平安時代末、南アルプス市で地盤を築いた加賀美遠光は、自分と同様に子供達も京へ送り、その若き時代をおくらせます。
まだ平家全盛の時代にあって、長男(秋山)光朝は平家の惣領家の娘を嫁にとり、次男(小笠原)長清とともに最強の武将とうたわれた平知盛に仕えるなど、当時としてはいわゆるエリートコースを歩んでいました。
しかし源平の合戦の時代を迎え、二人の兄弟の運命を大きく分けるドラマが綴られたことはこれまでにも紹介してきたところです。
今回は、次男小笠原長清にスポットをあて、弓馬の名手とうたわれた長清のエピソードと、小笠原流の流鏑馬(やぶさめ)について、アヤメフェアでの流鏑馬の写真とともに紹介していきます。
◆源頼朝と小笠原長清
「吾妻鏡」など、鎌倉武士の様子が描かれた書物を紐解くと、長清と頼朝の信頼関係を示すエピソードがいくつか残されています。
養和元(1182)年2月、長清19歳の時に上総介広常の娘を妻としていますが、これは頼朝の斡旋によるものと伝わります。
また、文治元(1185)年、長清22歳の時、頼朝の弟範頼の軍に入り平家追討に向かう時のこと、頼朝が範頼に宛て 「かがみ殿(長清)、ことにいとおしく・・・(中略)ただ二郎殿(長清)をいとおしくて。これをはぐくみ候べきなり。」 と長清に対し特別に目をかけるよう手紙を送っているなど、頼朝の長清に対する思い入れが強いことが伺えます。
最後に見事的を射抜いたものは褒美を弓へくくりつけ、威風堂々練り歩く
◆弓馬の四天王
当時は騎射技術が優れていることが武者の条件であり、弓馬の技が一族の発展を左右するといっても過言ではありません。
そのような中、長清は、当時「弓馬の四天王」に数えられていたほどの騎射技術の名手で、頼朝は、行事のための流鏑馬作法をまとめるため12名を選出しますが、当然その中には長清の名もみえます。
それ以降全国で流鏑馬や射芸の行事が行われる際には、長清を始め代々長清の子孫達が演舞者として名を連ね、射芸には小笠原一族は欠かせない存在となったのです。
小笠原家の系図には「糾法(弓法)的伝」とあり、長清以降小笠原家の嫡流に弓法が伝えられ、遅くとも室町時代には、代々将軍家の弓術師範をつとめてきたといわれます。
◆小笠原流流鏑馬
ここで、小笠原流流鏑馬について少し紹介しましょう。市内では現在アヤメフェアで披露されており、ここでもお知らせした通り、今年は4月30日に行われ、大勢の人が勇壮な武芸に陶酔しました。
行われたのは小倉藩相伝の小笠原流流鏑馬で、今年で16年目。演じるのは旧小倉藩惣領家より免許皆伝をうけた流鏑馬宗家、源長統(みなもとのながむね)一門です。
【写真・左】=源長統(みなもとのながむね)一門
【 〃 ・右】=馬場には幔幕が張られ時代絵巻さながらの舞台が整う。中央の幔幕には、小倉藩惣領家第32世である源忠統から贈られたことが記されている。
小笠原流では綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂(よろいひたたれ)に射小手を着け、行騰(むかばき)を履いた鎌倉武士の狩装束の格好で行い、250mもの馬場を疾走しながら3本の的を射ます。
櫛形総合公園の一角にある流鏑馬専用の馬場は、直線で250mを確保できる国内でも有数の馬場といわれます。
「的」はヒノキの板で、古来より流鏑馬の「当的」は貴重で、縁起の良い物とされています。魔除けとして玄関や神棚に祀られます。
当的 ほぼ中央を射抜かれた的に、宗家自筆で署名され花押が記される
ここ南アルプス市に館を構え、武芸に秀でた親子からはじまる技と伝統は全国へと広まり、世界へも発信されています。
次回は、時代を超え現在のわれわれにも受け入れられている礼法の心と、苗字の地「小笠原」について触れ、小笠原長清について一旦結びとしたいと思います。
【南アルプス市教育委員会文化財課】