「風土」はその土地の自然環境や精神的な環境を意味しています。辞書から離れると、外の土地から来た人が新しく異なった文化を風となって運び、土である地元の人々が受け入れてその土地の風土が生み出されるという考え方もあります。今月のふるさとメールは先月ご紹介した綿引健の生涯を通し、明治・大正時代の西郡(にしごおり)の風土を培った人々とのつながりをたどります。
西郡への風 旅立ち
綿引健は安政5年(1858)8月7日、水戸の武家に生まれました。幕末、水戸学の中心人物の一人栗田寛に師事し、漢学などを修めました。同じ門下であった有野村矢崎貢(みつぐ)の強い勧めで、明治8~9年、17・18歳の時、西郡源村にやってきたと伝えられます。貢の父の保全は長崎で蘭学を学んだ医師で、医業を営みながら明治5年まで私塾を開き漢学も教えていました。そこに20歳前の水戸の青年が招かれたのです。
【写真】栗田寛『大日本名家肖像集』経済雑誌社1907年
人々との出会い
甲西町誌によれば綿引健(以下先生)は源村で教えた後、鏡中條、小笠原、荊沢へと移りそれぞれ塾を開いたとありますが、詳しいことはわかっていません。しかし資料には、先生がさまざまな人々の顕彰碑や墓誌などの撰文(記念碑などの文章を作ること)を書いた記録が残されています。このことから先生が多くの人々と出会い、絆を結び、この地において大きな信頼を得ていたことがわかります。
源村の飯野新田で私塾を開き漢学を教えていた埴原治良吉の墓碑銘も書いています。文の中では娘婿の弁一郎とその子供達にも触れ、長男の正直は外交官で米国公使館書記官、次男弓次郎は早稲田大学生、長女桑喜代は美術学校在学と書かれています。正直は後に外務次官となり日本外交のかじ取りを担い、桑喜代は画家の道を進みました。この文からも埴原家との深いつながりがわかります。
【写真】埴原正直
鏡中條村での塾の場所や期間は明らかになっていません。しかし同村の巨摩八幡宮の神職を務め、寛政から天保年間塾を開き読書や習字などを教えていた斉藤操の頌徳碑の文章を作成していることから、斉藤家へ招かれたのかもしれません。また、鏡中條で代々医業を営んだ小野家にもその足跡が残されていました。明治32年、小野徹(1875-1971)は同村に「洗心堂」を開業し、医療とともに日本住血吸虫病の病害の研究、解明に尽くしました。徹の息子修が書き留めた『父・祖父を語る』には「十五歳の三月、中巨摩西部高等小学校を卒業し、九月まで今の甲西町荊沢にあった漢学塾に通って、漢学を勉強しながら医者になる決心をした。」とあり、先生から漢学を学んでいたと考えられます。生家には綿引健書の額が現在も飾られ、さらに西南湖の安藤家の中門前で撮影された先生との写真が「綿引匏水先生」の文字とともに残されていました。小野家、そして西南湖の安藤家との親交が写真から伝わってきます。また小野徹は亡くなる直前まで、漢詩を作り書に没頭したと伝えられます。
【写真】斉藤操頌徳碑 巨摩八幡宮
【写真】小野家に掲げられた綿引健の書
【写真】綿引先生と小野徹 安藤家中門前
次に移ったとされる小笠原(当時明穂村)には明治21年私立高等英和学校が設立され、先生が招聘されましたが、1年で廃校となっています。また小笠原の医師桑島尚謙の桑島尚謙の彰徳碑を撰文しています。桑島は和歌山県の生まれで、藤田村の五味家に身を寄せ、後に小笠原の桑島家を継承して医業を営みました。医術に優れ「訪れた患者は門に充ちた」と伝えられています。貧民救済のためにも奔走し県立の施薬院設立を目指しましたが、果たすことなく明治31年66歳で亡くなりました。門人達が遺徳を偲び久成寺に彰徳碑を建立し、先生がその文を作成しました。綿引健40歳の時です。
【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺
【写真】桑島尚謙彰徳碑 久成寺
小笠原から次に移り住んだのが江戸時代、駿河と信州を結ぶ駿信往還の宿として栄えた荊沢村です。荊沢村では法泉寺檀家の人たちが寺内に漢学などを学ぶ学術研究会を明治19年に設立し、明治21年塾長であった牛山竜が去った後、当地の大地主市川文蔵が強く懇願し、先生が塾長として招かれました。明治34年に新しい学舎が完成すると、名前を天民義塾と改名し、多くの人々が塾に集ったと伝えられます。
水害からの復興と学び
西郡に来た先生の人生を決定づけたのは、この地の水害と言ってもいいでしょう。明治時代は、殖産興業を掲げた山梨県の政策により養蚕などの燃料として山々の木が切られ、また村々が共同管理していた山が官有林とされたため盗伐が横行し、山が荒れたため洪水が多発した時代でした。
