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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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連載 今、南アルプスが面白い

【連載 今、南アルプスが面白い】

徳島堰開削 350年

フルーツ王国・南アルプス市

 すももの収穫量山梨1位・全国1位、サクランボの収穫量山梨1位・全国7位、ぶどうの収穫量山梨4位・全国5位、モモの収穫量山梨4位・全国7位、キウイの収穫量山梨1位・全国17位、カキの収穫量山梨1位・全国23位、ウメの収穫量山梨1位・全国16位、、、などなど、これは南アルプス市の果樹の収穫量であり、まさに南アルプス市は果樹王国といえます(データは少し前のものです)。

 果樹栽培の主な舞台となる御勅使川扇状地は、現在の市域北部を流れる御勅使川が、山々を削り、運んだ土砂が長い年月をかけて堆積して造り出された、南北約10km、東西約7.5kmに及ぶ広大な土地です。御勅使川が運ぶ土砂 は砂礫(れき)が多く含まれているため、透水性が大きく、昭和四十年代にスプリンクラーが設置されるまで、月夜の弱い光でさえ日照りをおこすと言われた、国内でも有数の乾燥地帯でした。水害が多発する一方で、広大な範囲に御勅使川が運んだ砂礫が厚く堆積しているため、透水性が大きく、水を得ることが困難なのです。そのため、水の獲得は扇状地(原方)に暮らす人々にとっての再優先課題でした。こうした過酷な環境を切り開き、土地の特徴を生かした独特な文化を育みながら、現在の果樹栽培へと暮らしをつないできたのです。

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【写真】御勅使川扇状地周辺の地形

徳島堰 三五〇年

 これまでにも、その過酷な環境を乗り越えるべく扇状地に暮らす知恵やその変遷についてご紹介してきましたが、中でも大きな画期となったのが「徳島堰」の開削と言えるでしょう。完成して今年でちょうど350年を迎えましたので、南アルプス市ふるさと文化伝承館では350年を記念して、テーマ展示「開削350年 徳島堰」を開催しております。そのようなタイミングに合わせて、ふるさとメールでも何回かに渡って徳島堰についてご紹介していきます。今回はまずその概観から。

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【写真】テーマ展示「開削350年 徳島堰」のチラシ(表・裏)

 御勅使川は、その透水性から元々水量が少ない上に、夏になると上流部で水田に水を使うため、その水を扇状地全体に広く行き渡らせることはできません。そのため、徳島堰は、御勅使川ではなく、釡無川の上円井(韮崎市)から取水してい ます。 寛文五年(一六六五)、江戸深川の町人徳島兵左衛門が工事に着手し、二年後の寛文七年には曲輪田まで通水したと言われます。その距離約十七km。しかし、同じ年に起きた二度の大雨のため堰の大部分が 埋没したと言われます。これを機に兵左衛門は事業を断念し、この地を離れてしまいます。

 事業を引き継いだ甲府藩の甲府城代戸田周防守は、家臣の津田伝右衛門と有野村の矢崎又右衛門に堰の改修を命じました。矢崎又右衛門は私財を投じてこの復旧工事に取り組み、ちょうど今から三五〇年前の寛文十年(一六七〇)、ついに完成させ、翌年藩に引き渡されました。当時の文書からは、当初は「西郡新田堰」と記されていることがわかりますが、後に「徳島堰」と呼ばれるようになります。

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【写真】江戸時代の前期に建築されたとみられる矢崎家住宅(市指定文化財)

 堰が完成したことにより、堰にほど近い村では畑が水田に変わり、多くの村々で新たに水田が拓かれました。六科村や有野村などでは石高が増加し、飯野新田や曲輪田新田などの新しい村もできました。

 しかし、この堰ができても水田を営むまでの十分な水が供給できなかったのが原七郷(上八田、在家塚、西野、桃園、上今井、吉田(沢登・十五所も含む)、小笠原)と呼ばれる地域で、農業はおろか、飲み水にも困る生活をしていました。古くから地元でいわれてきた「原七郷はお月夜でも焼ける」の言葉は、月の弱い光でも乾燥してしまうほど水の乏しい土地ということを表しています。

 ただし、在家塚の一部では通水に成功して水田が営まれたり、その他の地域でも、徳島堰の水が溜池に通水されて貴重な生活用水として利用されたり、さらには、堰から地下へ浸み込んだ水が伏流水となって、御勅使川扇状地扇端部の村々の井戸水としての貴重な水源にもなったのです。


徳島堰が育んだ「暮らしの風景」

 このように、徳島堰は、直接的・間接的に扇状地に多大な恩恵をもたらしました。 それだけではありません。徳島堰は生活の一部でもありました。

 堰にほど近い地域では、夏は堰で泳ぎを覚え、冬はスケートを覚えたというお話も多く耳にします。また、お風呂の水として利用したり、洗い場(「つけえ場」)として利用したりと暮らしに欠かせない存在でした。この徳島堰を舞台に様々な「暮らしの風景」が生まれ、文化が育まれており、地域の方の記憶に刻まれているのです。

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【写真】今も残る「つけえ場」(韮崎市)

 ノーベル生理学・医学賞を受賞された大村博士は韮崎市の出身である事は知られているところですが、ご生家は旭地区の徳島堰沿いにありました。現在、大村美術館がある付近です。博士はご自身の著書で、幼少期を振り返る記述の中で度々徳島堰について触れています。著書「人間の旬」では「泳ぐことについては、生家の近くを流れる徳島堰の急流で上級生に鍛えられていたので、静かで自然に体が浮く海での泳ぎは楽であった」とあったり、「ストックホルムへの廻り道」には、「夏の楽しみとしてよく、夕飯を済ませてからカンテラと銛を持って父のあとを追い、田んぼに水を引く堰のウナギを捕まえに行った。(中略)私の好奇心を大いにかきたててくれたものである」とあります。徳島堰での暮らしが博士のその後の研究に影響を及ぼしたかもしれないと考えると感慨深いものがあります。

 徳島堰は、石等で一部護岸されただけの素掘りの水路でしたので、様々な生物もおり、豊かな水辺の風景もありました。まさに大村博士の記憶の風景と同じでしょう。しかし素掘りの水路は水が浸透・漏水しやすい欠点もあり、扇状地の水不足を根本から解消するには至らず、水争いも戦後まで絶えませんでした。

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【写真】石積みの頃の徳島堰

 昭和41年(1966年)から、釡無川右岸の土地改良事業が着手され、徳島堰のコンクリート化が始まります。安定した水量を確保できるとともに、昭和49年にはその水を利用したスプリンクラーが扇状地全体に張り巡らされ、扇状地全体の灌漑(かんがい)化も一気に進むことになります。

