前号でお伝えしたように「根方」は眺望のポイントや花の名所、名刹など見所が満載です。そしてそれらの見所が揃う根方は太古より続く歴史の厚みに裏付けられた魅力ある地域といえるのです。
以前に紹介したとおり、2万年以上さかのぼる南アルプス市最初の落し物も、7000年ほど前の最初の定住生活の跡も根方で発見されているのです。
山梨県でよく語り継がれている伝承に、甲府盆地がかつては湖だったという「湖水伝説」があります。実際には甲府盆地の真ん中でも縄文時代からの遺跡が見つかっていますから、決して湖だったということはないのですが、水がよく氾濫していた地域だということは言えるようです。
それらの伝承同様、かつては南アルプス市でも縄文時代などの古い段階の遺跡は台地上にあると考えられていました。
しかし昭和61年の発掘調査を皮切りに台地下での縄文人の暮らしが見えてきたのです。
世界に誇る「根方」の縄文文化
以前にも紹介しましたが(2006年8月1日号「世界を旅する南ア市の縄文文化」、2006年8月15日号「土器に希少価値と高い芸術性 顔やしぐさに縄文人の感性」などを参照)下市之瀬地区に計画された櫛形地区拠点工業団地造成工事に伴う発掘調査で、その後日本縄文文化を代表することとなる遺跡「鋳物師屋遺跡」(〆木遺跡を含む)の全容が明らかとなり、台地の下にほぼ完全な姿で縄文時代中期(約5000年前)の集落が発見されたのです。
【写真左=鋳物師屋遺跡出土円錐形土偶(えんすいけいどぐう)(国指定重要文化財)、写真右=鋳物師屋遺跡出土人体文様付有孔鍔付土器(じんたいもんようつきゆうこうつばつきどき)(国指定重要文化財)】
これらの資料はイギリス大英博物館など世界中で紹介され、山梨はもちろんのこと、日本縄文文化を代表する面々といえるのです。
この鋳物師屋遺跡の存在により、市之瀬台地の裾野から扇状地にかけても縄文時代の集落が存在することが改めて認識され、この頃から調査事例が増加していき、縄文時代はまさに「根方」を象徴する時代のひとつとなったのです。
中でも鋳物師屋遺跡に次ぐ縄文の遺跡といえば曲輪田地区にある「北原C遺跡」を挙げることができます。
北原C遺跡の調査では数々の新しい発見があり、一種独特の世界観を伺うことができました。
縄文時代中期の大集落「北原C遺跡」
【写真=北原C遺跡航空写真(南から) 道路敷設範囲のみ発掘調査が行われた】
北原C遺跡は、市之瀬台地北端の裾下、南アルプス市曲輪田に所在します。標高約320~330mで、高室川、大和川とに挟まれた扇状地に立地します。
平成11年7月から発掘調査を開始し、約3ヶ月間の調査は1200㎡に及び、大量の土器や石器と、竪穴式住居址の数々、そしてこれまで南アルプス市域ではわからなかった新しい発見がありました。
環状に並ぶ住居
北原C遺跡からは18軒以上の竪穴式住居の跡や90基の土坑(直径約1m程の穴)、土器や石器が5万点以上も発見されました。
あくまでも道路工事によって遺跡が破壊される範囲だけを発掘調査するため、北原C遺跡の縄文集落はもっと周辺に広がっているものと考えられ、調査の様子からこの時代に特徴的な、中央に広場的空間をもつ環状(ドーナツ状)集落と呼ばれる集落の形態を示していることがわかりました。
発見された住居址などの位置は下の図や写真のとおりで、住居址ごとの遺物を詳しく調べると、おおむね縄文時代中期後半(今から約4000~4500年前)という時代に営まれた集落であったことが判明しましたが、その中でもおおよそ3つの時期に区分できました(赤が一番古く→青→黄色と続き、今から約4500年~4000年程前)。
【図1=調査区および遺構配置図】
【写真=北原C遺跡航空写真(真上から、西が上)。無数にある穴が竪穴住居やその中にある柱穴を示して、中央右寄りに住居址のない空間が確認できる(左端)。図1と同じく時期ごとに区分(中央)。調査区外にも環状に集落は広がっていたとみられる】
台地の裾近くといえども扇状地という立地のため大量の礫の中をかきわけ、現れた縄文集落の姿は他の集落に比べ、独特の性格が見えてきました。
調査の様子からは北原C縄文人の自然に対する畏怖や祈り、また恵みに対する感謝など、自然とともに生きた縄文人たちのさまざまな精神世界、神秘的な世界を垣間見ることができたのです。
では、その神秘的な世界とは一体どのようなものだったのでしょう?次回、出土遺物からみえる北原C遺跡の性格についてお伝えしましょう。
[南アルプス市教育委員会文化財課]