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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備の歩み
その5~水の世紀を生きる道標~

 新年明けましておめでとうございます。本年も「連載 今、南アルプスが面白い」をよろしくお願いいたします。

 本格的な冬を迎え、桝形堤防の整備現場でも霜柱が立ちはじめました。現場からは例年よりやや薄く冬化粧した山々、北には八ヶ岳、南には富士山、西には巨摩山地が澄んだ空気を通して見ることができます。今月は現在進められている桝形堤防の史跡整備工事の様子をお伝えします。

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【写真】桝形堤防北堤と巨摩山地


1.整備工事
(1)石積・石葺の修復
 12月号(その4)でご紹介した石積の修復は、8・9月に3~15区までが終了し、12月に1・2区および17区が施工され、12月末日にほぼ完了しました。御勅使川の洪水によって流失した箇所や、堤防としての役割が終えた後壊された箇所に石積がほどこされ、堤防本来の姿に復旧されたのです。この修復によって、これ以上石積が崩れることがほぼなくなり、史跡を適切に次の世代へ受け渡すことができるようになりました。

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【写真】3区施工前

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【写真】3区施工後

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【写真】12区(手前)13区(奥)施工前

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【写真】12区(手前)13区(奥)施工後

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【写真】15区施工前

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【写真】15区施工後

(2)造成工:史跡の地面を整える工事
 石積修復後、史跡を保存し公開するためのさまざまな工事が進められました。まず、桝形堤防の地面の高さを決める造成工が行われました。この造成はただ地面を整地するだけではなく、地面10センチメートル下に雑草の繁殖を抑える防草シートを敷埋めています。桝形堤防の周辺はかつて御勅使川の川原で砂礫が主な土壌ですが、その1(9月号)でお伝えしたように砂防で導入されたハリエンジュや雑草などの繁殖力はすさまじく、草刈りを行わなければあっという間に子供の背丈ぐらいまで草で覆われてしまいます。それを抑えるため、地面の下に防草シートを敷設する設計としました。防草シート上を造成ですきとった砂礫で10センチメートルほど埋め戻すのは、本来この場所が御勅使川の河原の中であった環境を復元するためです。

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【写真】北堤北側施工前

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【写真】南堤南側施工前

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北堤北側 防草シートを敷設しその上に砂礫をのせています

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【写真】北堤北側造成工 防草シートの上にすきとった砂礫を戻した状況

(3)フェンス・転落防止柵の設置
 史跡内の安全を図るため、周辺や分水門、集水桝にフェンスや転落防止柵が設置される予定です。西側の老朽化したフェンスを撤去し、新たなフェンスが設置されました。南側は2月に施工される予定です。

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【写真】先端部西側フェンス施工前

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【写真】先端部西側フェンス施工前

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【写真】先端部西側フェンス施工後

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【写真】先端部西側境界フェンス施工後

(4)木工沈床:堤防の基礎を守る根固めの露出展示
 桝形堤防の基礎を守る木工沈床の露出展示の工事も進んでいます。木工沈床には木材を水平につなぐボルトが残されているため、施工前に写真と図面で記録し、取り上げられるものは、室内で保管します。
 露出展示する区画の壁は御勅使川の洪水で埋まった砂礫を表現するため、発生した砂礫を使って壁を保持するセルデム工法という方法を用いました。展示区域に「セルデム」と呼ばれる高密度のポリエチレン素材をハチの巣のように展開させ(ハニカム構造)、それを鉄筋で固定し、その中に砂礫を詰めて壁を保つ方法です。 周囲に転落防止柵を設置する予定です。

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【写真】施工前木工沈床追加調査

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【写真】木工沈床の丸鋼(中央)とボルト(右)

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【写真】木工沈床展示範囲 斜面の整形

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【写真】木工沈床セルデム施工

(5)園路と植栽
 桝形堤防の北側と南側には障がいがある方でも見学しやすいように、アスファルト舗装した園路を設けることになっており、基礎工事まで終了しました。また、それぞれの園路の北側と南側には見学者が季節を感じ憩いの空間となるように、ドウダンツツジが植栽される予定です。

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【写真】北堤北側 園路の基礎工事(東から)

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【写真】北堤北側 園路の基礎工事(西から)

(6)その他の工事
 これまで一般公開されていなかった桝形堤防内には、水量計や集水桝の覆いなどが老朽化していたため、安全が保障できない状況でした。見学者の安全性を確保するため、水量計と集水桝の蓋を新しいグレーチングに交換しました。

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【写真】旧水量計測施設施工前

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【写真】旧水量計測施設グレーチング設置後

(7)今後の予定
 2~3月は駐車場や便益施設を設置する東側の区域の整備を行う予定です。
 来年度(令和5年度)には堤防内側に芝生を植え、史跡を人々が集い見学者にとって憩いの場所となるような空間を造ります。また、展望施設や案内看板などのサインを設置し、見学者が史跡の価値とともに、徳島堰と現代の果樹栽培につながる御勅使川の治水・利水の歴史や現代の防災を学ぶことができる整備を予定しています。

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2.史跡整備も大切な歴史の一頁
 史跡整備の工事が進むと日々風景が変わっていきます。工事が続く中でも施工業者の協力を得て小学校やさまざまな団体の視察を受け入れました。この整備自体も桝形堤防が築堤されてから今後文化財として守り続けられていく長い歴史の中の大切な一頁です。見学した人、調査に参加した人、工事に従事した人などそれぞれがそれぞれの立場で史跡の価値と移り変わり行く堤防の記憶を伝えていただけることを願っています(2月号その6に続く)。

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【写真】桝形堤防の整備状況を見学する市内小学校4年生。15校以上の市内外の小学校が見学しました。工事内容を施工業者が説明しています

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【写真】整備状況を見学する徳島堰まるごとツアー参加者

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【写真】史跡工事でも活躍する女性として施工業者の従業員がメディアの取材を受けました

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【写真】市議会文教厚生委員整備状況視察

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【写真】市教育委員整備状況視察

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【写真】石工から石積の指導を受ける山梨県景観づくり推進室職員

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【写真】工事中も石積の調査を行う文化財課スタッフ

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【写真】市内小学4年生による社会科見学後の感想文


桝形堤防史跡整備の歩み その1~水の世紀を生きる道標~

桝形堤防史跡整備の歩み その2~水の世紀を生きる道標~

桝形堤防史跡整備の歩み その3~水の世紀を生きる道標~

桝形堤防史跡整備の歩み その4~水の世紀を生きる道標~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備の歩み
その4~水の世紀を生きる道標~

 早朝、桝形堤防の石積がうっすらと白い霜で覆われ、八ヶ岳おろしと呼ばれる冷たい北風が吹きすさぶ季節がやってきました。その中でも一歩一歩、令和4年度の史跡整備工事が進んでいます。今月号は石積の修復を中心に史跡整備工事の最新情報をお届けします。


1.令和3年度実施設計
 令和3年度、11月号でご紹介した第3次調査を進めながら、これまでの調査結果をまとめ、具体的な整備を行う実施設計を策定しました。策定に際し、史跡保存整備委員会で協議を重ね、史跡めぐりツアーの参加者のアンケートを参考にしながらコンサルタント会社が提示する案を何度も修正し、最終的な設計を庁内の技師とともに完成させました。整備工事は令和4年度と令和5年度の2カ年計画で行われます。

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【写真】令和3年度史跡保存整備委員会


2.史跡整備工事
 完成した実施設計を基に、令和4年度分の工事入札の結果、青柳土木株式会社が落札し、令和4年6月、史跡整備工事が始まりました。令和4年度は主に石積の修復とその外側の造成、防草シートの敷設、フェンスの設置、木工沈床の展示などを施工しています。その中でも石積の堤防の修復は、史跡を保存し、後世へ伝える史跡整備の根幹です。

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【図】令和3年度実施設計策定時桝形堤防整備完成イメージ(実際の完成図とは異なります)


3.堤防石積の修復~事前準備~
 石積の修復を行う上で、以下の事前準備が必要でした。

(1)石材の確保
 欠損した石積の修復には数千個の石材が必要です。桝形堤防の石材は御勅使河原の石材が利用されたものですが、現在河原の石の採取は禁止され、販売もされていません。そこで史跡整備を実施する4年前、平成30年から実施した桝形堤防第3次調査から調査時に掘り出された石材を石積、石葺、グリ石、合石用として大きさごとに選別し保管することを始めました。

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【写真】発掘調査時石材の選別、保管

 しかしそれでもすべての石材が利用できるとは限らず、石材が不足していました。そんな時、令和2・3年度、韮崎市の釜無川右岸を守る御座田遺跡の石積堤防が圃場整備によって解体される計画が進められていました。事業主体者である韮崎市教育委員会をはじめ関係諸機関の協力を得て、堤防の石材の一部を桝形堤防の整備に利用できることとなりました。
 御勅使川と釜無川では石材の種類や大きさ、摩耗度など異なることもありますが、河川の石材がほとんど販売されていない状況では、その石材が使えるのは最善の方法であり、史跡保存整備委員会の了承もいただきました。釜無川の石積堤防の石材が、桝形堤防で活かされることになったのです。

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【写真】御座田遺跡石積堤防

(2)石材事前調査
 現在の桝形堤防は、明治39年あるいは明治40年の大水害によって流失後、改築されたものであることが調査の結果から考えられています。それぞれの積み方の特徴と石材について調査を実施しました。
 (1)明治40年前後改築箇所。現在の桝形堤防の大部分:面に対し控え(奥行き)が長い石材使用。落とし積み。
 (2)明治末~大正時代、徳島堰御勅使川暗渠改築時、積み直された石積:やや小ぶりで控えが短い石材使用。落とし積み。
 (3)大正時代?徳島堰御勅使川暗渠改築後に築堤された北東堤:面に対し控えが長い石材使用。落とし積み。
 (4)昭和40年代、釜無川右岸土地改良事業後に改築された集水桝の石積:一部布積み。

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【図】石積調査結果

(3)石積の事前調査
 明治時代から大正時代、南アルプス市に残された石積出四番・五番堤や将棋頭の六科字御勅使川通一番や同二番の設計書を調査した結果、石積は「玄翁叩摺合積」等の記述が見られました。桝形堤防の設計書ではありませんが、現地で見る石積の方法は石積出や桝形堤防、将棋頭でほぼ共通しており、同じ技法だと考えられます。

(4)石積・石葺の記録:史跡整備の石積修復は長年の間に失われた箇所や崩れた箇所、歪み、歪んだ箇所などがあります。それぞれの箇所で修復前の状況を写真と図面で記録しました。

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【写真】石積修復前状況 14区(南堤川裏側)

(5)石工の選定:桝形堤防の石積は手作業の伝統的な石積方法で積まれています。そのため、石積を施工する石工については、国および県指定の石垣や石積修復の経験を条件としました。最終的には、国指定史跡の香川県香川氏丸亀城や福島県白河市の小峰城、栃木県那須烏山市の烏山城などの城郭石垣の修復経験を持つ石工が6人、桝形堤防の修復を施工しました。