 現在ではスプリンクラーを通じて散水された徳島堰の水が、サクランボやスモモ、モモ、ブドウといった南アルプス市を代表するフルーツを育んでいます。

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【写真】最初に設置されたスプリンクラーヘッド アメリカのレインバード社製のもので、昭和20年代から飯野地域で実験的に導入されている

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【写真】南アルプス市内の扇状地全体に張りめぐらされたスプリンクラーと畑管の配置図。赤い丸印がスプリンクラーの位置を示している

 350年前に先人たちの人力によって完成された徳島堰が、今の南アルプス市のフルーツ産業を支えています。言わば南アルプス市の血管のように市内各地に行き渡り、活力をもたらしている存在と言えるのです。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

法善寺のサルスベリとあかずの門

 8月のこの時期に花を咲かせる木にサルスベリがあります。木登りが得意なサルもすべるほど樹肌がツルツルしていることからその名があり、その開花時期の長さから、漢字では「百日紅」とも書かれます。
 加賀美にある真言宗の古刹、法善寺の境内にはその巨木あり、その花は例年参拝者をたのしませています。

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【写真】法善寺

 樹高約15m、根廻り約2.8m。樹齢は定かではありませんが、サルスベリとしては、県下有数の巨木として、現在は市の天然記念物に指定されています。例年この時期に花を咲かせはじめるのですが、今年は梅雨が長引いたせいでしょうか、開花が少し遅いとのこと。この写真を撮った8月13日時点では、まだ咲き始めといったところでしょうか。

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【写真】法善寺のサルスベリ

 ところで、そのサルスベリの傍らにある門は、いつも閉ざされていて、お寺では「あかずの門」と呼ばれています。この門には、エピソードがあって、お寺の言い伝えによれば、鎌倉時代に日蓮聖人が、この村へやって来て村の南に庵をつくり、そこから毎日この寺へ通って、自らの教えに改宗するよう住職を説得したのですが、その当時の住職はこれを聞き入れず、門を開けなかったことから、聖人はついにあきらめて、他所へいってしまったのだそうです。
 その頃この付近の寺院の多くが、日蓮聖人の教えに改宗してしまった中、法善寺が真言宗として残ったこと、またはこの門が本来勅使門であって開いたことがなかったことからこのような伝説がうまれたと考えられます。

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【写真】あかずの門

 このエピソードは、あくまで伝説であり、もちろん今の門そのものも、当時のものではありませんが、門は、自らの宗教を守り続けた歴史を伝えるエピソードの象徴として現在ものこされています。

 ちなみに、法善寺の南西には、日蓮聖人が庵を結んだ場所として、現在も「上人塚」と呼ばれる場所があり、伝説を今に伝えています。

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【写真】上人塚

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

無病息災を願って~八王子社の茅の輪くぐり~

 落合地区の神社、八王子社では、毎年6月30日に、「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」が行われます。地域で「みそぎまつり」とか「わっくぐり」などと呼ばれて親しまれてきたこのお祭りは、一年の折り返し点のこの日に、年の前半の穢れを清め、年の後半の無病息災を祈る「夏越の祓(なごしのはらえ)」として全国的に行われている神事のひとつです。

 八王子社の茅の輪くぐりは、青竹と「ちがや」で直径1.8mくらいの大きな輪をつくって拝殿に奉納し、参拝者はこれをくぐってお参りすれば無病息災で、しかも縁結びのご利益もあるといわれています。

 小さな神社の小さなお祭りですが、例年は露店も出て多くの参拝者でにぎわい、地域の子どもたちもこの日を心待ちにしています。

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(写真)例年の賑わい

 しかし、今年八王子社にいってみると、茅の輪は奉納されていますが、拝殿の戸は固く閉ざされ、ひとっこひとりいない状況でした。いうまでもなく新型コロナウィルスの影響なのですが、現在市内で茅の輪くぐりをしているのは、ここ八王子社だけ。無病息災の願いが込められた茅の輪にあやかり、来年はまた盛大にこのお祭りが開催されることを願ってやみません。

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(写真)今年の様子

 ところで、このお祭は最後には、茅の輪の奪い合いが行われてきたそうです。むかしはこのお祭りを行っている三地区、西落合、東落合、西新居の若者たちが競って輪を取り合っていましたが、なぜか西新居が勝ちとなり、これを道祖神に奉納することになっているのだそうです。それで三つの村がいちばん平和に収まるのだと伝えられています。

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(写真)西新居の道祖神

 地域の伝承では、茅の輪くぐりを行っている落合地区の三つの集落は、もともとは宗持の里といって、八王子社の南側にありましたが、水害を逃れるために、現在の東落合、西落合、西新居に分かれたと伝えられています。実際に発掘調査をしてみると八王子社の南側からは、中世の村の跡や遺物が発見され、その伝承を裏付けています。

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(写真)宗持の里遺跡の出土品(中世)

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

不動寺のボダイジュと数珠

 6月を迎え、梅雨時とあって、はっきりしない日が続きます。このような時期に、小さく可憐な花を満開に咲かせてくれているのが、古市場にある不動寺のボダイジュです。山門の脇に根をはるボダイジュの花の、その馥郁たる香りは周囲にひろがり、毎年参拝者や道行く人々に親しまれています。不動寺のボダイジュは、樹高約6.2m、幹回り(目通り)約1m。現在は、市指定の天然記念物となっており、今もその樹勢は旺盛です。

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【写真】不動寺とボダイジュ

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【写真】不動寺のボダイジュ

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【写真】ボダイジュの花

 お寺などに植えられていることが多いボダイジュ(菩提樹)は、中国原産のシナノキ科シナノキ属の落葉高木です。鎌倉時代の仏教史書『元享釈書』によれば、日本へは12世紀に臨済宗の開祖栄西によって中国(宗)の天目山より初めてもたらされ、まず筑前(福岡県)の香椎宮に植えられた後、東大寺、建仁寺に移植されたといわれます。その後全国へ分植されていったのでしょう。
 ちなみに、ご存知の方も多いと思いますが、釈迦がその木の下で悟りを開いたという「菩提樹」は、クワ科イチジク属のインドボダイジュで、現在日本において広く認知されるボダイジュとは種がまったく異なります。一説には、中国では熱帯産のインドボダイジュの育成には適さないため、葉の形状が似たシナノキ科の本種をボダイジュとしたともいわれています。

 ボダイジュの実は硬く、しばしば僧侶などがもつ数珠の材料としても用いられたようです。実際、先月ご紹介した十日市場の二本柳遺跡からは、火葬骨(遺灰)を入れた木棺から、副葬品としてボダイジュの実で造った数珠が発見されています。
 この木棺は、戦国時代のものと考えられ、中には、数珠や火葬骨のほか、古銭6枚(六道銭)、2枚重ねの土器の皿にのせられた稲穂が見つかり、中世の葬送儀礼を知るうえで貴重な発見といわれています。

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【写真】二本柳遺跡の木棺(戦国時代)(※1)

