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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

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2007年8月

【季節の便り】

市内で防災訓練!

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 自主防災会ごとに行われる防災訓練が、8月26日に市内各地域で実施されました。
 訓練の内容は、地域ごとにそれぞれ異なっていますが、昔も今も変わらないバケツリレーや非常食用として大きな鍋で「おすいとん」を作り、参加者に振舞っていたところもありました。このところ、国内外を問わず頻繁に大きな地震が発生しており、それらの悲惨な映像を目の当たりにすると、改めて地震の怖さが伝わってきます。実際に地震や災害が起きた時、どう対応すべきか、普段から家族や近所の人たちと話し合っておきたいものですね。

 十五夜に、お月見団子と一緒に必ず添える「すすき」をあちこちで見かけるようになり、市内も秋の気配が漂う風景に変わってきました。

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)2

 今回のふるさとメールでは大師東丹保遺跡から出土した祭祀の道具を紹介しながら、遺跡の性格をまとめてみます。

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【写真】=Ⅱ区 水田を区画する溝跡

 東西約30×南北450mの調査範囲に広がる大師東丹保遺跡は、南からⅠ~Ⅳ区まで調査区域が分けられています。その内Ⅱ区の北側に掘立柱建物跡が4棟立ち並び、その南北に水路で区画された水田が広がっていました。

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【写真・左】=五芒星が記された呪符木簡
【写真・右】=五芒星が記された呪符木簡(実測図)

 Ⅱ区北側に立ち並ぶ建物跡周辺の特に南側では、まじないや祭祀に使うさまざまな道具が見つかっています。ここ数年来世間である種のブームとなっている陰陽師(おんみょうじ)、とりわけ安倍晴明(あべのせいめい)が有名ですが、その陰陽道で魔よけの呪符として使われる五芒星(ごぼうせい)を記した木簡がここで出土しました。残念ながら記されている墨書を解読することはできませんが、この地に暮らした人々の切実な願いが込められているものと思われます。ちなみに五芒星は安倍晴明を祀る京都の清明神社の神紋にも使われています。

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【写真・左】=出土した斎串(実測図)
【写真・右】=土坑から出土した渡来銭

 そのほかの祭祀の道具としては、細い木を削り先端を尖らせ、切れ込みを入れた形で祭祀具として利用された斎串(いぐし)や病気の治療などに使われた祭祀具の人形なども発見されています。また、建物跡南側の土坑から28枚の渡来銭が見つかっている他、古来中国や日本で邪気を祓うと考えられていたモモのタネ部分も溝跡から大量に出土しました。こうした出土遺物を眺めてみると、建物跡南の区画は水辺でお祭りを行う特別な場所だったのかもしれません。遺物をじっと見つめると、呪符木簡や斎串に願いを込め、祈りを結んだ当時の人々の姿が浮かんでくるようです。

 こうしたさまざまな祭祀具や前回ご紹介した漆器や舶来の青磁・白磁などの出土遺物から、発掘された建物跡が一般庶民の住宅ではなく、ある程度の財力を持ち低地開発を主導した階層の屋敷跡と推測されます。水路を掘り、畦を盛り上げ、床土を整えて苦労の末開発したこの水田も、14世紀中ごろに起こった洪水によって埋没し、集落は放棄されます。今よりもずっと自然の猛威に生活が左右された鎌倉時代、だからこそ人々は祭祀を行い、自然と言葉をかわそうとしてきたのでしょう。

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【写真】=現在の大師東丹保遺跡周辺

 現在、遺跡周辺は洪水による被害もほとんどなくなり、稲作が営まれ、たくさんの稲穂が頭を垂れています。

(写真出典)
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅱ・Ⅲ区」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

立秋は過ぎても・・・

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 今年は梅雨に入る時期が遅く、明けるのもゆっくりだったので、つい先日やっと明けたと思っていたらもう立秋。夏が終わりに近づき、なんとなく寂しい気持ちになってしまうところですが、まだまだ残暑が続きそうですね。ここ数日の35度を超える気温にも参ってしまうのではないでしょうか。やはり、地球温暖化の影響でしょうか。5月頃に田植をした苗は、頭をたらした稲穂へと変わり、網をかけた田んぼがあちこちに見受けられ、秋を感じる風景が見られます。そして、民家の庭先にも秋の香りがする「なし」が大きな実を付けていました。果物が豊富な南アルプス市も温暖化のせいで何年後かには季節の果物も変わってくるのでしょうか。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

