掩体壕(えんたいごう)とは、飛行機を格納し、隠し、爆風から守る施設です。
今回市指定文化財となった掩体壕は、今から60年余り前、太平洋戦争末期に「ロタコ」工事に伴って構築されました。
【写真】調査が行われる前、掩体壕は住宅街の一角にひっそりと眠っていた
太平洋戦争末期の昭和19年~20年頃になると日本本土は、米軍から直接爆撃を受けるようになり、主な軍事施設は地方への分散疎開が検討されました。このような中、東京立川にあった軍施設、立川航空工廠(たちかわこうくうこうしょう)の機能を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたのがロタコ(第2立川航空工廠の暗号名)だと言われています。
旧日本陸軍の記録には、「御勅使河原飛行場」として登場するこのロタコの建設工事では、現在の南アルプス市飯野、有野地区を中心に、地域住民や、いわゆる朝鮮人労働者を動員して、大型機も離着陸可能な幅100m・長さ1500mの滑走路をはじめ、誘導路、ピスト(管制塔)、横穴壕(地下工場)、そして掩体壕などの様々な施設が構築されました。
秘匿(秘密)飛行場という性格から、それぞれの施設は、広大な御勅使川扇状地上の約800ヘクタール(東京ドーム171個分)もの範囲に点在して作られ、現在もその施設のいくつかについて当時の面影を見ることができます。
今回指定文化財となった掩体壕もそのひとつであり、滑走路のちょうど1kmほど南にあって誘導路を介して滑走路に接続していました。
ロタコの施設では、このほかに2基(1・2号)の掩体壕の存在を確認することができます。
掩体壕には、屋根のないものや、屋根をコンクリートで造るものなど様々な形が知られていますが、現在確認できるロタコの掩体壕は、コンクリート製の基礎に木製の「覆い」を架けるものです。現在木製の「覆い」はすでになく、コンクリート製の基礎のみが遺されています。
大きさは、幅20m、奥行き16m程で、戦闘機1機を納めるのにちょうどよい大きさです。平成17年度に行われた発掘調査の結果、半地下式の構造で、床面には、厚さ10cmほどもある立派なコンクリートの床(スラブ)が打たれていることがわかりました。
【写真・左】=掩体壕の調査風景
【写真・右】=調査の結果分かった掩体壕の復元想像図
終戦後60年余りを経て、戦争に対する人々の記憶が薄れる中、掩体壕はロタコを象徴する遺構のひとつとして、南アルプス市にも確かに戦争があったのだということを未来に伝えるとともに、動員された地域住民の過去のある時期に関する「共同の記憶」を象徴するものとして、重要な文化財ということができます。
このような戦争の記憶を「モノ」として遺していこうという動きは、現在全国的に広がりを見せており、太平洋戦争を記憶する遺跡として、広島の原爆ドームや沖縄の南風原(はえばる)陸軍病院壕などが国指定史跡となっているほか、100を超える遺跡が指定・登録文化財となっています。山梨県では山梨大学赤レンガ館が国登録文化財となったのに続き、今回の指定が2例目となりました。掩体壕に限ってみても、ロタコ以外に、大分県宇佐市や高知県南国市をはじめすでに全国5ヶ所で指定・登録文化財となっているのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】