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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

桝形堤防史跡整備の歩み
その1~水の世紀を生きる道標~

「水の世紀」を生きる

 「If the wars of this century (20th) were fought over oil, the wars of the next century (21th) will be fought over water.」
 「20世紀の戦争が石油をめぐるものであったとすれば、21世紀の戦争は水をめぐるものであろう。」
 この言葉は1995年、世界銀行副総裁であったイスマル・セラゲルディン氏が、21世紀は水資源が不足し、それによって紛争が起きることを予想したものです。

 残念ながらその言葉通り21世紀は水との関わり方を深く考えなければならい時代となりました。世界人口は2022年11月には80億人を突破する見通しの中、気候変動による干ばつが世界中で増加し水不足が深刻化しており、地域間の争いや紛争がさらに増えることが予想されています。その一方局所的な集中豪雨や台風の巨大化も増加しています。今年の9月、パキスタンの国土1/3が水没するという未曾有の水害に襲われたことも衝撃的なニュースでした。

 深刻な水不足と頻発する洪水。国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)でも解決目標とされている水の問題は、南アルプス市内では実感の湧かない方が多いかもしれません。しかし、干ばつと洪水はかつて南アルプス市域で日常的に起こっていた現象で、いかに洪水を防ぎ、いかに水を引いて豊かな土地とするのか、そのため思考錯誤してきた人々の営みが南アルプス市域の歴史だったと言っても過言ではありません。現代の水問題を考える道標は、足元の歴史に眠っているのです。その道標の一つ、桝形堤防の史跡整備までの歩みを4回にわたりたどって行きます。

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【写真】現在の御勅使川扇状地の耕地 砂礫が主体で、雨水が染み込みやすい

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【写真】明治29年水害写真 御影村上高砂 多くの村人が復旧活動にあたっている

国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)

 南アルプス市には河川堤防である、石積出一~三番堤、六科将棋頭、桝形堤防の3箇所が「御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)」という名称で国の史跡に指定されています。2022年9月時点で国の史跡は1808件指定されていますが、河川の洪水から集落や田畑を守る堤防は3件しか指定されていません。御勅使川の堤防遺跡は日本を代表する治水・利水の遺跡なのです。その中でも南アルプス市有野に位置する桝形堤防は、六科将棋頭とともに江戸時代に開削された徳島堰の水の利水にかかわる堤防で、令和4・5年度整備工事を実施し、一般公開を予定している遺跡です。

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【写真】御勅使川の治水

徳島堰と桝形堤防

 桝形堤防を知るには寛文11年(1671)に完成した徳島堰を知らなければなりません。御勅使川によって運ばれた砂礫で形成された御勅使川扇状地は、浸透性が高く、御勅使川の水量が少ない上に雨が地下深くまで染み込んでしまうため常襲旱魃地となり、常に水不足に悩まされた地域でした。これを解決するため釜無川から取水し、御勅使川扇状地に通水したのが徳島堰です。徳島堰の開削によって御勅使川扇状地全体ではありませんが、有野、飯野、六科、百々などで水田が増加し、地域社会に大きな変化をもたらしました。
 この徳島堰の工事で最も難しかったのは、広大な川幅を持つ御勅使川の横断です。完成当初は板を並べてせき止める工法(板関)でしたが、1700年代には木製の樋を河原の地下に埋める埋樋に変わりました。その一方で六科村や野牛島村は、川幅が広い御勅使川の下流に位置しているため、河原の真ん中で埋樋を一度開口して水門を設け分水しなければなりませんでした。この後田水門と呼ばれる分水門を御勅使川の洪水から守っていたのが将棋の駒の形をした桝形堤防です。分水された徳島堰つまり釜無川の水は後田堰を通して六科将棋頭が守る堤内地に導水され、水田が営まれました。

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【写真】国指定史跡 桝形堤防

忘れられた桝形堤防

 江戸時代から後田水門を守り続けてきた桝形堤防もその役割を終える時がやってきました。川幅が広い御勅使川を現在の川幅まで狭め、河床を階段状に変える床固工が昭和7年から施工され、太平洋戦争後桝形堤防周辺も河原内ではなくなったのです。その後、広大な河川敷が開拓され、県営の施設や工場、住宅が建設されると、桝形堤防は砂防林として植樹されたハリエンジュの木々に覆われ、いつしか堤防の存在も忘れられてしまいました。

桝形堤防の再発見と調査

 平成15年4月、旧6町村が合併し南アルプス市が誕生後、南アルプス市教育委員会では遺跡地図が整っていなかった白根地区を3ケ年かけて踏査し、平成18年遺跡分布図を作成しました。この時の踏査によって、桝形堤防が堤防遺跡として南アルプス市の遺跡台帳に正式に登録されました。また、平成20年度からは、桝形堤防の分布調査を開始、まず石積の清掃から始め、少しずつその姿が現れ始めました。
 また桝形堤防が守ってきた後田水門は現代まで使い続けられており、その水門にはかつて行われていた水争いの記憶が残されていました。市教育委員会では桝形堤防の存在と地域の水の歴史を知ってもらうため、御勅使川ゆかりの史跡を歩く」ツアーを始め、砂防林と草に覆われた桝形堤防を見学し、水争いを体験した六科地区で昭和3年生まれの矢崎静夫さんの記憶を伝える企画を始めました。

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【写真】平成16年 桝形堤防

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【写真】平成21年の桝形堤防 御勅使川ゆかりの史跡を歩く

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【写真】平成21年の桝形堤防 御勅使川ゆかりの史跡を歩く

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【写真】平成20年 桝形堤防分布調査

語り部矢崎静夫さんの思い出

「昭和34年台風7号時、韮崎市の釜無川の徳島堰の取り入れ口が流され、下流に水が来なくなったさ。水が少なくなると、下流の村の人たちが自分のところへ水を増やすため、上流の六科の水門に蓋をしにやってくる。それじゃ六科に水がいかなくなってしまうので、桝形堤防の上で夜、蚊帳を吊って寝ずの番をしていたけれど、ある時下流の人たちに水門を閉められてしまった。下流から暗渠の中を通って、気づかれないように水門に蓋がされていたさ。なんのための番だと言われたよ。」

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 このお話をツアーで矢崎さんが語ると、参加者の女性から「私、百々地区ですがおじいちゃんが六科の水門を閉めに行ったと聞いたことがあります!」との声が。
 「あの時の犯人がやっとわかった。」と笑いながら話す矢崎さん。参加者の方々からも笑いが起きました。
 「それだけ水が尊かった時代だね。」と矢崎さんは昔を思い返していました。
 水が来なければ、収穫間近の稲が全滅してしまいます。当時の人々にとっては、まさに生死をかけた水争いだったのでしょう。こうした話は人々の記憶や古文書にも多く記録されています。まさに世界中で起こっている、これから起きる水不足の問題で、これを知恵と技術で乗り越えてきたのが、南アルプス市の人々です。

 また矢崎さんによれば、昭和40年代、釜無川右岸土地改良事業によって徳島堰がコンクリート化以前の後田水門は、次のような構造をしていたそうです。

「徳島堰から六科の水田へ水を引く水門で今は一つですが、昔は大、中、小の四角い水門が三つありました。水がたくさんいる時は全部開けます。いらない時は一つにする。藁束を束ねたボッチョと呼ぶもので蓋をしていました。水門の調整は水中の中に潜っての作業なので、たいへん難しい作業なので、専門の人にお願いしていました。」

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 この矢崎さんの記憶が発掘調査によって明らかになるのは、それから10年以上後のことになりました。

 10月号へ続く

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプスブルーの響き
~市民が結ぶ藍染新資料との出会い~

 「藍玉通(あいだまかよい)・・・。似たものならうちにもありますよ」。こんな言葉から藍の文化を伝える新資料発見のストーリーが始まりました。

新資料との出会い 
 令和4年5月25日までふるさと文化伝承館で開催していた「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展を見学された市民の方が、その内容を竜王新町の友人後藤さんに話されました。それを聞いた後藤さんはかつて自宅が藍染を営んでいたこと、現在も「コウヤ(紺屋)」と呼ばれていること、展示されている資料と似たものがあることを思いだされました。友人の方を通じて情報提供をいただき、文化財課が調査にうかがってみると、藍染の紺屋にかかわる新たな資料がいくつも残されていました。

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【写真】「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展

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【写真】後藤家調査風景

資料が語る紺屋の姿
 後藤家に残された資料と聞き取りから、これまで市内の調査では明らかにできなかったかつての紺屋の姿が浮かび上がってきました。甲斐市竜王新町の後藤家は、「明治30年営業名及課税標準届」によれば寛延2年(1749)創業と記されており、県内屈指の老舗の紺屋と言えます。証言では昭和初期まで紺屋が営まれていました。同届によれば、住家木造草葺平屋造42坪の中に工房を構え、藍瓶88本、倉庫2棟を持ち、従業員4人の内3人が職工として働いていたようです。後藤家は信州と駿河をつなぐ旧街道沿いに位置しており、農村部の紺屋より経営規模が大きかったことがわかります。

資料の構成
 後藤家に残されていた資料は下記のとおりです。
 藍玉通帳(あいだまかよいちょう) 19冊
 藍代金計算帳           5冊
 藍玉代金請取通          2冊
 愛染明王掛軸           1幅
 家相図              1枚
 色染法記覚・製薬々法調合記他   1冊
 鑑札               1枚
 版木               2個
 藍染旗「天満大自在天神 後藤氏」 1枚
 盃(才の銘入り)         5個

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【写真】後藤家藍染め関係史料

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【写真】愛染明王掛軸:「藍染」と「愛染」が似ていることから、多くの紺屋では愛染明王が信仰されていました


藍甕の工房を伝える家相図
 では資料群を見ていきましょう。まず注目されるのは『家境図解』です。この図は土地や家屋の間取りなどを吉凶を見るためのいわゆる家相図で、「紀元二千五百三十四年第二月」、西暦では1874年(明治7年)2月に作成されました。作者は東京神田で著名な易学者であった宍戸謙堂(名は富隣、別号東易館)。絵図には「東京 東易館貞翁男 宍戸易富 識」の文字が見られます。赤、青、黄色、緑に濃淡を付け、鮮やかな多色で描かれた豪華な家相図です。
 この家相図には大型の甕34個、小型の甕14個が土間に並んだ状態で詳細に描かれていました。山梨県内で藍甕が原位置で残されている紺屋が数例を除きほとんど現存しない現状では、江戸時代以降の紺屋の姿を伝える貴重な資料と言えます。また、2種類の規格の藍甕が用いられている点や工房にカマドが設えてある点など、これまで県内で知られていなかった紺屋の姿が浮かび上がりました。 

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【写真】家境図解

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【写真】家境図解に描かれた藍甕の工房

阿波の藍商とのつながり~藍玉通帳(あいだまかよいちょう)~ 
 次に注目されるのは「藍玉通」です。藍玉は藍葉を発酵させて作った藍染の原料、通帳(かよいちょう)は掛け買いの月日・品名・数量・金額などを記入して、金銭を支払うときの覚えとする帳簿です。市内では田島の小田切家に1冊だけ残されていて、阿波から藍玉を入手していたことを示す貴重な資料です。

関連URL(http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/09/post-3872.html

 後藤家には明治12年から大正13年まで、藍染の原料である藍玉を購入した記録である「藍玉通」帳が19冊保管されていました。明治から大正へ、藍と藍玉の生産業と藍染産業が隆盛した後、西欧からの人造藍の輸入により急速に衰退した時代を映すとても貴重な資料です。藍玉の買主は紺屋を営んでいた後藤長次郎、残念ながら市内で藍玉を生産していた川上の浅野家との取引を示す史料はありませんでしたが、藍玉の売主は阿波が5名、駿河が1名の藍商の名が確認できました。後藤家では主に阿波から藍玉を仕入れていたことがわかります。西野嘉右衛門や久次米兵次郎は阿波藍の有力者で、両名の名は明治27年『番附百種 一覧博識』の「持丸長者鑑」、今でいう長者番付の上段に掲載されているほどの日本を代表する富豪でした。