鎌倉時代の開発集落 大師東丹保遺跡(だいしひがしたんぼいせき)1

 鎌倉時代、御勅使川扇状地上に八田御牧や八田庄が広がっていたのはすでにお伝えしましたが、低地の開発も進んでいました。そのことを示すのが大師東丹保遺跡です。

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【写真・左】=大師東丹保遺跡Ⅱ区全景
【写真・右】=建物跡と柱痕

 大師東丹保遺跡は滝沢川と坪川の複合扇状地上に位置しています。中世には、現在の増穂町から南アルプス市甲西地区周辺に広がっていた大井庄に属していたと考えられます。甲西バイパス建設に伴い発掘調査が行われ、東西約30×南北450mの範囲から13世紀前半~14世紀前半ごろの集落跡が発見されました。
 この集落は、その移り変わりをはっきりとたどることのできる希な発掘調査例となりました。というのも、水路の杭列や建物の柱痕が南向きに傾いて出土し、あたり一面には川底に見られるような砂礫が広がって、それをどけてさらに掘り下げると、その下から建物の跡や幾本もの水路で区画された水田が現れたのです。これらは、集落が洪水によって埋没し、その後破棄されたことを示しています。それぞれの時期は、集落の始まりが鎌倉時代の13世紀前半、洪水被害に遭ったのが14世紀中ごろであることが、土器などの遺物の年代から明らかとなりました。当時の村人にとっては大災害ですが、発掘調査をした側からすると、洪水によって鎌倉時代の集落がそのままパックされて保存され、中世集落の原風景をとらえることができたのでした。

◆大量に発見された木製品

 大師東丹保遺跡で特に注目されるのは、大量に出土した木製品です。通常の遺跡では有機物は腐食し分解されるため、現代まで残るものはほとんどありません。したがって、発掘調査では土器や石器など腐食しない生活用具の出土遺物が大勢をしめます。ところが、大師東丹保遺跡は低湿地のため、多くの木製品が水に浸かった状態で保存され残されていたのです。

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【写真・左】=出土した下駄
【写真・右】=横櫛

 発見された木製品の中でも数が多かったのが、木製の下駄です。歯の高いものと低いもの大きく分けて2種類あります。雨の日あるいは出かける場所など、用途や目的によって履き分けていたのかもしれません。また、草履も出土しています。それから、髪をすくための櫛、骨組みだけですが、扇子も出土しました。うだるような今の季節、この扇子を扇いで暑さをしのいでいたのかもしれませんね。

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【写真・左】=ウリ類が描かれた漆塗り椀
【写真・右】=出土した青磁・白磁

 木製品以外の生活用具としては、やはり食器がたくさん見つかりました。外面が煤で覆われた土鍋には両側に紐を吊すための紐かけ孔があり、囲炉裏に吊るされ煮炊きに使われた様子が伺えます。できた料理は、土器だけでなく木製の皿や漆塗りの椀などにも盛り付けられました。椀の中には内側にウリ類を描いたものも見られます。今の季節、まさに旬のおいしいもの、やはり昔の人も食いしん坊だったのでしょうね。また、食器には青磁や白磁という中国産の磁器も使われていました。これらは希少品なので、きっと当時のお金持ちや武士の家などで使われていたのでしょう。
 以上のように、大師東丹保遺跡は遺構・遺物両面から当時の人々が暮らした豊かな情報に触れることができる類まれな遺跡なのです。
 次回のふるさとメールでは大師東丹保遺跡から出土した祭祀具を中心にご紹介します。

(写真出典)
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅰ区」
山梨県教育委員会 1997「大師東丹保遺跡Ⅱ・Ⅲ区」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】

【季節の便り】

国内外の交流事業が盛況?

