落合に響いた「Stille Nacht, heilige Nacht」
~昭和21年1月の思い出~
■1946年(昭和21年)正月 西落合
太平洋戦争敗戦後、初めて迎える正月の夜。西落合の新津英一家では、戦中に疎開してきた日本画壇の巨匠川崎小虎一家と小虎の長女すみの夫となった東山魁夷が、敗戦に打ちひしがれながらも、小さなこたつを囲んで穏やかな時間を過ごしていました。
明るくて茶目っ気のあるすみの妹幸子の提案で、新津家、川崎家、東山家総勢15名でトランプが始まりました。ただし負けたら歌を歌う約束つきの遊びです。トランプもほとんど知らなかった新津家の人たちにとって、こんな「罰ゲーム」も初めての経験でした。
ゲームが進む中、ババ抜きで一人の大人が負けて、歌を歌うことになりました。それは後に日本を代表する画家となる東山魁夷でした。彼はその場の誰もが知っている歌を、ドイツ語で歌い始めました。しかし、「先生(魁夷)、ドイツ語じゃわからんじゃんけ」と子供達に言われ、先生は笑いながら日本語で歌い直したといいます。
【イラスト】1946年(昭和21年)正月 西落合地区イメージ
【写真】新津家の人々と東山魁夷とすみ夫妻(中央)。川崎小虎の絵の愛好家だった新津光が川崎に親戚の新津英一家を疎開先として紹介した。それが縁で川崎の娘婿の東山も母とともに身をよせることになる。
■2015年9月
こんな思い出を英一の娘、新津環さんが懐かしそうに話してくれました。しかし、そのドイツ語の歌の名前までは思い出せませんでした。どうしても先生が歌った歌が気になります。手がかりは当時15歳だった環さんの記憶に残る
ドイツ民謡ということで、「かっこう」や「野ばら」などを聴いていただきましたが、どれも違いました。「もっと優しく、静かな曲だったですよ。」
そこで東山の一生を追うと、ひとつの歌にたどりつきました。その歌を環さんに聴いていただくと、この曲ですとの答えが返ってきました。それは「Stille Nacht, heilige Nacht」、日本語名「きよしこの夜」でした。
東山魁夷の著書に、ドイツ留学時に聴いたであろうオーストリアのオーベンドルフの教会で生まれたこの曲が紹介されていました。
「あのような美しい曲が、村の教師によって突然出来てしまったのは、おそらく、作り得たのではなく、与えられたからであろう。」(『馬車よ ゆっくり走れ』1971)
東山魁夷は戦中に父を病気で亡くし、自身も熊本で爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練中に終戦を迎えました。疎開先の西落合に帰ってすぐ11月には母をも亡くし、弟も結核の療養中といった状況で、彼は家族と自身の「死」を否応なく見つめなければならない時期にあったのです。そこに訪れたにぎやかで心安らぐひと時。子供たちの前で歌われたこのやさしい歌には、彼の深い思いが込められていたのでしょう。
東山魁夷が落合に滞在したのは数か月でしたが、その後も新津家との交流は続きました。東山からの手紙には、こんな言葉がつづられていました。「送られてきたぶどうを食べると、あの落合での日々をとても懐かしく思い出します」。
【写真】落合地区で育てられているブドウ
【南アルプス市教育委員会文化財課】