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【写真】二本柳遺跡の木棺(内部)(※1)

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【写真】二本柳遺跡で発見されたボダイジュの実(※1)

 最後に、蛇足ながらこの原稿を書くにあたり、不動寺のボダイジュの実を拾い、実際に数珠を作ってみました。なかなか素朴で味わい深い仕上がりだと思うのですがいかがでしょうか。

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【写真】不動寺のボダイジュで作った数珠

(※1)山梨県教育委員2013「二本柳遺跡」『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書』第183集より

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

整然としたまちなみ ~市内にひろがる条里型の地割~

 先月紹介した迷宮のような鏡中条地区とは対照的に、市内には路地が等間隔に、碁盤の目状に交差する整然としたまちなみが、みられるエリアがあります。

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【図】条里型の地割が見られる場所

 このような土地割は、むかしの単位でいうところの1町四方、現在の単位でおよそ109mの間隔で区画されており、一般的に、条里型の地割と呼ばれています。
 市内にみられる条里型の地割りについては、かつて(平成18年12月)紹介したこともありますが、今回改めてご紹介します。

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【写真】どこまでもまっすぐに伸びるまちなみ

 このような碁盤の目状の地割は、いまも全国各地に遺されているのですが、市域では、加賀美を中心に藤田、鮎沢、古市場、大師といった、滝沢川がつくった扇状地上の地区に認められ、真北からやや東に主軸をとって施工されています。

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【図】条里型の地割の分布

 このエリアは、北から迫る御勅使川扇状地の伏流水が湧き出すエリアで、その豊かな水資源に支えられ、遥か2000年以上前(弥生時代)からの水田の営みが連綿と、かつ濃密に認められることが発掘調査によって明らかにされています。

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【写真】現代の水田の下に弥生時代の水田が眠る(向河原遺跡)

 条里型の地割りは、このような地形的特徴の上に施工された、かつての農業基盤整備の痕跡ともいえます。その施工時期については、必ずしも明確ではありませんが、発掘調査の結果、10~13世紀頃とみられる水田において、現在と同様の軸を意識して作出された可能性のある畦畔が見つかった二本柳遺跡の成果などから、中世の鎌倉時代、さらには平安時代(10世紀頃)にまでさかのぼる可能性が指摘されています。

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【写真】二本柳遺跡

 直進方向は見通しが良いものの、市街地では、見通しの悪い交差点が続くこととなり、ともすれば危険な、このような街角は、実はむかしの人々が自然と対峙した労力の結晶であったことがわかります。

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【写真】現代の見通しの悪い交差点

 なお、この地割は現在、滝沢川などの河川の影響からか、中央部が消失し、東西に分断されているほか、藤田地区などその分布の東辺も、やはり釜無川の氾濫などの影響によって消失したものと見受けられます。

 しかし、藤田地内においては戦後、地域の人々の手によって、新たに耕地整理(土地改良事業)が行われ、現在整然とした区画がとり戻されています。この藤田地区土地改良事業は、総面積212ha。昭和28年から実に12年をかけて、昭和40年に竣工しましたが、当時は、ほとんどが地域住民の手による人力の施工だったそうです。

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【写真】土地改良前の様子

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【写真】土地改良を担った人々

 いつの世も、生きる糧となる農業の基盤整備は、人々の関心事だったことでしょう。
戦後、藤田地区で行われた耕地整理は、かつての条里地割の基軸線を活かして施行されており、ここでは、かつての条里地割と、いわば現代の条里地割である耕地整理とを千年の時を経て、隣り合って見ることができます。

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【写真】現在の藤田地区の耕地

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鏡中条迷宮 ~泥棒が捕まらないまち!?~

 南アルプス市内各所にのこる昔ながらの集落。これら集落のまちなみは、江戸時代の村に起源をもつことから、細く入り組んだ路地が続いていることが多いのですが、その中でもひときわ外から訪れる人々を困惑させ、迷わせるのが、市域東辺にひろがる鏡中条地区のまちなみです。

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【図】鏡中条地区の位置

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【写真】迷宮への入口

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【写真】現在のまちなみ

 市民からも「あそこだけはわからない」だとか、「できれば入り込みたくない」などの声があがる、その複雑さの実態は、地図をみるとわかるのですが、驚くことに、集落の中のほとんどの路地が「丁字路」で構成されていることに起因します。また、これに輪をかけて、車のすれ違いも困難な細い路地がほとんどで、クランクや行き止まりもあり、人々を惑わせます。

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【図】鏡中条地区の路地(クリックするとアニメーションが見られます。赤い点が丁字路)

 地元の方に聞くと鏡中条は、「泥棒が捕まらないまち」なのだそうです。笑い話なのですが、丁字路が連続しているため、泥棒を追いかけても丁字路を曲がるたびにどちらに行ったか迷い、ついには見失ってしまうんだとか。

 鏡中条の集落が、なぜこのような特異な土地割りになってしまったのか不思議なところですが、実は現在の集落は、元々ここにあったものではなく、今から約400年ほど前に、村ごと移転してきたことがわかっています。

 集落の中にある神社、巨摩八幡宮の社記(由緒書 ※)によれば、神社は、河筋が変わって元々の場所が現在の釜無川の本流になってしまったため、天文13年(1544)に西側の高台(八幡)に移転しましたが、そこも釜無川の洪水流によって浸食され、慶長17年(1612)、再び移転して現在の地(中ノ切)に落ち着いたのだそうです。恐らく集落も神社とともに移転しているため、現在の場所に集落ができたのは、今からおよそ400年前ということになるのです。

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【写真】巨摩八幡宮

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【写真】移転模式図

 村ごと移転してきた際に、計画的な土地割をせずに、なし崩し的に家や建物が建っていってしまったのか、それとも、もっと深い理由が隠されているのかは、わかりませんが、鏡中条地区の複雑な土地割は、この時に形成されたものなのでしょう。
 近年、新しい家も建ち、道路の拡幅も進む一方、昔ながらの趣ある建物も細い路地もまだまだ残っています。みなさんも一度400年前の街角に迷い込んでみてはいかがでしょうか。なお道が狭いため、探索には徒歩か自転車、軽自動車がおすすめです。


※【参考】巨摩八幡宮社記
当社ハ往古より当村産神ニ而勧請鎮座之義ハ年代遠而委細相分不申候
七郷八幡宮之本宮ト申伝神宮司八幡宮弓矢守護神ト称シ武田家よりも代々御崇敬被為神領若干御寄附被成下候由
然ル処天文年中釜無川切込社頭神領不残流失仕候
数十戸之社人不残離散仕候由
于今其所を神宮寺河原ト申候
同暦十三甲辰年八幡宮を坂之上江引勧請仕候
其後慶長年中又々釜無川切込社地も段々欠込候故同暦十七年壬子年御旅所之社江引勧請候
只今之社地ハ往古之御旅所ニ御座候
其引候社跡之地名を今ニ八幡ト申候(後略)
『甲斐国社記・寺記』所収

