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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?

はじめに

 先月に引き続き甲斐源氏の話題をと考えておりましたが、例の大河ドラマでは先月以来甲斐源氏がほとんど登場していないため、来月までこの話題は取っておこうと思います。その代わりに、南アルプス市の縄文文化についてのちょっとしたニュースがありましたので、その話題から始めてみましょう。
 昨年実施された「全国縄文ドキドキ総選挙2021」にて見事優勝した、南アルプス市鋳物師屋遺跡から出土した「人体文様付有孔鍔付土器」(長いですよね!!)の愛称が決定したというものです。
 多くの来館者による応募の中から、最終的に決定したのは、、、
「ぴ~す(ピース)」
 3本指の手がピースサインのように見えますし、ラヴィとコンビで「ラヴィ&ぴーす」としてますます南アルプス市の縄文文化を広められたらと考えています。「ラヴィ&ぴ~す」、まさに今の世の中に必要な言葉かもしれませんね。

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【写真】ぴ~す

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【写真】愛称決定記念 写メスポットパネル
伝承館では1階にこのパネルを設置し、皆さん記念写真を撮っていただいています

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【写真】縄文展示室の子宝の女神ラヴィ

 ちなみに、これらはいずれも縄文時代中期中頃といって、今から約5000年前のものです。しかし、そのつくりを観察することで実はラヴィの方が少し古く、ぴ~すの方が少し後に作られたものであることがわかっています。
 一概に「縄文時代」と言っても1万数千年続いていますから、その中でも紆余曲折があったことでしょう。南アルプス市の縄文人たちはいつぐらいに市内のどのあたりに暮らしていたのでしょう?ずっと同じところに暮らしていたのでしょうか?今回は、そんな話題について、紐解いてみたいと思います。

 

縄文遺跡の分布と変遷

 南アルプス市内の縄文遺跡は、主に、①櫛形山の東麓に位置する市之瀬台地の周辺地域と、②扇状地上の上八田や徳永地域の、大きく2つの地域に分布しています(図1の赤で囲んだ範囲)。両地域の間にはちょうど御勅使川の旧流路が流れていたため、流路をさけて占地していたように見えます。とはいっても、上八田や徳永地域に登場するのは縄文時代後期初頭のみで、それ以外は縄文時代早期から後期までを通して市之瀬台地周辺に集中しており、その後空白の期間を挟んで晩期から弥生時代にかけて、扇状地などの低地部に分散していく様子がわかっています。
 ラヴィやぴ~すが出土した「市之瀬台地」周辺には特に縄文遺跡が集中していますので、このエリアを中心に時代を追いながらみていきたいと思います。遺跡の概要は過去の記事やホームページ「文化財Mなび」も参考にしてください。

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【図1】市内縄文遺跡分布図

 

市之瀬台地と縄文遺跡

 市之瀬台地は櫛形山の東麓、標高520m~400m程を測り、あやめが丘などの台地の先端部では約100mの比高差をもつ崖線が形成されています。また、山から流れ落ちる多くの河川が台地を開析しているので、西から東に向かって伸びる細長い舌状台地が南北に並んだ集合体とも言えます(図2・図3)。

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【図2】市之瀬台地周辺の地形と遺跡の立地
 
 まさにこの市之瀬台地の周辺地域から南アルプス市の歴史は始まったと言え、旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡もその台地の上面、縁辺部(斜面部)、台地直下の扇状地に分布がみとめられます。そのうち発掘調査が行われ、部分的にせよ集落の存在がみとめられたのは全てで12遺跡となります。
 それらの立地や住居の数などをまとめたのが表1で、図と見比べると、時代を追ってその移り変わりをご覧いただくことができます。

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【図3】市之瀬台地周辺の発掘調査が行われた遺跡分布と変遷イメージ


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【表1】縄文時代中期を中心とした、集落遺跡の変遷表
草創期と晩期を省略し、立地する地形ごとに区分して表示しています。「中期」を細分する「狢沢」「新道」などは土器形式名で、土器の文様の特徴などで時期差が判別できます
 
 先にこの表や図の見方を説明します。発掘調査は、工事などによって遺跡が壊れてしまう部分だけを行いますので、調査されたのはあくまでも遺跡のごく一部といえ、発見された住居の数などは遺跡全体で考えるともっと多くなることが予想されます。集落全体が把握されたのは鋳物師屋遺跡だけといえます。厳密にいうとこの集落は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡と川上道下遺跡にまたがっていて、総称して鋳物師屋遺跡と呼んでいます。
 図3は遺跡の中でも発掘調査の行われた調査区の範囲だけを示しています。大きめの画像にしましたのでアップにしてご覧いただけると細かい位置がわかると思います。
 時代の区分も、中期という時代は発見された建物の数も多いので細かく分類できていますが、ほかの時代はそこまで細分できていませんので、表の一マスが同じ「時間」を表しているわけではありません。

 

市之瀬台地から始まる

 南アルプス市では縄文時代早期の土器は市之瀬台地上の様々な遺跡で出土していますが、建物跡などは見つかっていません。転々と移動しながら暮らしていた可能性もあります。ムラ(集落)として確認できるのは今から7000年近く前の、縄文時代前期前半の頃といえます。住居がまとまって検出されたり、お墓やその他施設などが揃うなど、一定の期間暮らしが継続した痕跡が見つかって初めてムラと言えるのですが、中畑遺跡からは12軒の建物跡が発見されていますので、現在のところ南アルプス市での最古のムラ跡と言えます。ここは市之瀬台地の上、ほたるみ館の北にある西地区多目的広場のグラウンド部分で、7000年前の集落はさらに北の方へと広がっているものと考えられます(図3の緑の位置。ムラ跡全体を掘ることができれば、実際にはもっと軒数は多くなるものと思います)。

