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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

国重要文化財 鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」

はじめに

 10月末までインターネットを利用した投票イベント「縄文ドキドキ総選挙2020」が開催されました。
南アルプス市鋳物師屋遺跡の土偶「子宝の女神 ラヴィ」もエントリーされ、国宝土偶「縄文のビーナス」との一騎打ち状態で優勝争いを続け、見事準優勝となりました。優勝は「縄文のビーナス」(長野県茅野市)で2191票、準優勝「子宝の女神ラヴィ」(南アルプス市)は1844票、第3位「ミス石之坪」(韮崎市)は568票でした。
 全国から30点がエントリーされた中で、なんとトップ3を「中部高地」地域と呼ばれる山梨県と長野県の土偶が占めたのでした。「中部高地」地域は、黒曜石の原産地もあり、また縄文時代中期(約5500年前~4500年前)に独特な文化を育み、全国でも有数の縄文遺跡の存在が知られる地域と言えます。縄文時代中期には、立体的な装飾や神話的な物語性のある土器が作られるなどの独特の世界観を示していることも大きな特徴で、最近ではそれらに位置する遺跡や遺物をまとめて日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」に認定されたことでも知られます。土偶についてもまさにその通りで、中期には、立像土偶やさまざまなしぐさのある土偶などにみられるように、縄文時代の中でもひとつの盛行期を成していたと考えられます。
 
 「子宝の女神 ラヴィ」の愛称で親しまれているこの土偶は、南アルプス市鋳物師屋遺跡の出土で、円錐形の体を持ち独特なしぐさをしています。普段は「南アルプス市ふるさと文化伝承館」で会うことができますが、一昨年はパリの「縄文展」にも貸し出されていました。
 平成5年の調査終了後、平成7年に国の重要文化財に指定され、その後、その年のイタリアを皮切りに、マレーシア、イギリス(2回)、韓国、カナダへ貸し出されるなど海外の博物館でグローバルに活躍している、まさに縄文文化の「顔」役な土偶と言えます。
 今回からは、数回に分けて、そのように国内外で活躍する鋳物師屋遺跡とその土偶について、これまで紹介してきた内容を一歩進め、ふるさと文化伝承館で実際に受けた質問などにも答えながら、一体どのような遺跡・土偶なのか、深掘りして紐解いていきたいと思います。

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【写真】土偶「子宝の女神 ラヴィ」


まずは「鋳物師屋遺跡」について

 鋳物師屋遺跡は山梨県南アルプス市の下市之瀬地区にあり、甲府盆地の西縁、櫛形山麓の市之瀬台地の下に広がる扇状地に立地する遺跡です。標高は約280~290メートルを測り、現在は漆川と市之瀬川とに挟まれた範囲に位置します。
 鋳物師屋遺跡は平成4年から5年にかけて、工業団地の造成計画に伴って発掘調査が行われました。実はこの工業団地造成に伴って主に3期に分けて工事が計画され、それぞれで発掘調査が行われたため、それらを総称して「鋳物師屋遺跡群」と呼ぶことがあります。以下の通りです。
 
(1)〆木遺跡(昭和61年)約6600平方メートル
工業団地の第1期造成工事範囲の調査。縄文時代中期の住居址4軒、小竪穴以降2基、土壙(土坑)等と、平安時代前期の住居址33軒等を発見。
(2)川上道下遺跡(平成2年)約2000平方メートル
縄文時代の小穴と、平安時代住居址16軒を発見。
(3)鋳物師屋遺跡(平成4~5年)約13000平方メートル
縄文時代中期の住居址27軒、土坑、小穴等多数と、平安時代前期の住居址114軒等を発見。

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【図】調査された遺跡の範囲
 
 遺跡は通常その土地の字(あざ)名を遺跡名に付けますので、それぞれ違う名前がついていますが、発見された集落はそれらの遺跡をまたいで存在していることが判明しています。よって、先述した重要文化財に指定された資料の中には、〆木遺跡の出土品も含まれているのです。よく問い合わせで、「鋳物師屋遺跡」の発掘調査の報告書の見つけられない土器や土偶があるというのはそのためです。「〆木遺跡」の報告書に掲載されているのです。
 
 平安時代にも集落が営まれているなど複数の時代を併せ持つ遺跡ではありますが、縄文時代で言うと縄文時代中期の前半から中葉にかけてと(縄文時代の研究でいうところの「新道式期」と「藤内式期」という時代区分を中心とした)わりと限定された期間のみ存続した集落遺跡といえます。
 
 縄文時代の住居址は鋳物師屋遺跡と〆木遺跡のみに限定され、31軒以上確認されています(遺跡内には住居址と思われる遺構も存在し、その遺構の扱いをどう考えるかによって、件数の考え方が変わります。過去には軒数を32軒と表示したこともありますが、ここでは、はっきりと住居と認定でき最低限の数として31軒以上とします)。
 
 発見された土器の特徴から、およそ7つの時期に分けることができます。その時期ごとに住居を当てはめていくと、一つの時期に同時に存在していた住居は3軒から5軒程度ということがわかりました。つまり、ムラの風景としては3軒から5軒の住居が建っているもので、建て替えや移転を繰り返す中で、最終的に31軒の住居の痕跡が地面に刻まれていたということです。

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【図】鋳物師屋遺跡群の遺構分布の様子
 
 31軒の住居址からは沢山の土器や石器の他に、土偶や土偶装飾付土器などマジカルな資料も出土しています。全国で2番目の土偶多産県である山梨県内の遺跡としては突出して多いというわけではありませんが、眼球のある土偶や顔をつぶされた土偶、サル型の土製品に、国宝「縄文のビーナス(茅野市棚畑遺跡)」のコピー土偶、さらには土偶装飾が前面に貼り付いた「人体文様付き有孔鍔付き土器」など、キャラクターの濃い優品が揃っています。中でもこの土偶「子宝の女神 ラヴィ(以下ラヴィ)」は遺存状態も良作りも丁寧で、その頂点にいる土偶です。