4.石積修復~施工~
(1)区域の設定:石積修復が必要な場所に1~18の番号を付与し、18箇所の区域を設定しました。

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【図】石積修復範囲・区域設定

(2) 石材の番付:石積修復を行う際、現状の位置から移動させる可能性がある石材に区域ごとに番号をつけていきます。1区なら「1ー1、1ー2・・・」とし、石材にテープで番号をつけていきます。その番号は写真と図面に記録します。

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【写真】番付作業

(3) 堤防の勾配、高さの設定:現存する石積の勾配や馬踏の高さを基に、修復する石積・石葺の勾配と高さを決定し、丁張(ちょうはり)を設定しました。

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【写真】丁張の設定と技師の段階確認

(4) 石材の選定と搬入:ストックしていた石材から、修復箇所に見合う石材を選定し、もっこを使って修復箇所の移動します。

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【写真】石材の移動

(5)石積・石葺:
 石材の形、大きさ、面や控え(奥行き)などに配慮しながら新たに石を積んでいきます。基本的には洪水による流失を防ぐため、石材の控えが長いものが選ばれます。石材は石積の勾配を合わせながら、二石を並べた時にその間にできる谷間に上から別の石を落として積まれます。いわゆる「落し積み」や「谷積み」と呼ばれる技法です。石材の長い控えを堤体内に向け、幅の狭い面を表になるように積むことで、しっかりと固定されます。石材と堤体の間には拳大のぐり石を入れ、石積の沈み込みを防ぐとともに石積を固定させます。石積の後、石と石の間に合石として小石が重点され、石積は完了となります。

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【写真】玄翁で叩き摺合わせ石材を積む

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【写真】グリ石の充填

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【写真】ドウツキによるグリ石の突き固め

(6)墨書
 新しく補った石材(以下新補石材)には令和4年度の修復工事で追加したこととどの川の石かを後世に伝えるため、その裏側に墨汁で年度と川のイニシャルを書いておきます。
 「R4M」・・・令和4年度御勅使川
 「R4K」・・・令和4年度釜無川

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【写真】新補石材に墨書する

(7)記録:完成後の状況を写真と平面図に記録します。


5.ともに創る
 南アルプス市における史跡整備基本計画では、整備工事の段階でも市民の人々と「ともに創る」整備を目指しています。その計画に基づき、石積修復時に補った石材には地元の白根源小学校4年生や整備状況を視察された方々にこれから史跡の価値を伝えていく証として個人の名前を墨書してもらいました。また、社会科見学で訪れた多くの小学生には同じ目的で大切な石積を陰で支えるグリ石に記名してもらいました。史跡が多くの人の手によって修復され、語り伝えられることを願って。

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【写真】白根源小4年生 石積体験授業

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【写真】小笠原小学校4年生記名グリ石

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【写真】徳島堰まるごとツアー参加者 史跡整備体験

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【写真】完成した石積修復 14区


 2022年ももう後2週間。本年もふるさとメール「今南アルプスが面白い」にお付き合いいただき、ありがとうございました。よい年をお迎えください。みな様来年もよろしくお願いいたします。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備への歩み
その3~水の世紀を生きる道標~

 西山の山々が緑から黄、赤、茶、橙さまざまな色に染まり紅葉が深まる中、史跡桝形堤防の整備工事が一歩一歩進められています。現在北堤北側の造成がほぼ終わり、西側フェンスの設置やドウダンツツジ植栽のための客土工が行われています。
 今月号では史跡を整備する上で必要不可欠な「保存管理計画」と「整備基本計画」の策定、そして実際の整備工事の設計となる「実施設計」作成のため実施した第3次試掘調査をご紹介します。

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【写真】2022年11月14日 桝形堤防北堤北側の整備工事


1.史跡保存管理計画の策定

 平成26年10月6日、桝形堤防が御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)に追加指定された前年、平成25年度には、史跡を恒久的に保存し、適切に管理、活用するための『史跡保存管理計画』(現在の名称は保存活用計画)を策定しました。この計画策定によってどのように史跡を次世代に伝え、それを活かしていくのか、その土台が築かれたことになります。なお、史跡に追加指定された桝形堤防の民有地は平成26年度南アルプス市が史跡を守り伝えるため用地を買収し公有地化を行いました。

【御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)保存管理計画書(PDFダウンロード)】


2.史跡整備基本計画の策定

 平成26年度から史跡を整備し、適切に保存し後世に継承していくとともに、史跡の本質的な価値を多くの方々に公開し活用してもらうための計画作りに着手しました。計画策定にあたっては「南アルプス市史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)保存整備委員会条例」を制定し、歴史、考古学、治水、景観、まちづくり等の専門家と史跡が立地する有野・六科地区の代表で構成する委員会を設置して計画の議論を重ね、平成29年度史跡整備基本計画を策定しました。その基本方針は次の5点です。

基本方針
1. 調査・研究の推進
 〇学際的な調査・研究を推進することにより、史跡の価値を深め保存と活用を行う土台となります。
2. 保存のための整備の推進
 〇後世への適切な継承が整備の前提となります。
3. 史跡の特性を活かした積極的な公開・活用の推進
 〇発掘調査、整備工事、整備後各段階で積極的な情報公開と市民参加を推進し、さまざまな活用の場となるよう整備します。
4. 歴史を活かしたまちづくりの拠点としての整備
 〇南アルプス市の歴史そのものとも言える治水・利水の歴史や文化を伝える場として、また現代の防災や果樹栽培の歴史を伝える場として整備します。
5. 地域と連携した持続可能な整備と多面的活用の推進
 〇地域住民や学校、関係機関と連携し、ともに創り続ける持続可能な整備を目指します。また、多くの人と連携し、周辺の歴史・文化的資源と合わせて幅広く普及活動を実施していきます。

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【図】史跡の保存と活用連携図

 この計画で、整備期間を短期、中期、長期に区分し、短期を桝形堤防、中期を石積出、長期を将棋頭に設定して整備を進めることに決定しました。なお、詳しい計画については、南アルプス市ホームページをご覧ください。

南アルプス市ホームページ【御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)保存整備基本計画書】


3.第3次試掘調査

 史跡整備基本計画に従って、短期計画の対象である桝形堤防の具体的な整備工事の設計を行うにあたり、まだ未調査の部分について遺構の有無や遺構範囲、その構造を把握することが急務となりました。そのため平成30年度から令和元年度までの4年間、合計20箇所トレンチ(試掘坑)を設定して第3次試掘調査を実施しました。その結果、新たな桝形堤防の姿が浮かび上がってきました。

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【図】試掘調査トレンチ位置図

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【写真】第3次調査風景

調査の成果
(1)先端部
 北堤と南堤が一体となった将棋の駒状の先端部分を調査しました。その結果、川表には北堤、南堤同様に根固めとして敷設された木工沈床が発見されました。注目されるのは将棋の駒状の先端部に合わせるため、木工沈床の堤体と平行する並行方格材を北堤・南堤の約1.8mから約1.4mに幅を狭め、直角方角材を並行方格材に対し直角ではなく、やや北側に傾くように配置した工法です。通常の堤防では施工されない将棋頭状の堤防特有の工法と言えます。
 また、先端部の木工沈床の方格材は北堤と同じ配列で発見され、南堤とは方格材の配置が左右対称となっていました。このことから、木工沈床は北堤から先端部まで一連のものとして作られ、南堤の西側から方角材の配列を変えて施工されたことも今回新たに明らかになりました。

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【写真】先端部川表で発見された木工沈床

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【図】先端部木工沈床平面図

(2)南堤・北堤・北東堤川裏の調査
 桝形堤防の川裏の造成を行う上で、北堤と北東堤の基礎構造を明らかにするため、それぞれの堤防の川裏側の調査を実施しました。調査の結果、自然に堆積した砂礫層を掘り込み、底面に胴木を敷いてその上に石を積む工法はすべての堤防で同じでしたが、北堤と南堤では基礎の深さに大きなレベル差が認められました。南堤の川裏側の高さ(馬踏から最下段の石積まで)は約2.3mなのに対し、北堤は約4.1mもあります。つまり北堤の方が砂礫層を深く掘りこみ、その分深い地点から石を積んでいることになります。江戸時代から桝形堤防の北側を流れていた御勅使川の本流に備えるため、北堤を強固に築堤したと考えられます。北堤には後に北東堤が付け加えられていることも本流への備えと言えるでしょう。北東堤の川裏は高さ約3mで、堤防自体の規模は南堤の方が大きいですが、川裏側の造りだけ見れば南堤より石積みが深く造られています。

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【写真】北堤(右)と南堤(左)川裏

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【写真】北堤(右)と南堤(左)川裏。北堤の方が深く石積が見られる

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【写真】北堤川裏の石積。石積の下には胴木の痕跡が発見された

(3)後田水門・水路
1)3本の水路発見!
 桝形堤防が守る徳島堰から下流の六科将棋頭内へ分水する水門は「後田水門(ごだすいもん)」、水門から将棋頭までの水路は「後田堰(ごだせぎ)」と呼ばれています。六科地区に住む矢崎静夫さんは、昔は後田水門が3箇所あり、それぞれ水路が通じていて、集水桝で合流していたと記憶されていました(ふるさとメール2022年9月号)。現在は1箇所の水門のみ残され使われていますが、この記憶を手がかりに後田堰の調査を実施しました。その結果、矢崎さんの記憶通り、3本の水路が発見されました。発見された後田堰を北から北水路、中央水路、南水路と名付けました。
 現在使われているのは中央水路で、コンクリート管が利用されています。調査の結果、中央水路と南水路はもともとコンクリート製のU型水路でしたが、土砂で埋められており、このU字型の中央水路内にコンクリート管が設置されていました。

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【写真】発見された後田堰 右側が北水路、中央が中央水路、左側が南水路

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【写真】発見された後田堰 右側が北水路で天井石が見られる。中央が中央水路で現在利用されている水路。U字型のコンクリートが壊されコンクリート管が埋められている。左側が南水路で天井石が撤去され内部も瓦礫と砂礫で埋められていた

2)天井石が残されていた北水路
 一方北水路も同じコンクリート製のU型水路で、内寸約60cm、高さ約1.2mを測ります。
中央水路と南水路と異なるのは、水路の上に細長い石が天井石として並べられ蓋がされていた点です。天井石は一石が幅約30~40cm、長さ約1m、厚さ約20~30cmを測る大きなものです。発掘中埋め土とともに同じ天井石がいくつも発見されたことから、中央と南水路にも同様に天井石があったと考えられますが、昭和40年代に施工された釜無川右岸土地改良事業時、徳島堰をコンクリート化する過程で不要となり撤去され、埋め戻しの中に入れられたと考えられます。

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【写真】北水路 徳島堰に接続するコンクリート製の水路も見える

3)北水路の内部調査
 北水路は天井石が残されていて水路内部が埋められていなかったため、第13トレンチの天井石を一石外して内部に入り、その構造を調べました。水路内部には20~30cmの泥が堆積していたため、この泥をかき出すことから始めましたが、水が流れていないにもかかわらず、泥の中からはドジョウが発見、サワガニも歩いています。

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【写真】北水路内部調査の様子

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【写真】北水路内部調査 泥の中にはドジョウが眠っていました

 徳島堰側の水路西端は幅約70cm、高さ約1.1mで、約20~30cmの石とコンクリートで塞がれていていました。その下方に外寸40cm、高さ35cm、内寸25cm、高さ22cmのコンクリート製小型水路が設けられ、かつてこの水路で徳島堰から分水していたと考えられます。

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【写真 北水路西端内部】

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【写真】後田堰内部 右が北水路、中央がコンクリート管(写真中央下部)が敷設された中央水路、左が埋められた南水路。集水桝手前で合流している

4)3箇所の後田水門
 では一体なぜ3箇所の水門と水路が設置されていたのでしょう。明治から昭和の地形図と文献史料を調査した結果、江戸時代から存在した六科村の後田水門と六科村・有野村共同で設置した後田新水門に加え、大正から昭和初期の間に桝形堤防の北側にあった野牛島村の後田水門が桝形堤防内にまとめられ、3つの後田水門になったことが明らかになりました。昭和34年の『徳島堰北樋口寸法表』(徳島堰土地改良区蔵)には「63番野牛島後田水門」、「64番六科後田新水門」、「65番六科後田水門」とあり、これが北水路、中央水路、南水路の水門に当たると考えられます。矢崎さんの記憶を聞いたのが平成15年、それから15年後に初めて考古学的にその水路の存在が確認され、文書によって歴史的な移り変わりが明らかとなったのです。地域の人々の記憶が史料の裏付けとなり史跡整備に結びついた結果でした。

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【写真】『徳島堰北樋口寸法表』抜粋(徳島堰土地改良区蔵)

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【写真】最新!第1〜3次試掘調査結果明らかになった桝形堤防の仕組み


4.ともに創る 発掘調査にも市民参加!

