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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

月の魅力~満ち欠ける姿に重ねた想い~

 闇夜の中、やさしい光で地上を包む十五夜の月。令和3年は9月21日が中秋の名月です※1。古くから人々は月の満ち欠けにさまざまな想いを重ねてきました。今に続く人と月の関係。今宵は古の人々が月に重ねた想いとともに月の魅力を訪ねてみましょう。

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【写真】南アルプス市中野の棚田から


○時・季節を知る

 明治5年以前、日本の暦には主に月と太陽の動きから考えられた太陰太陽暦が用いられてきました。人々は月の満ち欠けで時を知り、季節を感じ、種まきや収穫などの農作業や祭りの時期を決めていたのです。9月1日有野地区で行われている八朔祭りの「朔」は、月が見えなくなる新月、1日(ついたち)を意味しています。旧暦8月1日に当たるこの日に暴風を避け五穀豊穣を祈る祭りが行われてきました。その舞台となる白根源小学校の校庭の一画には、明治31年に建てられた八朔祭の祭神塔が祀られています。明治29?31年は御勅使川水害が頻発した時期です。刻まれた「風雨得時滋」の文字には暴風雨による洪水に苦しめられてきたこの地の人々の願いが込められています。

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【写真】八朔祭り祭神塔(有野 源小学校敷地内):明治31年有野区民によって建立された。「風雨得時滋」は「風雨時を得てしげる」つまり適度な風雨によってこの地が豊かになるという意味。


○情緒を感じる

 日本で月の美しさや情緒を漢詩や和歌に詠んだのは奈良時代からです。平安時代に入ると月見が貴族の邸宅で行われるようになりました。月見は宴とともに行われ、管弦も奏でられました。平安時代中頃になると月見も和風化し、和歌の歌合などが行われるようになります。こうした月見の文化は時を経て江戸時代、一般庶民にも広まります。江戸時代に確立された俳句でも「月」が重要な題材となり、南アルプス市を代表する俳人も月を題材にした多くの句を残しています。

五味可都里(ごみかつり 1743-1817 江戸時代中期-後期の俳人)
 名月のをしくも照らす深山かな
 土間に居て客ぶりのよき月見哉

五味蟹守(ごみかにもり 可都里の甥 1762?1835) 
 名月やすへて置たき露の雨

辻嵐外(つじらんがい 1770-1845 江戸時代後期の俳人。可都里に師事)
 秋の夜は名月の香のぬけにけり
 粟の穂か山吹かしらず后の月

 五味可都里の俳句仲間、尾張の加藤暁台(きょうたい)が藤田村の可都里を訪ねた際、十五夜の夜まで月を楽しんだ様子が『暁台句集』に記されています(『山梨県史通史編 近世2』第十四章 教育と学問・文芸))。
 
「其夜ごろにもあれば、月をみせばやなどわりなくとどめられ、望の夜もここに遊ぶ。士峰の北面まぢかくひたひにかかるやうなり」(『暁台句集』)

 俳句だけでなく月はその姿から浮世絵や版画、近代以降の絵画などの題材にもなりました。太平洋戦争終戦後、南アルプス市落合に疎開していた妻のもとを訪れ一時滞在した東山魁夷も月の魅力に引き寄せられた一人。「月篁」、「月唱」、「月の出」、「月明」、「月涼し」など月をモチーフにした多くの作品を残しています。

リンク→2016年12月15日 (木) 南アルプス市を訪れた人々(4) 東山魁夷

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【写真】甲斐駒ケ岳と満月

 音楽を聴きながら月を愛で、月の美しさを歌に込める。現代ではクラシックやバラード、ジャズ、ロックなどそれぞれ好きな音楽を聴きながら月を眺め、ツイッターでつぶやいたり写真をインスタグラムにアップする楽しみ方でしょうか。月の美しさに惹かれ言葉や写真に想いを映す。昔も今も変わらない情景です。


○集い・祈り・楽しむ

 日本人は月を神や仏としても信仰してきました。神道では月神のツクヨミ、仏教では薬師如来の脇侍、月光菩薩です。旧暦8月15日の月へのお供え物が史料で確認できるのは室町時代の『年中恒例記』からと言われています※2。

「八月十五日、明月御祝参、於内儀也、茄きこしめさるゝ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之」(『年中恒例記』)

 史料は残されていませんが、より古い時代から収穫を感謝する供物が捧げられていたのでしょう。室町時代のお供え物は、大豆や柿、栗、瓜、茄子など秋の旬の野菜や果物が供えられていたことがわかります。
 江戸時代に入ると、決まった月齢の日に仲間が集まり飲食を共にして月の出を待ち、安産や無病息災、五穀豊穣を祈願する「月待(つきまち)」が市内でも広く行われました。それぞれの月夜には特定の神仏が結びつけられていました。例えば十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、 そして二十六夜は愛染明王。特に二十三夜の勢至菩薩は、あらゆるものを知恵の光を照らして苦を取り払うとされる仏様で、月の化身とも考えられ、人気を博しました。この月待を記念して建てられた「二十三夜塔」などの石塔は市内各地で見ることができます。夜通し仲間で飲食を共にしながら語り合う、月待は当時の人々にとって娯楽でもあったようです。

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【写真左】秋山 熊野神社境内に建てられている二十三夜塔
【写真右】六科 随心院 如意輪観音「寛政四年壬子月朔日 施主 講中」:
二十二夜の如意輪観音は女性の守り仏と考えられ、女性だけの月待講も行われました

 月への信仰の中で、中秋の十五夜と翌月の十三夜は特別の月と考えられました。ちょうど秋の収穫時期でもあり、満ちた月を秋の実りの豊かさに例え、月の神様に秋の収穫を感謝したのです。この日は縁側に団子や里芋、豆類、大根などの野菜、栗、葡萄などの果物などが供えられ、神様の依代(よりしろ)としてススキが飾られました。

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【写真】市内の十五夜飾りとお供え物

 供え物として真っ先に思い浮かぶのは月見団子ですが、供えられ始めたのは江戸時代から。団子より供え物として欠かせなかったのは里芋と豆です。十五夜と十三夜はそれぞれ「芋名月」、「豆名月」とも言われ、芋や豆を中心とした畑作物と月の信仰の深いつながりがうかがえます。特に豆は市内でも縄文時代から栽培されていたことが明らかにされていて、最古の栽培植物の一つです。江戸時代の村明細帳を見てみても、多くの村で栽培されていました。
 こうした十五夜の食の伝統は、南アルプス市の学校給食にも受け継がれています。季節を学ぶ給食として、十五夜と十三夜は里芋や豆、栗といった伝統的な月見のお供え物を活かした献立となっています。昨年は十五夜に「いもこ汁」、翌月の十三夜には「豆乳汁、栗のムース」が出されました。そして今年は、十五夜に「里芋とそぼろのあんかけごはん、お月見大福」、十三夜に「栗五目ごはんとお月見だんご」が予定されています。

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【写真】昨年度(2020)十五夜メニュー:芋名月に掛けていもこ汁が献立となった リンク→(南アルプス市ホームページ(R2年度季節を学ぶ給食です)


○団子突き

 昭和30年代以前、十五夜の夜に子どもたちが縁側に飾ってある団子や供物を釘などを付けた竹竿でそっと突いて盗んでくる「団子突き」という風習がありました。お供え物が盗られるのが許されるだけでなく、縁起がいいいとも考えられました。これは月の神様が持ち帰ったため豊作になると考えられたためです。この日は子どもたちは朝から道具を用意し、作戦会議を開き家々の分担を決め、団子やお供え物を突きに行ったことを多くの方が記憶しています。そんな中、微笑ましいやりとりも行われました。

「中には甘い餡このかわりに塩を入れた塩団子が混じっていることもあり、運悪くそれを食べた子どもは仲間から大笑いされた」(『山梨県史 民俗編』)

 もちろん盗みは禁じられていますが、人々が月の神さまに豊作を約束してもらい、豊かな実りに感謝するための伝統的な風習だったのです。

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【イラスト】月夜と人々の想い


○月のウサギ

 日本では月にウサギが住んでいて、餅つきをしていると言われてきました。これは中国から伝えられた伝説が変化したものです。もともと中国では、嫦娥(じょうが)という女性が仙女の西王母から夫に与えられた不死の薬を盗んだため、月へ送られ蝦蟇(がま:ガマガエル)にされた伝説が漢代以前に伝えられていました。後にウサギと月桂樹が伝説に加わり、漢代(日本では弥生時代)には嫦娥、ガマガエル、ウサギ、月桂樹がセットで月の説話に登場します※3。こうした伝承は日本に伝来した後、ウサギだけが残され、現代でも月の象徴としてお菓子や店の名前などに活かされています。ちなみに中国ではウサギが突いているのは不老不死の薬です。人々は月の満ち欠けに死と再生、不老不死のイメージを重ね合わせたのですね。竹取物語のかぐや姫が月へ帰る時、帝に贈ったのも不死の薬です。かぐやを失って嘆き悲しむ帝はその薬を天に最も近い駿河の山で焼くことを命じました。その山がふじ山と呼ばれることで物語の幕が降ろされます。

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【写真】竹取物語で不死の薬が焼かれたという山


○月を楽しむ

 デルタ株が広がりコロナ禍が続く現在、家族や友人、大勢の仲間が集い飲食しながら月を楽しむことができるのは、もう少し先になりそうです。けれど遠い空の下でも同じ時に月を仰ぎ見れば、その光が人々の想いをつないでくれるはずです。

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【写真】2020年10月1日 十五夜の月 上高砂


※1 旧暦では7月、8月、9月が秋とされ、8月15日の満月が秋の真ん中であることから中秋と呼ばれました。
※2 陳馳 2018「平安時代における八月十五夜の観月の実態 」『歴史文化社会論講座紀要 』京都大学
※3 許曼麗 1994「月の伝説と信仰:詩歌に見るその成立の一側面」藝文研究Vol.65 慶応義塾大学藝文学会

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害 その2

 7月号では明治29年9月に起きた水害の中で、御勅使川と釜無川左岸の被災状況をみてきました。この水害では現在の南アルプス市内域だけで大和川、滝沢川、堰ノ川、秋山川などいくつもの河川でも洪水が発生しています。しかし、これらの河川の被害状況は、主要な記録や各町村誌でも詳しく取り上げられていません。そこで水害後まとめられた公式な結果とは異なる部分もありますが、当時の新聞記事からこれらの河川の水害の実態にせまってみたいと思います。

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【図】明治29 年水害状況図(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

明治29年当時の村の状況:()内の村が合併して成立
源 村(有野村・塩前村・大嵐村・須沢村・駒場村・築山村+曲輪田新田と飯野新田)
榊 村(曲輪田村・上宮地村・高尾村・平岡村)
明穂村(小笠原村・桃園村・山寺村)
落合村(塚原村、湯沢村、秋山村、川上村、落合村)
五明村(荊沢村・大師村・清水村・宮沢村・戸田村)
南湖村(田島村・和泉村・西南湖村・東南湖村・高田新田)

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【図】大正時代山梨県地図(大正10 年『山梨県統計書』より)

 

※以下(山日)は山梨日日新聞、(甲府)は甲府新聞を意味する。

1.諸河川流域の被害状況
1)大和川
 源村内の大和川堤防3箇所150間が決壊しました(山日9月16日)。この大和川とは桃園で合流する堰尻川と考えられ、主に曲輪田新田地区の堤防が決壊したことになります。一方榊村の曲輪田地区から流れる大和川の本流では、粘土が用いられ強固な堤防と考えられていた大和川第一番堤が決壊し、曲輪田に大きな被害が出ました(山日9月18日)。さらに下流の明穂村内では堤防8箇所が決壊、中でも桃園地区では堤防が3箇所決壊しました。対岸の榊村上宮地地区では大和川右岸(新聞では瀧澤川と表記)の堤防が200間決壊し、1町歩の畑が流失、二反歩が浸水し、大きな被害を被りました(山日9月16日)。

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【図】大和川周辺破堤状況

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【写真】現在の大和川(桃園・上宮地)(南から)

 

2)滝沢川(瀧澤川)
 大和川と深沢川が合流した滝沢川は多くの地点で堤防が決壊し、明穂村、大井村、南湖村、五明村に甚大な被害をもたらしました。明穂村小笠原地区では一の堤防が30間決壊し、県道が浸水、床下浸水約100戸に及びました(山日9月16日)。下流の大井村江原地区では9月11日に堤防が40間決壊し30戸が浸水(山日9月17日)、この洪水流は下流の五明村戸田地区を飲み込み、全96戸中92戸が浸水しました(9月20日)。大井村江原地区の対岸、三恵村十日市場地区の堤防も20間決壊し、その水流は南湖村東南湖地区まで押し寄せました。南湖村では滝沢川の堤防が40間、狐川の堤防が60間、さらに滝沢川の別の堤防35間が決壊し、南湖村和泉地区の田畑150町が浸水しました(山日9月16日)。加えて滝沢川と狐川が合流する和泉地区の堤防が破壊され、濁流は南湖村の耕地に集まり、ひとつの大きな湖のようだったと新聞に記されています(山日9月20日)。さらに釜無川の増水によって滞留した洪水流は排水されず、9月8日には釜無川の逆流水が和泉地区に流れこみました(『甲西町誌』)。

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【写真】滝沢川周辺破堤状況

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【写真】現在の滝沢川(小笠原)(東南から)=左写真=、現在の狐川、左は滝沢川(和泉)(北から)

 

3)坪川・秋山川
 9月8日落合村地内で坪川(市之瀬川)が東落合地内にて東側に決壊、濁流が入り込み田はほとんど砂礫に埋まったといいます(『甲西町誌』)。また、9月11日には秋山川と堰野川の樋門上で決壊し、釜無川への排水ができない状況を伝える電報が落合村役場から発せられています(山日9月11日)。このように落合村では坪川や堰野川、秋山川の堤防が決壊し上流から洪水流が流れ下るとともに、いくつもの河川が合流する南端では釜無川へ排水できず、下流から逆流した洪水流によっても被災しています。落合村字芦原では水田25町歩、畑50町歩、家屋10戸が浸水の被害を受けました(山日9月16日)。また、坪川の下流五明村字土尻及び字稗田でもそれぞれ一か所決壊しています(山日9月20日)。

 なお、落合の河川立体交差については、以前の記事をご参照ください。
2009年6月15日 (月) 南アルプス市と天井川 その2 ~河川の立体交差~

 

