はじめに
3月15日の号で、今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に関連して、ドラマでは描かれていない南アルプス市の甲斐源氏の動きについて、源平の合戦(「治承・寿永の乱」)が始まるあたりまでご紹介しました。
南アルプス市ふるさとメール: 鎌倉殿と南アルプス市の甲斐源氏
今回はその続き、ちょうど源平の合戦のころの南アルプス市の甲斐源氏について紐解いていきます。
「鎌倉殿の13人」は人気作家の三谷幸喜氏の脚本により、平安末期から鎌倉幕府草創期、さらには頼朝亡き後の13人の合議制で知られる、名だたる武将たちの権力争いの様を描いた作品です。ドラマではいよいよ恐怖政治とも言うべき頼朝による粛清の数々が描かれ始めました。頼朝が後々自分の立場を危うくしそうな原因を排除していくのですが、甲斐源氏の面々も粛清の嵐に巻き込まれていきます。
なお、余談ですが、最近の放送で木曽義仲の嫡子義高の処分について頼朝が決断するシーンで、自身の経験も踏まえて、父が殺される恨みというのは後々まで抱き続けるものということの象徴として、まだ幼い曽我兄弟が工藤祐経に石を投げているシーンが描かれていました。いわゆる「曽我物語」を彷彿させるシーンなわけですが、実は南アルプス市芦安には曽我兄弟やその周囲の人物ゆかりの逸話が残されています。このことについては過去にご紹介しておりますのでご参照ください。
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その1
南アルプス市ふるさとメール: 市内に広がる曽我物語の世界 その2
【曽我兄弟を含めた主要人物の関係図】
長清の義父上総介の誅殺
SNS上で最も話題となったのは、佐藤浩市さん演じる「上総介広常」の誅殺のシーンです。御家人の中で最大の勢力であったがために、頼朝によって謀反の疑いをかけられての誅殺でしたが、直後に無罪であったことが証明されています。まさに見せしめだけのために殺害されたことになります。
小笠原長清は、この誅殺の時にはすでに上総介広常の娘と結婚していますので、近親者の立場でこの事件を見ていたはずです。頼朝の信頼が厚かった長清は、記録上ではこれに連座して処分されたという形跡はありません。
甲斐源氏の粛清
その一方で、元々頼朝と対等な立場を取っていた甲斐源氏の面々は、頼朝の標的とされ、次々と誅殺、あるいは失脚させられていきます。
甲斐源氏として早い段階から頭角をあらわしていたのは、武田信義とその子一条忠頼や、安田義定と言えます。そのどちらも失脚していく運命ですが、ドラマでは一条忠頼が誅殺されるシーンが描かれました。忠頼は信義の嫡流であり、木曽義仲を討伐した粟津合戦では、義仲を実質的に追い込む大活躍を果たしています。頼朝にとってライバルである武田家の嫡男の活躍は心配の種となったことでしょう。しかし、一条忠頼が誅殺される理由は東鑑などの史料でははっきりと記されていないので詳細は不明とされており、記録からは宴席で殺害されたということだけが知られるところです。ドラマでは木曽義高に頼朝討伐を持ち掛けたことが理由として描かれ、歴史ファンの間では、ドラマならではのうまい演出との声が上がりました。
実はそのような解釈はかなり昔からあったようで、南アルプス市秋山に伝わる『秋山旧事記』という伝記にもそのような場面があります。記述された時期は不明ですが、江戸時代初頭に発見された秋山太郎光朝供養の経筒に関する記述があることからそれ以降の創作であり、その内容からは「記録」というより「小説」的性格のものと考えられています。
その中で、一条忠頼が秋山光朝と共謀して頼朝討伐を企てるという場面が描かれているのです。その誘いを断った小笠原長清が一条・秋山軍に攻められるという展開で描かれており、史実と言うには難しいのですが、一条忠頼が頼朝討伐を企てたことによって誅殺されたという解釈は江戸時代からすでにあったことがわかります。
また、南アルプス市小笠原に伝わる『小笠原旧事記』には、一条忠頼の弟を小笠原長清が養子にしていたという記事があります。名を小笠原光頼と言い、光頼は一条・秋山軍によるこの攻撃で深手を負い、北へ向かって逃げる途中桃園の地で命尽きたというのです。忠頼の弟ということは武田信義の息子ということですが、他の史料にこのような名前は確認できず、どこまで史実と言えるかは難しいところです。
【写真】桃園には、現在も光朝の墓と伝わる石造物が残されています
【図】主要な甲斐源氏の系図(大きな×印は誅殺、小さな×印は失脚を表します)
頼朝書状「・・・二郎殿をいとおしくして・・・」
「治承・寿永の乱(源平の合戦)」も終盤、屋島の合戦の前で、範頼がうまく源氏の軍勢を束ねきれず平家を攻めあぐねている時に、頼朝が弟範頼へ送った文治元(1185)年1月6日の書状があります。大河ドラマでは、この書状が届くよりも前に、義経が大嵐の中制止を振り切って船を出して出陣する様子が描かれていました。この頃、加賀美一族は範頼の軍に従軍しています。北条義時がいる軍です。
