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 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その2)

はじめに
 3月15日の号で、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれていない南アルプス市の甲斐源氏の動きについて、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)が始まるあたりまでご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
 今回はその続き、ちょうど源平の合戦のころの南アルプス市の甲斐源氏について紐解いていきます。

 「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。ドラマではいよいよ恐怖政治とも言うべき頼朝による粛清の数々が描かれ始めました。頼朝が後々自分の立場を危うくしそうな原因を排除していくのですが、甲斐源氏の面々も粛清の嵐に巻き込まれていきます。
 なお、余談ですが、最近の放送で木曽義仲の嫡子義高の処分について頼朝が決断するシーンで、自身の経験も踏まえて、父が殺される恨みというのは後々まで抱き続けるものということの象徴として、まだ幼い曽我兄弟が工藤祐経に石を投げているシーンが描かれていました。いわゆる「曽我物語」を彷彿させるシーンなわけですが、実は南アルプス市芦安には曽我兄弟やその周囲の人物ゆかりの逸話が残されています。このことについては過去にご紹介しておりますのでご参照ください。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2

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【曽我兄弟を含めた主要人物の関係図】

 

長清の義父上総介の誅殺
 SNS上で最も話題となったのは、佐藤浩市さん演じる「上総介広常」の誅殺のシーンです。御家人の中で最大の勢力であったがために、頼朝によって謀反の疑いをかけられての誅殺でしたが、直後に無罪であったことが証明されています。まさに見せしめだけのために殺害されたことになります。
 小笠原長清は、この誅殺の時にはすでに上総介広常の娘と結婚していますので、近親者の立場でこの事件を見ていたはずです。頼朝の信頼が厚かった長清は、記録上ではこれに連座して処分されたという形跡はありません。

 

甲斐源氏の粛清
 その一方で、元々頼朝と対等な立場を取っていた甲斐源氏の面々は、頼朝の標的とされ、次々と誅殺、あるいは失脚させられていきます。
 甲斐源氏として早い段階から頭角をあらわしていたのは、武田信義とその子一条忠頼や、安田義定と言えます。そのどちらも失脚していく運命ですが、ドラマでは一条忠頼が誅殺されるシーンが描かれました。忠頼は信義の嫡流であり、木曽義仲を討伐した粟津合戦では、義仲を実質的に追い込む大活躍を果たしています。頼朝にとってライバルである武田家の嫡男の活躍は心配の種となったことでしょう。しかし、一条忠頼が誅殺される理由は東鑑などの史料でははっきりと記されていないので詳細は不明とされており、記録からは宴席で殺害されたということだけが知られるところです。ドラマでは木曽義高に頼朝討伐を持ち掛けたことが理由として描かれ、歴史ファンの間では、ドラマならではのうまい演出との声が上がりました。
 実はそのような解釈はかなり昔からあったようで、南アルプス市秋山に伝わる『秋山旧事記』という伝記にもそのような場面があります。記述された時期は不明ですが、江戸時代初頭に発見された秋山太郎光朝供養の経筒に関する記述があることからそれ以降の創作であり、その内容からは「記録」というより「小説」的性格のものと考えられています。
 その中で、一条忠頼が秋山光朝と共謀して頼朝討伐を企てるという場面が描かれているのです。その誘いを断った小笠原長清が一条・秋山軍に攻められるという展開で描かれており、史実と言うには難しいのですが、一条忠頼が頼朝討伐を企てたことによって誅殺されたという解釈は江戸時代からすでにあったことがわかります。
 また、南アルプス市小笠原に伝わる『小笠原旧事記』には、一条忠頼の弟を小笠原長清が養子にしていたという記事があります。名を小笠原光頼と言い、光頼は一条・秋山軍によるこの攻撃で深手を負い、北へ向かって逃げる途中桃園の地で命尽きたというのです。忠頼の弟ということは武田信義の息子ということですが、他の史料にこのような名前は確認できず、どこまで史実と言えるかは難しいところです。

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【写真】桃園には、現在も光朝の墓と伝わる石造物が残されています

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【図】主要な甲斐源氏の系図(大きな×印は誅殺、小さな×印は失脚を表します)

 

頼朝書状「・・・二郎殿をいとおしくして・・・」
 「治承・寿永の乱(源平の合戦)」も終盤、屋島の合戦の前で、範頼がうまく源氏の軍勢を束ねきれず平家を攻めあぐねている時に、頼朝が弟範頼へ送った文治元(1185)年1月6日の書状があります。大河ドラマでは、この書状が届くよりも前に、義経が大嵐の中制止を振り切って船を出して出陣する様子が描かれていました。この頃、加賀美一族は範頼の軍に従軍しています。北条義時がいる軍です。
 実はこの書状に、兄光朝と弟長清のその後の運命を決定づける一文が書かれているのです。二人に対する頼朝の考え方、扱い方の違いが良く見えます。

「(前略)甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。かゝみ太郎殿は、二郎殿の兄にて御座候へ共、平家に付。又木曾に付て、心ふせんにつかひたりし人にて候へは、所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして、是をはくゝみて候へきなり(後略)」

訳すと以下のような内容になります。

「(前略)甲斐の武士たちの中には、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長清殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝(秋山光朝)殿は、加々美次郎長清(小笠原長清)殿の兄ではありますが、平家についたり、木曾冠者義仲についたりして心不善な人なので、所領などを与える必要には及ばない人です。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです(後略)」

 ここでは甲斐源氏の中で石和(武田)信光とともに小笠原長清のことを大事に手厚く扱うべきであると伝えています。しかも念を押すように二度にわたってです。頼朝の長清に対する思い入れがいかに強いかが分かります。
 しかし、同時に光朝に対して、平家についたり木曽についたりしたとして、所領などを与える必要は無いとまで言い切っているのです。

 

秋山光朝の失脚
 『秋山旧事記』には、忠頼誅殺の翌年、秋山光朝は頼朝によって派遣された小笠原長清などによる軍に攻められ、秋山館(現在の南アルプス市秋山にある熊野神社周辺)の尾根伝いにある中野城や雨鳴城で自害したと描かれており、地元ではそのように伝承されています。秋山旧事記の内容も面白いのでいずれご紹介したいと思いますが、光朝も一条忠頼同様に鎌倉で誅殺されたと考えるのが一般的です。
 前号でもご紹介した通り、秋山光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父という関係であり、平家との非常に強い繋がりを得ています。遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがえますし、場合によっては、次男の長清を頼朝に近づけたのは、たとえどちらに転んだとしても加賀美一族が生き残るための方策だったのかもしれません。

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【写真】秋山光朝公廟所にある五輪塔
向かって右が光朝の妻、中央が加賀美遠光、左が光朝のものと伝わる。

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【表】甲斐源氏との対応年表前回表示下年表の続きです。

 ただし、東鑑の元暦元(1184)年5月1日の記事に、木曽義仲の嫡子義高に通じていた者が甲斐・信濃に隠れ叛逆を起こそうとしているとして、甲斐国へ足利義兼と小笠原長清を派遣したことが見えますので、年代は前後していますが、このような記事を総合して『秋山旧事記』が創作されたのかもしれません。なお、東鑑などの史料には長清と光朝が戦ったとする記事はありませんし、光朝が亡くなった年も記されていません。

 「(前略)故志水冠者吉高伴類等令隠居甲斐信濃等國。疑起叛逆之由風聞之間。遣軍兵。可被加征罰之由。有其沙汰。足利冠者義兼。小笠原次郎長清。相伴御家人等。可發向甲斐国。(後略)」

 

加賀美遠光の台頭
 先ほど紹介した手紙の後、1185年3月に壇の浦の戦いで源平の勝敗が決しますが、吾妻鏡などには、その頃から加賀美遠光の名が頻繁に登場するようになります。
 その年の8月に遠光は信濃守に任じられ、その後遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)大弐局が当時7歳であった万寿(のちの2代将軍頼家)の介錯人となり、続けて次男千幡(のちの3代将軍実朝)の介錯人となるなど、ますます中央で活躍していく様子が描かれているのです。
 このあたりからは次回ご紹介したいと思います。
 南アルプス市の甲斐源氏がドラマに登場する日も近いこものと信じています。ドラマをご覧になられる際も、南アルプス市の甲斐源氏のことを想像していただくと、鎌倉での出来事が、少しでも、近しい事柄に思えるかもしれません。

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【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください。今回は1185年当時の年齢を表示しています。


『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?

はじめに

 先月に引き続き甲斐源氏の話題をと考えておりましたが、例の大河ドラマでは先月以来甲斐源氏がほとんど登場していないため、来月までこの話題は取っておこうと思います。その代わりに、南アルプス市の縄文文化についてのちょっとしたニュースがありましたので、その話題から始めてみましょう。
 昨年実施された「全国縄文ドキドキ総選挙2021」にて見事優勝した、南アルプス市鋳物師屋遺跡から出土した「人体文様付有孔鍔付土器」(長いですよね!!)の愛称が決定したというものです。
 多くの来館者による応募の中から、最終的に決定したのは、、、
「ぴ~す(ピース)」
 3本指の手がピースサインのように見えますし、ラヴィとコンビで「ラヴィ&ぴーす」としてますます南アルプス市の縄文文化を広められたらと考えています。「ラヴィ&ぴ~す」、まさに今の世の中に必要な言葉かもしれませんね。

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【写真】ぴ~す

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【写真】愛称決定記念 写メスポットパネル
伝承館では1階にこのパネルを設置し、皆さん記念写真を撮っていただいています

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【写真】縄文展示室の子宝の女神ラヴィ

 ちなみに、これらはいずれも縄文時代中期中頃といって、今から約5000年前のものです。しかし、そのつくりを観察することで実はラヴィの方が少し古く、ぴ~すの方が少し後に作られたものであることがわかっています。
 一概に「縄文時代」と言っても1万数千年続いていますから、その中でも紆余曲折があったことでしょう。南アルプス市の縄文人たちはいつぐらいに市内のどのあたりに暮らしていたのでしょう?ずっと同じところに暮らしていたのでしょうか?今回は、そんな話題について、紐解いてみたいと思います。

 

縄文遺跡の分布と変遷

 南アルプス市内の縄文遺跡は、主に、①櫛形山の東麓に位置する市之瀬台地の周辺地域と、②扇状地上の上八田や徳永地域の、大きく2つの地域に分布しています(図1の赤で囲んだ範囲)。両地域の間にはちょうど御勅使川の旧流路が流れていたため、流路をさけて占地していたように見えます。とはいっても、上八田や徳永地域に登場するのは縄文時代後期初頭のみで、それ以外は縄文時代早期から後期までを通して市之瀬台地周辺に集中しており、その後空白の期間を挟んで晩期から弥生時代にかけて、扇状地などの低地部に分散していく様子がわかっています。
 ラヴィやぴ~すが出土した「市之瀬台地」周辺には特に縄文遺跡が集中していますので、このエリアを中心に時代を追いながらみていきたいと思います。遺跡の概要は過去の記事やホームページ「文化財Mなび」も参考にしてください。

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【図1】市内縄文遺跡分布図

 

市之瀬台地と縄文遺跡

 市之瀬台地は櫛形山の東麓、標高520m~400m程を測り、あやめが丘などの台地の先端部では約100mの比高差をもつ崖線が形成されています。また、山から流れ落ちる多くの河川が台地を開析しているので、西から東に向かって伸びる細長い舌状台地が南北に並んだ集合体とも言えます(図2・図3)。

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【図2】市之瀬台地周辺の地形と遺跡の立地
 
 まさにこの市之瀬台地の周辺地域から南アルプス市の歴史は始まったと言え、旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡もその台地の上面、縁辺部(斜面部)、台地直下の扇状地に分布がみとめられます。そのうち発掘調査が行われ、部分的にせよ集落の存在がみとめられたのは全てで12遺跡となります。
 それらの立地や住居の数などをまとめたのが表1で、図と見比べると、時代を追ってその移り変わりをご覧いただくことができます。

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【図3】市之瀬台地周辺の発掘調査が行われた遺跡分布と変遷イメージ


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【表1】縄文時代中期を中心とした、集落遺跡の変遷表
草創期と晩期を省略し、立地する地形ごとに区分して表示しています。「中期」を細分する「狢沢」「新道」などは土器形式名で、土器の文様の特徴などで時期差が判別できます
 