  藍商氏名       本拠地
 西野嘉右衛門     阿波(東京) 8冊
 中村邦三郎・増太郎  阿波     5冊
 石原六郎       駿州沼津   3冊
 久次米兵次郎     阿波(東京) 2冊
 久住平次郎      阿波(東京) 1冊

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【表】明治27年『番附百種 一覧博識』「持丸長者鑑」(国立国会図書館蔵) 西野保太郎は西野家15代当主。甲州財閥の雄、若尾逸平の名も見える】

後藤家と阿波の豪商、西野嘉右衛門家との縁
 阿波の藍商の中でも西野嘉右衛門家と後藤家の結びつきが強く、明治12年から大正13年まで藍玉を購入し続け紺屋を営んでいたことがわかります。西野家は江戸時代前期から阿波藍を扱う豪商で、屋号を「野上屋」と称し、明和期(1764–1771)には江戸に出店を構え、寛政元年(1789)8代目嘉右衛門は金毘羅大権現(現金比羅宮)の麓、琴平で酒造も始めました。現在も香川県の有力な酒造メーカーである西野金陵株式会社となっています。嘉右衛門の名は代々受け継がれ、15代目は1940年、阿波藍の歴史研究の基礎資料となる『阿波藍沿革史』を著しています。明治30年代以降西欧から人造藍が輸入され始めると藍玉の生産は激減し、人造藍を使った染めが主流となりました。明治30年代以降急速に化学染料への転換が図られる中、西野家では関東売制定以来の盟約を守って、大正6年まで阿波藍以外は取扱わなかったと言われます。同業他社に約20年近く遅れて大正7年から十五代目が西野染料店を開店し、化学染料を扱うようになりました。藍玉通帳は、この大きな転換点以後の大正13年まで後藤家では阿波西野家の藍玉を使い続け、伝統的な藍建てを行っていたことを示しています。

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【写真】明治12年藍玉通帳

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【写真】大正13年藍玉通帳

 後藤家と西野家を結ぶ他の資料も残されていました。なにげない5個の盃。現当主の後藤文次氏によれば、毎年正月に阿波の藍商が年始の挨拶に後藤家を訪れ、盃をおいていったそうです。盃に描かれた「才」の文字は、幕末12代目西野嘉右衛門が野上屋の大印を「才」としたことに始まりました。盃は西野家「野上屋」から送られた年賀の品であることは間違いなく、代々続いた結びつきの強さを物語っています。西野家では酒造も営んでいたことから盃が選ばれたのでしょう。清酒とセットで手土産とされていたのかもしれません。

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【写真】西野家から送られた盃。屋号の印「才」の字が書かれている

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【図「明治18年 東京商工博覧会 下巻 西野嘉右衛門」(国立国会図書館蔵) 右上の表題と左上の蔵に「才」の文字が見られる

草木染の染色法『色染法記覚』
 後藤家には漢方の調合法とともに近代の染色法が記載された帳面も残されていました。覚えには赤茶、柳茶、金茶、鶯茶、銀鼡(ぎんねずみ)、鼡、藍鼡、栗川茶、白茶、葡萄鼡、海老茶青茶、唐チリメン水浅黄、黄色、鳩羽鼡、深川鼡、港鼡(みなとねずみ)、鶴羽鼡、コビ茶、藍川、紫色、日色、萌黄色、薄竹色、小豆鼡、藤鼡法、藤色、引染黒、絹日赤、絹花色などの染色方法が詳しく記載されていました。例をひとつ挙げてみましょう。

〇葡萄鼡(ぶどうねずみ)染法ハ
先ツ ウスキヤシヤニ スホヲヲ加ヘテ成シ
次ニウスキ金水ヲ成スナリ

 解説すれば、ヤシャブシ(松笠状の実、黒染めに使われる)を煎じたもので薄く染め、次にスオウ(まめ科の小高木で赤染めに使われる)を加えて染め、次に薄い金水(硫酸鉄を混ぜた水)につけて媒染する。

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【写真】色染法記覚

新たな資料が結ぶ人と時間
 後藤家で発見された資料は、藍葉・すくも生産が盛んであった南アルプス市のみならず、県内の染色の歴史と文化を今後考える上で欠くことができない資料と言えます。またご来館いただいた多くの方々から新たな市内紺屋の情報をお寄せいただきました。ふるさと文化伝承館のテーマ展では地域に密着した題材を取り上げるため、これまでのテーマ展でも来館された市内外の皆様からのさまざまな情報が新たな資料の発見につながってきました。その資料や人々の記憶が響き合い、新たな地域の歴史が奏でられます。

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【写真】テーマ展最終の一週間、後藤家の新資料が公開され、多くの方が来館された

 資料を提供していただいた後藤さんは現在、さをり織りと草木染の教室を開かれています。紺屋だったことはご存知でしたが、ご先祖さまが草木でも染色をしていたことに驚かれていました。発見された「色染法記覚」を読み、現在の教室にも活かしたいと話されていました。地域に残されたなにげない資料は時に過去と現在の人も結ぶことができるのです。

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【写真】さをり織りの糸

関連URL
南アルプスブルーの足跡~市内を彩った藍染めの歴史~
2015年4月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/04/post-fe93.html
2015年5月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/05/post-d5b3.html
2015年6月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/06/post-af42.html
2015年7月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/07/post-d649.html
2015年8月14日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/08/post-2292.html
2015年9月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2015/09/post-3872.html

南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~
2019年9月17日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2019/09/post-0e1a.html

江戸時代の南アルプスブルー~村々の藍葉栽培と藍染~
2021年6月15日 http://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2021/06/post-897b.html

参考URL
進め!阿波探検隊!http://awatankentai.blog133.fc2.com/blog-entry-41.html

 

◎『藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし』展パンフレット販売中!
 南アルプス市の藍と綿の歴史を1冊にまとめました。100円です。

<お問い合わせ>ふるさと文化伝承館 TEL055-282-7408

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◎ふるさと文化伝承館テーマ展「"にしごおり果物”のキセキ」展開催中!
 全国でも有数な干ばつ地域である御勅使川扇状地。水田ができない故に様々な工夫でその環境を乗り越え、木綿やタバコ、そして養蚕や果樹栽培と暮らしをつなぎ、現在南アルプス市は全国でも有数の果樹王国となっています。
 本展覧会では、主に江戸期以降の果樹栽培への挑戦・開拓の物語を中心に、最近まで使用していた出荷箱やラベルなど、懐かしい品々までご紹介します。
令和4年6月24日(金)~令和4年12月21日(水)まで

詳しくは、南アルプス市ホームページをご覧ください。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

山梨最古の桃とブドウは南アルプス市から
~遺跡から見つかる果実~

 南アルプス市も夏本番となり、市内の果樹園を彩ったサクランボの真っ赤な実も、早くも桃やスモモへとうつろってきました。いずれブドウに柿と、季節とともに果物たちも移り変わります。リレーのように様々な果物に出会えるのもまた南アルプス市の特徴的な姿といえます。
 7月に入りご近所さんや知り合いの方に桃を頂くことも増えてきました。南アルプス市では、「果物は買わずともいただけるもの」と言われるくらい、実際にいただく事も多いのですが、そのやり取りは一種の風物詩といえます。
 実は、南アルプス市と桃との歴史は古く、なんと弥生時代まで遡ることができます。今回のふるさとメールはそんな大昔からの物語をご紹介いたします。
 
 現在ふるさと文化伝承館では「“にしごおり果物”のキセキ」と題したテーマ展を開催しています。展示では主に、「扇状地」という決して恵まれた土壌とは言えないこの地域の土地とどのように向き合い、どのように乗り越えてきたのかを紐解いています。主に明治時代以降、木綿・たばこ・養蚕と主力生産物が変わりゆく中で、一貫して果樹栽培に挑戦し続け、他の地域を圧倒した知恵と行動力で、この地域独特の果樹栽培を展開させていきます。
 
 では江戸時代以前の果物の栽培についてはどうでしょう?柿の加工や野売りなど、古文書に記されているものもありますが、それらはほんのわずかであり、多くは実態がわかっていません。それこそ、実物が出てこない限りわからないという状況です。

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【写真】テーマ展「“にしごおり果物”のキセキ」チラシ

 

山梨最古の桃とブドウは南アルプス市の遺跡から発見された!
 実は、大昔の果実の実態が遺跡の発掘調査で判明することがあります。でも、そもそも遺跡から果実が出土するのでしょうか?あくまでも出土するのは固い殻に包まれた種子などが主で、実の部分が出土することはありません。種子だとしても、有機物は通常の土壌では腐食するためほとんど遺ることはなく、種子が炭化している場合か、沖積低地の水分の多い泥や粘土の土壌の場合など、特殊な条件の時に遺存することがあります。低地の土壌に立地する遺跡では空気が遮断されるため有機物が腐食せず遺存することがあるので、当時の暮らしを解明するヒントが多く、情報の宝庫といえます。実際に南アルプス市の果物の種実は低地の遺跡から発見されたものばかりです。

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【表】果実の発見された遺跡の年表

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【図】果実の発見された遺跡の分布図

 実は、山梨で最古のブドウと桃の種は今から2000年以上前の弥生時代の南アルプス市の遺跡から発見されています。甲西地区にある大師東丹保遺跡の弥生時代中期(約2400年前)の種子です。
 ブドウは現在と比べて小型であり、ヤマブドウやエビヅルなどの野生種と考えられています。隣の地域にあたる宮沢中村遺跡からは江戸時代後期のブドウの種子も出土しています。いずれにしてもやはり水つきである田方地域の遺跡から発見されているのです。

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【写真】大師東丹保遺跡の弥生時代中期(約2400年前)のブドウ属の種子

 

桃は邪を祓う?~遺跡から出土する桃~
 遺跡から発見される桃の実は「核」や「桃核」と呼ばれます。「核」とは種を包む殻のことで、私たちが桃を食べる時に一般的に「タネ」と呼んでいるもののことです。 
 山梨での最古の桃核の出土例は先ほどご紹介した通り、南アルプス市の大師東丹保遺跡の桃核で、弥生時代中期(今から約2000~2400年前)の遺構や当時の土層から6点も出土しています。大師東丹保遺跡では、このほか弥生時代後期、古墳時代、鎌倉時代の遺構からも発見されており、連綿とモモが存在していたことがわかっています。

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【写真】弥生時代中期の大師東丹保遺跡の桃核

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【写真】弥生時代中期の大師東丹保遺跡の桃核6点

 そのほか中川田遺跡(甲西地区)では古代の、さらに二本柳遺跡(若草地区)では古代から中世にかけて100個体以上、また宮沢中村遺跡(甲西地区)でも、中世、江戸時代と二時期で大量に出土するなど、市内の各遺跡から各時代を通して発見されています。

 桃は昔から不老長寿をもたらすと考えられていたり、神や仏に力を授ける果実と考えられたりしました。そのような桃の花が咲き誇る姿から中国などで桃源郷という言葉が生まれています。
 桃は日本の「日本書紀」や「古事記」などの神話にも登場しています。イザナギが黄泉の国で鬼女(悪霊とも)を桃の実を投げつけて追い払い逃げ切ったという話は有名で、このことから桃の実には「オオカムズミノミコト(意富加牟豆日命)」という神の名がつけられたそうです。桃が「邪を払う」ものとして考えられていたことがわかります。
 また、昔話「桃太郎」もまさにそうですよね。桃から生まれた桃太郎が鬼退治に行くわけですから、やはり桃が鬼を祓うという考え方のもとに生まれた物語です。ちなみに、風水では鬼は「鬼門」という方角からやってくると言われます。昔から中国や日本では方角を干支で表してきましたが、鬼門というのは丑寅の方角です。時計で言えば1時2時の方角ですね。丑寅という方角が鬼、、、そうです、トラ柄の腰巻に牛の角。まさに鬼の姿は丑寅から発想されていたようです。ちなみに裏鬼門と言われる方角は時計の7時8時で、干支でいうと羊猿です。裏鬼門の上を抑えているのが申酉戌でして、猿、キジ、犬に通じるとも言われています。
 あくまでも一例ですが、これらのように桃は昔から邪を祓い、福をもたらすと考えられていたようで、南アルプス市の遺跡からもその様子はみとめられます。

