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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

市内に広がる曽我物語の世界 その2

 前回は曽我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」をご紹介しました。今回は「曽我物語」の登場人物と南アルプス市とのかかわりに迫ります。

◆悲劇のヒロイン 虎御前

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【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 曽我兄弟の兄・十郎の恋人として登場する虎御前は、大磯の長者の娘で、後に成長して街道一の美女と言われる遊女となりました。この虎御前、芦安地区の伝承では相模(さがみ)生まれではなく南アルプス市芦安安通(あんつう)の生まれで、縁あって大磯にある長者の養女となったと伝えられています。実際に芦安には次のような虎御前にまつわる伝承や史跡が残されています。

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(左)虎御前の鏡立石
(右)伝曽我十郎の木像と伝虎御前の木像

 大磯で十郎の訃報を聞いた虎御前は、その悲しさのあまり19歳で尼となり、兄弟の菩提をとむらうため信濃善光寺に向かいます。その旅の途中、生まれ故郷の安通村へ立ち寄り、村人から住まいを与えられ、その親切に感謝しながら追善供養を続けたといわれています。曽我氏や虎御前を祀る安通の伊豆神社近くには、虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」を今でも見ることができます。一方、芦安地区大曽利(おおぞうり)の諏訪神社には、伊豆神社から移された御神体、曽我十郎と虎御前と伝えられる2体の木像が納められています。
 虎御前が芦安出身であるかどうかは定かではありません。しかし、芦安の民宿で出されるお弁当やバレーボールのチーム名となるなど、芦安地区の人々にとって虎御前は親しみやすいヒロインです。

◆悲運の武士 御所五郎丸

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後ろから五郎を取り押さえる五郎丸
【図版】歌川芳員(よしかず)「建久四年五月廿八日富士裾野曽我兄弟夜討本望之図」

 将軍頼朝を目指す兄弟の弟・曽我五郎。誰にも止められなかった勢いの五郎を取り押さえ、頼朝を守ったのは頼朝を警護していた御所五郎丸でした。しかし、功をあげたにもかかわらず、五郎丸は五郎を捕まえる際に女装して油断させた行為が武士道に反するとして鎌倉を追放されました。そして流された地が南アルプス市野牛島(やごしま)地区と地元で伝えられています。

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(左)野牛島の観音堂とビャクシン
(右)鎌倉御所五郎丸の墓

 現在、野牛島集落に建つ観音堂には五郎丸の肌守りと言われる地蔵菩薩の木像が祀られ、お堂の傍らには五郎丸の墓が建てられています。観音堂前のビャクシンは、五郎丸が突いた杖が成長したとの言い伝えもあります。虎御前と同じように五郎丸も地元の人々から慕われ、毎年7月23日、野牛島地区の人たちによって五郎丸を供養するお祭りが開かれています。
 ちなみに「曽我物語」の一番古い形とされる真名本(まなぼん)や「吾妻鏡」(あずまかがみ)には、五郎丸が女装した記述は見当たりません。主役である曽我兄弟の活躍を際立たせるために、女装は後から加えられたエピソードなのかもしれません。

◆そしてもう一人 甲斐源氏の雄小笠原長清

 捕らえられた五郎の尋問に立ち会う幕府の重臣達の中には、櫛形地区小笠原に館をかまえた甲斐源氏小笠原長清も参列していました。仇討ちを果たした弟・五郎の姿は、長清の瞳にはどのように映ったのでしょうか。

 曽我兄弟の討ち入りは旧暦の5月28日、新暦ではちょうど今頃、6月下旬の梅雨の時期に当たります。後世の人々は、その頃に降る雨を十郎の死を悲しむ虎御前の涙と重ねて「虎が雨」と呼び、俳句の季語にも使われています。しっとりと降る「虎が雨」を感じながら、市内に広がる曽我物語の世界を訪ねてはいかがでしょうか。

 

(図版)小田原市正眼寺蔵

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

市内に広がる曽我物語の世界 その1

 これまでご紹介してきた加賀美遠光や小笠原長清などの南アルプス市の甲斐源氏が活躍していた時代に、曽我兄弟の仇討ち事件が富士山麓で起こります。この仇討ちをまとめた「曽我物語」の中には、南アルプス市と深いかかわりのある人物が重要な脇役として登場します。ふるさとメールでは、曽我物語と南アルプス市との関係を2回に分けてご紹介します。まず今回は、曽我物語のストーリーを見ていきましょう。

◆「曽我物語」とは?