 先にこの表や図の見方を説明します。発掘調査は、工事などによって遺跡が壊れてしまう部分だけを行いますので、調査されたのはあくまでも遺跡のごく一部といえ、発見された住居の数などは遺跡全体で考えるともっと多くなることが予想されます。集落全体が把握されたのは鋳物師屋遺跡だけといえます。厳密にいうとこの集落は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡と川上道下遺跡にまたがっていて、総称して鋳物師屋遺跡と呼んでいます。
 図3は遺跡の中でも発掘調査の行われた調査区の範囲だけを示しています。大きめの画像にしましたのでアップにしてご覧いただけると細かい位置がわかると思います。
 時代の区分も、中期という時代は発見された建物の数も多いので細かく分類できていますが、ほかの時代はそこまで細分できていませんので、表の一マスが同じ「時間」を表しているわけではありません。

 

市之瀬台地から始まる

 南アルプス市では縄文時代早期の土器は市之瀬台地上の様々な遺跡で出土していますが、建物跡などは見つかっていません。転々と移動しながら暮らしていた可能性もあります。ムラ(集落)として確認できるのは今から7000年近く前の、縄文時代前期前半の頃といえます。住居がまとまって検出されたり、お墓やその他施設などが揃うなど、一定の期間暮らしが継続した痕跡が見つかって初めてムラと言えるのですが、中畑遺跡からは12軒の建物跡が発見されていますので、現在のところ南アルプス市での最古のムラ跡と言えます。ここは市之瀬台地の上、ほたるみ館の北にある西地区多目的広場のグラウンド部分で、7000年前の集落はさらに北の方へと広がっているものと考えられます(図3の緑の位置。ムラ跡全体を掘ることができれば、実際にはもっと軒数は多くなるものと思います)。

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【写真】中畑遺跡周辺の航空写真
 
 ここでは個別の遺跡の調査内容については省略しますが、中畑遺跡の次にまとまって縄文時代の建物跡が検出されたのは中期初頭といえ、中畑遺跡に隣接する長田口遺跡や新居田A遺跡にまたがる範囲です。長田口遺跡はほたるみ館やその北側の広場の駐車場部分、広域農道付近を指し、新居田A遺跡はそこからあやめが丘へ伸びる農道になりますので、遺跡名は違いますがこれらは同じムラ跡と考えられます。遺跡名は小字名から名づけるので、全く違う遺跡のように感じてしまいますが、実は当時は同じ「ムラ」であるということはよくあります。
 その後この地域でも細々と暮らしは継続していたようですが、大規模なムラではなくなるようです。では縄文人たちはどこへ移動したのでしょう。現在のところ、発掘調査でわかっている遺跡の内容からは主に二方向への移動の様子が伺えます。一方は、同じ台地上を上野、中野と移動しながら南下してゆき、中期の終わりごろに再び中畑遺跡や長田口遺跡周辺へ戻ってきます。
 もう一方は台地下の扇状地へ移動したように見えます。ちょうど、長田口遺跡などの集落が全盛を終えるあたりから、入れ替わるように扇状地に立地する鋳物師屋遺跡が全盛を迎えてゆきます。鋳物師屋遺跡の「ラヴィ」はちょうど「新道式」と「藤内式」の狭間あたりの土偶といえ、また「ぴ~す」は藤内式の土器といえますので、鋳物師屋遺跡の全盛期に作られたものであることがわかります。鋳物師屋遺跡はまとまった数の建物跡が検出され、またラヴィやぴ~すに代表される特殊なマジカルなモノを多く持った、拠点的な集落であったことがわかります。藤内式期を最後にその後はほとんど生活の痕跡がみられなくなります。建物跡に土砂が厚く堆積する例があることから、土石流などの影響でムラごと移動したのではないかと考えられています。

 

扇状地の縄文人

 では、鋳物師屋の縄文人たちはどこへ移動したのでしょうか。発掘調査の結果からヒントが見えてきます。藤内式期以降、拠点的な集落として「曽根遺跡」や「北原C遺跡」が隆盛を誇ります。いずれも鋳物師屋遺跡と同じ台地下の扇状地に立地しているのです。特に、北原C遺跡は多くの土偶や動物を象った土器など、特殊なマジカルなモノを多く持っていることが特徴的で、まるで鋳物師屋遺跡の性格を引き継いでいるかのように思えるのです。
 あくまでも想像の世界ですので、集落ごと引っ越してきたかどうかは判定できませんが、ただ、特殊なマジカルなモノを多くもった大規模な集落が台地下に展開しているという点は注目に値すると考えています。
 これまでにも何度か紹介してきましたが、縄文人たちは豊かな感性とそれを形にすることができる豊かな技術を持ち合わせています。しかし、マジカルなモノが発達するということは、祈りや願いを強く持たなければならなかったということの証しといえ、そういった現象が台地下の扇状地域に偏重しているということに何かしらの意味があるのだと考えます。土石流をおそれていたのでしょうか?「自然」に対して畏れ、祈り、感謝しながら暮らしてきた様子が垣間見られます。

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【写真】北原C遺跡の航空写真

 

その後はさらに謎

 縄文時代中期終末以降さらに謎が深まります。台地の上では広く分布がみとめられていたのに、その後の後期初頭になると、占地の様子がガラッと変わります。例えば台地上の長田口遺跡や中畑遺跡周辺(ほたるみ館周辺)では、より川や谷に近い位置に寄ってきて、さらに晩期になると新居田B遺跡を含め、完全に川沿いのエリアだけに遺構がみとめられるようになります。
 また、台地縁辺部の斜面のきつい横道遺跡や、御勅使川の旧流路を挟んだ扇状地上の上八田や徳永地域周辺に突如(?)現れるのです。その後、後期の中頃から晩期初頭までは完全に謎で、市内に集落の存在は確認できていません。次に縄文人の痕跡に出会えるのは縄文時代の最終段階、晩期終末なのです。市之瀬台地の下の天神社遺跡をはじめ、市内各地の扇状地上に晩期縄文人たちの痕跡がみとめられるのです。

 

おわりに

 南アルプス市縄文人たちの謎は深まるばかりですが、現在発掘調査が行われた遺跡から見えるムラの移り変わりの概要は以上となります。現在も市内の各地で、工事に伴って消滅してしまう遺跡の発掘調査が行われていますので、いずれまた、新たな調査成果を踏まえて紹介できればと願っています。最後になりますが、ここでご紹介した遺跡の出土資料は「ふるさと文化伝承館」で展示されていますので、ぜひ本物をご覧いただければと思います。

※各遺跡の概要はホームページ「文化財Mなび」や過去の記事をご覧ください。
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (lekumo.biz)
2.眺望の魅力 市之瀬台地 | 文化財Mなび (route11.jp)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏

はじめに
 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。俳優陣も豪華であり、「大河ドラマは戦国時代と明治維新以外はヒットしない」というジンクスを覆す勢いで人気のようです。
 ドラマは俳優の小栗旬さんが演じられる北条義時の人生を軸に描かれていくので、平安時代末期、平家全盛の時代から始まります。
 平家全盛の中で平家側とうまく付き合いながらも、次第に頼朝に合流してゆく東国の武士たちの姿が描かれていて、この原稿執筆時はちょうど甲斐源氏の武田信義がたびたび登場するようになり、有名な富士川の戦いのシーンが描かれていました。史実とは違うかもしれませんが、あくまでもドラマですので、楽しみながらご覧いただくにはちょうど良い、軽妙な描かれ方だと思います。
 しかし、ドラマには描かれていませんが、ちょうどこのあたりから、実際には「甲斐源氏」たちは各方面で活躍し始めているのです。南アルプス市の甲斐源氏の一族たちも同じで、この頃の出来事をつづった史料である『平家物語』や『東鑑(吾妻鏡)』、『玉葉』※などには度々南アルプス市の甲斐源氏たちが登場しており、ドラマの裏側では活躍への助走が始まっていたのです。鎌倉で活躍する主要人物との親戚関係などを見てもよくわかるかと思います。後半でもご紹介しますが、例えば加賀美遠光は和田義盛(横田栄司さん演じる)の妹と結婚していますし、この後小笠原長清は上総広常(佐藤浩市さん演じる)の娘と結婚するので、そのような目で観てみると親しみがわくかもしれません。 
 
 今回は、ちょうどドラマでも描かれている平安時代末期の、南アルプス市の甲斐源氏たちの動きについて見てみたいと思います。今から800年以上前の南アルプス市の武将たちはどのような活躍をしていたのか、時代絵巻の始まりです。
 主な登場人物は、平安時代末期の頃の甲斐源氏の三大勢力(武田一族・安田一族・加賀美一族)の一角にうたわれる加賀美遠光(かがみとおみつ)の一族で、遠光と長男の秋山光朝(あきやまみつとも)と、次男小笠原長清(おがさわらながきよ)になります。それぞれの概要はこれまでにも紹介しておりますので、過去の記事を参考にしてください(2007年4月2日4月15日5月1日5月14日5月31日2019年6月14日等)。

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【図】南アルプス市の甲斐源氏を中心とした系図

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【図】山梨県の甲斐源氏勢力図

 

主要メンバーの関係性
 まずは、源氏挙兵の治承4(1180)年にさかのぼってみましょう。一般的に「源平の合戦」の名で知られる一連の戦を「治承・寿永の乱」と言います。この戦は、平家中心の世の中に対して決起を促すために発せられた「以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)」という命令書によって、頼朝をはじめ東国の源氏たちが立ち上がったのが始まりとされます。
 
 一般的には、この令旨は源頼朝に向けたものと考えられがちですが、実は、立ち上がってくれそうな有力な源氏の武将たち全てに向けられたものとする説もあります。『平家物語』などには、決起を呼びかける武士として、甲斐源氏の武田信義や加賀美二郎遠光、同小次郎長清の名も見えます。なんとこれらは、源頼朝と同列に併記されているのです。

「(前略)甲斐国には逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光・同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃には、、(後略)」

 その当時鎌倉幕府創建に活躍した主な武将について生年と没年、さらに1180年当時の年齢をまとめたのが下の表です。一つのドラマだけを取り上げるのはいかがなものかと思いましたが、武将は難しい名前が多いですから、あえてドラマでの配役も表示しておきました。俳優さんの名前だとイメージしやすいかもしれません。
 大河ドラマの主人公北条義時は当時17歳で、小笠原長清は18歳という若武者であることが分かります。また、頼朝が33歳で、加賀美遠光は37歳という年齢構成です。また、その婚姻関係、親族関係性を見てみると、先述した通り、加賀美遠光は和田義盛の妹と結婚しているので、光朝や長清の母だったかもしれませんし(三男光行の母であることは定説となっています)、別の説として長清は三浦義純(和田義盛の叔父)の娘が母だとする史料も残されているので(『笠系大成』)、いずれにしても遠光の頃から相模の超有力豪族と縁が深かったことがわかります。このことは、加賀見遠光がそれに見合う家柄であった証とも言えるのです。

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【図】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください

 

源平の合戦と甲斐源氏の面々
1180年8月25日(「平家物語」)
 いよいよ源平の合戦が始まりました。 
 『平家物語』には、頼朝は石橋山の合戦で平家側に敗れた直後に義父である北条時政(政子の父)を甲斐の国へ送りこみ甲斐源氏の協力を依頼したことが書かれています。ここには、一条、武田、小笠原、安田、曽根、那古蔵人の名が挙げられており、小笠原の名も見えます。この時長清はまだ京都にいて甲斐には戻っていないので、おそらくこれは加賀美遠光のことを指しているものと思われます。後に書かれたものの中には加賀美遠光のことを小笠原と書かれるものも割と多く、そのくらい後世では小笠原の名の方が広まったことを表しているのかもしれません。ちなみにここにある那古蔵人というのも南アルプス市ゆかりの武将で、加賀美遠光の弟にあたります。今でいう南湖地区を中心とした奈胡荘を所領とした奈古十郎義行を指します。今でも南湖小学校の東には「十郎木」という地名が残っています。 
 

1180年10月18日(「玉葉」・「東鑑」では20日) 
 武田信義や安田義定の甲斐源氏の軍勢は、かの有名な「富士川の戦い」で平維盛群を撃退する大勝利を見せます。水鳥が飛び立つ音で平家が逃げ惑ったという有名なエピソードがありますが、後の時代に書かれた「東鑑」によって頼朝が主導したように描かれたので、頼朝の成果の一つに思われることが多かったのですが、最近の研究では、この戦いはそもそも武田などの甲斐源氏主導の戦だと考えるのが通説です。つまりこの時点では、頼朝と甲斐源氏(武田や安田)は対等の立場にあったということがわかるのです。

 