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【写真】現在の秋山川(秋山)(西から)=左写真=、現在の坪川(落合)(南から)

 
2.水害現場の状況
 これまで見てきた明治29年9月の水害時、人々はどのような行動をとったのか、その状況を新聞記事から追ってみました。

 1)破堤前の水防活動
 堤防の決壊は田畑だけでなく家屋や人々の生活、命までも奪う危険性を伴うもので、村の存亡にもつながる非常事態でした。特に9月上旬は稲刈り目前で、水防の成否が1年間の収穫の有無を決定します。そのため、堤防を守る水防活動には関係する多くの人々が集まりました。特に御勅使川扇状地全体を守っていた石積出を有する源村有野地区の水防には約1600人もの人々が集まったとの記事があります(山日9月17日)。

「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり」(山日日新聞 9月17日)

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【写真】石積出三番(有野)

2007年12月29日 (土) 御勅使川扇状地の生命線 石積出

 

 同時に対岸の龍王でも二番堤破堤の危険から多くの人が堤防の決壊を防ぐ活動を行なっています。

 「釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中 昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり」(山梨日日新聞 9月11日)

 では堤防の決壊を防ぐためにどのような水防活動がおこなわれたのでしょうか。堤防が洪水流によって削られた場所を保護するため、木を伐採し紐で堤防に固定し欠損した場所に流す「木流し」が行われ、また丸太を組み重しとして竹で編んだ籠に石を放り込んだ蛇籠を乗せた「聖牛」が作られました。蛇籠はそれ自体でも堤防の欠けた場所を補強するために使われました。そのほか大量の土俵が作られ、堤体の補強に使われました。驚くのはそれぞれ使われた量です。今諏訪村二番堤の水防では木は数百本、土俵は幾千と見積もられています。さらに明穂村一村だけで伐採された樹木は三千数百本に及んだとの記事もあります。懸命な水防活動が行われましたが、龍王村では二番堤がついに決壊してしまいました。

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【図】木流し

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【写真】復元された聖牛。竹蛇籠が乗せられている

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【写真】昭和57 年台風10 号 芦安での木流し

竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~ 2009年1月 1日 (木)

 

「十二日、釜無の激流は益々烈しく改修堤危険なるより、八幡各村の人民は数百名、出でて水防に従事したり、石を運ぶもの、木を切るもの、之を投ずるもの、之を●をするもの宛然之れ戦勇兵の工兵隊に興たり、夜に入りて各所に燃せし篝火は水に映し、(中略)雨は又たまた降出せり、十一時十二時に至りては、怒々猛烈を加え来り、夜は暗し響は凄まし、(中略)、全力を注いて奔騒せる村民も今は労れ果たり、されども尤も大切なるの際なり、白雨黒雨襟を束ねる如くにして、激流に怒つて改修堤を破れり、「切れたきれた」の聲は凄然として諸人の耳朶に達せり、今迄で働き切つたる人足も此一斗に力を失ひぬ、歎聲を発して茫然たる間に見る見るみずは汎濫暴張して一面の湖水を現せり」(甲府新聞 9月15日)

「聞く明穂村一村にて水防に費消せし金額のみにても五百余円に及び且つ當日激流に投入せん為め伐採したる樹木は三千百餘本に達し之に被害損金を加ふれば實に巨額に至る」(甲府新聞 9月26日)

  豪雨の中、樹木を伐採し、人力で運び、紐で固定して濁流の中へ流す。竹の籠を編み石を運んで投げ入れる。大量の土を運び土俵を作り、堤防を補強する。また記事には現れませんが、数日間に及ぶ水防活動では大量の食料も必要となるため、女性を中心とした炊き出し、必要な物資の搬入作業も行われていたのでしょう。ここで水害後甲府新聞記者が現地を歩き取材した今諏訪村の鬼気迫る水防活動の様子を参照してみます。

 「二番堤に至る、大木は幾百株となく伐採して河邊に投じ、土俵は幾千となく羅列しあり、而して向邊直下釜無の溢流滔々として至り一大河を現し急瀧弄騰、出水當時の状を追思せしむ(中略)聞く當時田之岡村改修堤の危急を告ぐるや、今諏訪を初め鏡中條等村民は総出にて必死を極めて水防に従事し大木を運び土俵を作る 在らゆる手段を盡したるも遂に其効なく見る見る中に怒濤は堤防を決壊して浸水し来るより数百千の村民はソレと云ひ様取つて返にしニ番堤に於いて之を喰ひ止めんものと再び玄に群集し労れし身体をも厭わず必死となつて盡瘁せり、猛雨は尚ほ烈しく雷鳴さえ加わりて怒れる濤は突き至りと衝き来り、斯くすること一周日餘、村民は聲を枯らし身を痛め最早一言を發するを得す一歩も進むを得さるに至れり、殊に改修堤は前面にのみ力を用ひ後方は之に比して力を用ゆる極めて少、故に釜無川の田之岡附を破りて改修堤を伝へて突激するや改修堤は漸次崩壊して遂に七十九間を破るに至れり 村民の之を防かんとするに當りうの力を極めたる實に驚くべき程にしてニ番堤も数百千人の必死となりて防禦するにも開せず漸次崩壊して早や既に一尺餘に及ひたるの所数ヶ所ありて怒濤は之か上を超ゆるに至りて村民は或は到底ダメなりと思ひしかとも盡せる丈けい盡さんものと愈々勇を奮つて奔馳し漸にして之を無事に保つを得たるは誠に感すべきことなり」(甲府新聞 9月27日)

  こうした豪雨や雷雨の中行わる水防活動はまさに命がけで、行方不明者や死者も報告されています。

 「同上午前九時急報 (龍王)二番堤欠潰の際居合わせたる人十二名行方不明となれり」(山日日新聞 9月13日)

 「水防人足の溺死 中巨摩郡百田村にて御勅使川の水防に従事したる男一名溺死したり」(山日日新聞 9月16日)

 

2)村々の対立
 非常時には多くの人々が協力するとともに、利害が対立する村々の争いも先鋭化しました。各村が自分の村の堤防を守るため右岸と左岸、上流と下流とで争いが起きたのです。

 「水防に就いて喧嘩 中巨摩郡三恵村々民と大井村民、明穂村民と三恵村は水防に就て争論を始て不穏の色ありしも警官の説諭にて平穏に帰せり」
(山梨日日新聞 9月16日)

「小笠原は従前より水災を被らさりし地なるに這般の出水に際して、瀧澤川は暴漲して里俗一の出しと称す處より欠潰して遂に其の七分を浸し現に警察分署の在る所は本瀬となりて水の深さ八尺余に達したりど、それのみならず水防の際各村互に自村の堤防を守らんとして向岸と喧噪し囂々(ごうごう)、囂々石を投じ竹槍を弄し殺気紛々恰も百姓一揆の起りたる如き観あり」(甲府新聞 9月26日)

 さらに釜無川、瀧澤川、坪川、秋山川や狐川など多くの河川が合流する下流の地域ではその排水が村々にとって死活問題でした。この水害では排水に苦しむ五明村と南湖村両村の村人合わせて1700人が睨み合う自体が起きました。警察の説得にも応じず、騒動の一歩手前で小林収税長がとりなし、代表者同士の話し合いで解決されましたが、記事からは当時の緊迫感が伝わってきます。排水の解決策として故意に堤防を決壊させ、排水する方法がとられていたことも注目されます。

「五明南湖の両村排水論
一昨十三日正午頃中巨摩郡五明村と仝郡南湖村人民との間に南湖村東南湖組地内通称瀧澤川の排水に関し粉擾(※1)を醸したる顛末を聞くに両村共同川の水防に附互に警鐘を打汚名鳴らして呼び集め五明村よりは九百餘人南湖村よりは六百人南巨摩郡増穂村大椚組よりは貳百人各自水防用の道具を手にして現場に馳せ付け 今や血雨を降らして一大修羅場を現さんとする處へ 恰(あた)かも好し龍王警察所長浅尾警部部下の巡査を引率して駆け着き 双方へ対し説諭を加えたれども 容易に聞き入る気色なく 動(やや)もすれば争闘に及ばんする有様なるより 水害検分とて其近地へ来れる小林収税長へ此事を急告し 各村人民をして各代表者なるものを出さしめ 腕力沙汰の無法なることを説明し 結局双方陳述するところを聞取り 同所の堤塘深さ三尺長さ三間を欠潰して排水せしむる事とし 辛ふじて無事に鎮静せしめたりと 故らに堤塘を欠潰せしむる理由は五明村荊澤戸田宮澤の三組浸水家屋が何時までも浮かび出づる能はざるを以て堤塘を欠潰し滞水を放蕩するなり 其代り水防費用五拾圓と欠潰費用右三組にて支辨する契約を為し夫れにて事済みとなりたりといふ。」(山梨日日新聞 9月15日)
※1 ふんじょう・・・紛争のこと

 

3)水害後の復旧
 水害後分断された地域の復旧では分断された地域との連絡のため、鉄線を渡し樹に結び人や物を運ぶ「コブ渡し」と呼ばれる方法がとられました。鉄線を対岸に渡すには濁流を渡る必要があり、これも命がけの作業でした。

 「茲に於いて鐵線を渡し兩々大樹に緊縛し、之に又た鉄線を釣下け人をして之に腰を掛けしめ、此方に於いて之れを引く宛絶昔時のコブ渡しなり、鐵線一たび切れんか乃ち身は激流に陥没して死生を必ずべからず危険又た●し、第一先に渡りしは彼の新海茶太郎氏にしてそれより人々相次いて来り、兩者の連絡を通するを得たり」(甲府新聞 9月15日)

 浸水した復旧活動には事前に用意されていた舟が活用され、食料などの物資が運搬されました。

 「五明其他 戸田、宮澤、荊澤等はいづれも床上二三尺の上に達し 昨日は大に減じたるも尚は床上にあり舟を以って食物を運搬しつつありと云ふ」(甲府新聞9月16日)

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【写真】水害時使用された舟 長泉寺(荊沢)

 

3.水害後の学び
 明治29年9月水害後、甲府新聞では9月29日から10月3日までの「見聞餘録」で水害の原因や今後の対策を検証しています。水害の原因の一つとされたのは明治20~27年に行われた堤防改修事業の脆弱さと改修堤完成による事前水防の怠りです。改修事業は7年の歳月と多額の予算が使われ、「金城鉄壁」と考えられていました。
とりわけ信玄堤では明治20~27年の堤防改修時、「出し」である龍王二番堤が下流の出しと接続され連続堤に改修されていました。しかし、この豪雨では釜無川の改修された堤防の多くは決壊し、信玄堤は出しの二番堤が破堤、信玄堤本堤を衝いた水流はこれまで釜無川にもどる仕組みでしたが、その出口を塞いでいたため水が溢れ、信玄堤が決壊したと考えられました。「見聞餘録」の総括ではどんな堅牢な堤防でも永久的なものでなく、事前の十分な水防準備の必要性を説いています。また各堤防での懸命な水防には敬意を払いつつ、自村のみ守って他を顧みない姿勢も改めるべきだと述べています。
 さらに龍王の信玄堤破堤については、御勅使川上流の氾濫により前御勅使川の堤防が決壊して西側から釜無川に合流した洪水もその原因の一つと考えられました。つまり御勅使川の治水が釜無川左岸の治水にとって極めて重要であることが指摘されているのです。この地理的状況は現代でも変わっていません。かつて前御勅使川であった現在の県道甲斐芦安線へ洪水流が流れた場合、洪水流は信玄堤に真横から衝突することとなります。

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【図】明治時代 信玄堤の変遷(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

 現代の水防は地域住民が直接携わる機会は少なくなっています。しかし、125年前の記録は、堤防が破堤する不測の事態を想定し、水害の知識や情報を学び、避難ルートや場所を確認しておく事前の防災活動と地区や市町村を超えた地域間の協力体制の重要性を私たちに伝えてくれています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害の記録
その1~水害タイムライン~

 雨が降り続く梅雨も終わりを迎え、来週には関東でも梅雨明けとなりそうです。近年地球温暖化による気候変動が原因で、日本各地で極端な豪雨による災害が毎年起きています。かつて山梨県は洪水に悩まされた地域の一つで、明治時代には水害が頻発しました。特に明治40年・43年の大水害はその惨状から詳細な記録が残され、被害状況も広く知られています。一方明治29年9月に山梨県内各地で発生した水害は上記と比べ記録が限られ一般的に知られていませんが、南アルプス市域や甲府盆地中央部の歴史を大きく変えた水害の一つです。
 今回および来月号のふるさとメールでは、これまで知られている行政資料とともに、この水害を伝えた『山梨日日新聞』と『甲府新聞』の記事を参照し、その実態にせまってみたいと思います。なお、この水害については、2008年10月15日号でもその概要を取り上げました。

2008年10月15日(水)近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉

 

1.明治29年水害の概要
降 雨 日 9月6~12日
総 雨 量 399.8mm(『釜無川の水害』より)
死  者 33人
流失破損 約500戸
浸  水 4,729戸
堤防決壊 329箇所 延長8,655間(15.7km)
堤防破損 2,445箇所 延長120,493間(約219km)
概  要 御勅使川が旧源村で氾濫、前御勅使川に入り、洪水流が旧御影村・田ノ岡村を襲いました。中でも下高砂は御勅使川、前御勅使川、釜無川の洪水流で集落や田畑が流され、多大な被害を受けました。増水した前御勅使川は釜無川を衝いて龍王二番堤など対岸の堤防を破り、釜無川左岸の龍王村や玉幡村など諸村にも被害を及ぼしました。この他大和川、滝沢川、荒川、富士川など多くの地域で洪水が発生しました。

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【甲府新聞 明治29年9月15日付 水害被災地図】

 

2.水害タイムライン
 今回は御勅使川とそれに合流する釜無川の流域を中心とした被害状況を下記の資料を基に整理し、タイムラインとしてまとめてみました。
菊島信清 1981『釜無川の水害』
白根町誌編纂委員会 編 1969『白根町誌』
八田村編 2003『八田村誌』
早川文太郎・須田宇十 1911『山梨県水害史』
山梨県 1997 「明治元年より二十九年までの釜無川筋水害の状況」(『山梨県史 資料編14 近現代1 政治行政1』第99号文書)
『明治廿九年度 水害関係書 御影村外一ヶ村組合役場』(南アルプス市蔵)
『山梨日日新聞』
『甲府新聞』