 「曽我物語」とは曽我兄弟が父親の仇を討つ物語です。皆さんご存知の赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ日本三大仇討ちの一つに挙げられます。その成立については不明な点が多くはっきりしていませんが、鎌倉時代の終わり頃に物語としてまとめられ、時代が経つにしたがい様々なエピソードが加えられていったようです。室町時代には能や謡曲、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃の演目となり、浮世絵の題材ともなりました。物語の内容は次のようなものです。

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【図版】三代豊国「曽我五郎時致・曽我十郎祐成」

 平安時代の終わり頃の平家全盛の時代、曽我兄弟の祖父、つまりおじいちゃんですね、伊東祐親(すけちか)が従兄弟(いとこ)に当たる工藤祐経(すけつね)の伊豆の所領を奪ったのが事件の始まりです。祐経はそれを恨み家来に祐親を襲わせますが、その結果殺害されたのは祐親ではなく祐親の子であり、曽我兄弟の父親である河津祐泰(かわずすけやす)でした。その時、兄の一万(後の十郎祐成)は5歳、弟箱王(五郎時致)は3歳でした。その後、祐泰の妻は2人の子どもを連れて相模(現在の神奈川県)の曽我祐信(そがすけのぶ)と再婚したため、二人は曽我姓を名のることになります。

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(左)祐親を狙う祐経の従者
(右)雁の群れに亡き父を慕う兄弟
【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 幼いながらも、二人は父の仇を討つことを心に誓いますが、弟箱王は箱根権現で出家させられたり、仇討ちをやめるよう母親に説得されたりします。しかし兄弟は決して仇討ちをあきらめることなく、成長していきました。

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(左)箱王丸に出家して父の菩提を弔うことを説く兄弟の母
(右)十郎の恋人・虎御前
【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 時はやがて源氏が平家を打ち取り、鎌倉幕府が成立します。鎌倉幕府将軍・源頼朝が富士で巻狩り(当時の軍事演習)を行うことを知った兄弟は仇討ちを決意し、恋人、従者と別れを告げます。建久4年(1193)5月23日、巻狩りの夜、鎌倉幕府の重臣として参加していた工藤祐経を討ち果たし、ついに二人は18年にも及ぶ本懐を遂げました。しかし兄・十郎は討ち死に、弟・五郎は将軍頼朝にことの次第を報告しようと、頼朝近くまでつき進みます。この時、五郎に向かっていった武士たちはことごとく倒され、頼朝の身辺警護役の御所五郎丸が女装して近づき、ようやく五郎を取り押さえます。翌日幕府の重臣達が立ち会う中、五郎の尋問が行われます。頼朝は当初助命を考えますが、祐経の遺児に請われ最後に断首を言い渡しました。

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(左)祐経を討ち取る曽我兄弟
(右)女装して五郎に近づく五郎丸
【図版】歌川広重「曽我物語図絵」

 その後、兄十郎の恋人であった虎御前は出家し、二人の菩提を弔う旅に出たと伝えられます。

 以上の登場人物と南アルプス市との関係は次回お伝えします。

 

(図版)小田原市正眼寺蔵

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏 小笠原長清 その3

 数回にわたって、南アルプス市の武将甲斐源氏の一族を紹介しています。

 関東武士団の中で最も優秀な一族と伝わる甲斐源氏、とりわけここ南アルプス市の加賀美遠光そしてその子小笠原長清の一族は後世までも継続し且つ発展しています。小笠原家は紆余曲折を経て、江戸時代には5藩もの大名家を輩出し、山梨といえば同じ甲斐源氏の武田信玄が有名ですが(大河ドラマで話題ですね)、武田家をもしのぐ天下の大族と発展していきます。