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【写真】「人体文様付有孔鍔付土器(じんたいもんようつきゆうこうつばつきどき)」

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【写真】左から眼球のある土偶(〆木遺跡)、サル形土製品、顔をつぶされた土偶、縄文のビーナスのコピー土偶


「ラヴィ」は竪穴住居の床面付近から出土した

 「ラヴィ」は、57号住居址の床面近くから発見され、ほとんど全体が残っていた大型の土偶です
 左肩と後頭部の一部を除いてほぼ全てが揃っていて、通常知られる土偶の出土状態と違い、バラバラではない状態で見つかりました。また、住居の床面で見つかったということも特徴的で、長野県などで発見された国宝土偶のように、お墓に伴うものとは性格が違うようです。
 住居から発見されたということは、土偶の中には、住居の中で使われるものがあるということを教えてくれます。置きものでしょうか?たとえばその住居に住んでいた方が作った土偶でしょうか?それとももっと前に作られて代々受け継がれてきたものだったりはしないのでしょうか?疑問は尽きません。

 そのヒントを探すために、次回、この土偶をまずはよく観察し、他の土偶と比較検討していきたいと思います。よく観察すると、この土偶は情報の宝庫であることがわかってくるのです。

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【写真】「子宝の女神 ラヴィ」の出土状況

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

開削350年 徳島堰(2)

 前号に引き続き、完成して今年で350年の「徳島堰」についてご紹介いたします。
 今回は、この堰を作るきっかけとなった徳島兵左衛門の計画や、実際の工事に見られる特徴、工事に立ちはだかった難敵についてと、またよく耳にする徳島堰で舟運が計画されたという点についても、事実かどうか技術面と併せてみていきたいと思います。

 

徳島兵左衛門の計画

 徳島兵左衛門と徳島堰の開削については、これまで諸説が伝わり、通常は以下のようにまとめることができます。
 徳島兵左衛門が釜無川右岸の水利が乏しく広大な荒れ地が存在することを知ったことで、自身の発願により、甲府藩の許可のもと工事を実施したもので、上円井と鰍沢を結び、付近の芝地を開発し、且つ富士川の舟運を上円井まで遡上しようと計画したが、道半ばにおいて不遇の内に新田堰を藩主徳川綱重へ差出し、いずれかへ立ち去ったという内容です。
 最近では、工事が兵左衛門による発願ではなく甲府藩からの委託だとする説もありますが、いずれにしろ兵左衛門は、御勅使川の水量では御勅使川扇状地一帯に水を行き渡らせることができないと考え、韮崎市円野町上円井から釜無川の水を引くこととしています。

 

 取水口から最終地点の曲輪田新田までの17kmは、遠方まで水を届けるために緩やかな勾配で山裾を地形に沿ったルートを取っています。その分、西の山々からは何本もの川が流れ下っており、徳島堰を造るにあたって最大の悩みの種は、これらの川の存在でした。これらの川をいかに横切らせるかと、川が運び込む土砂の対策でした。

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)

 

 堰が川を渡る方法は主に三種の方法が採用されました。「埋樋(うめどい)」、「掛樋(かけどい)」、「請込(うけこみ)」と呼ばれるものです。多くの川では川の下に木製の箱樋(はこどい)を埋め、トンネル(埋樋・暗きょ)にして水を流しました。他には川の上を木製の樋を橋のように渡して横断する方法(掛樋)や、後世になると山から流れ下る川の水をせき止めて徳島堰の水と一緒に堰に流す方法(請込)などが用いられました。しかし、請込の場合、山から絶えず土砂が運び込まれ堰へ流入してしまうため、請込のすぐ下流に土砂の排出口を設け、常に人力で排出する作業が必要でした。
 そのため、川を横切る方法として優先すべきは、川と堰とを立体的に交差させ、水や土砂が交わらないようにすることでした。ただし、山から流れ出る川は土砂を運び込むため、河床が高くなていきます(天井川化)。そのため、当初は、川の方が低いところを流れていた「掛樋」の場所が、数年後に河床があがったことで「請込」になり、さらにその後「埋樋」に変わってゆくというように、時間の経過につれて横切る方法も見直さなければいけませんでした。
 

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた埋樋(下円井村入戸野村境)

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた掛樋(上条北割村)

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【写真】徳島堰絵図(慶応4年)に描かれた請込(寺沢請込)

 ルート上、旧折居村の山吹沢など四箇所の大難場があったと言われますが、中でも最大の難所が御勅使川でした。御勅使川は川幅が六〇〇メートルもあり、天下の暴れ川として知られる河川です。兵左衛門が御勅使川を横断する最初の方法として採用したのが「板せき」と呼ばれる工法で、御勅使川の水を板を並べてせき止め、徳島堰の水と合流させて堰に流すという方法です。板せきは、徳島堰と御勅使川の河床が同じ高さであったことがうかがえますが、それから四十年あまりの間に御勅使川の河床が上がったため、埋樋に変えられ現在のように暗きょとして川の下を横断したものと考えられます。

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【写真】御勅使川暗渠入口(韮崎市側)

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【写真】御勅使川暗渠出口(南アルプス市側)

 『徳島堰根源記』という記録には、江戸から連れてこられた技術者と考えられる人々の名前が見られます。大強力富野喜兵衛、大工頭中野作衛門、力者頭富野長兵衛などは専門技術者とみられ、起伏に富んだ地形に合わせ一定の勾配を保つ測量の技術と、これらの川を横断する高い土木技術は江戸から導入されたものと考えられます。これらの技術と、地元の人々の力によって通水が成功するのです。
 現在ふるさと文化伝承館で開催されているテーマ展「開削350年 徳島堰」には、富野長兵衛氏の末裔の方が見学に来られ、通水後も上円井に残り、その後の堰の管理などに携わっていたこともわかりました。