 史跡整備基本計画を策定するにあたり、基本方針では整備前の発掘調査、整備の工事、整備後の活用それぞれの段階で可能な限り市民に参加してもらい、史跡への理解を深め、ともに創り続ける整備を目指しました。その方針に従って、文化財担当者指導の基、御勅使川が運んだ砂礫を掘り下げ、埋もれた石積を発掘する調査に多くの市民や小学生が参加しました。参加した方々からは100年以上埋まっていた石積を発見する喜びや史跡を伝えていきたいとの感想が寄せられました。その時の人々の笑顔。史跡は大人から子供まで笑顔にする力もあるようです(12月号に続く)。

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【写真】令和元年 徳島堰まるごとツアー 参加者による発掘調査。調査の指導では、山梨県考古学協会の方々にもご協力していただいた。

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【写真】令和3年度 八田小学校4年生発掘体験

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【写真】令和3年度 白根源小学校4年生発掘体験

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備の歩み
その2~水の世紀を生きる道標~

1.発掘調査 

 桝形堤防の存在自体が地域で忘れられていた中、南アルプス市教育委員会は桝形堤防を保存し、多くの人に知ってもらうために、堤防の周囲の一部を発掘する試掘・確認調査(以下試掘調査)を2009年度から開始しました。2022年現在まで大きく3回調査を実施しています。
 第1次調査:平成21年度(2009)
 第2次調査:平成23・24年度(2011-2012)
 第3次調査:平成30~令和3年度(2018-2021)

 試掘調査で明らかにすべき目的は次の点です。
 (1)現在残されている堤防が造られた年代と遺構の範囲
 (2)堤防の特長
 (3)桝形堤防と徳島堰御勅使川暗渠および後田水門の歴史的変遷


2.用語解説

 桝形堤防の調査結果を紹介する前に専門用語を解説しておきます。御勅使川の水流が堤防に直接当たる面を「川表(かわおもて)」、直接当たらない面を「川裏(かわうら)」と呼びます。堤防の上部で平らな部分を「馬踏(まふみ)」、基礎部分を基底部、その基底部を水流から保護する構造物を「根固め(ねがため)」と呼んでいます。調査の結果、桝形堤防の根固めには「木工沈床(もっこうちんしょう)」という工法が使われていました。堤防の石積の一番下の石を「根石(ねいし)」、石積がばらばらに沈むのを防ぐため根石の下に敷かれた木材を「胴木(どうぎ)」と呼びます。
 また、発掘調査にあたり将棋の駒の形をした桝形堤防の北側を北堤、南側を南堤、北堤の東側に付け足された堤防を北東堤と名付けました。

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【図】桝形堤防用語解説


3.第1次・第2次試掘調査

 平成21年度(2009年)第1次調査は北堤と北東堤の川表側、平成23・24年度(2011・2012)第2次調査は南堤の川表側を主に調査しました。

1)ハリエンジュ(ニセアカシヤ)の伐採
 調査にあたり、堤防上や周囲に自生していたハリエンジュの伐採を行いました。北米原産のハリエンジュは明治時代初期から砂防や荒廃地緑化の目的で日本に導入されましたが、繁殖力が強く急速に分布範囲を広げ、現在では外来種として駆除・管理が必要とされています。桝形堤防でも石積上にも繁茂し、その根が石積の崩落を進めており、また大量の落ち葉は堤防上に堆積し、腐葉土化して雑草繁茂を招いていました。ハリエンジュと雑草に覆われたことによって石積が隠され、桝形堤防が地域の記憶から失われていったのです。

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【写真】平成21年の桝形堤防 除草後の状況だがハリエンジュが繁茂している

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【写真】平成23年度 第2次調査前

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【写真】第2次発掘調査とともに自生したハリエンジュの伐採作業。ハリエンジュは根が石積を崩し、大量の落ち葉が石積上に堆積し、雑草繁茂の原因となっていた

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【写真】第2次調査 ハリエンジュ伐採作業

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【写真】第2次調査 ハリエンジュ伐採後の桝形堤防

2)木工沈床の発見
 桝形堤防の北堤、南堤の川表側を地表から約1m掘り下げると、石が平らに敷き詰められた遺構が現れ、この石敷には幅20~30㎝の空洞が格子状にみつかりました。さらにこの空洞が格子状に交差する辺りから鉄製のボルトと地中に差し込まれた鉄筋が発見されました。ボルトをよく観察すると、木質部分が残されています。
 調査の結果、この遺構は木工沈床と呼ばれる明治期以降施工された根固めであることがわかりました。木工沈床とは松の丸太を井桁状に組み、3~5段積み上げ、その枠の中に河原石を詰め堤防基底部を守る根固めとして考案された工法です。木材同士は水平に鉄のボルトで固定され、3段の丸太は丸鋼と呼ばれる鉄筋を通して連結されていました。

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【写真】北堤川表調査。地表から約1mほど掘り進めると、石を平らに敷き詰めた木工沈床が現れた

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【写真(北から)】北堤川表の木工沈床。丸太を水平に連結するボルトと縦方向に繋ぐ丸鋼が見られる

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【写真】北堤川表 木工沈床調査風景。使用された丸太は腐食して空洞となっている

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【図】木工沈床模式図

 試掘調査で発見された木工沈床は堤体から南北に3列に区画され、南北は1列目が約1.5m(5尺)、2列目が約1.8m(6尺=1間)、3列目が約2.1m(7尺)と尺を単位に川側に向かって幅が広く造られていました。川側をより強固にしたのでしょう。一方東西の区画はちょうど1間です。この木工沈床を含めるとおよそ3間約5.4m堤防の規模が広がります。北堤にはこの木工沈床の北側にさらに蛇籠が敷設されていた可能性があります。このように試掘調査によって、桝形堤防の本来の規模が明らかとなりました。地表には桝形堤防の一部分しか現れていなかったのです。

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【写真】南堤川表 木工沈床調査風景。丸太が腐食した空洞がみられる。木工沈床の上には御勅使川による砂礫が堆積している

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【写真】南堤川表 空洞部分には2本の丸太がボルトで連結されていた。鉄筋は縦方向に丸太を連結する丸鋼。ボルトと丸鋼には木材の痕跡がわずかに残されている

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【写真】南堤川表 発見された木工沈床。3段丸太が積まれている

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【写真】南堤川表 発見された木工沈床。丸太が配置された場所は半透明の茶色で表示した

3)桝形堤防の築堤年代
 木工沈床の技術の歴史を繙くと、堤防の築堤年代が明らかとなってきました。木工沈床の特許資料を調べた結果、この工法は明治26年長野県飯田土木出張所の小西龍之介氏によって考案された工法で、天竜川で施工され、明治32年特許が取得されています。南アルプス市に残された行政文書では、木工沈床の施工は御勅使川や釜無川では明治42年が最も古い資料です。この時期有野地区に大きな被害を及ぼした水害の記録は明治39年と明治40年があり、とりわけ明治39年には「徳島堰ノ被リシ今般ノ大破壊ハ空前ノ被害ニシテ就中御勅使川ノ如キ」(『明治三九、四十年分 土木地理関係書 文書第六号 御影村外一ヶ村組合役場』)とあることから、この時の洪水で流失し、新たに築堤されたのが現在の桝形堤防である可能性が高いと考えられます。

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【写真】「申請書」『明治三九、四十年分 土木地理関係書 文書第六号 御影村外一ヶ村組合役場』

4)徳島堰御勅使川暗渠の改修
 御勅使川の下を通水する徳島堰の暗渠は「御勅使川暗渠」と呼ばれ、埋樋(うめどい)から石製の甲蓋(こうぶた)、明治時代終わりから大正時代にコンクリートを用いた粗石拱形眼鏡工法に作り変えられてきたことが関係資料からわかっています。つまり、大正時代、暗渠を粗石拱形眼鏡工法に変えるために、明治39年から40年頃に改築されたと考えられる桝形堤防の一部が掘り返されていることになります。実際暗渠上の石積は他の区域と比べて20~30㎝の小振りな石が用いられており、積み直されたことが明らかです。
 試掘調査の結果、北堤の調査では、コンクリートで河原石が固定されたかまぼこ状の御勅使川暗渠天井部が発見されました。さらにこの上に北東堤の石積が施工されていたことから、北東堤が暗渠改修時もしくはそれ以後に築堤されたことが明らかになりました。

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【図】徳島堰御勅使川暗渠の変遷

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【写真】粗石拱形眼鏡工法へ御勅使川暗渠改築時(明治時代末から大正9年)の石積修復推定区域

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 一方南堤の調査では、同様の暗渠の天井部が発見されるとともに、暗渠の西側の木工沈床が壊されている状況が確認されました。暗渠改修時、木工沈床を壊し、その石材を粗石拱形眼鏡工法に利用したことがうかがえます。

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【写真】北堤および北東堤川表と徳島堰の御勅使川暗渠の調査。この調査によって、北堤の堤体の一部が一度掘削され、御勅使川暗渠が甲蓋から改築されたコンクリートを使った粗石拱形眼鏡工法の天井部が発見された

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【写真(北東から)】北東堤川表には木工沈床が発見されていない。北東堤は御勅使川暗渠の粗石拱形眼鏡工法改築以後に築堤されたことが明らかとなった

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【写真(南東から)】南堤および徳島堰御勅使川暗渠天井部。コンクリートを使った粗石拱形眼鏡工法の天井部の西側の木工沈床が壊され石材が失われている状況がわかる


