水害へ備える言葉を残し、さまざまな人々を育んだ綿引健(竹二郎・雅号匏水)。その学びの社であった私塾天民義塾については、資料が少なく詳細なことはわかっていません。今回のふるさとメールでは、残されたわずかな資料を繙き、明治から大正時代まで続いた塾の実態にせまり、3月から続いてきた綿引先生の物語に幕を降ろしたいと思います。
【綿引先生】
3月15日号「時を超えて響く言葉~なにげない日常をつなぐために~」
4月15日号「風来りて土と成る~綿引健の生涯と西郡の人々~」
幕末の私塾・寺子屋
まず江戸時代の終わり、幕末の私塾と寺子屋から天民義塾設立以前の教育状況をみてみましょう。『山梨県教育百年史 明治編』によれば、江戸から明治時代初頭における県内の私塾・寺子屋の数は537か所が想定され、市内域だけでも寺子屋が芦安地区0、八田地区3、白根地区15、若草地区12、櫛形地区27、甲西地区15、合計72、私塾としては藤田村の釜川塾、上高砂村の螺廼舎(しのしゃ)の2か所が表にまとめられています。旧村単位でこの状況を見てみると、小笠原村が最も多く7、藤田村が5、鏡中条村、桃園村がそれぞれ4で、その他多くの村で1か所は寺子屋が営まれている状況でした。そこで教える先生は農民が31、医者が15、僧侶が11、神官が10、浪士が2、儒者が2、修験者が1で、農民と医者が多く、約64パーセントを占めます。学習内容は読書と習字が中心で、そこに講義などが行われることもありました。なお、「松声堂」として知られる西野の西野手習所は代官支配下の領民の子弟を教育の対象とする郷学に分類され、近世の甲州では西野手習所を含め3か所に限られました。
【幕末~明治初期 郷学・私塾・寺子屋地図 (『山梨県教育百年史 明治編』付県下寺子屋・私塾一覧より作成)】
学制の始まりと寺子屋の廃業~明治時代初期~
明治に入ると、明治5年(1872)8月、日本最初の学校教育を定めた教育法令である学制が太政官から発せられ、学校教育制度がスタートします。学制頒布とともに小学校が設置され、江戸時代地域の教育を支えた多くの私塾、寺子屋は小学校へ併合あるいは廃業となり、明治8年頃にはほどんど姿を消すことになりました。明治5年山梨県によって行われた「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」をまとめたのが第1表で、掲載された寺子屋(郷学を含む)は市内では18か所だけで、多くの寺子屋が廃業したことがわかります。一方明治6年から小学校建設が市内各地で行われ、その後統廃合が行われますが、明治19年段階では少なくとも25校以上の小学校が作られていました。
【第1表 市域における寺子屋調査 (「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」から作成)】
【明治19年前後 市内小学校地図】
勉旃(べんせん)学舎から学術研究会そして天民義塾の創立へ~明治10から30年代~
明治時代私塾が衰退したのは、山梨県権令(後に知事)となった藤村紫朗が進めた公立学校への奨励と私学への厳しい抑制政策の結果でもありました。また、明治10年代は経済不況も私学の不振に追い打ちをかけます。『明治17年学事年報』によれば県内の私塾は成器舎、修斉学舎、時擁義塾、勉旃学舎、明倫舎、蒙軒学舎の6か所のみ掲載されていて、市内では荊沢に開かれた勉旃学舎が挙げられています。
勉旃学舎は明治14年、五明村の名望家で自由民権運動にも活躍した新津真が同村の大地主市川文蔵と共に発起した塾で、教科目には修身・歴史・文章の三科、修学年限七か年、小学校中等科卒または満14歳以上が入塾資格とされました(『山梨県教育百年史 明治編』)。その学舎は明治18年閉鎖されましたが、翌年荊沢の法泉寺の檀家が寺内に学術研究会を開き、牛山龍が漢学や弁論部を教えました。
明治20年代は経済が回復し山梨英和女学校など県内に新たな私塾が多数創設される一方、県立尋常中学と高等小学校の整備が進み、明治20年代の終わりにはほとんどの塾が廃業する時代でした。そのような中、学術研究会では明治21年牛山が去ると綿引健が招聘され、明治34年には新しい学舎も建設されました。これを契機に「天民義塾」と名付けられたのです。『中巨摩郡誌』には「四方より学ぶ者多し」とその盛況ぶりが記録されています。
天民義塾とその移転~荊沢から西南湖へ~
天民義塾の内容については『明治37年度学事年報』からその一端がうかがえます。学校長名は綿引竹治郎(健)で教員は綿引ただ一人でした。創立年は明治33年とされ、中巨摩郡誌と1年のずれがあります。学科は修身(道徳)、国語、漢文、作文を教え、修業年限は3年で学級数は2、生徒数は1年生が男36、女0、2年生が男32、女0でした。明治33年の創立から明治36年までの卒業者は男102人、女0を数えました。
