今日は8月15日、8月13日から16日まで続くお盆の三日目です。山梨のお盆で欠かせないもの、それは安倍川餅。真っ白な餅に暗く透き通った黒蜜がかけられ、その上から黄金色のきなこがまぶされます。黒蜜の甘い香りときなこの香ばしさがふわっと匂い立ちます。
【写真】山梨県の安倍川餅
この時期に山梨では和菓子店やスーパーに安倍川餅のセットが並び、各家の精霊棚にお供えされます。しかし、この風景、他の県ではあまり見られない、山梨独特の風景でもあるようです。
【写真】和菓子店にならぶ安倍川餅と黒蜜、黄粉
【写真】精霊棚にお供えされた安倍川餅
【写真】精霊棚にお供えされた安倍川餅
ではなぜ、お盆に安倍川餅を食べるのか?地域の方々にお聞きしましたが、ほとんどの人がキョトンとした表情で「伝統だから」と答えます。ではいつからと聞いても、「そりゃわからん、昔からでしょ」との答えが返ってきます。
決してボーっと生きてきたわけではないとは思うのですが、いつから、なぜお盆に安倍川餅を食べるのか、当たり前すぎてこれまで深く考えられてこなかったようです。今回のふるさとメール、このテーマを掘り下げてみたいと思います。
江戸時代の安倍川餅
まず数野雅彦さんが山梨県立博物館の企画展で山梨の食べ物の記録をまとめられた資料を基に、江戸時代の安倍川餅のルーツを探してみました(数野雅彦 2008「山梨の食文化を記録した歴史史料についてー「附編」表A~D解説ー」『山梨食べもの紀行』山梨県立博物館)。その結果、予想に反して、江戸時代はもちろん明治時代の資料にも「安倍川」や「あべ川」、「黄粉餅」などの名前を見つけることはできませんでした。その他の史料も確認しましたが、それらの名前は見当たりません。もちろん江戸時代の文書には食されていたけれど、書き記されないものも多数ありますので、はっきりと食べられていなかったとは言い切れませんが、文書で確認できなかったのも事実です。
餅自体は古くから節句や伝統行事で神仏などへ供えられる大切な供物であったことは間違いありません。江戸時代でお盆の例を一つ挙げれば、安政2年(1855)の「西南湖定書」には、「一 年内餅場之義者、正月鏡餅七月精霊備餅之外無用可為事」とあり、7月のお盆に餅が供えられていたことがわかります。
江戸時代 東海道の安倍川餅
では山梨県の「安倍川餅」の語源となった本場静岡県の安倍川餅をひもといてみましょう。東海道の安倍川河畔の茶店で売られた安倍川餅については、いくつもの史料に登場し、研究も進められています。
天明から文化(1781~1818)の随筆『耳嚢(みみぶくろ) 』には駿河国安倍川の名物の餅であり、取り立てて変わったものではないが、将軍徳川吉宗の好物だった逸話が載せられています。また、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(1802年(京和2)~1814年(文化11))では弥次さん喜多さんも頬張り、安藤広重の『東海道五十三次』には街道名物として描かれるほどの有名菓子でした。これらの文献を丁寧に見ていくと、砂糖やきなこの記述はありませんが、他の文献を合わせると一個五文する高級な菓子で、砂糖がまぶされたきなこ餅だったと考えられています。黒蜜を使う山梨とは少し違っていますね。名物の「安倍川餅」は現在まで続き、安倍川河畔の街道沿いの店で、砂糖をまぶしたきなこ餅が売られています。
【写真】歌川広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)府中 あべ川遠景』
【写真】現在の安倍川餅 静岡市
このように江戸時代から続く名物の「安倍川餅」の名前が、いつごろから山梨で使われるようになったのでしょうか。明治時代以降の年中行事を記録した資料を中心に見ていきましょう。
明治・大正・昭和時代
明治時代の伝統行事を記録した明治34年発行の『甲斐の落葉』には、お盆の記述に安倍川餅などは見られませんでした。続く大正年間の『甲州年中行事』には「十四日 各家ぼた餅を作り精霊棚に備へ、又親戚知己に分かち一同又之を食す」とあり、「ぼた餅」が食べられていたことがわかります。
さらに他の資料を探してみると、大正3年に編纂された『東八代郡誌』の年中行事には「十三日 この日より十六日までを盂蘭盆会と称し、先祖代々の霊位を祭る。各子精霊棚を設け、祖先および智音等の位牌を立て、茄子黄瓜にて牛馬の形を作りて、蓮の葉に食物を盛り香を焚き、水を手向け、眞粉餅を供ふ。」とあります。「眞粉餅(しんこもち)」とは辞書では「しん粉(うるち米を洗い干してひいた粉)を水でこね、蒸して作った餅(もち)。砂糖を加えたものもある。」とあり、きなこ餅とは違うもので、また黒蜜も使われていません。大正4年 発行の『北巨摩郡誌』や大正5年発行の『東山梨郡誌』、昭和4年発行の『山梨県山梨郡中牧村郷土史』も『東八代郡誌』とほぼ同じ内容でした。