4.国指定史跡へ

 こうした発掘調査と文献調査を積重ね、桝形堤防の時期、範囲、構造、歴史的変遷など本質的な価値を明らかにした上で、平成25年文化庁に国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)へ追加指定の意見具申を行い、平成26年10月6日、官報告示され史跡への追加指定が決定されました。

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【写真】南アルプス市広報平成26年11月号掲載

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備の歩み
その1~水の世紀を生きる道標~

「水の世紀」を生きる

 「If the wars of this century (20th) were fought over oil, the wars of the next century (21th) will be fought over water.」
 「20世紀の戦争が石油をめぐるものであったとすれば、21世紀の戦争は水をめぐるものであろう。」
 この言葉は1995年、世界銀行副総裁であったイスマル・セラゲルディン氏が、21世紀は水資源が不足し、それによって紛争が起きることを予想したものです。

 残念ながらその言葉通り21世紀は水との関わり方を深く考えなければならない時代となりました。世界人口は2022年11月には80億人を突破する見通しの中、気候変動による干ばつが世界中で増加し水不足が深刻化しており、地域間の争いや紛争がさらに増えることが予想されています。その一方局所的な集中豪雨や台風の巨大化も増加しています。今年の9月、パキスタンの国土1/3が水没するという未曾有の水害に襲われたことも衝撃的なニュースでした。

 深刻な水不足と頻発する洪水。国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)でも解決目標とされている水の問題は、南アルプス市内では実感の湧かない方が多いかもしれません。しかし、干ばつと洪水はかつて南アルプス市域で日常的に起こっていた現象で、いかに洪水を防ぎ、いかに水を引いて豊かな土地とするのか、そのため思考錯誤してきた人々の営みが南アルプス市域の歴史だったと言っても過言ではありません。現代の水問題を考える道標は、足元の歴史に眠っているのです。今回はその道標の一つ、桝形堤防の史跡整備までの歩みを4回にわたりたどって行きます。

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【写真】現在の御勅使川扇状地の耕地 砂礫が主体で、雨水が染み込みやすい

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【写真】明治29年水害写真 御影村上高砂 多くの村人が復旧活動にあたっている

国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)

 南アルプス市には河川堤防である、石積出一~三番堤、六科将棋頭、桝形堤防の3箇所が「御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)」という名称で国の史跡に指定されています。2022年9月時点で国の史跡は全国で1808件指定されていますが、河川の洪水から集落や田畑を守る堤防は3件しか指定されていません。御勅使川の堤防遺跡は日本を代表する治水・利水の遺跡なのです。その中でも南アルプス市有野に位置する桝形堤防は、六科将棋頭とともに江戸時代に開削された徳島堰の水の利水にかかわる堤防で、令和4・5年度整備工事を実施し、一般公開を予定している遺跡です。

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【写真】御勅使川の治水

徳島堰と桝形堤防

 桝形堤防を知るには寛文11年(1671)に完成した徳島堰を知らなければなりません。御勅使川によって運ばれた砂礫で形成された御勅使川扇状地は、浸透性が高く、御勅使川の水量が少ない上に雨が地下深くまで染み込んでしまうため常襲旱魃地となり、常に水不足に悩まされた地域でした。これを解決するため釜無川から取水し、御勅使川扇状地に通水したのが徳島堰です。徳島堰の開削によって御勅使川扇状地全体ではありませんが、有野、飯野、六科、百々などで水田が増加し、地域社会に大きな変化をもたらしました。
 この徳島堰の工事で最も難しかったのは、広大な川幅を持つ御勅使川の横断です。完成当初は板を並べてせき止める工法(板関)でしたが、1700年代には木製の樋を河原の地下に埋める埋樋に変わりました。その一方で六科村や野牛島村は、川幅が広い御勅使川の下流に位置しているため、河原の真ん中で埋樋を一度開口して水門を設け分水しなければなりませんでした。当時御勅使川は洪水の頻発する暴れ川でこの後田水門と呼ばれる分水門を御勅使川の洪水から守っていたのが将棋の駒の形をした桝形堤防です。分水された徳島堰つまり釜無川の水は後田堰を通して六科将棋頭が守る堤内地に導水され、水田が営まれました。

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【写真】国指定史跡 桝形堤防

忘れられた桝形堤防

 江戸時代から後田水門を守り続けてきた桝形堤防もその役割を終える時がやってきました。川幅が広い御勅使川を現在の川幅まで狭め、河床を階段状に変える床固工が昭和7年から施工され、太平洋戦争後桝形堤防周辺も河原内ではなくなったのです。その後、広大な河川敷が開拓され、県営の施設や工場、住宅が建設されると、桝形堤防は砂防林として植樹されたハリエンジュの木々に覆われ、いつしか堤防の存在も忘れられてしまいました。

桝形堤防の再発見と調査

 平成15年4月、旧6町村が合併し南アルプス市が誕生後、南アルプス市教育委員会では遺跡地図が整っていなかった白根地区を3ケ年かけて踏査し、平成18年遺跡分布図を作成しました。この時の踏査によって、桝形堤防が堤防遺跡として南アルプス市の遺跡台帳に正式に登録されました。また、平成20年度からは、桝形堤防の分布調査を開始、まず石積の清掃から始め、少しずつその姿が現れ始めました。
 また桝形堤防が守ってきた後田水門は現代まで使い続けられており、その水門にはかつて行われていた水争いの記憶が残されていました。市教育委員会では桝形堤防の存在と地域の水の歴史を知ってもらうため、御勅使川ゆかりの史跡を歩く」ツアーを始め、砂防林と草に覆われた桝形堤防を見学し、水争いを体験した六科地区で昭和3年生まれの矢崎静夫さんの記憶を伝える企画を始めました。

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【写真】平成16年 桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」 草木が堤防を覆っていた

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【写真】平成21年の桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」

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【写真】平成21年の桝形堤防 「御勅使川ゆかりの史跡を歩く」

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【写真】平成20年 桝形堤防分布調査

語り部矢崎静夫さんの思い出

「昭和34年台風7号時、韮崎市円野の釜無川の徳島堰の取り入れ口が流され、下流に水が来なくなったさ。水が少なくなると、下流の村の人たちが自分のところへ水を増やすため、上流の六科の水門に蓋をしにやってくる。それじゃ六科に水がいかなくなってしまうので、桝形堤防の上で夜、蚊帳を吊って寝ずの番をしていたけれど、ある時下流の人たちに水門を閉められてしまった。下流から暗渠の中を通って、気づかれないように水門に蓋がされていたさ。なんのための番だと言われたよ。」

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 このお話をツアーで矢崎さんが語ると、参加者の女性から「私、百々地区ですがおじいちゃんが六科の水門を閉めに行ったと聞いたことがあります!」との声が。
 「あの時の犯人がやっとわかった。」と笑いながら話す矢崎さん。参加者の方々からも笑いが起きました。
 「それだけ水が尊かった時代だね。」と矢崎さんは昔を思い返していました。
 水が来なければ、収穫間近の稲が全滅してしまいます。当時の人々にとっては、まさに生死をかけた水争いだったのでしょう。こうした話は人々の記憶や古文書にも多く記録されています。まさに世界中で起こっている、これから起きる水不足の問題で、これを知恵と技術で乗り越えてきたのが、南アルプス市の人々です。

 また矢崎さんによれば、昭和40年代、釜無川右岸土地改良事業によって徳島堰がコンクリート化される以前の後田水門は、次のような構造をしていたそうです。

「徳島堰から六科の水田へ水を引く水門で今は一つですが、昔は大、中、小の四角い水門が三つありました。水がたくさんいる時は全部開けます。いらない時は一つにする。藁束を束ねたボッチョと呼ぶもので蓋をしていました。水門の調整は水中の中に潜っての作業なので、たいへん難しい作業なので、専門の人にお願いしていました。」

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 この矢崎さんの記憶が発掘調査によって明らかになるのは、それから10年以上後のことになります。

 10月号へ続く

参考URL
南アルプス市ふるさとメール
2020年9月15日 開削350年 徳島堰(1)
2020年10月15日 開削350年 徳島堰(2)

南アルプス市広報
2020年 徳島堰350年 1
2020年 徳島堰350年 2
2020年 徳島堰350年 3
2020年 徳島堰350年 4

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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南アルプスブルーの響き
~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~

 「藍玉通(あいだまかよい)・・・。似たものならうちにもありますよ」。こんな言葉から藍の文化を伝える新資料発見のストーリーが始まりました。

新資料との出会い 
 令和4年5月25日までふるさと文化伝承館で開催していた「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展を見学された市民の方が、その内容を竜王新町の友人後藤さんに話されました。それを聞いた後藤さんはかつて自宅が藍染を営んでいたこと、現在も「コウヤ(紺屋)」と呼ばれていること、展示されている資料と似たものがあることを思いだされました。友人の方を通じて情報提供をいただき、文化財課が調査にうかがってみると、藍染の紺屋にかかわる新たな資料がいくつも残されていました。

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【写真】「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展

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【写真】後藤家調査風景

資料が語る紺屋の姿
 後藤家に残された資料と聞き取りから、これまで市内の調査では明らかにできなかったかつての紺屋の姿が浮かび上がってきました。甲斐市竜王新町の後藤家は、「明治30年営業名及課税標準届」によれば寛延2年(1749)創業と記されており、県内屈指の老舗の紺屋と言えます。証言では昭和初期まで紺屋が営まれていました。同届によれば、住家木造草葺平屋造42坪の中に工房を構え、藍瓶88本、倉庫2棟を持ち、従業員4人の内3人が職工として働いていたようです。後藤家は信州と駿河をつなぐ旧街道沿いに位置しており、農村部の紺屋より経営規模が大きかったことがわかります。

資料の構成
 後藤家に残されていた資料は下記のとおりです。
 藍玉通帳(あいだまかよいちょう) 19冊
 藍代金計算帳           5冊
 藍玉代金請取通          2冊
 愛染明王掛軸           1幅
 家相図              1枚
 色染法記覚・製薬々法調合記他   1冊
 鑑札               1枚
 版木               2個
 藍染旗「天満大自在天神 後藤氏」 1枚
 盃(才の銘入り)         5個

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【写真】後藤家藍染め関係史料

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【写真】愛染明王掛軸:「藍染」と「愛染」が似ていることから、多くの紺屋では愛染明王が信仰されていました


藍甕の工房を伝える家相図
 では資料群を見ていきましょう。まず注目されるのは『家境図解』です。この図は土地や家屋の間取りなどを吉凶を見るためのいわゆる家相図で、「紀元二千五百三十四年第二月」、西暦では1874年(明治7年)2月に作成されました。作者は東京神田で著名な易学者であった宍戸謙堂(名は富隣、別号東易館)。絵図には「東京 東易館貞翁男 宍戸易富 識」の文字が見られます。赤、青、黄色、緑に濃淡を付け、鮮やかな多色で描かれた豪華な家相図です。
 この家相図には大型の甕34個、小型の甕14個が土間に並んだ状態で詳細に描かれていました。山梨県内で藍甕が原位置で残されている紺屋が数例を除きほとんど現存しない現状では、江戸時代以降の紺屋の姿を伝える貴重な資料と言えます。また、2種類の規格の藍甕が用いられている点や工房にカマドが設えてある点など、これまで県内で知られていなかった紺屋の姿が浮かび上がりました。 