 

舟運計画は本当か

 徳島堰は耕作面積を増やす目的の他に、舟運の構想があったとされます。
 昭和34年に刊行された「徳島堰誌」(三枝善右衛門編)には「主目的は、上円井から鰍沢迄、幅2間、長さ7里余の運河開鑿の計画であった」とあり、またそれより前、文化4年に作成された「徳島堰由来書」には、当初は用水路の開削のみでなく「上円井村地内より釜無川を引き入れ、同州鰍沢迄里数七里の間用水引き通し、右堰筋通船致すに及び、信州より、、、、」とあります。
 実際のところ、着工する前年の寛文4年に兵左衛門が上円井の諏訪神社神主に宛てた証文中に「此度、巨摩郡上円井村より同郡鰍沢迄、巾弐間、長七里余新田堰堀渡し祈願に付、、、」とあるので、この証文の文言を引用したものと考えられ、確かに構想段階では、兵左衛門は用水路の終着点を鰍沢にしていたと考えられます。
 鰍沢は、十七世紀初頭に整備された富士川舟運における甲斐国の最大拠点でもありますから、兵左衛門は新たな水路と舟運との接続を想定していた可能性は高いでしょう。しかし、証文中にそのような言葉は無く、先述した由来書などを作成するにあたり、その可能性の部分が補足され、主な目的として語り継がれることになったものと考えられます。

 

 現実的には、先ほど紹介したように、ルート上には掛樋や埋樋などを二十箇所以上設置しなければならず、また、舟を通すには勾配が急すぎて舟を通すだけの水丈を確保出来ないことなどから、そもそも不可能といえます。
 徳島堰のルートは、先述した通り、緩やかな勾配を取ることでなるべく長距離先に水を運ぶよう設計されていますが、上円井から曲輪田新田までの距離約17kmで落差は約50mほどとなります。1mにつき約3㎜の勾配と言え平均勾配は約340分の1です。
 もし鰍沢まで通水した場合、曲輪田新田の標高が約400m、鰍沢の標高が約250m弱で、距離が約10kmですので、平均勾配はさらに急な約70分の1となります。
 通常、船を動かすための運河は、流速が遅く水深が確保できる1000分の1以下の勾配が望ましいそうです。ということは、現在完成している部分でさえも勾配はその3倍の急こう配といえ、鰍沢までとなると、そもそも船を通すことは不可能な斜面地といえます。
 それでも船を通す場合、水路部分の勾配は緩やかにしておいて各所に段差を作り、水位調整のための閘門(こうもん)を取り付けることとなります。江戸時代にも閘門の技術は生まれる(徳島堰よりも約60年後に見沼代用水において日本初の閘門が設置される)徳島堰でそれを行おうとすると何十か所と必要となるため、現実的とは言えません。
 ちなみに、昭和40年代から改修された現在の徳島堰の勾配は、約1000分の1といいます。そのかわり、ルート内に45か所以上の段差工が設けられているのです。

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【写真】段差工の様子

 


 実際に設計をすれば、急勾配の問題と、山から流下する河川を渡る問題がすぐに判明するわけで、兵左衛門も、早い段階で鰍沢までの通水プランをやめ、予定よりも水路の幅も狭め、用水路目的の一本に絞ったとみられます。

 

矢崎家が受け継ぐ

 寛文七年、兵左衛門の後、事業を引き継いだ甲府藩より堰の復旧工事を命じられたのが、武田氏旧臣を出自とする有野村の矢崎又右衛門とその父佐治右衛門でした。矢崎父子はまず数ヶ月かけて測量・設計を行ったのちに復旧工事に着手しますが、工事開始早々の寛文8年5月には立て続けに三度も水害に見舞われ、釜無川の取水口や御勅使川の板せきなど各所に被害が発生します。徳島堰と交差する巨摩山地から流れ出る川の数々は、たびたび多くの土砂を含んだ洪水を起こし、堰を破壊してしまいます。そのため、埋樋のように川と堰とを立体的に交差させて対策するのですが、一筋縄では進められなかったようです。その後も損壊と修復とを繰り返し、寛文10年(1670)に完成へと漕ぎ着けるのです。
 それがちょうど今から350年前のことであり、その後も改良に改良を加え、現在まで、南アルプス市の暮らしを支え続けているのです。

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 【写真】「開削350年 徳島堰」のチラシ

 

<参考文献>
「徳島堰誌」1959
「続 徳島堰誌」徳島堰土地改良区 2018

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

開削350年 徳島堰(1)

フルーツ王国・南アルプス市

 すももの収穫量山梨1位・全国1位、サクランボの収穫量山梨1位・全国7位、ぶどうの収穫量山梨4位・全国5位、モモの収穫量山梨4位・全国7位、キウイの収穫量山梨1位・全国17位、カキの収穫量山梨1位・全国23位、ウメの収穫量山梨1位・全国16位、、、などなど、これは南アルプス市の果樹の収穫量であり、まさに南アルプス市は果樹王国といえます(データは少し前のものです)。

 果樹栽培の主な舞台となる御勅使川扇状地は、現在の市域北部を流れる御勅使川が、山々を削り、運んだ土砂が長い年月をかけて堆積して造り出された、南北約10km、東西約7.5kmに及ぶ広大な土地です。御勅使川が運ぶ土砂 は砂礫(れき)が多く含まれているため、透水性が大きく、昭和四十年代にスプリンクラーが設置されるまで、月夜の弱い光でさえ日照りをおこすと言われた、国内でも有数の乾燥地帯でした。水害が多発する一方で、広大な範囲に御勅使川が運んだ砂礫が厚く堆積しているため、透水性が大きく、水を得ることが困難なのです。そのため、水の獲得は扇状地(原方)に暮らす人々にとっての再優先課題でした。こうした過酷な環境を切り開き、土地の特徴を生かした独特な文化を育みながら、現在の果樹栽培へと暮らしをつないできたのです。