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

がんばれ!!三恵(みつえ)の大ケヤキ

 南アルプス市寺部にある国指定天然記念物「三恵の大ケヤキ」。俗に樹齢千年ともいわれ、全国でも五指に入る大きさのケヤキとして、また山梨県内では全ての木の種類を通じて最も大きな木として、地域の誇りとなってきました。
 
 2012年5月15日 の本欄「新緑萌える~三恵(みつえ)の大ケヤキ~」でも紹介したこのケヤキ、バックナンバーを読んでもらえばわかりますが、これまでも全体を支える支柱の架け替えや発根を促す土壌改良など様々な方法を通じて見守り、一時は衰えた樹勢も盛り返して、昨年も豊かに葉を広げていました。

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【写真】被災前
 
 そんな、ケヤキに異変が生じたのは昨年10月12日。東日本を縦断した台風19号(令和元年東日本台風)でした。折からの強風により南北に延びる幹のうち、北に延びる主要な幹のひとつが折れ、支柱もろとも隣接する農機小屋を押しつぶしてしまったのです。夜間の出来事でした。折れた幹は根元部分で直径1m前後もありました。

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【写真】被災直後
 
 市では、国や県の補助を得ながら、年末に折れた幹や枝の撤去を完了し、2月中旬には、その切り口を整え、殺菌のために薬剤を塗ったり、南側に延びる幹の倒壊を未然に防ぐため、残った北側の幹とこれらを専用のロープで結ぶ(ケーブリング)などして、一応の手当てを終えました。

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【写真】かつての姿

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【写真】現在の姿

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【写真】ケーブリング
 
 ところで、その際折れた幹は、その一部を記録のために引き取り、文化財課で保管することにしたのですが(この部分は直径約80㎝)、樹齢千年ともいわれる三恵の大ケヤキですので、今回この機会に、その年輪を数えてみることにしました。

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【写真】年輪を数える
 
 その結果、数えることができた年輪は200本以上。主幹から分岐した幹でしたが200年以上もたっていました。もちろん元々の主幹部が、これを大きく超える年月を経てきたことは想像に難くありません。
 
 今から200年ちょっと前といえば、日本は江戸時代後期の文化年間(1804~1818)、江戸の町人文化が花開いた時代です。そうなると最初の大きな試練は、文政11年(1828)あたりでしょうか。後に「子年の大風(ねのとしのおおかぜ)(※1)」または、「シーボルト台風(※2)」と呼ばれるこの年の台風は、日本史上最大級の被害をもたらした台風のひとつとして知られています。まだ生まれて数年のか弱い枝は、その強風をまず生き延びたことになります。そして、その後の名だたる台風や降雪に耐え、ついこの秋まで葉を広げていたのです。そんな幹の経てきた歴史に思いをはせるとき、やはり今回のことは残念でなりません。
 
 しかし、片翼を失った形となり、大きく樹形を変えてしまった「三恵の大ケヤキ」ですが、生き残った部分はまだ大きく枝を広げています。

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【写真】現在のすがた

 そして、根元からは、新たなヒコバエ(※3)も生えてきています。今後とも、残った部分を大切に次代につなぎ、またかつてのように人々の憩いの場として再生することを願ってやみません。間近にせまった今年の芽吹きを期待したいと思います。 

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【写真】再び憩える場所へ(被災前)
 
 
※1 襲来した文政11年が子年にあたることからこう呼ばれる。
※2 この台風によって当時日本に滞在中だったドイツ人学者・シーボルトの乗船が座礁し、船の修理の際に積荷の内容物が調べられたことで日本地図の国外持ち出しが発覚、世に言うシーボルト事件に発展したという説があり、こう呼ばれる。
※3 樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のこと。
 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

春を呼ぶお観音さん
~八田山長谷寺護摩焚きの炎と香りと音の風景~

 南アルプス市榎原に立地する古刹八田山長谷寺。3月18日の午後、春を感じさせるやわらかな日差しが八田山長谷寺の本堂に差し込んでいます。本尊を祀る須弥壇前の護摩壇では護摩が焚かれ、爆ぜた音とともに炎は天井へゆらめき、そこから立ちこめる白い煙は本堂内に集まる人々を包み込んでいます。

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【写真】護摩焚き

 
八田山長谷寺と十一面観音立像
 
 八田山長谷寺は寺伝によれば天平年間(729~794)に創建され、大和国(現在の奈良県)長谷寺を模し豊山長谷寺と号し、その後周囲が八田庄と呼ばれていたことから八田山へ改名されたと言われます。平安時代後期11世紀後半の造立と考えられている一木造りの十一面観音菩薩立像を本尊としています。

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【写真】八田山長谷寺観本堂(国重要文化財)


 大和国長谷寺の本尊は『三宝絵詞』(平安中期)や『長谷寺縁起文』(平安末~鎌倉時代)に記されているように、近江国(現在の滋賀県)高嶋郡の霊木から造られたと伝えられています。八田山長谷寺の十一面観音立像も一木から彫り出され、大和国と同じ岩座の上に立つことから霊木から彫り出された立木仏信仰があったことが推察されています。

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【写真】 十一面観音菩薩立像(県指定文化財)


大般若経の転読の歴史
 
 長谷寺で最も盛大に行われる祭りが3月18日の「お観音さん」です。ここで近世の史料をひもといてみましょう。天保13年(1842)寅年7月26日の『長谷寺般若転読并御修復ニ付取替議定書』と1848 嘉永元年(1848)申年10月『長谷寺観音開扉供養代官所への願い』には、十一面観音立像が33年に1度しかご開帳されない秘仏であったことが書かれています。現在もその信仰は続けられ、本堂の解体修理が完成した昭和25年(1950)、次が平成3年のそれぞれ3月18日にご開帳されました。
 
また、前述した『長谷寺般若転読并御修復ニ付取替議定書』には、 貞享2年(1685)より本堂が大破し一時中断を余儀なくされる以前の天保12年(1841)まで毎年2月18日19日大般若経の転読を毎年行ってきたと記録されています。転読とは600巻に及ぶ膨大な大般若経を分担し略して読み、五穀豊穣や所願成就などを祈る法要です。それを裏付けるように、大般若経100巻をセットにして納められた経箱の裏蓋の一つには「甲州西郡筋榎原村 八田山長谷寺 茲貞享貳 乙丑年」の文言が記されています。大般若経の転読は現在では新暦3月18日に改められ「お観音さん」と呼ばれて近隣の住民で賑わっています。