※以下「」はマイクロフィルムから判読不能の文字を表しています。
〇明治29年水害タイムライン
9月4日 降水量1.8mm
9月5日 降水量3.8mm
9月6日 降水量4.8mm
9月7日 降水量17.7mm
9月8日 降水量102.4mm 水害の発生
 「〇県下出水彙報
 御勅使川字三番五番石腹延長拾五間決潰 枠、牛共流失す。 同川野牛島大聖寺前急施工事危険水防中 高砂一番続枠二三流失 鼻の方危険(『山梨日日新聞』明治29年9月9日)」
 山梨日日新聞9月9日に「県下出水彙報」の項目が加わり、この前日9月8日の102.4mmを記録する豪雨を経て本格的な水害が発生したことがわかります。上記のように御勅使川扇状地扇頂部に位置する源村有野の石積出三番・五番堤が決壊し、ここから御勅使川、前御勅使川の洪水が発生したと考えられます。
 「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり 此の防水中同地近?に田畠を有する同郡在家塚村齋藤博氏百田村竹内甚兵衛氏等は日々十数俵宛の米を水防人夫の粮米として仕送りたるよし(『山梨日日新聞』明治29年9月17日)」
 上記の記事には堤防の決壊を防ぐため、1500?1600人もの人々が水防活動を行なっていたとあります。これは有野村だけでなく下流の村々の人々を含めたでしょう。なぜなら石積出が決壊すると下流の村々へ洪水流が押し寄せ、御勅使川扇状地に立地するさまざまな地域で大きな被害が出るからです。江戸時代から有野村水下21ヶ村の人々が石積出の水防活動を担っており、その伝統が明治時代にも姿を変えて反映されていたと考えられます。実際に石積出三番・五番が決壊した後、一番から字裏田堤まで堤防が流失し、洪水流は有野行善寺付近から入り、前御勅使川沿いの百田村、下流の曲輪田新田、桃園にも被害が発生しました。一方で釜無川沿いでも河川が増水し枠などの水制が流失する中、必死の水防活動が続けられていました。

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【明治29年9月有野行善寺付近水害写真 『白根町誌』より】

2007年12月29日(土)御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)

9月9日 降水量40.5mm 浅原橋の落橋
 午前3時 浅原橋が釜無川の増水によって落橋。
 「中巨摩郡の出水 中略 田の岡村二番堤防は過日取水の際欠壊(『山梨日日新聞』明治29年9月9日)」
 ここで御勅使川と前御勅使川の洪水を伝える明治29年9月15日付の記事に注目してみます。
 「〇県下出水彙報
 田ノ岡及御影の水害 中巨摩郡出水況の全躰は未だ知るを得ざるも其一班を聞くに同郡田之岡村は四番より五番までの間改修堤防凡そ四百間破壊し堤内田畠十五六歩押流したり 又前御勅使川堤防破壊箇所無数にして田之岡村榎原組は田畠全部押流され人家擧て浸水す 下高砂組は五戸を除き他は悉く浸水したり 又御影村は前御勅使川の堤防無数破潰し該村中央を横断し上高砂組に注ぎ同組は縦横に浸水を被り田畠人家の被害夥しく丁年者は防水に■夜忙はしく老少は狼狽號泣する躰目も當てられず加ふるに野牛嶋六科組の貧民は食料の欠乏を告げ居れり
 前御勅使川の水害 同川筋に於ける御影田之岡両村の被害状況は別項に記載したるが尚ほ聞く所に拠れば同川筋は百田村の内百々の堤防四箇所上八田堤防ニ箇所御影村にて都合十六箇所の堤防を決潰したり 此の堤防の間数都合二千百廿二間して外に欠損せし處千七百四十間ありと(山梨日日新聞明治29年9月15日)」
 この記事の出来事の正確な日時は不明ですが、9月8日に有野の石積出が一部決壊したことを考えれば、その洪水流が前御勅使川に流れ、両岸の堤防を壊し少なくともこの日に上八田村や百田村、御影村、田ノ岡村に大きな被害が発生したと推測されます。さらに山梨日日新聞9月19日の記事を参照してみましょう。
 「〇県下出水彙報
 御影水害 今回の出水にて被害最も惨烈なりしは中巨摩郡御影村なるが尚ほ出水当時の状況を聞くに同村の内野牛嶋上高砂の両組へ御勅使川及び釜無川数箇所の堤防一時に決潰し濁流混々として渦捲き注ぎ入りたるは恰も夜半頃なりしを以て何れの人家にても避難の要意をなしたる衰なく水音の凄まじきに驚き慌てて駆出し四邊の樹木に■登りて僅かに危険を避けたる者多かりし 是等の人々は大聲を挙げて救助を求むるも水量五尺餘に達し■らさは暗■も危険言ふばかりなければ救助に赴く者なく何れも樹上にて夜を明かし翌朝に至り辛くも浸水せざる地方に避難したりといふ昨今の調査に縁れば土砂押入りなるため埋没したる家屋十四戸目下家屋内を通水 傾斜せるもの七戸土砂押入り傾斜せるもの三十二戸田畑凡そ三十九町歩■は浸水のため概ね数獲■見込なし其他道路橋梁の流失破壊等は枚■するに遑らずといふ(『山梨日日新聞』9月19日)」
 このように御影村の上高砂では夜堤防が決壊し、慌てて外の樹木の上に避難して夜を明かし、翌日救助され避難できた危機的な状況であったことがわかります。家や田畑は土砂で埋没しました。

9月10日 降水量56.7mm
 「〇県下出水彙報
 釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり(『山梨日日新聞』明治29年9月11日)」
 9月11日の新聞記事では、御勅使川下流の御影村や釜無川左岸を守る堤防の欠壊は報告されていません。御影村の水害については被災直後で交通が寸断され、正確な情報が伝わっていなかったことが原因と考えられます。一方御勅使川、前御勅使川から大量の土砂、水が釜無川に流れ込み、増水によって釜無川左岸の堤防決壊が目前に迫る中、龍王村や玉幡村でも多くの人々が必死の水防を行なっていたことがわかります。

11日 降水量141.7mm
 午後2時頃から雷鳴も加わって、釜無川の水量は一丈二尺(3.6m)に達する。
 午後11時頃、下流の村々の人々が数日間かけて水防に尽力したが、釜無川左岸の玉幡村分の字十二番改修堤が欠壊、12日までに百六十間(290.9m)流失。小井川村分七十間余(127.2m)欠壊。
 「〇県下出水彙報
 同上龍王発電 釜無川玉穂村地内にて危険な場所あり今暁来益す危し目下全村にて水防中
 同上龍王発電 釜無川龍王村二番堤凡そ廿間餘決潰辛ふして防止せり 他にも危険の個所あり(『山梨日日新聞』明治29年9月12日)」
 さらに甲府新聞では「出水続報」に詳しくこの時の状況が書かれています。
「一昨日(11日)午後少しく降り止み夕方に至りて日光を洩らしてるより安心せし處 午后八時前後に至り釜無川玉幡村の改修堤防危険の急報ありて全村民は数百人孰れも必死となり 奔走至らざるなかりしも午前三時玉幡村の堤防百二十間余を欠壊したり されば前日来■湧し来れる濁浪は非常の猛省を以って破壊の箇所より侵入し來りて 折しも篠を束ねたる如き雨はいとど烈しく男女の■■は怒涛の響と相和し凄まじさ云ふ斗りなく見る 近傍各村へ押し寄せ來りてうの逆流は奔馬の如き勢を以って家屋を押し流し惨状非常に甚しく 宛然一大湖を現したるが如し 又た十時に至りて龍王二番堤凡そ百五十間斗り破壊し濁浪は非常の勢を以って押し寄せ来り 信玄堤に突き当り怒れる水勢ハ彼方に逆流して玉穂決潰の浸水と合し一層猛威を悉にし人家の浸水するもの無数にて死傷未だ知るを得ず(『甲府新聞』明治29年9月13日)」
 このように昨日一度弱まった雨が再び豪雨となり、11日の夜ついに釜無川左岸の玉幡村字十二番が決壊し、甲府盆地中央部に大きな被害が発生しました。

12日 降水量30.4mm
 午前10時頃 龍王村分字二番改修堤崩壊。龍王村の民家を衝き、戸数108戸と土蔵を合わせ290棟は数日間浸水。罹災者中一時救助を受けた人、男性108人、女性262人。
洪水流は常永村に入り、常永川と合流、常永川通字信玄堤(龍王の信玄堤ではない)に衝突。防御活動の甲斐なく欠壊。飯喰分一ヶ所十七間、河西分二ヶ所四十二間(76.3m)欠壊。河ノ西組は島状に孤立し、上河東はほとんど全組浸水する。

 「〇県下出水彙報 
 昨十二日■龍王玉幡村急報 八幡村第十二号堤防以下凡百二十間昨夜十二時頃より漸々上越をなし防御の術全く無き 三時頃切込み目下常永川堤防にて防御中
 同上龍王村急報 二番堤瀬■のため衝突 防具二箇所流出防御中
 同上午前九時急報 二番堤長七八間今朝より欠始専ら防御中
 同上午前9時半急報 二番堤決潰の際居合わせたる人夫十二名行方不明となれり
 同上午前10時龍王急報(『山梨日日新聞』明治29年9月13日)」

 上記の記事から昨日夜玉幡村の堤防が決壊した後、常永村および龍王村では必死の水防活動が続けられましたが、常永川堤防、龍王村二番堤が決壊、甲府盆地中央部に大きな被害がもたらされました。

9月15日
 雨が上がり、各地の被害の状況が徐々に明らかになってきました。『山梨日日新聞』、『甲府新聞』ともに山梨県内の被害状況をまとめる記事を掲載しています。今回お伝えした他の地域および災害後の状況については次号でご紹介します。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

江戸時代の南アルプスブルー
~村々の藍葉栽培と藍染~

はじめに
 雨が降り続き、水辺にカエルの鳴き声がこだまする水無月(みなづき)。水田に水が満たされる月を意味します。ふるさと文化伝承館の藍は雨の恵を受けながら、瑞々しく茂っています。例年だと梅雨明けを待って藍葉の一番刈りを行いますが、気候が暖かくなったせいか昨秋こぼれ落ちた種は2月に芽吹き、6月中旬には葉が生い茂りました。30度を超えた晴天の日を狙って、一月早い一番刈りを行いました。

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【写真】水無月の水田

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【写真】ふるさと文化伝承館の藍

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【写真】藍一番刈り

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【写真】藍一番刈り 天日干し

 藍色は7月に予定されている東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムカラーであり、大河ドラマの主人公渋沢栄一の家がすくも作りを行なっていた藍屋でもあったことから、さまざまなメディアで藍色に出会う機会が増えています。
 明治時代、南アルプス市域が山梨県内で藍葉の生産量最多を誇り、川上村(明治22年に合併して落合村となる)には藍葉からすくもを作る藍屋が営まれていたことは以前ご紹介しました。今回のふるさとメールでは少し時を遡り、江戸時代の藍葉生産の様子をのぞいてみましょう。

【2019年9月17日(火) 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~】

 

1.村明細帳から見た藍の栽培
 江戸時代には村の石高や家数、人数、寺社や産物など村の概要を記した村明細帳が作られました。村明細帳は作られた時代や村によってその内容や詳しさが変わるため村の正確な状況を反映しているとは限りませんが、おおよその傾向を把握することができます。今回は山梨県が発行した『村明細帳 巨摩郡編Ⅲ ・山梨、八代郡編補遺』と旧町村誌に掲載された村明細帳を手がかりに、まず南アルプス市域の藍の生産について調べてみました。

 その結果、近世において藍葉が村明細帳に掲載された事例は2例に限られました。一番古い資料は享保20年(1735)の「鋳物師屋村差出明細帳」で、臨時の作物として藺草(いぐさ)や茶、苧、桑、楮(こうぞ)、うるしとともに藍が挙げられていました。次に明和8年(1771)の「上高砂村差出明細帳」で、やはり臨時の作物として、藺草や茅、茶、煙草、苧、桑、楮(こうぞ)とともに藍が挙げられています。このように藍葉は米や粟、稗、大豆などの主要作物とは違い、江戸中期にはあくまで臨時に作られる補助的な作物だったことがわかります。そのため、栽培されていても村明細帳には記載されなかった場合もあると考えられます。
 幕末まで時代を降ると、藍の栽培や藍を商う商人の存在を文献で確認することができます。百々の竹内家に伝わる嘉永7年(1854)の「藍商売取究」(『白根町誌史料編』544号文書)は、藍を扱う商売仲間が公正に商いを行うため、御法度を守り、藍の買い付けには仲間が立ち会うことなど商売仲間内での取り決めが書かれたものです。また、慶応4年(1867)原七郷組合から市川代官所へ提出された書類には「藍葉凡千貫目」と記載があり、原七郷の村々で藍葉生産が広がっていたと考えられます(『櫛形町誌』)。

 

2.藍葉・藍玉の流通
 江戸時代は、木綿の普及とともに紺屋による藍染が盛んになったと言われます。ですが村明細帳から地元での藍葉生産量はそれほど多くなかったと推測されます。そこで他地域からもたらされた藍の流通に注目してみましょう。駿河と信州を結ぶ街道に位置する荊沢宿は、富士川舟運で鰍沢河岸(かし)で荷揚げされた駿河からの物資が最初に通過する駅です。この駅を通過する商品について研究された増田廣實氏によれば、嘉永7年(1854)の荊沢宿から韮崎宿への宿継ぎ荷物、いわゆる上り荷物の総数は1,573駄で、その内、1位が阿波藍で80駄、2位が武州藍で38駄、二つで全体の荷物の約26%を占めています(増田廣實2005『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社)。すくも作りの本場である阿波と武州から相当数の藍玉あるいは藍葉が流通し、釜無川沿岸の村々の紺屋へ販売されました。さらに安永4年(1775)の「荊沢宿伝馬諸荷物駄賃帳」には「一 藍玉壱太 百々村江」とあり、馬一駄分の藍玉が百々村の紺屋へ届けられていたことがわかります。

