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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

江戸時代の南アルプスブルー
~村々の藍葉栽培と藍染~

はじめに
 雨が降り続き、水辺にカエルの鳴き声がこだまする水無月(みなづき)。水田に水が満たされる月を意味します。ふるさと文化伝承館の藍は雨の恵を受けながら、瑞々しく茂っています。例年だと梅雨明けを待って藍葉の一番刈りを行いますが、気候が暖かくなったせいか昨秋こぼれ落ちた種は2月に芽吹き、6月中旬には葉が生い茂りました。30度を超えた晴天の日を狙って、一月早い一番刈りを行いました。

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【写真】水無月の水田

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【写真】ふるさと文化伝承館の藍

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【写真】藍一番刈り

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【写真】藍一番刈り 天日干し

 藍色は7月に予定されている東京オリンピック・パラリンピックのエンブレムカラーであり、大河ドラマの主人公渋沢栄一の家がすくも作りを行なっていた藍屋でもあったことから、さまざまなメディアで藍色に出会う機会が増えています。
 明治時代、南アルプス市域が山梨県内で藍葉の生産量最多を誇り、川上村(明治22年に合併して落合村となる)には藍葉からすくもを作る藍屋が営まれていたことは以前ご紹介しました。今回のふるさとメールでは少し時を遡り、江戸時代の藍葉生産の様子をのぞいてみましょう。

【2019年9月17日(火) 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~】

 

1.村明細帳から見た藍の栽培
 江戸時代には村の石高や家数、人数、寺社や産物など村の概要を記した村明細帳が作られました。村明細帳は作られた時代や村によってその内容や詳しさが変わるため村の正確な状況を反映しているとは限りませんが、おおよその傾向を把握することができます。今回は山梨県が発行した『村明細帳 巨摩郡編Ⅲ ・山梨、八代郡編補遺』と旧町村誌に掲載された村明細帳を手がかりに、まず南アルプス市域の藍の生産について調べてみました。

 その結果、近世において藍葉が村明細帳に掲載された事例は2例に限られました。一番古い資料は享保20年(1735)の「鋳物師屋村差出明細帳」で、臨時の作物として藺草(いぐさ)や茶、苧、桑、楮(こうぞ)、うるしとともに藍が挙げられていました。次に明和8年(1771)の「上高砂村差出明細帳」で、やはり臨時の作物として、藺草や茅、茶、煙草、苧、桑、楮(こうぞ)とともに藍が挙げられています。このように藍葉は米や粟、稗、大豆などの主要作物とは違い、江戸中期にはあくまで臨時に作られる補助的な作物だったことがわかります。そのため、栽培されていても村明細帳には記載されなかった場合もあると考えられます。
 幕末まで時代を降ると、藍の栽培や藍を商う商人の存在を文献で確認することができます。百々の竹内家に伝わる嘉永7年(1854)の「藍商売取究」(『白根町誌史料編』544号文書)は、藍を扱う商売仲間が公正に商いを行うため、御法度を守り、藍の買い付けには仲間が立ち会うことなど商売仲間内での取り決めが書かれたものです。また、慶応4年(1867)原七郷組合から市川代官所へ提出された書類には「藍葉凡千貫目」と記載があり、原七郷の村々で藍葉生産が広がっていたと考えられます(『櫛形町誌』)。

 

2.藍葉・藍玉の流通
 江戸時代は、木綿の普及とともに紺屋による藍染が盛んになったと言われます。ですが村明細帳から地元での藍葉生産量はそれほど多くなかったと推測されます。そこで他地域からもたらされた藍の流通に注目してみましょう。駿河と信州を結ぶ街道に位置する荊沢宿は、富士川舟運で鰍沢河岸(かし)で荷揚げされた駿河からの物資が最初に通過する駅です。この駅を通過する商品について研究された増田廣實氏によれば、嘉永7年(1854)の荊沢宿から韮崎宿への宿継ぎ荷物、いわゆる上り荷物の総数は1,573駄で、その内、1位が阿波藍で80駄、2位が武州藍で38駄、二つで全体の荷物の約26%を占めています(増田廣實2005『商品流通と駄賃稼ぎ』同成社)。すくも作りの本場である阿波と武州から相当数の藍玉あるいは藍葉が流通し、釜無川沿岸の村々の紺屋へ販売されました。さらに安永4年(1775)の「荊沢宿伝馬諸荷物駄賃帳」には「一 藍玉壱太 百々村江」とあり、馬一駄分の藍玉が百々村の紺屋へ届けられていたことがわかります。

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【写真】伊能図に描かれた荊沢宿と鰍沢

 藍玉産地の阿波国側の史料を見ると、藍を販売する商人とその販売地が決められており、甲州売りを抜き出しても20人以上の商人の名が連ねられています。

文久6年(1809)「関東売仲間御仕入元江戸出店売場」(抜粋 人命俵印及び売り場先を届け出た資料)
「元木佐太郎 池北屋清兵衛
 江戸 武州 相州 上総 下総 野州 上州 常陸 信州 甲州 駿州 遠州 奥州
武市増助 宮本屋安兵衛
 武州 相州 上総 下総 甲斐 常陸
渡邊益蔵 藍屋彌兵衛
 江戸 武州 上総 下総 房州 上州 常州 野州 相州津久井領 甲州
永田平十郎 住吉屋圓次郎
 武蔵 相州 上野 下野 上総 下総 安房 常陸 甲斐 駿河 伊豆
坂東貞兵衛 住吉屋宗兵衛
 武州 相州 豆州 甲州 信州 駿州 下総 上野 下野
元木佐太郎 阿波屋與市
 駿州 甲州 郡内領 豆州 遠州 相州
手塚甚右衞門 阿波屋林右衛門
 遠州 駿州 豆州 甲州郡内 相州
犬伏九郎右衛門 玉屋八郎兵衛
 江戸 甲州郡内領 相州津久井領 下総 上総 上州
井上左馬之助 坂東増太郎 坂東貞兵衞 石原市郎右衛門 藍屋直四郎
 駿河 遠州 相州 豆州 甲州 信州」
(西野嘉右衞門編著1940『阿波藍沿革史』より)

 こうした史料から、江戸時代、市内域の紺屋で消費される藍染の原料すくもや藍玉は、藍の一大産地であった阿波や渋沢栄一が藍屋を営んでいた武州から富士川舟運を経て荊沢宿を通り、南アルプス市域から韮崎市、北杜市近郊の紺屋に供給されていたと考えられるでしょう。

 

3.江戸時代の紺屋と藍屋
 紺屋については、甲西町誌などで江戸時代からほとんどの村にあったと書かれていますが、「紺屋」が村明細帳に記載されるのは、明和8年(1771)鏡中條村2人、安永6年(1777)荊沢村1人などに限られます。江戸時代の藍染を担った紺屋についての史料が少なく、その分布や実態も明らかにすべき課題の一つです。
 甲府城下町に目をむければ、嘉永7年(1854)刊行、明治5年(1872)増補改訂版の甲府城下町の案内書『甲府買物独案内』には、紺屋に当たる御染物屋が6軒、すくもの販売と製造にかかわる藍屋が2軒掲載されています。

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【写真】『職人盡繪詞 第1軸』文化年間のものを明治に和田音五郎が模写したもの。 右側に「紺屋」が描かれている。国立国会図書館蔵

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 御染物

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【写真】買物独案内 藍屋

(『甲府買物独案内』 国立国会図書館蔵)

 

4.明治時代初頭の物産記録
 最後に明治時代初頭に記録された村々の物産記録から幕末から明治初頭の藍葉生産をみていきます。それを見ると多くの村々で藍葉が生産されていることがわかります。白根地区と甲西地区での栽培が盛んで、白根地区では源村での生産が多く2,500貫、甲西地区では落合村が4,900斗で他の村より藍葉生産が盛んでした。落合村と隣接する川上村には江戸時代末からすくも作りを生業とする浅野家が位置していて、その周辺が藍葉およびすくも生産の拠点となっていくことがわかります。

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【第1表】明治時代初期 南アルプス市域各村物産一覧(文化財課作成)
※芦安・八田地区については未確認。白根町・櫛形町・若草町・甲西町各町誌掲載の資料から作成

 

おわりに
 以前のふるさとメールで書いたとおり、明治時代に市内で発展した藍葉生産と藍屋業は、ヨーロッパでの人工染料の発明と普及により明治時代末期には姿を消すことになりました。それからおよそ100年後、市内で再び復活した藍は、地域や小学校のふるさと教育に利用されています。全国では藍染だけでなく、藍の含有する成分の研究が進み、健康食品やウイルス予防などに応用され日本全国で藍の魅力が再発見されつつあります。市内で栽培され始めた藍にもさまざまな可能性が眠っているようです。

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【写真】落合小3年生が今年も浅野さんの藍畑で地域たんけん(藍染は顆粒の藍を用いた簡易的な方法で染めました)

【2015年4月15日(水) 南アルプスブルーの足跡~市内を彩った藍染めの歴史~】

【2015年5月15日(金) 南アルプスブルーの足跡その2~市内を彩った藍染めの歴史~】

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

学び人を育む力
~天民義塾と綿引健~

 水害へ備える言葉を残し、さまざまな人々を育んだ綿引健(竹二郎・雅号匏水)。その学びの社であった私塾天民義塾については、資料が少なく詳細なことはわかっていません。今回のふるさとメールでは、残されたわずかな資料を繙き、明治から大正時代まで続いた塾の実態にせまり、3月から続いてきた綿引先生の物語に幕を降ろしたいと思います。

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【綿引先生】

3月15日号「時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~」

4月15日号「風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~」

 

幕末の私塾・寺子屋
 まず江戸時代の終わり、幕末の私塾と寺子屋から天民義塾設立以前の教育状況をみてみましょう。『山梨県教育百年史 明治編』によれば、江戸から明治時代初頭における県内の私塾・寺子屋の数は537か所が想定され、市内域だけでも寺子屋が芦安地区0、八田地区3、白根地区15、若草地区12、櫛形地区27、甲西地区15、合計72、私塾としては藤田村の釜川塾、上高砂村の螺廼舎(しのしゃ)の2か所が表にまとめられています。旧村単位でこの状況を見てみると、小笠原村が最も多く7、藤田村が5、鏡中条村、桃園村がそれぞれ4で、その他多くの村で1か所は寺子屋が営まれている状況でした。そこで教える先生は農民が31、医者が15、僧侶が11、神官が10、浪士が2、儒者が2、修験者が1で、農民と医者が多く、約64パーセントを占めます。学習内容は読書と習字が中心で、そこに講義などが行われることもありました。なお、「松声堂」として知られる西野の西野手習所は代官支配下の領民の子弟を教育の対象とする郷学に分類され、近世の甲州では西野手習所を含め3か所に限られました。

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【幕末~明治初期 郷学・私塾・寺子屋地図 (『山梨県教育百年史 明治編』付県下寺子屋・私塾一覧より作成)】

 

学制の始まりと寺子屋の廃業~明治時代初期~
 明治に入ると、明治5年(1872)8月、日本最初の学校教育を定めた教育法令である学制が太政官から発せられ、学校教育制度がスタートします。学制頒布とともに小学校が設置され、江戸時代地域の教育を支えた多くの私塾、寺子屋は小学校へ併合あるいは廃業となり、明治8年頃にはほどんど姿を消すことになりました。明治5年山梨県によって行われた「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」をまとめたのが第1表で、掲載された寺子屋(郷学を含む)は市内では18か所だけで、多くの寺子屋が廃業したことがわかります。一方明治6年から小学校建設が市内各地で行われ、その後統廃合が行われますが、明治19年段階では少なくとも25校以上の小学校が作られていました。

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【第1表 市域における寺子屋調査 (「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」から作成)】

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【明治19年前後 市内小学校地図】

 

勉旃(べんせん)学舎から学術研究会そして天民義塾の創立へ~明治10から30年代~
 明治時代私塾が衰退したのは、山梨県権令(後に知事)となった藤村紫朗が進めた公立学校への奨励と私学への厳しい抑制政策の結果でもありました。また、明治10年代は経済不況も私学の不振に追い打ちをかけます。『明治17年学事年報』によれば県内の私塾は成器舎、修斉学舎、時擁義塾、勉旃学舎、明倫舎、蒙軒学舎の6か所のみ掲載されていて、市内では荊沢に開かれた勉旃学舎が挙げられています。
 勉旃学舎は明治14年、五明村の名望家で自由民権運動にも活躍した新津真が同村の大地主市川文蔵と共に発起した塾で、教科目には修身・歴史・文章の三科、修学年限七か年、小学校中等科卒または満14歳以上が入塾資格とされました(『山梨県教育百年史 明治編』)。その学舎は明治18年閉鎖されましたが、翌年荊沢の法泉寺の檀家が寺内に学術研究会を開き、牛山龍が漢学や弁論部を教えました。
 明治20年代は経済が回復し山梨英和女学校など県内に新たな私塾が多数創設される一方、県立尋常中学と高等小学校の整備が進み、明治20年代の終わりにはほとんどの塾が廃業する時代でした。そのような中、学術研究会では明治21年牛山が去ると綿引健が招聘され、明治34年には新しい学舎も建設されました。これを契機に「天民義塾」と名付けられたのです。『中巨摩郡誌』には「四方より学ぶ者多し」とその盛況ぶりが記録されています。