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【写真】経本を納めた経箱

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【写真】経本を納めた経箱の蓋裏

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【写真】大般若経

 
お観音さんでの大般若経の転読

 かつて2月18日に行われていたお観音さんは転読とともに馬の健康を祈願する初午の祭りとしても有名でした(八田長谷寺初午祭りの記録)。馬が飼われなくなった現代では、昭和25年以降始められた稚児行列から始まります。その年に小学校に入学する子どもたちが榎原集落センターから長谷寺まで、法螺貝の音色ともに修験者の姿をした僧侶に導かれ、長谷寺へ向かいます。

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【写真】稚児行列


 本堂では導師を務める長谷寺住職が中央に、県内真言宗寺院6名の住職が3名ずつ東西に分かれそれぞれの背後には子どもたちと保護者が座ります。
 
 護摩が爆ぜる音と香木の香が漂うひとときの静寂。導師が散杖(さんじょう)と呼ばれる細い棒で清められた水が入っている金銅製の器の内側を叩く音を合図に、7人の住職の読経が始まります。読経に合わせ、太鼓の重厚な音が本堂内にリズムを刻みます。真言を唱えた後、心願成就や心身健全、交通安全などの願文が捧げられます。その後法螺貝の一拍の音が転読の始まりを告げます。

【動画】長谷寺護摩焚き 転読(16.1 MB)

 

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【写真】護摩焚きの法具

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 導師が経本第1巻を手の平へ叩くように収めると乾いた音が響き、その瞬間「大般若波羅蜜多経 第一巻 唐三蔵法師玄奘 奉詔訳(ぶしょうやく)※」と唱えると、左右3名ずつ座した住職から一斉に転読が始まります。
※国(唐)が命じて訳したという意味
 
「だーい はんにゃはらみったきょうだい○かん とうげんじょうさんぞうほうし」までは一気に読み上げられ、「ぶしょうやーく」と最後はためが作られます。音の調子を例えるなら、出発を告げる電車のホームアナウンスの「しゅっぱーつ」と似ているかもしれませんね。

【動画】長谷寺護摩焚き 転読(17.8 MB)

 

 読経と同時に手に取った経本をパンと鳴らし、折りたたまれた経本が上から下へ弧を描き、流れ落ちる滝のように広げられます。それぞれの住職がそれぞれのリズムで100巻の経本の転読が繰り返されます。読経は重なり合って本堂に反響し、その声が波のようによせては返していきます。反響する音と護摩の炎とその香り。真剣にその光景を見つめる子もいれば、手で耳をふさぐ子、お母さんの手を握り寄り添う子、子どもたちは初めて見る護摩焚きに圧倒されています。一人ずつ子どもたちが健康を祈願し護摩木をくべる場面では、少し緊張した横顔が緋色に照らされます。

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【写真】転読

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 終盤に差し掛かると、一度護摩の炎で炙り清めた経本で、健康や学業成就を祈って、住職が子どもと保護者の肩を叩いて歩きます。転読が続く中、両肩を叩く柔らかい音が響いてきます。

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 転読が終わると、重なり合う読経が始まり、太鼓が鳴り響き、錫杖の金の音がリズムを刻み、法螺貝の音が重なって、荘厳な雰囲気に包まれます。読経が終わると短い法螺貝の音と終わりを告げる磬子が叩かれ、真言が唱えられ、静かに護摩焚き法要が終わりました。

【動画】長谷寺護摩焚き(17.2 MB)

 

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【写真】太鼓と錫杖

 

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護摩焚きの炎と香り、転読の音の風景は江戸時代から現代まで変わらず続けられてきました。また今年も春がやってきます。

 
長谷寺過去の記事
■ふるさとメール
◎水を求めた扇状地の人々 ~雨乞いのパワースポット長谷寺~

◎平安時代の信仰(1) ―御勅使川扇状地の観音信仰

◎新指定文化財のよこがお(2)木造十一面観音及び毘沙門天、不動明王立像 ~日の目をみた日不見観音(ひみずかんのん)~

◎文化財を守る地域の力
 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その1~

◎文化財を守る地域の力
 ~太平洋戦争と長谷寺本堂解体修理の物語その2~
 
■ふるさと〇〇博物館ブログ 
 八田山長谷寺の護摩と雨乞い

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

ヤギの原風景2

 明けましておめでとうございます。本年もふるさとメール、「今、南アルプスが面白い」をよろしくお願いいたします。

 先月は山梨県および南アルプス市におけるヤギの足跡を記録を手がかりにひもときました。今月は多くの人々に残っているヤギの記憶から、ヤギとともにくらした風景を描いてみたいと思います。

1.昭和初期~昭和20年まで
築山地区 市川さん 
 まず太平洋戦争以前(以後戦前)の様子を見てみましょう。築山地区の市川家では昭和の初めから牡、牝一頭ずつヤギを飼っていました。朝起きると小学校に登校する前に、田んぼの畦や山裾まで行って餌となる草を刈るのが市川さんの日課でした。この頃、近所では牛や馬も飼っていたので草は貴重な飼料で、草刈りはまるで競争のようだったとか。他の人の田んぼの畦草を刈り取っていたら「そこはおらんとこじゃないか!」と叱られたこともあるそうです。ヤギを飼うには毎日新しい草が必要となりますが、除草が問題となっている現代から考えると、環境をうまく利用した循環した生活であったことは確かです。
 朝の乳しぼりは母親の仕事で、市川さんは小学校4・5年生頃から夕方の乳しぼりを任されました。鍋にしぼって、それをサラシで濾し、殺菌のため沸かして飲みました。さてその味はどうだったのでしょう。市川さんの場合は、においがあって、あまり好きではなかったそうです。

落合地区 新津さん 
 落合地区の新津家では昭和10年ごろ牝を1頭を飼い始めました。朝の餌となる畑の草刈りは父親の仕事で、乳しぼりは小学校3年生ぐらいから任されました。今から考えると子どもにとって乳しぼりは難しそうですが、慣れればすぐにできたそうです。しぼった乳は鍋に入れます。1回で4~5合ぐらいの量があり、やはりサラシで漉して違う鍋に入れ換え、沸かして温かいうちに飲みました。ポイントはこの時に塩を少し入れること。そうすると乳の濃さがより引き立ったそうです。乳の味は餌によって変わり、青い草ばかりだと青くさくなり、ワラやこぬかを与えるとおいしくなったのよと話されました。クセはあったけれど平気で毎日飲んでいたそうです。そういえば南アルプス市出身の俳人、福田甲子雄さんも「山羊乳に青草の香のしみてをり」と詠んでいます。太平洋戦争末期の昭和19年頃、ヤギが弱ると専門の業者が買い取りに来て、ヤギは新津家から一時姿を消しました。

2.昭和20年代:太平洋戦争後(以後戦後)
 太平洋戦争直後は食料が不足したため、前号で書いたようにヤギの飼育が全国的にもすすめられました。ヤギが最も普及した時代です。