『甲西町誌』によれば、明治39年水害による学舎流失のため、荊沢から西南湖に天民義塾が移されます。西南湖では明治33年丹沢義吉、入倉善三を中心とした若い農民が水害が多発する土地の中で自ら学び生活を向上させるため南湖報徳社を設立しており、それらの若者が中心となって、綿引先生を西南湖へ招きました。『南湖報徳社のあゆみ』の編年表には明治39年「水戸の漢学者綿引竹二郎先生を迎え天民義塾開設」と見え、丹沢義吉の著書の中でも、「(義吉が)南湖の振興を志して立ったのはまだ十代の青年であった。村を興し国を盛んにすることを真剣に考え、綿引匏水先生の許に学んだ」とあります。また、天民義塾で学んだ深沢吉平(注1)の伝記には「塾頭は綿引匏水先生で深沢が十才位の時から種々精神的影響を受けていたらしい。」と書かれており、後に北海道の酪農を推進する吉平の生き方にも影響を与えていたのです。
先生の残した漢文などを見ても、塾では単なる国語や漢文だけでなく、人の生き方を学ぶ場だったことがわかります。『西郡地方誌』は当時の学習内容と活況、先生の逝去に伴い塾の幕が降ろされたことを次のように伝えています。
「南湖村西南湖報徳社において綿引健が明治39年の創始より大正8年長逝まで修身道徳を主として教育された。生徒数は多い時には百数十人に上り、隣村からも学ぶものが多かったが、綿引の長逝とともに廃止となったという。」
多くの私塾が創立され廃業した明治20年代後半から大正時代まで、なぜ天民義塾は存続できたのでしょうか。『山梨県教育百年史 明治編』の「学制頒布と寺子屋・私塾」では次のようにまとめています。
「中には例外的に明治の終わり、あるいは大正年間まで継続しているところもあった。例えば西南湖(甲西町)の天明義塾(注2)は明治14年に開設された勉旃学舎および学術研究会のあとをついで、明治19年に再建され大正4年まで続いた。教師綿引健(匏水)の人格を中心に、修身・道徳に力をいれた特色ある塾教育に打ち込んで、旧い日本教育の長所を発揮して多くの人材を輩出せしめた。」
このように綿引先生個人の資質が多くの人を惹きつけ塾を存続させた要因であったことは間違いありません。しかし塾存続の理由として先生を招き天民義塾を支えた若き塾生たちの存在も注目すべきでしょう。水害が多発する地での小作農の厳しい生活を地域で学ぶことで乗り越えようとしてきたその風土も塾の存続に深く関係しているはずです。天民義塾を支えた南湖報徳社の人々は、明治37年、天竜川の洪水を防ぐため私財を投げ打って植林事業に一生をかけた静岡県の金原明善を招いて講演会を開き、その話に感銘を受け、その直後から「治山治水」を実践するため平林村に約10.7haの山を借用し植樹を行うとともに、別の山林を購入し植林事業を継続して行いました。さらに社の報徳金により小作人の耕地の購入を後押する自作農推進活動を行い、その結果社員全員が自作農となったと言われます。災害に苦しむ人々の生活を向上させ、地域の産業を発展させたのは、地域の人々の生涯にわたる学びの力だったのです。
綿引先生は100人を超える門人が集まり開かれた還暦の祝宴のあいさつの結びとして、次の言葉を選びました。
「今ヨリシテ後、(中略)物質ト(中略)精神トノ間ニ處シ能ク之レガ保合調和ヲ計リ、又復得難キ人生ヲ大意義アルモノナラシメント欲ス。諸君幸ニ切磋琢磨ヲ惜ム勿レ。幸栄アル此ノ祝宴ニ対シ謹ンテ感謝ノ辞ヲ述ブル此ノ如シ」(「還暦祝謝辞筆記」『匏水子集』より)
この言葉には60歳を超えた自分も人生の目標である世界と心の調和を目指していく決意と門人たちがお互いに励まし合い、学び続けることへの願いが込められています。
エピローグ
大正8年に亡くなられた綿引先生の姿を覚えている人は今はいません。しかし、先生の奥さまは太平洋戦争後までこの地にとどまり、地域の人々と交流を続けました。塾の建物に暮らしていたため「塾のおばあちゃん」と呼ばれていました。入倉善三さんの孫、入倉善文さんは当時の様子をはっきり覚えていて、懐かしそうに話してくれました。
「子どもの頃塾のおばあちゃんは俺や姉さんにやさしくしてくれたね。通知表も親より先におばあちゃんに見せに行ったさ。おばあちゃんに褒められるのがなにより嬉しくてね。受賞した絵を見せると塾に貼ってくれたのも嬉しかった。」
記録には残っていませんが、記憶の中に子どもたちを育んだ先生の奥さまの姿が残されています。
【塾のおばあちゃんの思い出を語る入倉善文さん】
注1:南湖村から北海道音江村へ移住し、音江村長を務めるとともにデンマークで酪農を学び後に衆議院議員となり北海道の酪農を推進、雪印乳業の前身である北海道酪農共同株式会社社長も務めた。岩手県への酪農の普及にも尽力した。
注2:天民の誤りか
引用・参考文献
岡本昌訓 1964『深沢吉平の生涯』深沢吉平伝刊行会
甲斐志料刊行會 1932?1935「山梨県下各郡塾及寺子屋調査」『甲斐志料集成』第6巻
公益社団法人南湖報徳社 1969『南湖報徳社のあゆみ』
椎名慎太郎 2001「山梨の教育史」『大学改革と生涯学習(山梨学院生涯学習センター紀要)』山梨
山梨県 1904『山梨県学事年報. 明治35年度』
1906『山梨県学事年報. 明治37年度』
山梨県教育委員会編 1979『山梨県教育百年史 明治編』 サンニチ印刷
山梨県中巨摩郡聯合教育會 編 1828『中巨摩郡誌』
山梨県立巨摩高等女学校編 1940『西郡地方誌』
綿引竹次郎 1920『匏水子集』
【南アルプス市教育委員会文化財課】