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【写真】伊能図に描かれた荊沢宿と鰍沢

 藍玉産地の阿波国側の史料を見ると、藍を販売する商人とその販売地が決められており、甲州売りを抜き出しても20人以上の商人の名が連ねられています。

文久6年(1809)「関東売仲間御仕入元江戸出店売場」(抜粋 人命俵印及び売り場先を届け出た資料)
「元木佐太郎 池北屋清兵衛
 江戸 武州 相州 上総 下総 野州 上州 常陸 信州 甲州 駿州 遠州 奥州
武市増助 宮本屋安兵衛
 武州 相州 上総 下総 甲斐 常陸
渡邊益蔵 藍屋彌兵衛
 江戸 武州 上総 下総 房州 上州 常州 野州 相州津久井領 甲州
永田平十郎 住吉屋圓次郎
 武蔵 相州 上野 下野 上総 下総 安房 常陸 甲斐 駿河 伊豆
坂東貞兵衛 住吉屋宗兵衛
 武州 相州 豆州 甲州 信州 駿州 下総 上野 下野
元木佐太郎 阿波屋與市
 駿州 甲州 郡内領 豆州 遠州 相州
手塚甚右衞門 阿波屋林右衛門
 遠州 駿州 豆州 甲州郡内 相州
犬伏九郎右衛門 玉屋八郎兵衛
 江戸 甲州郡内領 相州津久井領 下総 上総 上州
井上左馬之助 坂東増太郎 坂東貞兵衞 石原市郎右衛門 藍屋直四郎
 駿河 遠州 相州 豆州 甲州 信州」
(西野嘉右衞門編著1940『阿波藍沿革史』より)

 こうした史料から、江戸時代、市内域の紺屋で消費される藍染の原料すくもや藍玉は、藍の一大産地であった阿波や渋沢栄一が藍屋を営んでいた武州から富士川舟運を経て荊沢宿を通り、南アルプス市域から韮崎市、北杜市近郊の紺屋に供給されていたと考えられるでしょう。

 

3.江戸時代の紺屋と藍屋
 紺屋については、甲西町誌などで江戸時代からほとんどの村にあったと書かれていますが、「紺屋」が村明細帳に記載されるのは、明和8年(1771)鏡中條村2人、安永6年(1777)荊沢村1人などに限られます。江戸時代の藍染を担った紺屋についての史料が少なく、その分布や実態も明らかにすべき課題の一つです。
 甲府城下町に目をむければ、嘉永7年(1854)刊行、明治5年(1872)増補改訂版の甲府城下町の案内書『甲府買物独案内』には、紺屋に当たる御染物屋が6軒、すくもの販売と製造にかかわる藍屋が2軒掲載されています。

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【写真】『職人盡繪詞 第1軸』文化年間のものを明治に和田音五郎が模写したもの。 右側に「紺屋」が描かれている。国立国会図書館蔵

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 藍屋

(『甲府買物独案内』 国立国会図書館蔵)

 

4.明治時代初頭の物産記録
 最後に明治時代初頭に記録された村々の物産記録から幕末から明治初頭の藍葉生産をみていきます。それを見ると多くの村々で藍葉が生産されていることがわかります。白根地区と甲西地区での栽培が盛んで、白根地区では源村での生産が多く2,500貫、甲西地区では落合村が4,900斗で他の村より藍葉生産が盛んでした。落合村と隣接する川上村には江戸時代末からすくも作りを生業とする浅野家が位置していて、その周辺が藍葉およびすくも生産の拠点となっていくことがわかります。

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【第1表】明治時代初期 南アルプス市域各村物産一覧(文化財課作成)
※芦安・八田地区については未確認。白根町・櫛形町・若草町・甲西町各町誌掲載の資料から作成

 

おわりに
 以前のふるさとメールで書いたとおり、明治時代に市内で発展した藍葉生産と藍屋業は、ヨーロッパでの人工染料の発明と普及により明治時代末期には姿を消すことになりました。それからおよそ100年後、市内で再び復活した藍は、地域や小学校のふるさと教育に利用されています。全国では藍染だけでなく、藍の含有する成分の研究が進み、健康食品やウイルス予防などに応用され日本全国で藍の魅力が再発見されつつあります。市内で栽培され始めた藍にもさまざまな可能性が眠っているようです。

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【写真】落合小3年生が今年も浅野さんの藍畑で地域たんけん(藍染は顆粒の藍を用いた簡易的な方法で染めました)

【2015年4月15日(水) 南アルプスブルーの足跡~市内を彩った藍染めの歴史~】

【2015年5月15日(金) 南アルプスブルーの足跡その2~市内を彩った藍染めの歴史~】

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

学び人を育む力
~天民義塾と綿引健~

 水害へ備える言葉を残し、さまざまな人々を育んだ綿引健(竹二郎・雅号匏水)。その学びの社であった私塾天民義塾については、資料が少なく詳細なことはわかっていません。今回のふるさとメールでは、残されたわずかな資料を繙き、明治から大正時代まで続いた塾の実態にせまり、3月から続いてきた綿引先生の物語に幕を降ろしたいと思います。

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【綿引先生】

3月15日号「時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~」

4月15日号「風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~」

 

幕末の私塾・寺子屋
 まず江戸時代の終わり、幕末の私塾と寺子屋から天民義塾設立以前の教育状況をみてみましょう。『山梨県教育百年史 明治編』によれば、江戸から明治時代初頭における県内の私塾・寺子屋の数は537か所が想定され、市内域だけでも寺子屋が芦安地区0、八田地区3、白根地区15、若草地区12、櫛形地区27、甲西地区15、合計72、私塾としては藤田村の釜川塾、上高砂村の螺廼舎(しのしゃ)の2か所が表にまとめられています。旧村単位でこの状況を見てみると、小笠原村が最も多く7、藤田村が5、鏡中条村、桃園村がそれぞれ4で、その他多くの村で1か所は寺子屋が営まれている状況でした。そこで教える先生は農民が31、医者が15、僧侶が11、神官が10、浪士が2、儒者が2、修験者が1で、農民と医者が多く、約64パーセントを占めます。学習内容は読書と習字が中心で、そこに講義などが行われることもありました。なお、「松声堂」として知られる西野の西野手習所は代官支配下の領民の子弟を教育の対象とする郷学に分類され、近世の甲州では西野手習所を含め3か所に限られました。

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【幕末~明治初期 郷学・私塾・寺子屋地図 (『山梨県教育百年史 明治編』付県下寺子屋・私塾一覧より作成)】

 

学制の始まりと寺子屋の廃業~明治時代初期~
 明治に入ると、明治5年(1872)8月、日本最初の学校教育を定めた教育法令である学制が太政官から発せられ、学校教育制度がスタートします。学制頒布とともに小学校が設置され、江戸時代地域の教育を支えた多くの私塾、寺子屋は小学校へ併合あるいは廃業となり、明治8年頃にはほどんど姿を消すことになりました。明治5年山梨県によって行われた「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」をまとめたのが第1表で、掲載された寺子屋(郷学を含む)は市内では18か所だけで、多くの寺子屋が廃業したことがわかります。一方明治6年から小学校建設が市内各地で行われ、その後統廃合が行われますが、明治19年段階では少なくとも25校以上の小学校が作られていました。

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【第1表 市域における寺子屋調査 (「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」から作成)】

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【明治19年前後 市内小学校地図】

 

勉旃(べんせん)学舎から学術研究会そして天民義塾の創立へ~明治10から30年代~
 明治時代私塾が衰退したのは、山梨県権令(後に知事)となった藤村紫朗が進めた公立学校への奨励と私学への厳しい抑制政策の結果でもありました。また、明治10年代は経済不況も私学の不振に追い打ちをかけます。『明治17年学事年報』によれば県内の私塾は成器舎、修斉学舎、時擁義塾、勉旃学舎、明倫舎、蒙軒学舎の6か所のみ掲載されていて、市内では荊沢に開かれた勉旃学舎が挙げられています。
 勉旃学舎は明治14年、五明村の名望家で自由民権運動にも活躍した新津真が同村の大地主市川文蔵と共に発起した塾で、教科目には修身・歴史・文章の三科、修学年限七か年、小学校中等科卒または満14歳以上が入塾資格とされました(『山梨県教育百年史 明治編』)。その学舎は明治18年閉鎖されましたが、翌年荊沢の法泉寺の檀家が寺内に学術研究会を開き、牛山龍が漢学や弁論部を教えました。
 明治20年代は経済が回復し山梨英和女学校など県内に新たな私塾が多数創設される一方、県立尋常中学と高等小学校の整備が進み、明治20年代の終わりにはほとんどの塾が廃業する時代でした。そのような中、学術研究会では明治21年牛山が去ると綿引健が招聘され、明治34年には新しい学舎も建設されました。これを契機に「天民義塾」と名付けられたのです。『中巨摩郡誌』には「四方より学ぶ者多し」とその盛況ぶりが記録されています。

 

天民義塾とその移転~荊沢から西南湖へ~
 天民義塾の内容については『明治37年度学事年報』からその一端がうかがえます。学校長名は綿引竹治郎(健)で教員は綿引ただ一人でした。創立年は明治33年とされ、中巨摩郡誌と1年のずれがあります。学科は修身(道徳)、国語、漢文、作文を教え、修業年限は3年で学級数は2、生徒数は1年生が男36、女0、2年生が男32、女0でした。明治33年の創立から明治36年までの卒業者は男102人、女0を数えました。

 『甲西町誌』によれば、明治39年水害による学舎流失のため、荊沢から西南湖に天民義塾が移されます。西南湖では明治33年丹沢義吉、入倉善三を中心とした若い農民が水害が多発する土地の中で自ら学び生活を向上させるため南湖報徳社を設立しており、それらの若者が中心となって、綿引先生を西南湖へ招きました。『南湖報徳社のあゆみ』の編年表には明治39年「水戸の漢学者綿引竹二郎先生を迎え天民義塾開設」と見え、丹沢義吉の著書の中でも、「(義吉が)南湖の振興を志して立ったのはまだ十代の青年であった。村を興し国を盛んにすることを真剣に考え、綿引匏水先生の許に学んだ」とあります。また、天民義塾で学んだ深沢吉平(注1)の伝記には「塾頭は綿引匏水先生で深沢が十才位の時から種々精神的影響を受けていたらしい。」と書かれており、後に北海道の酪農を推進する吉平の生き方にも影響を与えていたのです。

 先生の残した漢文などを見ても、塾では単なる国語や漢文だけでなく、人の生き方を学ぶ場だったことがわかります。『西郡地方誌』は当時の学習内容と活況、先生の逝去に伴い塾の幕が降ろされたことを次のように伝えています。
「南湖村西南湖報徳社において綿引健が明治39年の創始より大正8年長逝まで修身道徳を主として教育された。生徒数は多い時には百数十人に上り、隣村からも学ぶものが多かったが、綿引の長逝とともに廃止となったという。」

 多くの私塾が創立され廃業した明治20年代後半から大正時代まで、なぜ天民義塾は存続できたのでしょうか。『山梨県教育百年史 明治編』の「学制頒布と寺子屋・私塾」では次のようにまとめています。
「中には例外的に明治の終わり、あるいは大正年間まで継続しているところもあった。例えば西南湖(甲西町)の天明義塾(注2)は明治14年に開設された勉旃学舎および学術研究会のあとをついで、明治19年に再建され大正4年まで続いた。教師綿引健(匏水)の人格を中心に、修身・道徳に力をいれた特色ある塾教育に打ち込んで、旧い日本教育の長所を発揮して多くの人材を輩出せしめた。」

 このように綿引先生個人の資質が多くの人を惹きつけ塾を存続させた要因であったことは間違いありません。しかし塾存続の理由として先生を招き天民義塾を支えた若き塾生たちの存在も注目すべきでしょう。水害が多発する地での小作農の厳しい生活を地域で学ぶことで乗り越えようとしてきたその風土も塾の存続に深く関係しているはずです。天民義塾を支えた南湖報徳社の人々は、明治37年、天竜川の洪水を防ぐため私財を投げ打って植林事業に一生をかけた静岡県の金原明善を招いて講演会を開き、その話に感銘を受け、その直後から「治山治水」を実践するため平林村に約10.7haの山を借用し植樹を行うとともに、別の山林を購入し植林事業を継続して行いました。さらに社の報徳金により小作人の耕地の購入を後押する自作農推進活動を行い、その結果社員全員が自作農となったと言われます。災害に苦しむ人々の生活を向上させ、地域の産業を発展させたのは、地域の人々の生涯にわたる学びの力だったのです。

 綿引先生は100人を超える門人が集まり開かれた還暦の祝宴のあいさつの結びとして、次の言葉を選びました。

「今ヨリシテ後、(中略)物質ト(中略)精神トノ間ニ處シ能ク之レガ保合調和ヲ計リ、又復得難キ人生ヲ大意義アルモノナラシメント欲ス。諸君幸ニ切磋琢磨ヲ惜ム勿レ。幸栄アル此ノ祝宴ニ対シ謹ンテ感謝ノ辞ヲ述ブル此ノ如シ」(「還暦祝謝辞筆記」『匏水子集』より)

 この言葉には60歳を超えた自分も人生の目標である世界と心の調和を目指していく決意と門人たちがお互いに励まし合い、学び続けることへの願いが込められています。

 

エピローグ
 大正8年に亡くなられた綿引先生の姿を覚えている人は今はいません。しかし、先生の奥さまは太平洋戦争後までこの地にとどまり、地域の人々と交流を続けました。塾の建物に暮らしていたため「塾のおばあちゃん」と呼ばれていました。入倉善三さんの孫、入倉善文さんは当時の様子をはっきり覚えていて、懐かしそうに話してくれました。
 「子どもの頃塾のおばあちゃんは俺や姉さんにやさしくしてくれたね。通知表も親より先におばあちゃんに見せに行ったさ。おばあちゃんに褒められるのがなにより嬉しくてね。受賞した絵を見せると塾に貼ってくれたのも嬉しかった。」
 記録には残っていませんが、記憶の中に子どもたちを育んだ先生の奥さまの姿が残されています。

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【塾のおばあちゃんの思い出を語る入倉善文さん】

 

注1:南湖村から北海道音江村へ移住し、音江村長を務めるとともにデンマークで酪農を学び後に衆議院議員となり北海道の酪農を推進、雪印乳業の前身である北海道酪農共同株式会社社長も務めた。岩手県への酪農の普及にも尽力した。
注2:天民の誤りか