飯野地区 飯野さん
 昭和16年頃、牝を1頭飼い始めました。飯野さんは奉公先から徴兵検査のため昭和18年に飯野にもどり、その時実家で飼い始めたヤギに出会いました。その後飯野家では、太平洋戦争を経て昭和30年代中頃までヤギを飼い続けたそうです。他の方と同様、朝餌となる草刈りをして、乳をしぼり、沸かして飲む流れです。飯野さんは「ヤギ乳は大好きだったなあ」と懐かしそうに話されました。昭和26年に生まれた息子さんもヤギ乳を飲んで育ち、小学校に入るとヤギの餌となる草刈りと乳しぼりが朝の仕事となりました。
 飯野さんの記憶で注目されるのはヤギの餌の変化です。終戦直後の飯野では桑畑が広がっていて、田んぼの畦草以外の畑の雑草も餌とすることができました。しかし昭和30年代に入ると地域の農業が養蚕から果樹へと次第に変化し、果樹畑では消毒が行われるようになりました。必然的に安全な餌は水田の畦草に限られ、その水田も次第に果樹畑と変えられていったため餌が不足し、とうとうヤギの飼育を諦めることにしたそうです。

3.昭和30年代以降
 日本経済が高度成長期に入り、社会が大きく変わっていく時代です。山梨県の山羊飼育頭数も減少の一途を辿りました。

落合地区 新津さん
 前述した新津さんは嫁ぎ先でも昭和32・33年ごろ再びヤギを飼うことになりました。それは昭和33年に生まれた長女にヤギ乳を飲ませたかったからです。その後長男にも恵まれ、子どもたちは山羊乳を飲んで育ちました。毎朝の草刈りと餌やり、乳搾りは母親である新津さんの役割でした。昭和42年頃にヤギが弱くなって知人の人に引き取られ、新津家でのヤギ飼育は終わります。農業が養蚕から果樹栽培へと切り替わりつつあり、その忙しさで毎日の餌やりや乳搾りができなくなったことが理由でした。昭和40年代初め頃にはまだ近所でヤギ乳をわけてくれる人がいて、ヤギ乳は飲み続けられました。ヤギ乳で育った娘さんは現在でもあの味が懐かしいと話されています。

有野地区 河西さん
 有野の河西家では昭和40年ごろから牝を1頭飼いはじめました。子ヤギの時はかわいくて、河西さんが徳島堰沿いを散歩させたそうです。やはり朝はまず乳しぼりから始まります。これは子どもの仕事で、小学校4年生ぐらいから高校卒業まで河西さんの毎朝の日課でした。一升瓶に直接乳をしぼり、それをサラシで漉して、アルマイトの鍋に入れます。その乳を沸かして毎朝飲んでいました。夕方も同じです。冬には乳量が減るので、12月頃で乳しぼりは一度おしまいになります。有野から飯野まで種付けに行ったことを覚えていて、春になると子ヤギが生まれ、再び乳しぼりが始まりました。
 河西さんは子どもの頃からカメラが好きで、中学校の修学旅行に際してカメラを買ってもらいました。そのカメラでヤギを撮影したのが次の3枚の写真です。戦前戦後はカメラを持っている人など稀で、一般的に普及し始めた40年代にはヤギの飼育が減少し、さらに日常風景を写す人がほとんどいなかったため、市内でもヤギを写した写真はほとんど残されていません。その中でとても貴重な写真です。

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【写真】有野地区 河西さん撮影

4.ヤギ乳レシピ
 ヤギの思い出を多くの方からお聞きしましたが、ほとんどの方はヤギ乳は飲むだけで、他の料理に使うことはなかったと記憶されています。源地区愛育会史料の昭和22年度山羊計画書の中で、「山羊の利用化 チーズやバター等への加工研究」が掲げられていますが、乳製品として完成するには至らず、ほとんどの人は作ったことも食べたこともなかったようです。一方で、わずかながらヤギ乳を各家庭で工夫して料理に活用していました。そのレシピをご紹介します。

(1)ヤギ乳パン
 先月号で昭和25年の愛育会史料でも「山羊乳は一般にパンを作る場合に使用」とあり、沸かして飲む以外にパンの材料として利用されたことがわかります。ではどうやってパンを焼いていたのでしょうか。
 まず電気パン焼き器があげられます。前述した新津さんは、落合に疎開してきた東京の建具屋さんが木の板と鉄板で電熱のパン焼き器を作ってくれて、山羊乳入りのパンを食べた記憶があるそうです。このパン焼き器は電流をパン種に直接流し焼き上げるもので、戦後、配給された食料粉で作ったパンを焼く道具として普及、流行しました。
 別のパン焼き器をみてみましょう。戦後に製造が禁止された戦闘機の素材ジュラルミンを加工して作られたのが、円形のパン焼き器です。器内部は円筒形になっていて内部にも熱が伝わる構造です。荊沢地区の仙洞田さんはこれを模した鉄製のパン焼き器を持っていて、七輪で温めて焼かれたヤギ乳入りのパンを食べたことを覚えています。見せていただいたパン焼き器の表には「文化パンヤキ 特製」とあり、その内部は真っ黒に焦げていて、何度も使われたことがうかがえました。

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【写真】荊沢地区仙洞田さんとパン焼き器

(2)ヤギ乳入りうす焼き
 ヤギ乳は飲むだけという人が多い中、山梨県の郷土料理であるうす焼きに入れた記憶を持つ人は何人もいました。小麦粉を水で練って、各地域各家庭それぞれの具材を入れて焼いたもので、生地にヤギ乳が混ぜられました。

(3)ヤギ乳のほうとう
 当時の主食の一つほうとうにヤギ乳を入れて作りました。

(4)ヤギ乳味噌汁
 味噌汁にヤギ乳を入れて作ります。味噌とヤギ乳の相性はよかったようです。現代でも牛乳にも味噌を入れるスープレシピがありますよね。

(5)ヤギ乳カルピス風
 有野の河西さんは雑誌の付録だったか、ヤギ乳にクエン酸と砂糖を混ぜて、カルピスに似た味の飲み物を作ったことがあるそうです。

(6)ヤギ乳プリン 
 日本女子大学家政学科で栄養学も学んだ矢崎きみよさんが作ったことをお孫さんが覚えていました。当時プリンはハイカラな食べ物で矢崎きみよさんならではのレシピだったのでしょう。

(7)ヤギ乳ごはん
 早川町出身の佐野さんはごはんに味噌を少し加え、ヤギ乳をかけて食べたそうです。懐かしい味で今でもよく覚えているそうです。

5.ヤギの名前
 今回調査した方々の中で、ヤギに特別な名前を付けていた人は一人もいませんでした。名前はあるものと思い込んでいましたが、乳を利用する「家畜」として飼っていたことと、ほとんどが一頭飼いのため、みなさん「ヤギ」と呼んでいたようです。

