闇夜の中、やさしい光で地上を包む十五夜の月。令和3年は9月21日が中秋の名月です※1。古くから人々は月の満ち欠けにさまざまな想いを重ねてきました。今に続く人と月の関係。今宵は古の人々が月に重ねた想いとともに月の魅力を訪ねてみましょう。
【写真】南アルプス市中野の棚田から
○時・季節を知る
明治5年以前、日本の暦には主に月と太陽の動きから考えられた太陰太陽暦が用いられてきました。人々は月の満ち欠けで時を知り、季節を感じ、種まきや収穫などの農作業や祭りの時期を決めていたのです。9月1日有野地区で行われている八朔祭りの「朔」は、月が見えなくなる新月、1日(ついたち)を意味しています。旧暦8月1日に当たるこの日に暴風を避け五穀豊穣を祈る祭りが行われてきました。その舞台となる白根源小学校の校庭の一画には、明治31年に建てられた八朔祭の祭神塔が祀られています。明治29?31年は御勅使川水害が頻発した時期です。刻まれた「風雨得時滋」の文字には暴風雨による洪水に苦しめられてきたこの地の人々の願いが込められています。
【写真】八朔祭り祭神塔(有野 源小学校敷地内):明治31年有野区民によって建立された。「風雨得時滋」は「風雨時を得てしげる」つまり適度な風雨によってこの地が豊かになるという意味。
○情緒を感じる
日本で月の美しさや情緒を漢詩や和歌に詠んだのは奈良時代からです。平安時代に入ると月見が貴族の邸宅で行われるようになりました。月見は宴とともに行われ、管弦も奏でられました。平安時代中頃になると月見も和風化し、和歌の歌合などが行われるようになります。こうした月見の文化は時を経て江戸時代、一般庶民にも広まります。江戸時代に確立された俳句でも「月」が重要な題材となり、南アルプス市を代表する俳人も月を題材にした多くの句を残しています。
五味可都里(ごみかつり 1743-1817 江戸時代中期-後期の俳人)
名月のをしくも照らす深山かな
土間に居て客ぶりのよき月見哉
五味蟹守(ごみかにもり 可都里の甥 1762?1835)
名月やすへて置たき露の雨
辻嵐外(つじらんがい 1770-1845 江戸時代後期の俳人。可都里に師事)
秋の夜は名月の香のぬけにけり
粟の穂か山吹かしらず后の月
五味可都里の俳句仲間、尾張の加藤暁台(きょうたい)が藤田村の可都里を訪ねた際、十五夜の夜まで月を楽しんだ様子が『暁台句集』に記されています(『山梨県史通史編 近世2』第十四章 教育と学問・文芸))。
「其夜ごろにもあれば、月をみせばやなどわりなくとどめられ、望の夜もここに遊ぶ。士峰の北面まぢかくひたひにかかるやうなり」(『暁台句集』)
俳句だけでなく月はその姿から浮世絵や版画、近代以降の絵画などの題材にもなりました。太平洋戦争終戦後、南アルプス市落合に疎開していた妻のもとを訪れ一時滞在した東山魁夷も月の魅力に引き寄せられた一人。「月篁」、「月唱」、「月の出」、「月明」、「月涼し」など月をモチーフにした多くの作品を残しています。
リンク→2016年12月15日 (木) 南アルプス市を訪れた人々(4) 東山魁夷
【写真】甲斐駒ケ岳と満月
音楽を聴きながら月を愛で、月の美しさを歌に込める。現代ではクラシックやバラード、ジャズ、ロックなどそれぞれ好きな音楽を聴きながら月を眺め、ツイッターでつぶやいたり写真をインスタグラムにアップする楽しみ方でしょうか。月の美しさに惹かれ言葉や写真に想いを映す。昔も今も変わらない情景です。
○集い・祈り・楽しむ
日本人は月を神や仏としても信仰してきました。神道では月神のツクヨミ、仏教では薬師如来の脇侍、月光菩薩です。旧暦8月15日の月へのお供え物が史料で確認できるのは室町時代の『年中恒例記』からと言われています※2。
「八月十五日、明月御祝参、於内儀也、茄きこしめさるゝ、枝大豆、柿、栗、瓜、茄、美女調進之」(『年中恒例記』)
史料は残されていませんが、より古い時代から収穫を感謝する供物が捧げられていたのでしょう。室町時代のお供え物は、大豆や柿、栗、瓜、茄子など秋の旬の野菜や果物が供えられていたことがわかります。
江戸時代に入ると、決まった月齢の日に仲間が集まり飲食を共にして月の出を待ち、安産や無病息災、五穀豊穣を祈願する「月待(つきまち)」が市内でも広く行われました。それぞれの月夜には特定の神仏が結びつけられていました。例えば十九夜と二十二夜には如意輪観音菩薩、二十三夜は勢至菩薩、 そして二十六夜は愛染明王。特に二十三夜の勢至菩薩は、あらゆるものを知恵の光を照らして苦を取り払うとされる仏様で、月の化身とも考えられ、人気を博しました。この月待を記念して建てられた「二十三夜塔」などの石塔は市内各地で見ることができます。夜通し仲間で飲食を共にしながら語り合う、月待は当時の人々にとって娯楽でもあったようです。
