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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

 信州と駿河を結ぶ西郡路の要、荊沢宿。今月号は移りゆく荊沢宿の街並みに注目してみます。

1.幕末から明治時代の荊沢宿
 明治3年荊沢村余業(よぎょう)と呼ばれる農間の稼ぎ資料(『甲西町誌』)から、幕末から明治初期の荊沢宿がどんな街並みだったのか、想像しながら歩いてみましょう。

1)荊沢宿さんぽ
 宝永7年(1710)に改修された西郡路の道幅は3間(約5.5m)で、現代の道からするとやや狭い印象です。道の西側には水路が流れています。道を南へ下り、古市場を過ぎると道が曲尺(かねじゃく)のように直角に連続して曲がる「カネンテ」(註1)にたどり着きます(図1)。この辺りから荊沢宿が始まります。宿の中は農村でありながら、さまざまな余業を営む人々の家々が街道の両脇に並んでいます(図2)。一軒一軒は間口が狭く奥行が長い地割で、「うなぎの寝床」に例えられる京の町家に似ています。
 宿中を歩き始めると、ほうきやざるなどを扱う荒物屋や箸や食器を売る小間物屋、穀物屋、桶屋、薬屋などさまざまな種類の店が並んでいます。お腹が空けば食事ができる店もあれば、饅頭や焼き芋、お菓子など今でいうスイーツの店にも出会えます。焼き芋を頬張りながら、店巡り。寒い季節の焼き芋は最高ですね。干物魚屋には鰍沢河岸から運ばれた干物の魚も売っています。歩いてよく目にするのは木綿を扱う家。収穫して種を取り除いた綿を弓でほかす綿打職やその綿を紡いで糸にする篠巻職の家が多いことに気づき、綿栽培が盛んな土地柄が感じられます。造酒屋さんも2軒見つけました。お酒は夜にとっておきましょう。酒屋ではお醤油やお酢も売られています。あちら側には豆腐屋さんもあります。
 宿場をゆっくり散策していると櫛形山に日が入り始めました。前から焙烙(ほうろく)の担ぎ売りと甘酒の担ぎ売りが歩いてきます。この際甘酒もいただきましょう。前方の家からは心地よいリズムを刻む金属音が響いてきました。音を刻むのは農具などを治している鍛冶屋さん。髪結いをしている家も数件ありました。さて、日も暮れてきました。銭湯で一風呂浴びてから今夜は荊沢に一泊することにしました。旅籠は3軒、どこに泊まろうかな。

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【図1】江戸時代末の土地割

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【図2】明治3年荊沢村余業概念図


2)職種別余業について
 明治3年の荊沢宿の余業を西郡路の東西で北から順にならべたのが図2で、職種別にまとめたのがグラフ1になります。
 最も多い木綿関係は綿打業8、篠巻業2、綿仲買・綿商2、篠巻小売1計13で全99戸中約13%を占めています。『甲斐国志』で「奈古白布ト云ハ木綿ノ好キ処ナリ」と書かれているほど東西南湖やにしごおりは県内有数の綿の産地で知られ、荊沢宿でそれに関係した職が多いのも頷けます。西郡路に注目すると、旅籠3、飲食店4、銭湯2が営まれていて、近隣の一般的な村々と異なっていることがわかります。菓子屋7と多いのも街道沿いの特徴の一つでしょう。一服した旅人の楽しみの一つだったと想像できます。造酒屋は2軒、宝永2年(1705)の村明細帳にはすでに酒屋が4軒挙げられていますから、伝統的に酒造りが行われていたと言えます。気になるのは宝永2年で48人もいた塩や糀を売り歩く糀売りが記録されていません。生活様式の変化や酒造・醤油・酢造稼の店で売られていたことが考えられます。

 

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【グラフ1】明治3年荊沢村余業を職種別にまとめたグラフ


2.古市場、荊沢宿で出店を構えた近江商人の馬場家
 江戸時代から明治時代にかけて、古市場と荊沢宿には近江商人(滋賀県出身の商人)の馬場家も店を構えていました。宇佐美英機氏の研究(註2)によれば、近江商人の馬場利左衛門は、宝暦年間(1751-1764)のころから薬種類の旅商いを始め、甲州西郡筋には年に2、3回訪れ、古市場村を旅宿にしていました。その後寛政10年(1798)、古市場村の周六から屋敷の半分を借りて出店し、荒物や小間物類、呉服の卸売を始めます。天保6年(1835)ごろには、分家の利助に出店が譲られました。弘化4年(1847)年立ち退きを命じられたため、荊沢村の豪農市川文蔵(註3)が古市場に所有する土地を借りて商いが続けられました。
 馬場家は京都麩屋町四条上る枡屋町に仕入店を構えており、上方(京都や大阪)で仕入れた商品を古市場の出店で販売するネットワークが形成されていたと言えます。明治初年に古市場村の出店は閉じられましたが、明治3年の史料「身元立直証文」の宛先「甲州巨摩郡荊沢宿」に「利輔出店」とあり、荊沢村に新たな店が設けられました(註2)。近江商人にとって継続して出店を構えるほど荊沢宿周辺が重要な商圏であったことがわかります。
 では馬場家は荊沢宿のどの辺に出店を構えたのでしょうか。幕末の荊沢宿絵図には「利助(輔)」の名は書かれていませんが、上宿に馬場家に見られた「利左エ門」の名が見えます(図1)。明治3年余業調べでは馬場家の扱っていた商品の荒物や小間物を扱う店は上宿に位置しています。「利左エ門」が馬場家を意味するかは不明で正確な場所は特定できませんが、古市場に近い荊沢宿の土地に新たな出店を構えたのかもしれません。


3.市川家の江戸四谷町家経営
 古市場の所有地を近江商人馬場家に貸し出していた荊沢村の豪農市川文蔵。近年、市川家が江戸の四谷などに土地を所有し町屋の経営を行っていたことが、東京都埋蔵文化財センターによる四谷一丁目の発掘調査と文献調査によって明らかとなってきました(註4・5)。市川家は明和3年(1766)に麹町6丁目を始めとして、四谷塩町一丁目、赤坂裏伝馬町二丁目などの土地を購入し、町屋敷を経営していました。その目的は町屋からの収入よりも穀類や銭など江戸の相場情報を家守りから得ることだったと推測されています。

 こうして見ると江戸時代の荊沢宿は駿河と信州だけでなく、市川家や馬場家を軸に江戸や上方と広域のネットワークで結ばれ、物資だけでなく最新の情報ももたらされていたと言えるでしょう。


4.大正末期の街並み
 大正時代末ごろの荊沢宿の街並みを地元の方が書き記した地図があります(第3図)。それを手掛かりに明治3年からの大正時代末期までの街並みの移り変わりを見ていきましょう。
 まず明治3年から継続して営まれているのは、荒物屋、酒造屋、菓子屋、焼き芋屋、桶屋、大工、紺屋、銭湯などです。一方明治3年から大きく変化したのは木綿関係で、10あった綿打屋がなくなり、座繰屋2だけとなりました。明治中頃安価な外国産綿が輸入され、山梨県内の木綿生産は急速に衰退した状況が街並みにも反映されています。
 次に文明開花から西洋化が進んだ大正時代、技術や生活様式の変化に注目してみましょう。髪結から床屋へ、提灯屋からランプ屋や電球交換へ、飲食店にはバーが登場し、洋品を扱う雑貨屋も始められました。さらに江戸時代や明治初期にはなかった新たな商いも始められています。新しい材のセメント屋、自転車屋、車力、ラジオ屋まで登場しました。特に自転車は大正時代急速に発展した行商の足として欠かせないものでした。ラジオは大正14年(1925)から新たなメディアとして放送が開始され、一般への普及はやや遅れることから、この地図に書かれたラジオ屋は昭和初期のものかもしれません。また、郵便局も設置されています。明治7年7月1日荊沢郵便御用取扱所(明治8年荊沢郵便局に改称)が設立され、紆余曲折ありながら、荊沢郵便局に続いていきます。市川文蔵家では明治に入り市川銀行が設立されました。また娯楽施設も新たに作られました。大正初期、塩沢安重は父が営んだ酒造の広大な跡地を利用して東落合の新津隆一、西落合の深沢富三とともに芝居小屋「旭座」を設立しました。旭座では芝居や活動写真(無声映画)が上演され、西郡を代表する娯楽施設の一つとなったと言われます。

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【図3】大正末〜昭和初期の街並み

 

おわりに
 時代が移り、技術が発達し、交通網が変わり、生活様式も変化し、荊沢宿はその姿を変えてきました。街並みは時代を写す鏡と言えるかもしれません。現在の荊沢宿の商店は以前と比べ少なくなっていますが、コミュニティースペースやカフェなどが作られ、さまざまな人々が集う新たな荊沢宿も生まれつつあるようです。
 

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【写真】荊沢「くらんく」では、定期的に芝居やコンサート、学習会などが開かれている

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【写真】荊沢「くらんく」でのクラッシックコンサート

 

註1 連載 今、南アルプスが面白い2018年9月14日 (金) 何気ない街角に歴史あり(その5) 旧荊沢宿の「かねんて」

註2 宇佐美英 1998 「馬場利左衛門家の出店と「出世証文」」 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第31号

註3 荊沢宿の市川家当主は代々市川文蔵を名乗った。

註4 東京都埋蔵文化財センター 2020 『新宿区四谷一丁目遺跡-東京都市計画四谷駅前地区第一種市街地再開発事業に伴う調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告第350集

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅

はじめに
 令和3年8月29日(日)、山梨県と静岡県を結ぶ中部横断自動車道が開通しました。この開通によって、静岡県静岡市から山梨県南アルプス市を経由し、同県甲斐市まで高速道路で結ばれました。
 甲斐国は山(信濃)と海(駿河)を結ぶ地域であり、南アルプス市域はまさにそのルート上に位置しています。江戸時代、信州から甲府を経由し江戸につながる甲州道中(現在の国道20号線)の韮崎宿から南に分かれ、市内の六科村や在家塚村、小笠原村、荊沢村を経由し、鰍沢村そして駿河に至る道は駿信往還と呼ばれ、特に韮崎宿から鰍沢河岸までは西郡路(にしごおりじ)とも呼ばれていました。また、鰍沢に設置された富士川の河岸(かし:川の湊、船着場)からは静岡県の岩淵まで富士川舟運が通じていました。この山と海を結ぶ大動脈の西郡路で拠点となったのが荊沢宿です。今月のふるさとメール、江戸時代の荊沢宿を旅してみましょう。

 

1.駿信往還と下げ米、上げ塩
 駿信往還(西郡道)はいわゆる脇往還で、甲州道中のような公式な官道より物資が行き交う商業の道でした。慶長年間から富士川舟運が開通すると、信州から甲斐国内の年貢米がこの道を通り鰍沢河岸に集められ、舟で岩淵(当初は岩本)まで運ばれ陸路で蒲原へ、そこから清水港へ運ばれ、さらに大型船に積み替えられて、江戸浅草の御米蔵まで運ばれました。こうした年貢米やその輸送を廻米(かいまい)と呼びます。一方下った舟の帰りには赤穂の塩や海産物などが鰍沢河岸に引き上げられ、馬に積み替えられてこの道を通り巨摩郡各地や信州へ運ばれました。いわゆる「下げ米、上げ塩」です。このように甲斐国と信濃、駿河と江戸そして全国各地を結ぶ物流のネットワークのひとつとして駿信往還があり、その一番の宿場が荊沢宿だったのです。

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【図1】駿信往還(西郡路)・富士川舟運 荊沢宿位置図

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【図2】西郡路と富士川舟運 荊沢宿(伊能図に文化財課加筆)

 

2.荊沢村の始まり
 『甲斐国志』によれば、身延の過去帳に書かれた「西郡大市」が現在の古市場、新しくたてられた西郡今市場が荊沢村と言われています。つまり街道沿いの北大師村に市がたてられ、その南に新しく市がたてられたため、北大師村を古市場と呼ぶようになり、新しい市が荊沢村、そして荊沢宿となったと考えられています。荊沢の宿としての役割は武田氏による戦国時代からと推測されていますが、少なくとも元和3年(1617)には荊沢村が伝馬役を勤めていたと考えられています(註1)。

 

