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南アルプス市は、山梨日日新聞社とタイアップして「南アルプス市ふるさとメール」を発信しています。ふるさとの最新情報や観光情報、山梨日日新聞に掲載された市に関係する記事などをサイトに掲載し、さらに会員登録者にはダイジェスト版メールもお届けします。お楽しみください!

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プロフィール

 山梨県の西側、南アルプス山麓に位置する八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の4町2村が、2003(平成15)年4月1日に合併して南アルプス市となりました。市の名前の由来となった南アルプスは、日本第2位の高峰である北岳をはじめ、間ノ岳、農鳥岳、仙丈ケ岳、鳳凰三山、甲斐駒ケ岳など3000メートル級の山々が連ります。そのふもとをながれる御勅使川、滝沢川、坪川の3つの水系沿いに市街地が広がっています。サクランボ、桃、スモモ、ぶどう、なし、柿、キウイフルーツ、リンゴといった果樹栽培など、これまでこの地に根づいてきた豊かな風土は、そのまま南アルプス市を印象づけるもうひとつの顔となっています。

お知らせ

 南アルプス市ふるさとメールは、2023年3月末をもって配信を終了しました。今後は、南アルプス市ホームページやLINEなどで、最新情報や観光情報などを随時発信していきます。

【連載 今、南アルプスが面白い】

綿が奏でるにしごおりの暮らし

 新しい年が始まりました。「連載、今、南アルプスが面白い」を本年もどうぞよろしくお願いいたします。

はじめに
 ふるさと文化伝承館が昨年の令和3年11月12日、正式に博物館として登録されました。それを記念して、令和4年1月14日から5月24日まで、「藍と綿が奏でるにしごおりの暮らし」展が開かれています。南アルプス市と藍と綿の深い関係をテーマにした展示から 今月は綿の歴史を繙いていきましょう。

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Ⅰ.村明細帳から見る綿栽培
 にしごおりと呼ばれた南アルプス市域では江戸時代、商品作物として煙草とともに綿が広く栽培されていました。江戸時代後期にまとめられた『甲斐国志』によれば、「奈胡白布ト云ウハ木棉ノ好キ処ナリ 本州ノ産ハ其色絞白ニシテ棉強シ、巨摩、山梨、中郡多且ツ美ナリ、奈胡ノ庄最モ多産トス」と記され、水の豊富な田方に位置する南湖地区で綿栽培が盛んだったことが伺えます。一方常襲干ばつ地帯であった原方や根方の村々でも商品作物として畑で綿が栽培されました。
 江戸時代の村の様子を記した村明細帳を調べると、さらに農業の合間に行われる女性の仕事として、多くの村で綿にかかわる稼ぎが行われていたことがわかります。その表現はさまざまですが、おおむね下記の3種類に分けられました。

(1)木綿かせぎ
 例:天明4年(1784)戸田村「女ハ木綿かせき仕候」
(2)綿の糸取り
 例1:文化3年(1806)西野村「女者、糸はた仕申候」
 例2:文久元年(1860)荊沢村「男ハ日雇稼、女ハ木綿糸採申候其外稼筋無御座候」
(3)木綿から織り出しまで
 例1:宝永2年(1705)下高砂村「女ハ木綿布少々織出申候」
 例2:明和8年(1771)上高砂村「作間女かせぎ衣類木綿等仕候」
 例3:安永3年(1774)飯野新田村「女ハ綿糸・はた仕申候」
 例4:文政11年(1828)上八田村「女ハ平日木綿布織出し稼申候」

 (1)は木綿かせぎの記述のみ、(2)は木綿から糸を紡ぐ仕事、(3)は布まで機織りしていたことが記されています。全体を見ると(3)が多く、(1)の木綿かせぎも布まで機織りしていたことを考えると、多くの村の女性が木綿糸から布まで織っていたことがわかります。

Ⅱ.綿から糸、そして布へ
 では江戸時代から明治時代にどのような工程で綿から布が完成したのでしょうか。村明細帳や江戸時代の史料、旧市町村誌からその流れを追ってみましょう。

1.綿の栽培
 東南湖村などの村明細帳には旧暦4月上旬に蒔きつけ、8月のお彼岸から摘み取られることが記録されています。

2.綿の収穫と綿繰り
 各家で栽培した綿を摘み取り、乾燥させます。この実綿(みわた)から種を取り除くことを綿繰り(わたくり)といい、ロクロとも呼ばれた綿繰り機で種が取られました。また、綿の種からは油がしぼられ、油粕は肥料に使われるなど綿のすべてが活用されていました。