引用・参考文献
岡本昌訓 1964『深沢吉平の生涯』深沢吉平伝刊行会 
甲斐志料刊行會 1932?1935「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」『甲斐志料集成』第6巻
公益社団法人南湖報徳社 1969『南湖報徳社のあゆみ』 
椎名慎太郎 2001「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習(山梨学院生涯学習センター紀要)』山梨
山梨県 1904『山梨県学事年報. 明治35年度』
    1906『山梨県学事年報. 明治37年度』
山梨県教育委員会編 1979『山梨県教育百年史 明治編』 サンニチ印刷
山梨県中巨摩郡聯合教育會 編 1828『中巨摩郡誌』
山梨県立巨摩高等女学校編 1940『西郡地方誌』
綿引竹次郎 1920『匏水子集』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

風来りて土と成る
~綿引健の生涯と西郡の人々~

 「風土」はその土地の自然環境や精神的な環境を意味しています。辞書から離れると、外の土地から来た人が新しく異なった文化を風となって運び、土である地元の人々が受け入れてその土地の風土が生み出されるという考え方もあります。今月のふるさとメールは先月ご紹介した綿引健の生涯を通し、明治・大正時代の西郡(にしごおり)の風土を培った人々とのつながりをたどります。

 

西郡への風 旅立ち
 綿引健は安政5年(1858)8月7日、水戸の武家に生まれました。幕末、水戸学の中心人物の一人栗田寛に師事し、漢学などを修めました。同じ門下であった有野村矢崎貢(みつぐ)の強い勧めで、明治8~9年、17・18歳の時、西郡源村にやってきたと伝えられます。貢の父の保全は長崎で蘭学を学んだ医師で、医業を営みながら明治5年まで私塾を開き漢学も教えていました。そこに20歳前の水戸の青年が招かれたのです。

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【写真】栗田寛『大日本名家肖像集』経済雑誌社1907年

 

人々との出会い
 甲西町誌によれば綿引健(以下先生)は源村で教えた後、鏡中條、小笠原、荊沢へと移りそれぞれ塾を開いたとありますが、詳しいことはわかっていません。しかし資料には、先生がさまざまな人々の顕彰碑や墓誌などの撰文(記念碑などの文章を作ること)を書いた記録が残されています。このことから先生が多くの人々と出会い、絆を結び、この地において大きな信頼を得ていたことがわかります。
 源村の飯野新田で私塾を開き漢学を教えていた埴原治良吉の墓碑銘も書いています。文の中では娘婿の弁一郎とその子供達にも触れ、長男の正直は外交官で米国公使館書記官、次男弓次郎は早稲田大学生、長女桑喜代は美術学校在学と書かれています。正直は後に外務次官となり日本外交のかじ取りを担い、桑喜代は画家の道を進みました。この文からも埴原家との深いつながりがわかります。

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【写真】埴原正直

 鏡中條村での塾の場所や期間は明らかになっていません。しかし同村の巨摩八幡宮の神職を務め、寛政から天保年間塾を開き読書や習字などを教えていた斉藤操の頌徳碑の文章を作成していることから、斉藤家へ招かれたのかもしれません。また、鏡中條で代々医業を営んだ小野家にもその足跡が残されていました。明治32年、小野徹(1875-1971)は同村に「洗心堂」を開業し、医療とともに日本住血吸虫病の病害の研究、解明に尽くしました。徹の息子修が書き留めた『父・祖父を語る』には「十五歳の三月、中巨摩西部高等小学校を卒業し、九月まで今の甲西町荊沢にあった漢学塾に通って、漢学を勉強しながら医者になる決心をした。」とあり、先生から漢学を学んでいたと考えられます。生家には綿引健書の額が現在も飾られ、さらに西南湖の安藤家の中門前で撮影された先生との写真が「綿引匏水先生」の文字とともに残されていました。小野家、そして西南湖の安藤家との親交が写真から伝わってきます。また小野徹は亡くなる直前まで、漢詩を作り書に没頭したと伝えられます。

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【写真】斉藤操頌徳碑 巨摩八幡宮

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【写真】小野家に掲げられた綿引健の書

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【写真】綿引先生と小野徹 安藤家中門前

 次に移ったとされる小笠原(当時明穂村)には明治21年私立高等英和学校が設立され、先生が招聘されましたが、1年で廃校となっています。また小笠原の医師桑島尚謙の桑島尚謙の彰徳碑を撰文しています。桑島は和歌山県の生まれで、藤田村の五味家に身を寄せ、後に小笠原の桑島家を継承して医業を営みました。医術に優れ「訪れた患者は門に充ちた」と伝えられています。貧民救済のためにも奔走し県立の施薬院設立を目指しましたが、果たすことなく明治31年66歳で亡くなりました。門人達が遺徳を偲び久成寺に彰徳碑を建立し、先生がその文を作成しました。綿引健40歳の時です。

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

 小笠原から次に移り住んだのが江戸時代、駿河と信州を結ぶ駿信往還の宿として栄えた荊沢村です。荊沢村では法泉寺檀家の人たちが寺内に漢学などを学ぶ学術研究会を明治19年に設立し、明治21年塾長であった牛山竜が去った後、当地の大地主市川文蔵が強く懇願し、先生が塾長として招かれました。明治34年に新しい学舎が完成すると、名前を天民義塾と改名し、多くの人々が塾に集ったと伝えられます。

 

水害からの復興と学び
 西郡に来た先生の人生を決定づけたのは、この地の水害と言ってもいいでしょう。明治時代は、殖産興業を掲げた山梨県の政策により養蚕などの燃料として山々の木が切られ、また村々が共同管理していた山が官有林とされたため盗伐が横行し、山が荒れたため洪水が多発した時代でした。
 明治39年(1906)7月16日、甲府で1日に171mmを記録するほどの豪雨と続く7月24〜26日の雨によって、釜無川や市之瀬川、荊沢地内の裏瀬川など多くの河川が氾濫し、完成したばかりの天民義塾の新学舎が流失したと伝えられています(註1)。そのため、天民義塾は南湖村に移されることになります。南湖村は東の釜無川と西の滝沢川の度重なる水害を受けてきた地域で、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年には報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を設立、勤倹貯蓄とともに生涯にわたって学習し、農民の自立を促す運動も行われていました。学ぶことで度重なる水害からの復興を目指したのです。この地に綿引健が招かれたのは必然だったのかもしれません。天民義塾が移された翌年起こったのが先月紹介した明治40年の大水害です。

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【写真】入倉善三=左、丹沢義吉=右

 明治40年の大水害後、南湖村水害図の他、洪水によって流路が変わった新笛吹川の石碑の文も先生が書いています(「新笛吹川紀念石之碑文」)。さらに大正4年、御勅使川扇状地全体の水害鎮守として祀られた有野の水宮神社の拝殿が修築され、それを記念した石碑も建立されました。その文を作成したのも先生でした。この地に導いた学友矢崎貢がこの時「治山・治水」と刻んだ石塔を寄進していることから、貢が先生に依頼したと想像できます。御勅使川扇状地の扇頂部に立地する有野にとっても、山を治め、川を治めることは最も重要な課題だったのです。
 このように度重なる水害に翻弄された地域や人々、そして自分自身の経験から、先生は水害の記憶を次世代に伝える言葉をさまざまな場所で残しているのです。

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【写真】水宮神社 大正4年矢崎貢寄進 治山・治水灯籠

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【写真】水宮神社記念碑

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【写真】水宮神社記念碑

 

父母のように
 多くの人と交わり、西郡に学問を広めた綿引先生はどのような性格だったのでしょうか。一説には書家で大酒豪であった父がこの地にやってきた時、地元の若者と争いとなり亡くなってしまい、その父の仇を討つためこの地にやってきたという話も伝わります(『甲西町誌』)。しかし地元の人に諭され、仇討ちを捨て、そこから一切人と争うことがなかったとも言われます。また、ナマコを肴に飲む酒が大好きでしたが、度重なる水害を経験したことにより、西南湖の丹沢義吉らとともに「楽地禁酒会」を立ち上げ、酒を断って節約し、復興を目指したそうです。謙虚で思慮深く、温和な性格は人々を惹きつけ、還暦の祝いには100名以上の門下生が集まりました。門下生は後に先生を父でもあり母のようでもあったと記しています。

 

西郡の土と成る
 20歳前に西郡に移り、さまざまな人々やその地の風景と出会い、共鳴し合い、多くの人々を教え導いた綿引先生。大正7年から9年、約100年前に世界中で大流行した流行性感冒、スペイン風邪として知られるインフルエンザによって大正8年2月26日、その命の灯火が消えることになりました。享年63歳、西南湖正福院に門下生が墓を建立し、今もその地に眠っています。

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【写真】綿引健 墓 正福院

 綿引健は亡くなりましたが、その言葉と想いは受け継がれ現在につながっています。先生に学んだ西南湖の入倉善三は仲間とともに報徳社を発展させました。西南湖報徳社は県内で唯一現在でも活動を続けています。小笠原で生まれ天民義塾で学んだ石川幸男は韮崎の杉山家に入り、運送会社を営んだ後初代韮崎町長となり、韮崎市の礎を築きました。幸男は文化への関心も高く、藤井町の坂井遺跡保存会初代会長ともなっています。南湖村で生まれた深沢吉平は明治36年、北海道音江村に入植し、同村長を経てデンマークに酪農を学び、北海道における酪農推進の先駆者の一人となりました。
 風であった先生はまさに西郡の土となり、様々な人々と新しい風土を培い、他の地域へ吹く新たな風を生み出していったのです。

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【写真】入倉善三先生頌徳碑

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【写真】入倉善三先生頌徳碑 背面


註1:『甲西町誌』による。一方で『深澤吉平の生涯』(岡本昌訓 1964)では、「初め鰍沢の高月にあったが、類焼の厄にあって、今の南湖報徳社の建物がある場所に移転した。」とある。

参考
「南アルプス市立図書館ふるさと人物室」
https://m-alps-lib.e-tosho.jp/kakukan/furusato.html
「山梨デジタルアーカイブ『匏水子集』」
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200025

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

時を超えて響く言葉
~なにげない日常をつなぐために~

 今から約114年前の明治40 (1907)年8月22~28日、台風による大雨が山梨県に降り続き、笛吹川や重川、日川、釜無川をはじめとするいくつもの河川が決壊、死者233人、流された家屋は約5,700軒以上、山崩れは約3,334箇所にも及ぶ大水害が起こりました。明治時代は洪水が頻発した時代ですが、それでも当時の新聞を見ると水害の大きさが「未曾有」の言葉で繰り返し表現されています。南アルプス市域では上高砂・下高砂、下今諏訪の釜無川の堤防が決壊、さらに下流の「将監堤一万石」とうたわれた鏡中條の将監堤が決壊し、浅原、藤田、田島、西南湖、東南湖、泉、鰍沢などの村々に甚大な被害が出ました。

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【写真】明治40年水害図 『山梨県水害史』

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「同堤防(将監堤)は付近の住民に取りては咽喉部とも云うべく然ればこそ築堤の如きも全力を慈(これ)に傾注して萬世の安固を期したりしなり、然るに今回の出水は実に近古未曾有と云うべく降り灑ぐ・・・(中略)・・・南湖村・・・何も生きたる心地なく(僅)かた屋根棟に避難し生命を全うしたる有様をりしが・・・長久寺に避難民を収容し救助しつつある者千二百人余なり、同村(南湖村)は昨三十九年大火(水?)災を蒙り、今年又た未曾有の水害を被り」
『甲斐新聞 明治40年8月31日』より。()は文化財課が加筆・修正

 この時の被災状況を詳細に記録したのが南湖村水害図です。水害図には被災した地図とともに村ごとの死傷者数、被害家屋、被害土地や農作物、堤防の破堤日時や状況が詳しく記載されています。この水害図を製作したのは南湖村の私塾天民義塾で、塾長であった国学者綿引健(通称竹次郎)がその経緯を詞書に書いています。

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【写真】南湖村水害図

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【写真】南湖村水害図詞書

「今から80年前、将監堤が決壊して(釜無川が)氾濫しその惨害を極め、南鰍沢に至って止まった。時が移りゆく中で、人々は周りの人々のことを考えず、自らの安全ばかりを追い求めるようになったが、明治40年8月25日、再び(将監堤が)決壊し、(その被害は)見渡す限りすさまじくいたましい状況で、田園の荒廃は昔(の水害)と比べてさらにひどい状況である。この図がその時の状況である。どうか後世の人々よ、この図を鑑みて、よく考え、よい方策を講じてください。それをしなければ、この図を見てただいたずらに哀しむだけで、戒めとはならないでしょう。
 明治四十年十二月
 天民義塾長 綿引竹次郎 識
 私立報徳農業補習学校長 青沼兼吉 書」『南湖村水害図詞書』より(文化財課意訳)

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【写真】綿引健

 この言葉に出会った時、強く心を揺さぶられました。その言葉のとおり、水害図を見ても過去の歴史として見ているだけの自分がいたからです。「嗚呼後ノ人・・・」、この言葉からは静かな魂の叫び声と切実な祈りが伝わってきました。先生の声に導かれるように、防災の講座や広報の記事で水害図を取り上げ、水の歴史文化を扱った『堤の原風景ver4』(2021年3月改定 現在ver5)ではその内容とともに裏表紙にこの言葉を掲げました。言葉は読んだ人や聞いた人の心にも響き、来年度小学校の副読本にも掲載されることが決まりました。100年以上前の言葉が現代の私たちの心を動かしているのです。

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【写真】堤の原風景ver4

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【写真】南アルプス市社会科副読本 防災の頁

 綿引健が塾生とともに水害図を製作したのは被災した年の12月、水田は一面砂礫で覆われ、山梨県全体も復興どころか「災害後の甲州は最後の甲州」と揶揄されるほど、被害は深刻な状況でした。笛吹川流域では住むことができなくなった地域もあり、後に北海道への移住計画が立てられ約3千人が移住を余儀なくされました。このような状況の中で水害図が作られ、この言葉が生まれました。

 綿引健は水戸弘道館で国学を学び、学友であった有野村の矢崎貢に請われ、有野村で漢学を教えました。その後鏡中條、次に小笠原の私立高等英和学校で教え、明治22年頃には荊沢の市川文蔵に請われ、法泉寺で開かれていた学術研究会で教えることになります。この私塾は明治34年新学舎が完成すると天民義塾と改称され、多くの青年が集ったと伝えられます。しかし明治39年、大雨が降り続き、県内各地で大水害が発生、できたばかりの学舎が流されてしまいます。そのため天民義塾は西南湖へ移転されることになります。新天地で広く人を育てようとした矢先にまた大水害を経験したのです。