 

天民義塾とその移転~荊沢から西南湖へ~
 天民義塾の内容については『明治37年度学事年報』からその一端がうかがえます。学校長名は綿引竹治郎(健)で教員は綿引ただ一人でした。創立年は明治33年とされ、中巨摩郡誌と1年のずれがあります。学科は修身(道徳)、国語、漢文、作文を教え、修業年限は3年で学級数は2、生徒数は1年生が男36、女0、2年生が男32、女0でした。明治33年の創立から明治36年までの卒業者は男102人、女0を数えました。

 『甲西町誌』によれば、明治39年水害による学舎流失のため、荊沢から西南湖に天民義塾が移されます。西南湖では明治33年丹沢義吉、入倉善三を中心とした若い農民が水害が多発する土地の中で自ら学び生活を向上させるため南湖報徳社を設立しており、それらの若者が中心となって、綿引先生を西南湖へ招きました。『南湖報徳社のあゆみ』の編年表には明治39年「水戸の漢学者綿引竹二郎先生を迎え天民義塾開設」と見え、丹沢義吉の著書の中でも、「(義吉が)南湖の振興を志して立ったのはまだ十代の青年であった。村を興し国を盛んにすることを真剣に考え、綿引匏水先生の許に学んだ」とあります。また、天民義塾で学んだ深沢吉平(注1)の伝記には「塾頭は綿引匏水先生で深沢が十才位の時から種々精神的影響を受けていたらしい。」と書かれており、後に北海道の酪農を推進する吉平の生き方にも影響を与えていたのです。

 先生の残した漢文などを見ても、塾では単なる国語や漢文だけでなく、人の生き方を学ぶ場だったことがわかります。『西郡地方誌』は当時の学習内容と活況、先生の逝去に伴い塾の幕が降ろされたことを次のように伝えています。
「南湖村西南湖報徳社において綿引健が明治39年の創始より大正8年長逝まで修身道徳を主として教育された。生徒数は多い時には百数十人に上り、隣村からも学ぶものが多かったが、綿引の長逝とともに廃止となったという。」

 多くの私塾が創立され廃業した明治20年代後半から大正時代まで、なぜ天民義塾は存続できたのでしょうか。『山梨県教育百年史 明治編』の「学制頒布と寺子屋・私塾」では次のようにまとめています。
「中には例外的に明治の終わり、あるいは大正年間まで継続しているところもあった。例えば西南湖(甲西町)の天明義塾(注2)は明治14年に開設された勉旃学舎および学術研究会のあとをついで、明治19年に再建され大正4年まで続いた。教師綿引健(匏水)の人格を中心に、修身・道徳に力をいれた特色ある塾教育に打ち込んで、旧い日本教育の長所を発揮して多くの人材を輩出せしめた。」

 このように綿引先生個人の資質が多くの人を惹きつけ塾を存続させた要因であったことは間違いありません。しかし塾存続の理由として先生を招き天民義塾を支えた若き塾生たちの存在も注目すべきでしょう。水害が多発する地での小作農の厳しい生活を地域で学ぶことで乗り越えようとしてきたその風土も塾の存続に深く関係しているはずです。天民義塾を支えた南湖報徳社の人々は、明治37年、天竜川の洪水を防ぐため私財を投げ打って植林事業に一生をかけた静岡県の金原明善を招いて講演会を開き、その話に感銘を受け、その直後から「治山治水」を実践するため平林村に約10.7haの山を借用し植樹を行うとともに、別の山林を購入し植林事業を継続して行いました。さらに社の報徳金により小作人の耕地の購入を後押する自作農推進活動を行い、その結果社員全員が自作農となったと言われます。災害に苦しむ人々の生活を向上させ、地域の産業を発展させたのは、地域の人々の生涯にわたる学びの力だったのです。

 綿引先生は100人を超える門人が集まり開かれた還暦の祝宴のあいさつの結びとして、次の言葉を選びました。

「今ヨリシテ後、(中略)物質ト(中略)精神トノ間ニ處シ能ク之レガ保合調和ヲ計リ、又復得難キ人生ヲ大意義アルモノナラシメント欲ス。諸君幸ニ切磋琢磨ヲ惜ム勿レ。幸栄アル此ノ祝宴ニ対シ謹ンテ感謝ノ辞ヲ述ブル此ノ如シ」(「還暦祝謝辞筆記」『匏水子集』より)

 この言葉には60歳を超えた自分も人生の目標である世界と心の調和を目指していく決意と門人たちがお互いに励まし合い、学び続けることへの願いが込められています。

 

エピローグ
 大正8年に亡くなられた綿引先生の姿を覚えている人は今はいません。しかし、先生の奥さまは太平洋戦争後までこの地にとどまり、地域の人々と交流を続けました。塾の建物に暮らしていたため「塾のおばあちゃん」と呼ばれていました。入倉善三さんの孫、入倉善文さんは当時の様子をはっきり覚えていて、懐かしそうに話してくれました。
 「子どもの頃塾のおばあちゃんは俺や姉さんにやさしくしてくれたね。通知表も親より先におばあちゃんに見せに行ったさ。おばあちゃんに褒められるのがなにより嬉しくてね。受賞した絵を見せると塾に貼ってくれたのも嬉しかった。」
 記録には残っていませんが、記憶の中に子どもたちを育んだ先生の奥さまの姿が残されています。

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【塾のおばあちゃんの思い出を語る入倉善文さん】

 

注1:南湖村から北海道音江村へ移住し、音江村長を務めるとともにデンマークで酪農を学び後に衆議院議員となり北海道の酪農を推進、雪印乳業の前身である北海道酪農共同株式会社社長も務めた。岩手県への酪農の普及にも尽力した。
注2:天民の誤りか

引用・参考文献
岡本昌訓 1964『深沢吉平の生涯』深沢吉平伝刊行会 
甲斐志料刊行會 1932?1935「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」『甲斐志料集成』第6巻
公益社団法人南湖報徳社 1969『南湖報徳社のあゆみ』 
椎名慎太郎 2001「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習(山梨学院生涯学習センター紀要)』山梨
山梨県 1904『山梨県学事年報. 明治35年度』
    1906『山梨県学事年報. 明治37年度』
山梨県教育委員会編 1979『山梨県教育百年史 明治編』 サンニチ印刷
山梨県中巨摩郡聯合教育會 編 1828『中巨摩郡誌』
山梨県立巨摩高等女学校編 1940『西郡地方誌』
綿引竹次郎 1920『匏水子集』

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

風来りて土と成る
~綿引健の生涯と西郡の人々~

 「風土」はその土地の自然環境や精神的な環境を意味しています。辞書から離れると、外の土地から来た人が新しく異なった文化を風となって運び、土である地元の人々が受け入れてその土地の風土が生み出されるという考え方もあります。今月のふるさとメールは先月ご紹介した綿引健の生涯を通し、明治・大正時代の西郡(にしごおり)の風土を培った人々とのつながりをたどります。

 

西郡への風 旅立ち
 綿引健は安政5年(1858)8月7日、水戸の武家に生まれました。幕末、水戸学の中心人物の一人栗田寛に師事し、漢学などを修めました。同じ門下であった有野村矢崎貢(みつぐ)の強い勧めで、明治8~9年、17・18歳の時、西郡源村にやってきたと伝えられます。貢の父の保全は長崎で蘭学を学んだ医師で、医業を営みながら明治5年まで私塾を開き漢学も教えていました。そこに20歳前の水戸の青年が招かれたのです。

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【写真】栗田寛『大日本名家肖像集』経済雑誌社1907年

 

人々との出会い
 甲西町誌によれば綿引健(以下先生)は源村で教えた後、鏡中條、小笠原、荊沢へと移りそれぞれ塾を開いたとありますが、詳しいことはわかっていません。しかし資料には、先生がさまざまな人々の顕彰碑や墓誌などの撰文(記念碑などの文章を作ること)を書いた記録が残されています。このことから先生が多くの人々と出会い、絆を結び、この地において大きな信頼を得ていたことがわかります。
 源村の飯野新田で私塾を開き漢学を教えていた埴原治良吉の墓碑銘も書いています。文の中では娘婿の弁一郎とその子供達にも触れ、長男の正直は外交官で米国公使館書記官、次男弓次郎は早稲田大学生、長女桑喜代は美術学校在学と書かれています。正直は後に外務次官となり日本外交のかじ取りを担い、桑喜代は画家の道を進みました。この文からも埴原家との深いつながりがわかります。

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【写真】埴原正直

 鏡中條村での塾の場所や期間は明らかになっていません。しかし同村の巨摩八幡宮の神職を務め、寛政から天保年間塾を開き読書や習字などを教えていた斉藤操の頌徳碑の文章を作成していることから、斉藤家へ招かれたのかもしれません。また、鏡中條で代々医業を営んだ小野家にもその足跡が残されていました。明治32年、小野徹(1875-1971)は同村に「洗心堂」を開業し、医療とともに日本住血吸虫病の病害の研究、解明に尽くしました。徹の息子修が書き留めた『父・祖父を語る』には「十五歳の三月、中巨摩西部高等小学校を卒業し、九月まで今の甲西町荊沢にあった漢学塾に通って、漢学を勉強しながら医者になる決心をした。」とあり、先生から漢学を学んでいたと考えられます。生家には綿引健書の額が現在も飾られ、さらに西南湖の安藤家の中門前で撮影された先生との写真が「綿引匏水先生」の文字とともに残されていました。小野家、そして西南湖の安藤家との親交が写真から伝わってきます。また小野徹は亡くなる直前まで、漢詩を作り書に没頭したと伝えられます。

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【写真】斉藤操頌徳碑 巨摩八幡宮

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【写真】小野家に掲げられた綿引健の書

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【写真】綿引先生と小野徹 安藤家中門前

 次に移ったとされる小笠原(当時明穂村)には明治21年私立高等英和学校が設立され、先生が招聘されましたが、1年で廃校となっています。また小笠原の医師桑島尚謙の桑島尚謙の彰徳碑を撰文しています。桑島は和歌山県の生まれで、藤田村の五味家に身を寄せ、後に小笠原の桑島家を継承して医業を営みました。医術に優れ「訪れた患者は門に充ちた」と伝えられています。貧民救済のためにも奔走し県立の施薬院設立を目指しましたが、果たすことなく明治31年66歳で亡くなりました。門人達が遺徳を偲び久成寺に彰徳碑を建立し、先生がその文を作成しました。綿引健40歳の時です。

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

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【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺

 小笠原から次に移り住んだのが江戸時代、駿河と信州を結ぶ駿信往還の宿として栄えた荊沢村です。荊沢村では法泉寺檀家の人たちが寺内に漢学などを学ぶ学術研究会を明治19年に設立し、明治21年塾長であった牛山竜が去った後、当地の大地主市川文蔵が強く懇願し、先生が塾長として招かれました。明治34年に新しい学舎が完成すると、名前を天民義塾と改名し、多くの人々が塾に集ったと伝えられます。

 

水害からの復興と学び
 西郡に来た先生の人生を決定づけたのは、この地の水害と言ってもいいでしょう。明治時代は、殖産興業を掲げた山梨県の政策により養蚕などの燃料として山々の木が切られ、また村々が共同管理していた山が官有林とされたため盗伐が横行し、山が荒れたため洪水が多発した時代でした。
 明治39年(1906)7月16日、甲府で1日に171mmを記録するほどの豪雨と続く7月24〜26日の雨によって、釜無川や市之瀬川、荊沢地内の裏瀬川など多くの河川が氾濫し、完成したばかりの天民義塾の新学舎が流失したと伝えられています(註1)。そのため、天民義塾は南湖村に移されることになります。南湖村は東の釜無川と西の滝沢川の度重なる水害を受けてきた地域で、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年には報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を設立、勤倹貯蓄とともに生涯にわたって学習し、農民の自立を促す運動も行われていました。学ぶことで度重なる水害からの復興を目指したのです。この地に綿引健が招かれたのは必然だったのかもしれません。天民義塾が移された翌年起こったのが先月紹介した明治40年の大水害です。