平氏と源氏のはざまで
1180年10月19日(「東鑑」)
 では南アルプス市の武将たちはどうしていたのでしょう?この時点まで加賀美一族は戦いの場に名前が出てきていません。
 実はこの年秋山光朝と小笠原長清は京都にいて、平知盛に仕えています。さらに光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父ということです。これも優秀な遠光の嫡男ゆえの出世ぶりといえますし、遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがわれます。ドラマに描かれていますが、この頃は平家との繋がりを強めることが一族の安泰を表していました。
 弟の長清は平家と結婚していなかったこともあり、平家討伐に応えるために京を離れようとしますが、とがめられ、なんとか母親の病気を理由に甲斐へ帰ってきます。8月上旬に京を出発し、9月に甲斐に入っていますが、その後しばらくはじっくりと戦況を観察していたようです。その後武田などの勢力とは別行動で駿河へと移動し、10月19日に黄瀬川宿にいた頼朝と面会するのです。ドラマでは黄瀬川宿で頼朝と義経が出会うシーンが描かれていましたが、その2日前に長清とも面会しているのです。

 

長清 鎌倉へ
 富士川の戦いの後、武田・安田の甲斐源氏の軍勢は京へ向かいますが、長清はそれとは行動を別にし、頼朝にしたがって鎌倉に入ります。やはり、甲斐源氏の中で頼朝に近い特別な動きを見せます。
 12月12日(「東鑑」)
 長清は鎌倉に完成した大倉御所への移転の際に頼朝に随行します。新邸へ向かう隊列は、先頭に和田義盛が、そして頼朝の左側に長清が並んでいます。ドラマに長清が登場するかはわかりませんが、さすがに新御所への行列シーンはあるのではと期待するところです。その時は、頼朝の左側を守っている騎馬武者に注目です!
 年が明けて1181年2月1日(東鑑)、小笠原長清は、頼朝の斡旋によって上総広常の娘と結婚します。ドラマでは佐藤浩市さんが演じる存在感の強いあの広常です。
 広常の婿であるとか、和田義盛や三浦義純と親戚であるとかと考えると南アルプス市の武将も鎌倉幕府創建時の壮大なドラマの中に存在していたのだということがよく伝わるのではないでしょうか。

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【図】加賀美、小笠原氏の婚姻関係

頼朝の信頼を得る
 この後、さらに本格化してゆく源平の合戦では加賀美遠光と長清は源範頼の軍に加わって活躍してゆきますが、その陰で一族でありながらも引き裂かれる光朝の運命も待ち構えています。同じ一族でありながらも平氏と源氏のはざまで苦悩した光朝の姿は、ドラマでも描かれた東国の武士たちの苦悩とも重なってきます。
 源平の合戦の後半についてはまた別の機会にお届けしたいと思います。
 が、この後のことを少しだけご紹介すると、源平の合戦後は、粛清された光朝と打って変わって遠光・長清親子はともに頼朝に信頼され、さらに政治の中心で活躍するようになります。なぜそんなにも信頼されたのか不思議に思われる方も多いのではないでしょうか?
 様々な研究がなされていますが、これはやはり遠光の戦略が勝ったのではないかと考えられます。自分同様息子達も京へ向かわせ、嫡男光朝を重盛の娘と結婚させることからみても、中央志向が強いことが見て取れます。秋山敬氏の研究では、京都の情勢に詳しく、平家の隆盛ぶりも息子を通じて熟知していた遠光は、武田のようにすぐに立ち上がるようなことはせずに一歩引いて見ていたのではないかと考えています。そして戦況を分析し、源氏として立ち上がる際にも、武田・安田のように頼朝と張り合うのではなく、遠光は表には出ず、京都の情勢に詳しい長清を通じて頼朝に接近したのではないかと考察されています。武田や安田とは違ったやり方で甲斐源氏の中でのトップの座を狙っていたのかもしれません。
 結果として甲斐源氏の中でいち早く頼朝と面会したことで長清は頼朝の熱い信頼を得ますし、その後頼朝が京都へ入る際の随行役として17回も『東鑑』に登場することからも、遠光の戦略が功を奏したのではないでしょうか。
 源平の合戦の後半からはますます遠光・長清親子が歴史の表舞台で活躍していきますし、頼朝亡き後の13人の合議制の時代にも小笠原家の子孫たちは活躍していきますので、その時には甲斐源氏加賀美家・小笠原家の面々がドラマに登場してくれるものと信じて、今回は一旦筆をおきたいと思います。またそのころに続きをお届けしましょう。

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【表】甲斐源氏との対応年表



『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

原七郷の七種の商物に「塩」?
~南アルプス市の名産をたどる~

 現在ふるさと文化伝承館で開催されている博物館登録記念テーマ展「藍と木綿が奏でるにしごおりの暮らし」の内容に合わせて、前号では木綿についてご紹介しました。

南アルプス市ふるさとメール:綿が奏でるにしごおりの暮らし

 特に南アルプス市の木綿は、「甲斐国志」に「西郡綿」や「奈胡の白布」といった江戸時代に山梨を代表するブランドであったことが記されていることなどもお伝えしましたが、現在ではなかなか知られていないことですよね。明治時代に木綿の中でも特に良い種子の供給地として有名だったのが鮎沢や江原で、「鮎沢種」、「江原種」と呼ばれていたようです(櫛形町誌)。
 これらのように、古い地誌類を紐解くと、現在の私たちが知らないかつての南アルプス市の名産品がみえてきます。中には今の姿からはイメージできないものもあります。昨今の地域おこしやまちづくりでは地域の個性が求められており、オリジナリティある名産品や特産品を作ろうとする取り組みも活発ですが、かつての産業や名産品を知っておくのも面白いと思います。南アルプス市域はその過酷な自然環境を乗り越えるために、その地域性を活かし、創意工夫を凝らして新たなことに挑戦しながら命を繋いできたのです。
 今回は江戸時代の終り頃(1814年)に完成した「甲斐国志」の「産物・製造部」の記述から、当時知られていた南アルプス市域の名産や特産、商品について拾い出してみした。そして、西郡・原七郷を象徴する商品としての「七種の商物」、更にはそこに含まれる「塩」について紐解いてみたいと思います。

市之瀬川沿いの芍薬が好品

 「甲斐国志」の「産物・製造部」(以下国志という)に、最初に西郡の産物が登場するのは、薬草の項目で、木賊(とくさ)や芍薬(しゃくやく)の名が見えます。芍薬は「立てば芍薬座ればボタン歩く姿は百合の花」とうたわれるほどその姿の美しさで知られていますが、同時に生薬としても知られています。 
国志には、
「・・・西郡一ノ瀬川ノ辺ニ野生スル者根色黄ニシテ好品トスベシ」
とあり、市之瀬川沿いに野生する芍薬が良品として知られていたようです。
ほかにも、神山伝嗣院の「糸桜」や曲輪田村・江原村の「竹」、また、湯沢村の山渓にかつてあったとされる「温泉」や築山村の「白堊(シラツチ・家の壁を塗る土で石灰に劣らなかったという)」、落合村・湯沢村の「藺(イグサ)」等も挙げられています。特に湯沢の藺で編まれた御座(ゴザ)は「湯沢御座」と呼ばれていたようです。これらは甲斐の国を代表するものとして紹介されていますが、現在では知られていないものばかりですね。

江戸から明治にかけては木綿とともに煙草

 たばこは江戸時代はもっぱら竜王産が有名ですが、江戸の終わりごろから明治期にかけては西郡がたばこ栽培および製造の中心となります。国志には下記のような記述があり、すでに国志の編纂された1800年台初頭には文化年間にも西郡のたばこが広く知られていたことが分かります。

「西郡原七郷ノ産多シ大抵龍王ニ気味相類スルヲ以テ別ニ名ヲ得ル事ナシ 飯野新田村・在家塚村等勝レタリト云フ 近頃飯野ニ 二ノ水道・市川ニ上原ナド称スレドモ其ノ名広カラズ」
 飯野新田村や在家塚村で盛んであったようですが、文面からはまだそこまで確立できていなかった様子が伺えます。明治期になると、むしろ豊村地域を中心に県内を代表する一大生産地となり、大正時代に入ってたばこの製造や栽培が禁止されるとともに豊地区のたばこ産業は蚕糸業へと移行していきます。

袋柿って?

 冬場の強風の八ヶ岳おろしという、過酷な環境をプラスに転じさせた「枯露柿」生産についてなど、これまでにも紹介したことがありましたが(南アルプス市ふるさとメール:柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~)、国志には西郡の名産として「袋柿」という記述が見えます。
「西郡鮎沢村ノ産物ナリ 松平甲斐守十二月ニ献上セリ又餌袋(エブク)トモ名ク是モ乾柿ニテ核ヲ揉ミ出シ去ル故ニ袋ト云フ白霜生ジテ甘美ナリ 同郡原七郷ニ七種ノ商物ノ内ニ醂柿ト云フアリ渋柿ヲ灰汁ニ浸シ一夜ニシテ味甘くナル荒目ノ円キ籠ニ入レ担シテ発売ス此辺ニテハ畠ノ畔ニモ多ク・・・」
 鮎沢村が有名で、エブクという種類のカキを干し柿にしており、中の種子(核)を取り出すことから「袋柿」と呼んだそうです。また、ここで、原七郷の「七種の商物」という表現が出てきます。

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【写真】中野のカキ(県指定天然記念物)
天然記念物に指定されるカキの木は少なく、中野のカキは大樹で知られる。このカキの種はエブクで、秋には小さな実を沢山つける

原七郷の「七種の商物」

 御勅使川扇状地の扇央部に立地し、「お月夜でも焼ける」とうたわれた常襲干ばつ地域の「原七郷(上八田、西野、在家塚、上今井、吉田(十五所・沢登が後に分村)、桃園、小笠原)。そのような原七郷を支えた七種の商物(作物)についてみていきましょう。
 国志にはこの七種の商物についてわざわざ項目が設定されていますから、甲斐を代表する特別な事例だったと考えられます。
「原七郷二七種の商物ト云フハ醂柿前二委ス・葱苗・蘿蔔(ダイコン)・胡蘿蔔(ニンジン)・牛蒡・夏大豆・塩ノ背負売是レナリ七郷ハ在家塚・小笠原・吉田・上今井・桃園・上八田、西野、以上七村水利乏シキ処ニテ居民自リ古商買ヲ兼ヌ 七種ノ土産ヲ販グ事旧規二依ルト云フ
〇牛蒡 窪八幡ノ切差村宜し近比東奈胡村ニ植ルハ三年牛房ト云フ 薹ニタツコトナク長四五尺ニシテ軟ニ美ナリ〇乾瓢 東奈胡村ニテ多ク作ル」

ここにある7種とはつまり
〇渋を抜いた柿〇葱〇ダイコン〇ニンジン〇ゴボウ〇夏豆(大豆)〇塩
ということになります。これらが水に乏しかった原七郷の民が命をつなぐために古くから商いとしていた産物というのです。
 また、ゴボウや干瓢は東南湖が名産地であったようです。東南湖には今でも「牛蒡屋」の屋号で知られる家があったり、また干瓢づくりの古い道具なども伝わっています(ふるさと文化伝承館のリニューアルオープン時のテーマ展で展示しました)。

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【表】原七郷地域の村明細帳にみる耕作物等の一覧

 七種の商物には次のような伝承もあります。
 西野地区にある大城寺にまつわるものです。大城寺の門前には「三恩の碑」という石碑が建てられています。原七郷の民を扇状地ゆえの苦しみから救ったとされる三人の賢人に対しての謝恩の碑でして、そのうちの一人、弘法大師がこの寺院誕生の鍵といわれています。
 天長8(831)年八月、大洪水にて数十カ村が流出した際、その様子を確認に訪れた弘法大師は、水田の作れないこの地に七種の商物を栽培して命を繋ぐことを教え、武田信玄が七種の商物を野売りすることを認めたとする伝承があるのです。さらに弘法大師は毘沙門天像を作り、「七種商法免書」を胎内に納めたとされるのです(信玄が納めたとする説もあり)。これらのことについては、あくまでも伝承の域を出ていません。

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【写真】大城寺の三恩の碑

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【写真】大城寺の毘沙門天像

「塩」といえば西郡

 また、天保8年(1837)の「原七郷七種産物書上帳」(櫛形町誌・『白根町誌 資料編』)にある七種の産物は品目が多少違っています。「醂柿、煙草、椚薪、牛蒡、大根、人参、冬葱」とあり、国志にある「夏大豆」と「塩」のかわりに「椚薪」「煙草」が加えられていることがわかります。時代とともに七種の品目は変わるようです。薪や煙草は、当時の村の概要を知ることができる「村明細帳」によく記載されており、代表的な産物と言っても妥当であると考えます。
勿論、国志にある「夏大豆」も同様です。

