第一審 甲府地裁ふたたび
控訴審での裁判所の判断に照らせば、現在は存在しない合併前の鏡中条村が、同じく現在は存在しない和泉・西南湖村を訴える訴訟を起こすことはもはや不可能です。
しかし、ここで鏡中条村は苦肉の策として思わぬアイデアで再び提訴に踏み切ります。それは、現在の鏡中条村の住民のうち、合併前の旧鏡中条村の領域の住民一人ひとりが、同じく南湖村のうち、旧和泉・西南湖村の領域に住む一人ひとりを訴えるというものでした。このアイデアは、弁護士鳩山和夫によるものと思われ、当時、旧村に住んでいた人たちの一人ひとりの連帯責任を問おうというのです。
その原告人の数は、旧鏡中条村の270名。被告人は旧西南湖、和泉の村人合わせて230名にもなります。
これだけの人数になると大変なのは訴状の作成です。中でもまず困難を極めたのは、被告人の住所氏名の確認でした。南湖村で戸籍の原簿を閲覧できればよかったのですが、被告村である南湖村は当然これには応じません。鏡中条村は、仕方なく所轄の小笠原警察署にあった戸籍の控簿を書き写し、中巨摩郡役場の帳簿と照会して被告人の名簿を作成しています。
次は、230名の被告それぞれへの訴状の送付です。コピー機もない時代、訴状自体は印刷によりましたが、それにしてもこれに要した用紙は2万枚以上に上ったと記されています。
また、送付に際しては、山梨県外に移住したものや、行方の分らない者もおり難儀したようです。県外の者については送達し、行方不明のものについては告示をもってこれに代えましたが、記録には、例えば遠く北海道に移住したものに対しては「数回往復照会為メ大ニ時日を遷延セリ」とあり、また、故意に異議を唱えるもの、伝流逃遁を試みるものもいたといいます。これらを一件一件解決し、訴状を送りつけて提訴にこぎ着けたのです。ここまで来るとまさに鏡中条村の執念を感じます。
提訴にあたって、今回は前回の一審の失敗や鳩山のアドバイスにより、証拠として新たに水防に要した費用の使途明細帳と、支払いを証明する支払受取書などを加えました。また、水防に費用が掛かった事実や、南湖村の人々も水防に参加していたことを証明する証人として、前控訴審の時にも証人採用を求めた中巨摩郡役場の書記土木課員新谷旨備に加え、この水防の当時県の土木課長であった穴水朝次郎を証人として採用するよう求めました。
穴水は、2008年10月15日号でも紹介したとおり、後に県議会議員となり、明治29年水害を契機とした前御勅使川の封鎖、廃河道化に尽力したことで知られる人物です。
鏡中条、南湖とも弁護士は前回の甲府地裁と同じ飯島實、島田楳蔵。甲府地裁の裁判官(判事)も3名のうち筆頭判事を含む2名が同じ顔ぶれでした。
提訴は、明治24年12月20日。穴水朝次郎らの喚問なども行われ、判決は、明治25年4月2日にだされました。
「本件ノ争点ハ享和三年ニ定メタル水防組合今尚存在スルモノナルヤ否ヤ果シテ存在スルニ於テハ原告ノ請求金額ハ相当ナルヤ否ヤニアリ」。裁判所は今回は、鏡中条村がかねてから求めてきた水防組合の旧来の契約が有効であるか否かを争点と認めます。
その結果、今回は周到に準備した鏡中条村の主張が全面的に認められ、鏡中条村の勝訴となりました。
南湖村は、この水防に利害なしというが、穴水朝次郎の陳述においても、将監堤決壊の場合は、「南湖村藤田村等ヘ浸水スルニ相違ナシ」とあるように、被告人等が被害を受けることは明瞭である。また、享和三年の契約が廃止された証拠はないので、現在も有効であることは明らかで、引き続き古来の慣行に従うものと認められる。
水利土功会は、水利土功に関係ある人民もしくは町村の集会を要するときその地方の便宜に従い規則を設けるのであって、将監堤のように古来からの慣行に従い別段集会評決の必要がなければ、必ずしも水利土功会を設ける必要はない。したがって、水利土功会を設けていないこと即ち享和三年以来の慣行を廃止したとする理由にはならない。
また、穴水らの証言により、資材を要したことが認められ、受取書もあることから、訴えの如く費用を要したと信認される。今回の甲府地裁の判断です。
南湖村は当然控訴し、舞台は再び東京控訴院に移ります。
明治十四年十二月村役所控とあり、将監堤決壊の場合は、西南湖・和泉も大きな被害が及ぶことが記される。内容から本絵図は本訴訟に際して作成された可能性もあり、その場合控えとして写される際に、提訴年月の明治廿四年十二月の、廿と十を写し間違えた可能性が指摘できる。
【南アルプス市教育委員会文化財課】