3.荊沢村の様子
 宝永2年(1705)の村明細帳から村の様子を見てみましょう(註2)。戸数は210軒、人数596人を数えました。農業のほか、酒屋4軒、糀屋1軒、紺屋5軒、大工一人、鍛治一人、たらゆい(桶屋)一人、医師一人という構成です。酒屋とそれに関連する糀屋が多いことが挙げられます。また注目されるのはこの他に商人が77人いたことです。8人が鰍沢へ買い出し、4人が駿河からの塩や茶を売買し、15人が棒手振りつまり行商、2人は薬を商っていました。多くが駿信往還に関連した商いをしています。そして最も注目されるのが、77人中48人が「塩糀在々へせおい出売申候」つまり塩や糀を村々へ売り歩く商人の多さです。塩は富士川舟運の上り荷として鰍沢河岸で荷揚げされた大量の塩が荊沢宿を通り、中巨摩、北巨摩、信州へと運ばれました。その塩の販売が荊沢宿周辺でも行われていたのです。

 

4.ちょっと寄り道 麹・糀の話
 一方江戸時代の糀、どうやってつくられたのでしょうか。ちょっと寄り道してみましょう。江戸時代の文献をひもとくと、糀の作り方はいくつか方法があります。(1)米を蒸したものを穴蔵に入れて作る、(2)炒った小麦と煮た大豆を混ぜて、麹蓋に入れて作る、(3)炒った大麦と挽き割った大麦と煮た豆を菰の上で作る方法などがあったようです。

(1) 『本朝食鑑』元禄10年(1697):食物本草書
一昼夜浸した粳米を取り出して乾かし、セイロで蒸して飯を作り、ムシロに広げて1日露にあてる。木盤に盛り、土窖(あなぐら)の中に置いてむらすと、大抵三日ばかりで白衣(しろかび)を生じ、これを取り出して用いるものを俗に白麹(しろこうじ)という。これは白醴(さけ)や一夜味噌の類を造るものである。白衣の後一両日を経て、外面に黄赤衣(きあかかび)を生じたらひっくりかえして、内側のまだ衣が生じていない処に黄衣(きかび)が生じるのを待って、それを数回行い、内側外側一様に黄衣を生じるまで置く。

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【写真】麹 (『本朝食鑑』国立国会図書館蔵)

(2) 『萬金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』享保17年(1732)刊:江戸時代商品学書
 小麦一石をよく焙って、ざっと挽き、白豆一石を味噌のようによく煮て、右の小麦と一つにかきまぜ、かうし蓋(麹蓋:麹を作るための木箱)に入れる。

(3) 『廣益國産考(こうえきこくさんこう)』天保15年(1844)刊:農学書
 五人家族の家では古い酒樽を三つ用意する。一樽に大豆を六升、ついた大麦を六升づつ入れてつくる。三樽の合計は豆一斗八升、麦一斗八升である。麦を炒鍋で炒って、半分は臼で粗く引きわり、残りの半分は炒ったままで豆を煮たものと一つにして、花を付ける。花を付ける時は、五月から十月上旬迄は、家の隅、物置杯の土間に菰(こも)を敷いて、その上に筵を引いて、そこへ豆と麦を合わせたものを一寸五分位の厚さにして広げ、夏場は上に覆いをすることなく置く。九月になったら菰一枚、十月上旬には二枚重ねて覆いをするようにする。覆いをする前にススキの葉を少し糀の上に置くとよい。

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【写真】醤油づくりのための麹づくり(『廣益國産考』国立国会図書館蔵)

 では、このようにして作られた糀を売る糀売り、どんな商売だったのでしょうか。江戸時代、南アルプス市域の村明細帳を調べたところ、「糀売」が登場するのは、荊沢村とその北に続く古市場村、鮎沢村の3か村だけです。古市場の宝暦明細帳に「稼 男ハ農業之間並平日ハ日用或ハ塩糀木綿種等」や天保3年には「一稼 男ハ農業之間日用或者塩糀木綿実等売買其外時々之品少々宛売買仕候女ハ木綿糸とり並織出申候」と書かれていて、農業の合間の余業として糀売が行われていました。江戸時代後期に刊行された『守貞謾稿』には「麹売」が掲載されています。それにも、麹売りは中秋以降冬に売りあるくと書かれていて、村明細帳と一致します。ではなぜ荊沢宿周辺で糀売が行われていたのでしょうか。確かな答えは不明ですが、甲西町誌によれば、近代では各家庭で糀や味噌、醤油などが作られていたことから考えると、宿場であった荊沢宿では糀作りが専業化され、街道の酒屋や各村々へ売りあるく伝統が形成されていったのかもしれません。

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【写真】麹売(『守貞謾稿』国立国会図書館蔵)

 

5.行き交う馬と物資
 ここで荊沢宿を通過したモノに注目してみます。増田廣實氏の研究によれば、嘉永7年(1854)の宿継荷物は2440駄で米を合わせると約1万1千駄を数えます(註1)。下り荷物、つまり信州方面から韮崎宿を通り、荊沢宿からさらに鰍沢宿に荷継ぎされたものは、年貢米のほか、太物、苧(麻)、薬、元結、紙、傘、笠、椀、箸、櫛などでした。特に紙、元結、椀、箸、櫛は信州飯田方面からの荷物で、飯田荷物と呼ばれていました。一方鰍沢宿から荊沢宿を経由し信州へ運ばれた上り荷物は塩や海産物のほか、阿波藍、武州藍、繰綿、篠巻、中綿などです(註3)。背に米俵や椀や櫛などを乗せた馬が鰍沢方面へ下り、一方塩や藍玉を背に積んだ馬が韮崎宿を目指す、そんな光景が目に浮かんできます。
 来月号では荊沢宿内を旅してみたいと思います。


註1 増田廣實 2005『商品流通と駄賃稼ぎ』 同成社
註2 甲西町誌資料編
註3 江戸時代の文献では現代でいう「塩糀」を掲載する主な文献は『本朝食鑑』に限られ、一般的な用語とは考えにくいため、「塩と糀」と解釈しました。
註4 連載 今、南アルプスが面白い 2021月6月15日(火)江戸時代の南アルプスブルー ~村々の藍葉栽培と藍染~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

信州松本城と南アルプス市をつなぐ二つの物語

 神無月。今年の10月は30度を記録する夏のような日もありましたが、木々の葉は少しずつ淡朽葉(うすくちば)や黄丹(おうに)、柿色に染まり、ようやく秋の深まりを感じられるようになりました。コロナ感染が拡大する中、市内の小学校では修学旅行のコースを定番の鎌倉や東京から長野県へ変更する学校が多くなっています。今回のふるさとメールでは、信州を代表する名所、国宝松本城と南アルプス市とを結ぶ二つの物語についてご紹介します。

 

1.国宝松本城

 松本城は長野県松本盆地の複合扇状地上に造られた平城です。扇状地の扇端に造られたため、城下町を歩くとあちこちで湧水に出会うことができます。南アルプス市で場所を例えるなら、御勅使川扇状地扇端に立地し水が湧出する若草地区の加賀美付近でしょうか。その豊かな湧水は堀の水に利用され、常に清らかな水で満たされています。

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【写真】城下町で出会う湧水

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【写真】松本城堀の水

 松本城といえば白漆喰の白壁と黒漆が塗られた板、そして茶、灰色の濃淡で彩られた土台の石垣の織りなすコントラスト、借景となっている北アルプスの美しさに目を奪われます。全国でも天守が残る城は12しかありません。天守は一番高い大天守を始め、月見櫓(やぐら)など5棟の建物が組み合わさっており、文化財の最高峰国宝に指定されています。城好きな人々はもちろん、さまざまな人々を惹きつける著名な観光地となっています。さて、この松本城、南アルプス市といったいどんな関係があるのでしょうか。

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2.甲斐源氏と松本城

 松本城は戦国時代、小笠原氏が建てた深志城が始まりと言われています。小笠原氏は、南アルプス市加賀美に居を構えた加賀美遠光の次男、長清を祖とします。長清は原小笠原荘(南アルプス市小笠原)を所領としていました。治承・寿永の乱ではいち早く源頼朝に従い、鎌倉幕府を支える有力な御家人となっています。弓馬術に優れ、『武田系図』によれば、武田信光らとともに弓馬の四天王に数えられました。長清の子孫は弓馬故実の指導的立場となり、室町時代に小笠原流礼法が整えられました。また南北朝時代、小笠原氏は甲斐から信濃へ拠点を移し、信濃国守護となります。戦国時代、松本市周辺は小笠原氏の勢力下にありました。

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【写真】遠光・長清父子像(開善寺蔵)加賀美遠光(上)と小笠原長清(下)

 その小笠原氏を攻め、深志城を手に入れたのが同じ甲斐源氏である武田家当主の晴信、後の信玄です。晴信は越後の上杉氏攻略の拠点としても深志城の整備を行ったと考えられています。武田家滅亡後、深志城は再び小笠原氏の貞慶(さだよし)が奪還します。そしてこの貞慶が深志を松本に改称しました。「松本」という地名にも甲斐源氏がかかわっていたのです。国宝となっている天守などの建造物は安土桃山時代、石川数正親子が整備したとされていますが、松本城の歴史の始まりは小笠原氏、武田氏など甲斐源氏が礎を築いたのです。

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【写真】松本城内各所に小笠原氏の家紋三階菱の灯篭が飾られている

 

3.太平洋戦争後の文化財保護の物語 八田山長谷寺と松本城をつなぐ人々

 江戸から明治へ時代が移ると松本城に危機が訪れます。城としての必要性が失われたため、民間へ売却され破却されることが決定しました。これを覆したのが地元の人々です。城を買い戻し、保存会を立ち上げ、募金を募り、荒廃した天守の修復事業が明治時代に行われました。
 昭和に入ると昭和5年(1930)には史跡指定をうけ、昭和11年国宝に指定されるなど、法的に文化財としての価値が認められます。太平洋戦争時、日本各地の城郭がアメリカ軍の空襲によって失われて行く中で、幸運にも松本城は戦火を免れました。
 太平洋戦争後荒廃した松本城の修復事業を進めたのは、奇しくも日本を占領した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)民間情報教育局(CIE)で、文化財保護や美術について行政指導を行なっていた美術記念物課のチャールズ・F・ギャラガーが松本城に昭和21年秋に訪れました(註1)。ギャラガーは太平洋戦争中に日本語を学び、戦後1946年に来日、アジア全般の芸術について学んでいたわけではありませんでしたが、「a quick learner(物覚えの早い人)」と呼ばれたように高い学習能力があったと考えられます。ギャラガーが戦後日本全国の文化財を視察し、修復事業の指導を行なっていたのです(註2)。
 昭和21年10月、ちょうど松本城視察の前後、ギャラガーは現南アルプス市榎原の八田山長谷寺を視察しています。長谷寺も当時国宝に指定されていましたが、戦前から荒廃し、戦中から地元の人々の熱意によって解体修理事業が計画されてきました。松本城に対し早急に修復するよう勧告したと同様に、長谷寺本堂にも早急な修理が勧告なされ、昭和22年度法隆寺と並び戦後初の国庫補助事業として本堂解体修理が認められました。この長谷寺本堂の調査や解体修理を監督したのが文部省技官の大岡實と乾兼松です。とりわけ大岡實は長谷寺と法隆寺の修復事業を監督するだけでなく、同時期に松本城の修復の調査も行なっています。長谷寺の小暮君易さん(故人)は大岡が長谷寺に宿泊した後、松本城や法隆寺へ向かい指導していたこの時の様子をはっきりと覚えておられました(註3)。

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【写真】長谷寺本堂解体修理

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【写真】大岡實博士

 長谷寺本堂の解体修理が完成し行われた落慶式の昭和25年3月18日から約3ヶ月後の同年6月8日、松本城の修復工事の起工式が行われました。敗戦から復興を目指す中で行われた長谷寺と松本城の修復事業は戦後文化財保護の第一歩となりました。それが可能になったのは、文部省技官、GHQ、そして地域の人々の文化財への想いが結ばれたからでしょう。

 

 秋の深まりとともに南アルプス市甲斐源氏の祖である加賀美遠光の館跡、法善寺境内や長谷寺の木々も色づき始めています。北アルプスを背景にした信州松本の紅葉も見事です。コロナ禍終息後、二つの物語に想いを馳せながらそれぞれの地を旅してみてはいかがでしょうか。

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【写真】八田山長谷寺

註1 国宝松本城のホームページ

註2 MONUMENTS MEN FUNDATION のホームページ(ブラウザChrome、Edgeで閲覧できます)

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今、南アルプスが面白い 2018年1月15日 (月)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語~

今、南アルプスが面白い 2018年2月15日 (木)
文化財を守る地域の力~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~