 皆さんが疑問に感じるのは、やはり「塩」ではないでしょうか。こんな山間部で塩が商物とはなかなか考えにくいですよね。
ただし国志には塩の生産ではなく「塩ノ背負売」とあります。そうです、先々号の西郡道のご紹介の際に、富士川舟運による「下げ米、上げ塩」についてご紹介しました。信州や甲斐国内の年貢米が西郡道を通り鰍沢河岸に集められ、舟で清水方面へと運ばれ、一方下った舟の帰りには赤穂の塩や海産物などが甲斐へ持ち込まれ、鰍沢河岸に引き上げられ、馬に積み替えられて巨摩郡各地や信州へ運ばれたのです。そして注目なのが荊沢宿における塩を売り歩く商人の多さでしたね。塩については海岸部の人々との諍いも多くあったようで、富士川舟運を遣わずに紀州の塩を陸路で搬入するなどの工夫も見られますが、やはり基本は富士川ルートでの搬入と考えます。

南アルプス市ふるさとメール:駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅

南アルプス市と塩の関係は長い

 先ほどの大城寺の七種の商物の伝承は平安時代の逸話として伝えられており、特に「塩」についてはこの内陸部にその時代から塩なんてとにわかには信じがたい部分もあります。しかし、実はまんざらでもないかもしれません。実は南アルプス市域と「塩」の関係は歴史が深い事が近年の研究で明らかになっているのです。
 その歴史を市内に残る古代の遺跡に見つけることができます。
 “海がない山梨では塩なんか作っていない”とか“塩なんか溶けてなくなるもの”という思い込みから、かつて山梨の考古学界隈では古代の製塩活動については研究対象としてきませんでした。しかし、2008年、山梨県考古学協会の研究活動により、かつて旧若草町の向第1遺跡で見つかっていた小さな奈良時代の土器のかけらが、海に面した神奈川県や静岡県から塩を入れて運ばれた土器(「製塩土器」といいます)であることが判明したのです。それは山梨県内ではじめての確認事例でした。
 これらは粗塩を生産するための煮沸容器ではなく、粗塩を焼きなおして固形塩を製作する為の容器と考えられ、その後、市内の野牛島・西ノ久保遺跡(野牛島)や鋳物師屋遺跡(下市之瀬)などで沢山出土していたことがわかりました。
 このような状況から、これら粗塩が詰められた土器は、富士川の河川交通とそれに続く陸上交通路を使って運ばれてきたもので、古代の南アルプス市のあちこちに“塩の集積地”があった可能性が高まっています。これらの地域から県内全域に塩が流通したのではないかと考えられ、まさに南アルプス市は「塩」の玄関口と言えるのです。古代の研究者には、古代の南アルプス市を「海に開けた第二の港湾の地」と表現する方もおり、現在の南アルプス市からはイメージできない姿と言えます。

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【写真】向第1遺跡の製塩土器の破片

まとめにかえて

 かつての南アルプス市域は、現在ではイメージできないようなものが山梨を代表する特産として知られていたことがわかりました。薬草や土などの自然に由来するものは、この地域にある資源を余すことなく活用していたことの現われであり、また木綿・柿・煙草・干瓢などは、個性的な地形や環境ゆえにそれを乗り越え命を繋ぐための知恵が詰まっているといえます。また、そのようにして生み出され、また採用されたものが特産品として県内を代表していたことからは、この地に生きる人々の力強さを感じ取ることができます。これら困難を乗り越える力強いDNAがこの地域には受け継がれているのではないでしょうか。
 また、七種の商物は、現在では当たり前に食べている身近な根菜類であったりします。これらは例えば現在の地域おこしのヒントになるかもしれません。なにせ普通に使う食材ですから、街角で出される料理にも、ことあるごとに「原七郷の命を繋いできた食材を使ってます」と付け加えるだけで、なんだか南アルプス市のストーリーが見えてくる気がします。困難を乗り越えるDNAがありますから、使える資源は使い倒してみても良いのではないでしょうか。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

綿が奏でるにしごおりの暮らし

 新しい年が始まりました。「連載、今、南アルプスが面白い」を本年もどうぞよろしくお願いいたします。

はじめに
 ふるさと文化伝承館が昨年の令和3年11月12日、正式に博物館として登録されました。それを記念して、令和4年1月14日から5月24日まで、「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展が開かれています。南アルプス市と藍と綿の深い関係をテーマにした展示から 今月は綿の歴史を繙いていきましょう。

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Ⅰ.村明細帳から見る綿栽培
 にしごおりと呼ばれた南アルプス市域では江戸時代、商品作物として煙草とともに綿が広く栽培されていました。江戸時代後期にまとめられた『甲斐国志』によれば、「奈胡白布ト云ウハ木棉ノ好キ処ナリ 本州ノ産ハ其色絞白ニシテ棉強シ、巨摩、山梨、中郡多且ツ美ナリ、奈胡ノ庄最モ多産トス」と記され、水の豊富な田方に位置する南湖地区で綿栽培が盛んだったことが伺えます。一方常襲干ばつ地帯であった原方や根方の村々でも商品作物として畑で綿が栽培されました。
 江戸時代の村の様子を記した村明細帳を調べると、さらに農業の合間に行われる女性の仕事として、多くの村で綿にかかわる稼ぎが行われていたことがわかります。その表現はさまざまですが、おおむね下記の3種類に分けられました。

(1)木綿かせぎ
 例:天明4年(1784)戸田村「女ハ木綿かせき仕候」
(2)綿の糸取り
 例1:文化3年(1806)西野村「女者、糸はた仕申候」
 例2:文久元年(1860)荊沢村「男ハ日雇稼、女ハ木綿糸採申候其外稼筋無御座候」
(3)木綿から織り出しまで
 例1:宝永2年(1705)下高砂村「女ハ木綿布少々織出申候」
 例2:明和8年(1771)上高砂村「作間女かせぎ衣類木綿等仕候」
 例3:安永3年(1774)飯野新田村「女ハ綿糸・はた仕申候」
 例4:文政11年(1828)上八田村「女ハ平日木綿布織出し稼申候」

 (1)は木綿かせぎの記述のみ、(2)は木綿から糸を紡ぐ仕事、(3)は布まで機織りしていたことが記されています。全体を見ると(3)が多く、(1)の木綿かせぎも布まで機織りしていたことを考えると、多くの村の女性が木綿糸から布まで織っていたことがわかります。

Ⅱ.綿から糸、そして布へ
 では江戸時代から明治時代にどのような工程で綿から布が完成したのでしょうか。村明細帳や江戸時代の史料、旧市町村誌からその流れを追ってみましょう。

1.綿の栽培
 東南湖村などの村明細帳には旧暦4月上旬に蒔きつけ、8月のお彼岸から摘み取られることが記録されています。

2.綿の収穫と綿繰り
 各家で栽培した綿を摘み取り、乾燥させます。この実綿(みわた)から種を取り除くことを綿繰り(わたくり)といい、ロクロとも呼ばれた綿繰り機で種が取られました。また、綿の種からは油がしぼられ、油粕は肥料に使われるなど綿のすべてが活用されていました。

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【写真】綿繰りを行う女性 大蔵永常著 天保4 年(1833)『綿圃要務 2巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より 『綿圃要務』は江戸時代の綿作研究書で、表紙に「「諸国綿のつくりかたを委(くわ)しく記したる書也(なり)」と書かれている。 ※無断転載禁止

3.綿打ち(ほかし)
 種を取り除いた綿はホカシヤサンへ持ち込みます。綿を糸に紡ぐには、綿をほぐすことがとても重要でした。この作業は男性の専門の職人さんに頼んでいたのですね。ホカシヤでは「綿弓」や「綿打唐弓」と呼ばれる弓の弦で綿をはじき、ほかしながらごみも取り除きました。そのためほかすことを「綿打ち」と呼んでいました。享保年間に描かれた『今様職人尽百人一首(いまようしょくにんづくしひゃくにんいっしゅ)』にはこの職人が描かれています。綿を弓で弾くと細かな綿毛が雪のように降ってくるため、職人は手ぬぐいをかぶっています。また、綿が必要以上に飛び散らないよう、綿を筵?の上ではじいていますね。
 ほかした綿は約30cmぐらいの棒に巻きつけられます。これを篠巻(しのまき)やヨリコ、ヨリッコとも呼び、それを販売する店や商人も存在しました。先月号で明治3年の荊沢宿の余業で紹介した中で篠巻を扱う店が2軒あったことを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。

2021年12月15日 (水)配信 駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

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【写真】綿弓 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。江戸時代に奥田松柏軒が記した女性が扱う道具を解説した本。 ※無断転載禁止

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【写真】綿打職人 近藤清春 享保年間(1716~1735)『今様職人尽百人一首』 (昭和3年・1928年刊 国立国会図書館蔵)より ※無断転載禁止

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【写真】綿打 落合小学校6年生での授業

4.糸取り
 ヨリッコを家に持ち帰り、糸車(糸取り車)を使って糸を紡いでいきます。紡ぐとビンビンと音がしたので、糸をビンビン糸、糸車をビンビン車といったそうです。この作業は「糸取り」とも呼ばれました。紡がれた糸は?(わく)と呼ばれる糸枠に巻き取られてカナが完成します。

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【写真】木綿車・繰糸・糸車・機など 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。 ※無断転載禁止

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【写真】糸車(木綿車・ビンビン車) ※無断転載禁止

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【写真】糸車で糸を紡ぐ女性 『白根町誌』より ※無断転載禁止

5.釜で煮る
 完成した糸を釜で煮て乾燥させます。

6.染色
 乾燥させた糸を紺屋(こうや)に持っていき染めてもらいます。染め終わった糸を再び家に持ち帰ります。藍染めの原料となるすくもは以前のふるさとメールで紹介したように、阿波や武州、市内では川上の浅野家で作られていましたが、白根町誌の記録から、農家でも少量のすくもをつくっていたようです。そしてそれを紺屋に持って行き、ただで糸や布を染めてもらっていた様子も記録されています。
「多くは(農家が)陰干しにした藍(すくも?)を紺屋へ持って行って、その代わりただで染めてもらう」(『白根町誌』)

2019年9月17日 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~
南アルプスブルーの足跡1~6を参照

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【写真】現代の阿波産のすくも(栃木県益子町日下田藍染工房)

7.織り
 染色した糸をハタヤと呼ばれた自家用の織機で木綿布に織ります。女性にとって重要な仕事で、かつては嫁入り条件の重要な資格と考えられていました。無地の白木綿や縞模様の木綿が織られ、それらは主に長野県の諏訪・伊奈・佐久郡などへ移出されました。

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【写真】機織りの様子 左『白根町誌』、右『豊村誌』より ※無断転載禁止

おわりに
 にしごおりにおける商品作物として隆盛を誇った綿栽培は明治20年代以降、安価なインド綿やアメリカ産の綿の輸入によって激減し、明治の終わりにはその歴史に幕を閉じて養蚕のための桑栽培にその座を譲ることになりました。それから約100年。主産業として綿が栽培されることはありませんが、持続可能な社会を目指す取り組みとして、オーガニックコットンを栽培するいくつかの試みが市内で行われてきました。ふるさと文化伝承館でも綿の文化を伝えるため、綿を栽培し、学校教育にも活かしています。南アルプスの風土で培われた綿と藍の歴史と文化が時を超えて紡がれ、新たな営みとともに織り続けられることを願っています。

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【写真】ふるさと文化伝承館で育てた綿

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

 信州と駿河を結ぶ西郡路の要、荊沢宿。今月号は移りゆく荊沢宿の街並みに注目してみます。

1.幕末から明治時代の荊沢宿
 明治3年荊沢村余業(よぎょう)と呼ばれる農間の稼ぎ資料(『甲西町誌』)から、幕末から明治初期の荊沢宿がどんな街並みだったのか、想像しながら歩いてみましょう。