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【写真】入倉善三=左、丹沢義吉=右

 明治40年の大水害後、南湖村水害図の他、洪水によって流路が変わった新笛吹川の石碑の文も先生が書いています(「新笛吹川紀念石之碑文」)。さらに大正4年、御勅使川扇状地全体の水害鎮守として祀られた有野の水宮神社の拝殿が修築され、それを記念した石碑も建立されました。その文を作成したのも先生でした。この地に導いた学友矢崎貢がこの時「治山・治水」と刻んだ石塔を寄進していることから、貢が先生に依頼したと想像できます。御勅使川扇状地の扇頂部に立地する有野にとっても、山を治め、川を治めることは最も重要な課題だったのです。
 このように度重なる水害に翻弄された地域や人々、そして自分自身の経験から、先生は水害の記憶を次世代に伝える言葉をさまざまな場所で残しているのです。

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【写真】水宮神社 大正4年矢崎貢寄進 治山・治水灯籠

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【写真】水宮神社記念碑

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【写真】水宮神社記念碑

 

父母のように
 多くの人と交わり、西郡に学問を広めた綿引先生はどのような性格だったのでしょうか。一説には書家で大酒豪であった父がこの地にやってきた時、地元の若者と争いとなり亡くなってしまい、その父の仇を討つためこの地にやってきたという話も伝わります(『甲西町誌』)。しかし地元の人に諭され、仇討ちを捨て、そこから一切人と争うことがなかったとも言われます。また、ナマコを肴に飲む酒が大好きでしたが、度重なる水害を経験したことにより、西南湖の丹沢義吉らとともに「楽地禁酒会」を立ち上げ、酒を断って節約し、復興を目指したそうです。謙虚で思慮深く、温和な性格は人々を惹きつけ、還暦の祝いには100名以上の門下生が集まりました。門下生は後に先生を父でもあり母のようでもあったと記しています。

 

西郡の土と成る
 20歳前に西郡に移り、さまざまな人々やその地の風景と出会い、共鳴し合い、多くの人々を教え導いた綿引先生。大正7年から9年、約100年前に世界中で大流行した流行性感冒、スペイン風邪として知られるインフルエンザによって大正8年2月26日、その命の灯火が消えることになりました。享年63歳、西南湖正福院に門下生が墓を建立し、今もその地に眠っています。

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【写真】綿引健 墓 正福院

 綿引健は亡くなりましたが、その言葉と想いは受け継がれ現在につながっています。先生に学んだ西南湖の入倉善三は仲間とともに報徳社を発展させました。西南湖報徳社は県内で唯一現在でも活動を続けています。小笠原で生まれ天民義塾で学んだ石川幸男は韮崎の杉山家に入り、運送会社を営んだ後初代韮崎町長となり、韮崎市の礎を築きました。幸男は文化への関心も高く、藤井町の坂井遺跡保存会初代会長ともなっています。南湖村で生まれた深沢吉平は明治36年、北海道音江村に入植し、同村長を経てデンマークに酪農を学び、北海道における酪農推進の先駆者の一人となりました。
 風であった先生はまさに西郡の土となり、様々な人々と新しい風土を培い、他の地域へ吹く新たな風を生み出していったのです。

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【写真】入倉善三先生頌徳碑

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【写真】入倉善三先生頌徳碑 背面


註1:『甲西町誌』による。一方で『深澤吉平の生涯』(岡本昌訓 1964)では、「初め鰍沢の高月にあったが、類焼の厄にあって、今の南湖報徳社の建物がある場所に移転した。」とある。

参考
「南アルプス市立図書館ふるさと人物室」
https://m-alps-lib.e-tosho.jp/kakukan/furusato.html
「山梨デジタルアーカイブ『匏水子集』」
http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200025

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

時を超えて響く言葉
~なにげない日常をつなぐために~

 今から約114年前の明治40 (1907)年8月22~28日、台風による大雨が山梨県に降り続き、笛吹川や重川、日川、釜無川をはじめとするいくつもの河川が決壊、死者233人、流された家屋は約5,700軒以上、山崩れは約3,334箇所にも及ぶ大水害が起こりました。明治時代は洪水が頻発した時代ですが、それでも当時の新聞を見ると水害の大きさが「未曾有」の言葉で繰り返し表現されています。南アルプス市域では上高砂・下高砂、下今諏訪の釜無川の堤防が決壊、さらに下流の「将監堤一万石」とうたわれた鏡中條の将監堤が決壊し、浅原、藤田、田島、西南湖、東南湖、泉、鰍沢などの村々に甚大な被害が出ました。

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【写真】明治40年水害図 『山梨県水害史』

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「同堤防(将監堤)は付近の住民に取りては咽喉部とも云うべく然ればこそ築堤の如きも全力を慈(これ)に傾注して萬世の安固を期したりしなり、然るに今回の出水は実に近古未曾有と云うべく降り灑ぐ・・・(中略)・・・南湖村・・・何も生きたる心地なく(僅)かた屋根棟に避難し生命を全うしたる有様をりしが・・・長久寺に避難民を収容し救助しつつある者千二百人余なり、同村(南湖村)は昨三十九年大火(水?)災を蒙り、今年又た未曾有の水害を被り」
『甲斐新聞 明治40年8月31日』より。()は文化財課が加筆・修正

 この時の被災状況を詳細に記録したのが南湖村水害図です。水害図には被災した地図とともに村ごとの死傷者数、被害家屋、被害土地や農作物、堤防の破堤日時や状況が詳しく記載されています。この水害図を製作したのは南湖村の私塾天民義塾で、塾長であった国学者綿引健(通称竹次郎)がその経緯を詞書に書いています。

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【写真】南湖村水害図

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【写真】南湖村水害図詞書

「今から80年前、将監堤が決壊して(釜無川が)氾濫しその惨害を極め、南鰍沢に至って止まった。時が移りゆく中で、人々は周りの人々のことを考えず、自らの安全ばかりを追い求めるようになったが、明治40年8月25日、再び(将監堤が)決壊し、(その被害は)見渡す限りすさまじくいたましい状況で、田園の荒廃は昔(の水害)と比べてさらにひどい状況である。この図がその時の状況である。どうか後世の人々よ、この図を鑑みて、よく考え、よい方策を講じてください。それをしなければ、この図を見てただいたずらに哀しむだけで、戒めとはならないでしょう。
 明治四十年十二月
 天民義塾長 綿引竹次郎 識
 私立報徳農業補習学校長 青沼兼吉 書」『南湖村水害図詞書』より(文化財課意訳)

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【写真】綿引健

 この言葉に出会った時、強く心を揺さぶられました。その言葉のとおり、水害図を見ても過去の歴史として見ているだけの自分がいたからです。「嗚呼後ノ人・・・」、この言葉からは静かな魂の叫び声と切実な祈りが伝わってきました。先生の声に導かれるように、防災の講座や広報の記事で水害図を取り上げ、水の歴史文化を扱った『堤の原風景ver4』(2021年3月改定 現在ver5)ではその内容とともに裏表紙にこの言葉を掲げました。言葉は読んだ人や聞いた人の心にも響き、来年度小学校の副読本にも掲載されることが決まりました。100年以上前の言葉が現代の私たちの心を動かしているのです。

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【写真】堤の原風景ver4

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【写真】南アルプス市社会科副読本 防災の頁

 綿引健が塾生とともに水害図を製作したのは被災した年の12月、水田は一面砂礫で覆われ、山梨県全体も復興どころか「災害後の甲州は最後の甲州」と揶揄されるほど、被害は深刻な状況でした。笛吹川流域では住むことができなくなった地域もあり、後に北海道への移住計画が立てられ約3千人が移住を余儀なくされました。このような状況の中で水害図が作られ、この言葉が生まれました。

 綿引健は水戸弘道館で国学を学び、学友であった有野村の矢崎貢に請われ、有野村で漢学を教えました。その後鏡中條、次に小笠原の私立高等英和学校で教え、明治22年頃には荊沢の市川文蔵に請われ、法泉寺で開かれていた学術研究会で教えることになります。この私塾は明治34年新学舎が完成すると天民義塾と改称され、多くの青年が集ったと伝えられます。しかし明治39年、大雨が降り続き、県内各地で大水害が発生、できたばかりの学舎が流されてしまいます。そのため天民義塾は西南湖へ移転されることになります。新天地で広く人を育てようとした矢先にまた大水害を経験したのです。

『甲西町誌』によれば、綿引先生は近所の悪童が企てた落とし穴に落ちても怒ることはなかったほど温厚な性格でした。そんな温厚な先生が残した力強いメッセージ。なぜ綿引先生は水害図を作り、未来への言葉を残したのでしょうか。残された漢詩に先生が大切にしてきたものが表現されていました。

釣魚記
「竿を堤塘の曲々に投ずるに一陰影無し。斜陽灼き四体汗するこれなり。之を久しうして標没し魚を得。竿を投じ魚を得。魚を得る事一十なり。暮色蒼然として山巓黄金を彩り山腹翠羽を帯ぶ。炊姻空冥に入り帰路に就く。梵鐘は水を度り涼風衣に入る。鳥声洩々蛙嘱閣々興涯なし家に帰るに門生は庭に迎え婦は戸に待つなり。魚を観て婦は笑を含み悦懌するなり。門生は手を拍て嵯歎す。」
『甲西町誌』より抜粋

「坪川の堤防上で魚を釣り始めたがまったく釣れなかった。それでも汗をかきながらずっと続けていると夕暮れになったころ一匹一匹釣れ始め、十数匹の魚が釣れた。山頂が黄金に彩られ、山々は深い緑色に染まっていく。家々のかまどから煙が天にたなびくころ帰り道についた。お寺の鐘の音は川の上を渡るように響き、涼やかな風が懐に入ってくる。鳥の声が響きわたり、蛙の声もはてしなく聞こえてくる。家に帰ると門人たちは庭で出迎えてくれて、妻は屋内で待っていた。魚を見ると、妻は微笑み、門弟たちは手を叩いて喜んだ。」
(上記の文を要約)

「先生、大漁ですね!」「おかえりなさいませ。晩御飯のおかずができてよかったです。さっそく夕食にしましょう。」門弟や妻の笑顔ととともにこんな声が聞こえてきそうです。

 好きな釣りを楽しみ、笑顔に包まれた夕暮れ時の穏やかな時間。詩文から日々のなにげないくらしのぬくもりが伝わってきます。私がこの文章を書いている目の前には八ヶ岳の山々が薄紅色に彩られ、早咲きの桜の花が風に揺らいでいます。遠くから鳥の鳴き声。家路を急ぎ行き交う車の音。手を繋いで散歩する親子の姿。いつものなにげない日常の風景が広がっています。

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 綿引先生が水害によって失ったもの、水害後に取り戻したいと考えたのは、こんな何気ないそして大切な日々のくらしだったのでしょう。こんな思いはさせたくない、そのためにできるだけ備えてください。この強い想いは現代さまざまな災害で被災された多くの方々が語る言葉と重なります。災害を忘れないことはとても難しいことです。けれど繰り返しそれらの多くの言葉に出会えるのなら、忘れそうな日々の大切さをまた気づかせてくれるはずです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の道祖神さん

はじめに

 早いもので令和3年も一月半が過ぎ、暦の上では春を迎えています。今年は節分の日にちが1日早まるというこれまでにない経験をしましたが、コロナ禍の影響で寺院などでの豆まきのイベントもほとんどが中止だったようです。実はちょうど一月前の小正月の日も、いつもと違う過ごし方をした方も多かったのではないでしょうか。
 例年1月14日には、南アルプス市内各地で伝統の小正月行事が行われ、道祖神場にはさまざまな美しいお飾りが登場し、どんど焼きが行われています。しかし、今年はコロナ感染拡大の対策としてどんど焼きを中止にしたり、飾り付けを簡素化する場所も多くあったとお聞きします。

 道祖神は村外から侵入する悪霊や悪病を防ぎとめる力があると言われる「塞(さい)の神」で、村人の幸せを守る神様です。本来であれば、このような情勢の時こそ、むしろ道祖神さんのお祭りをするべきだったと言えます。
 実は、山梨県は群馬県や長野県とともに道祖神信仰が盛んな地域といえます。特に山梨では小正月の行事に絡めることが多いのが特徴で、先述したようにご神木に様々なお飾りを施したり、どんど焼きのオコヤが建てられたりします。これら小正月行事については過去の記事(平成29年1月15日号)でもご紹介をしているので併せてお読みください。

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【写真】小正月の様子

 実は隣の地区の道祖神のことってあまり知らなかったり、道祖神場は知っているものの、いくつも石造物がまとめてあってどれが道祖神さんかわからないままどんど焼きだけ参加しているという方も少なくないようです。今回は、そもそも市内の道祖神さんについて、どのようなものが、どのくらいあるのかなどを探っていきたいと思います。


道祖神さんって市内にはそんなにないでしょ?