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【写真】綿繰りを行う女性 大蔵永常著 天保4 年(1833)『綿圃要務 2巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より 『綿圃要務』は江戸時代の綿作研究書で、表紙に「「諸国綿のつくりかたを委(くわ)しく記したる書也(なり)」と書かれている。 ※無断転載禁止

3.綿打ち(ほかし)
 種を取り除いた綿はホカシヤサンへ持ち込みます。綿を糸に紡ぐには、綿をほぐすことがとても重要でした。この作業は男性の専門の職人さんに頼んでいたのですね。ホカシヤでは「綿弓」や「綿打唐弓」と呼ばれる弓の弦で綿をはじき、ほかしながらごみも取り除きました。そのためほかすことを「綿打ち」と呼んでいました。享保年間に描かれた『今様職人尽百人一首(いまようしょくにんづくしひゃくにんいっしゅ)』にはこの職人が描かれています。綿を弓で弾くと細かな綿毛が雪のように降ってくるため、職人は手ぬぐいをかぶっています。また、綿が必要以上に飛び散らないよう、綿を筵?の上ではじいていますね。
 ほかした綿は約30cmぐらいの棒に巻きつけられます。これを篠巻(しのまき)やヨリコ、ヨリッコとも呼び、それを販売する店や商人も存在しました。先月号で明治3年の荊沢宿の余業で紹介した中で篠巻を扱う店が2軒あったことを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。

2021年12月15日 (水)配信 駿信往還(西郡路)、荊沢宿の旅2

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【写真】綿弓 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。江戸時代に奥田松柏軒が記した女性が扱う道具を解説した本。 ※無断転載禁止

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【写真】綿打職人 近藤清春 享保年間(1716~1735)『今様職人尽百人一首』 (昭和3年・1928年刊 国立国会図書館蔵)より ※無断転載禁止

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【写真】綿打 落合小学校6年生での授業

4.糸取り
 ヨリッコを家に持ち帰り、糸車(糸取り車)を使って糸を紡いでいきます。紡ぐとビンビンと音がしたので、糸をビンビン糸、糸車をビンビン車といったそうです。この作業は「糸取り」とも呼ばれました。紡がれた糸は?(わく)と呼ばれる糸枠に巻き取られてカナが完成します。

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【写真】木綿車・繰糸・糸車・機など 奥田松柏軒編 吉田半兵衛画 元禄元年(1688)『女用訓蒙図彙 5巻. [1]』(国立国会図書館蔵)より。 ※無断転載禁止

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【写真】糸車(木綿車・ビンビン車) ※無断転載禁止

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【写真】糸車で糸を紡ぐ女性 『白根町誌』より ※無断転載禁止

5.釜で煮る
 完成した糸を釜で煮て乾燥させます。

6.染色
 乾燥させた糸を紺屋(こうや)に持っていき染めてもらいます。染め終わった糸を再び家に持ち帰ります。藍染めの原料となるすくもは以前のふるさとメールで紹介したように、阿波や武州、市内では川上の浅野家で作られていましたが、白根町誌の記録から、農家でも少量のすくもをつくっていたようです。そしてそれを紺屋に持って行き、ただで糸や布を染めてもらっていた様子も記録されています。
「多くは(農家が)陰干しにした藍(すくも?)を紺屋へ持って行って、その代わりただで染めてもらう」(『白根町誌』)

2019年9月17日 南アルプスブルーの歩み~藍色の広がり~
南アルプスブルーの足跡1~6を参照

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【写真】現代の阿波産のすくも(栃木県益子町日下田藍染工房)

7.織り
 染色した糸をハタヤと呼ばれた自家用の織機で木綿布に織ります。女性にとって重要な仕事で、かつては嫁入り条件の重要な資格と考えられていました。無地の白木綿や縞模様の木綿が織られ、それらは主に長野県の諏訪・伊奈・佐久郡などへ移出されました。

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【写真】機織りの様子 左『白根町誌』、右『豊村誌』より ※無断転載禁止

おわりに
 にしごおりにおける商品作物として隆盛を誇った綿栽培は明治20年代以降、安価なインド綿やアメリカ産の綿の輸入によって激減し、明治の終わりにはその歴史に幕を閉じて養蚕のための桑栽培にその座を譲ることになりました。それから約100年。主産業として綿が栽培されることはありませんが、持続可能な社会を目指す取り組みとして、オーガニックコットンを栽培するいくつかの試みが市内で行われてきました。ふるさと文化伝承館でも綿の文化を伝えるため、綿を栽培し、学校教育にも活かしています。南アルプスの風土で培われた綿と藍の歴史と文化が時を超えて紡がれ、新たな営みとともに織り続けられることを願っています。

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【写真】ふるさと文化伝承館で育てた綿

【南アルプス市教育委員会文化財課】

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