1)荊沢宿さんぽ
 宝永7年(1710)に改修された西郡路の道幅は3間(約5.5m)で、現代の道からするとやや狭い印象です。道の西側には水路が流れています。道を南へ下り、古市場を過ぎると道が曲尺(かねじゃく)のように直角に連続して曲がる「カネンテ」(註1)にたどり着きます(図1)。この辺りから荊沢宿が始まります。宿の中は農村でありながら、さまざまな余業を営む人々の家々が街道の両脇に並んでいます(図2)。一軒一軒は間口が狭く奥行が長い地割で、「うなぎの寝床」に例えられる京の町家に似ています。
 宿中を歩き始めると、ほうきやざるなどを扱う荒物屋や箸や食器を売る小間物屋、穀物屋、桶屋、薬屋などさまざまな種類の店が並んでいます。お腹が空けば食事ができる店もあれば、饅頭や焼き芋、お菓子など今でいうスイーツの店にも出会えます。焼き芋を頬張りながら、店巡り。寒い季節の焼き芋は最高ですね。干物魚屋には鰍沢河岸から運ばれた干物の魚も売っています。歩いてよく目にするのは木綿を扱う家。収穫して種を取り除いた綿を弓でほかす綿打職やその綿を紡いで糸にする篠巻職の家が多いことに気づき、綿栽培が盛んな土地柄が感じられます。造酒屋さんも2軒見つけました。お酒は夜にとっておきましょう。酒屋ではお醤油やお酢も売られています。あちら側には豆腐屋さんもあります。
 宿場をゆっくり散策していると櫛形山に日が入り始めました。前から焙烙(ほうろく)の担ぎ売りと甘酒の担ぎ売りが歩いてきます。この際甘酒もいただきましょう。前方の家からは心地よいリズムを刻む金属音が響いてきました。音を刻むのは農具などを治している鍛冶屋さん。髪結いをしている家も数件ありました。さて、日も暮れてきました。銭湯で一風呂浴びてから今夜は荊沢に一泊することにしました。旅籠は3軒、どこに泊まろうかな。

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【図1】江戸時代末の土地割

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【図2】明治3年荊沢村余業概念図


2)職種別余業について
 明治3年の荊沢宿の余業を西郡路の東西で北から順にならべたのが図2で、職種別にまとめたのがグラフ1になります。
 最も多い木綿関係は綿打業8、篠巻業2、綿仲買・綿商2、篠巻小売1計13で全99戸中約13%を占めています。『甲斐国志』で「奈古白布ト云ハ木綿ノ好キ処ナリ」と書かれているほど東西南湖やにしごおりは県内有数の綿の産地で知られ、荊沢宿でそれに関係した職が多いのも頷けます。西郡路に注目すると、旅籠3、飲食店4、銭湯2が営まれていて、近隣の一般的な村々と異なっていることがわかります。菓子屋7と多いのも街道沿いの特徴の一つでしょう。一服した旅人の楽しみの一つだったと想像できます。造酒屋は2軒、宝永2年(1705)の村明細帳にはすでに酒屋が4軒挙げられていますから、伝統的に酒造りが行われていたと言えます。気になるのは宝永2年で48人もいた塩や糀を売り歩く糀売りが記録されていません。生活様式の変化や酒造・醤油・酢造稼の店で売られていたことが考えられます。

 

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【グラフ1】明治3年荊沢村余業を職種別にまとめたグラフ


2.古市場、荊沢宿で出店を構えた近江商人の馬場家
 江戸時代から明治時代にかけて、古市場と荊沢宿には近江商人(滋賀県出身の商人)の馬場家も店を構えていました。宇佐美英機氏の研究(註2)によれば、近江商人の馬場利左衛門は、宝暦年間(1751-1764)のころから薬種類の旅商いを始め、甲州西郡筋には年に2、3回訪れ、古市場村を旅宿にしていました。その後寛政10年(1798)、古市場村の周六から屋敷の半分を借りて出店し、荒物や小間物類、呉服の卸売を始めます。天保6年(1835)ごろには、分家の利助に出店が譲られました。弘化4年(1847)年立ち退きを命じられたため、荊沢村の豪農市川文蔵(註3)が古市場に所有する土地を借りて商いが続けられました。
 馬場家は京都麩屋町四条上る枡屋町に仕入店を構えており、上方(京都や大阪)で仕入れた商品を古市場の出店で販売するネットワークが形成されていたと言えます。明治初年に古市場村の出店は閉じられましたが、明治3年の史料「身元立直証文」の宛先「甲州巨摩郡荊沢宿」に「利輔出店」とあり、荊沢村に新たな店が設けられました(註2)。近江商人にとって継続して出店を構えるほど荊沢宿周辺が重要な商圏であったことがわかります。
 では馬場家は荊沢宿のどの辺に出店を構えたのでしょうか。幕末の荊沢宿絵図には「利助(輔)」の名は書かれていませんが、上宿に馬場家に見られた「利左エ門」の名が見えます(図1)。明治3年余業調べでは馬場家の扱っていた商品の荒物や小間物を扱う店は上宿に位置しています。「利左エ門」が馬場家を意味するかは不明で正確な場所は特定できませんが、古市場に近い荊沢宿の土地に新たな出店を構えたのかもしれません。


3.市川家の江戸四谷町家経営
 古市場の所有地を近江商人馬場家に貸し出していた荊沢村の豪農市川文蔵。近年、市川家が江戸の四谷などに土地を所有し町屋の経営を行っていたことが、東京都埋蔵文化財センターによる四谷一丁目の発掘調査と文献調査によって明らかとなってきました(註4・5)。市川家は明和3年(1766)に麹町6丁目を始めとして、四谷塩町一丁目、赤坂裏伝馬町二丁目などの土地を購入し、町屋敷を経営していました。その目的は町屋からの収入よりも穀類や銭など江戸の相場情報を家守りから得ることだったと推測されています。

 こうして見ると江戸時代の荊沢宿は駿河と信州だけでなく、市川家や馬場家を軸に江戸や上方と広域のネットワークで結ばれ、物資だけでなく最新の情報ももたらされていたと言えるでしょう。


4.大正末期の街並み
 大正時代末ごろの荊沢宿の街並みを地元の方が書き記した地図があります(第3図)。それを手掛かりに明治3年からの大正時代末期までの街並みの移り変わりを見ていきましょう。
 まず明治3年から継続して営まれているのは、荒物屋、酒造屋、菓子屋、焼き芋屋、桶屋、大工、紺屋、銭湯などです。一方明治3年から大きく変化したのは木綿関係で、10あった綿打屋がなくなり、座繰屋2だけとなりました。明治中頃安価な外国産綿が輸入され、山梨県内の木綿生産は急速に衰退した状況が街並みにも反映されています。
 次に文明開花から西洋化が進んだ大正時代、技術や生活様式の変化に注目してみましょう。髪結から床屋へ、提灯屋からランプ屋や電球交換へ、飲食店にはバーが登場し、洋品を扱う雑貨屋も始められました。さらに江戸時代や明治初期にはなかった新たな商いも始められています。新しい材のセメント屋、自転車屋、車力、ラジオ屋まで登場しました。特に自転車は大正時代急速に発展した行商の足として欠かせないものでした。ラジオは大正14年(1925)から新たなメディアとして放送が開始され、一般への普及はやや遅れることから、この地図に書かれたラジオ屋は昭和初期のものかもしれません。また、郵便局も設置されています。明治7年7月1日荊沢郵便御用取扱所(明治8年荊沢郵便局に改称)が設立され、紆余曲折ありながら、荊沢郵便局に続いていきます。市川文蔵家では明治に入り市川銀行が設立されました。また娯楽施設も新たに作られました。大正初期、塩沢安重は父が営んだ酒造の広大な跡地を利用して東落合の新津隆一、西落合の深沢富三とともに芝居小屋「旭座」を設立しました。旭座では芝居や活動写真(無声映画)が上演され、西郡を代表する娯楽施設の一つとなったと言われます。

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【図3】大正末〜昭和初期の街並み

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【写真】荊沢宿で江戸時代?から昭和まで桶屋を営んでいた仙洞田家には今も味噌や漬物などに使われた桶が残されている。かつては県内各地の酒蔵の樽の製作と補修も行なっていた。

 

おわりに
 時代が移り、技術が発達し、交通網が変わり、生活様式も変化し、荊沢宿はその姿を変えてきました。街並みは時代を写す鏡と言えるかもしれません。現在の荊沢宿の商店は以前と比べ少なくなっていますが、コミュニティースペースやカフェなどが作られ、さまざまな人々が集う新たな荊沢宿も生まれつつあるようです。
 

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【写真】荊沢「くらんく」では、定期的に芝居やコンサート、学習会などが開かれている

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【写真】荊沢「くらんく」でのクラッシックコンサート

 

註1 連載 今、南アルプスが面白い2018年9月14日 (金) 何気ない街角に歴史あり(その5) 旧荊沢宿の「かねんて」

註2 宇佐美英 1998 「馬場利左衛門家の出店と「出世証文」」 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第31号

註3 荊沢宿の市川家当主は代々市川文蔵を名乗った。

註4 東京都埋蔵文化財センター 2020 『新宿区四谷一丁目遺跡-東京都市計画四谷駅前地区第一種市街地再開発事業に伴う調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告第350集

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅

はじめに
 令和3年8月29日(日)、山梨県と静岡県を結ぶ中部横断自動車道が開通しました。この開通によって、静岡県静岡市から山梨県南アルプス市を経由し、同県甲斐市まで高速道路で結ばれました。
 甲斐国は山(信濃)と海(駿河)を結ぶ地域であり、南アルプス市域はまさにそのルート上に位置しています。江戸時代、信州から甲府を経由し江戸につながる甲州道中(現在の国道20号線)の韮崎宿から南に分かれ、市内の六科村や在家塚村、小笠原村、荊沢村を経由し、鰍沢村そして駿河に至る道は駿信往還と呼ばれ、特に韮崎宿から鰍沢河岸までは西郡路(にしごおりじ)とも呼ばれていました。また、鰍沢に設置された富士川の河岸(かし:川の湊、船着場)からは静岡県の岩淵まで富士川舟運が通じていました。この山と海を結ぶ大動脈の西郡路で拠点となったのが荊沢宿です。今月のふるさとメール、江戸時代の荊沢宿を旅してみましょう。

 

1.駿信往還と下げ米、上げ塩
 駿信往還(西郡道)はいわゆる脇往還で、甲州道中のような公式な官道より物資が行き交う商業の道でした。慶長年間から富士川舟運が開通すると、信州から甲斐国内の年貢米がこの道を通り鰍沢河岸に集められ、舟で岩淵(当初は岩本)まで運ばれ陸路で蒲原へ、そこから清水港へ運ばれ、さらに大型船に積み替えられて、江戸浅草の御米蔵まで運ばれました。こうした年貢米やその輸送を廻米(かいまい)と呼びます。一方下った舟の帰りには赤穂の塩や海産物などが鰍沢河岸に引き上げられ、馬に積み替えられてこの道を通り巨摩郡各地や信州へ運ばれました。いわゆる「下げ米、上げ塩」です。このように甲斐国と信濃、駿河と江戸そして全国各地を結ぶ物流のネットワークのひとつとして駿信往還があり、その一番の宿場が荊沢宿だったのです。

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【図1】駿信往還(西郡路)・富士川舟運 荊沢宿位置図

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【図2】西郡路と富士川舟運 荊沢宿(伊能図に文化財課加筆)

 

2.荊沢村の始まり
 『甲斐国志』によれば、身延の過去帳に書かれた「西郡大市」が現在の古市場、新しくたてられた西郡今市場が荊沢村と言われています。つまり街道沿いの北大師村に市がたてられ、その南に新しく市がたてられたため、北大師村を古市場と呼ぶようになり、新しい市が荊沢村、そして荊沢宿となったと考えられています。荊沢の宿としての役割は武田氏による戦国時代からと推測されていますが、少なくとも元和3年(1617)には荊沢村が伝馬役を勤めていたと考えられています(註1)。

 

3.荊沢村の様子
 宝永2年(1705)の村明細帳から村の様子を見てみましょう(註2)。戸数は210軒、人数596人を数えました。農業のほか、酒屋4軒、糀屋1軒、紺屋5軒、大工一人、鍛治一人、たらゆい(桶屋)一人、医師一人という構成です。酒屋とそれに関連する糀屋が多いことが挙げられます。また注目されるのはこの他に商人が77人いたことです。8人が鰍沢へ買い出し、4人が駿河からの塩や茶を売買し、15人が棒手振りつまり行商、2人は薬を商っていました。多くが駿信往還に関連した商いをしています。そして最も注目されるのが、77人中48人が「塩糀在々へせおい出売申候」つまり塩や糀を村々へ売り歩く商人の多さです。塩は富士川舟運の上り荷として鰍沢河岸で荷揚げされた大量の塩が荊沢宿を通り、中巨摩、北巨摩、信州へと運ばれました。その塩の販売が荊沢宿周辺でも行われていたのです。

 

4.ちょっと寄り道 麹・糀の話
 一方江戸時代の糀、どうやってつくられたのでしょうか。ちょっと寄り道してみましょう。江戸時代の文献をひもとくと、糀の作り方はいくつか方法があります。(1)米を蒸したものを穴蔵に入れて作る、(2)炒った小麦と煮た大豆を混ぜて、麹蓋に入れて作る、(3)炒った大麦と挽き割った大麦と煮た豆を菰の上で作る方法などがあったようです。