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【写真】家境図解

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【写真】家境図解に描かれた藍甕の工房

阿波の藍商とのつながり~藍玉通帳(あいだまかよいちょう)~ 
 次に注目されるのは「藍玉通」です。藍玉は藍葉を発酵させて作った藍染の原料、通帳(かよいちょう)は掛け買いの月日・品名・数量・金額などを記入して、金銭を支払うときの覚えとする帳簿です。市内では田島の小田切家に1冊だけ残されていて、阿波から藍玉を入手していたことを示す貴重な資料です。

関連URL(http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/09/post-3872.html

 後藤家には明治12年から大正13年まで、藍染の原料である藍玉を購入した記録である「藍玉通」帳が19冊保管されていました。明治から大正へ、藍と藍玉の生産業と藍染産業が隆盛した後、西欧からの人造藍の輸入により急速に衰退した時代を映すとても貴重な資料です。藍玉の買主は紺屋を営んでいた後藤長次郎、残念ながら市内で藍玉を生産していた川上の浅野家との取引を示す史料はありませんでしたが、藍玉の売主は阿波が5名、駿河が1名の藍商の名が確認できました。後藤家では主に阿波から藍玉を仕入れていたことがわかります。西野嘉右衛門や久次米兵次郎は阿波藍の有力者で、両名の名は明治27年『番附百種 一覧博識』の「持丸長者鑑」、今でいう長者番付の上段に掲載されているほどの日本を代表する富豪でした。

  藍商氏名       本拠地
 西野嘉右衛門     阿波(東京) 8冊
 中村邦三郎・増太郎  阿波     5冊
 石原六郎       駿州沼津   3冊
 久次米兵次郎     阿波(東京) 2冊
 久住平次郎      阿波(東京) 1冊

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【表】明治27年『番附百種 一覧博識』「持丸長者鑑」(国立国会図書館蔵) 西野保太郎は西野家15代当主。甲州財閥の雄、若尾逸平の名も見える】

後藤家と阿波の豪商、西野嘉右衛門家との縁
 阿波の藍商の中でも西野嘉右衛門家と後藤家の結びつきが強く、明治12年から大正13年まで藍玉を購入し続け紺屋を営んでいたことがわかります。西野家は江戸時代前期から阿波藍を扱う豪商で、屋号を「野上屋」と称し、明和期(1764–1771)には江戸に出店を構え、寛政元年(1789)8代目嘉右衛門は金毘羅大権現(現金比羅宮)の麓、琴平で酒造も始めました。現在も香川県の有力な酒造メーカーである西野金陵株式会社となっています。嘉右衛門の名は代々受け継がれ、15代目は1940年、阿波藍の歴史研究の基礎資料となる『阿波藍沿革史』を著しています。明治30年代以降西欧から人造藍が輸入され始めると藍玉の生産は激減し、人造藍を使った染めが主流となりました。明治30年代以降急速に化学染料への転換が図られる中、西野家では関東売制定以来の盟約を守って、大正6年まで阿波藍以外は取扱わなかったと言われます。同業他社に約20年近く遅れて大正7年から十五代目が西野染料店を開店し、化学染料を扱うようになりました。藍玉通帳は、この大きな転換点以後の大正13年まで後藤家では阿波西野家の藍玉を使い続け、伝統的な藍建てを行っていたことを示しています。

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【写真】明治12年藍玉通帳

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【写真】大正13年藍玉通帳

 後藤家と西野家を結ぶ他の資料も残されていました。なにげない5個の盃。現当主の後藤文次氏によれば、毎年正月に阿波の藍商が年始の挨拶に後藤家を訪れ、盃をおいていったそうです。盃に描かれた「才」の文字は、幕末12代目西野嘉右衛門が野上屋の大印を「才」としたことに始まりました。盃は西野家「野上屋」から送られた年賀の品であることは間違いなく、代々続いた結びつきの強さを物語っています。西野家では酒造も営んでいたことから盃が選ばれたのでしょう。清酒とセットで手土産とされていたのかもしれません。

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【写真】西野家から送られた盃。屋号の印「才」の字が書かれている

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【図「明治18年 東京商工博覧会 下巻 西野嘉右衛門」(国立国会図書館蔵) 右上の表題と左上の蔵に「才」の文字が見られる

草木染の染色法『色染法記覚』
 後藤家には漢方の調合法とともに近代の染色法が記載された帳面も残されていました。覚えには赤茶、柳茶、金茶、鶯茶、銀鼡(ぎんねずみ)、鼡、藍鼡、栗川茶、白茶、葡萄鼡、海老茶青茶、唐チリメン水浅黄、黄色、鳩羽鼡、深川鼡、港鼡(みなとねずみ)、鶴羽鼡、コビ茶、藍川、紫色、日色、萌黄色、薄竹色、小豆鼡、藤鼡法、藤色、引染黒、絹日赤、絹花色などの染色方法が詳しく記載されていました。例をひとつ挙げてみましょう。

〇葡萄鼡(ぶどうねずみ)染法ハ
先ツ ウスキヤシヤニ スホヲヲ加ヘテ成シ
次ニウスキ金水ヲ成スナリ

 解説すれば、ヤシャブシ(松笠状の実、黒染めに使われる)を煎じたもので薄く染め、次にスオウ(まめ科の小高木で赤染めに使われる)を加えて染め、次に薄い金水(硫酸鉄を混ぜた水)につけて媒染する。

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【写真】色染法記覚

新たな資料が結ぶ人と時間
 後藤家で発見された資料は、藍葉・すくも生産が盛んであった南アルプス市のみならず、県内の染色の歴史と文化を今後考える上で欠くことができない資料と言えます。またご来館いただいた多くの方々から新たな市内紺屋の情報をお寄せいただきました。ふるさと文化伝承館のテーマ展では地域に密着した題材を取り上げるため、これまでのテーマ展でも来館された市内外の皆様からのさまざまな情報が新たな資料の発見につながってきました。その資料や人々の記憶が響き合い、新たな地域の歴史が奏でられます。

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【写真】テーマ展最終の一週間、後藤家の新資料が公開され、多くの方が来館された

 資料を提供していただいた後藤さんは現在、さをり織りと草木染の教室を開かれています。紺屋だったことはご存知でしたが、ご先祖さまが草木でも染色をしていたことに驚かれていました。発見された「色染法記覚」を読み、現在の教室にも活かしたいと話されていました。地域に残されたなにげない資料は時に過去と現在の人も結ぶことができるのです。

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【写真】さをり織りの糸

関連URL
南アルプスブルーの足跡~市内を彩った藍染めの歴史~
2015年4月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/04/post-fe93.html
2015年5月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/05/post-d5b3.html
2015年6月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/06/post-af42.html
2015年7月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/07/post-d649.html
2015年8月14日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/08/post-2292.html
2015年9月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/09/post-3872.html

南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~
2019年9月17日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2019/09/post-0e1a.html

江戸時代の南アルプスブルー~村々の藍葉栽培と藍染~
2021年6月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2021/06/post-897b.html

参考URL
進め!阿波探検隊!http://awatankentai.blog133.fc2.com/blog-entry-41.html

 

◎『藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし』展パンフレット販売中!
 南アルプス市の藍と綿の歴史を1冊にまとめました。100円です。

<お問い合わせ>ふるさと文化伝承館 TEL055-282-7408

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◎ふるさと文化伝承館テーマ展「"にしごおり果物”のキセキ」展開催中!
 全国でも有数な干ばつ地域である御勅使川扇状地。水田ができない故に様々な工夫でその環境を乗り越え、木綿やタバコ、そして養蚕や果樹栽培と暮らしをつなぎ、現在南アルプス市は全国でも有数の果樹王国となっています。
 本展覧会では、主に江戸期以降の果樹栽培への挑戦・開拓の物語を中心に、最近まで使用していた出荷箱やラベルなど、懐かしい品々までご紹介します。
令和4年6月24日(金)~令和4年12月21日(水)まで

詳しくは、南アルプス市ホームページをご覧ください。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から
~遺跡から見つかる果実~

 南アルプス市も夏本番となり、市内の果樹園を彩ったサクランボの真っ赤な実も、早くも桃やスモモへとうつろってきました。いずれブドウに柿と、季節とともに果物たちも移り変わります。リレーのように様々な果物に出会えるのもまた南アルプス市の特徴的な姿といえます。
 7月に入りご近所さんや知り合いの方に桃を頂くことも増えてきました。南アルプス市では、「果物は買わずともいただけるもの」と言われるくらい、実際にいただく事も多いのですが、そのやり取りは一種の風物詩といえます。
 実は、南アルプス市と桃との歴史は古く、なんと弥生時代まで遡ることができます。今回のふるさとメールはそんな大昔からの物語をご紹介いたします。
 
 現在ふるさと文化伝承館では「“にしごおり果物”のキセキ」と題したテーマ展を開催しています。展示では主に、「扇状地」という決して恵まれた土壌とは言えないこの地域の土地とどのように向き合い、どのように乗り越えてきたのかを紐解いています。主に明治時代以降、木綿・たばこ・養蚕と主力生産物が変わりゆく中で、一貫して果樹栽培に挑戦し続け、他の地域を圧倒した知恵と行動力で、この地域独特の果樹栽培を展開させていきます。
 
 では江戸時代以前の果物の栽培についてはどうでしょう?柿の加工や野売りなど、古文書に記されているものもありますが、それらはほんのわずかであり、多くは実態がわかっていません。それこそ、実物が出てこない限りわからないという状況です。

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【写真】テーマ展「“にしごおり果物”のキセキ」チラシ

 

山梨最古の桃とブドウは南アルプス市の遺跡から発見された!
 実は、大昔の果実の実態が遺跡の発掘調査で判明することがあります。でも、そもそも遺跡から果実が出土するのでしょうか?あくまでも出土するのは固い殻に包まれた種子などが主で、実の部分が出土することはありません。種子だとしても、有機物は通常の土壌では腐食するためほとんど遺ることはなく、種子が炭化している場合か、沖積低地の水分の多い泥や粘土の土壌の場合など、特殊な条件の時に遺存することがあります。低地の土壌に立地する遺跡では空気が遮断されるため有機物が腐食せず遺存することがあるので、当時の暮らしを解明するヒントが多く、情報の宝庫といえます。実際に南アルプス市の果物の種実は低地の遺跡から発見されたものばかりです。

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【表】果実の発見された遺跡の年表

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【図】果実の発見された遺跡の分布図

 実は、山梨で最古のブドウと桃の種は今から2000年以上前の弥生時代の南アルプス市の遺跡から発見されています。甲西地区にある大師東丹保遺跡の弥生時代中期(約2400年前)の種子です。
 ブドウは現在と比べて小型であり、ヤマブドウやエビヅルなどの野生種と考えられています。隣の地域にあたる宮沢中村遺跡からは江戸時代後期のブドウの種子も出土しています。いずれにしてもやはり水つきである田方地域の遺跡から発見されているのです。

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【写真】大師東丹保遺跡の弥生時代中期(約2400年前)のブドウ属の種子

