばれていた平安時代、山梨県には京都の朝廷へ貢納する牛馬を飼育する「勅旨牧」が置かれました。牧とは戦いに使うための馬や貢物として献上する牛馬を飼育・繁殖させる広大な区域とその施設のことをいいます。現在でいう「牧場」のようなものですが、草原で乳牛や肉牛を飼育する牧場とは目的や造りが異なります。

 「勅旨牧」が設置されたのは、全国でも上野国、信濃国、甲斐国、武蔵国の4カ国で、甲斐国には「柏前牧(かしわざきのまき)」「真衣牧(まきののまき)」「穂坂牧(ほさかのまき)」の3牧が置かれました。いずれの牧もその場所は定かではありませんが、北巨摩地方が有力な推定地になっています。

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【写真・左】=高尾山穂見神社
【写真・右】=穂見神社 御正体

 南アルプス市もまた、牛や馬に古くから係わりの深い土地です。櫛形地区高尾の穂見神社には銅製の懸仏(御正体)が伝えられています。直径26.4cm、厚さ約0.3cmの銅製の鏡の表面に台座に座る男神像が線刻され、その右側に「甲斐国八田御牧北鷹尾」左側に「天福元年(1233)」の銘が刻まれています。この銘から、鎌倉時代に「八田御牧(はったのみまき)」が鷹尾=高尾山麓の御勅使川扇状地上に広がっていたと考えられてきました。江戸時代に編纂された地誌『甲斐国志』には「八田御牧」の場所として「加賀美・小笠原ヨリ北ヲ里人モ多ク八田ノ庄ト云ヒ伝フ」と記されていることや、現在に残る地名「上八田」や「旧八田村」からもわかるように、現在の八田・白根・櫛形地区周辺とみなされています。

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【写真】=百々遺跡 4頭ウマが並べて埋葬されている

 八田御牧の存在を裏付ける資料に、以前ご紹介した白根地区百々遺跡(現甲西バイパス)があります(ふるさとメール「甲斐源氏活躍の礎 条里地割と八田牧」)。百々遺跡で発掘された牛馬骨は90頭前後、とりわけ4頭の馬が並んで埋葬されている土坑が見つかったのは全国的にもめずらしい事例です。また、八田地区の榎原・天神遺跡(現八田ふれあい情報館)や、同地区で現在発掘調査中の野牛島・西ノ久保遺跡(現御勅使南工業団地)など百々遺跡周辺の遺跡でも中世の溝跡から馬と牛の歯が発見されています。

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【写真・左】=野牛島・西ノ久保遺跡 ウシの歯が出土した溝跡
【写真・右】=野牛島・西ノ久保遺跡 出土したウシの歯

 ただし、牧そのものの遺構が発見されているわけではありません。発見されているのかも知れませんが、発掘調査は限られた区域の調査であるため、例えば「溝跡」が実は牧を区画する施設であったとしても特定できないのが現状です。とはいえ、これまで名称だけであったものが、百々遺跡をはじめとする発掘調査によって、少しずつ「八田御牧」の姿が見え始めました。

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【写真】=西の神地蔵

 その後の史料を紐解けば、野牛島集落の西端に位置する西の神地蔵には「大日本国甲州巨麻郡八田庄就中野野牛島村・・・天文十三年(1544)」の銘が刻まれています。穂見神社御正体の銘、天福元年(1233)からだいぶ時間差がありますが、少なくとも戦国時代に野牛島周辺が「八田庄(はったのしょう)」と呼ばれていたことがわかります。古代から続く「八田牧」を基盤として、中世に御勅使川扇状地上に荘園としての「八田庄」が成立したと考えられます。

 鎌倉時代に広がっていた八田牧や八田庄。絵図は残されておらず、限られた文書記録等では、今のところ具体的なイメージまではたどり着けません。しかし、その風景は、私たちのすぐ足元に広がっています。

(写真出典)
南アルプス市教育委員会
山梨県教育委員会2002 「百々遺跡1」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉時代の古刹 古長禅寺

 これまでは鎌倉幕府創建の一翼を担った市内甲斐源氏の歴史や、市内に広がる「曽我物語」の世界をお伝えしてきました。今回のふるさとメールでは、鎌倉時代の終わりから室町幕府の成立を経て、南北朝へとつながる時代に焦点をあてます。