 文化財課で取り組んでいる「ふるさと〇〇博物館」のプロジェクトでは、道すがら出会える何気ないものを記録しています。石造物もたくさんあってその地区の特徴を見出すことができますが、どの地区でも必ず出会えるのが「道祖神」さんと言えます。今回知りうる限りほぼ全ての道祖神さんをマップに配置することができ、その数はなんと195地点!にのぼりました(まだ確認できておらず落とし込めていないものもあります)。

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【写真】〇博アーカイブで道祖神だけを表示した画面

 まだ、全体を把握することで精いっぱいでしたので、歴史的な背景などを掘り下げることはできていませんが、分布と石造物の形態は把握できていますので、それらを整理してみたいと思います。
 南アルプス市で道祖神さんというと、どんど焼きやお飾りなど、小正月の道祖神祭りを思い起こす方が多いと思います。厄除けや無病息災、子授け、五穀豊穣など、村人の様々な願いが込められています。
 道祖神は道端にあって、道を行き交う人々を見守る神様と考えられることが多いですが、道と道が交わる辻にあったり、それが集落の境界や入り口であることから、疫病神、厄神、悪霊などが外部から集落に侵入してこないように、塞(ふさ)いで村人を守っていただくという願いも込められています。
 飯野地区などでは、夏に道祖神場にチョウマタギを飾って、夏の道祖神祭りが行われています。これも、元々は夏場に流行する疫病が集落に入ってくるのを防ぐという願いが込められた風習と考えられています。
 また近世には、感染症である天然痘を防ぐ目的で疱瘡神(ほうそうがみ)が祀られることもあり、上今井地区のように道祖神場に一緒に祀られる場合もあります。
 これらのように道祖神は各集落(かつての小路ごとの場合が多い)ごとに祀られているため、市内各地でこれほど多く存在するのです。


形態による道祖神さんあれこれ

 道祖神のご神体は石造物が多く、山梨県では球体の石(「丸石」)を祀ることが多いのが特徴です。南アルプス市内では、「丸石」よりも「自然石」を用いたものが多く、形態などからの種別を分類していくと以下の通りです。通常は「自然石」か「丸石」か「文字碑」かの3種程度に分類されるのですが、市内の形態的特徴からさらに細かく分類してみました。また、形態とは別に道祖神さんとして扱われているほかの神様も判別できるようにしています。
内訳は以下の通りです。

自然石:93基
石祠:48基
丸石風の自然石:23
小さな丸石風自然石を複数:9
丸石(正円の球体):7
双体像:5
八衢神・衢神:4
塞神:2(3)
猿田彦:2
文字碑:1
男根形:1

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【写真】南アルプス市道祖神分布地図

 種類ごとの内訳は上記のとおりですが、市内の実態に合わせて少し細かめに分類していますので、いくつか注意点があります。圧倒的に多いのが「自然石」となりますが、この中にはいびつな形をした自然石と、細長い楕円形の自然石などがあり、文字が刻まれていても、石全体に人工的な加工がなければ「文字碑」とはせずに「自然石」に分類しています。文字碑としたのは明らかに板状に加工してあった落合地区の八王子社の中に祀られている道祖神さんだけです。ただ、加工されていない自然石でも正円の球体に近いものは、いわゆる「丸石」として祀られているものとみられることから「丸石風の自然石」としています。これはむしろ「丸石」にまとめても良いかもしれません。現状では「丸石」としたものは完全な正円形に加工されたもののみとしています。これらを合わせると「丸石」グループは合計39基となります。
 また、形態ではなく、表記から分けたものが猿田彦や八衢神、塞神などですが、これらは地域では道祖神として認識され祀られていますのでここで一緒に扱っています。


種類ごと地域ごとに特徴が見えてくる

 まず、全体を俯瞰してみましょう。市内全体、集落があるところには道祖神さんがあることがよくわかります。この図は現在確認できたもののみが配置されていますので、過去の記録でにはあるもののまだ確認できていないものがまだございます(皆ざまからの情報をお待ちしています)。ただ現状でも十分に道祖神さんの位置と特徴がわかります。
 市内の各築の中でもさらに「小路」ごとに設置されているのが通常です。しかし、道の拡幅工事等によって移動したり、集落で一か所にまとめるというようなこともあります。西野地区は集落内の半分以上が諏訪神社に集められていますし、秋山地区も秋山区公民館の前に二つ分が一つの基壇上にまとめられています。大師集落では街角に今も祀られているものと天神社に集められたものとがあります。

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【写真】西野地区諏訪神社に集めら祀られている道祖神さん

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【写真】秋山地区の道祖神

自然石
 地図をパッと見て、やはり「自然石」を示す緑色のマークが圧倒的に多く、市内全体に存在することがわかります。また上今諏訪や下今諏訪、桃園、上宮地、小笠原などでは集落全体でほとんどが「自然石」を用いているように、地域ごとに形態が統一されているような傾向がつかめます。ただ、そのような中で例えば下今諏訪集落のように一か所の小路だけ双体道祖神が祀られていることはとても興味深いです。双体道祖神については後ほどまた触れます。また上市之瀬集落の中村小路(3組)の道祖神さんは地域の力自慢の若者が笛吹川の方から運んできたものという伝承も地域には残っていました。このような背景についてはこれからさらに調査を進めていく予定です。

桃園
 桃園地区では古くからある小路4か所全てで縦長の自然石を用いられていますが、特徴としては同じ道祖神場に秋葉さんやお蚕の神様(蚕神や蚕影大明神が混在)も同じく縦長の似たような形の自然石を用いて並べていることです。

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【写真】桃園地区の道祖神場

上宮地
 しかしお隣さんの上宮地地区では4か所あるすべての小路で、自然石の道祖神さんと石祠の秋葉さんがセットで一つの基壇の上に並んで祀られています。お隣さん同士ですが、集落ごとに違ったルールで道祖神さんが祀られていることがわかります。石祠は市内では山の神さんや屋敷神さんに用いられることが多いのですが、秋葉さんだったり道祖神さんだったりと様々な神様に用いられているようです。

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【写真】上宮地地区の道祖神場(右側が秋葉さん)

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【写真】上宮地地区の道祖神場(右側が秋葉さん)

石祠
 その石祠の道祖神さんについてみていきましょう。市内では2番目に多い形態です。分布状況がはっきりしており、北部にも数基は見られるものの、おおむね西野集落ラインより南側の、若草、櫛形地区に多いように見えます。加賀美地区では一つの小路を除いて石祠が集中していますし、東南湖地区では2小路とも石祠です。中野地区も特徴的で、従来の中野集落では三小路とも全て富士山の眺望ポイントに石祠が祀られているのに対し、同じ中野地区でも神戸集落の二小路では自然石で統一されている点です。村の成り立ちにより特徴もみえてくるようです。
 石祠で特筆すべきなのは平岡地区です。平岡集落は4つの小路すべてに道祖神さんがあり、全て石祠で統一されています。それだけでなく、全てが朱色に塗られた屋根塀で囲まれた社のような造り(このような造りは江原地区などにも見られます)をしています。また、小正月のご神木飾りはひし形(弓)にオヤナギに梵天を組み合わせるといった凝ったつくりで統一されているのも特徴です。

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【写真】中野地区の道祖神

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【写真】平岡地区の道祖神

双体道祖神と男根型
 全国的には、道祖神というと双体道祖神さんや男根形の石造物を思い浮かべる方も多いようです。どちらも子孫繁栄などを主に願ったものとされますが、南アルプス市ではそれほど多くはありません。メインの道祖神さんの横に細長い石を立てたものは数か所で確認できますが、男根型に加工した石造物は小笠原に1基確認できるのみです。
 また、長野県では沢山みられる双体道祖神さんは、南アルプス市では5基にとどまり、その傾向はつかめておりません。上今井・下今井・下今諏訪に1基ずつあるのは近隣地区なのでなにか意味があるかもしれません。また、須沢地区に、石造物が集められている場所に双体道祖神さんとみられる石造物も集められていました。どこにあったものかは不明です。

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【写真】下今井地区の双体道祖神さん 肩を組み、手を取り合っているのがわかります。 

丸石道祖神
 山梨の道祖神と言えば何といっても「丸石道祖神」さんです。全国的にみても「丸石」を祀るのは山梨の特徴と考えられています。南アルプス市でも、きれいに加工した丸石以外に球体に近い自然石や丸い自然石を集めたものなどを合わせれば39基となりますし、自然石へ分類した中にも丸石を意識したと考えられるものもあるため、それらを加えれば石祠に近い数があるとみられます。
 丸石道祖神の分布も傾向がみられ、北と南に分布が集中しています。北では有野地区では4小路全て、徳永地区で3小路全てが丸石で、南は甲西地域の西南湖から落合にかけての辺りにも分布の集中がみとめられます。また、もう一つの特徴として、市北部では駿信往還(旧国道52号)沿いも丸石である傾向がみとめられます。さらに、曲輪田新田地区も特徴的で、2か所とも小さな丸石が沢山詰められた状態で祀られています。

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【写真】有野地区の道祖神さん

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【写真】西南湖地区の道祖神さん

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【写真】曲輪田新田の道祖神さん

 道祖神さんの形態については以上見てきた通りですが、実はどの道祖神さんにも共通するのは、どのような形態であっても、基壇上にはメインの石以外に、小さな丸い石が集められていることです。メインは石祠であっても、自然石であってもほぼ全て、丸石が複数集められています。やはり丸石に対する信仰が根強くあることに間違いは無いようです。

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【写真】上宮地風新居地区の道祖神場

曲輪田集落の不思議
 以上市内全体での形態的な分布の傾向などを概観してきました。やはり地域ごとに同じ形態を採用していることや、ほかの神様とのセットでの祀り方が統一されているなどの特徴が見えてきました。
 しかし、そのような中で曲輪田地区が不思議な存在と言えます。「自然石」、「石祠」、「複数の丸石」、「丸石風の自然石」と4つある小路がすべて違う形態の道祖神さんなのです。このような地区は市内のほかの地区にはありません。

そのほかの神様
 形態の特徴以外ですと、石造物本体に「八衢神」や「猿田彦」などの道の神様や悪霊が村に入るのを塞ぐ「塞神」などの名が刻まれ、道祖神さんとして地域で祀られているものも若干数みられます。東落合集落や鏡中條集落に「八衢大神」とある以外はほとんど百々集落や上八田集落などのように市内北部に集中しています。これらは皆自然石を用いています。
 また、現在は地域住民から道祖神としては祀られていませんが、道祖神と同じような役割を果たしていたと考えられる「西(塞)の神地蔵」が野牛島にあります。天文13(1544)年に建てられた古い板碑で、「八田庄」の文字が刻まれている貴重な史料です。

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【写真】百々の猿田彦

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【写真】東落合の衢大神

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【写真】野牛島の西の神


まとめ

 以上、ふるさと〇〇博物館では市内の道祖神さんを網羅しようと取り組み、まだ完全とはいえませんが、ほぼ網羅できてきましたので速報させていただきました。現時点では形態の特徴をまとめてみただけですので、どうしてそのような石を用いたのかなどの背景の物語についてはまだまだこれから精査を進めていくところです。ぜひぜひ皆さまからの情報もお待ちしています。この段階でふるさと〇〇博物館のサイト「〇博アーカイブ」南アルプス市◯博アーカイブ (maruhakualps.jp)には配置ずみですので、ぜひ〇博アーカイブでご覧ください。現時点で位置だけ示して写真が配置できていない場所が数か所ありますし、詳細な情報はまだまだ充実させている途中ですのでご了承ください。

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

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【写真】〇博アーカイブ 道祖神だけを表示した画面の例

※リンク先のサイトでは自動で動画再生した後に全てのデータが表示されますので、左側の検索アイコンで道祖神と入力していただければ道祖神開けが表示されます。

 道祖神さんは私たちに最も身近な存在と言える神様です。ただ、地域には、氏神様と呼ばれる神社のほか、お稲荷さんや秋葉さん、山の神さんなど多くの神様が祀られていますので、実は道祖神さんがどれか知らないという声も多く聞きます。また、道路の拡幅工事などに伴って石造物が移動していたり、神社境内に集められたりする事もあり、余計にわかりにくくなっているようです。
 ただ、道祖神さんを観察してみると、江戸時代の年号が刻まれているものや平成に修理したものまであり、移動しながらも、長い年月をかけて大切に受け継がれてきたことが伝わってきます。
 隣の地域の道祖神さんを気にすることもなかったでしょうから、このような情勢を機に、村人の幸せを守り、疫病や悪霊から守って来たご近所の神様を訪ねてみてはいかがでしょうか。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(3)

