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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2008年8月

【季節の便り】

立秋が過ぎ、夏も終わりに

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 30度を越える猛暑の毎日が続き、暑さのためか夏の象徴ともいえる「セミの声」は、日中ほとんど聞こえてきませんでした。立秋も過ぎ、暦の上では秋。このところやっと夜になると涼しい風を肌に感じ、夏の終わりを告げるようなセミの声がちらほら聞こえてきます。これでもう夏が終わってしまうのでしょうか。
 8月のお盆前に出荷しようと、市内のぶどう農家ではぶどうの王様とも呼ばれ人気の高い「巨峰」の収穫に追われています。
 「巨峰」という名前の由来は、静岡県で作り出された新品種のぶどうを、研究所から見える富士山にちなんで、1946年に「巨峰」と命名したそうです。
 いつか、南アルプスにちなんだ名前の新品種が出来るかも…。

大敵はスズメ!!

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 春に田植えをして大切に育ててきた早苗が成長し、きれいな濃い緑色に変わり、よく見ると小さな稲穂が付き始めていました。秋の収穫はまだまだ先で、鳥などから稲を守っていかなければなりません。農家では糸や網、かかしなど、さまざまな工夫をしながら収穫の時期を待ちます。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~③
横穴壕(よこあなごう)

 御勅使川扇状地の西縁に沿ってそびえる山肌、飯野地区西端の福王寺の裏山から築山地区にかけての全長2.7kmほどの山すそにはロタコ工事に伴って数多くの横穴が掘られました。

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【写真】横穴壕が造られた山地。南端は現在のループ橋付近

 その数は山梨県の資料によれば55カ所。終戦によって未完成に終わった横穴もありましたが、完成していた部分では、内部で各横穴が縦横に連結され、エンジンの整備や製造、燃料や弾薬などの備蓄に使われました。

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【図】山梨県庁に残る横穴壕の図面。そのおおよその位置と規模が分かる

 完成した横穴壕には電気も引かれ、夜でも昼間のように明るかったとの証言もあります。壕内には旋盤などの作業機械が持ち込まれ、「ジュラルミン」を加工する作業が行われていました。その際、不要になった「ジュラルミンの機体の切れ端」が外に積んであり、当時子どもで、それを拾ってきて遊んだという地域の人たちの証言もあります。
 また、終戦時地域の人たちの証言や県の資料によれば、壕内には、航空燃料を入れたドラム缶約200本、機関砲弾15,000発、100キロ爆弾200発などが残されていたといいます。
 戦後、地域住民と残務整理の兵隊でこれを米軍にわたすため近所の神社の裏に集めたそうです。しかし、いよいよ米軍にこれを渡す日の前夜、そのまま渡すのは忍びなく、ドラム缶に穴を開け、その多くを地面に浸み込ませてしまったというエピソードが残っています。

 横穴壕の工事は、大手ゼネコンが陸軍から受注し、実際に工事に携わったのは朝鮮半島出身の人々、いわゆる朝鮮人労働者の人々でした。地下壕周辺での作業では、地域の青年学校の生徒や、旧制甲府中学(現甲府一高)の学生も動員されましたが、実際に壕を掘る作業はもっぱら朝鮮人労働者といわれる人々のみが請け負いました。
 朝鮮半島出身の人々はみな家族で来ており、地域の人々の提供した物置や蚕室などに暮らし、彼らの子どもたちは、当時の源小学校や飯野小学校など近くの小学校に通っていたそうです。ロタコにかかわった朝鮮人労働者の総数は優に1000人を超えるとの証言もあります。

 横穴壕が掘られた山の斜面は非常に崩れやすい地盤で、横穴の掘削工事は困難を極めました。掘削作業では、落盤を防ぐため、「ひと抱えもあるような太い松の丸太」で支柱を立てながら徐々に掘り進みましたが、不幸にも落盤によって命を落とした労働者もいたことが分かっています。工事は、休みなく交代制で、夜間も行なわれていたという証言があるほか、工事には1日1mの掘削が義務づけられていて、ノルマがこなせない場合には夜間も工事を行なったとの証言もあります。掘った土はトロッコに載せて壕の外に運ばれました。現在も山すそに沿って横穴壕を掘削した時の排土によってできた土の山をいたるところに見ることができます。

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【写真】横穴壕跡の陥没とトロッコの排土跡

 横穴壕は、ロタコ構築工事の中では、最も早く着手された施設といわれ、一般に昭和19年秋頃から建設が始まったといわれていますが、これより前から始まっていたという証言もあります。

 工事は終戦により未完成のまま終了しました。終戦後、横穴壕を支えた木材は、空襲で焼けた甲府市街の復興需要に対応するため地域住民により持ち出されたほか、戦後もこの地にとどまった(とどまらざるをえなかった)朝鮮人労働者が生活のために造った「ドブロク」の製造のための燃料として持ち出されたりしました。そのため、もともともろい地盤に作られた地下壕は支柱を失い、次々に崩落し、現在口を開けている壕は一カ所もありません。今は山の斜面のいたるところに見られる地形の陥没した跡に往時の工事の様子を垣間見ることができるのみとなっています。
 一見すると見過ごしてしまいそうな山肌ですが、朝鮮人労働者をも巻き込んだ戦争の爪あとを今に伝えています。

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【写真】横穴壕跡の陥没。地域ではいたるところにU字形や円形の陥没跡を見ることができる

 地域には、朝鮮人労働者が使った道具が今でも残されています。これは、戦後とり残された彼らが、帰国するとき、せめてもの路銀の足しになればと、地域の方に買い取りを依頼したものです。地域に残された遺物が、終戦により取り残された、彼らの非常な苦労を私たちに伝えてくれています。

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【写真】朝鮮人労働者や軍属が使用していた道具(左からツルハシ、ジョレン、食器)

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【写真】食器にはそれぞれ持ち主の名前や出身地などが刻まれている

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

「アルプス美人」が最盛期!