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 なかなかすっきりしない天候に、いつ夏がやってくるのだろうと思っている人たちも多いのではないでしょうか。南アルプス市はこの夏、国内外の交流事業が盛んです。姉妹都市になっている北海道北村、石川県穴水町、東京都小笠原村などの国内交流に加え、アメリカのウインターセットやマーシャルタウンなどの国際交流も盛んに行われ、今、最盛期となっている桃狩りなども楽しんでいます。また、日本一の富士山やリニア実験線の見学なども予定していることから、山梨や南アルプス市を夏休みの楽しい思い出の1ページに加えてほしいと願っています。

 

【南アルプス市 広聴広報課】

【連載 今、南アルプスが面白い】

八田御牧(はったのみまき)から八田庄(はったのしょう)へ
~鎌倉時代の御勅使川扇状地~

 甲斐国と呼ばれていた平安時代、山梨県には京都の朝廷へ貢納する牛馬を飼育する「勅旨牧」が置かれました。牧とは戦いに使うための馬や貢物として献上する牛馬を飼育・繁殖させる広大な区域とその施設のことをいいます。現在でいう「牧場」のようなものですが、草原で乳牛や肉牛を飼育する牧場とは目的や造りが異なります。

 「勅旨牧」が設置されたのは、全国でも上野国、信濃国、甲斐国、武蔵国の4カ国で、甲斐国には「柏前牧(かしわざきのまき)」「真衣牧(まきののまき)」「穂坂牧(ほさかのまき)」の3牧が置かれました。いずれの牧もその場所は定かではありませんが、北巨摩地方が有力な推定地になっています。

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【写真・左】=高尾山穂見神社
【写真・右】=穂見神社 御正体

 南アルプス市もまた、牛や馬に古くから係わりの深い土地です。櫛形地区高尾の穂見神社には銅製の懸仏(御正体)が伝えられています。直径26.4cm、厚さ約0.3cmの銅製の鏡の表面に台座に座る男神像が線刻され、その右側に「甲斐国八田御牧北鷹尾」左側に「天福元年(1233)」の銘が刻まれています。この銘から、鎌倉時代に「八田御牧(はったのみまき)」が鷹尾=高尾山麓の御勅使川扇状地上に広がっていたと考えられてきました。江戸時代に編纂された地誌『甲斐国志』には「八田御牧」の場所として「加賀美・小笠原ヨリ北ヲ里人モ多ク八田ノ庄ト云ヒ伝フ」と記されていることや、現在に残る地名「上八田」や「旧八田村」からもわかるように、現在の八田・白根・櫛形地区周辺とみなされています。

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【写真】=百々遺跡 4頭ウマが並べて埋葬されている

 八田御牧の存在を裏付ける資料に、以前ご紹介した白根地区百々遺跡(現甲西バイパス)があります(ふるさとメール「甲斐源氏活躍の礎 条里地割と八田牧」)。百々遺跡で発掘された牛馬骨は90頭前後、とりわけ4頭の馬が並んで埋葬されている土坑が見つかったのは全国的にもめずらしい事例です。また、八田地区の榎原・天神遺跡(現八田ふれあい情報館)や、同地区で現在発掘調査中の野牛島・西ノ久保遺跡(現御勅使南工業団地)など百々遺跡周辺の遺跡でも中世の溝跡から馬と牛の歯が発見されています。

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【写真・左】=野牛島・西ノ久保遺跡 ウシの歯が出土した溝跡
【写真・右】=野牛島・西ノ久保遺跡 出土したウシの歯

 ただし、牧そのものの遺構が発見されているわけではありません。発見されているのかも知れませんが、発掘調査は限られた区域の調査であるため、例えば「溝跡」が実は牧を区画する施設であったとしても特定できないのが現状です。とはいえ、これまで名称だけであったものが、百々遺跡をはじめとする発掘調査によって、少しずつ「八田御牧」の姿が見え始めました。

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【写真】=西の神地蔵

 その後の史料を紐解けば、野牛島集落の西端に位置する西の神地蔵には「大日本国甲州巨麻郡八田庄就中野野牛島村・・・天文十三年(1544)」の銘が刻まれています。穂見神社御正体の銘、天福元年(1233)からだいぶ時間差がありますが、少なくとも戦国時代に野牛島周辺が「八田庄(はったのしょう)」と呼ばれていたことがわかります。古代から続く「八田牧」を基盤として、中世に御勅使川扇状地上に荘園としての「八田庄」が成立したと考えられます。

 鎌倉時代に広がっていた八田牧や八田庄。絵図は残されておらず、限られた文書記録等では、今のところ具体的なイメージまではたどり着けません。しかし、その風景は、私たちのすぐ足元に広がっています。

(写真出典)
南アルプス市教育委員会
山梨県教育委員会2002 「百々遺跡1」

 

【南アルプス市教育委員会文化財課】