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【写真】御勅使川扇状地周辺の地形

徳島堰 三五〇年

 これまでにも、その過酷な環境を乗り越えるべく扇状地に暮らす知恵やその変遷についてご紹介してきましたが、中でも大きな画期となったのが「徳島堰」の開削と言えるでしょう。完成して今年でちょうど350年を迎えましたので、南アルプス市ふるさと文化伝承館では350年を記念して、テーマ展示「開削350年 徳島堰」を開催しております。そのようなタイミングに合わせて、ふるさとメールでも何回かに渡って徳島堰についてご紹介していきます。今回はまずその概観から。

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【写真】テーマ展示「開削350年 徳島堰」のチラシ(表・裏)

 御勅使川は、その透水性から元々水量が少ない上に、夏になると上流部で水田に水を使うため、その水を扇状地全体に広く行き渡らせることはできません。そのため、徳島堰は、御勅使川ではなく、釡無川の上円井(韮崎市)から取水してい ます。 寛文五年(一六六五)、江戸深川の町人徳島兵左衛門が工事に着手し、二年後の寛文七年には曲輪田まで通水したと言われます。その距離約十七km。しかし、同じ年に起きた二度の大雨のため堰の大部分が 埋没したと言われます。これを機に兵左衛門は事業を断念し、この地を離れてしまいます。

 事業を引き継いだ甲府藩の甲府城代戸田周防守は、家臣の津田伝右衛門と有野村の矢崎又右衛門に堰の改修を命じました。矢崎又右衛門は私財を投じてこの復旧工事に取り組み、ちょうど今から三五〇年前の寛文十年(一六七〇)、ついに完成させ、翌年藩に引き渡されました。当時の文書からは、当初は「西郡新田堰」と記されていることがわかりますが、後に「徳島堰」と呼ばれるようになります。

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【写真】江戸時代の前期に建築されたとみられる矢崎家住宅(市指定文化財)

 堰が完成したことにより、堰にほど近い村では畑が水田に変わり、多くの村々で新たに水田が拓かれました。六科村や有野村などでは石高が増加し、飯野新田や曲輪田新田などの新しい村もできました。

 しかし、この堰ができても水田を営むまでの十分な水が供給できなかったのが原七郷(上八田、在家塚、西野、桃園、上今井、吉田(沢登・十五所も含む)、小笠原)と呼ばれる地域で、農業はおろか、飲み水にも困る生活をしていました。古くから地元でいわれてきた「原七郷はお月夜でも焼ける」の言葉は、月の弱い光でも乾燥してしまうほど水の乏しい土地ということを表しています。

 ただし、在家塚の一部では通水に成功して水田が営まれたり、その他の地域でも、徳島堰の水が溜池に通水されて貴重な生活用水として利用されたり、さらには、堰から地下へ浸み込んだ水が伏流水となって、御勅使川扇状地扇端部の村々の井戸水としての貴重な水源にもなったのです。


徳島堰が育んだ「暮らしの風景」

 このように、徳島堰は、直接的・間接的に扇状地に多大な恩恵をもたらしました。 それだけではありません。徳島堰は生活の一部でもありました。

 堰にほど近い地域では、夏は堰で泳ぎを覚え、冬はスケートを覚えたというお話も多く耳にします。また、お風呂の水として利用したり、洗い場(「つけえ場」)として利用したりと暮らしに欠かせない存在でした。この徳島堰を舞台に様々な「暮らしの風景」が生まれ、文化が育まれており、地域の方の記憶に刻まれているのです。

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【写真】今も残る「つけえ場」(韮崎市)

 ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村博士は韮崎市の出身である事は知られているところですが、ご生家は旭地区の徳島堰沿いにありました。現在、大村美術館がある付近です。博士はご自身の著書で、幼少期を振り返る記述の中で度々徳島堰について触れています。著書「人間の旬」では「泳ぐことについては、生家の近くを流れる徳島堰の急流で上級生に鍛えられていたので、静かで自然に体が浮く海での泳ぎは楽であった」とあったり、「ストックホルムへの廻り道」には、「夏の楽しみとしてよく、夕飯を済ませてからカンテラと銛を持って父のあとを追い、田んぼに水を引く堰のウナギを捕まえに行った。(中略)私の好奇心を大いにかきたててくれたものである」とあります。徳島堰での暮らしが博士のその後の研究に影響を及ぼしたかもしれないと考えると感慨深いものがあります。

 徳島堰は、石等で一部護岸されただけの素掘りの水路でしたので、様々な生物もおり、豊かな水辺の風景もありました。まさに大村博士の記憶の風景と同じでしょう。しかし素掘りの水路は水が浸透・漏水しやすい欠点もあり、扇状地の水不足を根本から解消するには至らず、水争いも戦後まで絶えませんでした。

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【写真】石積みの頃の徳島堰

 昭和41年(1966年)から、釡無川右岸の土地改良事業が着手され、徳島堰のコンクリート化が始まります。安定した水量を確保できるとともに、昭和49年にはその水を利用したスプリンクラーが扇状地全体に張り巡らされ、扇状地全体の灌漑(かんがい)化も一気に進むことになります。

 現在ではスプリンクラーを通じて散水された徳島堰の水が、サクランボやスモモ、モモ、ブドウといった南アルプス市を代表するフルーツを育んでいます。

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【写真】最初に設置されたスプリンクラーヘッド アメリカのレインバード社製のもので、昭和20年代から飯野地域で実験的に導入されている

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【写真】南アルプス市内の扇状地全体に張りめぐらされたスプリンクラーと畑管の配置図。赤い丸印がスプリンクラーの位置を示している

 350年前に先人たちの人力によって完成された徳島堰が、今の南アルプス市のフルーツ産業を支えています。言わば南アルプス市の血管のように市内各地に行き渡り、活力をもたらしている存在と言えるのです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

