現在ふるさと文化伝承館で開催されている博物館登録記念テーマ展「藍と木綿が奏でるにしごおりの暮らし」の内容に合わせて、前号では木綿についてご紹介しました。
特に南アルプス市の木綿は、「甲斐国志」に「西郡綿」や「奈胡の白布」といった江戸時代に山梨を代表するブランドであったことが記されていることなどもお伝えしましたが、現在ではなかなか知られていないことですよね。明治時代に木綿の中でも特に良い種子の供給地として有名だったのが鮎沢や江原で、「鮎沢種」、「江原種」と呼ばれていたようです(櫛形町誌)。
これらのように、古い地誌類を紐解くと、現在の私たちが知らないかつての南アルプス市の名産品がみえてきます。中には今の姿からはイメージできないものもあります。昨今の地域おこしやまちづくりでは地域の個性が求められており、オリジナリティある名産品や特産品を作ろうとする取り組みも活発ですが、かつての産業や名産品を知っておくのも面白いと思います。南アルプス市域はその過酷な自然環境を乗り越えるために、その地域性を活かし、創意工夫を凝らして新たなことに挑戦しながら命を繋いできたのです。
今回は江戸時代の終り頃(1814年)に完成した「甲斐国志」の「産物・製造部」の記述から、当時知られていた南アルプス市域の名産や特産、商品について拾い出してみした。そして、西郡・原七郷を象徴する商品としての「七種の商物」、更にはそこに含まれる「塩」について紐解いてみたいと思います。
市之瀬川沿いの芍薬が好品
「甲斐国志」の「産物・製造部」(以下国志という)に、最初に西郡の産物が登場するのは、薬草の項目で、木賊(とくさ)や芍薬(しゃくやく)の名が見えます。芍薬は「立てば芍薬座ればボタン歩く姿は百合の花」とうたわれるほどその姿の美しさで知られていますが、同時に生薬としても知られています。
国志には、
「・・・西郡一ノ瀬川ノ辺ニ野生スル者根色黄ニシテ好品トスベシ」
とあり、市之瀬川沿いに野生する芍薬が良品として知られていたようです。
ほかにも、神山伝嗣院の「糸桜」や曲輪田村・江原村の「竹」、また、湯沢村の山渓にかつてあったとされる「温泉」や築山村の「白堊(シラツチ・家の壁を塗る土で石灰に劣らなかったという)」、落合村・湯沢村の「藺(イグサ)」等も挙げられています。特に湯沢の藺で編まれた御座(ゴザ)は「湯沢御座」と呼ばれていたようです。これらは甲斐の国を代表するものとして紹介されていますが、現在では知られていないものばかりですね。
江戸から明治にかけては木綿とともに煙草
たばこは江戸時代はもっぱら竜王産が有名ですが、江戸の終わりごろから明治期にかけては西郡がたばこ栽培および製造の中心となります。国志には下記のような記述があり、すでに国志の編纂された1800年台初頭には文化年間にも西郡のたばこが広く知られていたことが分かります。
「西郡原七郷ノ産多シ大抵龍王ニ気味相類スルヲ以テ別ニ名ヲ得ル事ナシ 飯野新田村・在家塚村等勝レタリト云フ 近頃飯野ニ 二ノ水道・市川ニ上原ナド称スレドモ其ノ名広カラズ」
飯野新田村や在家塚村で盛んであったようですが、文面からはまだそこまで確立できていなかった様子が伺えます。明治期になると、むしろ豊村地域を中心に県内を代表する一大生産地となり、大正時代に入ってたばこの製造や栽培が禁止されるとともに豊地区のたばこ産業は蚕糸業へと移行していきます。
袋柿って?