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【写真】中畑遺跡周辺の航空写真
 
 ここでは個別の遺跡の調査内容については省略しますが、中畑遺跡の次にまとまって縄文時代の建物跡が検出されたのは中期初頭といえ、中畑遺跡に隣接する長田口遺跡や新居田A遺跡にまたがる範囲です。長田口遺跡はほたるみ館やその北側の広場の駐車場部分、広域農道付近を指し、新居田A遺跡はそこからあやめが丘へ伸びる農道になりますので、遺跡名は違いますがこれらは同じムラ跡と考えられます。遺跡名は小字名から名づけるので、全く違う遺跡のように感じてしまいますが、実は当時は同じ「ムラ」であるということはよくあります。
 その後この地域でも細々と暮らしは継続していたようですが、大規模なムラではなくなるようです。では縄文人たちはどこへ移動したのでしょう。現在のところ、発掘調査でわかっている遺跡の内容からは主に二方向への移動の様子が伺えます。一方は、同じ台地上を上野、中野と移動しながら南下してゆき、中期の終わりごろに再び中畑遺跡や長田口遺跡周辺へ戻ってきます。
 もう一方は台地下の扇状地へ移動したように見えます。ちょうど、長田口遺跡などの集落が全盛を終えるあたりから、入れ替わるように扇状地に立地する鋳物師屋遺跡が全盛を迎えてゆきます。鋳物師屋遺跡の「ラヴィ」はちょうど「新道式」と「藤内式」の狭間あたりの土偶といえ、また「ぴ~す」は藤内式の土器といえますので、鋳物師屋遺跡の全盛期に作られたものであることがわかります。鋳物師屋遺跡はまとまった数の建物跡が検出され、またラヴィやぴ~すに代表される特殊なマジカルなモノを多く持った、拠点的な集落であったことがわかります。藤内式期を最後にその後はほとんど生活の痕跡がみられなくなります。建物跡に土砂が厚く堆積する例があることから、土石流などの影響でムラごと移動したのではないかと考えられています。

 

扇状地の縄文人

 では、鋳物師屋の縄文人たちはどこへ移動したのでしょうか。発掘調査の結果からヒントが見えてきます。藤内式期以降、拠点的な集落として「曽根遺跡」や「北原C遺跡」が隆盛を誇ります。いずれも鋳物師屋遺跡と同じ台地下の扇状地に立地しているのです。特に、北原C遺跡は多くの土偶や動物を象った土器など、特殊なマジカルなモノを多く持っていることが特徴的で、まるで鋳物師屋遺跡の性格を引き継いでいるかのように思えるのです。
 あくまでも想像の世界ですので、集落ごと引っ越してきたかどうかは判定できませんが、ただ、特殊なマジカルなモノを多くもった大規模な集落が台地下に展開しているという点は注目に値すると考えています。
 これまでにも何度か紹介してきましたが、縄文人たちは豊かな感性とそれを形にすることができる豊かな技術を持ち合わせています。しかし、マジカルなモノが発達するということは、祈りや願いを強く持たなければならなかったということの証しといえ、そういった現象が台地下の扇状地域に偏重しているということに何かしらの意味があるのだと考えます。土石流をおそれていたのでしょうか?「自然」に対して畏れ、祈り、感謝しながら暮らしてきた様子が垣間見られます。

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【写真】北原C遺跡の航空写真

 

その後はさらに謎

 縄文時代中期終末以降さらに謎が深まります。台地の上では広く分布がみとめられていたのに、その後の後期初頭になると、占地の様子がガラッと変わります。例えば台地上の長田口遺跡や中畑遺跡周辺(ほたるみ館周辺)では、より川や谷に近い位置に寄ってきて、さらに晩期になると新居田B遺跡を含め、完全に川沿いのエリアだけに遺構がみとめられるようになります。
 また、台地縁辺部の斜面のきつい横道遺跡や、御勅使川の旧流路を挟んだ扇状地上の上八田や徳永地域周辺に突如(?)現れるのです。その後、後期の中頃から晩期初頭までは完全に謎で、市内に集落の存在は確認できていません。次に縄文人の痕跡に出会えるのは縄文時代の最終段階、晩期終末なのです。市之瀬台地の下の天神社遺跡をはじめ、市内各地の扇状地上に晩期縄文人たちの痕跡がみとめられるのです。

 

おわりに

 南アルプス市縄文人たちの謎は深まるばかりですが、現在発掘調査が行われた遺跡から見えるムラの移り変わりの概要は以上となります。現在も市内の各地で、工事に伴って消滅してしまう遺跡の発掘調査が行われていますので、いずれまた、新たな調査成果を踏まえて紹介できればと願っています。最後になりますが、ここでご紹介した遺跡の出土資料は「ふるさと文化伝承館」で展示されていますので、ぜひ本物をご覧いただければと思います。

※各遺跡の概要はホームページ「文化財Mなび」や過去の記事をご覧ください。
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (lekumo.biz)
2.眺望の魅力 市之瀬台地 | 文化財Mなび (route11.jp)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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