南アルプス市広報 2016年1月号
昭和20年代長谷寺本堂解体修理と法隆寺金堂焼損~二つの国宝をめぐる物語~

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

月の魅力~満ち欠ける姿に重ねた想い~

 闇夜の中、やさしい光で地上を包む十五夜の月。令和3年は9月21日が中秋の名月です※1。古くから人々は月の満ち欠けにさまざまな想いを重ねてきました。今に続く人と月の関係。今宵は古の人々が月に重ねた想いとともに月の魅力を訪ねてみましょう。

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【写真】南アルプス市中野の棚田から


○時・季節を知る

 明治5年以前、日本の暦には主に月と太陽の動きから考えられた太陰太陽暦が用いられてきました。人々は月の満ち欠けで時を知り、季節を感じ、種まきや収穫などの農作業や祭りの時期を決めていたのです。9月1日有野地区で行われている八朔祭りの「朔」は、月が見えなくなる新月、1日(ついたち)を意味しています。旧暦8月1日に当たるこの日に暴風を避け五穀豊穣を祈る祭りが行われてきました。その舞台となる白根源小学校の校庭の一画には、明治31年に建てられた八朔祭の祭神塔が祀られています。明治29?31年は御勅使川水害が頻発した時期です。刻まれた「風雨得時滋」の文字には暴風雨による洪水に苦しめられてきたこの地の人々の願いが込められています。

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【写真】八朔祭り祭神塔(有野 源小学校敷地内):明治31年有野区民によって建立された。「風雨得時滋」は「風雨時を得てしげる」つまり適度な風雨によってこの地が豊かになるという意味。


○情緒を感じる

 日本で月の美しさや情緒を漢詩や和歌に詠んだのは奈良時代からです。平安時代に入ると月見が貴族の邸宅で行われるようになりました。月見は宴とともに行われ、管弦も奏でられました。平安時代中頃になると月見も和風化し、和歌の歌合などが行われるようになります。こうした月見の文化は時を経て江戸時代、一般庶民にも広まります。江戸時代に確立された俳句でも「月」が重要な題材となり、南アルプス市を代表する俳人も月を題材にした多くの句を残しています。

五味可都里(ごみかつり 1743-1817 江戸時代中期-後期の俳人)
 名月のをしくも照らす深山かな
 土間に居て客ぶりのよき月見哉

五味蟹守(ごみかにもり 可都里の甥 1762?1835) 
 名月やすへて置たき露の雨

辻嵐外(つじらんがい 1770-1845 江戸時代後期の俳人。可都里に師事)
 秋の夜は名月の香のぬけにけり
 粟の穂か山吹かしらず后の月

 五味可都里の俳句仲間、尾張の加藤暁台(きょうたい)が藤田村の可都里を訪ねた際、十五夜の夜まで月を楽しんだ様子が『暁台句集』に記されています(『山梨県史通史編 近世2』第十四章 教育と学問・文芸))。
 
「其夜ごろにもあれば、月をみせばやなどわりなくとどめられ、望の夜もここに遊ぶ。士峰の北面まぢかくひたひにかかるやうなり」(『暁台句集』)

 俳句だけでなく月はその姿から浮世絵や版画、近代以降の絵画などの題材にもなりました。太平洋戦争終戦後、南アルプス市落合に疎開していた妻のもとを訪れ一時滞在した東山魁夷も月の魅力に引き寄せられた一人。「月篁」、「月唱」、「月の出」、「月明」、「月涼し」など月をモチーフにした多くの作品を残しています。

リンク→2016年12月15日 (木) 南アルプス市を訪れた人々(4) 東山魁夷

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【写真】甲斐駒ケ岳と満月

 音楽を聴きながら月を愛で、月の美しさを歌に込める。現代ではクラシックやバラード、ジャズ、ロックなどそれぞれ好きな音楽を聴きながら月を眺め、ツイッターでつぶやいたり写真をインスタグラムにアップする楽しみ方でしょうか。月の美しさに惹かれ言葉や写真に想いを映す。昔も今も変わらない情景です。


○集い・祈り・楽しむ

 日本人は月を神や仏としても信仰してきました。神道では月神のツクヨミ、仏教では薬師如来の脇侍、月光菩薩です。旧暦8月15日の月へのお供え物が史料で確認できるのは室町時代の『年中恒例記』からと言われています※2。

「八月十五日、明月御祝参、於内儀也、茄きこしめさるゝ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之」(『年中恒例記』)

 史料は残されていませんが、より古い時代から収穫を感謝する供物が捧げられていたのでしょう。室町時代のお供え物は、大豆や柿、栗、瓜、茄子など秋の旬の野菜や果物が供えられていたことがわかります。
 江戸時代に入ると、決まった月齢の日に仲間が集まり飲食を共にして月の出を待ち、安産や無病息災、五穀豊穣を祈願する「月待(つきまち)」が市内でも広く行われました。それぞれの月夜には特定の神仏が結びつけられていました。例えば十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、 そして二十六夜は愛染明王。特に二十三夜の勢至菩薩は、あらゆるものを知恵の光を照らして苦を取り払うとされる仏様で、月の化身とも考えられ、人気を博しました。この月待を記念して建てられた「二十三夜塔」などの石塔は市内各地で見ることができます。夜通し仲間で飲食を共にしながら語り合う、月待は当時の人々にとって娯楽でもあったようです。

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【写真左】秋山 熊野神社境内に建てられている二十三夜塔
【写真右】六科 随心院 如意輪観音「寛政四年壬子月朔日 施主 講中」:
二十二夜の如意輪観音は女性の守り仏と考えられ、女性だけの月待講も行われました

 月への信仰の中で、中秋の十五夜と翌月の十三夜は特別の月と考えられました。ちょうど秋の収穫時期でもあり、満ちた月を秋の実りの豊かさに例え、月の神様に秋の収穫を感謝したのです。この日は縁側に団子や里芋、豆類、大根などの野菜、栗、葡萄などの果物などが供えられ、神様の依代(よりしろ)としてススキが飾られました。

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【写真】市内の十五夜飾りとお供え物

 供え物として真っ先に思い浮かぶのは月見団子ですが、供えられ始めたのは江戸時代から。団子より供え物として欠かせなかったのは里芋と豆です。十五夜と十三夜はそれぞれ「芋名月」、「豆名月」とも言われ、芋や豆を中心とした畑作物と月の信仰の深いつながりがうかがえます。特に豆は市内でも縄文時代から栽培されていたことが明らかにされていて、最古の栽培植物の一つです。江戸時代の村明細帳を見てみても、多くの村で栽培されていました。
 こうした十五夜の食の伝統は、南アルプス市の学校給食にも受け継がれています。季節を学ぶ給食として、十五夜と十三夜は里芋や豆、栗といった伝統的な月見のお供え物を活かした献立となっています。昨年は十五夜に「いもこ汁」、翌月の十三夜には「豆乳汁、栗のムース」が出されました。そして今年は、十五夜に「里芋とそぼろのあんかけごはん、お月見大福」、十三夜に「栗五目ごはんとお月見だんご」が予定されています。

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【写真】昨年度(2020)十五夜メニュー:芋名月に掛けていもこ汁が献立となった リンク→(南アルプス市ホームページ(R2年度季節を学ぶ給食です)


○団子突き

 昭和30年代以前、十五夜の夜に子どもたちが縁側に飾ってある団子や供物を釘などを付けた竹竿でそっと突いて盗んでくる「団子突き」という風習がありました。お供え物が盗られるのが許されるだけでなく、縁起がいいいとも考えられました。これは月の神様が持ち帰ったため豊作になると考えられたためです。この日は子どもたちは朝から道具を用意し、作戦会議を開き家々の分担を決め、団子やお供え物を突きに行ったことを多くの方が記憶しています。そんな中、微笑ましいやりとりも行われました。

「中には甘い餡このかわりに塩を入れた塩団子が混じっていることもあり、運悪くそれを食べた子どもは仲間から大笑いされた」(『山梨県史 民俗編』)

 もちろん盗みは禁じられていますが、人々が月の神さまに豊作を約束してもらい、豊かな実りに感謝するための伝統的な風習だったのです。

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【イラスト】月夜と人々の想い


○月のウサギ

 日本では月にウサギが住んでいて、餅つきをしていると言われてきました。これは中国から伝えられた伝説が変化したものです。もともと中国では、嫦娥(じょうが)という女性が仙女の西王母から夫に与えられた不死の薬を盗んだため、月へ送られ蝦蟇(がま:ガマガエル)にされた伝説が漢代以前に伝えられていました。後にウサギと月桂樹が伝説に加わり、漢代(日本では弥生時代)には嫦娥、ガマガエル、ウサギ、月桂樹がセットで月の説話に登場します※3。こうした伝承は日本に伝来した後、ウサギだけが残され、現代でも月の象徴としてお菓子や店の名前などに活かされています。ちなみに中国ではウサギが突いているのは不老不死の薬です。人々は月の満ち欠けに死と再生、不老不死のイメージを重ね合わせたのですね。竹取物語のかぐや姫が月へ帰る時、帝に贈ったのも不死の薬です。かぐやを失って嘆き悲しむ帝はその薬を天に最も近い駿河の山で焼くことを命じました。その山がふじ山と呼ばれることで物語の幕が降ろされます。

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【写真】竹取物語で不死の薬が焼かれたという山


○月を楽しむ

 デルタ株が広がりコロナ禍が続く現在、家族や友人、大勢の仲間が集い飲食しながら月を楽しむことができるのは、もう少し先になりそうです。けれど遠い空の下でも同じ時に月を仰ぎ見れば、その光が人々の想いをつないでくれるはずです。

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【写真】2020年10月1日 十五夜の月 上高砂


※1 旧暦では7月、8月、9月が秋とされ、8月15日の満月が秋の真ん中であることから中秋と呼ばれました。
※2 陳馳 2018「平安時代における八月十五夜の観月の実態 」『歴史文化社会論講座紀要 』京都大学
※3 許曼麗 1994「月の伝説と信仰:詩歌に見るその成立の一側面」藝文研究Vol.65 慶応義塾大学藝文学会

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害 その2

 7月号では明治29年9月に起きた水害の中で、御勅使川と釜無川左岸の被災状況をみてきました。この水害では現在の南アルプス市内域だけで大和川、滝沢川、堰ノ川、秋山川などいくつもの河川でも洪水が発生しています。しかし、これらの河川の被害状況は、主要な記録や各町村誌でも詳しく取り上げられていません。そこで水害後まとめられた公式な結果とは異なる部分もありますが、当時の新聞記事からこれらの河川の水害の実態にせまってみたいと思います。

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【図】明治29 年水害状況図(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

明治29年当時の村の状況:()内の村が合併して成立
源 村(有野村・塩前村・大嵐村・須沢村・駒場村・築山村+曲輪田新田と飯野新田)
榊 村(曲輪田村・上宮地村・高尾村・平岡村)
明穂村(小笠原村・桃園村・山寺村)
落合村(塚原村、湯沢村、秋山村、川上村、落合村)
五明村(荊沢村・大師村・清水村・宮沢村・戸田村)
南湖村(田島村・和泉村・西南湖村・東南湖村・高田新田)

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【図】大正時代山梨県地図(大正10 年『山梨県統計書』より)

 

※以下(山日)は山梨日日新聞、(甲府)は甲府新聞を意味する。

1.諸河川流域の被害状況
1)大和川
 源村内の大和川堤防3箇所150間が決壊しました(山日9月16日)。この大和川とは桃園で合流する堰尻川と考えられ、主に曲輪田新田地区の堤防が決壊したことになります。一方榊村の曲輪田地区から流れる大和川の本流では、粘土が用いられ強固な堤防と考えられていた大和川第一番堤が決壊し、曲輪田に大きな被害が出ました(山日9月18日)。さらに下流の明穂村内では堤防8箇所が決壊、中でも桃園地区では堤防が3箇所決壊しました。対岸の榊村上宮地地区では大和川右岸(新聞では瀧澤川と表記)の堤防が200間決壊し、1町歩の畑が流失、二反歩が浸水し、大きな被害を被りました(山日9月16日)。

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【図】大和川周辺破堤状況

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【写真】現在の大和川(桃園・上宮地)(南から)

 

2)滝沢川(瀧澤川)
 大和川と深沢川が合流した滝沢川は多くの地点で堤防が決壊し、明穂村、大井村、南湖村、五明村に甚大な被害をもたらしました。明穂村小笠原地区では一の堤防が30間決壊し、県道が浸水、床下浸水約100戸に及びました(山日9月16日)。下流の大井村江原地区では9月11日に堤防が40間決壊し30戸が浸水(山日9月17日)、この洪水流は下流の五明村戸田地区を飲み込み、全96戸中92戸が浸水しました(9月20日)。大井村江原地区の対岸、三恵村十日市場地区の堤防も20間決壊し、その水流は南湖村東南湖地区まで押し寄せました。南湖村では滝沢川の堤防が40間、狐川の堤防が60間、さらに滝沢川の別の堤防35間が決壊し、南湖村和泉地区の田畑150町が浸水しました(山日9月16日)。加えて滝沢川と狐川が合流する和泉地区の堤防が破壊され、濁流は南湖村の耕地に集まり、ひとつの大きな湖のようだったと新聞に記されています(山日9月20日)。さらに釜無川の増水によって滞留した洪水流は排水されず、9月8日には釜無川の逆流水が和泉地区に流れこみました(『甲西町誌』)。