 

桃は邪を祓う?~遺跡から出土する桃~
 遺跡から発見される桃の実は「核」や「桃核」と呼ばれます。「核」とは種を包む殻のことで、私たちが桃を食べる時に一般的に「タネ」と呼んでいるもののことです。 
 山梨での最古の桃核の出土例は先ほどご紹介した通り、南アルプス市の大師東丹保遺跡の桃核で、弥生時代中期(今から約2000~2400年前)の遺構や当時の土層から6点も出土しています。大師東丹保遺跡では、このほか弥生時代後期、古墳時代、鎌倉時代の遺構からも発見されており、連綿とモモが存在していたことがわかっています。

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【写真】弥生時代中期の大師東丹保遺跡の桃核

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【写真】弥生時代中期の大師東丹保遺跡の桃核6点

 そのほか中川田遺跡(甲西地区)では古代の、さらに二本柳遺跡(若草地区)では古代から中世にかけて100個体以上、また宮沢中村遺跡(甲西地区)でも、中世、江戸時代と二時期で大量に出土するなど、市内の各遺跡から各時代を通して発見されています。

 桃は昔から不老長寿をもたらすと考えられていたり、神や仏に力を授ける果実と考えられたりしました。そのような桃の花が咲き誇る姿から中国などで桃源郷という言葉が生まれています。
 桃は日本の「日本書紀」や「古事記」などの神話にも登場しています。イザナギが黄泉の国で鬼女(悪霊とも)を桃の実を投げつけて追い払い逃げ切ったという話は有名で、このことから桃の実には「オオカムズミノミコト(意富加牟豆日命)」という神の名がつけられたそうです。桃が「邪を払う」ものとして考えられていたことがわかります。
 また、昔話「桃太郎」もまさにそうですよね。桃から生まれた桃太郎が鬼退治に行くわけですから、やはり桃が鬼を祓うという考え方のもとに生まれた物語です。ちなみに、風水では鬼は「鬼門」という方角からやってくると言われます。昔から中国や日本では方角を干支で表してきましたが、鬼門というのは丑寅の方角です。時計で言えば1時2時の方角ですね。丑寅という方角が鬼、、、そうです、トラ柄の腰巻に牛の角。まさに鬼の姿は丑寅から発想されていたようです。ちなみに裏鬼門と言われる方角は時計の7時8時で、干支でいうと羊猿です。裏鬼門の上を抑えているのが申酉戌でして、猿、キジ、犬に通じるとも言われています。
 あくまでも一例ですが、これらのように桃は昔から邪を祓い、福をもたらすと考えられていたようで、南アルプス市の遺跡からもその様子はみとめられます。

 大師東丹保遺跡では、桃核は水田や流路などの水とかかわる地点から出土したり、またその際に祭祀に用いられるとされるおまじないの道具である「斎串(いぐし)」とともに出土するなど(古代)、桃が祭祀に用いられた状況がうかがわれます。悪水や濁流、悪い病気などが水田に入ってこないように祈られたようです。
 また、中川田遺跡(甲西地区)では平安時代の桃核が大量の馬の骨とともに出土していることから、雨乞いや水しずめなど、馬をいけにえとした祭祀「殺馬祭祀」でも使用されたものと考えられているのです。
 南アルプス市の遺跡からの出土事例によっても、桃は食用としてだけでなく、邪を祓うなどの祭祀に用いられてきたことが証明されています。

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【写真】斎串とともに大量に出土した桃核

 

桃の「核」
 遺跡から出土する桃の核は、中国では約7500年前まで遡ることがわかっており、日本では、縄文時代前期(約6000年前)の九州の遺跡から出土し、その後縄文時代中期には東日本からも出土しています。縄文時代の桃の核の長さは20㎜程度が多いようです。
 弥生時代になると出土数が大幅に増加します。出土した桃核の核長や厚みを検討してみると、全国的に比較して、大師東丹保遺跡の弥生時代の出土例は比較的大きいといえます。ただし、その形は縦長のものや頂点が鋭いもの、丸みを帯びたもの、筋の深いものなどと、形態にばらつきがあります。また弥生時代後期には丸みを帯びたものが多い印象があり、これらの形態の違いは種類が違うのではないかとする研究もあります。
 また、鎌倉時代では大小にばらつきがみとめられるようですし、平安時代には全国的に小型化することが指摘されており、中川田遺跡の例は平安期にしては大きいと考えられます。全国的に見ても、中世までの桃核は、例えば時代が下るにつれて大きくなるなどの傾向は認められないようです。しかし、宮沢中村遺跡でわかるように江戸時代以降の大型化は顕著となります。平均3.71センチメートルは、現在(少し前)の桃が3.5~4センチメートルですから、ほぼ同じ大きさといえ、これらはやはり、栽培などの人間の手が加わったことによる変化とみられます。

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【表】遺跡から出土した桃核の大きさ比較

 実はこれらの桃核もふるさと文化伝承館のテーマ「“にしごおり果物”のキセキ」では展示しています。桃は江戸時代には栽培していたことは確かですが、古文書などの資料が非常に少ないため詳細はわかっておりません。しかし、ちょうどそのころの桃核が遺跡から出土して現存しているのです。是非展示されている江戸時代の桃核、そして弥生時代の桃核もご覧ください。
フルーツ王国南アルプス市のある種の「ルーツ」に出会えます。

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【写真】展示の様子

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その3)

はじめに
 今年の3月・5月と、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれなかった南アルプス市の甲斐源氏の活躍についてご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その2)
 今回はその続き、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)後、南アルプス市の甲斐源氏はどのような活躍をされていたのかを紐解いていきます。
 「鎌倉殿の13人」は三谷幸喜氏の脚本により、鎌倉幕府草創期から頼朝亡き後の武将たちによる権力争いの様が軽妙且つ魅力的に描かれています。基本的には13人の合議制に名を連ねる者を中心に描いているので、甲斐源氏はなかなか登場しませんが、これまでご紹介してきたように、ドラマで描かれているシーンには、長清をはじめ南アルプス市の「甲斐源氏」も同じ場所でドラマの主要メンバーたちと一緒に活躍していたことが、この頃の出来事を綴った『平家物語』や『吾妻鏡』などの記事からわかります。
 前回は源平の合戦での動きと共に、頼朝による粛清の数々が、秋山光朝をはじめ南アルプス市内外の甲斐源氏にまで及んでいたことなどをご紹介しました。

 

「治承・寿永の乱」後の変化
 いわゆる源平の合戦後に、秋山光朝は粛清されており(地元秋山では中野城などで自害したものと伝えられています)、いずれにしても光朝はすでにいないわけですが、この頃より、吾妻鏡などには、加賀美遠光の名が頻繁に登場してくるようになり、長清とともにまさに政治の中心で活躍していたことがわかります(下記表を参照のこと)。

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【表】南アルプス市の甲斐源氏の活躍年表

 文治元(1185)年、源義経が伊予守に任じられるのと同じタイミングで、遠光も信濃守に任じられます。俗に「源家六人受領」と呼ばれるもので、国司の中でも筆頭官を指します。また、詳細な時期はわかりませんが、このあたりから小笠原長清も伴野荘の地頭に任じられたものとみられ、小笠原家が信濃を地盤とする契機になったと考えられます。ちょうどこの頃から建久6(1195)年まで吾妻鏡などには遠光、長清ともに頼朝に随行している記事が多くみられるようになり(吾妻鏡は建久7~9年が存在しません)、遠光も鎌倉で活躍している様子がみてとれます。
 少し先のこととなりますが、1190年、ドラマでも頼朝が北条義時(小栗旬さん演じる)ら大軍を率いて京へ入り、後白河法皇(西田敏行さん演じる)と会談するシーンがありましたが、そこにも長清は随行しています。後白河法皇から「大軍を率いて来たな」と言われますが、その中には小笠原長清も含まれているのです。
 以前にも考察したことがありますが、遠光は武田・安田のように頼朝と張り合って表に出るのではなく、京を目指す頼朝に対して京都の情勢に詳しい長清を通じて接近し、信頼を掴んでいったのではないでしょうか。

 時期が前後しますが、後白河法皇との会談の前後には、遠光、長清ともにまさに鎌倉の中枢に関わり重要な位置にいたことが各記録から読み取れます。
 1188年7月、後に2代将軍頼家となる頼朝の長男万寿が7才の時、遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)が介錯人(付き添い・世話役)となり、9月に頼朝と対面し直接「大弐局(だいにのつぼね)」の名を与えられたとされ、1192年8月に次男の千幡(のちの3代将軍実朝)が誕生するまで務めます。長清は万寿の弓始に参列していますし、長清の嫡男長経は万寿と年齢が近く、「着甲始の儀」に参加し、2代将軍となった後も義経の側近として重用されていきます。
 大弐局は、頼朝の第2子である千幡誕生後は千幡の介錯人となり、誕生を祝う「産養の儀(うぶやしないのぎ)」では、加賀美遠光が安達盛長(野添義弘さん演じる)とともに行司役を務めており、その後も千幡にかかわる数々の儀式に参列しています。
 2代、3代の将軍の幼少期に大きく関わり、重要な役目を仰せつかることが増え、ますます中央で活躍していくのです。ドラマでは長男の万寿が誕生の際の産養の儀が描かれましたので、次男千幡の時も描かれれば遠光が登場するかと期待しておりましたが、そのようなシーンはありませんでしたね。しかし、吾妻鏡などの記録にはドラマの主役級達と常に名前を並べており、同列で活躍していたことがわかるのです。
 大弐局については過去に広報「ふるさとの誇り」でご紹介していますのでこちらを参照してください)

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【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表 新たな登場人物なども加えています。

 

弓馬の四天王小笠原長清と曽我物語
 曽我物語については前回にもふれ、また、過去にも詳細をご紹介しておりますので、メインのストーリーに関してはここでは省略しますが、甲斐源氏の関わりについて少しだけ補足しておきたいと思います。
 舞台は、1193年の5月8日(28日とも)、富士山麓でのことです。「富士の巻狩り」で知られるこの機会を狙っての仇討ち物語としてよく知られているところですが、この巻狩りには、甲斐源氏からは弓馬の名手であった小笠原長清と武田信光が参加しています。また、29日にはとらえられた曽我兄弟の弟、五郎時致を幕府の重臣18名によって審問します。北条時政や義時、三浦義純、畠山重忠などそうそうたるメンバーですが、その中に小笠原長清、武田信光も列席しているのです。
 この仇討ちで、頼朝を目指す弟五郎時致を取り押さえたのが鎌倉御所五郎丸です。しかし、捕まえる際に女装して五郎時致を油断させたことが武士道に反するとして鎌倉を追放されてしまうのです。そして流された場所が南アルプス市野牛島だと地元野牛島では伝承されているのです。野牛島には今も鎌倉御所五郎丸の墓が伝えられ、五郎丸が突いた杖が大きく育ったとする大きなビャクシンもあります。
 ドラマでは通常語り継がれている説とは大きく異なった物語として描かれていましたので、五郎をとらえるシーンも無く、五郎審問のシーンもほとんど描かれませんでした。巻狩りのシーンを目を凝らして探してみると、武田菱のように見える装束の武将が写っていましたので、武田信光は写りこんでいた可能性があります。小笠原家の家紋「三階菱」は残念ながら見つけることはできませんでした。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2

