今回もさらに『浅原村引移一件』を読み解きます。
近世初頭、釜無川の水害に翻弄されていく度も集落が移転し、ついには釜無川の対岸、西花輪村の「西河原」への仮住まいを余儀なくされた浅原村。
しかし、この“仮住まい”はその後も長く続き、西花輪への仮住まいから60年後の元禄15(1702)年に描かれた甲斐国の絵図でも浅原村は釜川の対岸、東側に位置しています。
【写真】甲斐国絵図元禄15(1702)年
※山梨県史資料編8近世1付図(財)柳沢文庫蔵
このように、長く釜無川東岸に仮住まいを余儀なくされた浅原村ですが、18世紀、宝永のころになるとようやく転機が訪れます。
竜王に信玄堤が構築されて以降、江戸時代になっても、釜無川の河道を整理する動きは連綿と続き、釜無川は正徳~享保(1711~1736)年間になってようやく、ほぼ現在の河道に定まったといわれています。釜無川の河道の整理が進んでくる中、釜無川西岸地域が安定してきたのでしょうか、『引移一件』によれば、浅原村では、釜無川の西岸、「中河原」というところに新たに耕地が開拓され、宝永元(1704)年に新田検地が行われます。しかし、川の流れが変わったためか、今度は逆に、浅原村が西花輪村に仮住まいしていたあたりに水害が頻発するようになってしまったようです。
そこで、浅原村は、寛政3(1791)年、代官所に願い出て、新たに拓かれた釜無川西岸の「中河原」の地に移転し、ここに村をつくり、実に150年近くに及んだ浅原村の対岸への仮住まいに終止符が打たれることとなりました。18世紀末に至りようやく近世浅原村の基盤は築かれ、現在の集落もこの「中河原」を中心にひろがっています。
しかし、浅原村が水害から完全に解放されることはなく、享和2(1802)年には幕府により浅原村の北端に「避水台(ひすいだい)」が造られています。避水台は水害時の村人の避難場所で、その後も村の苦難が続いたことを物語っています。避水台では現在も、浅原地区の人々により毎年水防祈願祭が行なわれています。
また、このような村の歴史を物語るかのように、浅原の人々のお寺、蓮性寺(れんしょうじ)は今でも川向こうの中央市西花輪にあります。
現在は、砂防技術や治水技術の発達により釜無川が決壊するような大災害の起こる確率は、非常に低くなっています。しかしながら、その確率がゼロになることはありません。10月に入り、台風シーズンも終盤を迎えていますが、『浅原村引移一件』が物語るように、つい最近まで、水害に腐心した時代があったことを思い出し、日ごろの防災意識を高めていきたいものです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】