【写真左】秋山 熊野神社境内に建てられている二十三夜塔
【写真右】六科 随心院 如意輪観音「寛政四年壬子月朔日 施主 講中」:
二十二夜の如意輪観音は女性の守り仏と考えられ、女性だけの月待講も行われました
月への信仰の中で、中秋の十五夜と翌月の十三夜は特別の月と考えられました。ちょうど秋の収穫時期でもあり、満ちた月を秋の実りの豊かさに例え、月の神様に秋の収穫を感謝したのです。この日は縁側に団子や里芋、豆類、大根などの野菜、栗、葡萄などの果物などが供えられ、神様の依代(よりしろ)としてススキが飾られました。
【写真】市内の十五夜飾りとお供え物
供え物として真っ先に思い浮かぶのは月見団子ですが、供えられ始めたのは江戸時代から。団子より供え物として欠かせなかったのは里芋と豆です。十五夜と十三夜はそれぞれ「芋名月」、「豆名月」とも言われ、芋や豆を中心とした畑作物と月の信仰の深いつながりがうかがえます。特に豆は市内でも縄文時代から栽培されていたことが明らかにされていて、最古の栽培植物の一つです。江戸時代の村明細帳を見てみても、多くの村で栽培されていました。
こうした十五夜の食の伝統は、南アルプス市の学校給食にも受け継がれています。季節を学ぶ給食として、十五夜と十三夜は里芋や豆、栗といった伝統的な月見のお供え物を活かした献立となっています。昨年は十五夜に「いもこ汁」、翌月の十三夜には「豆乳汁、栗のムース」が出されました。そして今年は、十五夜に「里芋とそぼろのあんかけごはん、お月見大福」、十三夜に「栗五目ごはんとお月見だんご」が予定されています。
【写真】昨年度(2020)十五夜メニュー:芋名月に掛けていもこ汁が献立となった リンク→(南アルプス市ホームページ(R2年度季節を学ぶ給食です)
○団子突き
昭和30年代以前、十五夜の夜に子どもたちが縁側に飾ってある団子や供物を釘などを付けた竹竿でそっと突いて盗んでくる「団子突き」という風習がありました。お供え物が盗られるのが許されるだけでなく、縁起がいいいとも考えられました。これは月の神様が持ち帰ったため豊作になると考えられたためです。この日は子どもたちは朝から道具を用意し、作戦会議を開き家々の分担を決め、団子やお供え物を突きに行ったことを多くの方が記憶しています。そんな中、微笑ましいやりとりも行われました。
「中には甘い餡このかわりに塩を入れた塩団子が混じっていることもあり、運悪くそれを食べた子どもは仲間から大笑いされた」(『山梨県史 民俗編』)
もちろん盗みは禁じられていますが、人々が月の神さまに豊作を約束してもらい、豊かな実りに感謝するための伝統的な風習だったのです。
【イラスト】月夜と人々の想い
○月のウサギ
日本では月にウサギが住んでいて、餅つきをしていると言われてきました。これは中国から伝えられた伝説が変化したものです。もともと中国では、嫦娥(じょうが)という女性が仙女の西王母から夫に与えられた不死の薬を盗んだため、月へ送られ蝦蟇(がま:ガマガエル)にされた伝説が漢代以前に伝えられていました。後にウサギと月桂樹が伝説に加わり、漢代(日本では弥生時代)には嫦娥、ガマガエル、ウサギ、月桂樹がセットで月の説話に登場します※3。こうした伝承は日本に伝来した後、ウサギだけが残され、現代でも月の象徴としてお菓子や店の名前などに活かされています。ちなみに中国ではウサギが突いているのは不老不死の薬です。人々は月の満ち欠けに死と再生、不老不死のイメージを重ね合わせたのですね。竹取物語のかぐや姫が月へ帰る時、帝に贈ったのも不死の薬です。かぐやを失って嘆き悲しむ帝はその薬を天に最も近い駿河の山で焼くことを命じました。その山がふじ山と呼ばれることで物語の幕が降ろされます。
【写真】竹取物語で不死の薬が焼かれたという山
○月を楽しむ
デルタ株が広がりコロナ禍が続く現在、家族や友人、大勢の仲間が集い飲食しながら月を楽しむことができるのは、もう少し先になりそうです。けれど遠い空の下でも同じ時に月を仰ぎ見れば、その光が人々の想いをつないでくれるはずです。
【写真】2020年10月1日 十五夜の月 上高砂
※1 旧暦では7月、8月、9月が秋とされ、8月15日の満月が秋の真ん中であることから中秋と呼ばれました。
※2 陳馳 2018「平安時代における八月十五夜の観月の実態 」『歴史文化社会論講座紀要 』京都大学
※3 許曼麗 1994「月の伝説と信仰:詩歌に見るその成立の一側面」藝文研究Vol.65 慶応義塾大学藝文学会
【南アルプス市教育委員会文化財課】