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 南アルプス市は、「果物の宝庫」といっても過言ではありません。次から次へとさまざまな果物が農家の人たちの手で共選所へ持ち込まれてきます。
今、最盛期を迎えているのは、「アルプス美人」と命名された桃で、「アルプス小町」の後に収穫の時期を迎える品種です。
 共選所にある光センサーを使って桃の糖度を計る作業は、常に50人~80人体制で行っているとのこと。長年の経験を持つ人たちの目と光センサーが、桃の行き先を決定しているようです。
 特にエクセレントという13度以上の糖度がある桃は最高に甘く、固くても柔らかくても美味しいので、皆さんも一度南アルプスの桃を食してみてください。

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◆JAこま野西野支所で桃食べ放題

Malps080801_006 JAこま野西野支所では、8月3日(日)まで、小学生以上300円(小学生未満は無料)で「桃食べ放題」のイベントを企画して毎日実施しています。南アルプス市を訪れた際には、甘い桃をぜひご賞味ください。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

むかし飛行場があった ~ロタコ(御勅使河原飛行場)~ ②
八ヶ岳に向かいまっすぐ延びる滑走路跡

 広大な御勅使川扇状地の扇央部を縦断する滑走路跡。主軸はまっすぐに北方の八ヶ岳の方向を向いています。これはこの地方特有の強い季節風、いわゆる「八ヶ岳颪(やつがたけおろし)」を意識したものです。滑走路幅は100m、長さは約1500mで大型機の離発着も可能な規模でした。
 滑走路の南端は飯野の三宮神社(みつみやじんじゃ、通称おさごっさん)付近、北端は遥か御勅使川沿いの現在の県道甲斐芦安線と交差し、滑走路には飛行機を運ぶためのいくつかの誘導路が接続していました。

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【写真・図】滑走路

 現在でもその痕跡を確認することができます(写真中央の方形の区画が滑走路の南端になります)。

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【写真】三宮神社

 滑走路南端付近の三宮神社は、御勅使川扇状地上の数少ないランドマークとして動員された地域住民の集合場所でもありました。

 滑走路の南端付近は、浅い谷状の地形を埋め立てて造成されており、現在でも当時の盛土の様子をよくのこしています。滑走路の北端付近は、東側に傾斜する地形を切土して造成されました。

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【写真・左】=滑走路南端付近の盛土。現在もその痕跡を明確に確認することができる
【写真・右】=滑走路北端の段差。住宅地の中、見過ごしてしまいそうだが傾斜した地形を切土した造成の跡が現在まで残っている

 造成工事にはスコップや「ジョレン」などの道具を用いて行い、土の運搬は、「パイスケ」と呼ばれる天秤棒状の道具や「チョウセングルマ」と呼ばれた二輪の手押車やトロッコが活用されました。造成後はローラーによる締め固めが行われていた部分もあったようです。

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【写真・左】=実際のロタコ工事に使われたジョレン。地域の方が保管していた
【写真・右】=パイスケ。滑走路の工事を体験した方が当時の様子を伝えてくれた

 地域に残る資料や証言によれば、造成には釜無川西岸地域全域(現在の韮崎市の一部、南アルプス市および増穂町全域)の住民が少なくとも1日3000人、また、いわゆる朝鮮人労働者といった方々などが動員されたといわれています。
 地域住民の本格的動員は昭和20年3月6日に始まり、作業は毎日午前7時に現地集合、7時30分より開始し、午前午後それぞれ15分の休憩と昼休みをはさみ午後5時までで「距離ノ遠近其ノ他ノ理由ヲ問ハズ出動時間ハ絶対厳守ノコト」とされました。若い男性がほとんど戦争にいっているため、動員され作業を担った多くは老人や女性などで、なかには赤ん坊を背負った女性や、農作業や土木作業などの経験がほとんどない都会から疎開してきた人もいたといわれています。
 平成17年度に行われた発掘調査の結果からは、当時の人々が行った造成工事様子を垣間見ることができました。

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【写真】発掘調査の様子

 造成の終わった滑走路では、山から採取してきた松葉などを敷き詰めたり、イモやマメの栽培を行ったりしてその存在を隠しました。松葉の採取については、もっぱら地元の源国民学校(現白根源小学校)の生徒が動員され、証言によれば、松葉は数日で枯れて赤く変色してしまうので数日ごとに新鮮な松葉を敷きなおす作業を強いられたそうです。
 当時源国民学校の教師であった方の証言によれば、当時は毎日勤労奉仕などで授業はほとんど行わなれなかったそうで、山に松などの枝を取りに行った山中で、本来は禁止されていたけれど、「子供たちのためを思って国語と算数だけは」隠れてこっそり教えたのだそうです。

 滑走路は、終戦前に数回、終戦後米軍が調査のために一度降り立ったほかは、ほとんど使われることはありませんでした。まさに幻の飛行場であったわけですが、御勅使川扇状地に残るその痕跡は、現代に生きる我々に六十数年前の人々の苦労を伝えてくれています。

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】