大きな大きな橋のたもとの小さな小さな橋
釜無川大橋と御崎蔵入(みさきくらいり)遺跡
釜無川大橋は、釜無川に架かる橋としては現在のところ最も新しい橋で、平成13年(2001)開通しました。橋は甲府盆地を環状に結ぶ予定の「新山梨環状道路」を構成する道路のうち、すでに開通した南部区間にあって、南アルプス市と対岸の中央市とをつないでいます(県道12号 韮崎南アルプス中央線)。
全4車線で橋幅約22m、その橋長も480mと、その名のとおり釜無川に架かる橋としては現在のところ最大の橋です。
【写真】釜無川大橋の橋名板
現在の橋にはすでに橋名や完工年が刻まれた親柱はありません。
ところで、この巨大な橋のたもとで行なわれた発掘調査で、むかし南アルプス市に暮らしたの人々が苦労してつくった小さな小さな「橋」が発見されました。今回はそれを紹介したいと思います。
平成11年(1999年)、新山梨環状道路の建設のために失われてしまう埋蔵文化財(遺跡)を記録として残すための発掘調査が行われました。遺跡の名前は「御崎蔵入遺跡」。釜無川西岸の堤防のすぐ脇の水田地帯で、長い間眠っていた「橋」が発見されました。
【写真】遺跡の遠景東から西に向かって撮影しています。
写真のすぐ下が新山梨環状道路の若草ランプ、そのさらに下が釜無川大橋になります。写真の上方は中部横断道の南アルプスICになります。
発見された橋は、道路跡の両側に設けられていた側溝を渡るために架けられていました。木で組んだ構造の橋面に土を載せてならした「土橋」になっています。
【写真】橋(赤く囲んだ部分)は、道の側溝に架けられていました。
幅47㎝、長さ70㎝と、なんとも小さな規模で、調査してみると使われている部材は、専ら建築廃材や木杭(くい)、農具などから転用してきたもので、この橋を造るために製材されたと考えられる構築材は、ほとんど見受けられませんでした。
【写真】発見された橋
上部を除去した後です。構造がよく分かります。
しかし、これがよく観察してみると、とても丁寧に作られていることが分かりました。
調査では、橋の道を挟んで南側が水田であったことが明らかになりましたが、このことからも分かるとおり、周囲は非常に軟弱な地盤です。橋の構造は模式図に示したとおり、そのような地盤でも沈まないように工夫され、非常に苦労して造った跡がうかがえます。
昔の人々が一生懸命苦心している様子が想像でき、なんだか微笑ましい感じがしてきます。
【写真左】発見された橋の構造(GIFアニメ)、【写真右】発見された橋の構造
とても丁寧に苦心して造っていることがわかります。
ところで、この橋はいつ頃造られたものなのでしょう。
橋が発見されたすぐ横からは、同じ時代の水田が発見されています。下がその写真ですが、これをみると、黒々とした水田面が釜無川由来の花崗岩質の砂礫(れき)によって埋められていることがわかります。一方、発見された水田面の下は、いくら掘っても白い砂礫層はみつからないのです。この遺跡からは遠く古墳時代や平安時代の人々の営みの跡(遺構や遺物)も発見されていますが、このことは、昔の“ある時期”を境に突然釜無川の水害が、この地を襲うようになったことを教えてくれます。遺跡は、釜無川の水害によって歴史の表舞台から覆い隠されていたのです。
【写真】発見された水田跡
用水路や当時の人々の足跡もそのまま残っていました。これが白い砂礫によって埋まった様子がよく分かります。
今回の調査では、その時期を示すような遺物が少なく、かならずしも明確にできませんが、数少ない出土遺物から近世以前であることは分かります。また橋の部材のC14(放射性炭素)年代測定からは、構築材の伐採年は16世紀前半頃と推定されており、戦国時代~江戸時代のはじめ頃にこの村が廃絶した可能性を指摘することができます。
突然、釜無川の水害が襲うようになった土層の堆積状況、橋の推定時期。それは竜王に信玄堤が築かれ、その後その下流に堤防が延長されたことにより、それまで東流していた釜無川の流路が変り、南遷したとされる時期と矛盾しません。
その時期、武田時代の天正から近世初頭の慶長期にかけては、遺跡周辺の村々の流失や移転に関する史料、エピソードが数多く残されています。
この遺跡の盛衰は、2008年9月12日配信号に図示したような、信玄堤とその下流に堤防が延長されたことよる南アルプス地域への影響、釜無川の河道整理のダイナミックな歴史を我々に教えてくれているのかもしれません。
最後の写真は橋が発見された地点の現在の様子です。新山梨環状道路の高架と側道によりその面影を確認することはできませんが、発掘調査によって、かつてここに水害に翻弄(ほんろう)されながらも生きた、私たちの先祖のささやかな営みがあったことを知ることができました。
【南アルプス市教育委員会文化財課】