 大師東丹保遺跡では、桃核は水田や流路などの水とかかわる地点から出土したり、またその際に祭祀に用いられるとされるおまじないの道具である「斎串(いぐし)」とともに出土するなど(古代)、桃が祭祀に用いられた状況がうかがわれます。悪水や濁流、悪い病気などが水田に入ってこないように祈られたようです。
 また、中川田遺跡(甲西地区)では平安時代の桃核が大量の馬の骨とともに出土していることから、雨乞いや水しずめなど、馬をいけにえとした祭祀「殺馬祭祀」でも使用されたものと考えられているのです。
 南アルプス市の遺跡からの出土事例によっても、桃は食用としてだけでなく、邪を祓うなどの祭祀に用いられてきたことが証明されています。

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【写真】斎串とともに大量に出土した桃核

 

桃の「核」
 遺跡から出土する桃の核は、中国では約7500年前まで遡ることがわかっており、日本では、縄文時代前期(約6000年前)の九州の遺跡から出土し、その後縄文時代中期には東日本からも出土しています。縄文時代の桃の核の長さは20㎜程度が多いようです。
 弥生時代になると出土数が大幅に増加します。出土した桃核の核長や厚みを検討してみると、全国的に比較して、大師東丹保遺跡の弥生時代の出土例は比較的大きいといえます。ただし、その形は縦長のものや頂点が鋭いもの、丸みを帯びたもの、筋の深いものなどと、形態にばらつきがあります。また弥生時代後期には丸みを帯びたものが多い印象があり、これらの形態の違いは種類が違うのではないかとする研究もあります。
 また、鎌倉時代では大小にばらつきがみとめられるようですし、平安時代には全国的に小型化することが指摘されており、中川田遺跡の例は平安期にしては大きいと考えられます。全国的に見ても、中世までの桃核は、例えば時代が下るにつれて大きくなるなどの傾向は認められないようです。しかし、宮沢中村遺跡でわかるように江戸時代以降の大型化は顕著となります。平均3.71センチメートルは、現在(少し前)の桃が3.5~4センチメートルですから、ほぼ同じ大きさといえ、これらはやはり、栽培などの人間の手が加わったことによる変化とみられます。

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【表】遺跡から出土した桃核の大きさ比較

 実はこれらの桃核もふるさと文化伝承館のテーマ「“にしごおり果物”のキセキ」では展示しています。桃は江戸時代には栽培していたことは確かですが、古文書などの資料が非常に少ないため詳細はわかっておりません。しかし、ちょうどそのころの桃核が遺跡から出土して現存しているのです。是非展示されている江戸時代の桃核、そして弥生時代の桃核もご覧ください。
フルーツ王国南アルプス市のある種の「ルーツ」に出会えます。

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【写真】展示の様子

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その3)

はじめに
 今年の3月・5月と、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれなかった南アルプス市の甲斐源氏の活躍についてご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その2)
 今回はその続き、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)後、南アルプス市の甲斐源氏はどのような活躍をされていたのかを紐解いていきます。
 「鎌倉殿の13人」は三谷幸喜氏の脚本により、鎌倉幕府草創期から頼朝亡き後の武将たちによる権力争いの様が軽妙且つ魅力的に描かれています。基本的には13人の合議制に名を連ねる者を中心に描いているので、甲斐源氏はなかなか登場しませんが、これまでご紹介してきたように、ドラマで描かれているシーンには、長清をはじめ南アルプス市の「甲斐源氏」も同じ場所でドラマの主要メンバーたちと一緒に活躍していたことが、この頃の出来事を綴った『平家物語』や『吾妻鏡』などの記事からわかります。
 前回は源平の合戦での動きと共に、頼朝による粛清の数々が、秋山光朝をはじめ南アルプス市内外の甲斐源氏にまで及んでいたことなどをご紹介しました。

 

「治承・寿永の乱」後の変化
 いわゆる源平の合戦後に、秋山光朝は粛清されており(地元秋山では中野城などで自害したものと伝えられています)、いずれにしても光朝はすでにいないわけですが、この頃より、吾妻鏡などには、加賀美遠光の名が頻繁に登場してくるようになり、長清とともにまさに政治の中心で活躍していたことがわかります(下記表を参照のこと)。

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【表】南アルプス市の甲斐源氏の活躍年表

 文治元(1185)年、源義経が伊予守に任じられるのと同じタイミングで、遠光も信濃守に任じられます。俗に「源家六人受領」と呼ばれるもので、国司の中でも筆頭官を指します。また、詳細な時期はわかりませんが、このあたりから小笠原長清も伴野荘の地頭に任じられたものとみられ、小笠原家が信濃を地盤とする契機になったと考えられます。ちょうどこの頃から建久6(1195)年まで吾妻鏡などには遠光、長清ともに頼朝に随行している記事が多くみられるようになり(吾妻鏡は建久7~9年が存在しません)、遠光も鎌倉で活躍している様子がみてとれます。
 少し先のこととなりますが、1190年、ドラマでも頼朝が北条義時(小栗旬さん演じる)ら大軍を率いて京へ入り、後白河法皇(西田敏行さん演じる)と会談するシーンがありましたが、そこにも長清は随行しています。後白河法皇から「大軍を率いて来たな」と言われますが、その中には小笠原長清も含まれているのです。
 以前にも考察したことがありますが、遠光は武田・安田のように頼朝と張り合って表に出るのではなく、京を目指す頼朝に対して京都の情勢に詳しい長清を通じて接近し、信頼を掴んでいったのではないでしょうか。

 時期が前後しますが、後白河法皇との会談の前後には、遠光、長清ともにまさに鎌倉の中枢に関わり重要な位置にいたことが各記録から読み取れます。
 1188年7月、後に2代将軍頼家となる頼朝の長男万寿が7才の時、遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)が介錯人(付き添い・世話役)となり、9月に頼朝と対面し直接「大弐局(だいにのつぼね)」の名を与えられたとされ、1192年8月に次男の千幡(のちの3代将軍実朝)が誕生するまで務めます。長清は万寿の弓始に参列していますし、長清の嫡男長経は万寿と年齢が近く、「着甲始の儀」に参加し、2代将軍となった後も義経の側近として重用されていきます。
 大弐局は、頼朝の第2子である千幡誕生後は千幡の介錯人となり、誕生を祝う「産養の儀(うぶやしないのぎ)」では、加賀美遠光が安達盛長(野添義弘さん演じる)とともに行司役を務めており、その後も千幡にかかわる数々の儀式に参列しています。
 2代、3代の将軍の幼少期に大きく関わり、重要な役目を仰せつかることが増え、ますます中央で活躍していくのです。ドラマでは長男の万寿が誕生の際の産養の儀が描かれましたので、次男千幡の時も描かれれば遠光が登場するかと期待しておりましたが、そのようなシーンはありませんでしたね。しかし、吾妻鏡などの記録にはドラマの主役級達と常に名前を並べており、同列で活躍していたことがわかるのです。
 大弐局については過去に広報「ふるさとの誇り」でご紹介していますのでこちらを参照してください)

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【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表 新たな登場人物なども加えています。

 

弓馬の四天王小笠原長清と曽我物語
 曽我物語については前回にもふれ、また、過去にも詳細をご紹介しておりますので、メインのストーリーに関してはここでは省略しますが、甲斐源氏の関わりについて少しだけ補足しておきたいと思います。
 舞台は、1193年の5月8日(28日とも)、富士山麓でのことです。「富士の巻狩り」で知られるこの機会を狙っての仇討ち物語としてよく知られているところですが、この巻狩りには、甲斐源氏からは弓馬の名手であった小笠原長清と武田信光が参加しています。また、29日にはとらえられた曽我兄弟の弟、五郎時致を幕府の重臣18名によって審問します。北条時政や義時、三浦義純、畠山重忠などそうそうたるメンバーですが、その中に小笠原長清、武田信光も列席しているのです。
 この仇討ちで、頼朝を目指す弟五郎時致を取り押さえたのが鎌倉御所五郎丸です。しかし、捕まえる際に女装して五郎時致を油断させたことが武士道に反するとして鎌倉を追放されてしまうのです。そして流された場所が南アルプス市野牛島だと地元野牛島では伝承されているのです。野牛島には今も鎌倉御所五郎丸の墓が伝えられ、五郎丸が突いた杖が大きく育ったとする大きなビャクシンもあります。
 ドラマでは通常語り継がれている説とは大きく異なった物語として描かれていましたので、五郎をとらえるシーンも無く、五郎審問のシーンもほとんど描かれませんでした。巻狩りのシーンを目を凝らして探してみると、武田菱のように見える装束の武将が写っていましたので、武田信光は写りこんでいた可能性があります。小笠原家の家紋「三階菱」は残念ながら見つけることはできませんでした。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2

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【図】曽我兄弟を含めた主要人物の関係図

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【写真】鎌倉御所五郎丸の墓(市指定史跡)

 ドラマでも武士たちが弓の鍛錬をしているシーンはよく登場しますが、この巻狩りに前後して、頼朝により度々巻狩りや狩猟などが行われ、弓馬の名手が集められています。それらの中に必ずと言って良いほど小笠原長清は名を連ねています。その後頼朝は、幕府として流鏑馬などの射芸を行事化するにあたって18名を評議のために選んでいますが、そこにも小笠原長清は名を連ねているのです。頼朝も認めていた事がよくわかりますし、『武田系図』には小笠原長清は「弓馬の四天王」として記されているほど(武田信光・海野幸氏・望月重隆とともに)、鎌倉を代表する弓馬の名手なのです。
 その後、幕府としての射芸の行事には長清をはじめ小笠原家が代々中心的に関わっており、その際に大切にされた作法や武家故実がゆくゆくは小笠原流礼法へと育まれていき、現代日本の礼儀作法の基礎となってゆくのです。

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【写真】小笠原小学校の校舎のレリーフ(市指定史跡)笠懸のレリーフ

 

頼朝の信頼を得る長清
 ドラマでは、後白河法皇が亡くなるシーンで、東大寺の大仏開眼供養のシーンが描かれました。実は東大寺は小笠原長清とも関係が深いのです。
 奈良の東大寺は、1180年に平家による南都焼き討ちによって焼けてしまいました。その後1185年に、後白河法皇によって大仏の開眼供養が行われています。源頼朝は大仏の鋳造の際に多大なる「金」をメッキ用に寄進し、その後、大仏殿の造営のためにも多大なる援助を行って東大寺の復興を助けるのです。実はその中で、頼朝は大仏殿の中に収める四天王像を信頼する御家人に分担させます。その中に小笠原長清がいるのです。長清は毘沙門天(多聞天)を命ぜられているのです。
 その際頼朝はそれぞれ、自分の本拠地にも同じものを納め縁を結ぶように命じています。それが、山寺の宝珠寺にある「毘沙門天立像」だと考えられています。江戸期に彩色が加えられてはいますが、像そのものはまさに鎌倉時代初期の造りなのです。

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【写真】宝珠寺の毘沙門天立像(市指定文化財)

 この後もなかなかドラマには登場しないかもしれませんが、その陰で、加賀美遠光、小笠原長清親子とその一族が、ドラマの主人公たちと同じ空間で同じ時間を過ごし、歴史の表舞台で活躍していたのです。そのようなことを思い浮かべていただくと、ドラマの見方や南アルプス市の甲斐源氏たちの見方が少し変わってくるかもしれません。
 市内の小学校では毎年修学旅行で鎌倉を訪れますが、その前に必ず鎌倉で活躍した甲斐源氏のことを学びます。コロナ禍により昨年は鎌倉へは行けませんでしたが、今年はまた訪れることができています。地元南アルプス市の武将たちが、800年ほど前に実際にこの場に立ち、活躍していたことを知っていただくことで、さらにふるさとに誇りを持っていただけるのではないかと願うのです。



