甲斐源氏の活躍により成立した鎌倉幕府も終わりを迎え、後醍醐天皇による建武の新政を経て、時代は南北朝時代となります。南北朝の争いは京都や鎌倉だけの話でなく、南アルプス市に及んでいました。今回のふるさとメールではその舞台のひとつとなった南北朝時代の山城、須沢城をご紹介します。
1990年に放送された大河ドラマ「太平記」をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。鎌倉幕府を倒し、室町幕府を開いた主役の足利尊氏役に真田広之、弟の足利直義(あしかがただよし)役を高嶋政伸が演じました。ドラマは尊氏と直義兄弟の絆と対立を縦糸として紡がれていました。
兄弟の対立は史実であり、この幕府内での内紛は観応の擾乱と呼ばれています。その引き金は、将軍である尊氏と、弟の直義とが政治的権限を分割して統治したことによって、幕府内に二つの派閥が生まれたことにありました。
まず、尊氏に仕える執事高師直(こうのもろなお)と直義が幕府の実権をめぐり激しく対立しました。ちなみに以前、古長禅寺(南アルプス市鮎沢)でご紹介した名僧夢窓国師(むそうこくし)が高師直と直義をとりなし、一時対立が緩和されたエピソードも伝えられています。両者の争いは各地で2派の代理戦争を引き起こします。尊氏が京都とともに重視した鎌倉では、鎌倉公方(鎌倉府の長官)を補佐する2名の執事、高師直の養子の高師冬(こうのもろふゆ)と直義派の上杉憲顕(うえすぎのりあき)の間で争いが起こります。高師冬は鎌倉公方を擁立して上杉憲顕を攻めましたが、逆に公方を奪われてしまい戦況が不利となってしまいました。そして、追われた高師冬の向かった場所が、現在の南アルプス市大嵐の須沢城です。しかし須沢城に入った高師冬は上杉軍と諏訪軍に攻められ、観応2年(1351年)に自刃しました。
【写真・左】=南東に見られる土盛り
【写真・右】=土盛り上の石造物
須沢城の推定地は南アルプス市大嵐の小高い段丘上にあります。南東へとゆるやかに傾斜する斜面が広がり、その南東に五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などが置かれた土盛りがありますが、現在では城の痕跡を見つけることができません。1989年には発掘調査と地中レーダー探査が行われ溝跡が発見されました。しかし、具体的な城の姿を描くことができるまでの遺構はこれまでのところ発見されていません。
その一方で、諏訪軍が須沢城をのぞき見た地点「のぞきの森」や「駒場」「的場」、「塩の前(城前)」など城の存在を暗示する地名が今も須沢周辺に言い伝えられています。
【南アルプス市教育委員会文化財課】