法善寺のサルスベリとあかずの門

 8月のこの時期に花を咲かせる木にサルスベリがあります。木登りが得意なサルもすべるほど樹肌がツルツルしていることからその名があり、その開花時期の長さから、漢字では「百日紅」とも書かれます。
 加賀美にある真言宗の古刹、法善寺の境内にはその巨木あり、その花は例年参拝者をたのしませています。

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【写真】法善寺

 樹高約15m、根廻り約2.8m。樹齢は定かではありませんが、サルスベリとしては、県下有数の巨木として、現在は市の天然記念物に指定されています。例年この時期に花を咲かせはじめるのですが、今年は梅雨が長引いたせいでしょうか、開花が少し遅いとのこと。この写真を撮った8月13日時点では、まだ咲き始めといったところでしょうか。

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【写真】法善寺のサルスベリ

 ところで、そのサルスベリの傍らにある門は、いつも閉ざされていて、お寺では「あかずの門」と呼ばれています。この門には、エピソードがあって、お寺の言い伝えによれば、鎌倉時代に日蓮聖人が、この村へやって来て村の南に庵をつくり、そこから毎日この寺へ通って、自らの教えに改宗するよう住職を説得したのですが、その当時の住職はこれを聞き入れず、門を開けなかったことから、聖人はついにあきらめて、他所へいってしまったのだそうです。
 その頃この付近の寺院の多くが、日蓮聖人の教えに改宗してしまった中、法善寺が真言宗として残ったこと、またはこの門が本来勅使門であって開いたことがなかったことからこのような伝説がうまれたと考えられます。

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【写真】あかずの門

 このエピソードは、あくまで伝説であり、もちろん今の門そのものも、当時のものではありませんが、門は、自らの宗教を守り続けた歴史を伝えるエピソードの象徴として現在ものこされています。

 ちなみに、法善寺の南西には、日蓮聖人が庵を結んだ場所として、現在も「上人塚」と呼ばれる場所があり、伝説を今に伝えています。

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【写真】上人塚

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

無病息災を願って~八王子社の茅の輪くぐり~

 落合地区の神社、八王子社では、毎年6月30日に、「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」が行われます。地域で「みそぎまつり」とか「わっくぐり」などと呼ばれて親しまれてきたこのお祭りは、一年の折り返し点のこの日に、年の前半の穢れを清め、年の後半の無病息災を祈る「夏越の祓(なごしのはらえ)」として全国的に行われている神事のひとつです。

 八王子社の茅の輪くぐりは、青竹と「ちがや」で直径1.8mくらいの大きな輪をつくって拝殿に奉納し、参拝者はこれをくぐってお参りすれば無病息災で、しかも縁結びのご利益もあるといわれています。

 小さな神社の小さなお祭りですが、例年は露店も出て多くの参拝者でにぎわい、地域の子どもたちもこの日を心待ちにしています。

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(写真)例年の賑わい

 しかし、今年八王子社にいってみると、茅の輪は奉納されていますが、拝殿の戸は固く閉ざされ、ひとっこひとりいない状況でした。いうまでもなく新型コロナウィルスの影響なのですが、現在市内で茅の輪くぐりをしているのは、ここ八王子社だけ。無病息災の願いが込められた茅の輪にあやかり、来年はまた盛大にこのお祭りが開催されることを願ってやみません。

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(写真)今年の様子

 ところで、このお祭は最後には、茅の輪の奪い合いが行われてきたそうです。むかしはこのお祭りを行っている三地区、西落合、東落合、西新居の若者たちが競って輪を取り合っていましたが、なぜか西新居が勝ちとなり、これを道祖神に奉納することになっているのだそうです。それで三つの村がいちばん平和に収まるのだと伝えられています。

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(写真)西新居の道祖神

 地域の伝承では、茅の輪くぐりを行っている落合地区の三つの集落は、もともとは宗持の里といって、八王子社の南側にありましたが、水害を逃れるために、現在の東落合、西落合、西新居に分かれたと伝えられています。実際に発掘調査をしてみると八王子社の南側からは、中世の村の跡や遺物が発見され、その伝承を裏付けています。

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(写真)宗持の里遺跡の出土品(中世)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

不動寺のボダイジュと数珠

 6月を迎え、梅雨時とあって、はっきりしない日が続きます。このような時期に、小さく可憐な花を満開に咲かせてくれているのが、古市場にある不動寺のボダイジュです。山門の脇に根をはるボダイジュの花の、その馥郁たる香りは周囲にひろがり、毎年参拝者や道行く人々に親しまれています。不動寺のボダイジュは、樹高約6.2m、幹回り(目通り)約1m。現在は、市指定の天然記念物となっており、今もその樹勢は旺盛です。

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【写真】不動寺とボダイジュ

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【写真】不動寺のボダイジュ

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【写真】ボダイジュの花

 お寺などに植えられていることが多いボダイジュ(菩提樹)は、中国原産のシナノキ科シナノキ属の落葉高木です。鎌倉時代の仏教史書『元享釈書』によれば、日本へは12世紀に臨済宗の開祖栄西によって中国(宗)の天目山より初めてもたらされ、まず筑前(福岡県)の香椎宮に植えられた後、東大寺、建仁寺に移植されたといわれます。その後全国へ分植されていったのでしょう。
 ちなみに、ご存知の方も多いと思いますが、釈迦がその木の下で悟りを開いたという「菩提樹」は、クワ科イチジク属のインドボダイジュで、現在日本において広く認知されるボダイジュとは種がまったく異なります。一説には、中国では熱帯産のインドボダイジュの育成には適さないため、葉の形状が似たシナノキ科の本種をボダイジュとしたともいわれています。

 ボダイジュの実は硬く、しばしば僧侶などがもつ数珠の材料としても用いられたようです。実際、先月ご紹介した十日市場の二本柳遺跡からは、火葬骨(遺灰)を入れた木棺から、副葬品としてボダイジュの実で造った数珠が発見されています。
 この木棺は、戦国時代のものと考えられ、中には、数珠や火葬骨のほか、古銭6枚(六道銭)、2枚重ねの土器の皿にのせられた稲穂が見つかり、中世の葬送儀礼を知るうえで貴重な発見といわれています。