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【図】曽我兄弟を含めた主要人物の関係図

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【写真】鎌倉御所五郎丸の墓(市指定史跡)

 ドラマでも武士たちが弓の鍛錬をしているシーンはよく登場しますが、この巻狩りに前後して、頼朝により度々巻狩りや狩猟などが行われ、弓馬の名手が集められています。それらの中に必ずと言って良いほど小笠原長清は名を連ねています。その後頼朝は、幕府として流鏑馬などの射芸を行事化するにあたって18名を評議のために選んでいますが、そこにも小笠原長清は名を連ねているのです。頼朝も認めていた事がよくわかりますし、『武田系図』には小笠原長清は「弓馬の四天王」として記されているほど(武田信光・海野幸氏・望月重隆とともに)、鎌倉を代表する弓馬の名手なのです。
 その後、幕府としての射芸の行事には長清をはじめ小笠原家が代々中心的に関わっており、その際に大切にされた作法や武家故実がゆくゆくは小笠原流礼法へと育まれていき、現代日本の礼儀作法の基礎となってゆくのです。

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【写真】小笠原小学校の校舎のレリーフ(市指定史跡)笠懸のレリーフ

 

頼朝の信頼を得る長清
 ドラマでは、後白河法皇が亡くなるシーンで、東大寺の大仏開眼供養のシーンが描かれました。実は東大寺は小笠原長清とも関係が深いのです。
 奈良の東大寺は、1180年に平家による南都焼き討ちによって焼けてしまいました。その後1185年に、後白河法皇によって大仏の開眼供養が行われています。源頼朝は大仏の鋳造の際に多大なる「金」をメッキ用に寄進し、その後、大仏殿の造営のためにも多大なる援助を行って東大寺の復興を助けるのです。実はその中で、頼朝は大仏殿の中に収める四天王像を信頼する御家人に分担させます。その中に小笠原長清がいるのです。長清は毘沙門天(多聞天)を命ぜられているのです。
 その際頼朝はそれぞれ、自分の本拠地にも同じものを納め縁を結ぶように命じています。それが、山寺の宝珠寺にある「毘沙門天立像」だと考えられています。江戸期に彩色が加えられてはいますが、像そのものはまさに鎌倉時代初期の造りなのです。

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【写真】宝珠寺の毘沙門天立像(市指定文化財)

 この後もなかなかドラマには登場しないかもしれませんが、その陰で、加賀美遠光、小笠原長清親子とその一族が、ドラマの主人公たちと同じ空間で同じ時間を過ごし、歴史の表舞台で活躍していたのです。そのようなことを思い浮かべていただくと、ドラマの見方や南アルプス市の甲斐源氏たちの見方が少し変わってくるかもしれません。
 市内の小学校では毎年修学旅行で鎌倉を訪れますが、その前に必ず鎌倉で活躍した甲斐源氏のことを学びます。コロナ禍により昨年は鎌倉へは行けませんでしたが、今年はまた訪れることができています。地元南アルプス市の武将たちが、800年ほど前に実際にこの場に立ち、活躍していたことを知っていただくことで、さらにふるさとに誇りを持っていただけるのではないかと願うのです。



『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その2)

はじめに
 3月15日の号で、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれていない南アルプス市の甲斐源氏の動きについて、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)が始まるあたりまでご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
 今回はその続き、ちょうど源平の合戦のころの南アルプス市の甲斐源氏について紐解いていきます。

 「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。ドラマではいよいよ恐怖政治とも言うべき頼朝による粛清の数々が描かれ始めました。頼朝が後々自分の立場を危うくしそうな原因を排除していくのですが、甲斐源氏の面々も粛清の嵐に巻き込まれていきます。
 なお、余談ですが、最近の放送で木曽義仲の嫡子義高の処分について頼朝が決断するシーンで、自身の経験も踏まえて、父が殺される恨みというのは後々まで抱き続けるものということの象徴として、まだ幼い曽我兄弟が工藤祐経に石を投げているシーンが描かれていました。いわゆる「曽我物語」を彷彿させるシーンなわけですが、実は南アルプス市芦安には曽我兄弟やその周囲の人物ゆかりの逸話が残されています。このことについては過去にご紹介しておりますのでご参照ください。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2

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【曽我兄弟を含めた主要人物の関係図】

 

長清の義父上総介の誅殺
 SNS上で最も話題となったのは、佐藤浩市さん演じる「上総介広常」の誅殺のシーンです。御家人の中で最大の勢力であったがために、頼朝によって謀反の疑いをかけられての誅殺でしたが、直後に無罪であったことが証明されています。まさに見せしめだけのために殺害されたことになります。
 小笠原長清は、この誅殺の時にはすでに上総介広常の娘と結婚していますので、近親者の立場でこの事件を見ていたはずです。頼朝の信頼が厚かった長清は、記録上ではこれに連座して処分されたという形跡はありません。

 

甲斐源氏の粛清
 その一方で、元々頼朝と対等な立場を取っていた甲斐源氏の面々は、頼朝の標的とされ、次々と誅殺、あるいは失脚させられていきます。
 甲斐源氏として早い段階から頭角をあらわしていたのは、武田信義とその子一条忠頼や、安田義定と言えます。そのどちらも失脚していく運命ですが、ドラマでは一条忠頼が誅殺されるシーンが描かれました。忠頼は信義の嫡流であり、木曽義仲を討伐した粟津合戦では、義仲を実質的に追い込む大活躍を果たしています。頼朝にとってライバルである武田家の嫡男の活躍は心配の種となったことでしょう。しかし、一条忠頼が誅殺される理由は東鑑などの史料でははっきりと記されていないので詳細は不明とされており、記録からは宴席で殺害されたということだけが知られるところです。ドラマでは木曽義高に頼朝討伐を持ち掛けたことが理由として描かれ、歴史ファンの間では、ドラマならではのうまい演出との声が上がりました。
 実はそのような解釈はかなり昔からあったようで、南アルプス市秋山に伝わる『秋山旧事記』という伝記にもそのような場面があります。記述された時期は不明ですが、江戸時代初頭に発見された秋山太郎光朝供養の経筒に関する記述があることからそれ以降の創作であり、その内容からは「記録」というより「小説」的性格のものと考えられています。
 その中で、一条忠頼が秋山光朝と共謀して頼朝討伐を企てるという場面が描かれているのです。その誘いを断った小笠原長清が一条・秋山軍に攻められるという展開で描かれており、史実と言うには難しいのですが、一条忠頼が頼朝討伐を企てたことによって誅殺されたという解釈は江戸時代からすでにあったことがわかります。
 また、南アルプス市小笠原に伝わる『小笠原旧事記』には、一条忠頼の弟を小笠原長清が養子にしていたという記事があります。名を小笠原光頼と言い、光頼は一条・秋山軍によるこの攻撃で深手を負い、北へ向かって逃げる途中桃園の地で命尽きたというのです。忠頼の弟ということは武田信義の息子ということですが、他の史料にこのような名前は確認できず、どこまで史実と言えるかは難しいところです。

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【写真】桃園には、現在も光朝の墓と伝わる石造物が残されています

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【図】主要な甲斐源氏の系図(大きな×印は誅殺、小さな×印は失脚を表します)

 

頼朝書状「・・・二郎殿をいとおしくして・・・」
 「治承・寿永の乱(源平の合戦)」も終盤、屋島の合戦の前で、範頼がうまく源氏の軍勢を束ねきれず平家を攻めあぐねている時に、頼朝が弟範頼へ送った文治元(1185)年1月6日の書状があります。大河ドラマでは、この書状が届くよりも前に、義経が大嵐の中制止を振り切って船を出して出陣する様子が描かれていました。この頃、加賀美一族は範頼の軍に従軍しています。北条義時がいる軍です。
 実はこの書状に、兄光朝と弟長清のその後の運命を決定づける一文が書かれているのです。二人に対する頼朝の考え方、扱い方の違いが良く見えます。

「(前略)甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。かゝみ太郎殿は、二郎殿の兄にて御座候へ共、平家に付。又木曾に付て、心ふせんにつかひたりし人にて候へは、所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして、是をはくゝみて候へきなり(後略)」

訳すと以下のような内容になります。

「(前略)甲斐の武士たちの中には、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長清殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝(秋山光朝)殿は、加々美次郎長清(小笠原長清)殿の兄ではありますが、平家についたり、木曾冠者義仲についたりして心不善な人なので、所領などを与える必要には及ばない人です。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです(後略)」

 ここでは甲斐源氏の中で石和(武田)信光とともに小笠原長清のことを大事に手厚く扱うべきであると伝えています。しかも念を押すように二度にわたってです。頼朝の長清に対する思い入れがいかに強いかが分かります。
 しかし、同時に光朝に対して、平家についたり木曽についたりしたとして、所領などを与える必要は無いとまで言い切っているのです。

 

秋山光朝の失脚
 『秋山旧事記』には、忠頼誅殺の翌年、秋山光朝は頼朝によって派遣された小笠原長清などによる軍に攻められ、秋山館(現在の南アルプス市秋山にある熊野神社周辺)の尾根伝いにある中野城や雨鳴城で自害したと描かれており、地元ではそのように伝承されています。秋山旧事記の内容も面白いのでいずれご紹介したいと思いますが、光朝も一条忠頼同様に鎌倉で誅殺されたと考えるのが一般的です。
 前号でもご紹介した通り、秋山光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父という関係であり、平家との非常に強い繋がりを得ています。遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがえますし、場合によっては、次男の長清を頼朝に近づけたのは、たとえどちらに転んだとしても加賀美一族が生き残るための方策だったのかもしれません。

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【写真】秋山光朝公廟所にある五輪塔
向かって右が光朝の妻、中央が加賀美遠光、左が光朝のものと伝わる。

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【表】甲斐源氏との対応年表前回表示下年表の続きです。

 ただし、東鑑の元暦元(1184)年5月1日の記事に、木曽義仲の嫡子義高に通じていた者が甲斐・信濃に隠れ叛逆を起こそうとしているとして、甲斐国へ足利義兼と小笠原長清を派遣したことが見えますので、年代は前後していますが、このような記事を総合して『秋山旧事記』が創作されたのかもしれません。なお、東鑑などの史料には長清と光朝が戦ったとする記事はありませんし、光朝が亡くなった年も記されていません。

 「(前略)故志水冠者吉高伴類等令隠居甲斐信濃等國。疑起叛逆之由風聞之間。遣軍兵。可被加征罰之由。有其沙汰。足利冠者義兼。小笠原次郎長清。相伴御家人等。可發向甲斐国。(後略)」

 

加賀美遠光の台頭
 先ほど紹介した手紙の後、1185年3月に壇の浦の戦いで源平の勝敗が決しますが、吾妻鏡などには、その頃から加賀美遠光の名が頻繁に登場するようになります。
 その年の8月に遠光は信濃守に任じられ、その後遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)大弐局が当時7歳であった万寿(のちの2代将軍頼家)の介錯人となり、続けて次男千幡(のちの3代将軍実朝)の介錯人となるなど、ますます中央で活躍していく様子が描かれているのです。
 このあたりからは次回ご紹介したいと思います。
 南アルプス市の甲斐源氏がドラマに登場する日も近いこものと信じています。ドラマをご覧になられる際も、南アルプス市の甲斐源氏のことを想像していただくと、鎌倉での出来事が、少しでも、近しい事柄に思えるかもしれません。

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【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください。今回は1185年当時の年齢を表示しています。


『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?