はじめに

 前回に引き続き、鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(以下ラヴィ)について少し掘り下げて観察をしていき、その意味合いなどについても考えていきたいと思います。第1回目では鋳物師屋遺跡のことを。前回は「円錐形をした土偶」という、形態的な特徴についてみてみました。
今回はもう少し踏み込んで細かな「部分」を観ていきたいと思います。その時に第1回でご紹介した細かい「時期」についての表現も出てきますので、今一度、土器から見た山梨県の土器「型式」についても確認しておきましょう。ちなみにラヴィが出土した57号住居の出土土器は「藤内式」の前半の様子を示していました。

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【図】山梨県における縄文時代中期の土器型式による区分け

 

ラヴィのお顔

 まず、顔の特徴から見ていきます。顔の輪郭は、南アルプス市にある櫛形山のような形で、おでこの上部に広がりは少ないです。下のあごのラインはほぼ水平、丸いおちょぼ口が若干下がっているので少しだけあごの表現があるように見えます。縄文時代中期でも、後の時代になるほど顎が下がってくる傾向があります。平面的な顔面に立体的なパーツが乗っかっている印象です。
 後頭部は割れていますが、環状に粘土紐がめぐって、前回ご紹介した「玉抱き三叉文」の装飾をした後頭部になっています。この後頭部の表現も縄文時代中期の前半に見られる特徴と言え、この後、ヘビのような装飾がついたり、髪を結ったようなリアルな表現になるなど、複雑な後頭部が目立ってくる傾向があります。
 同じ鋳物師屋遺跡に、土偶が装飾された土器がありますが、この土偶部分の頭部も玉抱き三叉文になっており、ラヴィよりもよりはっきりした典型的な玉抱き三叉文といえ、他の文様の特徴から考えても、ラヴィが出土した57号住居の土器よりも一段階古い「新道式」のものと考えられています。
 ラヴィの後頭部は、やはり3本指で有名な笛吹市の中丸遺跡の土偶の後頭部(東京国立博物館蔵)にも類似しています。この土偶は通称「ヤマネコ土偶」などと呼ばれるように、正面から見ると三叉文部分の粘土紐がネコ耳がついているように見えるのです。もしかしたらラヴィも後頭部が割れていなければ、ネコ耳のように見えた可能性もあり、そうすると大分印象が変わってきますよね。

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【図】ラヴィの後頭部と類似資料

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【写真】土偶装飾付き土器

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【写真】土偶装飾付き土器
 
 顔のパーツをみてみますと、吊り上がったアーモンド形の目や高い眉といずれも立体的に作られ、頬には弧状の刻み目が2列並んでいます。刺青や化粧を表現していると考えられ、これらは中部高地、特に八ヶ岳周辺地域で多くみられる顔立ちと言えます。ただ、口も立体的に丸く突き出している例はそれほど多くはありません。
 頬の刺青の表現とみられるラインは、似たような文様が同じ鋳物師屋遺跡の「人体文様付有孔鍔付土器」のかわいらしいお顔にも見てとれます。ただし違う点は、有孔鍔付土器の方は線で描かれていますが、ラヴィの方は先のとがったような工具で細かく突き刺したような痕が連続して線のように並んでいることがわかります。このような文様の付け方は「新道式」という時代の特徴と言え、有孔鍔付土器(「藤内式」)よりも一段階古い文様の特徴です。その反面胴体部分にある幅広な工具による文様は「藤内」式の特徴と言え、古い要素と新しい要素が混在していることがわかります。

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【写真】ラヴィのお顔

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【写真】人体文様付有孔鍔付土器のお顔
 
 細かいところを観察していくと、耳には耳飾り(ピアス)をしていたことがわかります。縄文時代中期の土偶には耳飾りが表現されたものもみられ、例えば先ほどご紹介した土偶装飾付土器の土偶にも左耳に耳飾りを模した表現がみとめられます。ただ、ラヴィには実際に孔があけられており、耳飾りがあったことを暗示した表現なのか、実際になにか別の部品が付けられていた可能性もあります。左耳は欠けていますが、ちょうど孔の部分で割れているので貫通している孔の様子を見ることができます。

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【写真】ラヴィの耳の孔

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【写真】土偶装飾付き土器の左耳
 
 そして目をよく観察すると赤く塗られていることがわかります。目のくぼんだ所が顕著で、赤色顔料は、分析の状況からは酸化鉄の類であることは言えます。しかし、全身に見られる赤い色味は上から塗られた物ではなく、粘土中の成分が赤く見えていることが分かっています。塗られていたわけではありませんが、赤くなる効果を狙って粘土が調合されていた可能性は残されています。よって、赤く塗られていたのは目だけといえます。このことについても、たまに全身が塗られていた可能性があるとする書籍もございますので、ここでお伝えしておきます。

 これまでラヴィの特徴を観察してきましたが、この特徴はいずれも、中部高地の縄文時代中期の特徴であることは確かで、さらに言うと、新道式という時代の特徴が多く残っていることから、新道式から藤内式への移行期に作られた土偶であると想像できます。

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【写真】目の中の赤色の様子

しぐさのある土偶

 顔だけでなく体の表面もよくご覧いただくと、何度も丁寧に磨いた痕や、胴体にも細かい文様などが施され、精緻に作り上げられていることがわかります。この土偶に対して強い思いが込められた様子がうかがえます。
 では、どのような思いが込められたのでしょう?
 この土偶「ラヴィ」の表面的な特徴ではなく、縄文人の内面を探ることは大変なことです。ただ、ラヴィは、そのしぐさが特徴的で、そこにヒントがありそうです。
 ほとんどの土偶が「手が短いやじろべえ」のような恰好をしていますが、中部高地周辺の縄文時代中期中頃を中心に、「しぐさ」や「動き」のある土偶が見られます。これらを「ポーズ土偶」と呼ぶことがありますが、これは「しぐさ」がある土偶のことです。以前東京国立博物館の「縄文展」では、解説は少なく「ポーズ土偶」とだけ表示されていたもので、ラヴィをご覧になった若いお客さんが「ほんとだ!モデル立ちしてポーズとっている」と感想を漏らしていました。決してそういうことではないのですが、誤解を与えてしまう表現ですよね。ですので、ここでは「しぐさ」のある土偶としておきます。
 左手は大きくふくらんだおなかに添えられ、右手は反り返った腰を押さえています。このような恰好がどのような姿を表しているのか、簡単に想像できるのは二通りでしょうか。一つは食べ過ぎておなか一杯の様子であり、もう一つはおなかの中に赤ちゃんがいる妊婦さんの様子です。
 この土偶だけでは判断はできませんし、してもいけませんので、他の土偶と比較検討してみましょう。
 実は時代も時期も限定されたこの「しぐさ」のある土偶、それほど多く出土していませんが、これらには共通点がみられます。
 釈迦堂遺跡(山梨県)にはまさに出産の瞬間(座産)の姿の土偶があり、宮田遺跡(東京都八王子市)には赤ちゃんを抱いて母乳を飲ませている姿、上山田貝塚(石川県)には赤ちゃんをおんぶして(あるいは抱っこして)左手で支えている姿などがあり、「しぐさ」のほとんどが「出産」や「子育て」、「命」などに共通していることがわかります。

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【図】上山田貝塚の土偶の実測図(2016『徳万頼成遺跡報告書』より)

 そのような目線であらためて観察してみると、乳房があり、その中央にはへそ(出臍)へとつながる正中線、そして大きく膨らんだおなかが垂れ下がったかのような表現があります。これは「対象弧刻文」と呼ばれ、土器には用いられない中部高地の中期の土偶特有の表現です。棚畑遺跡の縄文のヴィーナスのおなかの表現と同じで、ヴィーナスはおなかのふくらみを立体的に描いていますが、その後徐々に平面的に表現されていきます。ラヴィもだいぶ平面的になっていますが、後の時代の土偶になるとさらに平面的になり対象弧刻文も正中線もただの線で描くだけとなります。

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【図】縄文のヴィーナスとラヴィの対象弧刻文(1990『棚畑』 茅野市教育委員会より)
 
 ラヴィのおなかは空洞であることが分かっており、本来は中に鳴子が入っていたのかもしれないことは前回ご紹介した通りです。円錐形をした土偶では突出して大きく精緻に作られた土偶ですが、他の円錐形土偶と同じように、底面の中央部に孔が開いています。これはただの空気抜けの孔というよりも、赤ちゃんが顔を出す場所を表現しているように思えます。やはりおなかの空間は胎内を表しているのでしょう。
 

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【写真】ラヴィの底部
 
 ということは、ラヴィのしぐさは、お腹の中に新たな命を宿したお母さんの姿であり、まるで臨月を迎えた妊婦さんが腰を押さえながらおなかの赤ちゃんを慈しんでいる姿に思えるのです。現在の妊婦さんとまったく同じ姿に、縄文人へ親近感を抱きます。
 
 ただ、指が3本なのは親近感はわきません。我々と同じように見えても、これは人間ではなくあくまでも「偶像」ということを強調しているのかもしれません。同じ鋳物師屋遺跡の「人体文様付有孔鍔付土器」も3本指で、「ヤマネコ土偶」も3本指なのです。
 中部高地周辺では割とみられ、特に土器に描かれる場合、「カエル」を描いた土器に3本指が多く用いられることからカエルとみたてた時に3本指にするのではないかという研究もあります。カエルは沢山の卵から沢山の命が誕生し、そしてオタマジャクシから姿を変えて成長してゆくなど、縄文人はその姿に発展や成長、繁栄などを重ね合わせたのでしょうか。もしかしたら、鋳物師屋遺跡の縄文人もそのような考えで3本指にしたのかもしれません。妊婦姿の土偶という点からすると、願う先は同じように思えます。
 しぐさは愛情にあふれたような微笑ましいもののように見えますが、その反面、「命」に対して必死に繋いできた姿が見えてくるようです。

 

ラヴィの位置づけ

 中部高地周辺地域は土偶が最も多く出土している地域の一つです。前回お伝えしたように、特に縄文時代中期には、板状の土偶から立像土偶、または立体的な土偶への変遷がみてとれます。さらにしぐさや動作がある土偶、円錐形の土偶の展開などはまさに中部高地の特徴といえます。ラヴィも、円錐形の立体的な胴体に立体的な頭部がつき、さらに、妊婦さんを彷彿させるしぐさがありますよね。まさにこの地域の特徴を良く表している代表的な土偶といえます。
 ラヴィは、57号住居址の床面近くから出土し、割れはあるもののほぼ全身の姿がわかる状態を留めていました。これは、ラヴィが住居の中で用いられていたことを示している貴重な事例と言えます。先述したように、ラヴィの特徴からすると、縄文時代中期の藤内式という時代の中でも最初の段階、その前の新道式の特徴が色濃く見えますので、ちょうど新道式から藤内式へ移行する段階の土偶だと考えられます。そうすると、57号住居址の土器が藤内式の前半とみられますので、住居にあった土器よりも土偶の方が若干古い様相を示しているのです。この点はもう少し精査が必要ですが、もしかしたら、土偶がある程度長い時間「使われていた」可能性があるのです。これは、底の部分に擦れたような痕があることもそれを裏付けているように思えます。たとえば代々受け継がれたり、村の中で受け継いだりしたものなのかもしれません。そう考えるとますますラヴィへ込められた想いの強さが伝わってきますね。
 
 土偶も多様であって、必ずしも一つの目的のものではないと考えます。妊婦さんの姿や赤ちゃんの顔、動物の特徴などを借りながら、「何か」を表している「偶像」なのでしょう。例えばラヴィが「出産」を表しているのか、「豊穣」を表しているか、その両方かもしれないし、実は両方とも違うかもしれません。しかし、「しぐさ」のある土偶に見られるテーマがいずれも「出産」や「子育て」と言えますから、いずれにしても大きくくくれば「命」を象徴しているように思えます。おそらく現代人が考える一つの言葉では表せないのでしょうね。ラヴィを通して縄文人の思いを想像する楽しみが尽きません。