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【写真】滝沢川周辺破堤状況

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【写真】現在の滝沢川(小笠原)(東南から)=左写真=、現在の狐川、左は滝沢川(和泉)(北から)

 

3)坪川・秋山川
 9月8日落合村地内で坪川(市之瀬川)が東落合地内にて東側に決壊、濁流が入り込み田はほとんど砂礫に埋まったといいます(『甲西町誌』)。また、9月11日には秋山川と堰野川の樋門上で決壊し、釜無川への排水ができない状況を伝える電報が落合村役場から発せられています(山日9月11日)。このように落合村では坪川や堰野川、秋山川の堤防が決壊し上流から洪水流が流れ下るとともに、いくつもの河川が合流する南端では釜無川へ排水できず、下流から逆流した洪水流によっても被災しています。落合村字芦原では水田25町歩、畑50町歩、家屋10戸が浸水の被害を受けました(山日9月16日)。また、坪川の下流五明村字土尻及び字稗田でもそれぞれ一か所決壊しています(山日9月20日)。

 なお、落合の河川立体交差については、以前の記事をご参照ください。
2009年6月15日 (月) 南アルプス市と天井川 その2 ~河川の立体交差~

 

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【写真】現在の秋山川(秋山)(西から)=左写真=、現在の坪川(落合)(南から)

 
2.水害現場の状況
 これまで見てきた明治29年9月の水害時、人々はどのような行動をとったのか、その状況を新聞記事から追ってみました。

 1)破堤前の水防活動
 堤防の決壊は田畑だけでなく家屋や人々の生活、命までも奪う危険性を伴うもので、村の存亡にもつながる非常事態でした。特に9月上旬は稲刈り目前で、水防の成否が1年間の収穫の有無を決定します。そのため、堤防を守る水防活動には関係する多くの人々が集まりました。特に御勅使川扇状地全体を守っていた石積出を有する源村有野地区の水防には約1600人もの人々が集まったとの記事があります(山日9月17日)。

「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり」(山日日新聞 9月17日)

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【写真】石積出三番(有野)

2007年12月29日 (土) 御勅使川扇状地の生命線 石積出

 

 同時に対岸の龍王でも二番堤破堤の危険から多くの人が堤防の決壊を防ぐ活動を行なっています。

 「釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中 昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり」(山梨日日新聞 9月11日)

 では堤防の決壊を防ぐためにどのような水防活動がおこなわれたのでしょうか。堤防が洪水流によって削られた場所を保護するため、木を伐採し紐で堤防に固定し欠損した場所に流す「木流し」が行われ、また丸太を組み重しとして竹で編んだ籠に石を放り込んだ蛇籠を乗せた「聖牛」が作られました。蛇籠はそれ自体でも堤防の欠けた場所を補強するために使われました。そのほか大量の土俵が作られ、堤体の補強に使われました。驚くのはそれぞれ使われた量です。今諏訪村二番堤の水防では木は数百本、土俵は幾千と見積もられています。さらに明穂村一村だけで伐採された樹木は三千数百本に及んだとの記事もあります。懸命な水防活動が行われましたが、龍王村では二番堤がついに決壊してしまいました。

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【図】木流し

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【写真】復元された聖牛。竹蛇籠が乗せられている

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【写真】昭和57 年台風10 号 芦安での木流し

竹蛇籠 ~現代に残る伝統の治水の技術~ 2009年1月 1日 (木)

 

「十二日、釜無の激流は益々烈しく改修堤危険なるより、八幡各村の人民は数百名、出でて水防に従事したり、石を運ぶもの、木を切るもの、之を投ずるもの、之を●をするもの宛然之れ戦勇兵の工兵隊に興たり、夜に入りて各所に燃せし篝火は水に映し、(中略)雨は又たまた降出せり、十一時十二時に至りては、怒々猛烈を加え来り、夜は暗し響は凄まし、(中略)、全力を注いて奔騒せる村民も今は労れ果たり、されども尤も大切なるの際なり、白雨黒雨襟を束ねる如くにして、激流に怒つて改修堤を破れり、「切れたきれた」の聲は凄然として諸人の耳朶に達せり、今迄で働き切つたる人足も此一斗に力を失ひぬ、歎聲を発して茫然たる間に見る見るみずは汎濫暴張して一面の湖水を現せり」(甲府新聞 9月15日)

「聞く明穂村一村にて水防に費消せし金額のみにても五百余円に及び且つ當日激流に投入せん為め伐採したる樹木は三千百餘本に達し之に被害損金を加ふれば實に巨額に至る」(甲府新聞 9月26日)

  豪雨の中、樹木を伐採し、人力で運び、紐で固定して濁流の中へ流す。竹の籠を編み石を運んで投げ入れる。大量の土を運び土俵を作り、堤防を補強する。また記事には現れませんが、数日間に及ぶ水防活動では大量の食料も必要となるため、女性を中心とした炊き出し、必要な物資の搬入作業も行われていたのでしょう。ここで水害後甲府新聞記者が現地を歩き取材した今諏訪村の鬼気迫る水防活動の様子を参照してみます。

 「二番堤に至る、大木は幾百株となく伐採して河邊に投じ、土俵は幾千となく羅列しあり、而して向邊直下釜無の溢流滔々として至り一大河を現し急瀧弄騰、出水當時の状を追思せしむ(中略)聞く當時田之岡村改修堤の危急を告ぐるや、今諏訪を初め鏡中條等村民は総出にて必死を極めて水防に従事し大木を運び土俵を作る 在らゆる手段を盡したるも遂に其効なく見る見る中に怒濤は堤防を決壊して浸水し来るより数百千の村民はソレと云ひ様取つて返にしニ番堤に於いて之を喰ひ止めんものと再び玄に群集し労れし身体をも厭わず必死となつて盡瘁せり、猛雨は尚ほ烈しく雷鳴さえ加わりて怒れる濤は突き至りと衝き来り、斯くすること一周日餘、村民は聲を枯らし身を痛め最早一言を發するを得す一歩も進むを得さるに至れり、殊に改修堤は前面にのみ力を用ひ後方は之に比して力を用ゆる極めて少、故に釜無川の田之岡附を破りて改修堤を伝へて突激するや改修堤は漸次崩壊して遂に七十九間を破るに至れり 村民の之を防かんとするに當りうの力を極めたる實に驚くべき程にしてニ番堤も数百千人の必死となりて防禦するにも開せず漸次崩壊して早や既に一尺餘に及ひたるの所数ヶ所ありて怒濤は之か上を超ゆるに至りて村民は或は到底ダメなりと思ひしかとも盡せる丈けい盡さんものと愈々勇を奮つて奔馳し漸にして之を無事に保つを得たるは誠に感すべきことなり」(甲府新聞 9月27日)

  こうした豪雨や雷雨の中行わる水防活動はまさに命がけで、行方不明者や死者も報告されています。

 「同上午前九時急報 (龍王)二番堤欠潰の際居合わせたる人十二名行方不明となれり」(山日日新聞 9月13日)

 「水防人足の溺死 中巨摩郡百田村にて御勅使川の水防に従事したる男一名溺死したり」(山日日新聞 9月16日)

 

2)村々の対立
 非常時には多くの人々が協力するとともに、利害が対立する村々の争いも先鋭化しました。各村が自分の村の堤防を守るため右岸と左岸、上流と下流とで争いが起きたのです。

 「水防に就いて喧嘩 中巨摩郡三恵村々民と大井村民、明穂村民と三恵村は水防に就て争論を始て不穏の色ありしも警官の説諭にて平穏に帰せり」
(山梨日日新聞 9月16日)

「小笠原は従前より水災を被らさりし地なるに這般の出水に際して、瀧澤川は暴漲して里俗一の出しと称す處より欠潰して遂に其の七分を浸し現に警察分署の在る所は本瀬となりて水の深さ八尺余に達したりど、それのみならず水防の際各村互に自村の堤防を守らんとして向岸と喧噪し囂々(ごうごう)、囂々石を投じ竹槍を弄し殺気紛々恰も百姓一揆の起りたる如き観あり」(甲府新聞 9月26日)

 さらに釜無川、瀧澤川、坪川、秋山川や狐川など多くの河川が合流する下流の地域ではその排水が村々にとって死活問題でした。この水害では排水に苦しむ五明村と南湖村両村の村人合わせて1700人が睨み合う自体が起きました。警察の説得にも応じず、騒動の一歩手前で小林収税長がとりなし、代表者同士の話し合いで解決されましたが、記事からは当時の緊迫感が伝わってきます。排水の解決策として故意に堤防を決壊させ、排水する方法がとられていたことも注目されます。

「五明南湖の両村排水論
一昨十三日正午頃中巨摩郡五明村と仝郡南湖村人民との間に南湖村東南湖組地内通称瀧澤川の排水に関し粉擾(※1)を醸したる顛末を聞くに両村共同川の水防に附互に警鐘を打汚名鳴らして呼び集め五明村よりは九百餘人南湖村よりは六百人南巨摩郡増穂村大椚組よりは貳百人各自水防用の道具を手にして現場に馳せ付け 今や血雨を降らして一大修羅場を現さんとする處へ 恰(あた)かも好し龍王警察所長浅尾警部部下の巡査を引率して駆け着き 双方へ対し説諭を加えたれども 容易に聞き入る気色なく 動(やや)もすれば争闘に及ばんする有様なるより 水害検分とて其近地へ来れる小林収税長へ此事を急告し 各村人民をして各代表者なるものを出さしめ 腕力沙汰の無法なることを説明し 結局双方陳述するところを聞取り 同所の堤塘深さ三尺長さ三間を欠潰して排水せしむる事とし 辛ふじて無事に鎮静せしめたりと 故らに堤塘を欠潰せしむる理由は五明村荊澤戸田宮澤の三組浸水家屋が何時までも浮かび出づる能はざるを以て堤塘を欠潰し滞水を放蕩するなり 其代り水防費用五拾圓と欠潰費用右三組にて支辨する契約を為し夫れにて事済みとなりたりといふ。」(山梨日日新聞 9月15日)
※1 ふんじょう・・・紛争のこと

 

3)水害後の復旧
 水害後分断された地域の復旧では分断された地域との連絡のため、鉄線を渡し樹に結び人や物を運ぶ「コブ渡し」と呼ばれる方法がとられました。鉄線を対岸に渡すには濁流を渡る必要があり、これも命がけの作業でした。

 「茲に於いて鐵線を渡し兩々大樹に緊縛し、之に又た鉄線を釣下け人をして之に腰を掛けしめ、此方に於いて之れを引く宛絶昔時のコブ渡しなり、鐵線一たび切れんか乃ち身は激流に陥没して死生を必ずべからず危険又た●し、第一先に渡りしは彼の新海茶太郎氏にしてそれより人々相次いて来り、兩者の連絡を通するを得たり」(甲府新聞 9月15日)

 浸水した復旧活動には事前に用意されていた舟が活用され、食料などの物資が運搬されました。

 「五明其他 戸田、宮澤、荊澤等はいづれも床上二三尺の上に達し 昨日は大に減じたるも尚は床上にあり舟を以って食物を運搬しつつありと云ふ」(甲府新聞9月16日)

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【写真】水害時使用された舟 長泉寺(荊沢)

 

3.水害後の学び
 明治29年9月水害後、甲府新聞では9月29日から10月3日までの「見聞餘録」で水害の原因や今後の対策を検証しています。水害の原因の一つとされたのは明治20~27年に行われた堤防改修事業の脆弱さと改修堤完成による事前水防の怠りです。改修事業は7年の歳月と多額の予算が使われ、「金城鉄壁」と考えられていました。
とりわけ信玄堤では明治20~27年の堤防改修時、「出し」である龍王二番堤が下流の出しと接続され連続堤に改修されていました。しかし、この豪雨では釜無川の改修された堤防の多くは決壊し、信玄堤は出しの二番堤が破堤、信玄堤本堤を衝いた水流はこれまで釜無川にもどる仕組みでしたが、その出口を塞いでいたため水が溢れ、信玄堤が決壊したと考えられました。「見聞餘録」の総括ではどんな堅牢な堤防でも永久的なものでなく、事前の十分な水防準備の必要性を説いています。また各堤防での懸命な水防には敬意を払いつつ、自村のみ守って他を顧みない姿勢も改めるべきだと述べています。
 さらに龍王の信玄堤破堤については、御勅使川上流の氾濫により前御勅使川の堤防が決壊して西側から釜無川に合流した洪水もその原因の一つと考えられました。つまり御勅使川の治水が釜無川左岸の治水にとって極めて重要であることが指摘されているのです。この地理的状況は現代でも変わっていません。かつて前御勅使川であった現在の県道甲斐芦安線へ洪水流が流れた場合、洪水流は信玄堤に真横から衝突することとなります。