はじめに

 先月に引き続き甲斐源氏の話題をと考えておりましたが、例の大河ドラマでは先月以来甲斐源氏がほとんど登場していないため、来月までこの話題は取っておこうと思います。その代わりに、南アルプス市の縄文文化についてのちょっとしたニュースがありましたので、その話題から始めてみましょう。
 昨年実施された「全国縄文ドキドキ総選挙2021」にて見事優勝した、南アルプス市鋳物師屋遺跡から出土した「人体文様付有孔鍔付土器」(長いですよね!!)の愛称が決定したというものです。
 多くの来館者による応募の中から、最終的に決定したのは、、、
「ぴ~す(ピース)」
 3本指の手がピースサインのように見えますし、ラヴィとコンビで「ラヴィ&ぴーす」としてますます南アルプス市の縄文文化を広められたらと考えています。「ラヴィ&ぴ~す」、まさに今の世の中に必要な言葉かもしれませんね。

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【写真】ぴ~す

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【写真】愛称決定記念 写メスポットパネル
伝承館では1階にこのパネルを設置し、皆さん記念写真を撮っていただいています

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【写真】縄文展示室の子宝の女神ラヴィ

 ちなみに、これらはいずれも縄文時代中期中頃といって、今から約5000年前のものです。しかし、そのつくりを観察することで実はラヴィの方が少し古く、ぴ~すの方が少し後に作られたものであることがわかっています。
 一概に「縄文時代」と言っても1万数千年続いていますから、その中でも紆余曲折があったことでしょう。南アルプス市の縄文人たちはいつぐらいに市内のどのあたりに暮らしていたのでしょう?ずっと同じところに暮らしていたのでしょうか?今回は、そんな話題について、紐解いてみたいと思います。

 

縄文遺跡の分布と変遷

 南アルプス市内の縄文遺跡は、主に、①櫛形山の東麓に位置する市之瀬台地の周辺地域と、②扇状地上の上八田や徳永地域の、大きく2つの地域に分布しています(図1の赤で囲んだ範囲)。両地域の間にはちょうど御勅使川の旧流路が流れていたため、流路をさけて占地していたように見えます。とはいっても、上八田や徳永地域に登場するのは縄文時代後期初頭のみで、それ以外は縄文時代早期から後期までを通して市之瀬台地周辺に集中しており、その後空白の期間を挟んで晩期から弥生時代にかけて、扇状地などの低地部に分散していく様子がわかっています。
 ラヴィやぴ~すが出土した「市之瀬台地」周辺には特に縄文遺跡が集中していますので、このエリアを中心に時代を追いながらみていきたいと思います。遺跡の概要は過去の記事やホームページ「文化財Mなび」も参考にしてください。

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【図1】市内縄文遺跡分布図

 

市之瀬台地と縄文遺跡

 市之瀬台地は櫛形山の東麓、標高520m~400m程を測り、あやめが丘などの台地の先端部では約100mの比高差をもつ崖線が形成されています。また、山から流れ落ちる多くの河川が台地を開析しているので、西から東に向かって伸びる細長い舌状台地が南北に並んだ集合体とも言えます(図2・図3)。

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【図2】市之瀬台地周辺の地形と遺跡の立地
 
 まさにこの市之瀬台地の周辺地域から南アルプス市の歴史は始まったと言え、旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡もその台地の上面、縁辺部(斜面部)、台地直下の扇状地に分布がみとめられます。そのうち発掘調査が行われ、部分的にせよ集落の存在がみとめられたのは全てで12遺跡となります。
 それらの立地や住居の数などをまとめたのが表1で、図と見比べると、時代を追ってその移り変わりをご覧いただくことができます。

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【図3】市之瀬台地周辺の発掘調査が行われた遺跡分布と変遷イメージ


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【表1】縄文時代中期を中心とした、集落遺跡の変遷表
草創期と晩期を省略し、立地する地形ごとに区分して表示しています。「中期」を細分する「狢沢」「新道」などは土器形式名で、土器の文様の特徴などで時期差が判別できます
 
 先にこの表や図の見方を説明します。発掘調査は、工事などによって遺跡が壊れてしまう部分だけを行いますので、調査されたのはあくまでも遺跡のごく一部といえ、発見された住居の数などは遺跡全体で考えるともっと多くなることが予想されます。集落全体が把握されたのは鋳物師屋遺跡だけといえます。厳密にいうとこの集落は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡と川上道下遺跡にまたがっていて、総称して鋳物師屋遺跡と呼んでいます。
 図3は遺跡の中でも発掘調査の行われた調査区の範囲だけを示しています。大きめの画像にしましたのでアップにしてご覧いただけると細かい位置がわかると思います。
 時代の区分も、中期という時代は発見された建物の数も多いので細かく分類できていますが、ほかの時代はそこまで細分できていませんので、表の一マスが同じ「時間」を表しているわけではありません。

 

市之瀬台地から始まる

 南アルプス市では縄文時代早期の土器は市之瀬台地上の様々な遺跡で出土していますが、建物跡などは見つかっていません。転々と移動しながら暮らしていた可能性もあります。ムラ(集落)として確認できるのは今から7000年近く前の、縄文時代前期前半の頃といえます。住居がまとまって検出されたり、お墓やその他施設などが揃うなど、一定の期間暮らしが継続した痕跡が見つかって初めてムラと言えるのですが、中畑遺跡からは12軒の建物跡が発見されていますので、現在のところ南アルプス市での最古のムラ跡と言えます。ここは市之瀬台地の上、ほたるみ館の北にある西地区多目的広場のグラウンド部分で、7000年前の集落はさらに北の方へと広がっているものと考えられます(図3の緑の位置。ムラ跡全体を掘ることができれば、実際にはもっと軒数は多くなるものと思います)。

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【写真】中畑遺跡周辺の航空写真
 
 ここでは個別の遺跡の調査内容については省略しますが、中畑遺跡の次にまとまって縄文時代の建物跡が検出されたのは中期初頭といえ、中畑遺跡に隣接する長田口遺跡や新居田A遺跡にまたがる範囲です。長田口遺跡はほたるみ館やその北側の広場の駐車場部分、広域農道付近を指し、新居田A遺跡はそこからあやめが丘へ伸びる農道になりますので、遺跡名は違いますがこれらは同じムラ跡と考えられます。遺跡名は小字名から名づけるので、全く違う遺跡のように感じてしまいますが、実は当時は同じ「ムラ」であるということはよくあります。
 その後この地域でも細々と暮らしは継続していたようですが、大規模なムラではなくなるようです。では縄文人たちはどこへ移動したのでしょう。現在のところ、発掘調査でわかっている遺跡の内容からは主に二方向への移動の様子が伺えます。一方は、同じ台地上を上野、中野と移動しながら南下してゆき、中期の終わりごろに再び中畑遺跡や長田口遺跡周辺へ戻ってきます。
 もう一方は台地下の扇状地へ移動したように見えます。ちょうど、長田口遺跡などの集落が全盛を終えるあたりから、入れ替わるように扇状地に立地する鋳物師屋遺跡が全盛を迎えてゆきます。鋳物師屋遺跡の「ラヴィ」はちょうど「新道式」と「藤内式」の狭間あたりの土偶といえ、また「ぴ~す」は藤内式の土器といえますので、鋳物師屋遺跡の全盛期に作られたものであることがわかります。鋳物師屋遺跡はまとまった数の建物跡が検出され、またラヴィやぴ~すに代表される特殊なマジカルなモノを多く持った、拠点的な集落であったことがわかります。藤内式期を最後にその後はほとんど生活の痕跡がみられなくなります。建物跡に土砂が厚く堆積する例があることから、土石流などの影響でムラごと移動したのではないかと考えられています。

 

扇状地の縄文人

 では、鋳物師屋の縄文人たちはどこへ移動したのでしょうか。発掘調査の結果からヒントが見えてきます。藤内式期以降、拠点的な集落として「曽根遺跡」や「北原C遺跡」が隆盛を誇ります。いずれも鋳物師屋遺跡と同じ台地下の扇状地に立地しているのです。特に、北原C遺跡は多くの土偶や動物を象った土器など、特殊なマジカルなモノを多く持っていることが特徴的で、まるで鋳物師屋遺跡の性格を引き継いでいるかのように思えるのです。
 あくまでも想像の世界ですので、集落ごと引っ越してきたかどうかは判定できませんが、ただ、特殊なマジカルなモノを多くもった大規模な集落が台地下に展開しているという点は注目に値すると考えています。
 これまでにも何度か紹介してきましたが、縄文人たちは豊かな感性とそれを形にすることができる豊かな技術を持ち合わせています。しかし、マジカルなモノが発達するということは、祈りや願いを強く持たなければならなかったということの証しといえ、そういった現象が台地下の扇状地域に偏重しているということに何かしらの意味があるのだと考えます。土石流をおそれていたのでしょうか?「自然」に対して畏れ、祈り、感謝しながら暮らしてきた様子が垣間見られます。

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【写真】北原C遺跡の航空写真

 

その後はさらに謎

 縄文時代中期終末以降さらに謎が深まります。台地の上では広く分布がみとめられていたのに、その後の後期初頭になると、占地の様子がガラッと変わります。例えば台地上の長田口遺跡や中畑遺跡周辺(ほたるみ館周辺)では、より川や谷に近い位置に寄ってきて、さらに晩期になると新居田B遺跡を含め、完全に川沿いのエリアだけに遺構がみとめられるようになります。
 また、台地縁辺部の斜面のきつい横道遺跡や、御勅使川の旧流路を挟んだ扇状地上の上八田や徳永地域周辺に突如(?)現れるのです。その後、後期の中頃から晩期初頭までは完全に謎で、市内に集落の存在は確認できていません。次に縄文人の痕跡に出会えるのは縄文時代の最終段階、晩期終末なのです。市之瀬台地の下の天神社遺跡をはじめ、市内各地の扇状地上に晩期縄文人たちの痕跡がみとめられるのです。

 

おわりに

 南アルプス市縄文人たちの謎は深まるばかりですが、現在発掘調査が行われた遺跡から見えるムラの移り変わりの概要は以上となります。現在も市内の各地で、工事に伴って消滅してしまう遺跡の発掘調査が行われていますので、いずれまた、新たな調査成果を踏まえて紹介できればと願っています。最後になりますが、ここでご紹介した遺跡の出土資料は「ふるさと文化伝承館」で展示されていますので、ぜひ本物をご覧いただければと思います。

※各遺跡の概要はホームページ「文化財Mなび」や過去の記事をご覧ください。
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (lekumo.biz)
2.眺望の魅力 市之瀬台地 | 文化財Mなび (route11.jp)

【南アルプス市教育委員会文化財課】