『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏(その2)

はじめに
 3月15日の号で、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれていない南アルプス市の甲斐源氏の動きについて、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)が始まるあたりまでご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
 今回はその続き、ちょうど源平の合戦のころの南アルプス市の甲斐源氏について紐解いていきます。

 「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。ドラマではいよいよ恐怖政治とも言うべき頼朝による粛清の数々が描かれ始めました。頼朝が後々自分の立場を危うくしそうな原因を排除していくのですが、甲斐源氏の面々も粛清の嵐に巻き込まれていきます。
 なお、余談ですが、最近の放送で木曽義仲の嫡子義高の処分について頼朝が決断するシーンで、自身の経験も踏まえて、父が殺される恨みというのは後々まで抱き続けるものということの象徴として、まだ幼い曽我兄弟が工藤祐経に石を投げているシーンが描かれていました。いわゆる「曽我物語」を彷彿させるシーンなわけですが、実は南アルプス市芦安には曽我兄弟やその周囲の人物ゆかりの逸話が残されています。このことについては過去にご紹介しておりますのでご参照ください。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2

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【曽我兄弟を含めた主要人物の関係図】

 

長清の義父上総介の誅殺
 SNS上で最も話題となったのは、佐藤浩市さん演じる「上総介広常」の誅殺のシーンです。御家人の中で最大の勢力であったがために、頼朝によって謀反の疑いをかけられての誅殺でしたが、直後に無罪であったことが証明されています。まさに見せしめだけのために殺害されたことになります。
 小笠原長清は、この誅殺の時にはすでに上総介広常の娘と結婚していますので、近親者の立場でこの事件を見ていたはずです。頼朝の信頼が厚かった長清は、記録上ではこれに連座して処分されたという形跡はありません。

 

甲斐源氏の粛清
 その一方で、元々頼朝と対等な立場を取っていた甲斐源氏の面々は、頼朝の標的とされ、次々と誅殺、あるいは失脚させられていきます。
 甲斐源氏として早い段階から頭角をあらわしていたのは、武田信義とその子一条忠頼や、安田義定と言えます。そのどちらも失脚していく運命ですが、ドラマでは一条忠頼が誅殺されるシーンが描かれました。忠頼は信義の嫡流であり、木曽義仲を討伐した粟津合戦では、義仲を実質的に追い込む大活躍を果たしています。頼朝にとってライバルである武田家の嫡男の活躍は心配の種となったことでしょう。しかし、一条忠頼が誅殺される理由は東鑑などの史料でははっきりと記されていないので詳細は不明とされており、記録からは宴席で殺害されたということだけが知られるところです。ドラマでは木曽義高に頼朝討伐を持ち掛けたことが理由として描かれ、歴史ファンの間では、ドラマならではのうまい演出との声が上がりました。
 実はそのような解釈はかなり昔からあったようで、南アルプス市秋山に伝わる『秋山旧事記』という伝記にもそのような場面があります。記述された時期は不明ですが、江戸時代初頭に発見された秋山太郎光朝供養の経筒に関する記述があることからそれ以降の創作であり、その内容からは「記録」というより「小説」的性格のものと考えられています。
 その中で、一条忠頼が秋山光朝と共謀して頼朝討伐を企てるという場面が描かれているのです。その誘いを断った小笠原長清が一条・秋山軍に攻められるという展開で描かれており、史実と言うには難しいのですが、一条忠頼が頼朝討伐を企てたことによって誅殺されたという解釈は江戸時代からすでにあったことがわかります。
 また、南アルプス市小笠原に伝わる『小笠原旧事記』には、一条忠頼の弟を小笠原長清が養子にしていたという記事があります。名を小笠原光頼と言い、光頼は一条・秋山軍によるこの攻撃で深手を負い、北へ向かって逃げる途中桃園の地で命尽きたというのです。忠頼の弟ということは武田信義の息子ということですが、他の史料にこのような名前は確認できず、どこまで史実と言えるかは難しいところです。

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【写真】桃園には、現在も光朝の墓と伝わる石造物が残されています

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【図】主要な甲斐源氏の系図(大きな×印は誅殺、小さな×印は失脚を表します)

 

頼朝書状「・・・二郎殿をいとおしくして・・・」
 「治承・寿永の乱(源平の合戦)」も終盤、屋島の合戦の前で、範頼がうまく源氏の軍勢を束ねきれず平家を攻めあぐねている時に、頼朝が弟範頼へ送った文治元(1185)年1月6日の書状があります。大河ドラマでは、この書状が届くよりも前に、義経が大嵐の中制止を振り切って船を出して出陣する様子が描かれていました。この頃、加賀美一族は範頼の軍に従軍しています。北条義時がいる軍です。
 実はこの書状に、兄光朝と弟長清のその後の運命を決定づける一文が書かれているのです。二人に対する頼朝の考え方、扱い方の違いが良く見えます。

「(前略)甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。かゝみ太郎殿は、二郎殿の兄にて御座候へ共、平家に付。又木曾に付て、心ふせんにつかひたりし人にて候へは、所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして、是をはくゝみて候へきなり(後略)」

訳すと以下のような内容になります。

「(前略)甲斐の武士たちの中には、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長清殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝(秋山光朝)殿は、加々美次郎長清(小笠原長清)殿の兄ではありますが、平家についたり、木曾冠者義仲についたりして心不善な人なので、所領などを与える必要には及ばない人です。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです(後略)」

 ここでは甲斐源氏の中で石和(武田)信光とともに小笠原長清のことを大事に手厚く扱うべきであると伝えています。しかも念を押すように二度にわたってです。頼朝の長清に対する思い入れがいかに強いかが分かります。
 しかし、同時に光朝に対して、平家についたり木曽についたりしたとして、所領などを与える必要は無いとまで言い切っているのです。

 

秋山光朝の失脚
 『秋山旧事記』には、忠頼誅殺の翌年、秋山光朝は頼朝によって派遣された小笠原長清などによる軍に攻められ、秋山館(現在の南アルプス市秋山にある熊野神社周辺)の尾根伝いにある中野城や雨鳴城で自害したと描かれており、地元ではそのように伝承されています。秋山旧事記の内容も面白いのでいずれご紹介したいと思いますが、光朝も一条忠頼同様に鎌倉で誅殺されたと考えるのが一般的です。
 前号でもご紹介した通り、秋山光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父という関係であり、平家との非常に強い繋がりを得ています。遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがえますし、場合によっては、次男の長清を頼朝に近づけたのは、たとえどちらに転んだとしても加賀美一族が生き残るための方策だったのかもしれません。

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【写真】秋山光朝公廟所にある五輪塔
向かって右が光朝の妻、中央が加賀美遠光、左が光朝のものと伝わる。

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【表】甲斐源氏との対応年表前回表示下年表の続きです。

 ただし、東鑑の元暦元(1184)年5月1日の記事に、木曽義仲の嫡子義高に通じていた者が甲斐・信濃に隠れ叛逆を起こそうとしているとして、甲斐国へ足利義兼と小笠原長清を派遣したことが見えますので、年代は前後していますが、このような記事を総合して『秋山旧事記』が創作されたのかもしれません。なお、東鑑などの史料には長清と光朝が戦ったとする記事はありませんし、光朝が亡くなった年も記されていません。

 「(前略)故志水冠者吉高伴類等令隠居甲斐信濃等國。疑起叛逆之由風聞之間。遣軍兵。可被加征罰之由。有其沙汰。足利冠者義兼。小笠原次郎長清。相伴御家人等。可發向甲斐国。(後略)」

 

加賀美遠光の台頭
 先ほど紹介した手紙の後、1185年3月に壇の浦の戦いで源平の勝敗が決しますが、吾妻鏡などには、その頃から加賀美遠光の名が頻繁に登場するようになります。
 その年の8月に遠光は信濃守に任じられ、その後遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)大弐局が当時7歳であった万寿(のちの2代将軍頼家)の介錯人となり、続けて次男千幡(のちの3代将軍実朝)の介錯人となるなど、ますます中央で活躍していく様子が描かれているのです。
 このあたりからは次回ご紹介したいと思います。
 南アルプス市の甲斐源氏がドラマに登場する日も近いこものと信じています。ドラマをご覧になられる際も、南アルプス市の甲斐源氏のことを想像していただくと、鎌倉での出来事が、少しでも、近しい事柄に思えるかもしれません。

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【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください。今回は1185年当時の年齢を表示しています。


『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

南アルプス市の縄文人は、いつ、どこに?

はじめに

 先月に引き続き甲斐源氏の話題をと考えておりましたが、例の大河ドラマでは先月以来甲斐源氏がほとんど登場していないため、来月までこの話題は取っておこうと思います。その代わりに、南アルプス市の縄文文化についてのちょっとしたニュースがありましたので、その話題から始めてみましょう。
 昨年実施された「全国縄文ドキドキ総選挙2021」にて見事優勝した、南アルプス市鋳物師屋遺跡から出土した「人体文様付有孔鍔付土器」(長いですよね!!)の愛称が決定したというものです。
 多くの来館者による応募の中から、最終的に決定したのは、、、
「ぴ~す(ピース)」
 3本指の手がピースサインのように見えますし、ラヴィとコンビで「ラヴィ&ぴーす」としてますます南アルプス市の縄文文化を広められたらと考えています。「ラヴィ&ぴ~す」、まさに今の世の中に必要な言葉かもしれませんね。

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【写真】ぴ~す

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【写真】愛称決定記念 写メスポットパネル
伝承館では1階にこのパネルを設置し、皆さん記念写真を撮っていただいています

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【写真】縄文展示室の子宝の女神ラヴィ

 ちなみに、これらはいずれも縄文時代中期中頃といって、今から約5000年前のものです。しかし、そのつくりを観察することで実はラヴィの方が少し古く、ぴ~すの方が少し後に作られたものであることがわかっています。
 一概に「縄文時代」と言っても1万数千年続いていますから、その中でも紆余曲折があったことでしょう。南アルプス市の縄文人たちはいつぐらいに市内のどのあたりに暮らしていたのでしょう?ずっと同じところに暮らしていたのでしょうか?今回は、そんな話題について、紐解いてみたいと思います。

 

縄文遺跡の分布と変遷

 南アルプス市内の縄文遺跡は、主に、①櫛形山の東麓に位置する市之瀬台地の周辺地域と、②扇状地上の上八田や徳永地域の、大きく2つの地域に分布しています(図1の赤で囲んだ範囲)。両地域の間にはちょうど御勅使川の旧流路が流れていたため、流路をさけて占地していたように見えます。とはいっても、上八田や徳永地域に登場するのは縄文時代後期初頭のみで、それ以外は縄文時代早期から後期までを通して市之瀬台地周辺に集中しており、その後空白の期間を挟んで晩期から弥生時代にかけて、扇状地などの低地部に分散していく様子がわかっています。
 ラヴィやぴ~すが出土した「市之瀬台地」周辺には特に縄文遺跡が集中していますので、このエリアを中心に時代を追いながらみていきたいと思います。遺跡の概要は過去の記事やホームページ「文化財Mなび」も参考にしてください。

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【図1】市内縄文遺跡分布図

 

市之瀬台地と縄文遺跡

 市之瀬台地は櫛形山の東麓、標高520m~400m程を測り、あやめが丘などの台地の先端部では約100mの比高差をもつ崖線が形成されています。また、山から流れ落ちる多くの河川が台地を開析しているので、西から東に向かって伸びる細長い舌状台地が南北に並んだ集合体とも言えます(図2・図3)。