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【図】明治時代 信玄堤の変遷(南アルプス市教育委員会文化財課作成)

 

 現代の水防は地域住民が直接携わる機会は少なくなっています。しかし、125年前の記録は、堤防が破堤する不測の事態を想定し、水害の知識や情報を学び、避難ルートや場所を確認しておく事前の防災活動と地区や市町村を超えた地域間の協力体制の重要性を私たちに伝えてくれています。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

明治29年大水害の記録
その1~水害タイムライン~

 雨が降り続く梅雨も終わりを迎え、来週には関東でも梅雨明けとなりそうです。近年地球温暖化による気候変動が原因で、日本各地で極端な豪雨による災害が毎年起きています。かつて山梨県は洪水に悩まされた地域の一つで、明治時代には水害が頻発しました。特に明治40年・43年の大水害はその惨状から詳細な記録が残され、被害状況も広く知られています。一方明治29年9月に山梨県内各地で発生した水害は上記と比べ記録が限られ一般的に知られていませんが、南アルプス市域や甲府盆地中央部の歴史を大きく変えた水害の一つです。
 今回および来月号のふるさとメールでは、これまで知られている行政資料とともに、この水害を伝えた『山梨日日新聞』と『甲府新聞』の記事を参照し、その実態にせまってみたいと思います。なお、この水害については、2008年10月15日号でもその概要を取り上げました。

2008年10月15日(水)近代水害の記憶 明治29年の大水害と前御勅使川の終焉

 

1.明治29年水害の概要
降 雨 日 9月6~12日
総 雨 量 399.8mm(『釜無川の水害』より)
死  者 33人
流失破損 約500戸
浸  水 4,729戸
堤防決壊 329箇所 延長8,655間(15.7km)
堤防破損 2,445箇所 延長120,493間(約219km)
概  要 御勅使川が旧源村で氾濫、前御勅使川に入り、洪水流が旧御影村・田ノ岡村を襲いました。中でも下高砂は御勅使川、前御勅使川、釜無川の洪水流で集落や田畑が流され、多大な被害を受けました。増水した前御勅使川は釜無川を衝いて龍王二番堤など対岸の堤防を破り、釜無川左岸の龍王村や玉幡村など諸村にも被害を及ぼしました。この他大和川、滝沢川、荒川、富士川など多くの地域で洪水が発生しました。

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【甲府新聞 明治29年9月15日付 水害被災地図】

 

2.水害タイムライン
 今回は御勅使川とそれに合流する釜無川の流域を中心とした被害状況を下記の資料を基に整理し、タイムラインとしてまとめてみました。
菊島信清 1981『釜無川の水害』
白根町誌編纂委員会 編 1969『白根町誌』
八田村編 2003『八田村誌』
早川文太郎・須田宇十 1911『山梨県水害史』
山梨県 1997 「明治元年より二十九年までの釜無川筋水害の状況」(『山梨県史 資料編14 近現代1 政治行政1』第99号文書)
『明治廿九年度 水害関係書 御影村外一ヶ村組合役場』(南アルプス市蔵)
『山梨日日新聞』
『甲府新聞』


※以下「」はマイクロフィルムから判読不能の文字を表しています。
〇明治29年水害タイムライン
9月4日 降水量1.8mm
9月5日 降水量3.8mm
9月6日 降水量4.8mm
9月7日 降水量17.7mm
9月8日 降水量102.4mm 水害の発生
 「〇県下出水彙報
 御勅使川字三番五番石腹延長拾五間決潰 枠、牛共流失す。 同川野牛島大聖寺前急施工事危険水防中 高砂一番続枠二三流失 鼻の方危険(『山梨日日新聞』明治29年9月9日)」
 山梨日日新聞9月9日に「県下出水彙報」の項目が加わり、この前日9月8日の102.4mmを記録する豪雨を経て本格的な水害が発生したことがわかります。上記のように御勅使川扇状地扇頂部に位置する源村有野の石積出三番・五番堤が決壊し、ここから御勅使川、前御勅使川の洪水が発生したと考えられます。
 「御勅使川決堤 中巨摩郡御勅使川增水五六尺に及仝郡源村へ切込んとするより日々水防人夫千五六百人にて防御したるも其効なく遂に矢崎孝太郎氏家屋の裏手より切れ込み千俵地以上の田を流失したり 此の防水中同地近?に田畠を有する同郡在家塚村齋藤博氏百田村竹内甚兵衛氏等は日々十数俵宛の米を水防人夫の粮米として仕送りたるよし(『山梨日日新聞』明治29年9月17日)」
 上記の記事には堤防の決壊を防ぐため、1500?1600人もの人々が水防活動を行なっていたとあります。これは有野村だけでなく下流の村々の人々を含めたでしょう。なぜなら石積出が決壊すると下流の村々へ洪水流が押し寄せ、御勅使川扇状地に立地するさまざまな地域で大きな被害が出るからです。江戸時代から有野村水下21ヶ村の人々が石積出の水防活動を担っており、その伝統が明治時代にも姿を変えて反映されていたと考えられます。実際に石積出三番・五番が決壊した後、一番から字裏田堤まで堤防が流失し、洪水流は有野行善寺付近から入り、前御勅使川沿いの百田村、下流の曲輪田新田、桃園にも被害が発生しました。一方で釜無川沿いでも河川が増水し枠などの水制が流失する中、必死の水防活動が続けられていました。

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【明治29年9月有野行善寺付近水害写真 『白根町誌』より】

2007年12月29日(土)御勅使川扇状地の生命線 石積出(いしつみだし)

9月9日 降水量40.5mm 浅原橋の落橋
 午前3時 浅原橋が釜無川の増水によって落橋。
 「中巨摩郡の出水 中略 田の岡村二番堤防は過日取水の際欠壊(『山梨日日新聞』明治29年9月9日)」
 ここで御勅使川と前御勅使川の洪水を伝える明治29年9月15日付の記事に注目してみます。
 「〇県下出水彙報
 田ノ岡及御影の水害 中巨摩郡出水況の全躰は未だ知るを得ざるも其一班を聞くに同郡田之岡村は四番より五番までの間改修堤防凡そ四百間破壊し堤内田畠十五六歩押流したり 又前御勅使川堤防破壊箇所無数にして田之岡村榎原組は田畠全部押流され人家擧て浸水す 下高砂組は五戸を除き他は悉く浸水したり 又御影村は前御勅使川の堤防無数破潰し該村中央を横断し上高砂組に注ぎ同組は縦横に浸水を被り田畠人家の被害夥しく丁年者は防水に■夜忙はしく老少は狼狽號泣する躰目も當てられず加ふるに野牛嶋六科組の貧民は食料の欠乏を告げ居れり
 前御勅使川の水害 同川筋に於ける御影田之岡両村の被害状況は別項に記載したるが尚ほ聞く所に拠れば同川筋は百田村の内百々の堤防四箇所上八田堤防ニ箇所御影村にて都合十六箇所の堤防を決潰したり 此の堤防の間数都合二千百廿二間して外に欠損せし處千七百四十間ありと(山梨日日新聞明治29年9月15日)」
 この記事の出来事の正確な日時は不明ですが、9月8日に有野の石積出が一部決壊したことを考えれば、その洪水流が前御勅使川に流れ、両岸の堤防を壊し少なくともこの日に上八田村や百田村、御影村、田ノ岡村に大きな被害が発生したと推測されます。さらに山梨日日新聞9月19日の記事を参照してみましょう。
 「〇県下出水彙報
 御影水害 今回の出水にて被害最も惨烈なりしは中巨摩郡御影村なるが尚ほ出水当時の状況を聞くに同村の内野牛嶋上高砂の両組へ御勅使川及び釜無川数箇所の堤防一時に決潰し濁流混々として渦捲き注ぎ入りたるは恰も夜半頃なりしを以て何れの人家にても避難の要意をなしたる衰なく水音の凄まじきに驚き慌てて駆出し四邊の樹木に■登りて僅かに危険を避けたる者多かりし 是等の人々は大聲を挙げて救助を求むるも水量五尺餘に達し■らさは暗■も危険言ふばかりなければ救助に赴く者なく何れも樹上にて夜を明かし翌朝に至り辛くも浸水せざる地方に避難したりといふ昨今の調査に縁れば土砂押入りなるため埋没したる家屋十四戸目下家屋内を通水 傾斜せるもの七戸土砂押入り傾斜せるもの三十二戸田畑凡そ三十九町歩■は浸水のため概ね数獲■見込なし其他道路橋梁の流失破壊等は枚■するに遑らずといふ(『山梨日日新聞』9月19日)」
 このように御影村の上高砂では夜堤防が決壊し、慌てて外の樹木の上に避難して夜を明かし、翌日救助され避難できた危機的な状況であったことがわかります。家や田畑は土砂で埋没しました。

9月10日 降水量56.7mm
 「〇県下出水彙報
 釜無川二番堤の危険 中巨摩郡龍王村部内釜無川の一番堤を防御し居る中昨日午前に至り二番堤防危険となり玉幡龍王の両村内警鐘を乱打して各戸人民の出張を促し水防に尽力せり(『山梨日日新聞』明治29年9月11日)」
 9月11日の新聞記事では、御勅使川下流の御影村や釜無川左岸を守る堤防の欠壊は報告されていません。御影村の水害については被災直後で交通が寸断され、正確な情報が伝わっていなかったことが原因と考えられます。一方御勅使川、前御勅使川から大量の土砂、水が釜無川に流れ込み、増水によって釜無川左岸の堤防決壊が目前に迫る中、龍王村や玉幡村でも多くの人々が必死の水防を行なっていたことがわかります。

11日 降水量141.7mm
 午後2時頃から雷鳴も加わって、釜無川の水量は一丈二尺(3.6m)に達する。
 午後11時頃、下流の村々の人々が数日間かけて水防に尽力したが、釜無川左岸の玉幡村分の字十二番改修堤が欠壊、12日までに百六十間(290.9m)流失。小井川村分七十間余(127.2m)欠壊。
 「〇県下出水彙報
 同上龍王発電 釜無川玉穂村地内にて危険な場所あり今暁来益す危し目下全村にて水防中
 同上龍王発電 釜無川龍王村二番堤凡そ廿間餘決潰辛ふして防止せり 他にも危険の個所あり(『山梨日日新聞』明治29年9月12日)」
 さらに甲府新聞では「出水続報」に詳しくこの時の状況が書かれています。
「一昨日(11日)午後少しく降り止み夕方に至りて日光を洩らしてるより安心せし處 午后八時前後に至り釜無川玉幡村の改修堤防危険の急報ありて全村民は数百人孰れも必死となり 奔走至らざるなかりしも午前三時玉幡村の堤防百二十間余を欠壊したり されば前日来■湧し来れる濁浪は非常の猛省を以って破壊の箇所より侵入し來りて 折しも篠を束ねたる如き雨はいとど烈しく男女の■■は怒涛の響と相和し凄まじさ云ふ斗りなく見る 近傍各村へ押し寄せ來りてうの逆流は奔馬の如き勢を以って家屋を押し流し惨状非常に甚しく 宛然一大湖を現したるが如し 又た十時に至りて龍王二番堤凡そ百五十間斗り破壊し濁浪は非常の勢を以って押し寄せ来り 信玄堤に突き当り怒れる水勢ハ彼方に逆流して玉穂決潰の浸水と合し一層猛威を悉にし人家の浸水するもの無数にて死傷未だ知るを得ず(『甲府新聞』明治29年9月13日)」
 このように昨日一度弱まった雨が再び豪雨となり、11日の夜ついに釜無川左岸の玉幡村字十二番が決壊し、甲府盆地中央部に大きな被害が発生しました。

