6月も中旬に入り、南アルプス市ではサクランボ収穫の最盛期に入りました。フルーツ王国・南アルプス市の果樹栽培を支える御勅使川扇状地は、昭和40年代にスプリンクラーが設置されるまで、月夜の弱い光でさえ日照りをおこすと言われた極度の乾燥地域でした。今回のふるさとメールから連続して、干ばつの頻発地域であった御勅使川扇状地をテーマに、その成り立ちやそこに生きてきた人々のくらし、祈りをご紹介します。
◆御勅使川扇状地のプロフィール
御勅使川扇状地は現在の市域北部を流れる御勅使川が、芦安地区の山々を削り運んだ土砂で作られた扇形の土地です。南北約10km、東西約7.5kmに広がり、日本でも有数の扇状地として知られています。
扇状地を作り出した御勅使川は、長い歴史の中で何度も流路を変えてきたことがわかっています。例えば旧運転免許センター北側を走る甲斐芦安線は明治31年まで河川として機能し、「前御勅使川」と呼ばれていたことはすでにご紹介しました(2008年01月15日(火)「百々はなんと読む?」)。山梨県埋蔵文化財センターの発掘調査によって、開国橋付近へ向かって流れる平安時代から中世の流路跡も発見されています(御勅使川南流路)。昭和44年に発行された『白根町誌』にはそのさらに南側、桃園や十日市場付近に流れていた流路跡も掲載されています。このように御勅使川が流路を変えながら土砂を堆積(たいせき)させることによって、現在の私たちの暮らす広大な土地が造りだされたのです。
【図】御勅使川扇状地における集落の配置(『白根町誌』) 旧流路が図示されている
◆御勅使川と集落の景観
現在の御勅使川扇状地は、多くの集落が立地する広大な扇状地の北端を一本の御勅使川が流れています。しかし、かつての御勅使川は川幅が広く、扇状地上にいく筋もの流路が網の目状に流れていたと考えられています。川幅の広い地点では600mもあったとか。それを想像すると、広い川と川との間に集落や耕地が営まれている、そんなイメージになるでしょうか。
◆扇状地と集落の形
こうした流路から集落を守るため、ご先祖さまたちは堤防や村の形にも工夫をこらしました。六科地区から上高砂地区では上流に将棋頭を築き集落や耕地全体を囲むように不連続の堤防を配置したり(2008年11月14日(金)堤の原風景 霞堤(かすみてい))、飯野地区のように集落自体を将棋の駒の形にして、川の流れから集落を守っていました。
◆扇状地の土壌
御勅使川が運ぶ土砂には砂礫(れき)が多く含まれているため、透水性が大きく、したがって地下水までの距離は長く、水を得ることが困難な地形となっていました。このため、御勅使川や江戸時代の寛文11年(1671)に開削された徳島堰(せぎ)の水を利用できる一部を除き、多くの村々は水田を営むことができませんでした。扇状地に暮らしてきた人々は、こうした過酷な環境を切り開き、土地の特徴を生かしながら現在の果樹栽培へと暮らしをつないできたのです。
【南アルプス市教育委員会文化財課】