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【図2】市之瀬台地周辺の地形と遺跡の立地
 
 まさにこの市之瀬台地の周辺地域から南アルプス市の歴史は始まったと言え、旧石器時代の遺跡も縄文時代の遺跡もその台地の上面、縁辺部(斜面部)、台地直下の扇状地に分布がみとめられます。そのうち発掘調査が行われ、部分的にせよ集落の存在がみとめられたのは全てで12遺跡となります。
 それらの立地や住居の数などをまとめたのが表1で、図と見比べると、時代を追ってその移り変わりをご覧いただくことができます。

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【図3】市之瀬台地周辺の発掘調査が行われた遺跡分布と変遷イメージ


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【表1】縄文時代中期を中心とした、集落遺跡の変遷表
草創期と晩期を省略し、立地する地形ごとに区分して表示しています。「中期」を細分する「狢沢」「新道」などは土器形式名で、土器の文様の特徴などで時期差が判別できます
 
 先にこの表や図の見方を説明します。発掘調査は、工事などによって遺跡が壊れてしまう部分だけを行いますので、調査されたのはあくまでも遺跡のごく一部といえ、発見された住居の数などは遺跡全体で考えるともっと多くなることが予想されます。集落全体が把握されたのは鋳物師屋遺跡だけといえます。厳密にいうとこの集落は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡と川上道下遺跡にまたがっていて、総称して鋳物師屋遺跡と呼んでいます。
 図3は遺跡の中でも発掘調査の行われた調査区の範囲だけを示しています。大きめの画像にしましたのでアップにしてご覧いただけると細かい位置がわかると思います。
 時代の区分も、中期という時代は発見された建物の数も多いので細かく分類できていますが、ほかの時代はそこまで細分できていませんので、表の一マスが同じ「時間」を表しているわけではありません。

 

市之瀬台地から始まる

 南アルプス市では縄文時代早期の土器は市之瀬台地上の様々な遺跡で出土していますが、建物跡などは見つかっていません。転々と移動しながら暮らしていた可能性もあります。ムラ(集落)として確認できるのは今から7000年近く前の、縄文時代前期前半の頃といえます。住居がまとまって検出されたり、お墓やその他施設などが揃うなど、一定の期間暮らしが継続した痕跡が見つかって初めてムラと言えるのですが、中畑遺跡からは12軒の建物跡が発見されていますので、現在のところ南アルプス市での最古のムラ跡と言えます。ここは市之瀬台地の上、ほたるみ館の北にある西地区多目的広場のグラウンド部分で、7000年前の集落はさらに北の方へと広がっているものと考えられます(図3の緑の位置。ムラ跡全体を掘ることができれば、実際にはもっと軒数は多くなるものと思います)。

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【写真】中畑遺跡周辺の航空写真
 
 ここでは個別の遺跡の調査内容については省略しますが、中畑遺跡の次にまとまって縄文時代の建物跡が検出されたのは中期初頭といえ、中畑遺跡に隣接する長田口遺跡や新居田A遺跡にまたがる範囲です。長田口遺跡はほたるみ館やその北側の広場の駐車場部分、広域農道付近を指し、新居田A遺跡はそこからあやめが丘へ伸びる農道になりますので、遺跡名は違いますがこれらは同じムラ跡と考えられます。遺跡名は小字名から名づけるので、全く違う遺跡のように感じてしまいますが、実は当時は同じ「ムラ」であるということはよくあります。
 その後この地域でも細々と暮らしは継続していたようですが、大規模なムラではなくなるようです。では縄文人たちはどこへ移動したのでしょう。現在のところ、発掘調査でわかっている遺跡の内容からは主に二方向への移動の様子が伺えます。一方は、同じ台地上を上野、中野と移動しながら南下してゆき、中期の終わりごろに再び中畑遺跡や長田口遺跡周辺へ戻ってきます。
 もう一方は台地下の扇状地へ移動したように見えます。ちょうど、長田口遺跡などの集落が全盛を終えるあたりから、入れ替わるように扇状地に立地する鋳物師屋遺跡が全盛を迎えてゆきます。鋳物師屋遺跡の「ラヴィ」はちょうど「新道式」と「藤内式」の狭間あたりの土偶といえ、また「ぴ~す」は藤内式の土器といえますので、鋳物師屋遺跡の全盛期に作られたものであることがわかります。鋳物師屋遺跡はまとまった数の建物跡が検出され、またラヴィやぴ~すに代表される特殊なマジカルなモノを多く持った、拠点的な集落であったことがわかります。藤内式期を最後にその後はほとんど生活の痕跡がみられなくなります。建物跡に土砂が厚く堆積する例があることから、土石流などの影響でムラごと移動したのではないかと考えられています。

 

扇状地の縄文人

 では、鋳物師屋の縄文人たちはどこへ移動したのでしょうか。発掘調査の結果からヒントが見えてきます。藤内式期以降、拠点的な集落として「曽根遺跡」や「北原C遺跡」が隆盛を誇ります。いずれも鋳物師屋遺跡と同じ台地下の扇状地に立地しているのです。特に、北原C遺跡は多くの土偶や動物を象った土器など、特殊なマジカルなモノを多く持っていることが特徴的で、まるで鋳物師屋遺跡の性格を引き継いでいるかのように思えるのです。
 あくまでも想像の世界ですので、集落ごと引っ越してきたかどうかは判定できませんが、ただ、特殊なマジカルなモノを多くもった大規模な集落が台地下に展開しているという点は注目に値すると考えています。
 これまでにも何度か紹介してきましたが、縄文人たちは豊かな感性とそれを形にすることができる豊かな技術を持ち合わせています。しかし、マジカルなモノが発達するということは、祈りや願いを強く持たなければならなかったということの証しといえ、そういった現象が台地下の扇状地域に偏重しているということに何かしらの意味があるのだと考えます。土石流をおそれていたのでしょうか?「自然」に対して畏れ、祈り、感謝しながら暮らしてきた様子が垣間見られます。

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【写真】北原C遺跡の航空写真

 

その後はさらに謎

 縄文時代中期終末以降さらに謎が深まります。台地の上では広く分布がみとめられていたのに、その後の後期初頭になると、占地の様子がガラッと変わります。例えば台地上の長田口遺跡や中畑遺跡周辺(ほたるみ館周辺)では、より川や谷に近い位置に寄ってきて、さらに晩期になると新居田B遺跡を含め、完全に川沿いのエリアだけに遺構がみとめられるようになります。
 また、台地縁辺部の斜面のきつい横道遺跡や、御勅使川の旧流路を挟んだ扇状地上の上八田や徳永地域周辺に突如(?)現れるのです。その後、後期の中頃から晩期初頭までは完全に謎で、市内に集落の存在は確認できていません。次に縄文人の痕跡に出会えるのは縄文時代の最終段階、晩期終末なのです。市之瀬台地の下の天神社遺跡をはじめ、市内各地の扇状地上に晩期縄文人たちの痕跡がみとめられるのです。

 

おわりに

 南アルプス市縄文人たちの謎は深まるばかりですが、現在発掘調査が行われた遺跡から見えるムラの移り変わりの概要は以上となります。現在も市内の各地で、工事に伴って消滅してしまう遺跡の発掘調査が行われていますので、いずれまた、新たな調査成果を踏まえて紹介できればと願っています。最後になりますが、ここでご紹介した遺跡の出土資料は「ふるさと文化伝承館」で展示されていますので、ぜひ本物をご覧いただければと思います。

※各遺跡の概要はホームページ「文化財Mなび」や過去の記事をご覧ください。
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力②~南アルプス市最初の定住者 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力③~中畑遺跡が教えてくれる南アルプス市最初の定住生活 (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑤~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(前半) (lekumo.biz)
南アルプス市ふるさとメール: 根方の魅力⑥~自然との共生を祈るムラ「北原C遺跡」(後半) (lekumo.biz)
2.眺望の魅力 市之瀬台地 | 文化財Mなび (route11.jp)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏

はじめに
 今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。俳優陣も豪華であり、「大河ドラマは戦国時代と明治維新以外はヒットしない」というジンクスを覆す勢いで人気のようです。
 ドラマは俳優の小栗旬さんが演じられる北条義時の人生を軸に描かれていくので、平安時代末期、平家全盛の時代から始まります。
 平家全盛の中で平家側とうまく付き合いながらも、次第に頼朝に合流してゆく東国の武士たちの姿が描かれていて、この原稿執筆時はちょうど甲斐源氏の武田信義がたびたび登場するようになり、有名な富士川の戦いのシーンが描かれていました。史実とは違うかもしれませんが、あくまでもドラマですので、楽しみながらご覧いただくにはちょうど良い、軽妙な描かれ方だと思います。
 しかし、ドラマには描かれていませんが、ちょうどこのあたりから、実際には「甲斐源氏」たちは各方面で活躍し始めているのです。南アルプス市の甲斐源氏の一族たちも同じで、この頃の出来事をつづった史料である『平家物語』や『東鑑(吾妻鏡)』、『玉葉』※などには度々南アルプス市の甲斐源氏たちが登場しており、ドラマの裏側では活躍への助走が始まっていたのです。鎌倉で活躍する主要人物との親戚関係などを見てもよくわかるかと思います。後半でもご紹介しますが、例えば加賀美遠光は和田義盛(横田栄司さん演じる)の妹と結婚していますし、この後小笠原長清は上総広常(佐藤浩市さん演じる)の娘と結婚するので、そのような目で観てみると親しみがわくかもしれません。 
 
 今回は、ちょうどドラマでも描かれている平安時代末期の、南アルプス市の甲斐源氏たちの動きについて見てみたいと思います。今から800年以上前の南アルプス市の武将たちはどのような活躍をしていたのか、時代絵巻の始まりです。
 主な登場人物は、平安時代末期の頃の甲斐源氏の三大勢力(武田一族・安田一族・加賀美一族)の一角にうたわれる加賀美遠光(かがみとおみつ)の一族で、遠光と長男の秋山光朝(あきやまみつとも)と、次男小笠原長清(おがさわらながきよ)になります。それぞれの概要はこれまでにも紹介しておりますので、過去の記事を参考にしてください(2007年4月2日4月15日5月1日5月14日5月31日2019年6月14日等)。

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【図】南アルプス市の甲斐源氏を中心とした系図

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【図】山梨県の甲斐源氏勢力図

 

主要メンバーの関係性
 まずは、源氏挙兵の治承4(1180)年にさかのぼってみましょう。一般的に「源平の合戦」の名で知られる一連の戦を「治承・寿永の乱」と言います。この戦は、平家中心の世の中に対して決起を促すために発せられた「以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)」という命令書によって、頼朝をはじめ東国の源氏たちが立ち上がったのが始まりとされます。
 
 一般的には、この令旨は源頼朝に向けたものと考えられがちですが、実は、立ち上がってくれそうな有力な源氏の武将たち全てに向けられたものとする説もあります。『平家物語』などには、決起を呼びかける武士として、甲斐源氏の武田信義や加賀美二郎遠光、同小次郎長清の名も見えます。なんとこれらは、源頼朝と同列に併記されているのです。

「(前略)甲斐国には逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光・同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃には、、(後略)」

 その当時鎌倉幕府創建に活躍した主な武将について生年と没年、さらに1180年当時の年齢をまとめたのが下の表です。一つのドラマだけを取り上げるのはいかがなものかと思いましたが、武将は難しい名前が多いですから、あえてドラマでの配役も表示しておきました。俳優さんの名前だとイメージしやすいかもしれません。
 大河ドラマの主人公北条義時は当時17歳で、小笠原長清は18歳という若武者であることが分かります。また、頼朝が33歳で、加賀美遠光は37歳という年齢構成です。また、その婚姻関係、親族関係性を見てみると、先述した通り、加賀美遠光は和田義盛の妹と結婚しているので、光朝や長清の母だったかもしれませんし(三男光行の母であることは定説となっています)、別の説として長清は三浦義純(和田義盛の叔父)の娘が母だとする史料も残されているので(『笠系大成』)、いずれにしても遠光の頃から相模の超有力豪族と縁が深かったことがわかります。このことは、加賀見遠光がそれに見合う家柄であった証とも言えるのです。