今回調べた範囲では、現在の安倍川餅としての姿がはっきりするのは、昭和に入ってからです。昭和12年発行の 『微細郷土研究 加納岩町(現在の山梨市内)調査報告書』には「十四日 朝餅を搗き、これに蜜をつけ豆粉をまぶしてあべ川をつくり、これを精霊棚に供える。子供は晴着をきて、夜は提灯をつけ、花火などをあげて遊ぶ。」とあり、これ以後の資料では、広く安倍川・あべかわの文字が見られます。昭和14年発行の『西郡地方誌』にも「14日の朝餅を搗き、蜜をつけ豆の粉にまぶしてあべ川餅を作り、御精霊さんに供えて後、一家の人々も之を食べる。」とあります。また、昭和35年発行の『豊村』では年中行事の8月に同様のお盆の記述がありますが、「精霊棚を設け、位牌を立て、茄子馬を作り種々の供え物をする。真粉餅(あべ川餅)季節の野菜類、果物等々。」とあることから、真粉餅がきなこ餅と同じものであった可能性も考えられます。昭和48年発行の『甲西町誌』では「(八月)十四日は早朝に餅をつく。つけ粉と安倍川餅にして供える。」と書かれていて、安倍川餅と並ぶ「つけ粉」も登場します。
ここで実際に昭和初期から安倍川餅を食べていた人の思い出を聞いてみましょう。
お盆と安倍川餅の思い出
(1)昭和2年生まれ 築山 男性
「子どもの頃には黒蜜をつけた安倍川を食べてたよ、近くの店に一斗缶で黒蜜が売っていて、柄杓で量り売りしていた。昔だからね、家に帰って蜜を見ると蠅が入っていて食べられなかったことを覚えているさ。とてもがっかりしたよ。戦争中は黒蜜がなくなって、作り方はわからないけんど、母親がサツマイモや麦芽で蜜を作ってくれたこと覚えてるよ。」
(2)昭和3年生まれ 六科 男性
「子どもの頃から、黒蜜をかけた安倍川餅を食べた。通りの小さな店に一斗缶で黒蜜が売っていていた。柄杓で量り売りしてたな。蜂蜜をかけている家もあった。」
(3)昭和5生まれ 落合 女性
「子どもの頃から黒蜜の安倍川餅を食べていました。もっと小さいころは母が麦芽で蜜を作っていたと思います。」
(4)昭和9年生まれ 富士川町鰍沢 女性
「子どもの頃安倍川は黒蜜だった。ただ戦争中か戦後かよく覚えてないけれど、砂糖がないので、サトウキビを釜無川の河原で育てて煮詰めたものを黒蜜の代わりにした。」
(5)昭和19年生まれ 野牛島 女性
「子どもの頃から、お盆には黒蜜をかけた安倍川餅を食べてたさ。お父さん(ご主人)は野牛島で近所の人と一緒に養蜂もしていて、蜂蜜をかけていたと聞いてるよ。」
お盆と安倍川餅のまとめ
(1) 少なくとも江戸時代以前記録ではきなこと黒蜜を使った現在見られる安倍川餅の記録はありません。ただし餅はお盆で先祖や神仏に供えられる重要な供物でした。
(2) 明治に入っても「安倍川餅」の文字はなく、ぼた餅や眞粉餅(しんこもち)が供えられていました。ただし『豊村』から眞粉餅(しんこもち)がきなこ餅の可能性もあります。
(3) 大正終わりから昭和初期には黒蜜が普及し、一斗缶でも販売されていました。ちなみに現在山梨県で広く売られている黒蜜のメーカーは、大正12年創業です。この頃からお盆のお供えとして黄粉をまぶし蜜をかけたきなこ餅が一般的になり、「安倍川餅」と呼ばれるようになったと考えられます。
(4) 黄な粉餅にかけられる蜜は、蜂蜜や麦芽やサツマイモ、もろこしなどから作られたものもありました。
(5) 昭和40年代、お盆の供え物として安倍川餅の名前が一般的となり、それにつけ粉も加わるようになります。
(6) こうした食文化を土台として、昭和40年代、和菓子店が黒蜜を添えたきなこ餅を信玄の名を冠した商品として販売し、現在では山梨県を代表する銘菓となりました。
今回調べた記録は部分的なもので、「安倍川餅」の使用が明治時代以前にまで遡る可能性はあります。しかし、砂糖が庶民に広く普及するのは、日本が日清戦争の結果台湾を領有し、台湾製糖が工場の操業を開始した明治時代後期以降と言われています。黒蜜の普及はやはり大正時代と考えていいのではないでしょうか。
なぜあべかわ餅と呼ばれるようになったのか、江戸時代から続いた富士川舟運、駿信往還や身延線など静岡との結びつき、静岡県産の砂糖の消費地、黒蜜の普及との関係など考えられますが、これはまた別の機会に。
歴史をひもとくとお盆に神仏やご先祖さまの供え物として「餅」自体は変わりませんが、餅の種類は時代とともに変化し、かけられる蜜も多様であったことがわかりました。歴史はともあれ、お供えしたつきたての安倍川餅、今年も美味しくいただきます!
【南アルプス市教育委員会文化財課】