(1) 『本朝食鑑』元禄10年(1697):食物本草書
一昼夜浸した粳米を取り出して乾かし、セイロで蒸して飯を作り、ムシロに広げて1日露にあてる。木盤に盛り、土窖(あなぐら)の中に置いてむらすと、大抵三日ばかりで白衣(しろかび)を生じ、これを取り出して用いるものを俗に白麹(しろこうじ)という。これは白醴(さけ)や一夜味噌の類を造るものである。白衣の後一両日を経て、外面に黄赤衣(きあかかび)を生じたらひっくりかえして、内側のまだ衣が生じていない処に黄衣(きかび)が生じるのを待って、それを数回行い、内側外側一様に黄衣を生じるまで置く。

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【写真】麹 (『本朝食鑑』国立国会図書館蔵)

(2) 『萬金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』享保17年(1732)刊:江戸時代商品学書
 小麦一石をよく焙って、ざっと挽き、白豆一石を味噌のようによく煮て、右の小麦と一つにかきまぜ、かうし蓋(麹蓋:麹を作るための木箱)に入れる。

(3) 『廣益國産考(こうえきこくさんこう)』天保15年(1844)刊:農学書
 五人家族の家では古い酒樽を三つ用意する。一樽に大豆を六升、ついた大麦を六升づつ入れてつくる。三樽の合計は豆一斗八升、麦一斗八升である。麦を炒鍋で炒って、半分は臼で粗く引きわり、残りの半分は炒ったままで豆を煮たものと一つにして、花を付ける。花を付ける時は、五月から十月上旬迄は、家の隅、物置杯の土間に菰(こも)を敷いて、その上に筵を引いて、そこへ豆と麦を合わせたものを一寸五分位の厚さにして広げ、夏場は上に覆いをすることなく置く。九月になったら菰一枚、十月上旬には二枚重ねて覆いをするようにする。覆いをする前にススキの葉を少し糀の上に置くとよい。

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【写真】醤油づくりのための麹づくり(『廣益國産考』国立国会図書館蔵)

 では、このようにして作られた糀を売る糀売り、どんな商売だったのでしょうか。江戸時代、南アルプス市域の村明細帳を調べたところ、「糀売」が登場するのは、荊沢村とその北に続く古市場村、鮎沢村の3か村だけです。古市場の宝暦明細帳に「稼 男ハ農業之間並平日ハ日用或ハ塩糀木綿種等」や天保3年には「一稼 男ハ農業之間日用或者塩糀木綿実等売買其外時々之品少々宛売買仕候女ハ木綿糸とり並織出申候」と書かれていて、農業の合間の余業として糀売が行われていました。江戸時代後期に刊行された『守貞謾稿』には「麹売」が掲載されています。それにも、麹売りは中秋以降冬に売りあるくと書かれていて、村明細帳と一致します。ではなぜ荊沢宿周辺で糀売が行われていたのでしょうか。確かな答えは不明ですが、甲西町誌によれば、近代では各家庭で糀や味噌、醤油などが作られていたことから考えると、宿場であった荊沢宿では糀作りが専業化され、街道の酒屋や各村々へ売りあるく伝統が形成されていったのかもしれません。

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【写真】麹売(『守貞謾稿』国立国会図書館蔵)

 

5.行き交う馬と物資
 ここで荊沢宿を通過したモノに注目してみます。増田廣實氏の研究によれば、嘉永7年(1854)の宿継荷物は2440駄で米を合わせると約1万1千駄を数えます(註1)。下り荷物、つまり信州方面から韮崎宿を通り、荊沢宿からさらに鰍沢宿に荷継ぎされたものは、年貢米のほか、太物、苧(麻)、薬、元結、紙、傘、笠、椀、箸、櫛などでした。特に紙、元結、椀、箸、櫛は信州飯田方面からの荷物で、飯田荷物と呼ばれていました。一方鰍沢宿から荊沢宿を経由し信州へ運ばれた上り荷物は塩や海産物のほか、阿波藍、武州藍、繰綿、篠巻、中綿などです(註3)。背に米俵や椀や櫛などを乗せた馬が鰍沢方面へ下り、一方塩や藍玉を背に積んだ馬が韮崎宿を目指す、そんな光景が目に浮かんできます。
 来月号では荊沢宿内を旅してみたいと思います。


註1 増田廣實 2005『商品流通と駄賃稼ぎ』 同成社
註2 甲西町誌資料編
註3 江戸時代の文献では現代でいう「塩糀」を掲載する主な文献は『本朝食鑑』に限られ、一般的な用語とは考えにくいため、「塩と糀」と解釈しました。
註4 連載 今、南アルプスが面白い 2021月6月15日(火)江戸時代の南アルプスブルー ~村々の藍葉栽培と藍染~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信州松本城と南アルプス市をつなぐ二つの物語

 神無月。今年の10月は30度を記録する夏のような日もありましたが、木々の葉は少しずつ淡朽葉(うすくちば)や黄丹(おうに)、柿色に染まり、ようやく秋の深まりを感じられるようになりました。コロナ感染が拡大する中、市内の小学校では修学旅行のコースを定番の鎌倉や東京から長野県へ変更する学校が多くなっています。今回のふるさとメールでは、信州を代表する名所、国宝松本城と南アルプス市とを結ぶ二つの物語についてご紹介します。

 

1.国宝松本城

 松本城は長野県松本盆地の複合扇状地上に造られた平城です。扇状地の扇端に造られたため、城下町を歩くとあちこちで湧水に出会うことができます。南アルプス市で場所を例えるなら、御勅使川扇状地扇端に立地し水が湧出する若草地区の加賀美付近でしょうか。その豊かな湧水は堀の水に利用され、常に清らかな水で満たされています。

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【写真】城下町で出会う湧水

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【写真】松本城堀の水

 松本城といえば白漆喰の白壁と黒漆が塗られた板、そして茶、灰色の濃淡で彩られた土台の石垣の織りなすコントラスト、借景となっている北アルプスの美しさに目を奪われます。全国でも天守が残る城は12しかありません。天守は一番高い大天守を始め、月見櫓(やぐら)など5棟の建物が組み合わさっており、文化財の最高峰国宝に指定されています。城好きな人々はもちろん、さまざまな人々を惹きつける著名な観光地となっています。さて、この松本城、南アルプス市といったいどんな関係があるのでしょうか。

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2.甲斐源氏と松本城

 松本城は戦国時代、小笠原氏が建てた深志城が始まりと言われています。小笠原氏は、南アルプス市加賀美に居を構えた加賀美遠光の次男、長清を祖とします。長清は原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を所領としていました。治承・寿永の乱ではいち早く源頼朝に従い、鎌倉幕府を支える有力な御家人となっています。弓馬術に優れ、『武田系図』によれば、武田信光らとともに弓馬の四天王に数えられました。長清の子孫は弓馬故実の指導的立場となり、室町時代に小笠原流礼法が整えられました。また南北朝時代、小笠原氏は甲斐から信濃へ拠点を移し、信濃国守護となります。戦国時代、松本市周辺は小笠原氏の勢力下にありました。

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【写真】遠光・長清父子像(開善寺蔵)加賀美遠光(上)と小笠原長清(下)

 その小笠原氏を攻め、深志城を手に入れたのが同じ甲斐源氏である武田家当主の晴信、後の信玄です。晴信は越後の上杉氏攻略の拠点としても深志城の整備を行ったと考えられています。武田家滅亡後、深志城は再び小笠原氏の貞慶(さだよし)が奪還します。そしてこの貞慶が深志を松本に改称しました。「松本」という地名にも甲斐源氏がかかわっていたのです。国宝となっている天守などの建造物は安土桃山時代、石川数正親子が整備したとされていますが、松本城の歴史の始まりは小笠原氏、武田氏など甲斐源氏が礎を築いたのです。

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【写真】松本城内各所に小笠原氏の家紋三階菱の灯篭が飾られている

 

3.太平洋戦争後の文化財保護の物語 八田山長谷寺と松本城をつなぐ人々

 江戸から明治へ時代が移ると松本城に危機が訪れます。城としての必要性が失われたため、民間へ売却され破却されることが決定しました。これを覆したのが地元の人々です。城を買い戻し、保存会を立ち上げ、募金を募り、荒廃した天守の修復事業が明治時代に行われました。
 昭和に入ると昭和5年(1930)には史跡指定をうけ、昭和11年国宝に指定されるなど、法的に文化財としての価値が認められます。太平洋戦争時、日本各地の城郭がアメリカ軍の空襲によって失われて行く中で、幸運にも松本城は戦火を免れました。
 太平洋戦争後荒廃した松本城の修復事業を進めたのは、奇しくも日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)民間情報教育局(CIE)で、文化財保護や美術について行政指導を行なっていた美術記念物課のチャールズ・F・ギャラガーが松本城に昭和21年秋に訪れました(註1)。ギャラガーは太平洋戦争中に日本語を学び、戦後1946年に来日、アジア全般の芸術について学んでいたわけではありませんでしたが、「a quick learner(物覚えの早い人)」と呼ばれたように高い学習能力があったと考えられます。ギャラガーが戦後日本全国の文化財を視察し、修復事業の指導を行なっていたのです(註2)。
 昭和21年10月、ちょうど松本城視察の前後、ギャラガーは現南アルプス市榎原の八田山長谷寺を視察しています。長谷寺も当時国宝に指定されていましたが、戦前から荒廃し、戦中から地元の人々の熱意によって解体修理事業が計画されてきました。松本城に対し早急に修復するよう勧告したと同様に、長谷寺本堂にも早急な修理が勧告なされ、昭和22年度法隆寺と並び戦後初の国庫補助事業として本堂解体修理が認められました。この長谷寺本堂の調査や解体修理を監督したのが文部省技官の大岡實と乾兼松です。とりわけ大岡實は長谷寺と法隆寺の修復事業を監督するだけでなく、同時期に松本城の修復の調査も行なっています。長谷寺の小暮君易さん(故人)は大岡が長谷寺に宿泊した後、松本城や法隆寺へ向かい指導していたこの時の様子をはっきりと覚えておられました(註3)。

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【写真】長谷寺本堂解体修理

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【写真】大岡實博士

 長谷寺本堂の解体修理が完成し行われた落慶式の昭和25年3月18日から約3ヶ月後の同年6月8日、松本城の修復工事の起工式が行われました。敗戦から復興を目指す中で行われた長谷寺と松本城の修復事業は戦後文化財保護の第一歩となりました。それが可能になったのは、文部省技官、GHQ、そして地域の人々の文化財への想いが結ばれたからでしょう。

 

 秋の深まりとともに南アルプス市甲斐源氏の祖である加賀美遠光の館跡、法善寺境内や長谷寺の木々も色づき始めています。北アルプスを背景にした信州松本の紅葉も見事です。コロナ禍終息後、二つの物語に想いを馳せながらそれぞれの地を旅してみてはいかがでしょうか。

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【写真】八田山長谷寺

註1 国宝松本城のホームページ

註2 MONUMENTS MEN FUNDATION のホームページ(ブラウザChrome、Edgeで閲覧できます)

註3
今、南アルプスが面白い 2018年1月15日 (月)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語~

今、南アルプスが面白い 2018年2月15日 (木)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~

南アルプス市広報 2016年1月号
昭和20年代長谷寺本堂解体修理と法隆寺金堂焼損~二つの国宝をめぐる物語~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

月の魅力~満ち欠ける姿に重ねた想い~

 闇夜の中、やさしい光で地上を包む十五夜の月。令和3年は9月21日が中秋の名月です※1。古くから人々は月の満ち欠けにさまざまな想いを重ねてきました。今に続く人と月の関係。今宵は古の人々が月に重ねた想いとともに月の魅力を訪ねてみましょう。

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【写真】南アルプス市中野の棚田から


○時・季節を知る

 明治5年以前、日本の暦には主に月と太陽の動きから考えられた太陰太陽暦が用いられてきました。人々は月の満ち欠けで時を知り、季節を感じ、種まきや収穫などの農作業や祭りの時期を決めていたのです。9月1日有野地区で行われている八朔祭りの「朔」は、月が見えなくなる新月、1日(ついたち)を意味しています。旧暦8月1日に当たるこの日に暴風を避け五穀豊穣を祈る祭りが行われてきました。その舞台となる白根源小学校の校庭の一画には、明治31年に建てられた八朔祭の祭神塔が祀られています。明治29?31年は御勅使川水害が頻発した時期です。刻まれた「風雨得時滋」の文字には暴風雨による洪水に苦しめられてきたこの地の人々の願いが込められています。