『甲西町誌』によれば、綿引先生は近所の悪童が企てた落とし穴に落ちても怒ることはなかったほど温厚な性格でした。そんな温厚な先生が残した力強いメッセージ。なぜ綿引先生は水害図を作り、未来への言葉を残したのでしょうか。残された漢詩に先生が大切にしてきたものが表現されていました。

釣魚記
「竿を堤塘の曲々に投ずるに一陰影無し。斜陽灼き四体汗するこれなり。之を久しうして標没し魚を得。竿を投じ魚を得。魚を得る事一十なり。暮色蒼然として山巓黄金を彩り山腹翠羽を帯ぶ。炊姻空冥に入り帰路に就く。梵鐘は水を度り涼風衣に入る。鳥声洩々蛙嘱閣々興涯なし家に帰るに門生は庭に迎え婦は戸に待つなり。魚を観て婦は笑を含み悦懌するなり。門生は手を拍て嵯歎す。」
『甲西町誌』より抜粋

「坪川の堤防上で魚を釣り始めたがまったく釣れなかった。それでも汗をかきながらずっと続けていると夕暮れになったころ一匹一匹釣れ始め、十数匹の魚が釣れた。山頂が黄金に彩られ、山々は深い緑色に染まっていく。家々のかまどから煙が天にたなびくころ帰り道についた。お寺の鐘の音は川の上を渡るように響き、涼やかな風が懐に入ってくる。鳥の声が響きわたり、蛙の声もはてしなく聞こえてくる。家に帰ると門人たちは庭で出迎えてくれて、妻は屋内で待っていた。魚を見ると、妻は微笑み、門弟たちは手を叩いて喜んだ。」
(上記の文を要約)

「先生、大漁ですね!」「おかえりなさいませ。晩御飯のおかずができてよかったです。さっそく夕食にしましょう。」門弟や妻の笑顔ととともにこんな声が聞こえてきそうです。

 好きな釣りを楽しみ、笑顔に包まれた夕暮れ時の穏やかな時間。詩文から日々のなにげないくらしのぬくもりが伝わってきます。私がこの文章を書いている目の前には八ヶ岳の山々が薄紅色に彩られ、早咲きの桜の花が風に揺らいでいます。遠くから鳥の鳴き声。家路を急ぎ行き交う車の音。手を繋いで散歩する親子の姿。いつものなにげない日常の風景が広がっています。

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 綿引先生が水害によって失ったもの、水害後に取り戻したいと考えたのは、こんな何気ないそして大切な日々のくらしだったのでしょう。こんな思いはさせたくない、そのためにできるだけ備えてください。この強い想いは現代さまざまな災害で被災された多くの方々が語る言葉と重なります。災害を忘れないことはとても難しいことです。けれど繰り返しそれらの多くの言葉に出会えるのなら、忘れそうな日々の大切さをまた気づかせてくれるはずです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の道祖神さん

はじめに

 早いもので令和3年も一月半が過ぎ、暦の上では春を迎えています。今年は節分の日にちが1日早まるというこれまでにない経験をしましたが、コロナ禍の影響で寺院などでの豆まきのイベントもほとんどが中止だったようです。実はちょうど一月前の小正月の日も、いつもと違う過ごし方をした方も多かったのではないでしょうか。
 例年1月14日には、南アルプス市内各地で伝統の小正月行事が行われ、道祖神場にはさまざまな美しいお飾りが登場し、どんど焼きが行われています。しかし、今年はコロナ感染拡大の対策としてどんど焼きを中止にしたり、飾り付けを簡素化する場所も多くあったとお聞きします。

 道祖神は村外から侵入する悪霊や悪病を防ぎとめる力があると言われる「塞(さい)の神」で、村人の幸せを守る神様です。本来であれば、このような情勢の時こそ、むしろ道祖神さんのお祭りをするべきだったと言えます。
 実は、山梨県は群馬県や長野県とともに道祖神信仰が盛んな地域といえます。特に山梨では小正月の行事に絡めることが多いのが特徴で、先述したようにご神木に様々なお飾りを施したり、どんど焼きのオコヤが建てられたりします。これら小正月行事については過去の記事(平成29年1月15日号)でもご紹介をしているので併せてお読みください。

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【写真】小正月の様子

 実は隣の地区の道祖神のことってあまり知らなかったり、道祖神場は知っているものの、いくつも石造物がまとめてあってどれが道祖神さんかわからないままどんど焼きだけ参加しているという方も少なくないようです。今回は、そもそも市内の道祖神さんについて、どのようなものが、どのくらいあるのかなどを探っていきたいと思います。


道祖神さんって市内にはそんなにないでしょ?

 文化財課で取り組んでいる「ふるさと〇〇博物館」のプロジェクトでは、道すがら出会える何気ないものを記録しています。石造物もたくさんあってその地区の特徴を見出すことができますが、どの地区でも必ず出会えるのが「道祖神」さんと言えます。今回知りうる限りほぼ全ての道祖神さんをマップに配置することができ、その数はなんと195地点!にのぼりました(まだ確認できておらず落とし込めていないものもあります)。

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【写真】〇博アーカイブで道祖神だけを表示した画面

 まだ、全体を把握することで精いっぱいでしたので、歴史的な背景などを掘り下げることはできていませんが、分布と石造物の形態は把握できていますので、それらを整理してみたいと思います。
 南アルプス市で道祖神さんというと、どんど焼きやお飾りなど、小正月の道祖神祭りを思い起こす方が多いと思います。厄除けや無病息災、子授け、五穀豊穣など、村人の様々な願いが込められています。
 道祖神は道端にあって、道を行き交う人々を見守る神様と考えられることが多いですが、道と道が交わる辻にあったり、それが集落の境界や入り口であることから、疫病神、厄神、悪霊などが外部から集落に侵入してこないように、塞(ふさ)いで村人を守っていただくという願いも込められています。
 飯野地区などでは、夏に道祖神場にチョウマタギを飾って、夏の道祖神祭りが行われています。これも、元々は夏場に流行する疫病が集落に入ってくるのを防ぐという願いが込められた風習と考えられています。
 また近世には、感染症である天然痘を防ぐ目的で疱瘡神(ほうそうがみ)が祀られることもあり、上今井地区のように道祖神場に一緒に祀られる場合もあります。
 これらのように道祖神は各集落(かつての小路ごとの場合が多い)ごとに祀られているため、市内各地でこれほど多く存在するのです。


形態による道祖神さんあれこれ

 道祖神のご神体は石造物が多く、山梨県では球体の石(「丸石」)を祀ることが多いのが特徴です。南アルプス市内では、「丸石」よりも「自然石」を用いたものが多く、形態などからの種別を分類していくと以下の通りです。通常は「自然石」か「丸石」か「文字碑」かの3種程度に分類されるのですが、市内の形態的特徴からさらに細かく分類してみました。また、形態とは別に道祖神さんとして扱われているほかの神様も判別できるようにしています。
内訳は以下の通りです。

自然石:93基
石祠:48基
丸石風の自然石:23
小さな丸石風自然石を複数:9
丸石(正円の球体):7
双体像:5
八衢神・衢神:4
塞神:2(3)
猿田彦:2
文字碑:1
男根形:1

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【写真】南アルプス市道祖神分布地図

 種類ごとの内訳は上記のとおりですが、市内の実態に合わせて少し細かめに分類していますので、いくつか注意点があります。圧倒的に多いのが「自然石」となりますが、この中にはいびつな形をした自然石と、細長い楕円形の自然石などがあり、文字が刻まれていても、石全体に人工的な加工がなければ「文字碑」とはせずに「自然石」に分類しています。文字碑としたのは明らかに板状に加工してあった落合地区の八王子社の中に祀られている道祖神さんだけです。ただ、加工されていない自然石でも正円の球体に近いものは、いわゆる「丸石」として祀られているものとみられることから「丸石風の自然石」としています。これはむしろ「丸石」にまとめても良いかもしれません。現状では「丸石」としたものは完全な正円形に加工されたもののみとしています。これらを合わせると「丸石」グループは合計39基となります。
 また、形態ではなく、表記から分けたものが猿田彦や八衢神、塞神などですが、これらは地域では道祖神として認識され祀られていますのでここで一緒に扱っています。


種類ごと地域ごとに特徴が見えてくる

 まず、全体を俯瞰してみましょう。市内全体、集落があるところには道祖神さんがあることがよくわかります。この図は現在確認できたもののみが配置されていますので、過去の記録でにはあるもののまだ確認できていないものがまだございます(皆ざまからの情報をお待ちしています)。ただ現状でも十分に道祖神さんの位置と特徴がわかります。
 市内の各築の中でもさらに「小路」ごとに設置されているのが通常です。しかし、道の拡幅工事等によって移動したり、集落で一か所にまとめるというようなこともあります。西野地区は集落内の半分以上が諏訪神社に集められていますし、秋山地区も秋山区公民館の前に二つ分が一つの基壇上にまとめられています。大師集落では街角に今も祀られているものと天神社に集められたものとがあります。

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【写真】西野地区諏訪神社に集めら祀られている道祖神さん

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【写真】秋山地区の道祖神

自然石
 地図をパッと見て、やはり「自然石」を示す緑色のマークが圧倒的に多く、市内全体に存在することがわかります。また上今諏訪や下今諏訪、桃園、上宮地、小笠原などでは集落全体でほとんどが「自然石」を用いているように、地域ごとに形態が統一されているような傾向がつかめます。ただ、そのような中で例えば下今諏訪集落のように一か所の小路だけ双体道祖神が祀られていることはとても興味深いです。双体道祖神については後ほどまた触れます。また上市之瀬集落の中村小路(3組)の道祖神さんは地域の力自慢の若者が笛吹川の方から運んできたものという伝承も地域には残っていました。このような背景についてはこれからさらに調査を進めていく予定です。

桃園
 桃園地区では古くからある小路4か所全てで縦長の自然石を用いられていますが、特徴としては同じ道祖神場に秋葉さんやお蚕の神様(蚕神や蚕影大明神が混在)も同じく縦長の似たような形の自然石を用いて並べていることです。

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【写真】桃園地区の道祖神場

上宮地
 しかしお隣さんの上宮地地区では4か所あるすべての小路で、自然石の道祖神さんと石祠の秋葉さんがセットで一つの基壇の上に並んで祀られています。お隣さん同士ですが、集落ごとに違ったルールで道祖神さんが祀られていることがわかります。石祠は市内では山の神さんや屋敷神さんに用いられることが多いのですが、秋葉さんだったり道祖神さんだったりと様々な神様に用いられているようです。

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【写真】上宮地地区の道祖神場(右側が秋葉さん)

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【写真】上宮地地区の道祖神場(右側が秋葉さん)

石祠
 その石祠の道祖神さんについてみていきましょう。市内では2番目に多い形態です。分布状況がはっきりしており、北部にも数基は見られるものの、おおむね西野集落ラインより南側の、若草、櫛形地区に多いように見えます。加賀美地区では一つの小路を除いて石祠が集中していますし、東南湖地区では2小路とも石祠です。中野地区も特徴的で、従来の中野集落では三小路とも全て富士山の眺望ポイントに石祠が祀られているのに対し、同じ中野地区でも神戸集落の二小路では自然石で統一されている点です。村の成り立ちにより特徴もみえてくるようです。
 石祠で特筆すべきなのは平岡地区です。平岡集落は4つの小路すべてに道祖神さんがあり、全て石祠で統一されています。それだけでなく、全てが朱色に塗られた屋根塀で囲まれた社のような造り(このような造りは江原地区などにも見られます)をしています。また、小正月のご神木飾りはひし形(弓)にオヤナギに梵天を組み合わせるといった凝ったつくりで統一されているのも特徴です。

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【写真】中野地区の道祖神

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【写真】平岡地区の道祖神

双体道祖神と男根型
 全国的には、道祖神というと双体道祖神さんや男根形の石造物を思い浮かべる方も多いようです。どちらも子孫繁栄などを主に願ったものとされますが、南アルプス市ではそれほど多くはありません。メインの道祖神さんの横に細長い石を立てたものは数か所で確認できますが、男根型に加工した石造物は小笠原に1基確認できるのみです。
 また、長野県では沢山みられる双体道祖神さんは、南アルプス市では5基にとどまり、その傾向はつかめておりません。上今井・下今井・下今諏訪に1基ずつあるのは近隣地区なのでなにか意味があるかもしれません。また、須沢地区に、石造物が集められている場所に双体道祖神さんとみられる石造物も集められていました。どこにあったものかは不明です。

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【写真】下今井地区の双体道祖神さん 肩を組み、手を取り合っているのがわかります。 

丸石道祖神
 山梨の道祖神と言えば何といっても「丸石道祖神」さんです。全国的にみても「丸石」を祀るのは山梨の特徴と考えられています。南アルプス市でも、きれいに加工した丸石以外に球体に近い自然石や丸い自然石を集めたものなどを合わせれば39基となりますし、自然石へ分類した中にも丸石を意識したと考えられるものもあるため、それらを加えれば石祠に近い数があるとみられます。
 丸石道祖神の分布も傾向がみられ、北と南に分布が集中しています。北では有野地区では4小路全て、徳永地区で3小路全てが丸石で、南は甲西地域の西南湖から落合にかけての辺りにも分布の集中がみとめられます。また、もう一つの特徴として、市北部では駿信往還(旧国道52号)沿いも丸石である傾向がみとめられます。さらに、曲輪田新田地区も特徴的で、2か所とも小さな丸石が沢山詰められた状態で祀られています。

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【写真】有野地区の道祖神さん

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【写真】西南湖地区の道祖神さん

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【写真】曲輪田新田の道祖神さん

 道祖神さんの形態については以上見てきた通りですが、実はどの道祖神さんにも共通するのは、どのような形態であっても、基壇上にはメインの石以外に、小さな丸い石が集められていることです。メインは石祠であっても、自然石であってもほぼ全て、丸石が複数集められています。やはり丸石に対する信仰が根強くあることに間違いは無いようです。