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【図】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください

 

源平の合戦と甲斐源氏の面々
1180年8月25日(「平家物語」)
 いよいよ源平の合戦が始まりました。 
 『平家物語』には、頼朝は石橋山の合戦で平家側に敗れた直後に義父である北条時政(政子の父)を甲斐の国へ送りこみ甲斐源氏の協力を依頼したことが書かれています。ここには、一条、武田、小笠原、安田、曽根、那古蔵人の名が挙げられており、小笠原の名も見えます。この時長清はまだ京都にいて甲斐には戻っていないので、おそらくこれは加賀美遠光のことを指しているものと思われます。後に書かれたものの中には加賀美遠光のことを小笠原と書かれるものも割と多く、そのくらい後世では小笠原の名の方が広まったことを表しているのかもしれません。ちなみにここにある那古蔵人というのも南アルプス市ゆかりの武将で、加賀美遠光の弟にあたります。今でいう南湖地区を中心とした奈胡荘を所領とした奈古十郎義行を指します。今でも南湖小学校の東には「十郎木」という地名が残っています。 
 

1180年10月18日(「玉葉」・「東鑑」では20日) 
 武田信義や安田義定の甲斐源氏の軍勢は、かの有名な「富士川の戦い」で平維盛群を撃退する大勝利を見せます。水鳥が飛び立つ音で平家が逃げ惑ったという有名なエピソードがありますが、後の時代に書かれた「東鑑」によって頼朝が主導したように描かれたので、頼朝の成果の一つに思われることが多かったのですが、最近の研究では、この戦いはそもそも武田などの甲斐源氏主導の戦だと考えるのが通説です。つまりこの時点では、頼朝と甲斐源氏(武田や安田)は対等の立場にあったということがわかるのです。

 

平氏と源氏のはざまで
1180年10月19日(「東鑑」)
 では南アルプス市の武将たちはどうしていたのでしょう?この時点まで加賀美一族は戦いの場に名前が出てきていません。
 実はこの年秋山光朝と小笠原長清は京都にいて、平知盛に仕えています。さらに光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父ということです。これも優秀な遠光の嫡男ゆえの出世ぶりといえますし、遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがわれます。ドラマに描かれていますが、この頃は平家との繋がりを強めることが一族の安泰を表していました。
 弟の長清は平家と結婚していなかったこともあり、平家討伐に応えるために京を離れようとしますが、とがめられ、なんとか母親の病気を理由に甲斐へ帰ってきます。8月上旬に京を出発し、9月に甲斐に入っていますが、その後しばらくはじっくりと戦況を観察していたようです。その後武田などの勢力とは別行動で駿河へと移動し、10月19日に黄瀬川宿にいた頼朝と面会するのです。ドラマでは黄瀬川宿で頼朝と義経が出会うシーンが描かれていましたが、その2日前に長清とも面会しているのです。

 

長清 鎌倉へ
 富士川の戦いの後、武田・安田の甲斐源氏の軍勢は京へ向かいますが、長清はそれとは行動を別にし、頼朝にしたがって鎌倉に入ります。やはり、甲斐源氏の中で頼朝に近い特別な動きを見せます。
 12月12日(「東鑑」)
 長清は鎌倉に完成した大倉御所への移転の際に頼朝に随行します。新邸へ向かう隊列は、先頭に和田義盛が、そして頼朝の左側に長清が並んでいます。ドラマに長清が登場するかはわかりませんが、さすがに新御所への行列シーンはあるのではと期待するところです。その時は、頼朝の左側を守っている騎馬武者に注目です!
 年が明けて1181年2月1日(東鑑)、小笠原長清は、頼朝の斡旋によって上総広常の娘と結婚します。ドラマでは佐藤浩市さんが演じる存在感の強いあの広常です。
 広常の婿であるとか、和田義盛や三浦義純と親戚であるとかと考えると南アルプス市の武将も鎌倉幕府創建時の壮大なドラマの中に存在していたのだということがよく伝わるのではないでしょうか。

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【図】加賀美、小笠原氏の婚姻関係

頼朝の信頼を得る
 この後、さらに本格化してゆく源平の合戦では加賀美遠光と長清は源範頼の軍に加わって活躍してゆきますが、その陰で一族でありながらも引き裂かれる光朝の運命も待ち構えています。同じ一族でありながらも平氏と源氏のはざまで苦悩した光朝の姿は、ドラマでも描かれた東国の武士たちの苦悩とも重なってきます。
 源平の合戦の後半についてはまた別の機会にお届けしたいと思います。
 が、この後のことを少しだけご紹介すると、源平の合戦後は、粛清された光朝と打って変わって遠光・長清親子はともに頼朝に信頼され、さらに政治の中心で活躍するようになります。なぜそんなにも信頼されたのか不思議に思われる方も多いのではないでしょうか?
 様々な研究がなされていますが、これはやはり遠光の戦略が勝ったのではないかと考えられます。自分同様息子達も京へ向かわせ、嫡男光朝を重盛の娘と結婚させることからみても、中央志向が強いことが見て取れます。秋山敬氏の研究では、京都の情勢に詳しく、平家の隆盛ぶりも息子を通じて熟知していた遠光は、武田のようにすぐに立ち上がるようなことはせずに一歩引いて見ていたのではないかと考えています。そして戦況を分析し、源氏として立ち上がる際にも、武田・安田のように頼朝と張り合うのではなく、遠光は表には出ず、京都の情勢に詳しい長清を通じて頼朝に接近したのではないかと考察されています。武田や安田とは違ったやり方で甲斐源氏の中でのトップの座を狙っていたのかもしれません。
 結果として甲斐源氏の中でいち早く頼朝と面会したことで長清は頼朝の熱い信頼を得ますし、その後頼朝が京都へ入る際の随行役として17回も『東鑑』に登場することからも、遠光の戦略が功を奏したのではないでしょうか。
 源平の合戦の後半からはますます遠光・長清親子が歴史の表舞台で活躍していきますし、頼朝亡き後の13人の合議制の時代にも小笠原家の子孫たちは活躍していきますので、その時には甲斐源氏加賀美家・小笠原家の面々がドラマに登場してくれるものと信じて、今回は一旦筆をおきたいと思います。またそのころに続きをお届けしましょう。

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【表】甲斐源氏との対応年表



『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。

『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。

『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。

参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

原七郷の七種の商物に「塩」?
~南アルプス市の名産をたどる~

 現在ふるさと文化伝承館で開催されている博物館登録記念テーマ展「藍と木綿が奏でるにしごおりの暮らし」の内容に合わせて、前号では木綿についてご紹介しました。

南アルプス市ふるさとメール:綿が奏でるにしごおりの暮らし

 特に南アルプス市の木綿は、「甲斐国志」に「西郡綿」や「奈胡の白布」といった江戸時代に山梨を代表するブランドであったことが記されていることなどもお伝えしましたが、現在ではなかなか知られていないことですよね。明治時代に木綿の中でも特に良い種子の供給地として有名だったのが鮎沢や江原で、「鮎沢種」、「江原種」と呼ばれていたようです(櫛形町誌)。
 これらのように、古い地誌類を紐解くと、現在の私たちが知らないかつての南アルプス市の名産品がみえてきます。中には今の姿からはイメージできないものもあります。昨今の地域おこしやまちづくりでは地域の個性が求められており、オリジナリティある名産品や特産品を作ろうとする取り組みも活発ですが、かつての産業や名産品を知っておくのも面白いと思います。南アルプス市域はその過酷な自然環境を乗り越えるために、その地域性を活かし、創意工夫を凝らして新たなことに挑戦しながら命を繋いできたのです。
 今回は江戸時代の終り頃(1814年)に完成した「甲斐国志」の「産物・製造部」の記述から、当時知られていた南アルプス市域の名産や特産、商品について拾い出してみした。そして、西郡・原七郷を象徴する商品としての「七種の商物」、更にはそこに含まれる「塩」について紐解いてみたいと思います。

市之瀬川沿いの芍薬が好品

 「甲斐国志」の「産物・製造部」(以下国志という)に、最初に西郡の産物が登場するのは、薬草の項目で、木賊(とくさ)や芍薬(しゃくやく)の名が見えます。芍薬は「立てば芍薬座ればボタン歩く姿は百合の花」とうたわれるほどその姿の美しさで知られていますが、同時に生薬としても知られています。 
国志には、
「・・・西郡一ノ瀬川ノ辺ニ野生スル者根色黄ニシテ好品トスベシ」
とあり、市之瀬川沿いに野生する芍薬が良品として知られていたようです。
ほかにも、神山伝嗣院の「糸桜」や曲輪田村・江原村の「竹」、また、湯沢村の山渓にかつてあったとされる「温泉」や築山村の「白堊(シラツチ・家の壁を塗る土で石灰に劣らなかったという)」、落合村・湯沢村の「藺(イグサ)」等も挙げられています。特に湯沢の藺で編まれた御座(ゴザ)は「湯沢御座」と呼ばれていたようです。これらは甲斐の国を代表するものとして紹介されていますが、現在では知られていないものばかりですね。

江戸から明治にかけては木綿とともに煙草

 たばこは江戸時代はもっぱら竜王産が有名ですが、江戸の終わりごろから明治期にかけては西郡がたばこ栽培および製造の中心となります。国志には下記のような記述があり、すでに国志の編纂された1800年台初頭には文化年間にも西郡のたばこが広く知られていたことが分かります。

「西郡原七郷ノ産多シ大抵龍王ニ気味相類スルヲ以テ別ニ名ヲ得ル事ナシ 飯野新田村・在家塚村等勝レタリト云フ 近頃飯野ニ 二ノ水道・市川ニ上原ナド称スレドモ其ノ名広カラズ」
 飯野新田村や在家塚村で盛んであったようですが、文面からはまだそこまで確立できていなかった様子が伺えます。明治期になると、むしろ豊村地域を中心に県内を代表する一大生産地となり、大正時代に入ってたばこの製造や栽培が禁止されるとともに豊地区のたばこ産業は蚕糸業へと移行していきます。

袋柿って?

 冬場の強風の八ヶ岳おろしという、過酷な環境をプラスに転じさせた「枯露柿」生産についてなど、これまでにも紹介したことがありましたが(南アルプス市ふるさとメール:柿 kaki caqui cachi ~世界と日本をつなぐ果実~)、国志には西郡の名産として「袋柿」という記述が見えます。
「西郡鮎沢村ノ産物ナリ 松平甲斐守十二月ニ献上セリ又餌袋(エブク)トモ名ク是モ乾柿ニテ核ヲ揉ミ出シ去ル故ニ袋ト云フ白霜生ジテ甘美ナリ 同郡原七郷ニ七種ノ商物ノ内ニ醂柿ト云フアリ渋柿ヲ灰汁ニ浸シ一夜ニシテ味甘くナル荒目ノ円キ籠ニ入レ担シテ発売ス此辺ニテハ畠ノ畔ニモ多ク・・・」
 鮎沢村が有名で、エブクという種類のカキを干し柿にしており、中の種子(核)を取り出すことから「袋柿」と呼んだそうです。また、ここで、原七郷の「七種の商物」という表現が出てきます。

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【写真】中野のカキ(県指定天然記念物)
天然記念物に指定されるカキの木は少なく、中野のカキは大樹で知られる。このカキの種はエブクで、秋には小さな実を沢山つける

原七郷の「七種の商物」

 御勅使川扇状地の扇央部に立地し、「お月夜でも焼ける」とうたわれた常襲干ばつ地域の「原七郷(上八田、西野、在家塚、上今井、吉田(十五所・沢登が後に分村)、桃園、小笠原)。そのような原七郷を支えた七種の商物(作物)についてみていきましょう。
 国志にはこの七種の商物についてわざわざ項目が設定されていますから、甲斐を代表する特別な事例だったと考えられます。
「原七郷二七種の商物ト云フハ醂柿前二委ス・葱苗・蘿蔔(ダイコン)・胡蘿蔔(ニンジン)・牛蒡・夏大豆・塩ノ背負売是レナリ七郷ハ在家塚・小笠原・吉田・上今井・桃園・上八田、西野、以上七村水利乏シキ処ニテ居民自リ古商買ヲ兼ヌ 七種ノ土産ヲ販グ事旧規二依ルト云フ
〇牛蒡 窪八幡ノ切差村宜し近比東奈胡村ニ植ルハ三年牛房ト云フ 薹ニタツコトナク長四五尺ニシテ軟ニ美ナリ〇乾瓢 東奈胡村ニテ多ク作ル」