ラヴィの活躍

 ラヴィは、多くの書籍や、全国そして海外の博物館で紹介されるなど、まさに縄文文化を代表する存在として活躍しています。当然南アルプス市の歴史を語る上で欠かせないものですが、歴史に興味のない方にはまだまだ浸透できていません。そこで、歴史に興味がない方や様々な世代の方にも知っていただけ、誇りを持っていただけるよう市の文化財課では、市民のみなさんと連携しながら様々な工夫に取り組んでいます。

土偶に囲まれベビーマッサージ

 そのひとつとして、平成26年度よりふるさと文化伝承館の縄文展示室で「HONDAベイビーくらぶ」という取り組みを実施しています。子育て支援を推進する市内の企業さんと、子育て支援NPO法人さんとの協働で隔月で開催しているもので、ベイビーマッサージや縄文のお話しなど、命の象徴であるラヴィに見守られて親子で命を育む集いです。毎回受付開始後すぐに定員が埋まるほどの人気で、これまで200組以上が参加されています。ラヴィは子育て世代にはとても共感を得られやすいようです。

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【写真】ラヴィ越しに望むベイビーマッサージの様子

愛称の決定とキャラ展開

 「子宝の女神 ラヴィ」という愛称は、ふるさと文化伝承館で実物を見学された方を対象に平成25年26年と募集し、平成27年に決戦投票で決定したものです。「ラヴィ」はフランス語で「命」の意味です。同じ名前でキャラクターとしても展開をしていて、同年には土偶キャラ界の頂点を決める「全国どぐキャラ総選挙」で見事優勝、翌年には「ミュージアムキャラクターアワード2016」で全国2位に輝きました。これらはインターネット上での投票であり、SNSを利用する世代への周知に効果的でした。

ラヴィの胎内体験

 また、ラヴィの姿をしたエアードーム型の胎内体験ドームは、妊婦さんの姿をした土偶ですからということで、ラヴィのおなかの中に入って子供たちが笑顔で遊んでいるというシチュエーションがポイントです。子供たちがドームの壁にぶつかり壁が飛び出す様子が、お腹の中で赤ちゃんに蹴られた時のことを思い出すと話すお母さんもおり、思いがけない共感も生まれています。
 これらは、普段、歴史に触れる機会の少ない子育て世代や、小さなうちから知らず知らずのうちに地域の歴史に触れているという仕掛けで、興味の入り口として機会を作っています。楽しみながら縄文文化や歴史に触れられれば良いと考えています。

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【写真】ラヴィの着ぐるみ(左)と胎内体験ドーム

地域住民と縄文のコラボ

 地元南アルプス市小笠原にあるベーカリールーブルさんでは、ラヴィの顔をあしらっただけでなく、鋳物師屋遺跡の土器片の圧痕調査から判明した「ダイズ」「アズキ」「エゴマ」を具材にしたパンを販売しています。他のまちにはないオリジナルな資源として活用してくださっています。同じように、鹿皮に漆を用いている山梨の伝統工芸「甲州印伝」ともコラボしてラヴィ名刺入れを作りました。まさに縄文の組み合わせですからね。名刺交換の時からまちのPRを全開で行えます。
 行政の中でも活用されはじめ、住民票等をお渡しする際の封筒にも登場したり、健康増進課の少子化対策担当として市長から辞令ももらい、おむつ引換券や妊婦さんへの検診の通知にも登場しています。
 その他、遺跡の存在する下市之瀬区の高齢者サロンのボランティアグループが「ラヴィの会」と名付け、揃いのTシャツで活動したり、地元小学生が自ら鋳物師屋遺跡のことを調べ、動画で配信するなど、地域の誇りとして定着しつつあります。

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【写真】店頭に並ぶラヴィちゃんパン

メッセージ~まとめにかえて

 海外展に7回、縄文を扱う書籍には必ずと言ってよいほど登場する「子宝の女神ラヴィ」は中部高地地域の土偶の特徴を兼ね備え、明らかに縄文文化を代表する土偶の一つです。その造形や精緻さだけでなく、縄文人の精神分野を垣間見ることができる独特の姿やしぐさで注目されています。何よりも、その姿が命の根源に関わる姿をイメージさせることが、観た方の心を掴んで離さないのではないでしょうか。愛情に溢れているようなしぐさにも見え、親近感のわく存在と言えますが、実は必死に命を繋いできた縄文人の思いが込められた姿なのかもしれません。
 同じ鋳物師屋遺跡には表面に土偶レリーフが貼り付いた有孔鍔付土器(重文)など、日本を代表する優品が揃っています。コロナ禍にありなかなか移動のできない昨今ですが、移動できるようになりましたら、ふるさと文化伝承館にぜひお越しいただき、「命」のメッセージを受け取ってください。素敵な未来を紡げますように。

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【写真】鋳物師屋遺跡出土 円錐形土偶「子宝の女神 ラヴィ」

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」(2)

はじめに

 前号より、南アルプス市下市之瀬にある鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」について、これまで紹介してきた内容を一歩進め、ふるさと文化伝承館で実際に受けた質問などへの答えも含めながら、一体どのような遺跡・土偶なのか、深掘りして連続でご紹介しています。
 前号では、まず鋳物師屋遺跡について。今号はいよいよ土偶本体についてみていきたいと思います。年代観などマニアックな部分も含みますので、ぜひ、前回の記事も合わせてご確認ください。


土偶って

 土偶とは、主に縄文時代に粘土で作られ焼き上げられた人形であり偶像のことですが、これまでにおよそ20,000点ほど発見されているとされます。
 土偶の「用途」や「目的」を解き明かすことは究極の課題なのかもしれません。それは、実際に出土する土偶も形や発見時の姿などが多様であるからで、「土偶」とひとくくりで呼んでいても、用途や目的は必ずしも一つのものではないと考えられます。例えば、故意に壊されたように見える出土例が多いことから祭祀等で用いられたものでないかとか、体の具合の悪いところの回復を願ったものと考えられたり、女性の妊娠や出産を表現したものも多く、安産などを祈ったものか、また女神や精霊、命の再生、お守りや玩具、さらにはバラバラにされているものも多くそれらを大地に蒔くことで豊穣を祈った(ハイヌウェレ系の神話)という説など、まさに多様です。
 実際、出土する土偶のほとんどは動作などのしぐさは無く、「腕の短いやじろべえ」といた印象のものが多く、さらに、バラバラになって体の一部分のみ出土するというケースがほとんどです。体の一部であればほんの数センチ、全身に近くても10~15センチメートル前後のものがほとんどといえます。


「ラヴィ」は竪穴住居の床面直上から出土した

 前回の最後の段落でご紹介したように、「子宝の女神 ラヴィ」は、左肩と後頭部の一部を除いてほぼ全てが揃っていて、通常知られる土偶の出土状態と違い、バラバラではない状態で見つかりました。折れはありましたし欠損箇所もありますので、あえて「バラバラではない」と表現しています。よく誤解されますが決して完形で出土したわけではありません。また、住居の床面で見つかったということも特徴的で、長野県などで見つかるような、お墓に伴うものとは性格が違うようです。
 多様な土偶がある中で、この土偶がどのような土偶なのか、そのヒントを探すために、まずは土偶をよく観察してみたいと思います。その上で他の土偶と比較検討していきましょう。ひとつだけで検討してもあまり意味はなく、他の出土遺物と比較検討する中で共通点と相違点を整理していくと、この土偶の性格がみえてくるものと考えます。

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【写真】「小宝の女神 ラヴィ」の発見状況 住居の床面から出土した

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【図】57号住居の遺物出土状況図 1が「子宝の女神 ラヴィ」


ラヴィを観察する

 この土偶からさらなる情報を見つけようと、人間ドックならぬ「土偶ドック」も始めていますので、そのあたりも含めてラヴィの特徴をみてみましょう。
 土偶の身長は山梨県内の土偶では最大の25.5㎝で、全国でも縄文時代中期の土偶でトップ10に入るほどの背の高い土偶です(縄文時代晩期になると東北地方を中心に30㎝越えの土偶が沢山作られます)。底面は長径15㎝×短径13.4㎝の正円形に近い円形で、円錐形をした大きな胴部は安定していて自立します。人形で考えれば、元々脚のない腰から上だけを表現している土偶といえます。考古学では共通する特徴ごとに分類をしていますが、このような胴体部分が円錐状の姿形をした仲間を「円錐形土偶」と呼ぶことがあります。

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【写真】ラヴィの正面および側面と背面

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【写真】ラヴィの正面および側面と背面
 

円錐形土偶

 20,000点ほどもある土偶も、その時代と地域による特徴から、その変遷や変化を読み取ることができます。最初は体のラインを強調した女性のトルソー像(腕などを省略した胴体)から始まり、板状の土偶、そして、縄文時代中期頃になると北陸や中部高地地域を中心に、顔の表現が具体化し、さらに立体的な表現や、自立する立像、頭部も立体的になるなどの変化が見られます。「円錐形土偶」はまさにその立体的かつ安定して自立する像として登場してきます。
 「円錐形土偶」は全国でも出土例は少なく、全身が残っているものは10点もありません。頭部が無くても円錐形をした胴体と判別できるものまで広げても20点程度です。すでにこの形をした土偶自体が非常に珍しい貴重なものと言えます。その中でも鋳物師屋遺跡の円錐形土偶は最大で且つ最も精緻な作りをしています。

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【図】全国の主な円錐形土偶(1996小野「ポーズ土偶」より作成)

 「円錐形土偶」は、ほとんどが下腹部より上の上半身を表現し(一部に円錐部分の下の方に脚の表現が描かれているように見えるものもあります)、胴体部分が円錐状の形状をしているもので、その内部が中空であることが共通します。内部が中実で円錐形に見えるものもありますが、その場合は本来は脚が付いていたのに外れてしまった例がほとんどです。円錐形土偶のすべてが縄文時代中期のもので、中部高地地域を中心とした北陸から関東までの遺跡からしか発見されていません。縄文時代の後期になると似たような土偶でもっと胴体が筒状の土偶が登場しますが(「筒形土偶」と呼びます)、大きな違いは中期の円錐形土偶には腕や正中線などの表現が立体的にあり上半身の表現が具体的にされていることが多いのに対し、筒形土偶は筒状の上に平面的な顔が乗っかるだけです。大きく異なったものと言えます。そのような特殊な「円錐形土偶」の中で、特に鋳物師屋遺跡の円錐形土偶は最も大きく、腕の表現などが立体的になり、精緻なつくりとなっており、円錐形土偶の中で最も成熟された頂点にいる土偶と言えるのです。

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【図】主な円錐形土偶の中空構造(2016『徳万頼成遺跡』・1996小野「ポーズ土偶とその周辺」・1996今福「中期前半山梨県の様相」より作成)
 
 円錐形をしたおなかの内部は胸の下までが空洞です。まれに頭の空間までおなかから首まで空洞が一続きになっていると解説されている書籍がありますが、それは間違いで、胸から首にかけては中実のつくりになっています。さらに両脇と底面の中央に円い孔が開けられています。中空なので焼成時の破裂防止として必要な孔ですが、両脇の孔は、この頃の土器や土偶にもよく用いられた文様で楔形の図形と丸を組み合わせた「玉抱き三叉文」という文様の丸の部分を使って孔が開けられています。ちなみに、「玉抱き三叉文」は頭の後頭部にも使われていて、この後頭部のつくりは縄文時代中期でも前半に作られた土偶の特徴と言えます。
 「円錐形土偶」は全て底部の中央に孔が開いていて、本来は内部に鳴子が入った土鈴のような「鳴る土偶」だったと考えられています。実際に東京都八王子市楢原遺跡の土偶には内部に入ったまま出土しました。なんだかお腹の中の赤ちゃんをあらわしているようにも思えます。

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【図】ラヴィ実測図

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【写真】頭部内面の画像 首の部分はふさがっていることが分かる

 
おなかの中

 内視鏡やCTスキャンの画像では、ラヴィの内部に鳴子は残っていませんでした。土玉であれば割れて孔から出てしまったかもしれませんし、豆などの有機物を入れて鳴らしたという考え方もあります。
 内視鏡では、粘土紐を積み上げた際の輪積みの痕がはっきりとみえ、内面はほとんど調整をしていないことがわかりました。本来土器づくりでは、表面も内面も粘土紐の重なりを丁寧に撫でて平滑にしなければ良い土器になりませんが、この土偶は薄いところでは約2㎜しか粘土紐同士が接していないほど内面は全く手つかず状態でした。
 3か所の孔はいずれも外側から棒状工具で突き刺して開けており、やはり内面は整えられておらず、底部から積み上げ、円錐部分が閉じた後に孔を開けたものと考えられます。空洞の天井部は粘土紐を寄せてふさぎ、その上に胸より上の部分を乗せている様子がわかりました。
 他の円錐形土偶よりも上部が薄く、上部のつくりはむしろ当該地域で見られる立像の土偶と似たような印象です。また、通常の立像土偶は腕が短いのですが、CT画像によると短い腕の上に長い腕を足して胴体と繋いでいるように見えます。さらに、円錐形の胴部から離れて宙に浮く立体的な腕の表現は、円錐形土偶の中では他に例はありません。