冬場の強風の八ヶ岳おろしという、過酷な環境をプラスに転じさせた「枯露柿」生産についてなど、これまでにも紹介したことがありましたが(南アルプス市ふるさとメール:柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~)、国志には西郡の名産として「袋柿」という記述が見えます。
「西郡鮎沢村ノ産物ナリ 松平甲斐守十二月ニ献上セリ又餌袋(エブク)トモ名ク是モ乾柿ニテ核ヲ揉ミ出シ去ル故ニ袋ト云フ白霜生ジテ甘美ナリ 同郡原七郷ニ七種ノ商物ノ内ニ醂柿ト云フアリ渋柿ヲ灰汁ニ浸シ一夜ニシテ味甘くナル荒目ノ円キ籠ニ入レ担シテ発売ス此辺ニテハ畠ノ畔ニモ多ク・・・」
鮎沢村が有名で、エブクという種類のカキを干し柿にしており、中の種子(核)を取り出すことから「袋柿」と呼んだそうです。また、ここで、原七郷の「七種の商物」という表現が出てきます。
【写真】中野のカキ(県指定天然記念物)
天然記念物に指定されるカキの木は少なく、中野のカキは大樹で知られる。このカキの種はエブクで、秋には小さな実を沢山つける
原七郷の「七種の商物」
御勅使川扇状地の扇央部に立地し、「お月夜でも焼ける」とうたわれた常襲干ばつ地域の「原七郷(上八田、西野、在家塚、上今井、吉田(十五所・沢登が後に分村)、桃園、小笠原)。そのような原七郷を支えた七種の商物(作物)についてみていきましょう。
国志にはこの七種の商物についてわざわざ項目が設定されていますから、甲斐を代表する特別な事例だったと考えられます。
「原七郷二七種の商物ト云フハ醂柿前二委ス・葱苗・蘿蔔(ダイコン)・胡蘿蔔(ニンジン)・牛蒡・夏大豆・塩ノ背負売是レナリ七郷ハ在家塚・小笠原・吉田・上今井・桃園・上八田、西野、以上七村水利乏シキ処ニテ居民自リ古商買ヲ兼ヌ 七種ノ土産ヲ販グ事旧規二依ルト云フ
〇牛蒡 窪八幡ノ切差村宜し近比東奈胡村ニ植ルハ三年牛房ト云フ 薹ニタツコトナク長四五尺ニシテ軟ニ美ナリ〇乾瓢 東奈胡村ニテ多ク作ル」
ここにある7種とはつまり
〇渋を抜いた柿〇葱〇ダイコン〇ニンジン〇ゴボウ〇夏豆(大豆)〇塩
ということになります。これらが水に乏しかった原七郷の民が命をつなぐために古くから商いとしていた産物というのです。
また、ゴボウや干瓢は東南湖が名産地であったようです。東南湖には今でも「牛蒡屋」の屋号で知られる家があったり、また干瓢づくりの古い道具なども伝わっています(ふるさと文化伝承館のリニューアルオープン時のテーマ展で展示しました)。
【表】原七郷地域の村明細帳にみる耕作物等の一覧
七種の商物には次のような伝承もあります。
西野地区にある大城寺にまつわるものです。大城寺の門前には「三恩の碑」という石碑が建てられています。原七郷の民を扇状地ゆえの苦しみから救ったとされる三人の賢人に対しての謝恩の碑でして、そのうちの一人、弘法大師がこの寺院誕生の鍵といわれています。
天長8(831)年八月、大洪水にて数十カ村が流出した際、その様子を確認に訪れた弘法大師は、水田の作れないこの地に七種の商物を栽培して命を繋ぐことを教え、武田信玄が七種の商物を野売りすることを認めたとする伝承があるのです。さらに弘法大師は毘沙門天像を作り、「七種商法免書」を胎内に納めたとされるのです(信玄が納めたとする説もあり)。これらのことについては、あくまでも伝承の域を出ていません。
【写真】大城寺の三恩の碑
【写真】大城寺の毘沙門天像
「塩」といえば西郡
また、天保8年(1837)の「原七郷七種産物書上帳」(櫛形町誌・『白根町誌 資料編』)にある七種の産物は品目が多少違っています。「醂柿、煙草、椚薪、牛蒡、大根、人参、冬葱」とあり、国志にある「夏大豆」と「塩」のかわりに「椚薪」「煙草」が加えられていることがわかります。時代とともに七種の品目は変わるようです。薪や煙草は、当時の村の概要を知ることができる「村明細帳」によく記載されており、代表的な産物と言っても妥当であると考えます。
