今回紹介する仏様も、前2回と同様、現在実施中の市内仏像等悉皆(しっかい)調査の過程で『発見』された仏様です。
若草地区十日市場の県道に面したお寺、法憧院のご本尊「木造厨子入り地蔵菩薩坐像(もくぞうずしいりじぞうぼさつざぞう)」は、読んで字のごとく、お厨子に納められたお地蔵さまです。今回お地蔵さまと、これを納める厨子がセットで市指定文化財となりました。
十日市場地区で県道に面したお寺といえば、鎌倉時代につくられた十日市の市神さま、安養寺の通称「鼻採地蔵(はなとりじぞう=市指定文化財)」が有名ですが、今回紹介する法憧院のお地蔵さまは、これより少し後の戦国時代(今から480年ほど前)に造られた仏様です。
【写真・左】=厨子に納められたお地蔵さま
【写真・中】=法憧院の本尊 木造地蔵菩薩坐像
【写真・右】=宮殿型の厨子(内面に墨で銘文が描かれているのが分かります)
像高約20cmのこの地蔵菩薩坐像は非常にまとまりのいい作例で、戦国時代という時代を代表する様式を備えており貴重です。また中世に遡る単独の厨子は山梨県内では珍しく当時の建築様式を知る上でこちらも貴重な資料ということができます。これに加え、厨子内面の三つの壁面には全体に墨で銘文が書かれていて、今回、私たちにさまざまなことを教えてくれました。
【写真】厨子内面に描かれた銘文(コンピュータにより画像処理)
▽銘文の読み下し(秋山敬氏による)
甲陽の城主
十日市場の宝憧庵の公用なり。
本尊地蔵の宮殿の事
檀門宅庭中の出俗男女、毎月費用を捧げ、斯の助成を以て造り奉り、殿内に入仏申すなり。材木の檀那は小池入道浄慶、同じく番匠刷(かいつくろい)は当庵檀那の河西淡路守、大工は加賀美五郎右衛門。
本願主は当庵住持周紹蔵主なり。
天文三年甲午八月彼岸の辰(とき)なり。
筆者元明周、之を鑑(かんが)みる。
書かれた銘文からは、天文3(1534)年に檀家の人々が毎月費用を出しあい、大工加賀美五郎右衛門に依頼して厨子を造立した経緯が書かれ、当時の人々の厨子建立に寄せる思いを今に伝えています。
1行目の甲陽は甲斐国の美称です。厨子の造られた天文3年当時、甲陽「城主」は武田信虎(信玄のお父さん)です。大工の加賀美五郎右衛門ですが、時期的に最も近い記録として、天文4(1535)年、武田八幡神社の本殿「かゝミの十人 □右衛門との」の墨書銘があるほか、近世を迎えると甲斐国の国役職人の大工として中郡筋畔村(現在甲府市)に加賀美家がおかれたことが知られています。五郎右衛門とどのような関係にあるかは今のところ明確にできませんが、同姓であり今後検討していくと面白いかもしれません。
この大工の手配をした(「刷」は準備を整えること)のは檀家の河西淡路守ですが、このころ、隣の鏡中条村には武田家家臣の河西与右衛門が住んでおり(『国志』巻九八)、鏡中条村の巨摩八幡宮に天文18年に河西但馬守が寄進をしたとの記録があることから、河西淡路守はこうした人々に連なる人かもしれません。厨子には武田家の家紋(武田菱)も描かれます。
また、ここに「十日市場」の村名が見えることは、甲府盆地に春を呼ぶ祭りとして有名な「十日市(南アルプス市指定史跡)」の起源が、少なくともこの銘文が書かれた天文3年(1534)以前に遡ることが分かり、「市」の起源を考える上でも重要です。
このように短い銘文ですがさまざまな内容が含まれており、今後検討していくと、まだまだいろいろなことが分かりそうです。
中世に遡る作例で仏像、厨子がそろい、銘文が伴う例は県内では非常に稀なことです。そこからいろいろな情報を提供してくれたこの厨子入り地蔵菩薩坐像は、仏教美術、文献史学はもとより、当時の大工が造った厨子の構造は建築史、お寺の立地や当時の歴史的環境は考古学と、さまざまな分野の研究者にとって重要な作例であり、今回も多方面からの調査が行なわれました。市内にはほかにも戦国時代に造られた仏様は数多くありますが、この仏様は、このように「総合的に」すごい仏様なのです。
【写真】芝浦工業大学渡辺洋子氏(建築史)、市文化財審議委員 鈴木麻里子氏(仏教美術)による学際的な調査風景
【南アルプス市教育委員会文化財課】