明治39年(1906)7月16日、甲府で1日に171mmを記録するほどの豪雨と続く7月24〜26日の雨によって、釜無川や市之瀬川、荊沢地内の裏瀬川など多くの河川が氾濫し、完成したばかりの天民義塾の新学舎が流失したと伝えられています(註1)。そのため、天民義塾は南湖村に移されることになります。南湖村は東の釜無川と西の滝沢川の度重なる水害を受けてきた地域で、住民にとって水害からの再興が大きな課題でした。そのため、明治29年には報徳思想を取り入れ、丹沢義吉と入倉善三を中心に報徳講を設立、勤倹貯蓄とともに生涯にわたって学習し、農民の自立を促す運動も行われていました。学ぶことで度重なる水害からの復興を目指したのです。この地に綿引健が招かれたのは必然だったのかもしれません。天民義塾が移された翌年起こったのが先月紹介した明治40年の大水害です。
【写真】入倉善三=左、丹沢義吉=右
明治40年の大水害後、南湖村水害図の他、洪水によって流路が変わった新笛吹川の石碑の文も先生が書いています(「新笛吹川紀念石之碑文」)。さらに大正4年、御勅使川扇状地全体の水害鎮守として祀られた有野の水宮神社の拝殿が修築され、それを記念した石碑も建立されました。その文を作成したのも先生でした。この地に導いた学友矢崎貢がこの時「治山・治水」と刻んだ石塔を寄進していることから、貢が先生に依頼したと想像できます。御勅使川扇状地の扇頂部に立地する有野にとっても、山を治め、川を治めることは最も重要な課題だったのです。
このように度重なる水害に翻弄された地域や人々、そして自分自身の経験から、先生は水害の記憶を次世代に伝える言葉をさまざまな場所で残しているのです。
【写真】水宮神社 大正4年矢崎貢寄進 治山・治水灯籠
【写真】水宮神社記念碑
【写真】水宮神社記念碑
父母のように
多くの人と交わり、西郡に学問を広めた綿引先生はどのような性格だったのでしょうか。一説には書家で大酒豪であった父がこの地にやってきた時、地元の若者と争いとなり亡くなってしまい、その父の仇を討つためこの地にやってきたという話も伝わります(『甲西町誌』)。しかし地元の人に諭され、仇討ちを捨て、そこから一切人と争うことがなかったとも言われます。また、ナマコを肴に飲む酒が大好きでしたが、度重なる水害を経験したことにより、西南湖の丹沢義吉らとともに「楽地禁酒会」を立ち上げ、酒を断って節約し、復興を目指したそうです。謙虚で思慮深く、温和な性格は人々を惹きつけ、還暦の祝いには100名以上の門下生が集まりました。門下生は後に先生を父でもあり母のようでもあったと記しています。
西郡の土と成る
20歳前に西郡に移り、さまざまな人々やその地の風景と出会い、共鳴し合い、多くの人々を教え導いた綿引先生。大正7年から9年、約100年前に世界中で大流行した流行性感冒、スペイン風邪として知られるインフルエンザによって大正8年2月26日、その命の灯火が消えることになりました。享年63歳、西南湖正福院に門下生が墓を建立し、今もその地に眠っています。
【写真】綿引健 墓 正福院
綿引健は亡くなりましたが、その言葉と想いは受け継がれ現在につながっています。先生に学んだ西南湖の入倉善三は仲間とともに報徳社を発展させました。西南湖報徳社は県内で唯一現在でも活動を続けています。小笠原で生まれ天民義塾で学んだ石川幸男は韮崎の杉山家に入り、運送会社を営んだ後初代韮崎町長となり、韮崎市の礎を築きました。幸男は文化への関心も高く、藤井町の坂井遺跡保存会初代会長ともなっています。南湖村で生まれた深沢吉平は明治36年、北海道音江村に入植し、同村長を経てデンマークに酪農を学び、北海道における酪農推進の先駆者の一人となりました。
風であった先生はまさに西郡の土となり、様々な人々と新しい風土を培い、他の地域へ吹く新たな風を生み出していったのです。
【写真】入倉善三先生頌徳碑
【写真】入倉善三先生頌徳碑 背面
註1:『甲西町誌』による。一方で『深澤吉平の生涯』(岡本昌訓 1964)では、「初め鰍沢の高月にあったが、類焼の厄にあって、今の南湖報徳社の建物がある場所に移転した。」とある。
参考
「南アルプス市立図書館ふるさと人物室」
<https://m-alps-lib.e-tosho.jp/kakukan/furusato.html>
「山梨デジタルアーカイブ『匏水子集』」
<http://digi.lib.pref.yamanashi.jp/da/detail?tilcod=0000000016-YMNS0200025>
【南アルプス市教育委員会文化財課】