6.ヤギとともに
 現在でも少ないながら南アルプス市内でヤギの姿を見ることができます。文化財課とともに史跡のヤギによる除草に取り組んでいるNPO南アルプスファームフィールドトリップでは、サクランボ観光でもヤギを活用し、訪れた子どもたちに人気だそうです。また西野地区の保坂家では、昔のヤギが懐かしくペットとして飼い始め、近所の人々からも可愛がられているそうです。その他、有野地区や江原地区でも再びヤギを飼う家がでてきました。また、ほとんど口にすることがなくなったヤギ乳は、牛乳と比べてアレルギーの元となる物質が少なく、タウリンも豊富で、栄養面から再評価されています。山梨県内ではヤギを育て、ヤギ乳のヨーグルトを製造販売する全国的にもめずらしい会社もあります。一度私たちのくらしから姿を消したヤギですが、人と新しい関係を結びながら少しずつ日常の風景にとけ込みはじめたのかもしれません。

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

ヤギの原風景

はじめぇ~に
 11月23・24日、「第21回全国山羊サミットin山梨」が北杜市大泉で開かれ、大学や研究機関、行政、民間組織、山羊乳加工業者、個人など山羊にかかわるさまざまな人々が集まりました。南アルプス市教育委員会も平成25年度からNPO南アルプスファームフィールドトリップと連携し継続して実施している国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)での山羊による除草の報告を行いました。市内では50代以上の世代を中心にかつて家で山羊を飼い、山羊の乳を毎日飲んでいた記憶を持っている方が多く、山羊が子どもの頃の原風景でもありました。今月と来月のふるさとメールでは人と山羊が歩んできた足跡を辿ります。
 

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【写真】第21回全国山羊サミットin山梨

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【写真】将棋頭 ヤギによる除草スタート! 2013年5月28日

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【写真】将棋頭 ヤギによる除草完了! 2013年8月22日

 

1、日本でのヤギの歴史 近代までの歩み
 日本におけるヤギの歴史については、橿原考古学研究所の廣岡孝信氏が、文献史料と考古資料からヒツジの歴史とともに詳細に研究されています(廣岡孝信 2018『奈良時代のヒツジの造形と日本史上の羊』)。その研究成果から近代までの歩みをまとめてみます。「山羊」の最も古い記録は11世紀から12世紀に成立したといわれる『日本紀略』「 弘仁十一年五月甲辰 」条(820年)に、海外からもたらされた記述が見えます。その他10~12世紀で文献資料から、この時期のヤギとヒツジに対する人々の動物学的な理解度は低く、両者を混同した表現となっているそうですが、ヤギが日本に存在していたことは確かなようです。
 中世の図像には醍醐寺蔵『薬師十二神将図』の「未像」(1227年書写)や高野山眞別處圓通寺蔵『図像抄』「北斗法」の北斗曼荼羅(1310年書写)の図像はヤギがモデルと考えられ、中世の仏涅槃図にもヤギが描かれました。
 近世に入って葛飾北斎の北斎漫画などにも描かれますが、九州と沖縄を除いて日常の風景にヤギはまだ登場しません。ヤギが日本に本格的に導入されたのは明治時代初期と言われます。独立行政法人家畜改良センター茨城牧場長野支場のHPに掲載されている山羊関連年表によれば、明治32年(1899)山羊が初めて統計に入ったとされ、明治30年代に入りやっと公式的にも家畜として認知されたことになります。

2、山梨県におけるヤギ飼育の歩み
 山梨県にはいつからヤギが導入されたのでしょうか。山梨県統計資料では明治時代には項目がなく、大正2年11頭から統計が開始されます。中巨摩郡と南巨摩郡が最初の飼育地域でした。それ以前にも飼育されていた可能性はありますが、本格的な導入は大正時代と考えてよいでしょう。ちなみに羊もこの年5頭から始まります(グラフ1)。

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【グラフ1】山梨県山羊頭数の推移 山梨県統計年鑑・公益財団法人畜産技術協会HPの山羊統計を基に南アルプス市教育委員会文化財課作成
 

 昭和9年には千頭を超えて1,195頭となり、太平洋戦争中の昭和17年には7,655頭にまで増加、昭和24年の21,404頭とピークを迎えます。この年を境に減少し、昭和32年には12,102頭とほぼ半減し、以後毎年の統計資料に山羊の頭数は掲載されなくなりました。公益財団法人の畜産技術協会HPの山羊統計(http://jlta.lin.gr.jp/sheepandgoat/goat/toukei.html)によれば、昭和50年1,860頭、昭和63年には220頭まで少なくなり、私たちの風景からヤギが姿を消すことになります。平成28年には167頭にまで減少しました。

 次に各家での頭数と牡牝の比率を見てみましょう。昭和13年を例に挙げれば、山羊を飼育する2,429戸の内、1頭飼いが2,044戸で約84%、2頭飼いが319戸で約13%を占め、通常は1頭、多くても2~3頭だった飼育状況がわかります。さらに飼育頭数3,146頭の内、約85%の2,676頭が牝、470頭が牡であり、ほとんどの家で山羊乳を目的に牝を飼育していたことがわかります(表1)。

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【表1】山梨県山羊頭数の推移 山梨県統計年鑑・公益財団法人畜産技術協会HPの山羊統計を基に南アルプス市教育委員会文化財課作成

 最後に地域別に見ると、昭和25年21,631頭中、北巨摩4,015頭で約18.5%、次いで東山梨郡3,699頭で約17%、中巨摩郡は2,009頭で約9.2%を占め、甲府市以外の各地域、どこででもヤギが飼育されていた状況が把握できます。まさにヤギが山梨県の風景の一部になっていた時期といえるでしょう(グラフ2)。A_3 【グラフ2】昭和25年 地域別山羊頭数

3、旧源村の愛育会と山羊研究
(1)昭和初期から太平洋戦争中
 多くの家でヤギを飼い始めた昭和初期から昭和20年代、南アルプス市に存在した旧源村でのヤギの風景を見ていきましょう。源村は御勅使川扇状地の扇頂部に位置し、明治8年有野・塩前・大嵐・須沢・駒場・築山の6村が合併した村で、昭和34年白根町と合併するまで存続しました。源村で特筆されるのは昭和8年(1934)当時の皇太子誕生を記念し、母子の保健・福祉の増進を目的として設立された恩賜財団母子愛育会によって、昭和12年母子愛育村に指定されたことです。以後源村母子愛育会(以下愛育会)が設立され、母子の健康と福祉向上のための事業が太平洋戦争中にも進められました。

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【写真】源村字別地図(愛育会史料)

 源村では少なくとも昭和の初期から山羊が飼育されていましたが、山羊が各家庭で一般的に飼われるようになったのには、戦中戦後の愛育会の取り組みが大きな役割を果たしました。愛育会には発足から多くの史料が残されており、その史料から山羊と人との移り変わりを繙といていきます。
 