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【写真】ラヴィのCT画像

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【写真】内部の様子 写真上が上部で、輪積みの様子や上部が紐を寄せて閉じられている様子が分かる

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【写真】内部の様子 脇の孔の内面 押し出された粘土が其のままになっていることが分かる

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【写真】内部の様子 底面の孔の内面 押し出された粘土が其のままになっていることが分かる

 まずはラヴィの最も大きな特徴である円錐形の胴体についてみてみました。内面とはうってかわって表面の丁寧な仕上げや、細かい文様、また顔や指などの細部にまで、この土偶ならではの特徴が見てとれます。次回はそのような細部まで観察していき、この特殊な土偶の性格を浮き彫りしていきたいと思います。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」

はじめに

 10月末までインターネットを利用した投票イベント「縄文ドキドキ総選挙2020」が開催されました。
南アルプス市鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」もエントリーされ、国宝土偶「縄文のビーナス」との一騎打ち状態で優勝争いを続け、見事準優勝となりました。優勝は「縄文のビーナス」(長野県茅野市)で2191票、準優勝「子宝の女神ラヴィ」(南アルプス市)は1844票、第3位「ミス石之坪」(韮崎市)は568票でした。
 全国から30点がエントリーされた中で、なんとトップ3を「中部高地」地域と呼ばれる山梨県と長野県の土偶が占めたのでした。「中部高地」地域は、黒曜石の原産地もあり、また縄文時代中期(約5500年前~4500年前)に独特な文化を育み、全国でも有数の縄文遺跡の存在が知られる地域と言えます。縄文時代中期には、立体的な装飾や神話的な物語性のある土器が作られるなどの独特の世界観を示していることも大きな特徴で、最近ではそれらに位置する遺跡や遺物をまとめて日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に認定されたことでも知られます。土偶についてもまさにその通りで、中期には、立像土偶やさまざまなしぐさのある土偶などにみられるように、縄文時代の中でもひとつの盛行期を成していたと考えられます。

 「子宝の女神 ラヴィ」の愛称で親しまれているこの土偶は、南アルプス市鋳物師屋遺跡の出土で、円錐形の体を持ち独特なしぐさをしています。普段は「南アルプス市ふるさと文化伝承館」で会うことができますが、一昨年はパリの「縄文展」にも貸し出されていました。
 平成5年の調査終了後、平成7年に国の重要文化財に指定され、その後、その年のイタリアを皮切りに、マレーシア、イギリス(2回)、韓国、カナダへ貸し出されるなど海外の博物館でグローバルに活躍している、まさに縄文文化の「顔」役な土偶と言えます。
 今回からは、数回に分けて、そのように国内外で活躍する鋳物師屋遺跡とその土偶について、これまで紹介してきた内容を一歩進め、ふるさと文化伝承館で実際に受けた質問などへの答えも含めながら、一体どのような遺跡・土偶なのか、深掘りして紐解いていきたいと思います。

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【写真】土偶「子宝の女神 ラヴィ」
 
まずは「鋳物師屋遺跡」について

 鋳物師屋遺跡は山梨県南アルプス市の下市之瀬地区にあり、甲府盆地の西縁、櫛形山麓の市之瀬台地の下に広がる扇状地に立地する遺跡です。標高は約280~290mを測り、現在は漆川と市之瀬川とに挟まれた範囲に位置します。
 鋳物師屋遺跡は平成4年から5年にかけて、工業団地の造成計画に伴って発掘調査が行われました。実はこの工業団地造成に伴って主に3期に分けて工事が計画され、それぞれで発掘調査が行われたため、それらを総称して「鋳物師屋遺跡群」と呼ぶことがあります。以下の通りです。

(1) 〆木遺跡(昭和61年)約6600㎡
工業団地の第1期造成工事範囲の調査。縄文時代中期の住居址4軒、小竪穴以降2基、土壙(土坑)等と、平安時代前期の住居址33軒等を発見。
(2) 川上道下遺跡(平成2年)約2000㎡
縄文時代の小穴と、平安時代住居址16軒を発見。
(3) 鋳物師屋遺跡(平成4~5年)約13000㎡
縄文時代中期の住居址27軒、土坑、小穴等多数と、平安時代前期の住居址114軒等を発見。

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【図】調査された遺跡の範囲

 遺跡の名称は、通常は畑などで拾える遺物などから、それらが集中する範囲をひとくくりにし、便宜上その土地の字(あざ)名等を遺跡名に付けますので、今回の範囲もそれぞれ違う名前が付けられていました。しかし、発掘調査によって発見された昔の集落の範囲はそれらの遺跡をまたいで存在していることが判明しています。よって、先述した重要文化財に指定された資料の中には、〆木遺跡の出土品も含まれているのです。よく問い合わせで、「鋳物師屋遺跡」の発掘調査報告書で見つけられない土器や土偶があるというのはそのためで、「〆木遺跡」の報告書に掲載されているのです。

 鋳物師屋遺跡(群)は平安時代にも集落が営まれているなど複数の時代を併せ持つ遺跡ではありますが、縄文時代で言うと縄文時代中期の前半から中葉にかけてと(縄文時代の研究でいうところの「新道式期」と「藤内式期」という時代区分を中心とした)わりと限定された期間のみ存続した集落遺跡といえます。年代で言うと今から約5千数百年前から5000年前くらいに営まれたものと考えられます。

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【図】山梨県における縄文時代中期の主な土器型式による区分け

 縄文時代の住居址は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡のみに限定され、31軒以上確認されています(遺跡内には住居址とみられる遺構も存在し、その遺構の扱いをどう考えるかによって軒数の考え方が変わります。過去には軒数を32軒と表示したこともありますが、ここでは、地面からの掘り込みや床が造られているなど、はっきりと住居と認定できた最低限の数として31軒以上としておきます)。

 31軒の住居は、発見された土器の特徴から、およそ7つの時期に分けることができます。その時期ごとに住居を当てはめていくと、一つの時期に同時に存在していた住居は3軒から5軒程度ということがわかりました。つまり、ムラの風景としては3軒から5軒の住居が建っているもので、建て替えや移転を繰り返す中で、最終的に31軒の住居の痕跡が地面に刻まれていたということになります。

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【図】鋳物師屋遺跡群の遺構分布の様子

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【図】時代ごとの住居の変遷の様子(住居の床面積の広さに応じて便宜的に6段階の丸の大きさで表している)

 31軒の住居址からは沢山の土器や石器の他に、土偶や土偶装飾付土器などマジカルな資料も多く出土しています。全国で2番目の土偶多産県である山梨県内の遺跡としては突出して多いというわけではありませんが、眼球のある土偶や顔をつぶされた土偶、サル型の土製品に、国宝「縄文のビーナス(茅野市棚畑遺跡)」のコピー土偶、さらには土偶装飾が前面に貼り付いた「人体文様付き有孔鍔付き土器」など、キャラクターの濃い優品が揃っているのが特徴といえます。
 また、もう一つの特徴があります。この集落は市之瀬台地の直下にあり、河川に挟まれた立地ということもあって、縄文時代の集落の跡は土石流とみられる土壌で覆われた状態で現在まで残されていました。礫を多く含んだ土壌でパックされていたため、近世以降の耕作行為でも壊されずに済んだと考えられます。そのため、通常遺跡で見られるように土器片等バラバラで見られるのが通常ですが、壊されずにまるまる形が残ったまま発見されました。つまり土中での保存状態が非常に良かったのです。
 そのため205点も一括で重要文化財に指定されています。中でもこの土偶「子宝の女神 ラヴィ(以下ラヴィ)」は遺存状態も良く作りも丁寧で、その頂点にいる土偶です。

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【写真】「人体文様付有孔鍔付土器(じんたいもんようつきゆうこうつばつきどき)」

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【写真】左から眼球のある土偶(〆木遺跡)、サル形土製品、顔をつぶされた土偶、縄文のビーナスのコピー土偶
 

「ラヴィ」は竪穴住居の床面付近から出土した

 「ラヴィ」は、57号住居址の床面近くから発見され、ほとんど全体が残っていた大型の土偶です。
 左肩と後頭部の一部を除いてほぼ全てが揃っていて、通常知られる土偶の出土状態と違い、バラバラではない状態で見つかりました。また、住居の床面で見つかったということも特徴的で、長野県などで発見された国宝土偶のように、お墓に伴うものとは性格が違うようです。
 住居から発見されたということは、土偶の中には、住居の中で使われるものがあるということを教えてくれます。置きものでしょうか?たとえばその住居に住んでいた方が作った土偶でしょうか?それとももっと前に作られて代々受け継がれてきたものだったりはしないのでしょうか?「ラヴィ」に関わる疑問は尽きませんね。

 そのヒントを探すために、次回、この土偶をまずはよく観察し、他の土偶と比較検討していきたいと思います。よく観察すると、この土偶は情報の宝庫であることがわかってくるのです。

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【写真】「子宝の女神 ラヴィ」の出土状況

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

開削350年 徳島堰(2)

 前号に引き続き、完成して今年で350年の「徳島堰」についてご紹介いたします。
 今回は、この堰を作るきっかけとなった徳島兵左衛門の計画や、実際の工事に見られる特徴、工事に立ちはだかった難敵についてと、またよく耳にする徳島堰で舟運が計画されたという点についても、事実かどうか技術面と併せてみていきたいと思います。

 

徳島兵左衛門の計画

 徳島兵左衛門と徳島堰の開削については、これまで諸説が伝わり、通常は以下のようにまとめることができます。
 徳島兵左衛門が釜無川右岸の水利が乏しく広大な荒れ地が存在することを知ったことで、自身の発願により、甲府藩の許可のもと工事を実施したもので、上円井と鰍沢を結び、付近の芝地を開発し、且つ富士川の舟運を上円井まで遡上しようと計画したが、道半ばにおいて不遇の内に新田堰を藩主徳川綱重へ差出し、いずれかへ立ち去ったという内容です。
 最近では、工事が兵左衛門による発願ではなく甲府藩からの委託だとする説もありますが、いずれにしろ兵左衛門は、御勅使川の水量では御勅使川扇状地一帯に水を行き渡らせることができないと考え、韮崎市円野町上円井から釜無川の水を引くこととしています。

 

 取水口から最終地点の曲輪田新田までの17kmは、遠方まで水を届けるために緩やかな勾配で山裾を地形に沿ったルートを取っています。その分、西の山々からは何本もの川が流れ下っており、徳島堰を造るにあたって最大の悩みの種は、これらの川の存在でした。これらの川をいかに横切らせるかと、川が運び込む土砂の対策でした。

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)

 

 堰が川を渡る方法は主に三種の方法が採用されました。「埋樋(うめどい)」、「掛樋(かけどい)」、「請込(うけこみ)」と呼ばれるものです。多くの川では川の下に木製の箱樋(はこどい)を埋め、トンネル(埋樋・暗きょ)にして水を流しました。他には川の上を木製の樋を橋のように渡して横断する方法(掛樋)や、後世になると山から流れ下る川の水をせき止めて徳島堰の水と一緒に堰に流す方法(請込)などが用いられました。しかし、請込の場合、山から絶えず土砂が運び込まれ堰へ流入してしまうため、請込のすぐ下流に土砂の排出口を設け、常に人力で排出する作業が必要でした。
 そのため、川を横切る方法として優先すべきは、川と堰とを立体的に交差させ、水や土砂が交わらないようにすることでした。ただし、山から流れ出る川は土砂を運び込むため、河床が高くなていきます(天井川化)。そのため、当初は、川の方が低いところを流れていた「掛樋」の場所が、数年後に河床があがったことで「請込」になり、さらにその後「埋樋」に変わってゆくというように、時間の経過につれて横切る方法も見直さなければいけませんでした。
 

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた埋樋(下円井村入戸野村境)

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた掛樋(上条北割村)

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた請込(寺沢請込)

 ルート上、旧折居村の山吹沢など四箇所の大難場があったと言われますが、中でも最大の難所が御勅使川でした。御勅使川は川幅が六〇〇メートルもあり、天下の暴れ川として知られる河川です。兵左衛門が御勅使川を横断する最初の方法として採用したのが「板せき」と呼ばれる工法で、御勅使川の水を板を並べてせき止め、徳島堰の水と合流させて堰に流すという方法です。板せきは、徳島堰と御勅使川の河床が同じ高さであったことがうかがえますが、それから四十年あまりの間に御勅使川の河床が上がったため、埋樋に変えられ現在のように暗きょとして川の下を横断したものと考えられます。