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【写真】八朔祭り祭神塔(有野 源小学校敷地内):明治31年有野区民によって建立された。「風雨得時滋」は「風雨時を得てしげる」つまり適度な風雨によってこの地が豊かになるという意味。


○情緒を感じる

 日本で月の美しさや情緒を漢詩や和歌に詠んだのは奈良時代からです。平安時代に入ると月見が貴族の邸宅で行われるようになりました。月見は宴とともに行われ、管弦も奏でられました。平安時代中頃になると月見も和風化し、和歌の歌合などが行われるようになります。こうした月見の文化は時を経て江戸時代、一般庶民にも広まります。江戸時代に確立された俳句でも「月」が重要な題材となり、南アルプス市を代表する俳人も月を題材にした多くの句を残しています。

五味可都里(ごみかつり 1743-1817 江戸時代中期-後期の俳人)
 名月のをしくも照らす深山かな
 土間に居て客ぶりのよき月見哉

五味蟹守(ごみかにもり 可都里の甥 1762?1835) 
 名月やすへて置たき露の雨

辻嵐外(つじらんがい 1770-1845 江戸時代後期の俳人。可都里に師事)
 秋の夜は名月の香のぬけにけり
 粟の穂か山吹かしらず后の月

 五味可都里の俳句仲間、尾張の加藤暁台(きょうたい)が藤田村の可都里を訪ねた際、十五夜の夜まで月を楽しんだ様子が『暁台句集』に記されています(『山梨県史通史編 近世2』第十四章 教育と学問・文芸))。
 
「其夜ごろにもあれば、月をみせばやなどわりなくとどめられ、望の夜もここに遊ぶ。士峰の北面まぢかくひたひにかかるやうなり」(『暁台句集』)

 俳句だけでなく月はその姿から浮世絵や版画、近代以降の絵画などの題材にもなりました。太平洋戦争終戦後、南アルプス市落合に疎開していた妻のもとを訪れ一時滞在した東山魁夷も月の魅力に引き寄せられた一人。「月篁」、「月唱」、「月の出」、「月明」、「月涼し」など月をモチーフにした多くの作品を残しています。

リンク→2016年12月15日 (木) 南アルプス市を訪れた人々(4) 東山魁夷

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【写真】甲斐駒ケ岳と満月

 音楽を聴きながら月を愛で、月の美しさを歌に込める。現代ではクラシックやバラード、ジャズ、ロックなどそれぞれ好きな音楽を聴きながら月を眺め、ツイッターでつぶやいたり写真をインスタグラムにアップする楽しみ方でしょうか。月の美しさに惹かれ言葉や写真に想いを映す。昔も今も変わらない情景です。


○集い・祈り・楽しむ

 日本人は月を神や仏としても信仰してきました。神道では月神のツクヨミ、仏教では薬師如来の脇侍、月光菩薩です。旧暦8月15日の月へのお供え物が史料で確認できるのは室町時代の『年中恒例記』からと言われています※2。

「八月十五日、明月御祝参、於内儀也、茄きこしめさるゝ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之」(『年中恒例記』)

 史料は残されていませんが、より古い時代から収穫を感謝する供物が捧げられていたのでしょう。室町時代のお供え物は、大豆や柿、栗、瓜、茄子など秋の旬の野菜や果物が供えられていたことがわかります。
 江戸時代に入ると、決まった月齢の日に仲間が集まり飲食を共にして月の出を待ち、安産や無病息災、五穀豊穣を祈願する「月待(つきまち)」が市内でも広く行われました。それぞれの月夜には特定の神仏が結びつけられていました。例えば十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、 そして二十六夜は愛染明王。特に二十三夜の勢至菩薩は、あらゆるものを知恵の光を照らして苦を取り払うとされる仏様で、月の化身とも考えられ、人気を博しました。この月待を記念して建てられた「二十三夜塔」などの石塔は市内各地で見ることができます。夜通し仲間で飲食を共にしながら語り合う、月待は当時の人々にとって娯楽でもあったようです。

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【写真左】秋山 熊野神社境内に建てられている二十三夜塔
【写真右】六科 随心院 如意輪観音「寛政四年壬子月朔日 施主 講中」:
二十二夜の如意輪観音は女性の守り仏と考えられ、女性だけの月待講も行われました

 月への信仰の中で、中秋の十五夜と翌月の十三夜は特別の月と考えられました。ちょうど秋の収穫時期でもあり、満ちた月を秋の実りの豊かさに例え、月の神様に秋の収穫を感謝したのです。この日は縁側に団子や里芋、豆類、大根などの野菜、栗、葡萄などの果物などが供えられ、神様の依代(よりしろ)としてススキが飾られました。

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【写真】市内の十五夜飾りとお供え物

 供え物として真っ先に思い浮かぶのは月見団子ですが、供えられ始めたのは江戸時代から。団子より供え物として欠かせなかったのは里芋と豆です。十五夜と十三夜はそれぞれ「芋名月」、「豆名月」とも言われ、芋や豆を中心とした畑作物と月の信仰の深いつながりがうかがえます。特に豆は市内でも縄文時代から栽培されていたことが明らかにされていて、最古の栽培植物の一つです。江戸時代の村明細帳を見てみても、多くの村で栽培されていました。
 こうした十五夜の食の伝統は、南アルプス市の学校給食にも受け継がれています。季節を学ぶ給食として、十五夜と十三夜は里芋や豆、栗といった伝統的な月見のお供え物を活かした献立となっています。昨年は十五夜に「いもこ汁」、翌月の十三夜には「豆乳汁、栗のムース」が出されました。そして今年は、十五夜に「里芋とそぼろのあんかけごはん、お月見大福」、十三夜に「栗五目ごはんとお月見だんご」が予定されています。

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【写真】昨年度(2020)十五夜メニュー:芋名月に掛けていもこ汁が献立となった リンク→(南アルプス市ホームページ(R2年度季節を学ぶ給食です)


○団子突き

 昭和30年代以前、十五夜の夜に子どもたちが縁側に飾ってある団子や供物を釘などを付けた竹竿でそっと突いて盗んでくる「団子突き」という風習がありました。お供え物が盗られるのが許されるだけでなく、縁起がいいいとも考えられました。これは月の神様が持ち帰ったため豊作になると考えられたためです。この日は子どもたちは朝から道具を用意し、作戦会議を開き家々の分担を決め、団子やお供え物を突きに行ったことを多くの方が記憶しています。そんな中、微笑ましいやりとりも行われました。

「中には甘い餡このかわりに塩を入れた塩団子が混じっていることもあり、運悪くそれを食べた子どもは仲間から大笑いされた」(『山梨県史 民俗編』)

 もちろん盗みは禁じられていますが、人々が月の神さまに豊作を約束してもらい、豊かな実りに感謝するための伝統的な風習だったのです。

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【イラスト】月夜と人々の想い


○月のウサギ

 日本では月にウサギが住んでいて、餅つきをしていると言われてきました。これは中国から伝えられた伝説が変化したものです。もともと中国では、嫦娥(じょうが)という女性が仙女の西王母から夫に与えられた不死の薬を盗んだため、月へ送られ蝦蟇(がま:ガマガエル)にされた伝説が漢代以前に伝えられていました。後にウサギと月桂樹が伝説に加わり、漢代(日本では弥生時代)には嫦娥、ガマガエル、ウサギ、月桂樹がセットで月の説話に登場します※3。こうした伝承は日本に伝来した後、ウサギだけが残され、現代でも月の象徴としてお菓子や店の名前などに活かされています。ちなみに中国ではウサギが突いているのは不老不死の薬です。人々は月の満ち欠けに死と再生、不老不死のイメージを重ね合わせたのですね。竹取物語のかぐや姫が月へ帰る時、帝に贈ったのも不死の薬です。かぐやを失って嘆き悲しむ帝はその薬を天に最も近い駿河の山で焼くことを命じました。その山がふじ山と呼ばれることで物語の幕が降ろされます。

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【写真】竹取物語で不死の薬が焼かれたという山


○月を楽しむ

 デルタ株が広がりコロナ禍が続く現在、家族や友人、大勢の仲間が集い飲食しながら月を楽しむことができるのは、もう少し先になりそうです。けれど遠い空の下でも同じ時に月を仰ぎ見れば、その光が人々の想いをつないでくれるはずです。

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【写真】2020年10月1日 十五夜の月 上高砂


※1 旧暦では7月、8月、9月が秋とされ、8月15日の満月が秋の真ん中であることから中秋と呼ばれました。
※2 陳馳 2018「平安時代における八月十五夜の観月の実態 」『歴史文化社会論講座紀要 』京都大学
※3 許曼麗 1994「月の伝説と信仰:詩歌に見るその成立の一側面」藝文研究Vol.65 慶応義塾大学藝文学会

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害 その2

 7月号では明治29年9月に起きた水害の中で、御勅使川と釜無川左岸の被災状況をみてきました。この水害では現在の南アルプス市内域だけで大和川、滝沢川、堰ノ川、秋山川などいくつもの河川でも洪水が発生しています。しかし、これらの河川の被害状況は、主要な記録や各町村誌でも詳しく取り上げられていません。そこで水害後まとめられた公式な結果とは異なる部分もありますが、当時の新聞記事からこれらの河川の水害の実態にせまってみたいと思います。

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【図】明治29 年水害状況図(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

明治29年当時の村の状況:()内の村が合併して成立
源 村(有野村・塩前村・大嵐村・須沢村・駒場村・築山村+曲輪田新田と飯野新田)
榊 村(曲輪田村・上宮地村・高尾村・平岡村)
明穂村(小笠原村・桃園村・山寺村)
落合村(塚原村、湯沢村、秋山村、川上村、落合村)
五明村(荊沢村・大師村・清水村・宮沢村・戸田村)
南湖村(田島村・和泉村・西南湖村・東南湖村・高田新田)

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【図】大正時代山梨県地図(大正10 年『山梨県統計書』より)

 

※以下(山日)は山梨日日新聞、(甲府)は甲府新聞を意味する。

1.諸河川流域の被害状況
1)大和川
 源村内の大和川堤防3箇所150間が決壊しました(山日9月16日)。この大和川とは桃園で合流する堰尻川と考えられ、主に曲輪田新田地区の堤防が決壊したことになります。一方榊村の曲輪田地区から流れる大和川の本流では、粘土が用いられ強固な堤防と考えられていた大和川第一番堤が決壊し、曲輪田に大きな被害が出ました(山日9月18日)。さらに下流の明穂村内では堤防8箇所が決壊、中でも桃園地区では堤防が3箇所決壊しました。対岸の榊村上宮地地区では大和川右岸(新聞では瀧澤川と表記)の堤防が200間決壊し、1町歩の畑が流失、二反歩が浸水し、大きな被害を被りました(山日9月16日)。

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【図】大和川周辺破堤状況

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【写真】現在の大和川(桃園・上宮地)(南から)

 

2)滝沢川(瀧澤川)
 大和川と深沢川が合流した滝沢川は多くの地点で堤防が決壊し、明穂村、大井村、南湖村、五明村に甚大な被害をもたらしました。明穂村小笠原地区では一の堤防が30間決壊し、県道が浸水、床下浸水約100戸に及びました(山日9月16日)。下流の大井村江原地区では9月11日に堤防が40間決壊し30戸が浸水(山日9月17日)、この洪水流は下流の五明村戸田地区を飲み込み、全96戸中92戸が浸水しました(9月20日)。大井村江原地区の対岸、三恵村十日市場地区の堤防も20間決壊し、その水流は南湖村東南湖地区まで押し寄せました。南湖村では滝沢川の堤防が40間、狐川の堤防が60間、さらに滝沢川の別の堤防35間が決壊し、南湖村和泉地区の田畑150町が浸水しました(山日9月16日)。加えて滝沢川と狐川が合流する和泉地区の堤防が破壊され、濁流は南湖村の耕地に集まり、ひとつの大きな湖のようだったと新聞に記されています(山日9月20日)。さらに釜無川の増水によって滞留した洪水流は排水されず、9月8日には釜無川の逆流水が和泉地区に流れこみました(『甲西町誌』)。

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【写真】滝沢川周辺破堤状況

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【写真】現在の滝沢川(小笠原)(東南から)=左写真=、現在の狐川、左は滝沢川(和泉)(北から)

 

