旧川上村で藍玉商を営んだ浅野長右衛門が残した明治31~32年の『荷物出入帳』。そこに記録された「大井村 井上豊松」は幕末から現代まで7代にわたり伝統的な手染めを継承している井上染物店の3代目当主です。今回は紺屋の井上豊松と藍屋の淺野長右衛門との関係から、藍染めの歴史をたどります。
井上家の伝承では、幕末に初代品兵衛が旧宮沢村で藍染めを始め、いつごろからか現在の古市場に店を移したと言われています。それを裏付けるように、浅野家に残る藍玉販売の記録、「明治16年金銭出入帳」8月29日には「宮澤村 井上豊松」の名前が見えます(写真1・2)。前回ご紹介した明治31~32年の『荷物出入帳』と『藍玉精藍売揚清算簿』では大井村あるいは「古市場 井上豊松」となっているので、明治16年から明治31年までの間に宮沢村から現在の古市場(旧大井村)へ移転したことがわかります。宮沢村は釜無川の度重なる水害のため、明治33年から同42年にかけて全戸が現在地に移転していますが、井上家はそれに先行して古市場へ移っていたことになります(写真3)。
藍染めから始まった井上家では、2代目文佐衛門(1832~1896)が「武者のぼり」(写真4)と「鯉のぼり」を取り入れたと伝えられています。武者のぼりと鯉のぼりの青には、近年まで岩絵の具とともに「干し藍」が用いられ、藍染めの技術が応用されてきました。
ここで浅野家の明治32年の『荷物出入帳』で井上豊松への売買記録を抜き出してみると、次のようになります。
【明治32年】
1月7日 マドラス 精藍 5斤
1月10日 マドラス 精藍 5斤
1月14日 カルメ 精藍 5斤
製灰 4本
1月21日 手製藍玉4俵
1月26日 製灰 15本
マドラス 精藍 7斤
2月4日 精藍 6俵
2月9日 マドラス 精藍 4斤
2月16日 マドラス 精藍 4斤
3月13日 製灰 12本
3月17日 藍玉 2俵
3月18日 藍玉 2俵
3月19日 藍玉 1俵
3月21日 製灰 24本
3月25日 藍玉 3俵
3月26日 マドラス 精藍 8斤
製灰 1箱47本
4月13日 マドラス 精藍 10斤
4月16日 カルカッタ 精藍 5斤
3月30日~4月13日 藍玉 11俵
9月1日 マドラス 精藍 8斤
藍玉 6俵
9月7日 マドラス 精藍 10斤
この記録から、明治32年当時、井上染物店では伝統的な藍玉とともに、インド産の精製された藍を仕入れていたこと、インドでもマドラス(現チェンナイ)産が多く、少ないながらカルカッタ産も使われていたことなどがわかります(写真5)。藍玉とインド精藍は、藍建て染めと鯉のぼりなどの染付いずれにも利用できますが、近年まで武者のぼりや鯉のぼりには「干し藍」が使われていたことから、藍甕を使って衣類などを染める通常の藍建て染めが藍玉、武者のぼりや鯉のぼりのような刷毛を使った染付にはインド精藍というように用途が分けられていたのかもしれません。
井上家での藍甕を使った藍建て染めは、昭和に古市場の店舗が改築された時に土中に埋められていた藍甕が取り外され、その歴史に幕を閉じます。しかし、現在井上染物店の玄関先では古い藍甕が一つ、大切に残されています。その中を覗くと、白から淡い青色の「藍白」、「甕覗き」、「浅葱色」へと変化し、さらにより青みが強い「縹(はなだ)色」、「露草色」、「藍色」へと色が深まる藍の結晶を見ることができます。藍色のグラデーションには長右衛門の藍玉とインドから輸入された藍をめぐる藍染めの歴史が映し出されているようです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】