12日 降水量30.4mm
 午前10時頃 龍王村分字二番改修堤崩壊。龍王村の民家を衝き、戸数108戸と土蔵を合わせ290棟は数日間浸水。罹災者中一時救助を受けた人、男性108人、女性262人。
洪水流は常永村に入り、常永川と合流、常永川通字信玄堤(龍王の信玄堤ではない)に衝突。防御活動の甲斐なく欠壊。飯喰分一ヶ所十七間、河西分二ヶ所四十二間(76.3m)欠壊。河ノ西組は島状に孤立し、上河東はほとんど全組浸水する。

 「〇県下出水彙報 
 昨十二日■龍王玉幡村急報 八幡村第十二号堤防以下凡百二十間昨夜十二時頃より漸々上越をなし防御の術全く無き 三時頃切込み目下常永川堤防にて防御中
 同上龍王村急報 二番堤瀬■のため衝突 防具二箇所流出防御中
 同上午前九時急報 二番堤長七八間今朝より欠始専ら防御中
 同上午前9時半急報 二番堤決潰の際居合わせたる人夫十二名行方不明となれり
 同上午前10時龍王急報(『山梨日日新聞』明治29年9月13日)」

 上記の記事から昨日夜玉幡村の堤防が決壊した後、常永村および龍王村では必死の水防活動が続けられましたが、常永川堤防、龍王村二番堤が決壊、甲府盆地中央部に大きな被害がもたらされました。

9月15日
 雨が上がり、各地の被害の状況が徐々に明らかになってきました。『山梨日日新聞』、『甲府新聞』ともに山梨県内の被害状況をまとめる記事を掲載しています。今回お伝えした他の地域および災害後の状況については次号でご紹介します。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

江戸時代の南アルプスブルー
~村々の藍葉栽培と藍染~

はじめに
 雨が降り続き、水辺にカエルの鳴き声がこだまする水無月(みなづき)。水田に水が満たされる月を意味します。ふるさと文化伝承館の藍は雨の恵を受けながら、瑞々しく茂っています。例年だと梅雨明けを待って藍葉の一番刈りを行いますが、気候が暖かくなったせいか昨秋こぼれ落ちた種は2月に芽吹き、6月中旬には葉が生い茂りました。30度を超えた晴天の日を狙って、一月早い一番刈りを行いました。

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【写真】水無月の水田

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【写真】ふるさと文化伝承館の藍

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【写真】藍一番刈り

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【写真】藍一番刈り 天日干し

 藍色は7月に予定されている東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムカラーであり、大河ドラマの主人公渋沢栄一の家がすくも作りを行なっていた藍屋でもあったことから、さまざまなメディアで藍色に出会う機会が増えています。
 明治時代、南アルプス市域が山梨県内で藍葉の生産量最多を誇り、川上村(明治22年に合併して落合村となる)には藍葉からすくもを作る藍屋が営まれていたことは以前ご紹介しました。今回のふるさとメールでは少し時を遡り、江戸時代の藍葉生産の様子をのぞいてみましょう。

【2019年9月17日(火) 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~】

 

1.村明細帳から見た藍の栽培
 江戸時代には村の石高や家数、人数、寺社や産物など村の概要を記した村明細帳が作られました。村明細帳は作られた時代や村によってその内容や詳しさが変わるため村の正確な状況を反映しているとは限りませんが、おおよその傾向を把握することができます。今回は山梨県が発行した『村明細帳 巨摩郡編Ⅲ ・山梨、八代郡編補遺』と旧町村誌に掲載された村明細帳を手がかりに、まず南アルプス市域の藍の生産について調べてみました。

 その結果、近世において藍葉が村明細帳に掲載された事例は2例に限られました。一番古い資料は享保20年(1735)の「鋳物師屋村差出明細帳」で、臨時の作物として藺草(いぐさ)や茶、苧、桑、楮(こうぞ)、うるしとともに藍が挙げられていました。次に明和8年(1771)の「上高砂村差出明細帳」で、やはり臨時の作物として、藺草や茅、茶、煙草、苧、桑、楮(こうぞ)とともに藍が挙げられています。このように藍葉は米や粟、稗、大豆などの主要作物とは違い、江戸中期にはあくまで臨時に作られる補助的な作物だったことがわかります。そのため、栽培されていても村明細帳には記載されなかった場合もあると考えられます。
 幕末まで時代を降ると、藍の栽培や藍を商う商人の存在を文献で確認することができます。百々の竹内家に伝わる嘉永7年(1854)の「藍商売取究」(『白根町誌史料編』544号文書)は、藍を扱う商売仲間が公正に商いを行うため、御法度を守り、藍の買い付けには仲間が立ち会うことなど商売仲間内での取り決めが書かれたものです。また、慶応4年(1867)原七郷組合から市川代官所へ提出された書類には「藍葉凡千貫目」と記載があり、原七郷の村々で藍葉生産が広がっていたと考えられます(『櫛形町誌』)。

 

2.藍葉・藍玉の流通
 江戸時代は、木綿の普及とともに紺屋による藍染が盛んになったと言われます。ですが村明細帳から地元での藍葉生産量はそれほど多くなかったと推測されます。そこで他地域からもたらされた藍の流通に注目してみましょう。駿河と信州を結ぶ街道に位置する荊沢宿は、富士川舟運で鰍沢河岸(かし)で荷揚げされた駿河からの物資が最初に通過する駅です。この駅を通過する商品について研究された増田廣實氏によれば、嘉永7年(1854)の荊沢宿から韮崎宿への宿継ぎ荷物、いわゆる上り荷物の総数は1,573駄で、その内、1位が阿波藍で80駄、2位が武州藍で38駄、二つで全体の荷物の約26%を占めています(増田廣實2005『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社)。すくも作りの本場である阿波と武州から相当数の藍玉あるいは藍葉が流通し、釜無川沿岸の村々の紺屋へ販売されました。さらに安永4年(1775)の「荊沢宿伝馬諸荷物駄賃帳」には「一 藍玉壱太 百々村江」とあり、馬一駄分の藍玉が百々村の紺屋へ届けられていたことがわかります。

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【写真】伊能図に描かれた荊沢宿と鰍沢

 藍玉産地の阿波国側の史料を見ると、藍を販売する商人とその販売地が決められており、甲州売りを抜き出しても20人以上の商人の名が連ねられています。

文久6年(1809)「関東売仲間御仕入元江戸出店売場」(抜粋 人命俵印及び売り場先を届け出た資料)
「元木佐太郎 池北屋清兵衛
 江戸 武州 相州 上総 下総 野州 上州 常陸 信州 甲州 駿州 遠州 奥州
武市増助 宮本屋安兵衛
 武州 相州 上総 下総 甲斐 常陸
渡邊益蔵 藍屋彌兵衛
 江戸 武州 上総 下総 房州 上州 常州 野州 相州津久井領 甲州
永田平十郎 住吉屋圓次郎
 武蔵 相州 上野 下野 上総 下総 安房 常陸 甲斐 駿河 伊豆
坂東貞兵衛 住吉屋宗兵衛
 武州 相州 豆州 甲州 信州 駿州 下総 上野 下野
元木佐太郎 阿波屋與市
 駿州 甲州 郡内領 豆州 遠州 相州
手塚甚右衞門 阿波屋林右衛門
 遠州 駿州 豆州 甲州郡内 相州
犬伏九郎右衛門 玉屋八郎兵衛
 江戸 甲州郡内領 相州津久井領 下総 上総 上州
井上左馬之助 坂東増太郎 坂東貞兵衞 石原市郎右衛門 藍屋直四郎
 駿河 遠州 相州 豆州 甲州 信州」
(西野嘉右衞門編著1940『阿波藍沿革史』より)

 こうした史料から、江戸時代、市内域の紺屋で消費される藍染の原料すくもや藍玉は、藍の一大産地であった阿波や渋沢栄一が藍屋を営んでいた武州から富士川舟運を経て荊沢宿を通り、南アルプス市域から韮崎市、北杜市近郊の紺屋に供給されていたと考えられるでしょう。

 

3.江戸時代の紺屋と藍屋
 紺屋については、甲西町誌などで江戸時代からほとんどの村にあったと書かれていますが、「紺屋」が村明細帳に記載されるのは、明和8年(1771)鏡中條村2人、安永6年(1777)荊沢村1人などに限られます。江戸時代の藍染を担った紺屋についての史料が少なく、その分布や実態も明らかにすべき課題の一つです。
 甲府城下町に目をむければ、嘉永7年(1854)刊行、明治5年(1872)増補改訂版の甲府城下町の案内書『甲府買物独案内』には、紺屋に当たる御染物屋が6軒、すくもの販売と製造にかかわる藍屋が2軒掲載されています。

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【写真】『職人盡繪詞 第1軸』文化年間のものを明治に和田音五郎が模写したもの。 右側に「紺屋」が描かれている。国立国会図書館蔵

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 藍屋

(『甲府買物独案内』 国立国会図書館蔵)

 

4.明治時代初頭の物産記録
 最後に明治時代初頭に記録された村々の物産記録から幕末から明治初頭の藍葉生産をみていきます。それを見ると多くの村々で藍葉が生産されていることがわかります。白根地区と甲西地区での栽培が盛んで、白根地区では源村での生産が多く2,500貫、甲西地区では落合村が4,900斗で他の村より藍葉生産が盛んでした。落合村と隣接する川上村には江戸時代末からすくも作りを生業とする浅野家が位置していて、その周辺が藍葉およびすくも生産の拠点となっていくことがわかります。

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【第1表】明治時代初期 南アルプス市域各村物産一覧(文化財課作成)
※芦安・八田地区については未確認。白根町・櫛形町・若草町・甲西町各町誌掲載の資料から作成

 

おわりに
 以前のふるさとメールで書いたとおり、明治時代に市内で発展した藍葉生産と藍屋業は、ヨーロッパでの人工染料の発明と普及により明治時代末期には姿を消すことになりました。それからおよそ100年後、市内で再び復活した藍は、地域や小学校のふるさと教育に利用されています。全国では藍染だけでなく、藍の含有する成分の研究が進み、健康食品やウイルス予防などに応用され日本全国で藍の魅力が再発見されつつあります。市内で栽培され始めた藍にもさまざまな可能性が眠っているようです。

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【写真】落合小3年生が今年も浅野さんの藍畑で地域たんけん(藍染は顆粒の藍を用いた簡易的な方法で染めました)

【2015年4月15日(水) 南アルプスブルーの足跡~市内を彩った藍染めの歴史~】

【2015年5月15日(金) 南アルプスブルーの足跡その2~市内を彩った藍染めの歴史~】

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

学び人を育む力
~天民義塾と綿引健~

 水害へ備える言葉を残し、さまざまな人々を育んだ綿引健(竹二郎・雅号匏水)。その学びの社であった私塾天民義塾については、資料が少なく詳細なことはわかっていません。今回のふるさとメールでは、残されたわずかな資料を繙き、明治から大正時代まで続いた塾の実態にせまり、3月から続いてきた綿引先生の物語に幕を降ろしたいと思います。

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【綿引先生】

3月15日号「時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~」

4月15日号「風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~」

 

幕末の私塾・寺子屋
 まず江戸時代の終わり、幕末の私塾と寺子屋から天民義塾設立以前の教育状況をみてみましょう。『山梨県教育百年史 明治編』によれば、江戸から明治時代初頭における県内の私塾・寺子屋の数は537か所が想定され、市内域だけでも寺子屋が芦安地区0、八田地区3、白根地区15、若草地区12、櫛形地区27、甲西地区15、合計72、私塾としては藤田村の釜川塾、上高砂村の螺廼舎(しのしゃ)の2か所が表にまとめられています。旧村単位でこの状況を見てみると、小笠原村が最も多く7、藤田村が5、鏡中条村、桃園村がそれぞれ4で、その他多くの村で1か所は寺子屋が営まれている状況でした。そこで教える先生は農民が31、医者が15、僧侶が11、神官が10、浪士が2、儒者が2、修験者が1で、農民と医者が多く、約64パーセントを占めます。学習内容は読書と習字が中心で、そこに講義などが行われることもありました。なお、「松声堂」として知られる西野の西野手習所は代官支配下の領民の子弟を教育の対象とする郷学に分類され、近世の甲州では西野手習所を含め3か所に限られました。

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【幕末~明治初期 郷学・私塾・寺子屋地図 (『山梨県教育百年史 明治編』付県下寺子屋・私塾一覧より作成)】

 