 今回は小笠原長清以降の「小笠原」と、「小笠原流」について少し紹介したいと思います。


◆苗字の地「小笠原」
 これまで紹介してきたように、「吾妻鏡」などの書物に小笠原一族の活躍ぶりは記されていますが、苗字の地である「小笠原」についての記述は少なく、室町時代の古文書に手がかりを見つけることができます。
 その頃信濃(長野県)で活躍していた小笠原家は多くの領地を有しており、それら所領は代々惣領が受け継ぎます。その内容は「譲状」といって書面に記されています。

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【写真】=小笠原貞宗譲状案(東京大学史料編纂所蔵)

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【写真・左】=小笠原長基自筆譲状(東京大学史料編纂所蔵)
【 〃 ・右】=同部分


 ここに2通の譲状があります。

 一つは室町時代初頭、康永3(1344)年、長清から七代目に当たる小笠原貞宗からその子政長へ、もう一つが永徳3(1383)年、当時信濃守護家として活躍していた小笠原長基(政長の子)から長秀への譲状で、この2代の間に所領が増えているのがわかります。
 注目したいのはその筆頭に記されている地名です。数ある所領が列記されているなか、その筆頭に、小笠原家惣領職相伝の所領として、ここ南アルプス市の小笠原を示す「原小笠原庄」と記されているのです。いかに苗字の地である小笠原を重要視していたかが伺えます。

 山梨には小笠原という地名が2カ所あります。北杜市(旧明野村)小笠原と南アルプス市小笠原です。中世の古文書でも「山小笠原庄」と「原小笠原庄」と二つの地名が見え、「山小笠原庄」が北杜市の小笠原を指すことが判明しているため、必然的に「原小笠原庄」は南アルプス市小笠原ということになるのです。


◆弓馬術から幕府公式の礼法へ
 さて、この一通の譲状の主、小笠原貞宗は小笠原家中興の祖と呼ばれている人物です。
 室町時代になると、貞宗により弓馬術に礼式が加えられ、「弓・馬・礼」の三法が小笠原家の伝統の基盤となりました。

 さらに「小笠原といえば礼法」といわれる基盤を築いたのは足利三代将軍義満の命により武士の一般教養を説いたとされる「三議一統」を共述した十代目長秀といえ、この頃には小笠原氏が将軍家の弓馬術師範となっており、後世武家の諸礼式・弓馬礼法の家元として小笠原家の名は最も世に知られた存在となったのです。

 その後徳川家康に仕えた貞慶の頃、小笠原流礼法は大成しましたが、江戸幕府公式の礼法となったため、小笠原家と将軍家だけにその真髄を伝える奥義で、将軍家以外に明かしてはいけないもの(これを「お止め流」といいます)とされ、また一子相伝のもと、一般に教授されることはありませんでした。


◆一子相伝を解く
 江戸時代の終わり、町人の間にも格式のある礼法を学び「ハク」をつけたいという気運が高まり、礼法の真髄を知らずに、「畳の縁を踏んではいけない」などのように、形だけの「お作法」が独り歩きしてしまい、堅苦しい礼法という印象が広がってしまいます。
 戦後、「相手を思う心」を基本とする「真の礼法」を多くの方に理解して頂こうと、小笠原家では「一子相伝」の封印を自ら解き、礼法の普及に努め始めたのです(ちなみに、室町時代の畳の縁はこんもりぶ厚かったため、配膳の際に足を引っ掛け膳をひっくり返したりして相手に迷惑をかけることのないように、といった意味があるといわれます)。

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【写真・左】=小笠原流 結婚の儀式(陰の式)の様子
【 〃 ・右】=紐結びの数々(小笠原流礼法 深沢菱律師範による~加賀美公民館にて)



◆相手を思いやる心 「小笠原流礼法」
 小笠原流礼法はTPO(時・所・場合)にあわせ、相手を思いやる心を動作にするといったもので、現在の私たちにとってこそ必要なものなのかもしれません。
 節句や祝い事などでは床飾りといって季節のものを飾りつけ、お客様をもてなします。
 また、ご祝儀袋などは、中に包まれるものの形に合わせて折る、ということから「折形」と呼ばれ、相手に対する心も一緒に包み込むという礼法の基本がこめられています。

 時代を超え、現在の我々にも受け入れられている礼法の心。南アルプス市は相手を思いやる心の発祥の地なのです。

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【写真・左】=各種の折形と端午の節供の床飾り
【 〃 ・右】=折形や紐結びを応用した かわいらしいお飾り