3)坪川・秋山川
 9月8日落合村地内で坪川(市之瀬川)が東落合地内にて東側に決壊、濁流が入り込み田はほとんど砂礫に埋まったといいます(『甲西町誌』)。また、9月11日には秋山川と堰野川の樋門上で決壊し、釜無川への排水ができない状況を伝える電報が落合村役場から発せられています(山日9月11日)。このように落合村では坪川や堰野川、秋山川の堤防が決壊し上流から洪水流が流れ下るとともに、いくつもの河川が合流する南端では釜無川へ排水できず、下流から逆流した洪水流によっても被災しています。落合村字芦原では水田25町歩、畑50町歩、家屋10戸が浸水の被害を受けました(山日9月16日)。また、坪川の下流五明村字土尻及び字稗田でもそれぞれ一か所決壊しています(山日9月20日)。

 なお、落合の河川立体交差については、以前の記事をご参照ください。
2009年6月15日 (月) 南アルプス市と天井川 その2 ~河川の立体交差~

 

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【写真】現在の秋山川(秋山)(西から)=左写真=、現在の坪川(落合)(南から)

 
2.水害現場の状況
 これまで見てきた明治29年9月の水害時、人々はどのような行動をとったのか、その状況を新聞記事から追ってみました。

 1)破堤前の水防活動
 堤防の決壊は田畑だけでなく家屋や人々の生活、命までも奪う危険性を伴うもので、村の存亡にもつながる非常事態でした。特に9月上旬は稲刈り目前で、水防の成否が1年間の収穫の有無を決定します。そのため、堤防を守る水防活動には関係する多くの人々が集まりました。特に御勅使川扇状地全体を守っていた石積出を有する源村有野地区の水防には約1600人もの人々が集まったとの記事があります(山日9月17日)。

「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり」(山日日新聞 9月17日)

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【写真】石積出三番(有野)

2007年12月29日 (土) 御勅使川扇状地の生命線 石積出

 

 同時に対岸の龍王でも二番堤破堤の危険から多くの人が堤防の決壊を防ぐ活動を行なっています。

 「釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中 昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり」(山梨日日新聞 9月11日)

 では堤防の決壊を防ぐためにどのような水防活動がおこなわれたのでしょうか。堤防が洪水流によって削られた場所を保護するため、木を伐採し紐で堤防に固定し欠損した場所に流す「木流し」が行われ、また丸太を組み重しとして竹で編んだ籠に石を放り込んだ蛇籠を乗せた「聖牛」が作られました。蛇籠はそれ自体でも堤防の欠けた場所を補強するために使われました。そのほか大量の土俵が作られ、堤体の補強に使われました。驚くのはそれぞれ使われた量です。今諏訪村二番堤の水防では木は数百本、土俵は幾千と見積もられています。さらに明穂村一村だけで伐採された樹木は三千数百本に及んだとの記事もあります。懸命な水防活動が行われましたが、龍王村では二番堤がついに決壊してしまいました。

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【図】木流し

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【写真】復元された聖牛。竹蛇籠が乗せられている

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【写真】昭和57 年台風10 号 芦安での木流し

竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~ 2009年1月 1日 (木)

 

「十二日、釜無の激流は益々烈しく改修堤危険なるより、八幡各村の人民は数百名、出でて水防に従事したり、石を運ぶもの、木を切るもの、之を投ずるもの、之を●をするもの宛然之れ戦勇兵の工兵隊に興たり、夜に入りて各所に燃せし篝火は水に映し、(中略)雨は又たまた降出せり、十一時十二時に至りては、怒々猛烈を加え来り、夜は暗し響は凄まし、(中略)、全力を注いて奔騒せる村民も今は労れ果たり、されども尤も大切なるの際なり、白雨黒雨襟を束ねる如くにして、激流に怒つて改修堤を破れり、「切れたきれた」の聲は凄然として諸人の耳朶に達せり、今迄で働き切つたる人足も此一斗に力を失ひぬ、歎聲を発して茫然たる間に見る見るみずは汎濫暴張して一面の湖水を現せり」(甲府新聞 9月15日)

「聞く明穂村一村にて水防に費消せし金額のみにても五百余円に及び且つ當日激流に投入せん為め伐採したる樹木は三千百餘本に達し之に被害損金を加ふれば實に巨額に至る」(甲府新聞 9月26日)

  豪雨の中、樹木を伐採し、人力で運び、紐で固定して濁流の中へ流す。竹の籠を編み石を運んで投げ入れる。大量の土を運び土俵を作り、堤防を補強する。また記事には現れませんが、数日間に及ぶ水防活動では大量の食料も必要となるため、女性を中心とした炊き出し、必要な物資の搬入作業も行われていたのでしょう。ここで水害後甲府新聞記者が現地を歩き取材した今諏訪村の鬼気迫る水防活動の様子を参照してみます。

 「二番堤に至る、大木は幾百株となく伐採して河邊に投じ、土俵は幾千となく羅列しあり、而して向邊直下釜無の溢流滔々として至り一大河を現し急瀧弄騰、出水當時の状を追思せしむ(中略)聞く當時田之岡村改修堤の危急を告ぐるや、今諏訪を初め鏡中條等村民は総出にて必死を極めて水防に従事し大木を運び土俵を作る 在らゆる手段を盡したるも遂に其効なく見る見る中に怒濤は堤防を決壊して浸水し来るより数百千の村民はソレと云ひ様取つて返にしニ番堤に於いて之を喰ひ止めんものと再び玄に群集し労れし身体をも厭わず必死となつて盡瘁せり、猛雨は尚ほ烈しく雷鳴さえ加わりて怒れる濤は突き至りと衝き来り、斯くすること一周日餘、村民は聲を枯らし身を痛め最早一言を發するを得す一歩も進むを得さるに至れり、殊に改修堤は前面にのみ力を用ひ後方は之に比して力を用ゆる極めて少、故に釜無川の田之岡附を破りて改修堤を伝へて突激するや改修堤は漸次崩壊して遂に七十九間を破るに至れり 村民の之を防かんとするに當りうの力を極めたる實に驚くべき程にしてニ番堤も数百千人の必死となりて防禦するにも開せず漸次崩壊して早や既に一尺餘に及ひたるの所数ヶ所ありて怒濤は之か上を超ゆるに至りて村民は或は到底ダメなりと思ひしかとも盡せる丈けい盡さんものと愈々勇を奮つて奔馳し漸にして之を無事に保つを得たるは誠に感すべきことなり」(甲府新聞 9月27日)

  こうした豪雨や雷雨の中行わる水防活動はまさに命がけで、行方不明者や死者も報告されています。

 「同上午前九時急報 (龍王)二番堤欠潰の際居合わせたる人十二名行方不明となれり」(山日日新聞 9月13日)

 「水防人足の溺死 中巨摩郡百田村にて御勅使川の水防に従事したる男一名溺死したり」(山日日新聞 9月16日)

 

2)村々の対立
 非常時には多くの人々が協力するとともに、利害が対立する村々の争いも先鋭化しました。各村が自分の村の堤防を守るため右岸と左岸、上流と下流とで争いが起きたのです。

 「水防に就いて喧嘩 中巨摩郡三恵村々民と大井村民、明穂村民と三恵村は水防に就て争論を始て不穏の色ありしも警官の説諭にて平穏に帰せり」
(山梨日日新聞 9月16日)

「小笠原は従前より水災を被らさりし地なるに這般の出水に際して、瀧澤川は暴漲して里俗一の出しと称す處より欠潰して遂に其の七分を浸し現に警察分署の在る所は本瀬となりて水の深さ八尺余に達したりど、それのみならず水防の際各村互に自村の堤防を守らんとして向岸と喧噪し囂々(ごうごう)、囂々石を投じ竹槍を弄し殺気紛々恰も百姓一揆の起りたる如き観あり」(甲府新聞 9月26日)

 さらに釜無川、瀧澤川、坪川、秋山川や狐川など多くの河川が合流する下流の地域ではその排水が村々にとって死活問題でした。この水害では排水に苦しむ五明村と南湖村両村の村人合わせて1700人が睨み合う自体が起きました。警察の説得にも応じず、騒動の一歩手前で小林収税長がとりなし、代表者同士の話し合いで解決されましたが、記事からは当時の緊迫感が伝わってきます。排水の解決策として故意に堤防を決壊させ、排水する方法がとられていたことも注目されます。

「五明南湖の両村排水論
一昨十三日正午頃中巨摩郡五明村と仝郡南湖村人民との間に南湖村東南湖組地内通称瀧澤川の排水に関し粉擾(※1)を醸したる顛末を聞くに両村共同川の水防に附互に警鐘を打汚名鳴らして呼び集め五明村よりは九百餘人南湖村よりは六百人南巨摩郡増穂村大椚組よりは貳百人各自水防用の道具を手にして現場に馳せ付け 今や血雨を降らして一大修羅場を現さんとする處へ 恰(あた)かも好し龍王警察所長浅尾警部部下の巡査を引率して駆け着き 双方へ対し説諭を加えたれども 容易に聞き入る気色なく 動(やや)もすれば争闘に及ばんする有様なるより 水害検分とて其近地へ来れる小林収税長へ此事を急告し 各村人民をして各代表者なるものを出さしめ 腕力沙汰の無法なることを説明し 結局双方陳述するところを聞取り 同所の堤塘深さ三尺長さ三間を欠潰して排水せしむる事とし 辛ふじて無事に鎮静せしめたりと 故らに堤塘を欠潰せしむる理由は五明村荊澤戸田宮澤の三組浸水家屋が何時までも浮かび出づる能はざるを以て堤塘を欠潰し滞水を放蕩するなり 其代り水防費用五拾圓と欠潰費用右三組にて支辨する契約を為し夫れにて事済みとなりたりといふ。」(山梨日日新聞 9月15日)
※1 ふんじょう・・・紛争のこと

 

3)水害後の復旧
 水害後分断された地域の復旧では分断された地域との連絡のため、鉄線を渡し樹に結び人や物を運ぶ「コブ渡し」と呼ばれる方法がとられました。鉄線を対岸に渡すには濁流を渡る必要があり、これも命がけの作業でした。

 「茲に於いて鐵線を渡し兩々大樹に緊縛し、之に又た鉄線を釣下け人をして之に腰を掛けしめ、此方に於いて之れを引く宛絶昔時のコブ渡しなり、鐵線一たび切れんか乃ち身は激流に陥没して死生を必ずべからず危険又た●し、第一先に渡りしは彼の新海茶太郎氏にしてそれより人々相次いて来り、兩者の連絡を通するを得たり」(甲府新聞 9月15日)

 浸水した復旧活動には事前に用意されていた舟が活用され、食料などの物資が運搬されました。

 「五明其他 戸田、宮澤、荊澤等はいづれも床上二三尺の上に達し 昨日は大に減じたるも尚は床上にあり舟を以って食物を運搬しつつありと云ふ」(甲府新聞9月16日)

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【写真】水害時使用された舟 長泉寺(荊沢)

 

3.水害後の学び
 明治29年9月水害後、甲府新聞では9月29日から10月3日までの「見聞餘録」で水害の原因や今後の対策を検証しています。水害の原因の一つとされたのは明治20~27年に行われた堤防改修事業の脆弱さと改修堤完成による事前水防の怠りです。改修事業は7年の歳月と多額の予算が使われ、「金城鉄壁」と考えられていました。
とりわけ信玄堤では明治20~27年の堤防改修時、「出し」である龍王二番堤が下流の出しと接続され連続堤に改修されていました。しかし、この豪雨では釜無川の改修された堤防の多くは決壊し、信玄堤は出しの二番堤が破堤、信玄堤本堤を衝いた水流はこれまで釜無川にもどる仕組みでしたが、その出口を塞いでいたため水が溢れ、信玄堤が決壊したと考えられました。「見聞餘録」の総括ではどんな堅牢な堤防でも永久的なものでなく、事前の十分な水防準備の必要性を説いています。また各堤防での懸命な水防には敬意を払いつつ、自村のみ守って他を顧みない姿勢も改めるべきだと述べています。
 さらに龍王の信玄堤破堤については、御勅使川上流の氾濫により前御勅使川の堤防が決壊して西側から釜無川に合流した洪水もその原因の一つと考えられました。つまり御勅使川の治水が釜無川左岸の治水にとって極めて重要であることが指摘されているのです。この地理的状況は現代でも変わっていません。かつて前御勅使川であった現在の県道甲斐芦安線へ洪水流が流れた場合、洪水流は信玄堤に真横から衝突することとなります。

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【図】明治時代 信玄堤の変遷(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

 現代の水防は地域住民が直接携わる機会は少なくなっています。しかし、125年前の記録は、堤防が破堤する不測の事態を想定し、水害の知識や情報を学び、避難ルートや場所を確認しておく事前の防災活動と地区や市町村を超えた地域間の協力体制の重要性を私たちに伝えてくれています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】