ここにある7種とはつまり
〇渋を抜いた柿〇葱〇ダイコン〇ニンジン〇ゴボウ〇夏豆(大豆)〇塩
ということになります。これらが水に乏しかった原七郷の民が命をつなぐために古くから商いとしていた産物というのです。
 また、ゴボウや干瓢は東南湖が名産地であったようです。東南湖には今でも「牛蒡屋」の屋号で知られる家があったり、また干瓢づくりの古い道具なども伝わっています(ふるさと文化伝承館のリニューアルオープン時のテーマ展で展示しました)。

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【表】原七郷地域の村明細帳にみる耕作物等の一覧

 七種の商物には次のような伝承もあります。
 西野地区にある大城寺にまつわるものです。大城寺の門前には「三恩の碑」という石碑が建てられています。原七郷の民を扇状地ゆえの苦しみから救ったとされる三人の賢人に対しての謝恩の碑でして、そのうちの一人、弘法大師がこの寺院誕生の鍵といわれています。
 天長8(831)年八月、大洪水にて数十カ村が流出した際、その様子を確認に訪れた弘法大師は、水田の作れないこの地に七種の商物を栽培して命を繋ぐことを教え、武田信玄が七種の商物を野売りすることを認めたとする伝承があるのです。さらに弘法大師は毘沙門天像を作り、「七種商法免書」を胎内に納めたとされるのです(信玄が納めたとする説もあり)。これらのことについては、あくまでも伝承の域を出ていません。

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【写真】大城寺の三恩の碑

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【写真】大城寺の毘沙門天像

「塩」といえば西郡

 また、天保8年(1837)の「原七郷七種産物書上帳」(櫛形町誌・『白根町誌 資料編』)にある七種の産物は品目が多少違っています。「醂柿、煙草、椚薪、牛蒡、大根、人参、冬葱」とあり、国志にある「夏大豆」と「塩」のかわりに「椚薪」「煙草」が加えられていることがわかります。時代とともに七種の品目は変わるようです。薪や煙草は、当時の村の概要を知ることができる「村明細帳」によく記載されており、代表的な産物と言っても妥当であると考えます。
勿論、国志にある「夏大豆」も同様です。

 皆さんが疑問に感じるのは、やはり「塩」ではないでしょうか。こんな山間部で塩が商物とはなかなか考えにくいですよね。
ただし国志には塩の生産ではなく「塩ノ背負売」とあります。そうです、先々号の西郡道のご紹介の際に、富士川舟運による「下げ米、上げ塩」についてご紹介しました。信州や甲斐国内の年貢米が西郡道を通り鰍沢河岸に集められ、舟で清水方面へと運ばれ、一方下った舟の帰りには赤穂の塩や海産物などが甲斐へ持ち込まれ、鰍沢河岸に引き上げられ、馬に積み替えられて巨摩郡各地や信州へ運ばれたのです。そして注目なのが荊沢宿における塩を売り歩く商人の多さでしたね。塩については海岸部の人々との諍いも多くあったようで、富士川舟運を遣わずに紀州の塩を陸路で搬入するなどの工夫も見られますが、やはり基本は富士川ルートでの搬入と考えます。

南アルプス市ふるさとメール:駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅

南アルプス市と塩の関係は長い

 先ほどの大城寺の七種の商物の伝承は平安時代の逸話として伝えられており、特に「塩」についてはこの内陸部にその時代から塩なんてとにわかには信じがたい部分もあります。しかし、実はまんざらでもないかもしれません。実は南アルプス市域と「塩」の関係は歴史が深い事が近年の研究で明らかになっているのです。
 その歴史を市内に残る古代の遺跡に見つけることができます。
 “海がない山梨では塩なんか作っていない”とか“塩なんか溶けてなくなるもの”という思い込みから、かつて山梨の考古学界隈では古代の製塩活動については研究対象としてきませんでした。しかし、2008年、山梨県考古学協会の研究活動により、かつて旧若草町の向第1遺跡で見つかっていた小さな奈良時代の土器のかけらが、海に面した神奈川県や静岡県から塩を入れて運ばれた土器(「製塩土器」といいます)であることが判明したのです。それは山梨県内ではじめての確認事例でした。
 これらは粗塩を生産するための煮沸容器ではなく、粗塩を焼きなおして固形塩を製作する為の容器と考えられ、その後、市内の野牛島・西ノ久保遺跡(野牛島)や鋳物師屋遺跡(下市之瀬)などで沢山出土していたことがわかりました。
 このような状況から、これら粗塩が詰められた土器は、富士川の河川交通とそれに続く陸上交通路を使って運ばれてきたもので、古代の南アルプス市のあちこちに“塩の集積地”があった可能性が高まっています。これらの地域から県内全域に塩が流通したのではないかと考えられ、まさに南アルプス市は「塩」の玄関口と言えるのです。古代の研究者には、古代の南アルプス市を「海に開けた第二の港湾の地」と表現する方もおり、現在の南アルプス市からはイメージできない姿と言えます。

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【写真】向第1遺跡の製塩土器の破片

まとめにかえて

 かつての南アルプス市域は、現在ではイメージできないようなものが山梨を代表する特産として知られていたことがわかりました。薬草や土などの自然に由来するものは、この地域にある資源を余すことなく活用していたことの現われであり、また木綿・柿・煙草・干瓢などは、個性的な地形や環境ゆえにそれを乗り越え命を繋ぐための知恵が詰まっているといえます。また、そのようにして生み出され、また採用されたものが特産品として県内を代表していたことからは、この地に生きる人々の力強さを感じ取ることができます。これら困難を乗り越える力強いDNAがこの地域には受け継がれているのではないでしょうか。
 また、七種の商物は、現在では当たり前に食べている身近な根菜類であったりします。これらは例えば現在の地域おこしのヒントになるかもしれません。なにせ普通に使う食材ですから、街角で出される料理にも、ことあるごとに「原七郷の命を繋いできた食材を使ってます」と付け加えるだけで、なんだか南アルプス市のストーリーが見えてくる気がします。困難を乗り越えるDNAがありますから、使える資源は使い倒してみても良いのではないでしょうか。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

綿が奏でるにしごおりの暮らし

 新しい年が始まりました。「連載、今、南アルプスが面白い」を本年もどうぞよろしくお願いいたします。

はじめに
 ふるさと文化伝承館が昨年の令和3年11月12日、正式に博物館として登録されました。それを記念して、令和4年1月14日から5月24日まで、「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展が開かれています。南アルプス市と藍と綿の深い関係をテーマにした展示から 今月は綿の歴史を繙いていきましょう。

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Ⅰ.村明細帳から見る綿栽培
 にしごおりと呼ばれた南アルプス市域では江戸時代、商品作物として煙草とともに綿が広く栽培されていました。江戸時代後期にまとめられた『甲斐国志』によれば、「奈胡白布ト云ウハ木棉ノ好キ処ナリ 本州ノ産ハ其色絞白ニシテ棉強シ、巨摩、山梨、中郡多且ツ美ナリ、奈胡ノ庄最モ多産トス」と記され、水の豊富な田方に位置する南湖地区で綿栽培が盛んだったことが伺えます。一方常襲干ばつ地帯であった原方や根方の村々でも商品作物として畑で綿が栽培されました。
 江戸時代の村の様子を記した村明細帳を調べると、さらに農業の合間に行われる女性の仕事として、多くの村で綿にかかわる稼ぎが行われていたことがわかります。その表現はさまざまですが、おおむね下記の3種類に分けられました。

(1)木綿かせぎ
 例:天明4年(1784)戸田村「女ハ木綿かせき仕候」
(2)綿の糸取り
 例1:文化3年(1806)西野村「女者、糸はた仕申候」
 例2:文久元年(1860)荊沢村「男ハ日雇稼、女ハ木綿糸採申候其外稼筋無御座候」
(3)木綿から織り出しまで
 例1:宝永2年(1705)下高砂村「女ハ木綿布少々織出申候」
 例2:明和8年(1771)上高砂村「作間女かせぎ衣類木綿等仕候」
 例3:安永3年(1774)飯野新田村「女ハ綿糸・はた仕申候」
 例4:文政11年(1828)上八田村「女ハ平日木綿布織出し稼申候」

 (1)は木綿かせぎの記述のみ、(2)は木綿から糸を紡ぐ仕事、(3)は布まで機織りしていたことが記されています。全体を見ると(3)が多く、(1)の木綿かせぎも布まで機織りしていたことを考えると、多くの村の女性が木綿糸から布まで織っていたことがわかります。

Ⅱ.綿から糸、そして布へ
 では江戸時代から明治時代にどのような工程で綿から布が完成したのでしょうか。村明細帳や江戸時代の史料、旧市町村誌からその流れを追ってみましょう。

1.綿の栽培
 東南湖村などの村明細帳には旧暦4月上旬に蒔きつけ、8月のお彼岸から摘み取られることが記録されています。

2.綿の収穫と綿繰り
 各家で栽培した綿を摘み取り、乾燥させます。この実綿(みわた)から種を取り除くことを綿繰り(わたくり)といい、ロクロとも呼ばれた綿繰り機で種が取られました。また、綿の種からは油がしぼられ、油粕は肥料に使われるなど綿のすべてが活用されていました。

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【写真】綿繰りを行う女性 大蔵永常著 天保4 年(1833)『綿圃要務 2巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より 『綿圃要務』は江戸時代の綿作研究書で、表紙に「「諸国綿のつくりかたを委(くわ)しく記したる書也(なり)」と書かれている。 ※無断転載禁止

3.綿打ち(ほかし)
 種を取り除いた綿はホカシヤサンへ持ち込みます。綿を糸に紡ぐには、綿をほぐすことがとても重要でした。この作業は男性の専門の職人さんに頼んでいたのですね。ホカシヤでは「綿弓」や「綿打唐弓」と呼ばれる弓の弦で綿をはじき、ほかしながらごみも取り除きました。そのためほかすことを「綿打ち」と呼んでいました。享保年間に描かれた『今様職人尽百人一首(いまようしょくにんづくしひゃくにんいっしゅ)』にはこの職人が描かれています。綿を弓で弾くと細かな綿毛が雪のように降ってくるため、職人は手ぬぐいをかぶっています。また、綿が必要以上に飛び散らないよう、綿を筵?の上ではじいていますね。
 ほかした綿は約30cmぐらいの棒に巻きつけられます。これを篠巻(しのまき)やヨリコ、ヨリッコとも呼び、それを販売する店や商人も存在しました。先月号で明治3年の荊沢宿の余業で紹介した中で篠巻を扱う店が2軒あったことを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。

2021年12月15日 (水)配信 駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

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【写真】綿弓 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。江戸時代に奥田松柏軒が記した女性が扱う道具を解説した本。 ※無断転載禁止

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【写真】綿打職人 近藤清春 享保年間(1716~1735)『今様職人尽百人一首』 (昭和3年・1928年刊 国立国会図書館蔵)より ※無断転載禁止

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【写真】綿打 落合小学校6年生での授業

4.糸取り
 ヨリッコを家に持ち帰り、糸車(糸取り車)を使って糸を紡いでいきます。紡ぐとビンビンと音がしたので、糸をビンビン糸、糸車をビンビン車といったそうです。この作業は「糸取り」とも呼ばれました。紡がれた糸は?(わく)と呼ばれる糸枠に巻き取られてカナが完成します。

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【写真】木綿車・繰糸・糸車・機など 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。 ※無断転載禁止