 

◇小笠原長清公顕彰会では、毎年礼法講座を開催しています。興味がありましたら教育委員会生涯学習課・文化振興担当までお問い合わせください。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏 小笠原長清 その2

 平安時代末、南アルプス市で地盤を築いた加賀美遠光は、自分と同様に子供達も京へ送り、その若き時代をおくらせます。
 まだ平家全盛の時代にあって、長男(秋山)光朝は平家の惣領家の娘を嫁にとり、次男(小笠原)長清とともに最強の武将とうたわれた平知盛に仕えるなど、当時としてはいわゆるエリートコースを歩んでいました。
 しかし源平の合戦の時代を迎え、二人の兄弟の運命を大きく分けるドラマが綴られたことはこれまでにも紹介してきたところです。
 今回は、次男小笠原長清にスポットをあて、弓馬の名手とうたわれた長清のエピソードと、小笠原流の流鏑馬(やぶさめ)について、アヤメフェアでの流鏑馬の写真とともに紹介していきます。

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小笠原流流鏑馬

◆源頼朝と小笠原長清
 「吾妻鏡」など、鎌倉武士の様子が描かれた書物を紐解くと、長清と頼朝の信頼関係を示すエピソードがいくつか残されています。
 養和元(1182)年2月、長清19歳の時に上総介広常の娘を妻としていますが、これは頼朝の斡旋によるものと伝わります。
 また、文治元(1185)年、長清22歳の時、頼朝の弟範頼の軍に入り平家追討に向かう時のこと、頼朝が範頼に宛て 「かがみ殿(長清)、ことにいとおしく・・・(中略)ただ二郎殿(長清)をいとおしくて。これをはぐくみ候べきなり。」 と長清に対し特別に目をかけるよう手紙を送っているなど、頼朝の長清に対する思い入れが強いことが伺えます。

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最後に見事的を射抜いたものは褒美を弓へくくりつけ、威風堂々練り歩く

◆弓馬の四天王
 当時は騎射技術が優れていることが武者の条件であり、弓馬の技が一族の発展を左右するといっても過言ではありません。
 そのような中、長清は、当時「弓馬の四天王」に数えられていたほどの騎射技術の名手で、頼朝は、行事のための流鏑馬作法をまとめるため12名を選出しますが、当然その中には長清の名もみえます。
 それ以降全国で流鏑馬や射芸の行事が行われる際には、長清を始め代々長清の子孫達が演舞者として名を連ね、射芸には小笠原一族は欠かせない存在となったのです。
 小笠原家の系図には「糾法(弓法)的伝」とあり、長清以降小笠原家の嫡流に弓法が伝えられ、遅くとも室町時代には、代々将軍家の弓術師範をつとめてきたといわれます。

◆小笠原流流鏑馬
 ここで、小笠原流流鏑馬について少し紹介しましょう。市内では現在アヤメフェアで披露されており、ここでもお知らせした通り、今年は4月30日に行われ、大勢の人が勇壮な武芸に陶酔しました。
 行われたのは小倉藩相伝の小笠原流流鏑馬で、今年で16年目。演じるのは旧小倉藩惣領家より免許皆伝をうけた流鏑馬宗家、源長統(みなもとのながむね)一門です。

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【写真・左】=源長統(みなもとのながむね)一門
【 〃 ・右】=馬場には幔幕が張られ時代絵巻さながらの舞台が整う。中央の幔幕には、小倉藩惣領家第32世である源忠統から贈られたことが記されている。

 小笠原流では綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂(よろいひたたれ)に射小手を着け、行騰(むかばき)を履いた鎌倉武士の狩装束の格好で行い、250mもの馬場を疾走しながら3本の的を射ます。
 櫛形総合公園の一角にある流鏑馬専用の馬場は、直線で250mを確保できる国内でも有数の馬場といわれます。

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狩装束

 「的」はヒノキの板で、古来より流鏑馬の「当的」は貴重で、縁起の良い物とされています。魔除けとして玄関や神棚に祀られます。
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当的 ほぼ中央を射抜かれた的に、宗家自筆で署名され花押が記される