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【写真】二本柳遺跡の木棺(戦国時代)(※1)

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【写真】二本柳遺跡の木棺(内部)(※1)

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【写真】二本柳遺跡で発見されたボダイジュの実(※1)

 最後に、蛇足ながらこの原稿を書くにあたり、不動寺のボダイジュの実を拾い、実際に数珠を作ってみました。なかなか素朴で味わい深い仕上がりだと思うのですがいかがでしょうか。

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【写真】不動寺のボダイジュで作った数珠

(※1)山梨県教育委員2013「二本柳遺跡」『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書』第183集より

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

整然としたまちなみ ~市内にひろがる条里型の地割~

 先月紹介した迷宮のような鏡中条地区とは対照的に、市内には路地が等間隔に、碁盤の目状に交差する整然としたまちなみが、みられるエリアがあります。

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【図】条里型の地割が見られる場所

 このような土地割は、むかしの単位でいうところの1町四方、現在の単位でおよそ109mの間隔で区画されており、一般的に、条里型の地割と呼ばれています。
 市内にみられる条里型の地割りについては、かつて(平成18年12月)紹介したこともありますが、今回改めてご紹介します。

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【写真】どこまでもまっすぐに伸びるまちなみ

 このような碁盤の目状の地割は、いまも全国各地に遺されているのですが、市域では、加賀美を中心に藤田、鮎沢、古市場、大師といった、滝沢川がつくった扇状地上の地区に認められ、真北からやや東に主軸をとって施工されています。

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【図】条里型の地割の分布

 このエリアは、北から迫る御勅使川扇状地の伏流水が湧き出すエリアで、その豊かな水資源に支えられ、遥か2000年以上前(弥生時代)からの水田の営みが連綿と、かつ濃密に認められることが発掘調査によって明らかにされています。

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【写真】現代の水田の下に弥生時代の水田が眠る(向河原遺跡)

 条里型の地割りは、このような地形的特徴の上に施工された、かつての農業基盤整備の痕跡ともいえます。その施工時期については、必ずしも明確ではありませんが、発掘調査の結果、10~13世紀頃とみられる水田において、現在と同様の軸を意識して作出された可能性のある畦畔が見つかった二本柳遺跡の成果などから、中世の鎌倉時代、さらには平安時代(10世紀頃)にまでさかのぼる可能性が指摘されています。

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【写真】二本柳遺跡

 直進方向は見通しが良いものの、市街地では、見通しの悪い交差点が続くこととなり、ともすれば危険な、このような街角は、実はむかしの人々が自然と対峙した労力の結晶であったことがわかります。

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【写真】現代の見通しの悪い交差点

 なお、この地割は現在、滝沢川などの河川の影響からか、中央部が消失し、東西に分断されているほか、藤田地区などその分布の東辺も、やはり釜無川の氾濫などの影響によって消失したものと見受けられます。

 しかし、藤田地内においては戦後、地域の人々の手によって、新たに耕地整理(土地改良事業)が行われ、現在整然とした区画がとり戻されています。この藤田地区土地改良事業は、総面積212ha。昭和28年から実に12年をかけて、昭和40年に竣工しましたが、当時は、ほとんどが地域住民の手による人力の施工だったそうです。

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【写真】土地改良前の様子

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【写真】土地改良を担った人々

 いつの世も、生きる糧となる農業の基盤整備は、人々の関心事だったことでしょう。
戦後、藤田地区で行われた耕地整理は、かつての条里地割の基軸線を活かして施行されており、ここでは、かつての条里地割と、いわば現代の条里地割である耕地整理とを千年の時を経て、隣り合って見ることができます。

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【写真】現在の藤田地区の耕地

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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鏡中条迷宮 ~泥棒が捕まらないまち!?~

 南アルプス市内各所にのこる昔ながらの集落。これら集落のまちなみは、江戸時代の村に起源をもつことから、細く入り組んだ路地が続いていることが多いのですが、その中でもひときわ外から訪れる人々を困惑させ、迷わせるのが、市域東辺にひろがる鏡中条地区のまちなみです。

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【図】鏡中条地区の位置

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【写真】迷宮への入口

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【写真】現在のまちなみ

 市民からも「あそこだけはわからない」だとか、「できれば入り込みたくない」などの声があがる、その複雑さの実態は、地図をみるとわかるのですが、驚くことに、集落の中のほとんどの路地が「丁字路」で構成されていることに起因します。また、これに輪をかけて、車のすれ違いも困難な細い路地がほとんどで、クランクや行き止まりもあり、人々を惑わせます。

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【図】鏡中条地区の路地(クリックするとアニメーションが見られます。赤い点が丁字路)

 地元の方に聞くと鏡中条は、「泥棒が捕まらないまち」なのだそうです。笑い話なのですが、丁字路が連続しているため、泥棒を追いかけても丁字路を曲がるたびにどちらに行ったか迷い、ついには見失ってしまうんだとか。

 鏡中条の集落が、なぜこのような特異な土地割りになってしまったのか不思議なところですが、実は現在の集落は、元々ここにあったものではなく、今から約400年ほど前に、村ごと移転してきたことがわかっています。

 集落の中にある神社、巨摩八幡宮の社記(由緒書 ※)によれば、神社は、河筋が変わって元々の場所が現在の釜無川の本流になってしまったため、天文13年(1544)に西側の高台(八幡)に移転しましたが、そこも釜無川の洪水流によって浸食され、慶長17年(1612)、再び移転して現在の地(中ノ切)に落ち着いたのだそうです。恐らく集落も神社とともに移転しているため、現在の場所に集落ができたのは、今からおよそ400年前ということになるのです。

