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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

【連載 今、南アルプスが面白い】

流転の村 ~釜無川の流れに翻弄された浅原村~①

 現在の南アルプス市浅原。市の最も西に位置し、釜無川に沿って集落が広がっています。ここの付近は、江戸時代は浅原村と呼ばれていました。
 浅原村の歴史は、水害に苦しんだ苦難の歴史でした。釜無川の流れに翻弄(ほんろう)され、多くの苦難を乗り越えて現在の地にあります。今回は、浅原村の苦難を記した古文書『浅原村引移一件』を読み解き、その苦難の歴史と先人の苦労を振り返りたいと思います。

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【写真・左】=浅原村の位置
【写真・右】=浅原村引移一件

 『引移一件』によれば、浅原村は、もともと釜無川の西側の「三ツ境」というところに集落を構えていましたが、水難により天正14(1586)年に「門田」というところに移転し、さらに慶長3(1598)年「宮ノ東」、元和8(1622)年には「青沼」というところに移転を余儀なくされています。いずれの地名も現在は残っていませんが、36年の間に、なんと3回も集落の移転をしなければなりませんでした。

 しかし浅原村の苦難はこれでも収まることはありませんでした。その後も村は水害に苦しみ、ついにはその20年後の寛永19(1642)年、釜無川の対岸、東側にある隣村の西花輪村にある「西河原」というところ(現在の中央市西花輪字西河原)への「仮住まい」を余儀なくされてしまいます。寛政3(1791)年以前に描かれたと見られる浅原村の絵図を見ると、村の領域が、釜無川の河道のただ中に広がり、川の東側、西花輪村に村居があったことがわかります。

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【写真】浅原村絵図(南アルプス市蔵)

 もともと釜無川と笛吹川の合流点に近く、平坦で低湿な浅原村でしたが、この時期にこれ程の移転を迫られた要因として、釜無川の河道が変わったことが可能性として挙げられます。甲府盆地においては、永禄3(1560)年頃には、竜王の信玄堤が完成していたといわれていますが、これによってそれまで竜王から南東(概ね現在の美術館通りに沿って)に向かって流れていた釜無川の流れが、その後徐々に南に向かうようになってしまったといわれています。

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【写真・左】=信玄堤構築前(想定図)
【写真・右】=信玄堤構築後(想定図)

 浅原村も竜王の信玄堤構築以降、釜無川の影響を強く受けるようになった可能性が高く、これ以降苦難の時代を迎えることになったのかもしれません。浅原村周辺は、中世は奈古(南湖)庄に比定され、近世にいたっても、釜無川の西側にありながら、西郡筋(にしごおりすじ)ではなく、中郡筋(なかごおりすじ)に属しています。そんなことからも釜無川の流れの変遷をうかがうことができます。
 江戸時代に編さんされた地誌『甲斐国志』には、浅原村は「釜無川難に境域広く亘(わた)り古は強邑なりしと見ゆ」と書かれています。奈古(南湖)庄には甲斐源氏奈古十郎義行が拠点を構えたとされ、釜無川の河道が変わる前には、現在では知ることのない、豊かな歴史が育まれていたのかもしれません。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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