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【写真】御勅使川暗渠入口(韮崎市側)

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【写真】御勅使川暗渠出口(南アルプス市側)

 『徳島堰根源記』という記録には、江戸から連れてこられた技術者と考えられる人々の名前が見られます。大強力富野喜兵衛、大工頭中野作衛門、力者頭富野長兵衛などは専門技術者とみられ、起伏に富んだ地形に合わせ一定の勾配を保つ測量の技術と、これらの川を横断する高い土木技術は江戸から導入されたものと考えられます。これらの技術と、地元の人々の力によって通水が成功するのです。
 現在ふるさと文化伝承館で開催されているテーマ展「開削350年 徳島堰」には、富野長兵衛氏の末裔の方が見学に来られ、通水後も上円井に残り、その後の堰の管理などに携わっていたこともわかりました。

 

舟運計画は本当か

 徳島堰は耕作面積を増やす目的の他に、舟運の構想があったとされます。
 昭和34年に刊行された「徳島堰誌」(三枝善右衛門編)には「主目的は、上円井から鰍沢迄、幅2間、長さ7里余の運河開鑿の計画であった」とあり、またそれより前、文化4年に作成された「徳島堰由来書」には、当初は用水路の開削のみでなく「上円井村地内より釜無川を引き入れ、同州鰍沢迄里数七里の間用水引き通し、右堰筋通船致すに及び、信州より、、、、」とあります。
 実際のところ、着工する前年の寛文4年に兵左衛門が上円井の諏訪神社神主に宛てた証文中に「此度、巨摩郡上円井村より同郡鰍沢迄、巾弐間、長七里余新田堰堀渡し祈願に付、、、」とあるので、この証文の文言を引用したものと考えられ、確かに構想段階では、兵左衛門は用水路の終着点を鰍沢にしていたと考えられます。
 鰍沢は、十七世紀初頭に整備された富士川舟運における甲斐国の最大拠点でもありますから、兵左衛門は新たな水路と舟運との接続を想定していた可能性は高いでしょう。しかし、証文中にそのような言葉は無く、先述した由来書などを作成するにあたり、その可能性の部分が補足され、主な目的として語り継がれることになったものと考えられます。

 

 現実的には、先ほど紹介したように、ルート上には掛樋や埋樋などを二十箇所以上設置しなければならず、また、舟を通すには勾配が急すぎて舟を通すだけの水丈を確保出来ないことなどから、そもそも不可能といえます。
 徳島堰のルートは、先述した通り、緩やかな勾配を取ることでなるべく長距離先に水を運ぶよう設計されていますが、上円井から曲輪田新田までの距離約17kmで落差は約50mほどとなります。1mにつき約3㎜の勾配と言え平均勾配は約340分の1です。
 もし鰍沢まで通水した場合、曲輪田新田の標高が約400m、鰍沢の標高が約250m弱で、距離が約10kmですので、平均勾配はさらに急な約70分の1となります。
 通常、船を動かすための運河は、流速が遅く水深が確保できる1000分の1以下の勾配が望ましいそうです。ということは、現在完成している部分でさえも勾配はその3倍の急こう配といえ、鰍沢までとなると、そもそも船を通すことは不可能な斜面地といえます。
 それでも船を通す場合、水路部分の勾配は緩やかにしておいて各所に段差を作り、水位調整のための閘門(こうもん)を取り付けることとなります。江戸時代にも閘門の技術は生まれる(徳島堰よりも約60年後に見沼代用水において日本初の閘門が設置される)徳島堰でそれを行おうとすると何十か所と必要となるため、現実的とは言えません。
 ちなみに、昭和40年代から改修された現在の徳島堰の勾配は、約1000分の1といいます。そのかわり、ルート内に45か所以上の段差工が設けられているのです。

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【写真】段差工の様子

 


 実際に設計をすれば、急勾配の問題と、山から流下する河川を渡る問題がすぐに判明するわけで、兵左衛門も、早い段階で鰍沢までの通水プランをやめ、予定よりも水路の幅も狭め、用水路目的の一本に絞ったとみられます。

 

矢崎家が受け継ぐ

 寛文七年、兵左衛門の後、事業を引き継いだ甲府藩より堰の復旧工事を命じられたのが、武田氏旧臣を出自とする有野村の矢崎又右衛門とその父佐治右衛門でした。矢崎父子はまず数ヶ月かけて測量・設計を行ったのちに復旧工事に着手しますが、工事開始早々の寛文8年5月には立て続けに三度も水害に見舞われ、釜無川の取水口や御勅使川の板せきなど各所に被害が発生します。徳島堰と交差する巨摩山地から流れ出る川の数々は、たびたび多くの土砂を含んだ洪水を起こし、堰を破壊してしまいます。そのため、埋樋のように川と堰とを立体的に交差させて対策するのですが、一筋縄では進められなかったようです。その後も損壊と修復とを繰り返し、寛文10年(1670)に完成へと漕ぎ着けるのです。
 それがちょうど今から350年前のことであり、その後も改良に改良を加え、現在まで、南アルプス市の暮らしを支え続けているのです。

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 【写真】「開削350年 徳島堰」のチラシ

 

<参考文献>
「徳島堰誌」1959
「続 徳島堰誌」徳島堰土地改良区 2018

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

開削350年 徳島堰(1)

フルーツ王国・南アルプス市

 すももの収穫量山梨1位・全国1位、サクランボの収穫量山梨1位・全国7位、ぶどうの収穫量山梨4位・全国5位、モモの収穫量山梨4位・全国7位、キウイの収穫量山梨1位・全国17位、カキの収穫量山梨1位・全国23位、ウメの収穫量山梨1位・全国16位、、、などなど、これは南アルプス市の果樹の収穫量であり、まさに南アルプス市は果樹王国といえます(データは少し前のものです)。

 果樹栽培の主な舞台となる御勅使川扇状地は、現在の市域北部を流れる御勅使川が、山々を削り、運んだ土砂が長い年月をかけて堆積して造り出された、南北約10km、東西約7.5kmに及ぶ広大な土地です。御勅使川が運ぶ土砂 は砂礫(れき)が多く含まれているため、透水性が大きく、昭和四十年代にスプリンクラーが設置されるまで、月夜の弱い光でさえ日照りをおこすと言われた、国内でも有数の乾燥地帯でした。水害が多発する一方で、広大な範囲に御勅使川が運んだ砂礫が厚く堆積しているため、透水性が大きく、水を得ることが困難なのです。そのため、水の獲得は扇状地(原方)に暮らす人々にとっての再優先課題でした。こうした過酷な環境を切り開き、土地の特徴を生かした独特な文化を育みながら、現在の果樹栽培へと暮らしをつないできたのです。

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【写真】御勅使川扇状地周辺の地形

徳島堰 三五〇年

 これまでにも、その過酷な環境を乗り越えるべく扇状地に暮らす知恵やその変遷についてご紹介してきましたが、中でも大きな画期となったのが「徳島堰」の開削と言えるでしょう。完成して今年でちょうど350年を迎えましたので、南アルプス市ふるさと文化伝承館では350年を記念して、テーマ展示「開削350年 徳島堰」を開催しております。そのようなタイミングに合わせて、ふるさとメールでも何回かに渡って徳島堰についてご紹介していきます。今回はまずその概観から。

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【写真】テーマ展示「開削350年 徳島堰」のチラシ(表・裏)

 御勅使川は、その透水性から元々水量が少ない上に、夏になると上流部で水田に水を使うため、その水を扇状地全体に広く行き渡らせることはできません。そのため、徳島堰は、御勅使川ではなく、釡無川の上円井(韮崎市)から取水してい ます。 寛文五年(一六六五)、江戸深川の町人徳島兵左衛門が工事に着手し、二年後の寛文七年には曲輪田まで通水したと言われます。その距離約十七km。しかし、同じ年に起きた二度の大雨のため堰の大部分が 埋没したと言われます。これを機に兵左衛門は事業を断念し、この地を離れてしまいます。

 事業を引き継いだ甲府藩の甲府城代戸田周防守は、家臣の津田伝右衛門と有野村の矢崎又右衛門に堰の改修を命じました。矢崎又右衛門は私財を投じてこの復旧工事に取り組み、ちょうど今から三五〇年前の寛文十年(一六七〇)、ついに完成させ、翌年藩に引き渡されました。当時の文書からは、当初は「西郡新田堰」と記されていることがわかりますが、後に「徳島堰」と呼ばれるようになります。

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【写真】江戸時代の前期に建築されたとみられる矢崎家住宅(市指定文化財)

 堰が完成したことにより、堰にほど近い村では畑が水田に変わり、多くの村々で新たに水田が拓かれました。六科村や有野村などでは石高が増加し、飯野新田や曲輪田新田などの新しい村もできました。

 しかし、この堰ができても水田を営むまでの十分な水が供給できなかったのが原七郷(上八田、在家塚、西野、桃園、上今井、吉田(沢登・十五所も含む)、小笠原)と呼ばれる地域で、農業はおろか、飲み水にも困る生活をしていました。古くから地元でいわれてきた「原七郷はお月夜でも焼ける」の言葉は、月の弱い光でも乾燥してしまうほど水の乏しい土地ということを表しています。

 ただし、在家塚の一部では通水に成功して水田が営まれたり、その他の地域でも、徳島堰の水が溜池に通水されて貴重な生活用水として利用されたり、さらには、堰から地下へ浸み込んだ水が伏流水となって、御勅使川扇状地扇端部の村々の井戸水としての貴重な水源にもなったのです。


徳島堰が育んだ「暮らしの風景」

 このように、徳島堰は、直接的・間接的に扇状地に多大な恩恵をもたらしました。 それだけではありません。徳島堰は生活の一部でもありました。

 堰にほど近い地域では、夏は堰で泳ぎを覚え、冬はスケートを覚えたというお話も多く耳にします。また、お風呂の水として利用したり、洗い場(「つけえ場」)として利用したりと暮らしに欠かせない存在でした。この徳島堰を舞台に様々な「暮らしの風景」が生まれ、文化が育まれており、地域の方の記憶に刻まれているのです。

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【写真】今も残る「つけえ場」(韮崎市)

 ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村博士は韮崎市の出身である事は知られているところですが、ご生家は旭地区の徳島堰沿いにありました。現在、大村美術館がある付近です。博士はご自身の著書で、幼少期を振り返る記述の中で度々徳島堰について触れています。著書「人間の旬」では「泳ぐことについては、生家の近くを流れる徳島堰の急流で上級生に鍛えられていたので、静かで自然に体が浮く海での泳ぎは楽であった」とあったり、「ストックホルムへの廻り道」には、「夏の楽しみとしてよく、夕飯を済ませてからカンテラと銛を持って父のあとを追い、田んぼに水を引く堰のウナギを捕まえに行った。(中略)私の好奇心を大いにかきたててくれたものである」とあります。徳島堰での暮らしが博士のその後の研究に影響を及ぼしたかもしれないと考えると感慨深いものがあります。

 徳島堰は、石等で一部護岸されただけの素掘りの水路でしたので、様々な生物もおり、豊かな水辺の風景もありました。まさに大村博士の記憶の風景と同じでしょう。しかし素掘りの水路は水が浸透・漏水しやすい欠点もあり、扇状地の水不足を根本から解消するには至らず、水争いも戦後まで絶えませんでした。

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【写真】石積みの頃の徳島堰

 昭和41年(1966年)から、釡無川右岸の土地改良事業が着手され、徳島堰のコンクリート化が始まります。安定した水量を確保できるとともに、昭和49年にはその水を利用したスプリンクラーが扇状地全体に張り巡らされ、扇状地全体の灌漑(かんがい)化も一気に進むことになります。

 現在ではスプリンクラーを通じて散水された徳島堰の水が、サクランボやスモモ、モモ、ブドウといった南アルプス市を代表するフルーツを育んでいます。

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【写真】最初に設置されたスプリンクラーヘッド アメリカのレインバード社製のもので、昭和20年代から飯野地域で実験的に導入されている

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【写真】南アルプス市内の扇状地全体に張りめぐらされたスプリンクラーと畑管の配置図。赤い丸印がスプリンクラーの位置を示している

 350年前に先人たちの人力によって完成された徳島堰が、今の南アルプス市のフルーツ産業を支えています。言わば南アルプス市の血管のように市内各地に行き渡り、活力をもたらしている存在と言えるのです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】