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【写真】巨摩八幡宮

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【写真】移転模式図

 村ごと移転してきた際に、計画的な土地割をせずに、なし崩し的に家や建物が建っていってしまったのか、それとも、もっと深い理由が隠されているのかは、わかりませんが、鏡中条地区の複雑な土地割は、この時に形成されたものなのでしょう。
 近年、新しい家も建ち、道路の拡幅も進む一方、昔ながらの趣ある建物も細い路地もまだまだ残っています。みなさんも一度400年前の街角に迷い込んでみてはいかがでしょうか。なお道が狭いため、探索には徒歩か自転車、軽自動車がおすすめです。


※【参考】巨摩八幡宮社記
当社ハ往古より当村産神ニ而勧請鎮座之義ハ年代遠而委細相分不申候
七郷八幡宮之本宮ト申伝神宮司八幡宮弓矢守護神ト称シ武田家よりも代々御崇敬被為神領若干御寄附被成下候由
然ル処天文年中釜無川切込社頭神領不残流失仕候
数十戸之社人不残離散仕候由
于今其所を神宮寺河原ト申候
同暦十三甲辰年八幡宮を坂之上江引勧請仕候
其後慶長年中又々釜無川切込社地も段々欠込候故同暦十七年壬子年御旅所之社江引勧請候
只今之社地ハ往古之御旅所ニ御座候
其引候社跡之地名を今ニ八幡ト申候(後略)
『甲斐国社記・寺記』所収

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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がんばれ!!三恵(みつえ)の大ケヤキ

 南アルプス市寺部にある国指定天然記念物「三恵の大ケヤキ」。俗に樹齢千年ともいわれ、全国でも五指に入る大きさのケヤキとして、また山梨県内では全ての木の種類を通じて最も大きな木として、地域の誇りとなってきました。
 
 2012年5月15日 の本欄「新緑萌える~三恵(みつえ)の大ケヤキ~」でも紹介したこのケヤキ、バックナンバーを読んでもらえばわかりますが、これまでも全体を支える支柱の架け替えや発根を促す土壌改良など様々な方法を通じて見守り、一時は衰えた樹勢も盛り返して、昨年も豊かに葉を広げていました。

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【写真】被災前
 
 そんな、ケヤキに異変が生じたのは昨年10月12日。東日本を縦断した台風19号(令和元年東日本台風)でした。折からの強風により南北に延びる幹のうち、北に延びる主要な幹のひとつが折れ、支柱もろとも隣接する農機小屋を押しつぶしてしまったのです。夜間の出来事でした。折れた幹は根元部分で直径1m前後もありました。

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【写真】被災直後
 
 市では、国や県の補助を得ながら、年末に折れた幹や枝の撤去を完了し、2月中旬には、その切り口を整え、殺菌のために薬剤を塗ったり、南側に延びる幹の倒壊を未然に防ぐため、残った北側の幹とこれらを専用のロープで結ぶ(ケーブリング)などして、一応の手当てを終えました。

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【写真】かつての姿

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【写真】現在の姿

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【写真】ケーブリング
 
 ところで、その際折れた幹は、その一部を記録のために引き取り、文化財課で保管することにしたのですが(この部分は直径約80㎝)、樹齢千年ともいわれる三恵の大ケヤキですので、今回この機会に、その年輪を数えてみることにしました。

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【写真】年輪を数える
 
 その結果、数えることができた年輪は200本以上。主幹から分岐した幹でしたが200年以上もたっていました。もちろん元々の主幹部が、これを大きく超える年月を経てきたことは想像に難くありません。
 
 今から200年ちょっと前といえば、日本は江戸時代後期の文化年間(1804~1818)、江戸の町人文化が花開いた時代です。そうなると最初の大きな試練は、文政11年(1828)あたりでしょうか。後に「子年の大風(ねのとしのおおかぜ)(※1)」または、「シーボルト台風(※2)」と呼ばれるこの年の台風は、日本史上最大級の被害をもたらした台風のひとつとして知られています。まだ生まれて数年のか弱い枝は、その強風をまず生き延びたことになります。そして、その後の名だたる台風や降雪に耐え、ついこの秋まで葉を広げていたのです。そんな幹の経てきた歴史に思いをはせるとき、やはり今回のことは残念でなりません。
 
 しかし、片翼を失った形となり、大きく樹形を変えてしまった「三恵の大ケヤキ」ですが、生き残った部分はまだ大きく枝を広げています。

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【写真】現在のすがた

 そして、根元からは、新たなヒコバエ(※3)も生えてきています。今後とも、残った部分を大切に次代につなぎ、またかつてのように人々の憩いの場として再生することを願ってやみません。間近にせまった今年の芽吹きを期待したいと思います。 

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【写真】再び憩える場所へ(被災前)
 
 
※1 襲来した文政11年が子年にあたることからこう呼ばれる。
※2 この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に発展したという説があり、こう呼ばれる。
※3 樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

春を呼ぶお観音さん
~八田山長谷寺護摩焚きの炎と香りと音の風景~

 南アルプス市榎原に立地する古刹八田山長谷寺。3月18日の午後、春を感じさせるやわらかな日差しが八田山長谷寺の本堂に差し込んでいます。本尊を祀る須弥壇前の護摩壇では護摩が焚かれ、爆ぜた音とともに炎は天井へゆらめき、そこから立ちこめる白い煙は本堂内に集まる人々を包み込んでいます。

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【写真】護摩焚き

 
八田山長谷寺と十一面観音立像
 
 八田山長谷寺は寺伝によれば天平年間(729~794)に創建され、大和国(現在の奈良県)長谷寺を模し豊山長谷寺と号し、その後周囲が八田庄と呼ばれていたことから八田山へ改名されたと言われます。平安時代後期11世紀後半の造立と考えられている一木造りの十一面観音菩薩立像を本尊としています。

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【写真】八田山長谷寺観本堂(国重要文化財)


