真っ白な吐く息がふっと暗闇に吸い込まれていく大晦日の夜。遠くから静かに響く鐘の音が聞こえてきます。もうすぐ新しい年が始まります。
八田山長谷寺(榎原)
寺院の銅鐘は江戸時代に普及し、法要の際には鐘の音が響き、後に時を告げる役割も果たします。一般的に江戸時代のイメージがある除夜の鐘の慣習は比較的新しく、普及するのは近代以降とする研究があります(浦井祥子 2006「江戸の除夜の鐘について」『江戸町人の研究 第六巻』西山松之助編)。それぞれの時代、地域、宗派によって「鬼門を封じる」や「身を清める」、「煩悩を消す」などさまざまな解釈がなされ、人々の祈りが込められてきました。昭和に入るまでに長い時をかけて、鐘の音は地域の風景に溶け込んでいったのでしょう。
しかし、昭和に入ると満州事変を機に日中戦争が始まり、日本の社会全体が戦争を支える体制に組み込まれていきます。戦争下の物資不足を背景に、昭和16年全国に「金属回収令」が出され、門柱や鍋釜などとともに寺院や教会の鐘も供出されました。市内の旧藤田村に残された『昭和十六年度金属特別回収関係簿』には、村長を本部長とし、村の主要な人を総動員して金属回収本部が組織され、9月29日に鉄類約6トン、銅類約0.4トンが回収されたことが記録されています。さらに同年11月には「民間金属類特別回収」が求められ、「鉄と銅特別回収早わかり、鉄と銅捧げて破れ包囲陣、鉄と銅をお国へ捧げませう」という3種類のパンフレットとともに、回収が徹底されたことがわかります(『若草町誌』)。こうした回収は日本全国で行われ、市内だけでなく日本国中ほとんどの寺院の鐘が差し出され、それぞれの地域の「音の原風景」が失われていきました。
長谷寺の平和の鐘
南アルプス市榎原に立地する八田山長谷寺は、本尊が平安時代一木造りの十一面観音立像で、雨降りの霊験があらたかと言われ、「原七郷の守り観音」として広く信仰されていました。長谷寺でも太平洋戦争中の昭和17年に享保6年(1721)作の鐘を供出したため、鐘が失われたまま終戦を迎えます。戦後物資が不足する中、中島弘智住職は戦争で亡くなった人々を弔い、これからの恒久的な平和を願って、新たな鐘の鋳造を決意します。昭和28年4月から網代傘に黒衣を着て、錫杖を手に浄財を集める托鉢を始めました。娘の小暮君易さんは、雪の日も、藁草履を履いて托鉢に歩いた父親の姿をよく覚えているそうです。
昭和19年長谷寺
長谷寺 中島弘智住職(昭和28年ごろ)
平和の鐘の思い出を語る小暮君易さん「昔から音が良くなると言われててね、喜捨してくれた古いお金や真鍮を鐘に溶かし込んであるんですよ。」
旧11ヶ村5千5百戸をほぼ1年かけて歩き、地域の人々の思いも重なって多くの浄財が集まりました。その資金を基に新たに鋳造された鐘が「平和の鐘」です。題字は、戦前軍縮を進めたことで著名な軍人であり政治家でもあった宇垣一成(うがきかずしげ)に依頼し、君易さんがその書を受け取りに東京まで足を運んだそうです。鋳造所は甲府市の飯室鉄工場、鋳物師は飯室紋吉と藤原政継の名が見えます。梵鐘には奉納者の名前が次のように刻まれ、信仰の広さがうかがえます。
昭和29年3月、平和の鐘は完成し、甲府の鉄工所から牛が引く荷車に乗せられ運ばれました。その時あまりに重くて信玄橋で牛がしゃがみこんでしまった様子を、檀家の杉山庄平さんはよく覚えているそうです。同年3月18日の「お観音さん」と呼ばれる春祭りにお披露目され、平和の鐘の音を響かせました。梵鐘の内側には、西郡の集落ごとに、戦没者951名の名前が刻まれました。残念ながら、その後平和の鐘はヒビが入り、現在は本堂西側に安置されていますが、新たに鋳造された梵鐘が今でも時を告げています。
長谷寺平和の鐘
長谷寺檀家顧問 杉山庄平さん
平和の鐘内側に刻まれた戦没者の氏名
鐘に託された人々の思い
戦後、物資が不足する中、市内の各寺院で、人々の心の拠り所でもある銅鐘が求められました。現在市内に響く多くの梵鐘は、戦後地域の人々の願いによって再生された鐘なのです。
飯野常楽寺で造られた新しい梵鐘。昭和45年鐘楼が改築され、昭和50年に長年の悲願だった新たな鐘が造られた。鐘を撞くのは坡場顧贒住職
12月31日の大晦日。今年も除夜の鐘が市内に響きます。夕暮れに舞い降りた青が黒に変わり、静寂の中に響く鐘の音の風景。さまざまな願いを乗せた鐘の音に耳をすませてみてはいかがでしょうか。その鐘の音は、きっと聴いた人のためにも鳴っているのです。
一年間ふるさとメール「連載、今、南アルプス市が面白い」をご覧いただきありがとうございました。来るべき新しい年が皆様にとって佳き年となりますように。
【南アルプス市教育委員会文化財課】