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【写真】糸車(木綿車・ビンビン車) ※無断転載禁止

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【写真】糸車で糸を紡ぐ女性 『白根町誌』より ※無断転載禁止

5.釜で煮る
 完成した糸を釜で煮て乾燥させます。

6.染色
 乾燥させた糸を紺屋(こうや)に持っていき染めてもらいます。染め終わった糸を再び家に持ち帰ります。藍染めの原料となるすくもは以前のふるさとメールで紹介したように、阿波や武州、市内では川上の浅野家で作られていましたが、白根町誌の記録から、農家でも少量のすくもをつくっていたようです。そしてそれを紺屋に持って行き、ただで糸や布を染めてもらっていた様子も記録されています。
「多くは(農家が)陰干しにした藍(すくも?)を紺屋へ持って行って、その代わりただで染めてもらう」(『白根町誌』)

2019年9月17日 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~
南アルプスブルーの足跡1~6を参照

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【写真】現代の阿波産のすくも(栃木県益子町日下田藍染工房)

7.織り
 染色した糸をハタヤと呼ばれた自家用の織機で木綿布に織ります。女性にとって重要な仕事で、かつては嫁入り条件の重要な資格と考えられていました。無地の白木綿や縞模様の木綿が織られ、それらは主に長野県の諏訪・伊奈・佐久郡などへ移出されました。

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【写真】機織りの様子 左『白根町誌』、右『豊村誌』より ※無断転載禁止

おわりに
 にしごおりにおける商品作物として隆盛を誇った綿栽培は明治20年代以降、安価なインド綿やアメリカ産の綿の輸入によって激減し、明治の終わりにはその歴史に幕を閉じて養蚕のための桑栽培にその座を譲ることになりました。それから約100年。主産業として綿が栽培されることはありませんが、持続可能な社会を目指す取り組みとして、オーガニックコットンを栽培するいくつかの試みが市内で行われてきました。ふるさと文化伝承館でも綿の文化を伝えるため、綿を栽培し、学校教育にも活かしています。南アルプスの風土で培われた綿と藍の歴史と文化が時を超えて紡がれ、新たな営みとともに織り続けられることを願っています。

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【写真】ふるさと文化伝承館で育てた綿

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

 信州と駿河を結ぶ西郡路の要、荊沢宿。今月号は移りゆく荊沢宿の街並みに注目してみます。

1.幕末から明治時代の荊沢宿
 明治3年荊沢村余業(よぎょう)と呼ばれる農間の稼ぎ資料(『甲西町誌』)から、幕末から明治初期の荊沢宿がどんな街並みだったのか、想像しながら歩いてみましょう。

1)荊沢宿さんぽ
 宝永7年(1710)に改修された西郡路の道幅は3間(約5.5m)で、現代の道からするとやや狭い印象です。道の西側には水路が流れています。道を南へ下り、古市場を過ぎると道が曲尺(かねじゃく)のように直角に連続して曲がる「カネンテ」(註1)にたどり着きます(図1)。この辺りから荊沢宿が始まります。宿の中は農村でありながら、さまざまな余業を営む人々の家々が街道の両脇に並んでいます(図2)。一軒一軒は間口が狭く奥行が長い地割で、「うなぎの寝床」に例えられる京の町家に似ています。
 宿中を歩き始めると、ほうきやざるなどを扱う荒物屋や箸や食器を売る小間物屋、穀物屋、桶屋、薬屋などさまざまな種類の店が並んでいます。お腹が空けば食事ができる店もあれば、饅頭や焼き芋、お菓子など今でいうスイーツの店にも出会えます。焼き芋を頬張りながら、店巡り。寒い季節の焼き芋は最高ですね。干物魚屋には鰍沢河岸から運ばれた干物の魚も売っています。歩いてよく目にするのは木綿を扱う家。収穫して種を取り除いた綿を弓でほかす綿打職やその綿を紡いで糸にする篠巻職の家が多いことに気づき、綿栽培が盛んな土地柄が感じられます。造酒屋さんも2軒見つけました。お酒は夜にとっておきましょう。酒屋ではお醤油やお酢も売られています。あちら側には豆腐屋さんもあります。
 宿場をゆっくり散策していると櫛形山に日が入り始めました。前から焙烙(ほうろく)の担ぎ売りと甘酒の担ぎ売りが歩いてきます。この際甘酒もいただきましょう。前方の家からは心地よいリズムを刻む金属音が響いてきました。音を刻むのは農具などを治している鍛冶屋さん。髪結いをしている家も数件ありました。さて、日も暮れてきました。銭湯で一風呂浴びてから今夜は荊沢に一泊することにしました。旅籠は3軒、どこに泊まろうかな。

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【図1】江戸時代末の土地割

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【図2】明治3年荊沢村余業概念図


2)職種別余業について
 明治3年の荊沢宿の余業を西郡路の東西で北から順にならべたのが図2で、職種別にまとめたのがグラフ1になります。
 最も多い木綿関係は綿打業8、篠巻業2、綿仲買・綿商2、篠巻小売1計13で全99戸中約13%を占めています。『甲斐国志』で「奈古白布ト云ハ木綿ノ好キ処ナリ」と書かれているほど東西南湖やにしごおりは県内有数の綿の産地で知られ、荊沢宿でそれに関係した職が多いのも頷けます。西郡路に注目すると、旅籠3、飲食店4、銭湯2が営まれていて、近隣の一般的な村々と異なっていることがわかります。菓子屋7と多いのも街道沿いの特徴の一つでしょう。一服した旅人の楽しみの一つだったと想像できます。造酒屋は2軒、宝永2年(1705)の村明細帳にはすでに酒屋が4軒挙げられていますから、伝統的に酒造りが行われていたと言えます。気になるのは宝永2年で48人もいた塩や糀を売り歩く糀売りが記録されていません。生活様式の変化や酒造・醤油・酢造稼の店で売られていたことが考えられます。

 

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【グラフ1】明治3年荊沢村余業を職種別にまとめたグラフ


2.古市場、荊沢宿で出店を構えた近江商人の馬場家
 江戸時代から明治時代にかけて、古市場と荊沢宿には近江商人(滋賀県出身の商人)の馬場家も店を構えていました。宇佐美英機氏の研究(註2)によれば、近江商人の馬場利左衛門は、宝暦年間(1751-1764)のころから薬種類の旅商いを始め、甲州西郡筋には年に2、3回訪れ、古市場村を旅宿にしていました。その後寛政10年(1798)、古市場村の周六から屋敷の半分を借りて出店し、荒物や小間物類、呉服の卸売を始めます。天保6年(1835)ごろには、分家の利助に出店が譲られました。弘化4年(1847)年立ち退きを命じられたため、荊沢村の豪農市川文蔵(註3)が古市場に所有する土地を借りて商いが続けられました。
 馬場家は京都麩屋町四条上る枡屋町に仕入店を構えており、上方(京都や大阪)で仕入れた商品を古市場の出店で販売するネットワークが形成されていたと言えます。明治初年に古市場村の出店は閉じられましたが、明治3年の史料「身元立直証文」の宛先「甲州巨摩郡荊沢宿」に「利輔出店」とあり、荊沢村に新たな店が設けられました(註2)。近江商人にとって継続して出店を構えるほど荊沢宿周辺が重要な商圏であったことがわかります。
 では馬場家は荊沢宿のどの辺に出店を構えたのでしょうか。幕末の荊沢宿絵図には「利助(輔)」の名は書かれていませんが、上宿に馬場家に見られた「利左エ門」の名が見えます(図1)。明治3年余業調べでは馬場家の扱っていた商品の荒物や小間物を扱う店は上宿に位置しています。「利左エ門」が馬場家を意味するかは不明で正確な場所は特定できませんが、古市場に近い荊沢宿の土地に新たな出店を構えたのかもしれません。


3.市川家の江戸四谷町家経営
 古市場の所有地を近江商人馬場家に貸し出していた荊沢村の豪農市川文蔵。近年、市川家が江戸の四谷などに土地を所有し町屋の経営を行っていたことが、東京都埋蔵文化財センターによる四谷一丁目の発掘調査と文献調査によって明らかとなってきました(註4・5)。市川家は明和3年(1766)に麹町6丁目を始めとして、四谷塩町一丁目、赤坂裏伝馬町二丁目などの土地を購入し、町屋敷を経営していました。その目的は町屋からの収入よりも穀類や銭など江戸の相場情報を家守りから得ることだったと推測されています。

 こうして見ると江戸時代の荊沢宿は駿河と信州だけでなく、市川家や馬場家を軸に江戸や上方と広域のネットワークで結ばれ、物資だけでなく最新の情報ももたらされていたと言えるでしょう。


4.大正末期の街並み
 大正時代末ごろの荊沢宿の街並みを地元の方が書き記した地図があります(第3図)。それを手掛かりに明治3年からの大正時代末期までの街並みの移り変わりを見ていきましょう。
 まず明治3年から継続して営まれているのは、荒物屋、酒造屋、菓子屋、焼き芋屋、桶屋、大工、紺屋、銭湯などです。一方明治3年から大きく変化したのは木綿関係で、10あった綿打屋がなくなり、座繰屋2だけとなりました。明治中頃安価な外国産綿が輸入され、山梨県内の木綿生産は急速に衰退した状況が街並みにも反映されています。
 次に文明開花から西洋化が進んだ大正時代、技術や生活様式の変化に注目してみましょう。髪結から床屋へ、提灯屋からランプ屋や電球交換へ、飲食店にはバーが登場し、洋品を扱う雑貨屋も始められました。さらに江戸時代や明治初期にはなかった新たな商いも始められています。新しい材のセメント屋、自転車屋、車力、ラジオ屋まで登場しました。特に自転車は大正時代急速に発展した行商の足として欠かせないものでした。ラジオは大正14年(1925)から新たなメディアとして放送が開始され、一般への普及はやや遅れることから、この地図に書かれたラジオ屋は昭和初期のものかもしれません。また、郵便局も設置されています。明治7年7月1日荊沢郵便御用取扱所(明治8年荊沢郵便局に改称)が設立され、紆余曲折ありながら、荊沢郵便局に続いていきます。市川文蔵家では明治に入り市川銀行が設立されました。また娯楽施設も新たに作られました。大正初期、塩沢安重は父が営んだ酒造の広大な跡地を利用して東落合の新津隆一、西落合の深沢富三とともに芝居小屋「旭座」を設立しました。旭座では芝居や活動写真(無声映画)が上演され、西郡を代表する娯楽施設の一つとなったと言われます。

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【図3】大正末〜昭和初期の街並み

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【写真】荊沢宿で江戸時代?から昭和まで桶屋を営んでいた仙洞田家には今も味噌や漬物などに使われた桶が残されている。かつては県内各地の酒蔵の樽の製作と補修も行なっていた。

 

おわりに
 時代が移り、技術が発達し、交通網が変わり、生活様式も変化し、荊沢宿はその姿を変えてきました。街並みは時代を写す鏡と言えるかもしれません。現在の荊沢宿の商店は以前と比べ少なくなっていますが、コミュニティースペースやカフェなどが作られ、さまざまな人々が集う新たな荊沢宿も生まれつつあるようです。
 

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【写真】荊沢「くらんく」では、定期的に芝居やコンサート、学習会などが開かれている

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【写真】荊沢「くらんく」でのクラッシックコンサート

 

註1 連載 今、南アルプスが面白い2018年9月14日 (金) 何気ない街角に歴史あり(その5) 旧荊沢宿の「かねんて」

註2 宇佐美英 1998 「馬場利左衛門家の出店と「出世証文」」 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要第31号

註3 荊沢宿の市川家当主は代々市川文蔵を名乗った。

註4 東京都埋蔵文化財センター 2020 『新宿区四谷一丁目遺跡-東京都市計画四谷駅前地区第一種市街地再開発事業に伴う調査-』東京都埋蔵文化財センター調査報告第350集

【南アルプス市教育委員会文化財課】