学制の始まりと寺子屋の廃業~明治時代初期~
 明治に入ると、明治5年(1872)8月、日本最初の学校教育を定めた教育法令である学制が太政官から発せられ、学校教育制度がスタートします。学制頒布とともに小学校が設置され、江戸時代地域の教育を支えた多くの私塾、寺子屋は小学校へ併合あるいは廃業となり、明治8年頃にはほどんど姿を消すことになりました。明治5年山梨県によって行われた「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」をまとめたのが第1表で、掲載された寺子屋(郷学を含む)は市内では18か所だけで、多くの寺子屋が廃業したことがわかります。一方明治6年から小学校建設が市内各地で行われ、その後統廃合が行われますが、明治19年段階では少なくとも25校以上の小学校が作られていました。

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【第1表 市域における寺子屋調査 (「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」から作成)】

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【明治19年前後 市内小学校地図】

 

勉旃(べんせん)学舎から学術研究会そして天民義塾の創立へ~明治10から30年代~
 明治時代私塾が衰退したのは、山梨県権令(後に知事)となった藤村紫朗が進めた公立学校への奨励と私学への厳しい抑制政策の結果でもありました。また、明治10年代は経済不況も私学の不振に追い打ちをかけます。『明治17年学事年報』によれば県内の私塾は成器舎、修斉学舎、時擁義塾、勉旃学舎、明倫舎、蒙軒学舎の6か所のみ掲載されていて、市内では荊沢に開かれた勉旃学舎が挙げられています。
 勉旃学舎は明治14年、五明村の名望家で自由民権運動にも活躍した新津真が同村の大地主市川文蔵と共に発起した塾で、教科目には修身・歴史・文章の三科、修学年限七か年、小学校中等科卒または満14歳以上が入塾資格とされました(『山梨県教育百年史 明治編』)。その学舎は明治18年閉鎖されましたが、翌年荊沢の法泉寺の檀家が寺内に学術研究会を開き、牛山龍が漢学や弁論部を教えました。
 明治20年代は経済が回復し山梨英和女学校など県内に新たな私塾が多数創設される一方、県立尋常中学と高等小学校の整備が進み、明治20年代の終わりにはほとんどの塾が廃業する時代でした。そのような中、学術研究会では明治21年牛山が去ると綿引健が招聘され、明治34年には新しい学舎も建設されました。これを契機に「天民義塾」と名付けられたのです。『中巨摩郡誌』には「四方より学ぶ者多し」とその盛況ぶりが記録されています。

 

天民義塾とその移転~荊沢から西南湖へ~
 天民義塾の内容については『明治37年度学事年報』からその一端がうかがえます。学校長名は綿引竹治郎(健)で教員は綿引ただ一人でした。創立年は明治33年とされ、中巨摩郡誌と1年のずれがあります。学科は修身(道徳)、国語、漢文、作文を教え、修業年限は3年で学級数は2、生徒数は1年生が男36、女0、2年生が男32、女0でした。明治33年の創立から明治36年までの卒業者は男102人、女0を数えました。

 『甲西町誌』によれば、明治39年水害による学舎流失のため、荊沢から西南湖に天民義塾が移されます。西南湖では明治33年丹沢義吉、入倉善三を中心とした若い農民が水害が多発する土地の中で自ら学び生活を向上させるため南湖報徳社を設立しており、それらの若者が中心となって、綿引先生を西南湖へ招きました。『南湖報徳社のあゆみ』の編年表には明治39年「水戸の漢学者綿引竹二郎先生を迎え天民義塾開設」と見え、丹沢義吉の著書の中でも、「(義吉が)南湖の振興を志して立ったのはまだ十代の青年であった。村を興し国を盛んにすることを真剣に考え、綿引匏水先生の許に学んだ」とあります。また、天民義塾で学んだ深沢吉平(注1)の伝記には「塾頭は綿引匏水先生で深沢が十才位の時から種々精神的影響を受けていたらしい。」と書かれており、後に北海道の酪農を推進する吉平の生き方にも影響を与えていたのです。

 先生の残した漢文などを見ても、塾では単なる国語や漢文だけでなく、人の生き方を学ぶ場だったことがわかります。『西郡地方誌』は当時の学習内容と活況、先生の逝去に伴い塾の幕が降ろされたことを次のように伝えています。
「南湖村西南湖報徳社において綿引健が明治39年の創始より大正8年長逝まで修身道徳を主として教育された。生徒数は多い時には百数十人に上り、隣村からも学ぶものが多かったが、綿引の長逝とともに廃止となったという。」

 多くの私塾が創立され廃業した明治20年代後半から大正時代まで、なぜ天民義塾は存続できたのでしょうか。『山梨県教育百年史 明治編』の「学制頒布と寺子屋・私塾」では次のようにまとめています。
「中には例外的に明治の終わり、あるいは大正年間まで継続しているところもあった。例えば西南湖(甲西町)の天明義塾(注2)は明治14年に開設された勉旃学舎および学術研究会のあとをついで、明治19年に再建され大正4年まで続いた。教師綿引健(匏水)の人格を中心に、修身・道徳に力をいれた特色ある塾教育に打ち込んで、旧い日本教育の長所を発揮して多くの人材を輩出せしめた。」

 このように綿引先生個人の資質が多くの人を惹きつけ塾を存続させた要因であったことは間違いありません。しかし塾存続の理由として先生を招き天民義塾を支えた若き塾生たちの存在も注目すべきでしょう。水害が多発する地での小作農の厳しい生活を地域で学ぶことで乗り越えようとしてきたその風土も塾の存続に深く関係しているはずです。天民義塾を支えた南湖報徳社の人々は、明治37年、天竜川の洪水を防ぐため私財を投げ打って植林事業に一生をかけた静岡県の金原明善を招いて講演会を開き、その話に感銘を受け、その直後から「治山治水」を実践するため平林村に約10.7haの山を借用し植樹を行うとともに、別の山林を購入し植林事業を継続して行いました。さらに社の報徳金により小作人の耕地の購入を後押する自作農推進活動を行い、その結果社員全員が自作農となったと言われます。災害に苦しむ人々の生活を向上させ、地域の産業を発展させたのは、地域の人々の生涯にわたる学びの力だったのです。

 綿引先生は100人を超える門人が集まり開かれた還暦の祝宴のあいさつの結びとして、次の言葉を選びました。

「今ヨリシテ後、(中略)物質ト(中略)精神トノ間ニ處シ能ク之レガ保合調和ヲ計リ、又復得難キ人生ヲ大意義アルモノナラシメント欲ス。諸君幸ニ切磋琢磨ヲ惜ム勿レ。幸栄アル此ノ祝宴ニ対シ謹ンテ感謝ノ辞ヲ述ブル此ノ如シ」(「還暦祝謝辞筆記」『匏水子集』より)

 この言葉には60歳を超えた自分も人生の目標である世界と心の調和を目指していく決意と門人たちがお互いに励まし合い、学び続けることへの願いが込められています。

 

エピローグ
 大正8年に亡くなられた綿引先生の姿を覚えている人は今はいません。しかし、先生の奥さまは太平洋戦争後までこの地にとどまり、地域の人々と交流を続けました。塾の建物に暮らしていたため「塾のおばあちゃん」と呼ばれていました。入倉善三さんの孫、入倉善文さんは当時の様子をはっきり覚えていて、懐かしそうに話してくれました。
 「子どもの頃塾のおばあちゃんは俺や姉さんにやさしくしてくれたね。通知表も親より先におばあちゃんに見せに行ったさ。おばあちゃんに褒められるのがなにより嬉しくてね。受賞した絵を見せると塾に貼ってくれたのも嬉しかった。」
 記録には残っていませんが、記憶の中に子どもたちを育んだ先生の奥さまの姿が残されています。

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【塾のおばあちゃんの思い出を語る入倉善文さん】

 

注1:南湖村から北海道音江村へ移住し、音江村長を務めるとともにデンマークで酪農を学び後に衆議院議員となり北海道の酪農を推進、雪印乳業の前身である北海道酪農共同株式会社社長も務めた。岩手県への酪農の普及にも尽力した。
注2:天民の誤りか

引用・参考文献
岡本昌訓 1964『深沢吉平の生涯』深沢吉平伝刊行会 
甲斐志料刊行會 1932?1935「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」『甲斐志料集成』第6巻
公益社団法人南湖報徳社 1969『南湖報徳社のあゆみ』 
椎名慎太郎 2001「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習(山梨学院生涯学習センター紀要)』山梨
山梨県 1904『山梨県学事年報. 明治35年度』
    1906『山梨県学事年報. 明治37年度』
山梨県教育委員会編 1979『山梨県教育百年史 明治編』 サンニチ印刷
山梨県中巨摩郡聯合教育會 編 1828『中巨摩郡誌』
山梨県立巨摩高等女学校編 1940『西郡地方誌』
綿引竹次郎 1920『匏水子集』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

風来りて土と成る
~綿引健の生涯と西郡の人々~

 「風土」はその土地の自然環境や精神的な環境を意味しています。辞書から離れると、外の土地から来た人が新しく異なった文化を風となって運び、土である地元の人々が受け入れてその土地の風土が生み出されるという考え方もあります。今月のふるさとメールは先月ご紹介した綿引健の生涯を通し、明治・大正時代の西郡(にしごおり)の風土を培った人々とのつながりをたどります。

 

西郡への風 旅立ち
 綿引健は安政5年(1858)8月7日、水戸の武家に生まれました。幕末、水戸学の中心人物の一人栗田寛に師事し、漢学などを修めました。同じ門下であった有野村矢崎貢(みつぐ)の強い勧めで、明治8~9年、17・18歳の時、西郡源村にやってきたと伝えられます。貢の父の保全は長崎で蘭学を学んだ医師で、医業を営みながら明治5年まで私塾を開き漢学も教えていました。そこに20歳前の水戸の青年が招かれたのです。

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【写真】栗田寛『大日本名家肖像集』経済雑誌社1907年

 

人々との出会い
 甲西町誌によれば綿引健(以下先生)は源村で教えた後、鏡中條、小笠原、荊沢へと移りそれぞれ塾を開いたとありますが、詳しいことはわかっていません。しかし資料には、先生がさまざまな人々の顕彰碑や墓誌などの撰文(記念碑などの文章を作ること)を書いた記録が残されています。このことから先生が多くの人々と出会い、絆を結び、この地において大きな信頼を得ていたことがわかります。
 源村の飯野新田で私塾を開き漢学を教えていた埴原治良吉の墓碑銘も書いています。文の中では娘婿の弁一郎とその子供達にも触れ、長男の正直は外交官で米国公使館書記官、次男弓次郎は早稲田大学生、長女桑喜代は美術学校在学と書かれています。正直は後に外務次官となり日本外交のかじ取りを担い、桑喜代は画家の道を進みました。この文からも埴原家との深いつながりがわかります。

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【写真】埴原正直

 鏡中條村での塾の場所や期間は明らかになっていません。しかし同村の巨摩八幡宮の神職を務め、寛政から天保年間塾を開き読書や習字などを教えていた斉藤操の頌徳碑の文章を作成していることから、斉藤家へ招かれたのかもしれません。また、鏡中條で代々医業を営んだ小野家にもその足跡が残されていました。明治32年、小野徹(1875-1971)は同村に「洗心堂」を開業し、医療とともに日本住血吸虫病の病害の研究、解明に尽くしました。徹の息子修が書き留めた『父・祖父を語る』には「十五歳の三月、中巨摩西部高等小学校を卒業し、九月まで今の甲西町荊沢にあった漢学塾に通って、漢学を勉強しながら医者になる決心をした。」とあり、先生から漢学を学んでいたと考えられます。生家には綿引健書の額が現在も飾られ、さらに西南湖の安藤家の中門前で撮影された先生との写真が「綿引匏水先生」の文字とともに残されていました。小野家、そして西南湖の安藤家との親交が写真から伝わってきます。また小野徹は亡くなる直前まで、漢詩を作り書に没頭したと伝えられます。

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【写真】斉藤操頌徳碑 巨摩八幡宮

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【写真】小野家に掲げられた綿引健の書

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【写真】綿引先生と小野徹 安藤家中門前

 次に移ったとされる小笠原(当時明穂村)には明治21年私立高等英和学校が設立され、先生が招聘されましたが、1年で廃校となっています。また小笠原の医師桑島尚謙の桑島尚謙の彰徳碑を撰文しています。桑島は和歌山県の生まれで、藤田村の五味家に身を寄せ、後に小笠原の桑島家を継承して医業を営みました。医術に優れ「訪れた患者は門に充ちた」と伝えられています。貧民救済のためにも奔走し県立の施薬院設立を目指しましたが、果たすことなく明治31年66歳で亡くなりました。門人達が遺徳を偲び久成寺に彰徳碑を建立し、先生がその文を作成しました。綿引健40歳の時です。

