前回(7月1日号)は、新たな指定文化財の中で、「ロタコ」の存在を紹介しましたが、太平洋戦争中、大規模な空襲などの被害がなかった南アルプス市のなかで、実際には現在の町並みの中に戦争の痕跡を今に伝えるモノや場所を見つけることはなかなか難しく、日常生活のなかで、「戦争の記憶」を呼び起こすことはほとんどないかもしれません。
しかし、現実には終戦直前の昭和20年7月30日、南アルプス市域南部から増穂町にかけて、米軍艦載機が飛来し、死者4名、負傷者4名の犠牲者を出しており、終戦直後には旧豊村(櫛形地区)の満蒙開拓団140名あまりが現地で集団自決するという痛ましい事件がありました。また、この戦争における南アルプス市域出身者の戦死者数は実に1,906人にも及び、戦争のつめ跡は大きく深く地域の人々の心には刻まれていたといえるでしょう。
【写真】満州開拓殉難者慰霊碑:「分村」して満州に渡った豊村の人々が、終戦により中国東北部で孤立し、ついには昭和20年8月17日幼児を含む140名余りがダイナマイトにより集団自決した事件を悼み、吉田の諏訪神社境内に建立された。
ところが、まもなく63回目の終戦記念日を迎えようとする現在、戦争を直接、間接に体験した世代は少数派となり、戦争の記憶を語り継ぐことが困難な時代になっています。いまや、戦争を語り継ぐ主役はいやおうなく、体験者の「コトバ」から、戦争遺跡や遺品などの「モノ」頼らざるを得ない時代に移りつつあります。
【写真】勤労動員の碑:戦時中、木工所や製糸工場に勤労動員され、勉強できずに苦労した飯野国民学校(当時)の生徒たちが、その苦労を次世代に伝えるために建てたもの。白根飯野小学校にある。
このような時代にあって、戦時中「ロタコ」の暗号名で呼ばれた遺跡は、南アルプス市にも確かに戦争があったのだということを今に伝えるモニュメントとして大きな意味をもつことになります。
地域の歴史を記した町村誌において、地域住民らを動員して行なわれたロタコ工事に関する記載は、南アルプス市を構成する旧6町村のうち、ロタコのある白根町を含む全ての町村にみられ、この遺跡が地域における戦争の記憶として象徴的な役割を果たしうることを伝えています。
アジア太平洋戦争末期、東京立川にあった軍施設、立川航空工廠(たちかわこうくうこうしょう)の機能を疎開させ、その存在を隠す目的で構築されたとされる秘匿飛行場ロタコ(第2立川航空廠の暗号名)。広大な御勅使川扇状地上の約800ヘクタールもの範囲に点在するその痕跡は現在の町並みの中に没し、なかなか気付くことはありません。次回から数回にわたって、何げない街角に残る、この「戦争の記憶」を紹介していきたいと思います。
【南アルプス市教育委員会文化財課】