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【写真】上宮地風新居地区の道祖神場

曲輪田集落の不思議
 以上市内全体での形態的な分布の傾向などを概観してきました。やはり地域ごとに同じ形態を採用していることや、ほかの神様とのセットでの祀り方が統一されているなどの特徴が見えてきました。
 しかし、そのような中で曲輪田地区が不思議な存在と言えます。「自然石」、「石祠」、「複数の丸石」、「丸石風の自然石」と4つある小路がすべて違う形態の道祖神さんなのです。このような地区は市内のほかの地区にはありません。

そのほかの神様
 形態の特徴以外ですと、石造物本体に「八衢神」や「猿田彦」などの道の神様や悪霊が村に入るのを塞ぐ「塞神」などの名が刻まれ、道祖神さんとして地域で祀られているものも若干数みられます。東落合集落や鏡中條集落に「八衢大神」とある以外はほとんど百々集落や上八田集落などのように市内北部に集中しています。これらは皆自然石を用いています。
 また、現在は地域住民から道祖神としては祀られていませんが、道祖神と同じような役割を果たしていたと考えられる「西(塞)の神地蔵」が野牛島にあります。天文13(1544)年に建てられた古い板碑で、「八田庄」の文字が刻まれている貴重な史料です。

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【写真】百々の猿田彦

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【写真】東落合の衢大神

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【写真】野牛島の西の神


まとめ

 以上、ふるさと〇〇博物館では市内の道祖神さんを網羅しようと取り組み、まだ完全とはいえませんが、ほぼ網羅できてきましたので速報させていただきました。現時点では形態の特徴をまとめてみただけですので、どうしてそのような石を用いたのかなどの背景の物語についてはまだまだこれから精査を進めていくところです。ぜひぜひ皆さまからの情報もお待ちしています。この段階でふるさと〇〇博物館のサイト「〇博アーカイブ」南アルプス市◯博アーカイブ (maruhakualps.jp)には配置ずみですので、ぜひ〇博アーカイブでご覧ください。現時点で位置だけ示して写真が配置できていない場所が数か所ありますし、詳細な情報はまだまだ充実させている途中ですのでご了承ください。

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

※リンク先のサイトでは自動で動画再生した後に全てのデータが表示されますので、左側の検索アイコンで道祖神と入力していただければ道祖神開けが表示されます。

 道祖神さんは私たちに最も身近な存在と言える神様です。ただ、地域には、氏神様と呼ばれる神社のほか、お稲荷さんや秋葉さん、山の神さんなど多くの神様が祀られていますので、実は道祖神さんがどれか知らないという声も多く聞きます。また、道路の拡幅工事などに伴って石造物が移動していたり、神社境内に集められたりする事もあり、余計にわかりにくくなっているようです。
 ただ、道祖神さんを観察してみると、江戸時代の年号が刻まれているものや平成に修理したものまであり、移動しながらも、長い年月をかけて大切に受け継がれてきたことが伝わってきます。
 隣の地域の道祖神さんを気にすることもなかったでしょうから、このような情勢を機に、村人の幸せを守り、疫病や悪霊から守って来たご近所の神様を訪ねてみてはいかがでしょうか。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(3)

はじめに

 前回に引き続き、鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(以下ラヴィ)について少し掘り下げて観察をしていき、その意味合いなどについても考えていきたいと思います。第1回目では鋳物師屋遺跡のことを。前回は「円錐形をした土偶」という、形態的な特徴についてみてみました。
今回はもう少し踏み込んで細かな「部分」を観ていきたいと思います。その時に第1回でご紹介した細かい「時期」についての表現も出てきますので、今一度、土器から見た山梨県の土器「型式」についても確認しておきましょう。ちなみにラヴィが出土した57号住居の出土土器は「藤内式」の前半の様子を示していました。

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【図】山梨県における縄文時代中期の土器型式による区分け

 

ラヴィのお顔

 まず、顔の特徴から見ていきます。顔の輪郭は、南アルプス市にある櫛形山のような形で、おでこの上部に広がりは少ないです。下のあごのラインはほぼ水平、丸いおちょぼ口が若干下がっているので少しだけあごの表現があるように見えます。縄文時代中期でも、後の時代になるほど顎が下がってくる傾向があります。平面的な顔面に立体的なパーツが乗っかっている印象です。
 後頭部は割れていますが、環状に粘土紐がめぐって、前回ご紹介した「玉抱き三叉文」の装飾をした後頭部になっています。この後頭部の表現も縄文時代中期の前半に見られる特徴と言え、この後、ヘビのような装飾がついたり、髪を結ったようなリアルな表現になるなど、複雑な後頭部が目立ってくる傾向があります。
 同じ鋳物師屋遺跡に、土偶が装飾された土器がありますが、この土偶部分の頭部も玉抱き三叉文になっており、ラヴィよりもよりはっきりした典型的な玉抱き三叉文といえ、他の文様の特徴から考えても、ラヴィが出土した57号住居の土器よりも一段階古い「新道式」のものと考えられています。
 ラヴィの後頭部は、やはり3本指で有名な笛吹市の中丸遺跡の土偶の後頭部(東京国立博物館蔵)にも類似しています。この土偶は通称「ヤマネコ土偶」などと呼ばれるように、正面から見ると三叉文部分の粘土紐がネコ耳がついているように見えるのです。もしかしたらラヴィも後頭部が割れていなければ、ネコ耳のように見えた可能性もあり、そうすると大分印象が変わってきますよね。

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【図】ラヴィの後頭部と類似資料

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【写真】土偶装飾付き土器

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【写真】土偶装飾付き土器
 
 顔のパーツをみてみますと、吊り上がったアーモンド形の目や高い眉といずれも立体的に作られ、頬には弧状の刻み目が2列並んでいます。刺青や化粧を表現していると考えられ、これらは中部高地、特に八ヶ岳周辺地域で多くみられる顔立ちと言えます。ただ、口も立体的に丸く突き出している例はそれほど多くはありません。
 頬の刺青の表現とみられるラインは、似たような文様が同じ鋳物師屋遺跡の「人体文様付有孔鍔付土器」のかわいらしいお顔にも見てとれます。ただし違う点は、有孔鍔付土器の方は線で描かれていますが、ラヴィの方は先のとがったような工具で細かく突き刺したような痕が連続して線のように並んでいることがわかります。このような文様の付け方は「新道式」という時代の特徴と言え、有孔鍔付土器(「藤内式」)よりも一段階古い文様の特徴です。その反面胴体部分にある幅広な工具による文様は「藤内」式の特徴と言え、古い要素と新しい要素が混在していることがわかります。

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【写真】ラヴィのお顔

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【写真】人体文様付有孔鍔付土器のお顔
 
 細かいところを観察していくと、耳には耳飾り(ピアス)をしていたことがわかります。縄文時代中期の土偶には耳飾りが表現されたものもみられ、例えば先ほどご紹介した土偶装飾付土器の土偶にも左耳に耳飾りを模した表現がみとめられます。ただ、ラヴィには実際に孔があけられており、耳飾りがあったことを暗示した表現なのか、実際になにか別の部品が付けられていた可能性もあります。左耳は欠けていますが、ちょうど孔の部分で割れているので貫通している孔の様子を見ることができます。

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【写真】ラヴィの耳の孔

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【写真】土偶装飾付き土器の左耳
 
 そして目をよく観察すると赤く塗られていることがわかります。目のくぼんだ所が顕著で、赤色顔料は、分析の状況からは酸化鉄の類であることは言えます。しかし、全身に見られる赤い色味は上から塗られた物ではなく、粘土中の成分が赤く見えていることが分かっています。塗られていたわけではありませんが、赤くなる効果を狙って粘土が調合されていた可能性は残されています。よって、赤く塗られていたのは目だけといえます。このことについても、たまに全身が塗られていた可能性があるとする書籍もございますので、ここでお伝えしておきます。

 これまでラヴィの特徴を観察してきましたが、この特徴はいずれも、中部高地の縄文時代中期の特徴であることは確かで、さらに言うと、新道式という時代の特徴が多く残っていることから、新道式から藤内式への移行期に作られた土偶であると想像できます。

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【写真】目の中の赤色の様子

しぐさのある土偶

 顔だけでなく体の表面もよくご覧いただくと、何度も丁寧に磨いた痕や、胴体にも細かい文様などが施され、精緻に作り上げられていることがわかります。この土偶に対して強い思いが込められた様子がうかがえます。
 では、どのような思いが込められたのでしょう?
 この土偶「ラヴィ」の表面的な特徴ではなく、縄文人の内面を探ることは大変なことです。ただ、ラヴィは、そのしぐさが特徴的で、そこにヒントがありそうです。
 ほとんどの土偶が「手が短いやじろべえ」のような恰好をしていますが、中部高地周辺の縄文時代中期中頃を中心に、「しぐさ」や「動き」のある土偶が見られます。これらを「ポーズ土偶」と呼ぶことがありますが、これは「しぐさ」がある土偶のことです。以前東京国立博物館の「縄文展」では、解説は少なく「ポーズ土偶」とだけ表示されていたもので、ラヴィをご覧になった若いお客さんが「ほんとだ!モデル立ちしてポーズとっている」と感想を漏らしていました。決してそういうことではないのですが、誤解を与えてしまう表現ですよね。ですので、ここでは「しぐさ」のある土偶としておきます。
 左手は大きくふくらんだおなかに添えられ、右手は反り返った腰を押さえています。このような恰好がどのような姿を表しているのか、簡単に想像できるのは二通りでしょうか。一つは食べ過ぎておなか一杯の様子であり、もう一つはおなかの中に赤ちゃんがいる妊婦さんの様子です。
 この土偶だけでは判断はできませんし、してもいけませんので、他の土偶と比較検討してみましょう。
 実は時代も時期も限定されたこの「しぐさ」のある土偶、それほど多く出土していませんが、これらには共通点がみられます。
 釈迦堂遺跡(山梨県)にはまさに出産の瞬間(座産)の姿の土偶があり、宮田遺跡(東京都八王子市)には赤ちゃんを抱いて母乳を飲ませている姿、上山田貝塚(石川県)には赤ちゃんをおんぶして(あるいは抱っこして)左手で支えている姿などがあり、「しぐさ」のほとんどが「出産」や「子育て」、「命」などに共通していることがわかります。

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【図】上山田貝塚の土偶の実測図(2016『徳万頼成遺跡報告書』より)

 そのような目線であらためて観察してみると、乳房があり、その中央にはへそ(出臍)へとつながる正中線、そして大きく膨らんだおなかが垂れ下がったかのような表現があります。これは「対象弧刻文」と呼ばれ、土器には用いられない中部高地の中期の土偶特有の表現です。棚畑遺跡の縄文のヴィーナスのおなかの表現と同じで、ヴィーナスはおなかのふくらみを立体的に描いていますが、その後徐々に平面的に表現されていきます。ラヴィもだいぶ平面的になっていますが、後の時代の土偶になるとさらに平面的になり対象弧刻文も正中線もただの線で描くだけとなります。

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【図】縄文のヴィーナスとラヴィの対象弧刻文(1990『棚畑』 茅野市教育委員会より)
 
 ラヴィのおなかは空洞であることが分かっており、本来は中に鳴子が入っていたのかもしれないことは前回ご紹介した通りです。円錐形をした土偶では突出して大きく精緻に作られた土偶ですが、他の円錐形土偶と同じように、底面の中央部に孔が開いています。これはただの空気抜けの孔というよりも、赤ちゃんが顔を出す場所を表現しているように思えます。やはりおなかの空間は胎内を表しているのでしょう。
 

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【写真】ラヴィの底部
 
 ということは、ラヴィのしぐさは、お腹の中に新たな命を宿したお母さんの姿であり、まるで臨月を迎えた妊婦さんが腰を押さえながらおなかの赤ちゃんを慈しんでいる姿に思えるのです。現在の妊婦さんとまったく同じ姿に、縄文人へ親近感を抱きます。
 
 ただ、指が3本なのは親近感はわきません。我々と同じように見えても、これは人間ではなくあくまでも「偶像」ということを強調しているのかもしれません。同じ鋳物師屋遺跡の「人体文様付有孔鍔付土器」も3本指で、「ヤマネコ土偶」も3本指なのです。
 中部高地周辺では割とみられ、特に土器に描かれる場合、「カエル」を描いた土器に3本指が多く用いられることからカエルとみたてた時に3本指にするのではないかという研究もあります。カエルは沢山の卵から沢山の命が誕生し、そしてオタマジャクシから姿を変えて成長してゆくなど、縄文人はその姿に発展や成長、繁栄などを重ね合わせたのでしょうか。もしかしたら、鋳物師屋遺跡の縄文人もそのような考えで3本指にしたのかもしれません。妊婦姿の土偶という点からすると、願う先は同じように思えます。
 しぐさは愛情にあふれたような微笑ましいもののように見えますが、その反面、「命」に対して必死に繋いできた姿が見えてくるようです。

 

ラヴィの位置づけ

 中部高地周辺地域は土偶が最も多く出土している地域の一つです。前回お伝えしたように、特に縄文時代中期には、板状の土偶から立像土偶、または立体的な土偶への変遷がみてとれます。さらにしぐさや動作がある土偶、円錐形の土偶の展開などはまさに中部高地の特徴といえます。ラヴィも、円錐形の立体的な胴体に立体的な頭部がつき、さらに、妊婦さんを彷彿させるしぐさがありますよね。まさにこの地域の特徴を良く表している代表的な土偶といえます。
 ラヴィは、57号住居址の床面近くから出土し、割れはあるもののほぼ全身の姿がわかる状態を留めていました。これは、ラヴィが住居の中で用いられていたことを示している貴重な事例と言えます。先述したように、ラヴィの特徴からすると、縄文時代中期の藤内式という時代の中でも最初の段階、その前の新道式の特徴が色濃く見えますので、ちょうど新道式から藤内式へ移行する段階の土偶だと考えられます。そうすると、57号住居址の土器が藤内式の前半とみられますので、住居にあった土器よりも土偶の方が若干古い様相を示しているのです。この点はもう少し精査が必要ですが、もしかしたら、土偶がある程度長い時間「使われていた」可能性があるのです。これは、底の部分に擦れたような痕があることもそれを裏付けているように思えます。たとえば代々受け継がれたり、村の中で受け継いだりしたものなのかもしれません。そう考えるとますますラヴィへ込められた想いの強さが伝わってきますね。
 