 ここ南アルプス市に館を構え、武芸に秀でた親子からはじまる技と伝統は全国へと広まり、世界へも発信されています。
 次回は、時代を超え現在のわれわれにも受け入れられている礼法の心と、苗字の地「小笠原」について触れ、小笠原長清について一旦結びとしたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏 小笠原長清 その1

加賀美遠光一族のドラマを綴る
もう一人の主人公 小笠原長清

 厳しい選択を迫られながらも父遠光とともに源頼朝の信任を得、日本を代表する武家へと発展していくこととなる小笠原氏の始祖です。
 弓馬の四天王とうたわれた彼の武芸の腕は、流鏑馬といえば小笠原という位置を築き、代々その子孫に受け継がれ、やがてそこに礼の心が加わることで日本を代表する小笠原流礼法を生み出すこととなるのです。

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遠光・長清父子像(開善寺蔵)
加賀美遠光(上)と小笠原長清(下)

 今回は、小笠原長清が館を構えた櫛形地区小笠原周辺で長清の足跡をたどる小さな旅をしてみましょう。

 

◆苗字の地「小笠原」
 まずは長清ゆかりの地名をたどってみます。 

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小笠原小学校のレリーフ

 覚えていますか、この「原風景 今、南アルプスが面白い」の記念すべき第1回で紹介したこちらの写真。
 小笠原小学校校舎のレリーフで、よく教科書などで見かけた鎌倉武士の武芸の様子が描かれています。
 毎日のように子供達の目に入るこのレリーフは、小笠原長清がここ小笠原小学校付近に館を構えたと伝わることにちなんでいます。
 学校周辺には今でも「御所庭」「御所庭西」「的場」といった地名が残されており、江戸時代に編纂された甲斐国誌には、「御所庭」は長清居宅の南庭を指すとされています。
 ここで確認です。これまで再三にわたり長男秋山、次男小笠原の名が登場していますが、この苗字と地名、基本的には地名が先ですよ。「小笠原」という地を本拠地としたことから加賀美長清は「小笠原長清」を称することになります。秋山についても同じことがいえます。

 

◆幻の曹源寺
 小笠原の南西に「山寺」という地域がありますが、この地名も実は長清にゆかりがあります。
 かつて長清が源氏の菩提寺として「曹源寺」という立派なお寺を居館の南に建てました。父遠光の本拠地加賀美から眺めると櫛形山を背負って大きなお寺が眺められたことから、この一帯が山寺と呼ばれることとなったと伝わります。今はそのお寺は無くどこに建てられていたかも謎のままです。
 地名一つをとっても、そこに歴史があるとなんだか自慢げな気分になりませんか。

 

◆長清の面影
 小笠原周辺を歩くとこんなことにも気付きます。興隆院や神部神社などでよく目にする三階菱。これは小笠原氏の家紋であり、長清ゆかりの地であることが伺えます。

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興隆院の屋根に光る三階菱

 三階菱は長清の父加賀美遠光から続く家紋であり、高倉天皇から遠光が(長清がという言い伝えもあり)褒美としていただいた「王」の字をそのままでは恐れ多いとしてデザイン化し家紋としたという伝説があります。

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ひっそりと佇む長清公祠堂

 ここにも三階菱を掲げた祠があります。
 長清公祠堂は興隆院の南西、表通りから一本奥まったところに静かに佇んでいます。
 長清の墓跡と伝わる場所に建てられたもので、明治時代に地元有志により建てられ守られてきました(平成15年に修復をしています)。この祠堂をめぐっても様々なドラマが展開していきますが、それについては別の機会に紹介しましょう。

 さて、今回は長清ゆかりの場所をほんの少しだけ紹介しましたが、市内にはまだまだ長清の面影をみつけることができます。
 それらはこの地域の豊な歴史を物語っており、平安時代末~鎌倉時代、確かに源氏がここに根をはり、活躍していたことを伝えてくれています。

 次回はそのような長清の活躍ぶりや、その後の小笠原について紹介していきたいと思います。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏秋山光朝 その2