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【写真・左】=瑞泉寺
【 〃 ・右】=瑞泉寺 庭園

 さて、山梨の小中学校の修学旅行といえば、小学校なら鎌倉、中学校では京都・奈良が定番のようです。鎌倉なら北条時宗が創建した円覚寺や花寺とも呼ばれる瑞泉寺などが代表的な見学コースのひとつでしょうか。円覚寺には14世紀の初めに鋳造された梵鐘(国宝)をはじめとして、たいへん多くの重要文化財があります。それから、京都ならば嵐山の名刹天竜寺ははずすことのできない見学スポットですね。また、約120種の苔が群生する西芳寺(通称苔寺)も、京の西のはずれにあり、事前の拝観予約が必要であるにもかかわらず、高い人気を誇る寺です。天竜寺も西芳寺も、その庭園は国特別名勝に指定され、かの世界遺産にも登録されています。

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【写真・左】=天竜寺
【 〃 ・右】=天竜寺 庭園

 南アルプス市からはほど遠い古都の話から入ってしまいましたが、これらの寺院と同じ歴史をもつ寺院が、実は市内にもあるのです。それは市内南部の鮎沢にある「古長禅寺」です。古長禅寺は、円覚寺や天竜寺、西芳寺と同様、臨済宗の僧「夢窓国師」が深く関わった寺院で、その歴史は700年を数えます。それではまず、夢窓国師とはどんな人だったのかを見ていくことにしましょう。

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【写真・左】=古長禅寺 本堂
【 〃 ・右】=古長禅寺 門前


◆夢窓国師(夢窓疎石)

 夢窓国師は鎌倉時代の健治元年(1275)伊勢国(三重県)に生まれました。ちょうど北九州に蒙古軍が押し寄せた文永の役(1274)の対応に鎌倉幕府が右往左往していた時期にあたります。まだ幼いうちに母方一族の紛争によって甲斐国に移り住み、9歳で出家しました。その後、成長とともに各地を遍歴して禅宗を学び、後に後醍醐天皇に請われて京都南禅寺に住します。翌年には鎌倉幕府執権の北条高時に招かれて鎌倉の円覚寺に住まい瑞泉寺を開創します。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まると再び京に招かれ、西芳寺などを興しました。新政の崩壊後は、天皇の政敵となった足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建された天竜寺の開山にもなりました。
 以上の略歴を見ておわかりのように、夢窓国師は鎌倉幕府執権北条氏、後醍醐天皇、足利尊氏など、めまぐるしく移り変わる時の最高権力者から尊敬を集めた名僧でした。「国師」というのは高僧に贈られる最高の称号ですが、夢窓国師は生前に三つ、死後に四つの国師号を天皇から贈られ、世に「七朝帝師」と呼ばれました。観応2年(1351)、77歳で入寂します。

◆夢窓国師と古長禅寺

 夢窓はたびたび甲斐国を訪れ、恵林寺や清白寺など甲斐国を代表する臨済宗の寺院を創建しました。そして正和2年(1313)、現在の南アルプス市鮎沢の地に長禅寺(※)を開いたと伝えられます。

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【写真・左】=木造夢窓国師坐像
【 〃 ・右】=古長善寺のビャクシン

 古長禅寺には夢窓国師の坐像(国重要文化財)が納められており、夢想国師の特徴であるという撫で肩が見事に表現されています。この像は、内側に書かれた墨書から延文2年(1357)9月に奈良の仏師行成によって製作されたことがわかっていて、夢窓の7回忌を機に造られたと考えられています。寺の南には夢窓国師が自ら植えたとの伝承が残る4本のビャクシン(国天然記念物)も見られます。

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【写真・左】=古長禅寺 心字池
【 〃 ・右】= 〃 

 夢窓国師は庭づくりにも優れた才能を発揮しました。瑞泉寺、天竜寺、西芳寺、恵林寺と並び古長禅寺の庭園も夢窓の作庭と伝えられています。門をくぐるとすぐ、草書体の「心」の文字をかたどった心字池が現れます。作庭は禅宗では禅の修行のひとつでした。禅の世界が庭に反映されているのです。池のほとりで静かに佇むと自分の心が水面に映し出されるようです。(池に住む鯉のさざなみで揺れる姿は、この原稿に追われ余裕のない自分の心を写したかのようでした。)

 「そうだ、京都に行こう」はJR西日本のCMキャッチコピー。見た人を京都に惹きつけます。もちろん京都や鎌倉は歴史が深く様々な魅力がありますが、市内にも知られざる歴史と多くの隠れた見所があります。メールを読んだ読者の皆様が、「そうだ、南アルプス市を歩こう」と思ってくれるのを祈りつつ、引き続き南アルプス市の歴史とともに隠れた見所を紹介していきます。


創建当時は「長禅寺」です。戦国時代、武田信玄によって甲府に新しく「長禅寺」が創建されたため、後に「古長禅寺」と呼ばれました。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】