御勅使川扇状地の西縁に沿ってそびえる山肌、飯野地区西端の福王寺の裏山から築山地区にかけての全長2.7kmほどの山すそにはロタコ工事に伴って数多くの横穴が掘られました。
【写真】横穴壕が造られた山地。南端は現在のループ橋付近
その数は山梨県の資料によれば55カ所。終戦によって未完成に終わった横穴もありましたが、完成していた部分では、内部で各横穴が縦横に連結され、エンジンの整備や製造、燃料や弾薬などの備蓄に使われました。
【図】山梨県庁に残る横穴壕の図面。そのおおよその位置と規模が分かる
完成した横穴壕には電気も引かれ、夜でも昼間のように明るかったとの証言もあります。壕内には旋盤などの作業機械が持ち込まれ、「ジュラルミン」を加工する作業が行われていました。その際、不要になった「ジュラルミンの機体の切れ端」が外に積んであり、当時子どもで、それを拾ってきて遊んだという地域の人たちの証言もあります。
また、終戦時地域の人たちの証言や県の資料によれば、壕内には、航空燃料を入れたドラム缶約200本、機関砲弾15,000発、100キロ爆弾200発などが残されていたといいます。
戦後、地域住民と残務整理の兵隊でこれを米軍にわたすため近所の神社の裏に集めたそうです。しかし、いよいよ米軍にこれを渡す日の前夜、そのまま渡すのは忍びなく、ドラム缶に穴を開け、その多くを地面に浸み込ませてしまったというエピソードが残っています。
横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、実際に工事に携わったのは朝鮮半島出身の人々、いわゆる朝鮮人労働者の人々でした。地下壕周辺での作業では、地域の青年学校の生徒や、旧制甲府中学(現甲府一高)の学生も動員されましたが、実際に壕を掘る作業はもっぱら朝鮮人労働者といわれる人々のみが請け負いました。
朝鮮半島出身の人々はみな家族で来ており、地域の人々の提供した物置や蚕室などに暮らし、彼らの子どもたちは、当時の源小学校や飯野小学校など近くの小学校に通っていたそうです。ロタコにかかわった朝鮮人労働者の総数は優に1000人を超えるとの証言もあります。
横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。掘削作業では、落盤を防ぐため、「ひと抱えもあるような太い松の丸太」で支柱を立てながら徐々に掘り進みましたが、不幸にも落盤によって命を落とした労働者もいたことが分かっています。工事は、休みなく交代制で、夜間も行なわれていたという証言があるほか、工事には1日1mの掘削が義務づけられていて、ノルマがこなせない場合には夜間も工事を行なったとの証言もあります。掘った土はトロッコに載せて壕の外に運ばれました。現在も山すそに沿って横穴壕を掘削した時の排土によってできた土の山をいたるところに見ることができます。
横穴壕は、ロタコ構築工事の中では、最も早く着手された施設といわれ、一般に昭和19年秋頃から建設が始まったといわれていますが、これより前から始まっていたという証言もあります。
工事は終戦により未完成のまま終了しました。終戦後、横穴壕を支えた木材は、空襲で焼けた甲府市街の復興需要に対応するため地域住民により持ち出されたほか、戦後もこの地にとどまった(とどまらざるをえなかった)朝鮮人労働者が生活のために造った「ドブロク」の製造のための燃料として持ち出されたりしました。そのため、もともともろい地盤に作られた地下壕は支柱を失い、次々に崩落し、現在口を開けている壕は一カ所もありません。今は山の斜面のいたるところに見られる地形の陥没した跡に往時の工事の様子を垣間見ることができるのみとなっています。
一見すると見過ごしてしまいそうな山肌ですが、朝鮮人労働者をも巻き込んだ戦争の爪あとを今に伝えています。
【写真】横穴壕跡の陥没。地域ではいたるところにU字形や円形の陥没跡を見ることができる
地域には、朝鮮人労働者が使った道具が今でも残されています。これは、戦後とり残された彼らが、帰国するとき、せめてもの路銀の足しになればと、地域の方に買い取りを依頼したものです。地域に残された遺物が、終戦により取り残された、彼らの非常な苦労を私たちに伝えてくれています。
【写真】朝鮮人労働者や軍属が使用していた道具(左からツルハシ、ジョレン、食器)
【写真】食器にはそれぞれ持ち主の名前や出身地などが刻まれている
【南アルプス市教育委員会文化財課】