 昭和19年8月15日付源村長・愛育会長から源国民学校長及び愛育会副会長宛に山羊飼育講習会開催への協力依頼文書が出され、戦時中から山羊飼育の研究が行われていたことがわかります。

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【写真】「山羊飼育講習会開催ニ関シ協力相煩度件」(愛育会史料)

 昭和20年1月6日付け「山羊増殖に関する打合会開催通知」によれば、1月15日に今後の山羊調査と講習会への準備打ち合わせ会が行われ、1月26日には山羊飼育の専門家である根岸八郎技師を招き村初めての山羊増殖懇談会が開催されました。以後源村の山羊の飼育には根岸八郎技師が深く関わっていきます。5月29日には同技師が講師となり山羊飼育講習が開かれました。
 
(2)太平洋戦争後の歩み
 昭和20年8月15日太平洋戦争が終わりあらゆる物資が不足する中、愛育会は母子の栄養改善のため山羊乳を利用することを事業の柱の一つとし、山羊の飼育と普及を推奨しました。全国に目を向けると、食料不足に対応するため山羊乳が推奨され、昭和21年7月25日に日本山羊協会が設立されました(「日本山羊協会設立趣意書」)。こうした全国的な動きと連動して昭和21年、源村でも愛育会が中心となり山羊組合が設立されました。設立にあたり、村内の山羊飼育者名、牝牡別、年令、泌乳能力、売買や死亡などを有野や築山、飯野新田など旧村ごとに記録した山羊名簿が初めて編纂されます。
 

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【写真】日本山羊協会設立趣意書(愛育会史料)

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【写真】昭和24年 有野 山羊名簿(愛育会史料)

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【写真】昭和24年 有野 山羊名簿(愛育会史料)

 「昭和22年度山羊計画 源村母子愛育会」を見ると、山羊振興の具体的な施策がわかります。その柱は第1に品種を改良し、第2に飼育を普及させ、第3に山羊乳を利用するというものでした。具体的な方法は第1の品種改良では根岸八郎氏が斡旋した種牝、種牡を移入し、雑牡は去勢してより乳量の多い山羊の育成が目指されます。第2の普及事業では山羊市場を開催し、個人の売買を禁止して山羊組合が山羊の規格の適正化、今でいうブランド化を図ろうとするものです。実際に昭和22年5月29日初めての山羊市場が開かれ、山羊27頭(村24、外3)が参加しました。第3の山羊乳の利用化では、山羊飼育の講習会の開催、山羊乳を子どもや妊婦、病人へ重点的な斡旋、チーズやバター加工の研究とその施設整備が目的とされました。

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【写真】昭和22年度山羊計画 源村母子愛育会(愛育会史料)

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【写真】昭和22年度山羊計画 源村母子愛育会(愛育会史料)


 源村の山羊統計をみると昭和21年から急速に山羊が増加し、多くの家庭で牝山羊が飼育されていたことがわかります。昭和21年の源村の山羊飼育数は牝131頭、牡7頭、計138頭でした。翌昭和22年2月1日調べでは牝177頭、牡20頭、計197頭、さらに同年の調べでは牝226頭、牡3頭、計229頭と随時増えていったことがわかります。
 

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【写真】昭和22年 源村山羊綿羊飼育調(愛育会史料)

 
(3)ヤギはどこへ行った
 山羊飼育が転機を迎えるのは昭和25年ごろです。日本山羊協会の根岸技師からの要望で、愛育会が飼育者へ出した「山羊に関する照会」に対し、下記のような意見が寄せられました。
(1) 山羊価格が低落している。
(2) 優良品種との交尾は受胎率が低く、手間をかけ遠方に交尾行く気力に欠ける。
(3) 食糧が豊かになり、章句生活が安心になったため、現金収入と自家消費を兼ねる鶏や豚に転換しつつあり、山羊は搾乳に時間がかかる。
(4) 山羊乳の利用としてパンを作る場合に利用されているが、チーズ、バターなどについては考えられていない。

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【写真】昭和25年 山羊に関する照会への回答(愛育会史料)

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【写真】昭和25年 山羊に関する照会への回答(愛育会史料)

 
 このように戦後5年目には食生活がやや向上し、経済・社会状況が変化しつつある中、源村での山羊飼育も転換点を迎えました。昭和26年までの愛育会事業報告書では「山羊研究」の項目があり、山羊飼育者懇談会や山羊飼育状況視察などが行われていましたが、昭和27年以後山羊研究の事業は姿を消し、愛育会史料でも山羊飼育にかかわる文書も限られたものになります。この頃から山羊飼育も減少に転じたようです。
 
 昭和28年7月1日現在の山羊飼育頭数並に搾乳量調に記載されている頭数は114頭に減少しています。その備考には「昭和21、2年と比較すると飼育頭数は約半数に減っている。乳量も特に多くなったように思われないが原因と思われる点は折角品種改良のために牡山羊の導入を図り優良仔山羊が生産されても殆ど他町村に移動して自家飼育しないこと等にあると思う。」とあり、品種改良も決して順調ではなかったことがうかがえます。

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【写真】昭和28年7月1日現在 山羊飼育頭数並に搾乳量調
 
 昭和30年代には農村から都市部へ労働人口が流れ、労働力が不足します。さらに昭和32年、国連のユニセフから愛育班を通じてスキムミルクが無償で提供され、山羊乳の主要な目的であった乳児や子供の栄養改善が果たされたことも、山羊飼育の減少につながったとの意見もあります。以後山羊飼育は減少し、昭和50年代に源地域の風景からもヤギはその姿を消すことになりました。

しめぇ~に
 平成30年10月4日、全国史跡整備市町村協議会のエクスカーション。全国で史跡整備を進める自治体の首長や文化財担当者が国指定史跡の桝形堤防の視察に訪れました。そこでNPOによる山羊の除草について、その経緯や経過、除草効果のメリットや脱柵のデメリットについて人間に宿ったヤギ自身が語る場面がありました。本物のヤギとともに現状とその思いを語る光景は参加者の人々の心に深く刻まれたようです。また、地元の白根源小学校の授業で桝形堤防や将棋頭を学習すると、「ヤギのいる場所だ!」として子ども達の記憶に刻まれていました。ヤギのいる風景は本来の目的である除草効果とともに、歴史と人びとの記憶をつなぐ役割もあるようです。現在全国でのヤギ飼育数は多くありませんが、全国ヤギサミットでのさまざまな人びとの取り組みをみると、人とヤギとが織りなす新しい風景が全国で生まれつつあるようです。
 

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【写真】全国史跡整備市町村協議会エクスカーション 桝形堤防


 現在南アルプス市立図書館ふるさと人物室第7回展示「育ーはぐくむー矢崎きみよ」が開催されています。愛育会でのヤギ飼育関連資料も展示されていますので、ぜひご覧ください。

詳しくは、こちらから。(https://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/docs/6662.html)

【南アルプス市教育委員会文化財課】