現在の南アルプス市浅原。市の最も西に位置し、釜無川に沿って集落が広がっています。ここの付近は、江戸時代は浅原村と呼ばれていました。
浅原村の歴史は、水害に苦しんだ苦難の歴史でした。釜無川の流れに翻弄(ほんろう)され、多くの苦難を乗り越えて現在の地にあります。今回は、浅原村の苦難を記した古文書『浅原村引移一件』を読み解き、その苦難の歴史と先人の苦労を振り返りたいと思います。
『引移一件』によれば、浅原村は、もともと釜無川の西側の「三ツ境」というところに集落を構えていましたが、水難により天正14(1586)年に「門田」というところに移転し、さらに慶長3(1598)年「宮ノ東」、元和8(1622)年には「青沼」というところに移転を余儀なくされています。いずれの地名も現在は残っていませんが、36年の間に、なんと3回も集落の移転をしなければなりませんでした。
しかし浅原村の苦難はこれでも収まることはありませんでした。その後も村は水害に苦しみ、ついにはその20年後の寛永19(1642)年、釜無川の対岸、東側にある隣村の西花輪村にある「西河原」というところ(現在の中央市西花輪字西河原)への「仮住まい」を余儀なくされてしまいます。寛政3(1791)年以前に描かれたと見られる浅原村の絵図を見ると、村の領域が、釜無川の河道のただ中に広がり、川の東側、西花輪村に村居があったことがわかります。
もともと釜無川と笛吹川の合流点に近く、平坦で低湿な浅原村でしたが、この時期にこれ程の移転を迫られた要因として、釜無川の河道が変わったことが可能性として挙げられます。甲府盆地においては、永禄3(1560)年頃には、竜王の信玄堤が完成していたといわれていますが、これによってそれまで竜王から南東(概ね現在の美術館通りに沿って)に向かって流れていた釜無川の流れが、その後徐々に南に向かうようになってしまったといわれています。
【写真・左】=信玄堤構築前(想定図)
【写真・右】=信玄堤構築後(想定図)
浅原村も竜王の信玄堤構築以降、釜無川の影響を強く受けるようになった可能性が高く、これ以降苦難の時代を迎えることになったのかもしれません。浅原村周辺は、中世は奈古(南湖)庄に比定され、近世にいたっても、釜無川の西側にありながら、西郡筋(にしごおりすじ)ではなく、中郡筋(なかごおりすじ)に属しています。そんなことからも釜無川の流れの変遷をうかがうことができます。
江戸時代に編さんされた地誌『甲斐国志』には、浅原村は「釜無川難に境域広く亘(わた)り古は強邑なりしと見ゆ」と書かれています。奈古(南湖)庄には甲斐源氏奈古十郎義行が拠点を構えたとされ、釜無川の河道が変わる前には、現在では知ることのない、豊かな歴史が育まれていたのかもしれません。
【南アルプス市教育委員会文化財課】