 土偶も多様であって、必ずしも一つの目的のものではないと考えます。妊婦さんの姿や赤ちゃんの顔、動物の特徴などを借りながら、「何か」を表している「偶像」なのでしょう。例えばラヴィが「出産」を表しているのか、「豊穣」を表しているか、その両方かもしれないし、実は両方とも違うかもしれません。しかし、「しぐさ」のある土偶に見られるテーマがいずれも「出産」や「子育て」と言えますから、いずれにしても大きくくくれば「命」を象徴しているように思えます。おそらく現代人が考える一つの言葉では表せないのでしょうね。ラヴィを通して縄文人の思いを想像する楽しみが尽きません。

ラヴィの活躍

 ラヴィは、多くの書籍や、全国そして海外の博物館で紹介されるなど、まさに縄文文化を代表する存在として活躍しています。当然南アルプス市の歴史を語る上で欠かせないものですが、歴史に興味のない方にはまだまだ浸透できていません。そこで、歴史に興味がない方や様々な世代の方にも知っていただけ、誇りを持っていただけるよう市の文化財課では、市民のみなさんと連携しながら様々な工夫に取り組んでいます。

土偶に囲まれベビーマッサージ

 そのひとつとして、平成26年度よりふるさと文化伝承館の縄文展示室で「HONDAベイビーくらぶ」という取り組みを実施しています。子育て支援を推進する市内の企業さんと、子育て支援NPO法人さんとの協働で隔月で開催しているもので、ベイビーマッサージや縄文のお話しなど、命の象徴であるラヴィに見守られて親子で命を育む集いです。毎回受付開始後すぐに定員が埋まるほどの人気で、これまで200組以上が参加されています。ラヴィは子育て世代にはとても共感を得られやすいようです。

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【写真】ラヴィ越しに望むベイビーマッサージの様子

愛称の決定とキャラ展開

 「子宝の女神 ラヴィ」という愛称は、ふるさと文化伝承館で実物を見学された方を対象に平成25年26年と募集し、平成27年に決戦投票で決定したものです。「ラヴィ」はフランス語で「命」の意味です。同じ名前でキャラクターとしても展開をしていて、同年には土偶キャラ界の頂点を決める「全国どぐキャラ総選挙」で見事優勝、翌年には「ミュージアムキャラクターアワード2016」で全国2位に輝きました。これらはインターネット上での投票であり、SNSを利用する世代への周知に効果的でした。

ラヴィの胎内体験

 また、ラヴィの姿をしたエアードーム型の胎内体験ドームは、妊婦さんの姿をした土偶ですからということで、ラヴィのおなかの中に入って子供たちが笑顔で遊んでいるというシチュエーションがポイントです。子供たちがドームの壁にぶつかり壁が飛び出す様子が、お腹の中で赤ちゃんに蹴られた時のことを思い出すと話すお母さんもおり、思いがけない共感も生まれています。
 これらは、普段、歴史に触れる機会の少ない子育て世代や、小さなうちから知らず知らずのうちに地域の歴史に触れているという仕掛けで、興味の入り口として機会を作っています。楽しみながら縄文文化や歴史に触れられれば良いと考えています。

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【写真】ラヴィの着ぐるみ(左)と胎内体験ドーム

地域住民と縄文のコラボ

 地元南アルプス市小笠原にあるベーカリールーブルさんでは、ラヴィの顔をあしらっただけでなく、鋳物師屋遺跡の土器片の圧痕調査から判明した「ダイズ」「アズキ」「エゴマ」を具材にしたパンを販売しています。他のまちにはないオリジナルな資源として活用してくださっています。同じように、鹿皮に漆を用いている山梨の伝統工芸「甲州印伝」ともコラボしてラヴィ名刺入れを作りました。まさに縄文の組み合わせですからね。名刺交換の時からまちのPRを全開で行えます。
 行政の中でも活用されはじめ、住民票等をお渡しする際の封筒にも登場したり、健康増進課の少子化対策担当として市長から辞令ももらい、おむつ引換券や妊婦さんへの検診の通知にも登場しています。
 その他、遺跡の存在する下市之瀬区の高齢者サロンのボランティアグループが「ラヴィの会」と名付け、揃いのTシャツで活動したり、地元小学生が自ら鋳物師屋遺跡のことを調べ、動画で配信するなど、地域の誇りとして定着しつつあります。

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【写真】店頭に並ぶラヴィちゃんパン

メッセージ~まとめにかえて

 海外展に7回、縄文を扱う書籍には必ずと言ってよいほど登場する「子宝の女神ラヴィ」は中部高地地域の土偶の特徴を兼ね備え、明らかに縄文文化を代表する土偶の一つです。その造形や精緻さだけでなく、縄文人の精神分野を垣間見ることができる独特の姿やしぐさで注目されています。何よりも、その姿が命の根源に関わる姿をイメージさせることが、観た方の心を掴んで離さないのではないでしょうか。愛情に溢れているようなしぐさにも見え、親近感のわく存在と言えますが、実は必死に命を繋いできた縄文人の思いが込められた姿なのかもしれません。
 同じ鋳物師屋遺跡には表面に土偶レリーフが貼り付いた有孔鍔付土器(重文)など、日本を代表する優品が揃っています。コロナ禍にありなかなか移動のできない昨今ですが、移動できるようになりましたら、ふるさと文化伝承館にぜひお越しいただき、「命」のメッセージを受け取ってください。素敵な未来を紡げますように。

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【写真】鋳物師屋遺跡出土 円錐形土偶「子宝の女神 ラヴィ」

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(2)

はじめに

 前号より、南アルプス市下市之瀬にある鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」について、これまで紹介してきた内容を一歩進め、ふるさと文化伝承館で実際に受けた質問などへの答えも含めながら、一体どのような遺跡・土偶なのか、深掘りして連続でご紹介しています。
 前号では、まず鋳物師屋遺跡について。今号はいよいよ土偶本体についてみていきたいと思います。年代観などマニアックな部分も含みますので、ぜひ、前回の記事も合わせてご確認ください。


土偶って

 土偶とは、主に縄文時代に粘土で作られ焼き上げられた人形であり偶像のことですが、これまでにおよそ20,000点ほど発見されているとされます。
 土偶の「用途」や「目的」を解き明かすことは究極の課題なのかもしれません。それは、実際に出土する土偶も形や発見時の姿などが多様であるからで、「土偶」とひとくくりで呼んでいても、用途や目的は必ずしも一つのものではないと考えられます。例えば、故意に壊されたように見える出土例が多いことから祭祀等で用いられたものでないかとか、体の具合の悪いところの回復を願ったものと考えられたり、女性の妊娠や出産を表現したものも多く、安産などを祈ったものか、また女神や精霊、命の再生、お守りや玩具、さらにはバラバラにされているものも多くそれらを大地に蒔くことで豊穣を祈った(ハイヌウェレ系の神話)という説など、まさに多様です。
 実際、出土する土偶のほとんどは動作などのしぐさは無く、「腕の短いやじろべえ」といた印象のものが多く、さらに、バラバラになって体の一部分のみ出土するというケースがほとんどです。体の一部であればほんの数センチ、全身に近くても10~15センチメートル前後のものがほとんどといえます。


「ラヴィ」は竪穴住居の床面直上から出土した

 前回の最後の段落でご紹介したように、「子宝の女神 ラヴィ」は、左肩と後頭部の一部を除いてほぼ全てが揃っていて、通常知られる土偶の出土状態と違い、バラバラではない状態で見つかりました。折れはありましたし欠損箇所もありますので、あえて「バラバラではない」と表現しています。よく誤解されますが決して完形で出土したわけではありません。また、住居の床面で見つかったということも特徴的で、長野県などで見つかるような、お墓に伴うものとは性格が違うようです。
 多様な土偶がある中で、この土偶がどのような土偶なのか、そのヒントを探すために、まずは土偶をよく観察してみたいと思います。その上で他の土偶と比較検討していきましょう。ひとつだけで検討してもあまり意味はなく、他の出土遺物と比較検討する中で共通点と相違点を整理していくと、この土偶の性格がみえてくるものと考えます。

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【写真】「小宝の女神 ラヴィ」の発見状況 住居の床面から出土した

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【図】57号住居の遺物出土状況図 1が「子宝の女神 ラヴィ」


ラヴィを観察する

 この土偶からさらなる情報を見つけようと、人間ドックならぬ「土偶ドック」も始めていますので、そのあたりも含めてラヴィの特徴をみてみましょう。
 土偶の身長は山梨県内の土偶では最大の25.5㎝で、全国でも縄文時代中期の土偶でトップ10に入るほどの背の高い土偶です(縄文時代晩期になると東北地方を中心に30㎝越えの土偶が沢山作られます)。底面は長径15㎝×短径13.4㎝の正円形に近い円形で、円錐形をした大きな胴部は安定していて自立します。人形で考えれば、元々脚のない腰から上だけを表現している土偶といえます。考古学では共通する特徴ごとに分類をしていますが、このような胴体部分が円錐状の姿形をした仲間を「円錐形土偶」と呼ぶことがあります。

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【写真】ラヴィの正面および側面と背面

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【写真】ラヴィの正面および側面と背面
 

円錐形土偶

 20,000点ほどもある土偶も、その時代と地域による特徴から、その変遷や変化を読み取ることができます。最初は体のラインを強調した女性のトルソー像(腕などを省略した胴体)から始まり、板状の土偶、そして、縄文時代中期頃になると北陸や中部高地地域を中心に、顔の表現が具体化し、さらに立体的な表現や、自立する立像、頭部も立体的になるなどの変化が見られます。「円錐形土偶」はまさにその立体的かつ安定して自立する像として登場してきます。
 「円錐形土偶」は全国でも出土例は少なく、全身が残っているものは10点もありません。頭部が無くても円錐形をした胴体と判別できるものまで広げても20点程度です。すでにこの形をした土偶自体が非常に珍しい貴重なものと言えます。その中でも鋳物師屋遺跡の円錐形土偶は最大で且つ最も精緻な作りをしています。

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【図】全国の主な円錐形土偶(1996小野「ポーズ土偶」より作成)

 「円錐形土偶」は、ほとんどが下腹部より上の上半身を表現し(一部に円錐部分の下の方に脚の表現が描かれているように見えるものもあります)、胴体部分が円錐状の形状をしているもので、その内部が中空であることが共通します。内部が中実で円錐形に見えるものもありますが、その場合は本来は脚が付いていたのに外れてしまった例がほとんどです。円錐形土偶のすべてが縄文時代中期のもので、中部高地地域を中心とした北陸から関東までの遺跡からしか発見されていません。縄文時代の後期になると似たような土偶でもっと胴体が筒状の土偶が登場しますが(「筒形土偶」と呼びます)、大きな違いは中期の円錐形土偶には腕や正中線などの表現が立体的にあり上半身の表現が具体的にされていることが多いのに対し、筒形土偶は筒状の上に平面的な顔が乗っかるだけです。大きく異なったものと言えます。そのような特殊な「円錐形土偶」の中で、特に鋳物師屋遺跡の円錐形土偶は最も大きく、腕の表現などが立体的になり、精緻なつくりとなっており、円錐形土偶の中で最も成熟された頂点にいる土偶と言えるのです。

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【図】主な円錐形土偶の中空構造(2016『徳万頼成遺跡』・1996小野「ポーズ土偶とその周辺」・1996今福「中期前半山梨県の様相」より作成)
 
 円錐形をしたおなかの内部は胸の下までが空洞です。まれに頭の空間までおなかから首まで空洞が一続きになっていると解説されている書籍がありますが、それは間違いで、胸から首にかけては中実のつくりになっています。さらに両脇と底面の中央に円い孔が開けられています。中空なので焼成時の破裂防止として必要な孔ですが、両脇の孔は、この頃の土器や土偶にもよく用いられた文様で楔形の図形と丸を組み合わせた「玉抱き三叉文」という文様の丸の部分を使って孔が開けられています。ちなみに、「玉抱き三叉文」は頭の後頭部にも使われていて、この後頭部のつくりは縄文時代中期でも前半に作られた土偶の特徴と言えます。
 「円錐形土偶」は全て底部の中央に孔が開いていて、本来は内部に鳴子が入った土鈴のような「鳴る土偶」だったと考えられています。実際に東京都八王子市楢原遺跡の土偶には内部に入ったまま出土しました。なんだかお腹の中の赤ちゃんをあらわしているようにも思えます。

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【図】ラヴィ実測図

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【写真】頭部内面の画像 首の部分はふさがっていることが分かる

 
おなかの中

 内視鏡やCTスキャンの画像では、ラヴィの内部に鳴子は残っていませんでした。土玉であれば割れて孔から出てしまったかもしれませんし、豆などの有機物を入れて鳴らしたという考え方もあります。
 内視鏡では、粘土紐を積み上げた際の輪積みの痕がはっきりとみえ、内面はほとんど調整をしていないことがわかりました。本来土器づくりでは、表面も内面も粘土紐の重なりを丁寧に撫でて平滑にしなければ良い土器になりませんが、この土偶は薄いところでは約2㎜しか粘土紐同士が接していないほど内面は全く手つかず状態でした。
 3か所の孔はいずれも外側から棒状工具で突き刺して開けており、やはり内面は整えられておらず、底部から積み上げ、円錐部分が閉じた後に孔を開けたものと考えられます。空洞の天井部は粘土紐を寄せてふさぎ、その上に胸より上の部分を乗せている様子がわかりました。
 他の円錐形土偶よりも上部が薄く、上部のつくりはむしろ当該地域で見られる立像の土偶と似たような印象です。また、通常の立像土偶は腕が短いのですが、CT画像によると短い腕の上に長い腕を足して胴体と繋いでいるように見えます。さらに、円錐形の胴部から離れて宙に浮く立体的な腕の表現は、円錐形土偶の中では他に例はありません。

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【写真】ラヴィのCT画像

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【写真】内部の様子 写真上が上部で、輪積みの様子や上部が紐を寄せて閉じられている様子が分かる

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【写真】内部の様子 脇の孔の内面 押し出された粘土が其のままになっていることが分かる

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【写真】内部の様子 底面の孔の内面 押し出された粘土が其のままになっていることが分かる

 まずはラヴィの最も大きな特徴である円錐形の胴体についてみてみました。内面とはうってかわって表面の丁寧な仕上げや、細かい文様、また顔や指などの細部にまで、この土偶ならではの特徴が見てとれます。次回はそのような細部まで観察していき、この特殊な土偶の性格を浮き彫りしていきたいと思います。

【南アルプス市教育委員会文化財課】