8月15日、日本は65回目の終戦の日を迎えます。
2008年7月15日号に記したとおり、町村誌をひもとけば、アジア・太平洋戦争における南アルプス市の戦死者の数は、1900人を超え、終戦直後には旧豊村(櫛形地区)の満蒙開拓団140名あまりが現地で集団自決するという痛ましい事件もありました。
一方、南アルプス市には甲府のような大規模な空襲はなかったといわれています。しかしまったく被害がなかったわけではありません。犠牲者もでています。今回は、小学校に残された『学校日誌』から、終戦直前に起こった、ひとつの痛ましい事件に迫ってみたいと思います。
学校日誌は、各小学校で、毎日の生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などを克明に記載した記録です。365日絶え間なく地域の記事が記載されることから、今となっては、その地域の歴史を客観的に示す重要な史料となっています。現在学校日誌の多く、特に戦前の記録は廃棄されるなどして、失われてしまっているものが多く見受けられますが、今回はその中から、比較的良好な状態の史料が残る大明小学校(甲西地区=当時大明国民学校)の昭和20年度の日誌に残されたひとつの事件に注目します。
【写真】大明小学校
七月三十日 月曜日 晴
職員欠 中込訓導
児童出 初男三四一 女三三〇 計六七一
空襲 午前六時半ヨリ三回ニ亘リ空襲在リ。午後四時迄テノ空襲ニ於テ、初四【男子A】爆撃ニ依リ破片ノタメ頭部を粉砕セラレ即死ス。其ノ他、初六【男子B】、高二【女子A】死亡ス。学校より即刻見舞ヲナス。県ニ対シ電話及書類ヲ以テ報告ス。
(※個人名は伏せてあります)
これにより、昭和20年7月30日、当時 小学校初等科4年生の男子1名、初等科6六年生男子1名、高等科2年生の女子1名の計3名が米軍艦載機の爆撃のため亡くなったことが分かります。このうち初等科6年男子と高等科2年女子は姉弟です。子どもを一瞬にして奪われたご両親、特に一度に2人の子どもをなくしたご両親の心中は察するに余りあります。終戦はもう2週間前に迫っていました。
この空襲が原因かどうかは分かりませんが、学校日誌によれば、翌日から学校自体の「疎開」が計画されたことが分かります。以下その部分を抜粋して掲載します。
七月三十一日 火曜日 晴
打合会 学童部落疎開ニ関シ学校ニ於テ打合会ヲ開催ス(村長、学校委員、区長参集ス)
八月一日 水曜日 晴
臨時休業 本日より四日間疎開準備ノタメ休業ス
視学員来校 三十日空襲被害調査ノタメ来校ス
八月五日 日曜日 晴
疎開 各分教場ニ校具類等全部運搬終ル
予定通り4日で疎開作業を終了しています。終戦まであと10日のことでした。
なお、学校日誌にみられる8月15日、終戦の日の記載は以下のとおりです。
八月十五日 水曜日 晴
詔書渙発 本日正午、天皇陛下ニハ戦争終結ニ関スル詔書ヲ発セラレタリ。我ガ政府ハ米英ソ中国ノ四ヶ国ニ対シ戦争終結ニ関スル申入レヲナシタリ。
南アルプス市教育委員会には、学校日誌のほかにも、アジア太平洋戦争の記憶をたどるさまざまな遺物や遺品、記録類が保管されています。
これら記録や遺品から、今から60余年前にアジア・太平洋戦争によって亡くなられた方々を偲び、平和への誓いを新たにしたいと思います。
【南アルプス市教育委員会文化財課】