実はこの書状に、兄光朝と弟長清のその後の運命を決定づける一文が書かれているのです。二人に対する頼朝の考え方、扱い方の違いが良く見えます。
「(前略)甲斐の殿原の中には。いさわ殿。かゝみ殿。ことにいとをしくし申させ給へく候。かゝみ太郎殿は、二郎殿の兄にて御座候へ共、平家に付。又木曾に付て、心ふせんにつかひたりし人にて候へは、所知なと奉へきには及はぬ人にて候なり。たゝ二郎殿をいとをしくして、是をはくゝみて候へきなり(後略)」
訳すと以下のような内容になります。
「(前略)甲斐の武士たちの中には、伊澤五郎信光殿・加々美次郎長清殿等は特に大事にしてください。加々美太郎光朝(秋山光朝)殿は、加々美次郎長清(小笠原長清)殿の兄ではありますが、平家についたり、木曾冠者義仲についたりして心不善な人なので、所領などを与える必要には及ばない人です。弟の次郎殿だけを大事にしてあげるべきです(後略)」
ここでは甲斐源氏の中で石和(武田)信光とともに小笠原長清のことを大事に手厚く扱うべきであると伝えています。しかも念を押すように二度にわたってです。頼朝の長清に対する思い入れがいかに強いかが分かります。
しかし、同時に光朝に対して、平家についたり木曽についたりしたとして、所領などを与える必要は無いとまで言い切っているのです。
秋山光朝の失脚
『秋山旧事記』には、忠頼誅殺の翌年、秋山光朝は頼朝によって派遣された小笠原長清などによる軍に攻められ、秋山館(現在の南アルプス市秋山にある熊野神社周辺)の尾根伝いにある中野城や雨鳴城で自害したと描かれており、地元ではそのように伝承されています。秋山旧事記の内容も面白いのでいずれご紹介したいと思いますが、光朝も一条忠頼同様に鎌倉で誅殺されたと考えるのが一般的です。
前号でもご紹介した通り、秋山光朝は平清盛の嫡男である重盛の娘と結婚していますから、あの清盛が義理の祖父という関係であり、平家との非常に強い繋がりを得ています。遠光が中央の平家との繋がりを重視していたことがうかがえますし、場合によっては、次男の長清を頼朝に近づけたのは、たとえどちらに転んだとしても加賀美一族が生き残るための方策だったのかもしれません。
【写真】秋山光朝公廟所にある五輪塔
向かって右が光朝の妻、中央が加賀美遠光、左が光朝のものと伝わる。
【表】甲斐源氏との対応年表前回表示下年表の続きです。
ただし、東鑑の元暦元(1184)年5月1日の記事に、木曽義仲の嫡子義高に通じていた者が甲斐・信濃に隠れ叛逆を起こそうとしているとして、甲斐国へ足利義兼と小笠原長清を派遣したことが見えますので、年代は前後していますが、このような記事を総合して『秋山旧事記』が創作されたのかもしれません。なお、東鑑などの史料には長清と光朝が戦ったとする記事はありませんし、光朝が亡くなった年も記されていません。
「(前略)故志水冠者吉高伴類等令隠居甲斐信濃等國。疑起叛逆之由風聞之間。遣軍兵。可被加征罰之由。有其沙汰。足利冠者義兼。小笠原次郎長清。相伴御家人等。可發向甲斐国。(後略)」
加賀美遠光の台頭
先ほど紹介した手紙の後、1185年3月に壇の浦の戦いで源平の勝敗が決しますが、吾妻鏡などには、その頃から加賀美遠光の名が頻繁に登場するようになります。
その年の8月に遠光は信濃守に任じられ、その後遠光の娘(長清の姉か妹かは不明)大弐局が当時7歳であった万寿(のちの2代将軍頼家)の介錯人となり、続けて次男千幡(のちの3代将軍実朝)の介錯人となるなど、ますます中央で活躍していく様子が描かれているのです。
このあたりからは次回ご紹介したいと思います。
南アルプス市の甲斐源氏がドラマに登場する日も近いこものと信じています。ドラマをご覧になられる際も、南アルプス市の甲斐源氏のことを想像していただくと、鎌倉での出来事が、少しでも、近しい事柄に思えるかもしれません。
【表】鎌倉幕府創建時の主な登場人物の人物年表
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の配役も表示してみましたので参考にしてみてください。今回は1185年当時の年齢を表示しています。
※
『東鑑』『吾妻鏡』(あずまかがみ)・・・鎌倉時代末期に成立した、鎌倉幕府が編纂した歴史書です。治承4年(1180)4月~文永3年(1266)まで、源頼朝など歴代将軍の年代記の体裁で記載されていますが、主に北条氏側にたった記載が多く見受けられます。
『平家物語』・・・鎌倉時代の前半期に成立したとされる軍記物語。
『玉葉』(ぎょくよう)・・・平安時代末から鎌倉幕府草創期にかけて執筆された、公家の九条兼実の日記。のちに編纂されたものでなく、朝廷側の視点での起債が特徴です。
参考文献
小笠原長清公資料検討委員会『小笠原長清公資料集』1991
南アルプス市教育委員会『歴史舞台を駆けた南アルプス市の甲斐源氏』2014
西川浩平編『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』
その他旧町村時代の町史など
【南アルプス市教育委員会文化財課】