 大和国長谷寺の本尊は『三宝絵詞』(平安中期)や『長谷寺縁起文』(平安末~鎌倉時代)に記されているように、近江国(現在の滋賀県)高嶋郡の霊木から造られたと伝えられています。八田山長谷寺の十一面観音立像も一木から彫り出され、大和国と同じ岩座の上に立つことから霊木から彫り出された立木仏信仰があったことが推察されています。

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【写真】 十一面観音菩薩立像(県指定文化財)


大般若経の転読の歴史
 
 長谷寺で最も盛大に行われる祭りが3月18日の「お観音さん」です。ここで近世の史料をひもといてみましょう。天保13年(1842)寅年7月26日の『長谷寺般若転読并御修復ニ付取替議定書』と1848 嘉永元年(1848)申年10月『長谷寺観音開扉供養代官所への願い』には、十一面観音立像が33年に1度しかご開帳されない秘仏であったことが書かれています。現在もその信仰は続けられ、本堂の解体修理が完成した昭和25年(1950)、次が平成3年のそれぞれ3月18日にご開帳されました。
 
また、前述した『長谷寺般若転読并御修復ニ付取替議定書』には、 貞享2年(1685)より本堂が大破し一時中断を余儀なくされる以前の天保12年(1841)まで毎年2月18日19日大般若経の転読を毎年行ってきたと記録されています。転読とは600巻に及ぶ膨大な大般若経を分担し略して読み、五穀豊穣や所願成就などを祈る法要です。それを裏付けるように、大般若経100巻をセットにして納められた経箱の裏蓋の一つには「甲州西郡筋榎原村 八田山長谷寺 茲貞享貳 乙丑年」の文言が記されています。大般若経の転読は現在では新暦3月18日に改められ「お観音さん」と呼ばれて近隣の住民で賑わっています。

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【写真】経本を納めた経箱

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【写真】経本を納めた経箱の蓋裏

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【写真】大般若経

 
お観音さんでの大般若経の転読

 かつて2月18日に行われていたお観音さんは転読とともに馬の健康を祈願する初午の祭りとしても有名でした(八田長谷寺初午祭りの記録)。馬が飼われなくなった現代では、昭和25年以降始められた稚児行列から始まります。その年に小学校に入学する子どもたちが榎原集落センターから長谷寺まで、法螺貝の音色ともに修験者の姿をした僧侶に導かれ、長谷寺へ向かいます。

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【写真】稚児行列


 本堂では導師を務める長谷寺住職が中央に、県内真言宗寺院6名の住職が3名ずつ東西に分かれそれぞれの背後には子どもたちと保護者が座ります。
 
 護摩が爆ぜる音と香木の香が漂うひとときの静寂。導師が散杖(さんじょう)と呼ばれる細い棒で清められた水が入っている金銅製の器の内側を叩く音を合図に、7人の住職の読経が始まります。読経に合わせ、太鼓の重厚な音が本堂内にリズムを刻みます。真言を唱えた後、心願成就や心身健全、交通安全などの願文が捧げられます。その後法螺貝の一拍の音が転読の始まりを告げます。

【動画】長谷寺護摩焚き 転読(16.1 MB)

 

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【写真】護摩焚きの法具

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 導師が経本第1巻を手の平へ叩くように収めると乾いた音が響き、その瞬間「大般若波羅蜜多経 第一巻 唐三蔵法師玄奘 奉詔訳(ぶしょうやく)※」と唱えると、左右3名ずつ座した住職から一斉に転読が始まります。
※国(唐)が命じて訳したという意味
 
「だーい はんにゃはらみったきょうだい○かん とうげんじょうさんぞうほうし」までは一気に読み上げられ、「ぶしょうやーく」と最後はためが作られます。音の調子を例えるなら、出発を告げる電車のホームアナウンスの「しゅっぱーつ」と似ているかもしれませんね。

【動画】長谷寺護摩焚き 転読(17.8 MB)

 

 読経と同時に手に取った経本をパンと鳴らし、折りたたまれた経本が上から下へ弧を描き、流れ落ちる滝のように広げられます。それぞれの住職がそれぞれのリズムで100巻の経本の転読が繰り返されます。読経は重なり合って本堂に反響し、その声が波のようによせては返していきます。反響する音と護摩の炎とその香り。真剣にその光景を見つめる子もいれば、手で耳をふさぐ子、お母さんの手を握り寄り添う子、子どもたちは初めて見る護摩焚きに圧倒されています。一人ずつ子どもたちが健康を祈願し護摩木をくべる場面では、少し緊張した横顔が緋色に照らされます。

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【写真】転読

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 終盤に差し掛かると、一度護摩の炎で炙り清めた経本で、健康や学業成就を祈って、住職が子どもと保護者の肩を叩いて歩きます。転読が続く中、両肩を叩く柔らかい音が響いてきます。

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 転読が終わると、重なり合う読経が始まり、太鼓が鳴り響き、錫杖の金の音がリズムを刻み、法螺貝の音が重なって、荘厳な雰囲気に包まれます。読経が終わると短い法螺貝の音と終わりを告げる磬子が叩かれ、真言が唱えられ、静かに護摩焚き法要が終わりました。

【動画】長谷寺護摩焚き(17.2 MB)

 

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【写真】太鼓と錫杖

 

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護摩焚きの炎と香り、転読の音の風景は江戸時代から現代まで変わらず続けられてきました。また今年も春がやってきます。

 
長谷寺過去の記事
■ふるさとメール
◎水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~

◎平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰

◎新指定文化財のよこがお(2)木造十一面観音及び毘沙門天、不動明王立像 ~日の目をみた日不見観音(ひみずかんのん)~

◎文化財を守る地域の力
 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その1~

◎文化財を守る地域の力
 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~
 
■ふるさと〇〇博物館ブログ 
 八田山長谷寺の護摩と雨乞い

【南アルプス市教育委員会文化財課】