地域の人々の想いがこもる「鏡中条橋」
前回ご紹介した「浅原橋」の上流には、近年(平成22年)片側2車線の高規格道路「新山梨環状道路」を渡す巨大な「釜無川大橋」が架けられ、その陰に隠れがちですが、この北側には地域の人々の思いによって支えられてきた幅員4mの小さな橋、「鏡中条橋」があります。
現在橋の架けられている鏡中条地区と釜無川の対岸とは、『甲斐国志』に「釜無川ニ沿フ渡場アリ、中郡筋ノ山神(やまのかみ)村に渡ル冬春仮橋ヲ架ス」とみえるとおり、江戸時代から近代まで、冬春の渇水期には仮橋で、これ以外の時期はもっぱら渡船によって結ばれていました。
この渡船は、街道筋の公の性格を帯びた渡船ではなく、明和8年(1771)村明細帳に「渡船壱艘 是ハ作場為通用、仕立置申候」とあるように、釜無川の対岸に飛び地を有する鏡中条村の人々が、この対岸の耕地への行き来や、村の中心からこの船着場までの道を通称「甲府街道」というとおり、地域の要請に応えて甲府への往来のために設けた渡船であったようです。
【写真】鏡中条村絵図 釜無川の対岸に飛び地があることがわかります
【写真】甲府街道 この先の土手を越えたあたりに当時渡船の船着場がりました
明治時代以降、釜無川の他の渡場同様、ここへも恒久的な橋を設けようとする動きが高まったようですが、計画はなかなか進まず、架橋はようやく昭和2年(1927)になって実現します。初代の鏡中条橋です。昭和31年(1956)に出された鏡中条橋復旧工事早期着工のための陳情書によれば、その時の資材は、上流の開国橋が鉄筋コンクリートの永久橋に架け替えられた際の、その古材を県から払い下げてもらったものであったといわれ、架橋への苦労が偲ばれます。
その後、度々の出水により流失を繰り返した鏡中条橋は、『若草町誌』によれば、昭和10年(1935)、鏡中条村の坂本高吉が架橋委員長として東奔西走し、近郷近在の有志に呼びかけ、昭和12年(1937)、全長二百数十メートルの2代目鏡中条橋となりました。
この間も度々流失しますが、その都度復旧。市に残される昭和25年(1950)の復旧事業の記録では、少しでも堅固な橋にするために、当初事業に変更が加えられたことなどが分かります。
【写真】公共土木施設災害復旧事業設計変更認可申請(昭和25年)
しかしこのようにして守ってきた橋も、昭和34年(1959)8月、山梨県を直撃、縦断した台風7号により流失。地域住民の手によって速やかに仮橋が復旧されますが、翌9月、今度は15号台風(伊勢湾台風)により、これも流されて両岸の交通は完全に途絶してしまいます。そこで、この復旧工事として昭和35年(1960)に完成したのが3代目の鏡中条橋です。
なお、この頃すでに鏡中条村は合併により若草村になっていましたが、市にはこの3代目の鏡中条橋完成の際に、当時の県議会議員・神澤浄氏(竜王町長、衆議院議員などを歴任)が若草村長宛に発した祝電が残されています。まだ電報が通信手段として生きていた時代、まさに祝意を表す「電報」の形であり、慶弔時に特化した現在の電報と比較してみると時代の移り変わりを感じさせます。
さて、その3代目の鏡中条橋は完成5年目の昭和40年(1965)、台風24号により早くも流失。これを契機に同42年(1967)、延長465m、幅員4mの規模で完成したのが、現在の4代目鏡中条橋です。4代目にしてようやく木橋ではなく、鉄筋コンクリートの橋脚と鉄骨による永久橋となりました。
このように地域に密着した橋として、地域で支えてきた鏡中条橋。現在の橋は今年で架橋45年。まだまだ人々の暮らしを支える重要な橋として朝に夕に往来する人々をみつめています。
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南アルプス市ふるさとメールの「連載 いま南アルプスが面白い」のコーナーも、おかげさまで今回が100回目の配信となりました。そんな折、先月のこのコーナーを読まれた方から、県外にいて遠く離れたふるさとを懐かしく思い出しながら読んでいるという内容のメールをいただきました。このような反応をいただくと、書いている私たちもとても励みになります。これからも私たちと皆様をつなぐ「架け橋」として、このコーナーでふるさと南アルプス市の素晴らしさを皆様にお届けしていきたいと思います。
【南アルプス市教育委員会文化財課】