秋山光朝の最期と中野城

 甲斐源氏光朝はまた、悲しい伝説に彩られた悲劇の武将としても知られています。

 鎌倉幕府の黎明期、全国の源氏とともに、甲斐源氏もまた治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に呼応し、平家打倒を目指す勢力の一翼を担いました。
 これに対し、幕府成立後は一転、甲斐源氏の強大な軍事力を恐れる頼朝は、自ら政権基盤を固めるため、武田信義、安田義定をはじめとする甲斐源氏のほとんどを次々と謀殺、排除してしまいます。このような中にあって、平重盛の娘を娶(めと)るなど平家と深い関係があった光朝もまた、頼朝から排斥され、鎌倉勢に攻められ、ついには、文治元(1185)年秋、追い詰められた「雨鳴城」で自害したといわれています。
 そしてその際、攻め手の鎌倉方の先鋒は弟小笠原長清が務めたとの伝承もあり、頼朝の下で鎌倉幕府の基盤が固められていく中、粛清を免れた加賀美遠光、長清の一党もまた非情な選択を迫られています。

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中野城(作画:宮坂武男氏)

 ところで、県道伊那ケ湖線を上っていくと南側に見える城山(1020m)の山頂付近一帯が、古代の城郭「中野城」であったといわれています。中野城は、江戸時代に編さんされた山梨を代表する地誌『甲斐国志』に、「中野ノ城跡 乃チ秋山太郎光朝要害ノ城墟ナリ」とあり、秋山太郎光朝の城であったことが伝えられています。

 城山の南東下方に位置する雨鳴山の山頂にも山城の跡があり、そこを光朝の自害した雨鳴城とする説もありますが、地域には中野城址であるこの城山が光朝自害の地であるとの伝承があることや、城山を雨鳴城と呼ぶ場合もあります。さらには『甲斐国志』に「(中野城の)東南ヘ一級下リ馬冷場ト云フ処三面ニ塁ヲ設ク」と記載される施設が、その位置、造りからみて雨鳴山の遺構に比定できることから、最も奥まった高所に立地する中野城こそが光朝終焉(えん)の地であったのかもしれません。

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中野城の縄張図(縄張作図:宮坂武男氏)

 中野城が占地している城山の山頂部は南北に伸びる細長い尾根状を呈し、特にその東側は急峻(しゅん)な崖となっていて人の侵入を阻みます。しかし、この山頂部分には東面の急峻な崩落地形からは想像できない程の平坦地が各所にあります。
 山頂の三角点付近には、現在も高さ50cm程の低い土塁が認められ、この土塁が尾根の山道と交わるところに虎口(城の入口)が設けられています。この土塁の内側は、帯状の平坦地となっているほか、山頂域の北側にも広い平坦面があり、有事の逃げこみ場として充分機能したことがうかがえます。

 この中野城址、現在は遊歩道が整備され、下の桜池駐車場から20~30分で山頂に登ることができます。6月中旬から下旬には、自生するコアジザイ(ヤマアジサイ)の可憐(れん)な白い花を遊歩道の両側でみることができます。
 皆様も一度この歴史にふれる遊歩道を歩いてみてはいかがでしょうか?
 場所はこちら

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(写真・左)中野城遊歩道入口
( 〃 中央)城山山頂からの眺望
( 〃 右)中野城遊歩道に咲くコアジサイ

 さて、悲劇のドラマを綴(つづ)ることとなったもうひとりの主人公、小笠原長清。
 次回は遠光の次男として加賀美を受け継ぐ役割を果たし、源頼朝の信頼を得た武士小笠原長清を紹介します。
 長清の優れた武芸は子孫に受け継がれ、その後「小笠原流流鏑馬(やぶさめ)」「小笠原流礼法」として広く知られるところです。
 南アルプス市では、毎年アヤメフェアにおいて、小笠原流流鏑馬を見ることができます。今年は4月30日に開催予定です。皆さまも、疾走する人馬の圧倒的迫力に、武士の駆け抜けた鎌倉時代の息吹を感じてみてはいかがでしょうか?