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

 小笠原から次に移り住んだのが江戸時代、駿河と信州を結ぶ駿信往還の宿として栄えた荊沢村です。荊沢村では法泉寺檀家の人たちが寺内に漢学などを学ぶ学術研究会を明治19年に設立し、明治21年塾長であった牛山竜が去った後、当地の大地主市川文蔵が強く懇願し、先生が塾長として招かれました。明治34年に新しい学舎が完成すると、名前を天民義塾と改名し、多くの人々が塾に集ったと伝えられます。

 

水害からの復興と学び
 西郡に来た先生の人生を決定づけたのは、この地の水害と言ってもいいでしょう。明治時代は、殖産興業を掲げた山梨県の政策により養蚕などの燃料として山々の木が切られ、また村々が共同管理していた山が官有林とされたため盗伐が横行し、山が荒れたため洪水が多発した時代でした。
 明治39年(1906)7月16日、甲府で1日に171mmを記録するほどの豪雨と続く7月24〜26日の雨によって、釜無川や市之瀬川、荊沢地内の裏瀬川など多くの河川が氾濫し、完成したばかりの天民義塾の新学舎が流失したと伝えられています(註1)。そのため、天民義塾は南湖村に移されることになります。南湖村は東の釜無川と西の滝沢川の度重なる水害を受けてきた地域で、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年には報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を設立、勤倹貯蓄とともに生涯にわたって学習し、農民の自立を促す運動も行われていました。学ぶことで度重なる水害からの復興を目指したのです。この地に綿引健が招かれたのは必然だったのかもしれません。天民義塾が移された翌年起こったのが先月紹介した明治40年の大水害です。

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【写真】入倉善三=左、丹沢義吉=右

 明治40年の大水害後、南湖村水害図の他、洪水によって流路が変わった新笛吹川の石碑の文も先生が書いています(「新笛吹川紀念石之碑文」)。さらに大正4年、御勅使川扇状地全体の水害鎮守として祀られた有野の水宮神社の拝殿が修築され、それを記念した石碑も建立されました。その文を作成したのも先生でした。この地に導いた学友矢崎貢がこの時「治山・治水」と刻んだ石塔を寄進していることから、貢が先生に依頼したと想像できます。御勅使川扇状地の扇頂部に立地する有野にとっても、山を治め、川を治めることは最も重要な課題だったのです。
 このように度重なる水害に翻弄された地域や人々、そして自分自身の経験から、先生は水害の記憶を次世代に伝える言葉をさまざまな場所で残しているのです。

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【写真】水宮神社 大正4年矢崎貢寄進 治山・治水灯籠

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【写真】水宮神社記念碑

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【写真】水宮神社記念碑

 

父母のように
 多くの人と交わり、西郡に学問を広めた綿引先生はどのような性格だったのでしょうか。一説には書家で大酒豪であった父がこの地にやってきた時、地元の若者と争いとなり亡くなってしまい、その父の仇を討つためこの地にやってきたという話も伝わります(『甲西町誌』)。しかし地元の人に諭され、仇討ちを捨て、そこから一切人と争うことがなかったとも言われます。また、ナマコを肴に飲む酒が大好きでしたが、度重なる水害を経験したことにより、西南湖の丹沢義吉らとともに「楽地禁酒会」を立ち上げ、酒を断って節約し、復興を目指したそうです。謙虚で思慮深く、温和な性格は人々を惹きつけ、還暦の祝いには100名以上の門下生が集まりました。門下生は後に先生を父でもあり母のようでもあったと記しています。

 

西郡の土と成る
 20歳前に西郡に移り、さまざまな人々やその地の風景と出会い、共鳴し合い、多くの人々を教え導いた綿引先生。大正7年から9年、約100年前に世界中で大流行した流行性感冒、スペイン風邪として知られるインフルエンザによって大正8年2月26日、その命の灯火が消えることになりました。享年63歳、西南湖正福院に門下生が墓を建立し、今もその地に眠っています。

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【写真】綿引健 墓 正福院

 綿引健は亡くなりましたが、その言葉と想いは受け継がれ現在につながっています。先生に学んだ西南湖の入倉善三は仲間とともに報徳社を発展させました。西南湖報徳社は県内で唯一現在でも活動を続けています。小笠原で生まれ天民義塾で学んだ石川幸男は韮崎の杉山家に入り、運送会社を営んだ後初代韮崎町長となり、韮崎市の礎を築きました。幸男は文化への関心も高く、藤井町の坂井遺跡保存会初代会長ともなっています。南湖村で生まれた深沢吉平は明治36年、北海道音江村に入植し、同村長を経てデンマークに酪農を学び、北海道における酪農推進の先駆者の一人となりました。
 風であった先生はまさに西郡の土となり、様々な人々と新しい風土を培い、他の地域へ吹く新たな風を生み出していったのです。

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【写真】入倉善三先生頌徳碑

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【写真】入倉善三先生頌徳碑 背面


註1:『甲西町誌』による。一方で『深澤吉平の生涯』(岡本昌訓 1964)では、「初め鰍沢の高月にあったが、類焼の厄にあって、今の南湖報徳社の建物がある場所に移転した。」とある。

参考
「南アルプス市立図書館ふるさと人物室」
https://m-alps-lib.e-tosho.jp/kakukan/furusato.html
「山梨デジタルアーカイブ『匏水子集』」
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200025

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

時を超えて響く言葉
~なにげない日常をつなぐために~

 今から約114年前の明治40 (1907)年8月22~28日、台風による大雨が山梨県に降り続き、笛吹川や重川、日川、釜無川をはじめとするいくつもの河川が決壊、死者233人、流された家屋は約5,700軒以上、山崩れは約3,334箇所にも及ぶ大水害が起こりました。明治時代は洪水が頻発した時代ですが、それでも当時の新聞を見ると水害の大きさが「未曾有」の言葉で繰り返し表現されています。南アルプス市域では上高砂・下高砂、下今諏訪の釜無川の堤防が決壊、さらに下流の「将監堤一万石」とうたわれた鏡中條の将監堤が決壊し、浅原、藤田、田島、西南湖、東南湖、泉、鰍沢などの村々に甚大な被害が出ました。

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【写真】明治40年水害図 『山梨県水害史』

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「同堤防(将監堤)は付近の住民に取りては咽喉部とも云うべく然ればこそ築堤の如きも全力を慈(これ)に傾注して萬世の安固を期したりしなり、然るに今回の出水は実に近古未曾有と云うべく降り灑ぐ・・・(中略)・・・南湖村・・・何も生きたる心地なく(僅)かた屋根棟に避難し生命を全うしたる有様をりしが・・・長久寺に避難民を収容し救助しつつある者千二百人余なり、同村(南湖村)は昨三十九年大火(水?)災を蒙り、今年又た未曾有の水害を被り」
『甲斐新聞 明治40年8月31日』より。()は文化財課が加筆・修正

 この時の被災状況を詳細に記録したのが南湖村水害図です。水害図には被災した地図とともに村ごとの死傷者数、被害家屋、被害土地や農作物、堤防の破堤日時や状況が詳しく記載されています。この水害図を製作したのは南湖村の私塾天民義塾で、塾長であった国学者綿引健(通称竹次郎)がその経緯を詞書に書いています。

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【写真】南湖村水害図

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【写真】南湖村水害図詞書

「今から80年前、将監堤が決壊して(釜無川が)氾濫しその惨害を極め、南鰍沢に至って止まった。時が移りゆく中で、人々は周りの人々のことを考えず、自らの安全ばかりを追い求めるようになったが、明治40年8月25日、再び(将監堤が)決壊し、(その被害は)見渡す限りすさまじくいたましい状況で、田園の荒廃は昔(の水害)と比べてさらにひどい状況である。この図がその時の状況である。どうか後世の人々よ、この図を鑑みて、よく考え、よい方策を講じてください。それをしなければ、この図を見てただいたずらに哀しむだけで、戒めとはならないでしょう。
 明治四十年十二月
 天民義塾長 綿引竹次郎 識
 私立報徳農業補習学校長 青沼兼吉 書」『南湖村水害図詞書』より(文化財課意訳)

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【写真】綿引健

 この言葉に出会った時、強く心を揺さぶられました。その言葉のとおり、水害図を見ても過去の歴史として見ているだけの自分がいたからです。「嗚呼後ノ人・・・」、この言葉からは静かな魂の叫び声と切実な祈りが伝わってきました。先生の声に導かれるように、防災の講座や広報の記事で水害図を取り上げ、水の歴史文化を扱った『堤の原風景ver4』(2021年3月改定 現在ver5)ではその内容とともに裏表紙にこの言葉を掲げました。言葉は読んだ人や聞いた人の心にも響き、来年度小学校の副読本にも掲載されることが決まりました。100年以上前の言葉が現代の私たちの心を動かしているのです。

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【写真】堤の原風景ver4

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【写真】南アルプス市社会科副読本 防災の頁

 綿引健が塾生とともに水害図を製作したのは被災した年の12月、水田は一面砂礫で覆われ、山梨県全体も復興どころか「災害後の甲州は最後の甲州」と揶揄されるほど、被害は深刻な状況でした。笛吹川流域では住むことができなくなった地域もあり、後に北海道への移住計画が立てられ約3千人が移住を余儀なくされました。このような状況の中で水害図が作られ、この言葉が生まれました。

 綿引健は水戸弘道館で国学を学び、学友であった有野村の矢崎貢に請われ、有野村で漢学を教えました。その後鏡中條、次に小笠原の私立高等英和学校で教え、明治22年頃には荊沢の市川文蔵に請われ、法泉寺で開かれていた学術研究会で教えることになります。この私塾は明治34年新学舎が完成すると天民義塾と改称され、多くの青年が集ったと伝えられます。しかし明治39年、大雨が降り続き、県内各地で大水害が発生、できたばかりの学舎が流されてしまいます。そのため天民義塾は西南湖へ移転されることになります。新天地で広く人を育てようとした矢先にまた大水害を経験したのです。

『甲西町誌』によれば、綿引先生は近所の悪童が企てた落とし穴に落ちても怒ることはなかったほど温厚な性格でした。そんな温厚な先生が残した力強いメッセージ。なぜ綿引先生は水害図を作り、未来への言葉を残したのでしょうか。残された漢詩に先生が大切にしてきたものが表現されていました。

釣魚記
「竿を堤塘の曲々に投ずるに一陰影無し。斜陽灼き四体汗するこれなり。之を久しうして標没し魚を得。竿を投じ魚を得。魚を得る事一十なり。暮色蒼然として山巓黄金を彩り山腹翠羽を帯ぶ。炊姻空冥に入り帰路に就く。梵鐘は水を度り涼風衣に入る。鳥声洩々蛙嘱閣々興涯なし家に帰るに門生は庭に迎え婦は戸に待つなり。魚を観て婦は笑を含み悦懌するなり。門生は手を拍て嵯歎す。」
『甲西町誌』より抜粋

「坪川の堤防上で魚を釣り始めたがまったく釣れなかった。それでも汗をかきながらずっと続けていると夕暮れになったころ一匹一匹釣れ始め、十数匹の魚が釣れた。山頂が黄金に彩られ、山々は深い緑色に染まっていく。家々のかまどから煙が天にたなびくころ帰り道についた。お寺の鐘の音は川の上を渡るように響き、涼やかな風が懐に入ってくる。鳥の声が響きわたり、蛙の声もはてしなく聞こえてくる。家に帰ると門人たちは庭で出迎えてくれて、妻は屋内で待っていた。魚を見ると、妻は微笑み、門弟たちは手を叩いて喜んだ。」
(上記の文を要約)

「先生、大漁ですね!」「おかえりなさいませ。晩御飯のおかずができてよかったです。さっそく夕食にしましょう。」門弟や妻の笑顔ととともにこんな声が聞こえてきそうです。

 好きな釣りを楽しみ、笑顔に包まれた夕暮れ時の穏やかな時間。詩文から日々のなにげないくらしのぬくもりが伝わってきます。私がこの文章を書いている目の前には八ヶ岳の山々が薄紅色に彩られ、早咲きの桜の花が風に揺らいでいます。遠くから鳥の鳴き声。家路を急ぎ行き交う車の音。手を繋いで散歩する親子の姿。いつものなにげない日常の風景が広がっています。

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 綿引先生が水害によって失ったもの、水害後に取り戻したいと考えたのは、こんな何気ないそして大切な日々のくらしだったのでしょう。こんな思いはさせたくない、そのためにできるだけ備えてください。この強い想いは現代さまざまな災害で被災された多くの方々が語る言葉と重なります。災害を忘れないことはとても難しいことです。けれど繰り返しそれらの多くの言葉に出会えるのなら、忘れそうな日々の大切さをまた気づかせてくれるはずです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】