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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスを駆けた武士(もののふ)たち
甲斐源氏 小笠原長清 その3

 数回にわたって、南アルプス市の武将甲斐源氏の一族を紹介しています。

 関東武士団の中で最も優秀な一族と伝わる甲斐源氏、とりわけここ南アルプス市の加賀美遠光そしてその子小笠原長清の一族は後世までも継続し且つ発展しています。小笠原家は紆余曲折を経て、江戸時代には5藩もの大名家を輩出し、山梨といえば同じ甲斐源氏の武田信玄が有名ですが(大河ドラマで話題ですね)、武田家をもしのぐ天下の大族と発展していきます。

 今回は小笠原長清以降の「小笠原」と、「小笠原流」について少し紹介したいと思います。


◆苗字の地「小笠原」
 これまで紹介してきたように、「吾妻鏡」などの書物に小笠原一族の活躍ぶりは記されていますが、苗字の地である「小笠原」についての記述は少なく、室町時代の古文書に手がかりを見つけることができます。
 その頃信濃(長野県)で活躍していた小笠原家は多くの領地を有しており、それら所領は代々惣領が受け継ぎます。その内容は「譲状」といって書面に記されています。

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【写真】=小笠原貞宗譲状案(東京大学史料編纂所蔵)

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【写真・左】=小笠原長基自筆譲状(東京大学史料編纂所蔵)
【 〃 ・右】=同部分


 ここに2通の譲状があります。

 一つは室町時代初頭、康永3(1344)年、長清から七代目に当たる小笠原貞宗からその子政長へ、もう一つが永徳3(1383)年、当時信濃守護家として活躍していた小笠原長基(政長の子)から長秀への譲状で、この2代の間に所領が増えているのがわかります。
 注目したいのはその筆頭に記されている地名です。数ある所領が列記されているなか、その筆頭に、小笠原家惣領職相伝の所領として、ここ南アルプス市の小笠原を示す「原小笠原庄」と記されているのです。いかに苗字の地である小笠原を重要視していたかが伺えます。

 山梨には小笠原という地名が2カ所あります。北杜市(旧明野村)小笠原と南アルプス市小笠原です。中世の古文書でも「山小笠原庄」と「原小笠原庄」と二つの地名が見え、「山小笠原庄」が北杜市の小笠原を指すことが判明しているため、必然的に「原小笠原庄」は南アルプス市小笠原ということになるのです。


◆弓馬術から幕府公式の礼法へ
 さて、この一通の譲状の主、小笠原貞宗は小笠原家中興の祖と呼ばれている人物です。
 室町時代になると、貞宗により弓馬術に礼式が加えられ、「弓・馬・礼」の三法が小笠原家の伝統の基盤となりました。

 さらに「小笠原といえば礼法」といわれる基盤を築いたのは足利三代将軍義満の命により武士の一般教養を説いたとされる「三議一統」を共述した十代目長秀といえ、この頃には小笠原氏が将軍家の弓馬術師範となっており、後世武家の諸礼式・弓馬礼法の家元として小笠原家の名は最も世に知られた存在となったのです。

 その後徳川家康に仕えた貞慶の頃、小笠原流礼法は大成しましたが、江戸幕府公式の礼法となったため、小笠原家と将軍家だけにその真髄を伝える奥義で、将軍家以外に明かしてはいけないもの(これを「お止め流」といいます)とされ、また一子相伝のもと、一般に教授されることはありませんでした。


◆一子相伝を解く
 江戸時代の終わり、町人の間にも格式のある礼法を学び「ハク」をつけたいという気運が高まり、礼法の真髄を知らずに、「畳の縁を踏んではいけない」などのように、形だけの「お作法」が独り歩きしてしまい、堅苦しい礼法という印象が広がってしまいます。
 戦後、「相手を思う心」を基本とする「真の礼法」を多くの方に理解して頂こうと、小笠原家では「一子相伝」の封印を自ら解き、礼法の普及に努め始めたのです(ちなみに、室町時代の畳の縁はこんもりぶ厚かったため、配膳の際に足を引っ掛け膳をひっくり返したりして相手に迷惑をかけることのないように、といった意味があるといわれます)。

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【写真・左】=小笠原流 結婚の儀式(陰の式)の様子
【 〃 ・右】=紐結びの数々(小笠原流礼法 深沢菱律師範による~加賀美公民館にて)



◆相手を思いやる心 「小笠原流礼法」
 小笠原流礼法はTPO(時・所・場合)にあわせ、相手を思いやる心を動作にするといったもので、現在の私たちにとってこそ必要なものなのかもしれません。
 節句や祝い事などでは床飾りといって季節のものを飾りつけ、お客様をもてなします。
 また、ご祝儀袋などは、中に包まれるものの形に合わせて折る、ということから「折形」と呼ばれ、相手に対する心も一緒に包み込むという礼法の基本がこめられています。

 時代を超え、現在の我々にも受け入れられている礼法の心。南アルプス市は相手を思いやる心の発祥の地なのです。

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【写真・左】=各種の折形と端午の節供の床飾り
【 〃 ・右】=折形や紐結びを応用した かわいらしいお飾り

 

◇小笠原長清公顕彰会では、毎年礼法講座を開催しています。興味がありましたら教育委員会生涯学習課・文化振興担当までお問い合わせください。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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