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日時:平成19年4月30日(月) 午後1時頃(予定)~
場所:櫛形総合公園内 流鏑馬馬場

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏秋山光朝 その1

甲西地区秋山 ~光朝のゆかりの文化財をあるく~

 今回は再び、南アルプス市を駆けた武士集団、甲斐源氏について書きたいと思います。今年の1月1日号でもお話ししたとおり、若草地区の加賀美を拠点に峡西・峡南地域を治めた加賀美遠光は、その支配地域内各所に自分の子どもたちを配してその基盤を固めました。具体的には、甲西地区秋山に長男光朝、櫛形地区小笠原に次男長清、現在の南巨摩郡南部町付近に三男光行といった具合です。
 今回は、その中から、まず長男光朝にスポットをあて、光朝ゆかりの文化財が数多く残る甲西地区秋山を紹介したいと思います。

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秋山光朝(市指定文化財「秋山光朝の木造」)
 光朝が拠点を構えたのは、甲西地区秋山。現在の熊野神社がその居館の跡だと伝えられています。

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秋山熊野神社(市指定文化財秋山光朝館跡)
周囲から敵の侵入を防ぐ小高い独立丘になっています

 当地からは県指定文化財である「秋山太郎光朝供養の経筒及び附属品」が発見されているほか、周辺には父である遠光、光朝、および同夫人の墓とされる五輪塔も残されています。

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市指定文化財「遠光・光朝及び夫人の墓」
遠光、光朝、および同夫人の墓と伝えられる五輪塔

 また、秋永山光昌寺(こうしょうじ)は、「光朝寺」とも伝えられ、光朝ゆかりの寺として知られています。
 甲西地区秋山は、静かな佇まいのなかに、光朝ゆかりの多くの文化財と、中世の香り漂う町並みが残されています。みなさまも遥か中世の世界に思いを馳せて、一度と当地を散策してみてはいかがでしょうか?

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光昌寺

次回は、光朝の最期と光朝ゆかりの城「中野城」のお話です。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

竪穴住居址から雁股のヤジリ
武士の時代の芽生え― 平安時代末期

 今回は、雁股(狩股=かりまた)と呼ばれるヤジリに注目したいと思います。雁股は、先が二股に開き、その内側に刃のあるヤジリです。現在でも流鏑馬(やぶさめ)などで使われるので見たことのある人も多いかもしれません。
 もともとは、飛ぶ鳥や走っている獣の足を射切るなど、主として狩猟用に開発されたようですが、後には鏑矢(かぶらや=音の出る矢)につけて、合戦の始まりの第一矢(嚆矢=こうし)や祭祀など特別な用途にも用いられるようになりました。

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鏑矢につけられた雁股のヤジリ

 このヤジリは、発掘調査をしていると、たまに発見されることがあります
 南アルプス市内ではこれまで4件の出土例があります。いずれも11世紀後半から12世紀に用いられたものと考えられます。
 11世紀後半から12世紀といえば平安時代の終わり頃。貴族の時代から武士の時代へ時代が大きく動きつつあったころです。南アルプス市で発見されたヤジリも当時の武士の持ち物だったのかもしれません。

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市内で発見された雁股のヤジリ
(左)寺部村附第6遺跡(若草地区)
(右)一の出し遺跡(櫛形地区)

 この他に、白根大嵐地区の善応寺の裏山から1点経筒と共に発見されています。
 最新の発掘事例では、平成18年秋から平成19年2月にかけて実施されていた、八田地区の野牛島西ノ久保(やごしまにしのくぼ)遺跡において、竪穴住居址の中から1点発見されています。

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野牛島西ノ久保遺跡から発見された竪穴住居址と雁股のヤジリ

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野牛島西ノ久保遺跡

 山梨県内では少なくとも、武士の勃興期まで人々が竪穴住居址に暮らしていたことが確認されています。この住居址が武士の家であったかどうか、発見された雁股のヤジリが、純粋な武器であるか、祭祀の道具であるかはわかりません。しかし、「武士の道具」として定着する雁股のヤジリの発見は、南アルプス市において、続く武士の時代の芽生えを感じさせる遺物ということができます。

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アヤメフェアでの小笠原流流鏑馬

 南アルプス市では、毎年ゴールデンウィーク前後に開催されるアヤメフェアにおいて、当地ゆかりの小笠原流流鏑馬(やぶさめ)を見ることができます。今年は4月30日に開催予定です。みなさまも、疾走する人馬の圧倒的迫力に、武士の駆け抜けた鎌倉時代の息吹を感じてみてはいかがでしょうか?

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】