勿論、国志にある「夏大豆」も同様です。
皆さんが疑問に感じるのは、やはり「塩」ではないでしょうか。こんな山間部で塩が商物とはなかなか考えにくいですよね。
ただし国志には塩の生産ではなく「塩ノ背負売」とあります。そうです、先々号の西郡道のご紹介の際に、富士川舟運による「下げ米、上げ塩」についてご紹介しました。信州や甲斐国内の年貢米が西郡道を通り鰍沢河岸に集められ、舟で清水方面へと運ばれ、一方下った舟の帰りには赤穂の塩や海産物などが甲斐へ持ち込まれ、鰍沢河岸に引き上げられ、馬に積み替えられて巨摩郡各地や信州へ運ばれたのです。そして注目なのが荊沢宿における塩を売り歩く商人の多さでしたね。塩については海岸部の人々との諍いも多くあったようで、富士川舟運を遣わずに紀州の塩を陸路で搬入するなどの工夫も見られますが、やはり基本は富士川ルートでの搬入と考えます。
南アルプス市と塩の関係は長い
先ほどの大城寺の七種の商物の伝承は平安時代の逸話として伝えられており、特に「塩」についてはこの内陸部にその時代から塩なんてとにわかには信じがたい部分もあります。しかし、実はまんざらでもないかもしれません。実は南アルプス市域と「塩」の関係は歴史が深い事が近年の研究で明らかになっているのです。
その歴史を市内に残る古代の遺跡に見つけることができます。
“海がない山梨では塩なんか作っていない”とか“塩なんか溶けてなくなるもの”という思い込みから、かつて山梨の考古学界隈では古代の製塩活動については研究対象としてきませんでした。しかし、2008年、山梨県考古学協会の研究活動により、かつて旧若草町の向第1遺跡で見つかっていた小さな奈良時代の土器のかけらが、海に面した神奈川県や静岡県から塩を入れて運ばれた土器(「製塩土器」といいます)であることが判明したのです。それは山梨県内ではじめての確認事例でした。
これらは粗塩を生産するための煮沸容器ではなく、粗塩を焼きなおして固形塩を製作する為の容器と考えられ、その後、市内の野牛島・西ノ久保遺跡(野牛島)や鋳物師屋遺跡(下市之瀬)などで沢山出土していたことがわかりました。
このような状況から、これら粗塩が詰められた土器は、富士川の河川交通とそれに続く陸上交通路を使って運ばれてきたもので、古代の南アルプス市のあちこちに“塩の集積地”があった可能性が高まっています。これらの地域から県内全域に塩が流通したのではないかと考えられ、まさに南アルプス市は「塩」の玄関口と言えるのです。古代の研究者には、古代の南アルプス市を「海に開けた第二の港湾の地」と表現する方もおり、現在の南アルプス市からはイメージできない姿と言えます。
【写真】向第1遺跡の製塩土器の破片
まとめにかえて
かつての南アルプス市域は、現在ではイメージできないようなものが山梨を代表する特産として知られていたことがわかりました。薬草や土などの自然に由来するものは、この地域にある資源を余すことなく活用していたことの現われであり、また木綿・柿・煙草・干瓢などは、個性的な地形や環境ゆえにそれを乗り越え命を繋ぐための知恵が詰まっているといえます。また、そのようにして生み出され、また採用されたものが特産品として県内を代表していたことからは、この地に生きる人々の力強さを感じ取ることができます。これら困難を乗り越える力強いDNAがこの地域には受け継がれているのではないでしょうか。
また、七種の商物は、現在では当たり前に食べている身近な根菜類であったりします。これらは例えば現在の地域おこしのヒントになるかもしれません。なにせ普通に使う食材ですから、街角で出される料理にも、ことあるごとに「原七郷の命を繋いできた食材を使ってます」と付け加えるだけで、なんだか南アルプス市のストーリーが見えてくる気がします。困難を乗り越えるDNAがありますから、使える資源は使い倒してみても良いのではないでしょうか。
【南アルプス市教育委員会文化財課】