第一審 甲府地裁
提訴に先立ち鏡中条村がまず検討したのは、江戸時代の契約(水防組合)が明治の世になっても有効か否かということでした。明治17年(1884)の太政官布告によって、水利や土木に関して利害が複数の村に関わるような場合は、「水利土功会」という組織を設置して管理することになっていましたが(※1)、毎年の生産行為に密接に関わる用水の水利などとは違い、明治17年以降も喫緊の必要を認めなかったためなのでしょうか、争点となった「将監堤」については、この時点において「水利土功会」設置されていなかったのです。
その場合の江戸時代からの契約の有効性について、鏡中条村は提訴に先立ち県の官吏や法律家に照会していますが、その結果、ある者は有効といい、またある者は無効といって、明確に有効性を確認するまでには至りませんでした。しかし鏡中条村は、契約が関係村間で解消された記録や事実はないので「水利土功会」に移行していなくても有効であり、また契約の有効性について両論あるということは、少なくとも争うことは可能との結論に至ったものとみられ、水防組合結成に関わる近世の連印状の写しや、既定の水防費の分担割合を示す高割表の写しなど、契約があったことを示す古記録等を証拠として提訴に踏み切ったのです。
提訴は、明治24年(1891)4月18日。
原告は、鏡中条村村長三木森太郎。原告代理人は、甲府市の弁護士飯島實。
被告は、南湖村村長安藤由道。現在南アルプス市によって保存され一般に公開されている重要文化財「安藤家住宅」のこの当時の当主でした。安藤家は代々西南湖村の名主役を務めた家のひとつであり、本訴訟時も村の有力者として村長を務めていたのです。被告代理人は甲府市の弁護士島田楳蔵でした。
鏡中条村の、旧来の契約に基づき明治22年(1889)の水防に要した費用の分担金を支払えという訴えに対し、南湖村は「原告ノ訴ヲ棄却アリ度キコトヲ申立ツベク候」と全面的に争う姿勢をみせました。その主張は、旧来の契約は新たに「水利土功会」に移行していないのだから既に無効であり、費用を分担する理由はないというもので、やはり「水利土功会」の設置がないことを突いたものでした。また、仮に契約が有効だったとしても、原告請求の金額が果たして支出されたのかどうか確かめる証拠がないので請求には応じられないというのです。
両者の主張を受け判決がでたのは、早くも明治24年5月29日でした。
結果は鏡中条村の全面敗訴。
裁判所の判断は、将監堤の水防は原告村、被告村その他の村々の費用をもって互いに人夫を差出し防禦するという契約があることを「推知」することはできるが、明治22年の水防の際、原告村においてその水防を為し、費用を要したといっても被告は認めていないし支出した費用を確かめる証もない、というものでした。
この時の水防には、南湖村も実際に人足を出して参加していたのですが、提示されたのは掛かったとされる水防費の総額と、従来の定約に基づく石高割額のみで、明細も不明であり、本当にそれだけ掛かったか実際の支払いを確かめることもできないというのです。南湖村の主張を全面的に認めたものでした。
鏡中条村にしてみれば、確認を求めたのは旧来の契約が有効であるか否か、また水利土功会の太政官布告の解釈であり、費用負担の請求ははその手段に過ぎなかったともいえます。しかし、判決の骨子となったのは費用請求の方法の不備であり、その判断は鏡中条村にとっては、その枝葉のみを見たものと言わざるを得ませんでした。
現在の感覚から言えば、鏡中条村にさらに支出に関する証拠類を提出させるなど、もう少し検証が加えられてもよいとも思うのですが、記録類を見る限り、判決は鏡中条村が当初に提出した証拠のみに基づいて審理されたようです。
この後、鏡中条村は当然控訴することとなりますが、しかし、契約の有効性を争うことに注力し、請求金額を証明する証拠を提出しなかったため、結果的に「不備ノ訴状」となったことは控訴審に向けての反省材料となりました。
審議の場は、東京控訴院(現在の東京高等裁判所)へ移ります。(つづく)
※1 明治17年太政官第14号布告「区町村会法」。その第十四條に「府知事縣令ハ水利土功ニ關スル事項ニシテ區町村會若クハ聯合區町村會ニ於テ評決スルヲ得サルモノアルトキ特ニ其區域ヲ定メテ水利土功會ヲ開設スルコトヲ得」とある。水利や土木構築物は地方の管理であることを定め、その利害が広域に及ぶ場合は「水利功会」を開設して管理することを定めたもの。
【南アルプス市教育委員会文化財課】